架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:開戦前夜と史実との違い

 日本は、中国との紛争(「戦争」にまで発展しなかった)を有利に終わらす為、中国への武器や物資の支援ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する事を決定した。主な援蒋ルートは5つあり、香港から内陸へ運ぶ「広東ルート」、フランス領インドシナから雲南省、広西省に入る「仏印ルート」、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)から雲南省、四川省に入る「ビルマルート」、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国から察哈爾省、綏遠省(現・内モンゴル自治区)に入る「蒙古ルート」、ソ連からウイグルに入る「西北ルート」があった。

 

 その内、広東ルートは広州を、蒙古ルートは察哈爾・綏遠両省を紛争後に日本が占領した事で閉鎖され、仏印ルートも1940年に日本軍が北部仏印に進出した事で閉鎖された。仏印ルートの閉鎖によって最大の援蒋ルートは閉鎖されたが、直ぐ後にビルマルートが強化された事で援蒋の完全封鎖は叶わなかった。

 それ処か、仏印に進出した事でアメリカを大きく刺激し、日米の対立は以降深まっていく事となった。その為、1940年から日本は対米戦を秘かに決意する事となった。

 

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 この世界のアメリカは、史実よりも大きな海軍力を保有している。その為、ニューディール政策を行う際に軍縮を行おうとしたが、海軍からは『これ以上規模を縮小(人員削減や維持費の削減)をされると、艦隊運営に支障を来たす』と言われ、陸軍からも『これ以上予算を減らされたら、組織として崩壊する』と言われた。

 その結果、軍事費削減は中途半端となり、ニューディール政策の成果も史実と比べると中途半端な結果となった。この事から、ルーズベルト大統領の支持率は史実よりも低く、1936年の大統領選挙では勝利を収めたものの、史実の様な48州中46州で勝利とはならず(当時、ハワイとアラスカは準州)、34州で勝利となった。1938年の中間選挙や1940年の大統領選挙でも、辛うじて勝利した為、国内の支持基盤が強固では無かった。

 

 この余波によって、アメリカは中国を大々的に支援する事が難しくなった。ルーズベルト本人は親中反日だったが、国内はアジアの事より国内をどうにかしてほしいと考えており、野党の共和党も徒に日本を煽る事は宜しくないと批判的だった。

 もし、この時点でルーズベルトの支持が圧倒的であれば、反対があっても押し通す事は不可能では無かっただろう。しかし、ルーズベルトの支持率は5割をギリギリ超す程度しか無く、変な動きをすれば弾劾される可能性があった。

 その為、中国に対する支援が大きくならなかった。これは、日本が史実の様に内陸部まで進出しなかった事も大きかった。

 

 1939年には内陸部への進出が検討されたが、ノモンハンでソ連軍と大規模な軍事衝突が発生した事で、急遽戦力の大半を満州へ向けられる事となった。また、ノモンハンでの戦闘で大規模な被害を受けた事で、その補充も行う必要があった。それらに予算や人員を取られた為、内陸部進出は実行されなかった。

 

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 日本と中国の衝突は1939年の中頃には収まってきた。日本側は、内陸部に進出する気が無く、しようと思ったが別の要因で出来なかった。中国側は、大規模な戦力を初期の段階で消耗した事から、日本が占領している地域に侵攻する為の戦力が無かった。

 それでも、ズルズルと戦闘は長引き、それと反比例する様に日米関係は悪化していった。この後、日本は史実と同じくドイツとイタリアと同盟関係になった。これにより、アメリカやイギリスとの関係悪化は急速に進み、屑鉄の対日輸出禁止から始まる対日経済制裁が行われた。

 

 この後は史実通りである。日米関係は急速に悪化、1941年から何度も交渉が行われたが、全て物別れに終わった。

 しかし、史実と異なる部分として、アメリカによる日本の外交電文の解読が進まなかった事である。これは、ワシントン条約時に日本の電文がアメリカに傍受され解読された事を機に、日本政府と陸海軍は情報の漏洩に敏感となった。その結果が、海軍系の「海軍情報本部」と内閣系の「内閣情報調査局」の設立である。

 今回は、内閣情報調査局が活躍した事でアメリカの外交電文の解読が進み、日本の外交電文の機密性も強化された。これにより、アメリカが次にどの様な事を提案するかを一定程度知る事が出来、逆にアメリカは日本の交渉内容や目的、時期などの解読に手間取った事で、交渉の主導権を握る事が出来なかった。

 

 それでも、情報解読の有無で開戦までの流れが変わる訳でも無く、結局1941年11月26日にコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命全権大使に「ハル・ノート」が手交された。これによって、日本は対米戦を決意した。事前に準備されていた戦争計画は急速に進み、12月8日に開戦する事を御前会議にて決定された。既に、陸海軍の実戦部隊は動き出しており、後は開戦の日時を知らせる電文を受け取れば、開戦と同時に一斉に行動を開始する事となっていた。

 

 これを受けて外務省は、『日本時間1941年12月8日に宣戦布告文書を手交出来る様に準備する事』と在米・在英日本大使館に緊急かつ最重要の命令を下した。その為、史実の様な宣戦布告の遅れによる「卑怯」「騙し討ち」という批判は出なかった。

 そして、日本時間1941年12月8日午前2時、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対し同時に宣戦布告、ここに日本側名称「大東亜戦争」が始まった。

 

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[史実と異なる編制]

・連合艦隊

 直属部隊である第一戦隊に加賀型戦艦2隻(「加賀」と「土佐」)が追加。旗艦も「加賀」になる。

 

・第一艦隊

 第二戦隊に所属する扶桑型戦艦2隻(「扶桑」と「山城」)が、1939年から大改装を実施する。これにより、艦尾の延長や応急注排水装置の装備など史実で行われた改装の他、3番砲塔の撤去と機関の改装、装甲の強化が行われた。これにより、攻撃力は下がったものの、速力は向上(26.5ノット)し、改装前で問題となった防御力もある程度解消された事から、バランスが取れた戦艦となった。

 

・第一航空艦隊

 戦艦・駆逐艦の編制は史実通り。異なるのは空母と巡洋艦の編制で、史実の第一航空戦隊は「赤城」と「加賀」だが、この世界では「高雄」と「愛宕」(共に天城型巡洋戦艦からの改装)となっており、「愛宕」が旗艦を務める。巡洋艦の第八戦隊は、史実では利根型重巡洋艦2隻だが、この世界では利根型軽巡洋艦4隻(「利根」「筑摩」「雄物」「名寄」)となっている。

 また、司令長官も南雲忠一では無く、塚原二四三となっている。史実の塚原は、1939年の漢口(現在の武漢)空襲で負傷し左腕を切断、以降海上勤務をしなかった。この世界では、中国内陸部に進出していない事から漢口空襲は無く負傷もしていない。その為、海上勤務を続ける事が可能となった。

 

・第一南遣艦隊

 この艦隊は、フィリピン攻略の為に編成された艦隊である。史実では存在しない艦隊だが、後述するアジア艦隊の戦力が大きい為編制された。尚、この艦隊の編制によって、史実の南遣艦隊は「第二南遣艦隊」となった。司令長官は南雲忠一である。

 戦力は、天城型戦艦2隻(「天城」と「赤城」)、穂高型重巡洋艦4隻(「穂高」「大雪」「雲仙」「石鎚」)、川内型軽巡洋艦の「加古」(当初の予定通り、川内型軽巡洋艦の4番艦として竣工)、駆逐艦8隻となっている。戦艦が含まれている理由は、アジア艦隊にレキシントン級巡洋戦艦が含まれている為である。

 

・太平洋艦隊

 戦艦ではサウスダコタ級戦艦2隻(「サウスダコタ」と「インディアナ」)とコロラド級戦艦1隻(「ワシントン」。これに伴い、ノースカロライナ級戦艦2番艦は「オレゴン」と命名)、巡洋艦が4隻(ポートランド級重巡洋艦2隻、セントルイス級軽巡洋艦2隻)が追加している。空母も、巡洋戦艦として完成した「レキシントン」と「サラトガ」の代わりに、「コンステレーション」と「レンジャー」が空母として完成する(これに伴い、史実の「レンジャー」は「ディスカバリー」となる)。それ以外は史実通り。

 

・アジア艦隊

 レキシントン級巡洋戦艦2隻(「レキシントン」「サラトガ」)とニューオーリンズ級重巡洋艦1隻が追加。

 尤も、アジア艦隊が戦艦を含む有力な艦隊となった事が、第一南遣艦隊が編成された理由となった。

 

・大西洋艦隊

 巡洋艦2隻(ウィチタ級重巡洋艦1隻とセントルイス級軽巡洋艦1隻)が追加。


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