架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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31話 昭和戦前⑨:日鉄財閥(5)

 第一次世界大戦後、日鉄は本業の1つであった「鉄道会社への投資」に注力していた。北は北海道、南は九州に至るまで全国の鉄道会社に出資した。また、出資用の資金を集める為の金融部門も拡大を続けた。

 金融以外にも、鉄道に関連する事業は拡大した。鉄道会社向けの車輛製造、電鉄会社向けの電車用のモーターや発電機など、鉄道事業に関連する機械・電機の生産は活発となり、鉄道土木を建設する土建業も拡大した。これにより、日本各地に日鉄の事業所や日本鉄道銀行の支店が置かれるなどして、日鉄財閥の拡大に貢献した。

 

 その一方で、鉄道に関連しない事業への注力が疎かになった。特に、造船業と商社事業については殆ど見向きもされなかった。これらは、第一次世界大戦時の拡大によって進出した為、日鉄からすれば外様である為だった。

 しかし、1930年代中頃から日本が軍国主義化していくにつれ、軍拡傾向に向かっていた。その為、軍需産業の重要性が高まり、日鉄としても注力しない訳にはいかなかった。

 現に、海軍向けの機関や通信機などの納入実績がある事から、その方面への強化も行う必要があった。その為、1930年代中頃から鉄道会社への投資は抑えられた。その代わりに、電機・機械事業、造船業とそれに付随する航空機産業への注力が行われた。

 

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 電機・機械は、既存の工場の設備強化で対処したが、千葉や三田尻といった大規模工場では無く、東京の深川や大阪、北九州の戸畑など中小規模の工場の新設拡大で対応した。これは、大規模工場は航空機生産のライン拡張を行っていた為、電機・機械用の生産ラインの拡張が出来なかった事、中小規模の生産ラインを拡大する事で、生産拠点の一極集中を抑える事が目的だった。

 これにより、第一次世界大戦時に吸収した尼崎や戸畑、昭和恐慌後に子会社化した車輛メーカーの工場の跡地(千葉と三田尻に移転した為)である深川や大阪、枝光などの工場を拡張した。

 この行動の結果は悪くなかった。生産現場が西に寄っているという問題はあった(深川以外、全て近畿か九州)ものの、多くが工業地帯(深川は京浜工業地帯、大阪と尼崎は阪神工業地帯、戸畑と枝光は北九州工業地帯)であり、そこには軍需工場も多数存在する。その為、他の工場向けの機械の製造販売に沸く事となった。

 

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 日鉄が新しい造船所と航空機工場の予定地としたのは、大分県速見郡大神村(現・日出町)であった。史実では、大神海軍工廠の建設予定地に当たる場所である。この地にした理由は、国東鉄道に出資していた事から土地勘がある事、穏やかな場所であり造船所の建設に適している事、広い場所を確保できる事、既存の造船所である三田尻に比較的近い事、呉や佐伯などの軍事基地に近い事などがあった。

 当初、海軍もこの地に海軍工廠(規模は10万トン級ドック1基、5万トン級ドック2基)の建設を予定していたが、日鉄がそれに相当する施設にする事を条件に、海軍側が補助金を出す形で決着した。日鉄が海軍との縁がある事も、この形が成立した要因だった。

 

 造船所の建設は、海軍からの要望で1936年から行われた。尤も、最初は土地の収用からであった。土地の収用は、海軍がやや強引な買収を行った事で、1年で予定地全ての収用が完了した。1937年から工事が行われ、予定では1943年に全ての施設が完成する事になっていた。予算と資材は海軍の支援がある為、1939年までは特に問題にならなかった。その後は、他の艦艇の建造や追加の軍事基地の建設などに予算と資材が取られた為、一部機能の縮小や代替品の使用などで我慢する事となった。

 1941年には5万トン級ドック1基が完成し、早速空母1隻の建造が始まった。この空母は史実では存在しなかった大鳳型空母の2番艦であり、「天鳳」と命名された。天鳳は1944年に完成し、太平洋戦争後期の主力空母として活躍する事となる。

 

 さて、残る2基のドックだが、資材不足や多方面の基地の建設、前線装備を揃える必要性や完成間近のドックの完成優先などから1940年から工事は停滞していた。1943年には工事は完全に中止され、一部完成していた施設は、小型船舶の建造用に転用された。

 

 また、上記とは別に、戦時中に小型船舶や護衛艦艇の大量生産が急務となった為、既存の施設の土地の一部を利用して、造船所の建設が行われた。これは史実でも行われており、大阪の「協和造船」がその例である(土地・資材は中山製鋼所、建造ノウハウは日立造船、資金は三和銀行がそれぞれ出して設立)。

 日鉄でも行われ、特に元造船所の尼崎と戸畑が対象となった。土地は日鉄が、資材とノウハウは日鉄と大室重工業が、資金を大室銀行と日本興業銀行が出す形で「大同造船」を設立した。

 

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 航空機生産は、大規模な生産設備が備わっている三田尻と千葉で行われた。。生産していたのは、基本的に水上機だった。これは、海軍との繋がりや大室重工業との関係(大室が陸上機、日鉄が水上機を担当するという文書を交した)からだった。

 尤も、過去に水上偵察機で2回、飛行艇で1回コンペに参加したが、その全てで落選している。その為、開発能力はあったが、採用された事が無いという不名誉な記録を持っている。現状では、他社の機体のライセンス生産で糊口を凌いでいる状態だった。

 

 この状況が変わったのは、海軍が採用時点で旧式化した九一式飛行艇に代わる次期飛行艇の開発を行う為、川西・海軍航空廠(後の海軍航空技術廠)・日鉄でコンペが行われた事である。このコンペの本命は、川西が開発中の4発飛行艇だった。後に「九七式四発飛行艇」として正式採用されるこの機体だが、当時は初めての4発機という事で、開発に失敗する可能性があった。その保険として、航空廠と日鉄は双発の飛行艇を開発した。

 航空廠が開発した機体は史実の九九式飛行艇であったが、史実と同様の問題を抱えていた(水上性能の悪さと複雑な機材)為、その改修に手間取った。

 一方、日鉄が開発した機体は、過去に失敗した機体から問題点を洗い出しており、かなり完成度が高かった。加えて、余裕のある設計がされている事から、将来の装備の追加も容易であった。それでいながら、複雑な装備は極力排されているなど、量産性や前線での運用能力が高い機体だった。その為、日鉄のこの機体を「九七式双発飛行艇」として採用された。

 九七式双発飛行艇は、主に対潜哨戒に使用された。戦時中には、空いたスペースにMAD(磁気探知機)を搭載して潜水艦を捜索する任務に就く事が多かった。

 

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 三菱重工や中島飛行機、川崎飛行機や愛知時計電機(愛知航空機の前身)といった大規模航空機メーカーは、機体とエンジンの双方を生産していた。尤も、その多くは欧米のエンジンのコピーやライセンス生産であり、自前での開発能力はまだまだ低かった。

 一方で、エンジンのみを製造していた東京瓦斯電気工業や、川西飛行機や立川飛行機などは機体の生産のみを行っており、エンジンメーカーからエンジンの供給を受けていたという例もある。

 

 大室重工と日鉄は、三菱や中島と同様、機体とエンジンの一貫生産を行っていた。しかし、別々にエンジンを製造するのは非効率だとして、1933年にエンジンの製造部門を統合する計画が立った。両社はこれに同意し、他にこの動きに賛同するメーカーがいないか声をかけた所、愛知がこの動きに賛同した。

 これにより、1935年に大室重工・日鉄・愛知の3社共同のエンジンメーカー「三和航空工業」が設立した。主な製造拠点は堺(旧・大室重工)と三田尻(旧・日鉄)、名古屋(旧・愛知)であり、堺と三田尻では空冷エンジンを、名古屋では液冷エンジンの製造を担当した。

 エンジン専門会社の設立は、エンジンの製造ラインの拡大に貢献した。特に、名古屋工場の製造ラインは急速に拡大した。これにより、史実で発生したDB601エンジンのライセンス問題(愛知にライセンス権を取得させようとしたが、製造能力不足から川崎にも取得させた。これにより、海軍向けは愛知が、陸軍向けは川崎が製造となった)は発生せず、三和航空工業単独で陸海軍向けに供給する事となった。


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