架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:日鉄(+α)による新路線建設
番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)


〈北海道〉

・軽石軌道[軽川(現・手稲)~花畔~石狩川畔]

 史実では、花畔までの開業に留まり、路線そのものも1937年に廃止となった。これにより、石狩市の鉄道は無くなり、現在でも陸の孤島気味となっている。

 

 この世界では、日鉄が経営に参画した事で、軌間は762mmから1067mmに変更し、史実では開業しなかった花畔から先を開業させる。更に、石狩川河口部の開発を日鉄・大室・日林の三者が共同で実施する。目的は、小樽港の代替と北海道の工業化の推進である。軽石軌道の獲得も、輸送路の確保と開発の促進を目的とした。社名も「石狩鉄道」に変更した。

 1922年10月に軽川~花畔間が、1927年6月に花畔~石狩港(石狩川畔)間が開業。花畔開業とほぼ同じく、石狩港の開発も始まり、関東大震災によって一時中断するものの、1928年10月に第一期工事が完了、第二期工事も開始した。しかし、今度は昭和金融恐慌と昭和恐慌によって中断、完成は1940年2月となった。

 

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・大函急行電鉄[函館~亀田~大野(現・新函館北斗)]

 軌道幅が一緒(1067mm)であり、電化で開業の予定であった事から、函館市電の郊外線的存在と言える。ルートは、函館から五稜郭までは函館本線に隣接し、五稜郭から先は概ね大野街道に沿って(=函館本線の西側に並行する)大野に至る。

 史実では、1928年10月に免許を取得し1930年に会社を設立するが、昭和恐慌によって工事が中断、ある程度建設が進んでいたらしいが、1937年2月に免許が失効した。

 

 この世界では、日鉄が函館の経済力や人口を鑑み(1940年まで、函館の人口は札幌を超えていた)、郊外の開発も行った方が良いと判断し、函館水電(函館市電の前身)を巻き込む形で経営に参加した。これは、電鉄を運営するのなら、協力体制を敷いた方が効率が良いと判断した為である。1930年に会社が設立したが、路面電車での運行が計画された事から、社名は「大函電気鉄道」となった。

 会社設立後、精力的に工事は進められ、1934年2月には線路を全て敷き終わった。その為、当初は同年4月に開業予定だったが、3月に発生した函館大火によって施設の一部が焼失し開業は延期となった。その後、施設の復旧を行い、8月に開業となった。

 開業後、沿線の宅地開発や娯楽施設(野球場や遊園地)の整備を行い、沿線人口の増加を狙った。函館大火によって函館市の人口が流出していった事から、それを防ぐ目的もあった。不況の影響もあって大々的な開発は出来なかったが、函館の後背地の開発が進んだ事によって人口の流出が穏やかになった。

 

 その後、1940年に帝国電力(1934年に函館水電から改称)から鉄道部門とバス部門を譲渡され、「函館電気鉄道」に改称された。戦時中、函館電鉄の全事業を函館市に引き渡す予定だったが、函館電鉄側と函館市側の条件が折り合わずそのまま流れた(これにより、「函館市交通局」は成立しない)。

 

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〈東北〉

・東北鉄道鉱業[小鳥谷~葛巻~門~茂市]

 東北本線の小鳥谷から葛巻、門、岩泉を経由し、太平洋岸の小本まで至る路線と、途中の落合から分岐し、かつての岩泉線とほぼ同じルートを通る路線を計画した。目的は、沿線から算出される石炭や木材の輸送と開発だった。

 史実では、資金不足が原因で工事途中で未完成となり、1927年9月に門から先の免許が失効、1941年7月に残る小鳥谷~門間の免許も失効した。

 

 この世界では、日鉄に加えて日林財閥の企業が合同して出資した(日本鉄道興業、日本鉄道銀行、日鉄證券、日本林産、日本林商銀行、日林鉱業)。また、史実では1926年11月に工事が開始されたが、この世界では1年半早く工事が開始された。

 それでも、史実通り昭和恐慌による資金不足によって一時的に工事が中断される。しかし、史実よりも工事が早く始められた事、日鉄―日林連合が経営権を掌握した事で、その後も工事が進み、1938年に小鳥谷~葛巻~門~茂市間が開業した。同時に、沿線の炭鉱・鉱山(粘土やマンガン鉱)、森林の開発も進んだ。その後、1944年に改正鉄道敷設法に則り「葛巻線」として買収され、残る鉱山などは日林側の企業に吸収された。

 

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・南部開発鉄道[野辺地~七戸~三本木(旧・十和田市)~三戸](架空)

 現実の南部縦貫鉄道と同じルートだが、昭和初期に計画されたという違いがある。このルートは奥州街道(国道4号線)に沿ったルートでありそれなりに人口があったが、東北本線から外れた事で衰退が著しかった。かつての繁栄を取り戻そうという沿線住民と、沿線の農地や牧地、資源開発を考えた日鉄の両者の思惑が一致した。これにより、1927年に「南部開発鉄道」が設立された(免許の受理は1925年)。

 会社設立後、工事が始まったが、昭和恐慌によって一時中断した。しかし、その後の景気の回復と軍拡による鉄の需要増加を受けて、工事は急ピッチで再開された。沿線には高純度の砂鉄が確認されており、これを利用した製鉄が青森で実施される事になった為である。これにより、1935年6月に全線が開業し、沿線住民は諸手を上げてこれを歓迎した。

 開業後、沿線開発は進み、特に鉱山開発は鉄道が開業した事で大規模な開発が進んだ。そして、日本製鐵(新日鐵住金の前身)によって大湊町(現・むつ市)に製鉄所が建設され、そこへの原料輸送で賑わった。その後、1940年に十和田鉄道(史実の十和田観光電鉄線)、五戸鉄道(史実の南部鉄道)と統合し、「南部鉄道」と改称した。

 

 しかし、改正鉄道敷設法に該当する事、東北本線のバイパスになる事、何より鉄鉱石の存在から戦時買収の対象となり、南部鉄道が所有する全鉄道線が国有化された。旧・南部開発鉄道は「七戸線」、旧・十和田鉄道は「三本木線」、旧・五戸鉄道は「五戸線」とされた。その後、会社そのものはバス・不動産会社「南部開発交通」として存続する事となった。

 尚、十和田鉄道だけ762㎜で軌間が異なり、戦後に1067㎜に改軌される事となった。

 

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・仙南鉄道[白石~永野~遠刈田温泉~青根温泉、大河原~村田~永野](架空)

 史実では、このルートに仙南温泉軌道(大河原~村田~永野~遠刈田)が1922年に開業した(永野~遠刈田は1906年に貨物専業で開通済)が、バスとの競合や規格の低さが災いして、1937年に廃止となった。

 

 この世界では、1910年に解散となった日本製鉄(後に成立する日本製鐵とは無関係)から開業済みの永野~遠刈田を譲り受け、上記のルートでの免許を獲得し「仙南鉄道」を設立した。これとほぼ同時期に、仙南軌道と城南軌道(共に仙南温泉軌道の前身)の免許が出願されたものの、資本力に勝る仙南鉄道が両者を吸収させて黙らせた。

 その後、1911年から工事が開始された。2社の吸収の条件として「大河原~村田~永野間も建設する事」が決められた為、少々時間が掛かったが、大河原側は地元が建設に積極的であった事から、建設は早期に完了した。途中、第一次世界大戦による資材高騰によって中断するも、1922年までに全線が開業した。

 

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・仙台鉄道[古川~西古川~王城寺原~北仙台]、青葉電気鉄道[北仙台~青葉城前~長町]、秋保電気鉄道[長町~茂庭~秋保温泉~青根温泉](架空)

 史実の仙台鉄道と秋保電気軌道、未成に終わった青葉軌道に相当する。

 秋保側は、1916年に秋保石材軌道を傘下に収め、資金面でのバックアップを行った結果、青根温泉への路線を1925年に開業させた。同時に、改軌(762㎜から1067㎜に変更)と電化を実施した。同時に、社名を「秋保電気鉄道」に改称した。

 

 古川側も同様に、1922年に仙台軌道を傘下に収めた。1925年の西古川までの開業は史実通りだが、西古川から国鉄陸羽東線に沿って古川までの路線が1927年に開業した。

 

 仙台市側は、1925年に設立された青葉軌道に参画、既に傘下に収めた秋保石材軌道と仙台軌道を繋げて一体的な運用を目的とした。そして、秋保側が1067㎜で電化された事から、青葉軌道と仙台鉄道も改軌する事となった(青葉軌道は電化も実施)。その後、1929年に開業した事で(同時に、社名も「青葉電気鉄道」に改称)、3社の統一運用が図られる様になった。これにより、青葉電鉄・秋保電鉄沿線の宅地・観光開発が活発化した。

 

 その後、1943年に上記の仙南鉄道と統合し、新生「仙台鉄道」となった。

 戦後、旧・仙南鉄道との連絡と仙台白石間の都市間輸送を目的に、茂庭~村田間が計画される事になる。

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・仙北鉄道[築館~沢辺]

 築館線の延長であり、栗原軌道との接続を狙った路線である。史実では、仙台鉄道や栗原軌道が免許を獲得したものの、全て未開業に終わった。

 

 この世界では、日鉄が支援した事で1926年に開業した。これにより、仙北鉄道と栗原軌道は一体的な運用が取られたものの、この時は合併しなかった。

 その後、1944年に仙北鉄道と栗原軌道は「仙台鉄道」に統合された。戦後、旧・仙北鉄道と旧・栗原軌道は「栗原鉄道」として分離されるのと同時に、仙台鉄道の支援の下で改軌と電化が実施された。


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