架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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32話 昭和戦前⑩ :大室財閥(20)

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。これを受けて、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。これにより、第二次世界大戦が始まった。

 しかし、英仏両国はドイツに宣戦布告したものの、これといった行動を取る事は無かった。開戦から暫くの間、独仏国境では両軍の様子見の状態が続き、戦闘状態にならなかった。その為、この状況を指して「フォニー・ウォー(インチキ戦争)」と呼んだ。

 

 この時の日本は、ヨーロッパでの戦争に関わっていなかった。日英同盟は既に破棄されており、ドイツとは防共協定を結んでいるだけで同盟関係には無かった(日独伊三国同盟の締結は1940年9月)。その為、日本がヨーロッパに軍を送る事も、ヨーロッパから軍がアジア・日本近隣に進出してくる事も無かった。

 それよりも、日本はヨーロッパの事よりも、近隣の中国大陸(=中華民国)での状況の早期解決を図りたかったという事の方が強かっただろう。

 1937年7月7日の盧溝橋事件から堰を切った様に、中国大陸での日中間の武力衝突は頻発した。尤も、日中間の武力衝突そのものは、満州事変以降から起こっていた為、盧溝橋事件から頻発した訳では無かった。

 しかし、この時は以前とは異なった。以前であれば、曲がりなりにも機能していた外交によって解決した(問題を先延ばしにした感が否めないが)。今回は、あれよあれよという間に戦線が拡大し、政府も今まで溜まっていた中国への不満を一時的にでも解消したいという思惑があったのか、実質的に戦線拡大を認めてしまった。

 

 尤も、この世界では史実の様な野放図な戦線の拡大はしなかった。陸軍予算が不足していた為である。この頃、陸軍では重装備の更新と貨物用車両の配備を行っていた時期であった。その為、装備の費用で予算の大半を使用しており、出兵の為の出費など出来なかったのである。

 それでも、予算を遣り繰りして(一部部隊の装備更新の先送りや、海軍との航空行政の一部統一など)、2個師団を上海に派兵した(史実では5個師団+α)。これにより、上海の制圧は出来たが、内陸部への進出は兵力不足から不可能だった。

 この間に、戦線の不用意な拡大は行わない方針が定められ、進軍範囲は華北は北平(当時、北京は「北平」という名称)と天津を結ぶラインまで、華中は上海郊外まで、それ以外は重要拠点(青島、厦門、広州など)の制圧に留まり、内陸部には渡洋爆撃に終始する事が決定した。これに反した者は厳罰に処するという通達までした事で、現地軍は暴走する事無く限界まで進軍した。これは、2.26事件と5.15事件で首謀者が厳罰に処された事が大きかった。

 

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 日中の軍事衝突が起こり、第二次世界大戦が始まっても、日本国内は取り敢えず平穏だった。戦火は海の向こうで起きているのだから当然だった。大陸では兵士の死傷者が出ていたり、日に日にアメリカとの対立を深めているものの、まだまだ内地は戦火から遠い状況だった。

 

 しかし、アメリカとの対立が深まっている事は事実であり、海軍は対米戦を視野に入れた軍備拡張を進める事となった。その筆頭が、1937年からスタートした第三次海軍軍備補充計画(通称、「マル3計画」)と、それに続く第四次海軍軍備充実計画(通称、「マル4計画」)だった。

 両計画は、10年掛けて海軍戦力の質的向上と量的拡大を図り、ワシントン・ロンドンの両軍縮条約が破棄された後の無制限状態に備えるものだった。この計画の内、マル3計画は前半4年で、マル4計画は後半6年で整備する事となっていた。全てが完成した暁には、1945年までに戦艦4、空母3、軽巡洋艦21、駆逐艦などの補助艦艇多数が竣工する事となっていた。

 

 この世界でも、マル3計画とマル4計画は存在し、それに伴う建造計画もスタートした。しかし、異なる部分もある。それは、小型補助艦艇(敷設艦、掃海艇、敷設艇、駆潜艇、海防艦、駆潜艇、測量艦)の建造数の増加だった。

 

 この世界のマル3計画では、史実よりも経済力や造船設備が多い事、通商護衛の重要性がある程度認識されている事から、対潜装備を有する艦艇の建造数が増加している。

 敷設艦は、「津軽」の準同型艦(艦名は「来島」)と初鷹型の2隻(艦名は「黒鷹」と「赤鷹」)が追加された。これは、海上警備の強化と対潜能力の向上を図ったものだった。同様の目的で、掃海艇が2隻、敷設艇が1隻、駆潜艇が5隻追加された。

 海防艦は、「台湾沿岸の警戒強化」を名目に占守型の改良型が8隻が追加された。また、追加された8隻は「戦時設計のノウハウの獲得」や「早期建造」を目的に、設計の簡易化と商船設計の利用、電気溶接の多用が行われた。当初、第四艦隊事件の記憶から電気溶接の導入には慎重だったが、小型艦艇ならば電気溶接の方が有利であり、実際に建造してノウハウを獲得する事も必要であるとして、電気溶接の利用が行われた。

 尚、この世界では、通商護衛の必要性が認識されている事から、ソ連の軍事力復活も合わさって、マル1計画とマル2計画で4隻ずつの海防艦を建造している(史実では流れたもの。マル1は史実の占守型、マル2は史実の択捉型が建造)。その為、この世界の占守型は史実の御蔵型に相当し、追加された8隻は鵜来型に相当する。

 測量艦は、史実では計画のみに終わった「筑紫」の2番艦「和泉」が建造された。これは、通商護衛や対潜戦の経験から、水路調査や海底調査を行う事で、潜水艦が待ち伏せしている可能性が高い場所は何処かを探す必要があると認識した為であった。

 

 次のマル4計画では、史実と大きな変化は空母「大鳳」の2番艦「天鳳」が追加されたぐらいだろう。これは、マル3計画で対潜や通商護衛の艦艇の整備が進んだ為であった。しかし、これでも不足した事から、開戦直前の軍備拡張計画(マル臨計画、マル急計画、マル追計画)によって、不足分が追加された。

 

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 大室財閥も、マル3計画とマル4計画で艦艇の建造に携わった。携わった艦艇は、敷設艦「来島」と改占守型が3隻、測量艦「和泉」である。「来島」と「和泉」が堺、改占守型は2隻が横浜、1隻が泉州で建造された。「来島」と改占守型は1939年に起工し、同年末には改占守型が竣工した。翌年には「和泉」が起工し、更にその翌年(1941年)には「来島」と「和泉」が竣工した。

 

 その後も、マル臨計画で高速海防艦(鴻型水雷艇の設計を流用した海防艦。25ノットを出せる。架空)8隻を横浜と泉州で、続くマル急計画で雲龍型空母の2番艦「蛟龍」(架空)を堺で建造した。また、その後のマル追計画、マル戦計画の海防艦、護衛駆逐艦、駆潜艇、掃海艇の建造にも関わっていく事となる。

 

 軍艦の建造とは別に、ディーゼルエンジンの製造も好調だった。これは、大室重工が開発した船舶用ディーゼルエンジンが「22号内火機械」として採用された為である(これにより、史実の22号内火機械からは号数が1つずれる)。海軍拡張に伴いディーゼルエンジンの大量生産が決定し、自社だけでは生産が追い付かないので、他社(主に三菱と川崎、石川島)でも生産される事となった。このディーゼルエンジンは、ほぼ全ての海防艦や駆潜艇などの水上補助艦艇に搭載される事となり、戦前のディーゼルエンジンではベストセラーとなるが別の話である。

 

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 軍艦の建造もそうだが、航空隊も拡張した。それに伴い、戦闘機や攻撃機など各種航空機の調達も加速した。日中の衝突が激化する可能性が高かった1937年から、航空隊を増設する事が決定された。この動きは、対米戦が現実的になる1941年になると加速した。

 

 その様な中で、1937年に陸軍から双発の重戦闘機「キ40」(史実では三菱設計の司令部偵察機)、双発の軽爆撃機「キ47」、双発の重爆撃機「キ50」(キ47とキ50は史実では三菱設計予定だが、他が立て込んで設計段階で落とされた)の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、「キ47」は川崎の「キ48」(九九式双発系爆撃機)に、「キ50」は中島の「キ49」(百式重爆撃機)に敗れた為、正式採用される事は無かった。しかし、「キ40」が他の三社(中島の「キ37」、川崎の「キ38」、三菱の「キ39」)と比較して性能で優れていた事から、この機体が採用候補となった。その後、小改良が加えられ、1941年に「一式複座戦闘機」として正式採用される事となった(これにより、「キ45改(屠龍)」は生産されず)。

 

 海軍からは、1935年に十試艦上攻撃機、1936年に十一試艦上爆撃機、1937年に十二試二座水上偵察機の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、全て敗退した。十試艦上攻撃機は中島と三菱(九七式艦上攻撃機)に、十一試艦上爆撃機は愛知(九九式艦上攻撃機)に敗れ、十二試二座水上偵察機は愛知・中島・川西と共に落選した。

 全てのコンペで敗退したが、この後も機体の試作・研究は続けられた。また、他社の機体のライセンス生産も行われ、特に中島と愛知の機体はライセンス生産される事が多かった。

 

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 上記の状況と前後するが、大室重工・日鉄・愛知の航空機用エンジン部門を統合して1935年に設立された「三和航空工業」だが、1937年に中島飛行機が三和に対し『自社のエンジン部門を統合して欲しい』と願い出た。これは、史実よりも中島のエンジンを搭載する機体が少ない事(史実では中島の「光」を搭載した九五式艦上戦闘機と九六式艦上爆撃機は、この世界では三和の「瞬(800馬力級)」を搭載)、エンジンプラグなどの重要部品の供給を三和や大室重工などに頼っている事、三和の方が高出力エンジンの開発が進んでいる事(ドイツからの技術供給やディーゼルエンジンの開発などによる)、何より大出力の航空機用エンジンの製造メーカーが複数あるデメリットが大きい事が理由だった。

 

 この話は、三和にとっても有難い話であり、中島との統合はメリットが大きいと睨んだ。

 当時、航空機用エンジンは三菱と中島、三和が三分しており、シェアもそれ程変わらなかった。その様な中で中島と統合すれば、三菱を大きく引き離す事が可能となる。

 また、簡単に製造設備を拡張出来る事も大きかった。今後、陸海軍の航空隊が拡張していくが、現状の設備だけでは不足すると見られた為である。

 加えて、中島の技術陣は大卒者を採用するなど優秀な者が多く、彼らを加える事でより高性能なエンジンを設計・開発出来ると睨んだ事もあった。

 更に、大室は中島との繋がりが深い事も統合を後押しした。先述のエンジンプラグの供給のみならず、中島飛行機の成立に大室重工業が関わっており、エンジンの共同開発や中島の機体のライセンス生産も行っている。その為、三和のエンジンと中島のエンジンは部品の共用化が行われていた。

 

 1938年に三和が中島のエンジン部門を吸収する形で、三和が「大和航空工業」と改称した。これにより、日本の大規模航空機用エンジンメーカーは大和と三菱に集約される事となり、製造数の面では2社が統合した大和の方が頭複数個分抜けていた。こうして、日本最大の航空機用エンジンメーカーが誕生した。

 しかし、対米戦が現実的になってくると現状の設備ですら供給に追いつかない事態になった為、三鷹付近に巨大なエンジン製造工場が建設された(1941年に稼働開始)。

 

 統合後、エンジンは基本的に中島側に寄せる事となった。その為、「栄」エンジンは史実通りに開発されるが、三和と中島の技術陣が合流した事で、「栄」の改良型が史実より早く開発・生産される事となった。また、新型エンジンの開発も早くなり、「誉」エンジンも1943年から多数製造される事となった(この世界の「誉」エンジンは、低オクタンガソリンでも1800馬力出せ、かつ安定した性能を出せる)。


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