架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

48 / 112
番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)

〈中国〉

・防長電気鉄道[三田尻(現・防府)~中関~秋穂~小郡(現・新山口)、三田尻~山口~大田~東萩、小月~西市~大嶺~吉則(現・美祢)~大田](架空)

 1916年、日鉄は三田尻で造船所の建設を始めた(開設は1919年)。これを契機に、日鉄は三田尻を西の拠点として整備しようと考えた。その一環として、三田尻沿岸部の開発とそれに伴う人員・貨物輸送の強化を目的に、造船所付近を通る電鉄の開業を目指した。この様な経緯で、1917年に「三田尻電気鉄道」が設立した。当初は防石鉄道と連携しようとしたが、防石鉄道側が強硬に反対した事で、単独での参入となった。

 

 この様な経緯と同様の区間の免許を防長鉄道も保有していた事から、工事は急ピッチで行われた。1919年に三田尻~中関~秋穂~小郡が開業した。この路線の開業によって、造船所への工員輸送だけでなく、沿線の宅地開発や工場誘致が行われた。

 その後、県都・山口との接続や秋吉台の観光開発、内陸部の輸送路改善、陰陽連絡鉄道への転換などを目的に、1919年に三田尻~山口~大田~東萩と大田~吉則~大嶺~西市の免許を獲得し、社名も「防長電気鉄道」に改称した。これに際して、西市~小月を保有する長門鉄道と、吉則~北川の開業線と北川から秋吉台への免許を有する伊佐軌道を買収した。

 沿線は山岳地帯が多い事から建設に時間が掛った。加えて、内陸部に大量に存在する石灰石の輸送を目論み、直流1500Vで重軌条という高規格で建設した為、建設費も高騰した。三田尻~山口は1923年に開業したものの、そこから先はゆっくりと開業した。その為、西市側からも工事が行われた。1926年に西市~大嶺~吉則、1927年に山口~大田、1932年に大田~東萩と吉則~大田が開業し、予定した路線が全て完成した。

 全線開業によって、沿線の石灰鉱山の開発が進み、それへの輸送で防長電鉄が活用された事で、建設費の返済は当初の予想より早く進んだ。また、秋吉台への観光客も増加し、自然環境や雰囲気を破壊しない程度の開発も行われた。

 

 戦時中、山陽本線のバイパスになる事、陰陽連絡鉄道である事、沿線に重要資源である石灰(セメントの原料)が大量に存在する事、沿線が工業地帯である事から、1944年に全線が国有化された。三田尻~東萩は「防長線」、小月~大田は「長門線」、三田尻~小郡は「三田尻線」と命名された。会社そのもの存続し、戦後は旧沿線のバスや秋吉台の観光開発、不動産開発を行う「防長開発交通」に改称した。

 

============================================

〈四国〉

・琴平急行電鉄[高松~下笠居~坂出~讃岐飯野~琴平]

 琴急は、坂出~讃岐飯野~琴平を走っていた電鉄である。金毘羅山への参拝客輸送を目的に1930年に開業したが、既に国鉄、琴平電鉄(現・高松琴平電気鉄道琴平線)、琴平参宮電鉄が開業していた。加えて、琴急のルートの沿線人口も少なく、開業時点で不利な立場だった。案の定、常に収支は赤字であり、1944年に不要不急線に指定され線路は全て撤去された。その後、琴参に吸収され、路線も1954年に休止状態のまま廃止となった。

 

 この世界では、1926年に琴参が保有していた高松~下笠居~坂出の免許と、史実の琴急の免許を日鉄が買収し「琴平急行電鉄」を設立した。設立後、琴平電鉄が開業間近である事から工事が迅速に行われ、1929年に全通した。高松まで開業した事で、高松からの参拝客を取り込めた事、国鉄の利用客を奪えた事、都市間輸送の実施や沿線の開発などで利用客は急増した。

 

 この後、戦時統合によって琴急と琴参は1944年に統合し「讃岐急行電鉄」と改称した。戦後、本山寺や観音寺への参拝輸送を目的に旧・琴参線の坂出~宇多津~丸亀~善通寺の施設の改良と延伸を行い、善通寺~本山寺~観音寺口を1957年に開業した。

 一方、路面電車のまま残った多度津~善通寺~琴平は、モータリゼーションの進行によって1974年に廃止となった。

 

============================================

〈他の路線への影響〉

・徳島鳴門電鉄(架空)の開業

 徳島から北島、松茂を経由して鳴門に至るこの鉄道は、日鉄ではなく大室財閥が関係している。

 これは、1935年に大室財閥系の大室重工業が、徳島近郊の北島に航空機工場を建設する事が決定した事から始まる。工場への物資輸送や工員輸送を目的に、徳島から工場のある北島を経て、観光地であり製薬などの産業が集積する鳴門に向かう路線が計画された。この免許は1937年に認可が下り、同年に「徳島鳴門電鉄」として設立された。工事は急ピッチで行われ、1938年に大室重工業徳島工場が開設するのに合わせて開業した。

 開業後、沿線の宅地開発(工員向けの寮や社宅が中心)や工場の誘致(工場向けの下請けなど)を行った。徳島工場は巨大(広さは中島飛行機太田工場の8割程度)で大量の工員を有する事から、沿線の開発は大規模になった。また、工員向けに商売を行おうと徳島や鳴門の商業や観光も繁盛するなど、地域経済の拡大に貢献した。

 

 その後、戦時体制になっていくにつれ、軍拡も進行した。新戦力と目された航空隊も拡張され、沿線の松茂に海軍の飛行場の建設が開始した(現在の徳島空港。1941年に開設、その翌年にこの飛行場を本拠地とする徳島海軍航空隊が発足)。これに伴い、徳島鳴門電鉄は飛行場への人員・物資輸送に活用される事になり、空前の利益を上げたが、ピストン輸送によって施設を酷使した事で、終戦時には施設・車両はボロボロだった。

 

 戦後、同じ中外グループの南海急行の傘下に入り、多奈川~鳴門の航路が開設された。この頃から、淡路島の淡路交通線と接続して大阪~淡路島~徳島の鉄道が計画された。この計画が前進するのは、日本鉄道建設公団(鉄建公団)のP線方式(東京、大阪、名古屋とその周辺の民間鉄道を対象として路線を建設、施設を私鉄に貸し出す。建設費などは25年かけて支払う)が整った1972年からである。

 

____________________________________________

・四国横断鉄道の開業

 阿波池田~伊予三島の路線である四国横断鉄道の開業には、日林財閥が関わっている。

 史実では、四国横断鉄道に似たルートの阿波池田~川之江の免許を「愛徳電気」が1928年に取得したが、1934年に失効した。恐らく、昭和恐慌による資金の調達不足と、山岳地帯を通る事による工事の困難さが原因だろう。

 

 この世界では、1930年に日林財閥が愛徳電気の経営権を握り、「四国横断鉄道」と改称した。同時に、起点を川之江から伊予三島に変更した。これは、松山方面の接続を重視した事、三島町(伊予三島市を経て四国中央市)の製紙業者が懇願した事が理由だった。

 経営権を握った翌年から工事が始まったものの、工事の進行速度は遅かった。山岳地帯を通る事からトンネル工事が多い事、当時の日林の金融部門である日本林商銀行の経営が危うかった事でそちらの対応に追われていた事が理由だった。

 それでも、日本林商銀行の方は対処が完了し、本体の日本林産や他の部門については損失が小さかった事から、1935年には全線開業した。開業によって四国山地の木材資源が三島町に輸送される事になり、町の木材業者や製紙業者への原料供給が行われた。また、日林財閥の企業が三島町に進出する切欠にもなった。

 

 しかし、「四国横断鉄道」として存在した時期は短かった。1941年、改正鉄道敷設法第101号(『愛媛県川之江ヨリ徳島県阿波池田付近ニ至ル鉄道』)を理由に国有化され、「愛徳線」と命名された。

 

____________________________________________

・四国中央鉄道の開業

 史実の四国中央鉄道は、1946年に牟岐線の中田から分岐して、内陸部の生比奈村、横瀬町(共に現・勝浦町)に至る路線の免許を獲得した。予定では更に内陸部を進み、最終的に土讃線の土佐山田を目指していたらしい。その後、1951年に分岐駅を中田から立江に変更し、ルートも一部変更となったが、路線は開業する事は無かった(免許の失効は1988年)。

 尚、四国中央鉄道の約30年前に、阿南鉄道(現・牟岐線)が立江から分岐して棚野村(後の横瀬町)への免許を獲得している(1926年に失効)。

 

 この世界では、四国山地内の豊富な山林資源に目を付けた日林財閥が、阿南鉄道の上記の免許に目を付けて購入しようとした。阿南鉄道としても、乗合自動車に旅客・荷物収入が減少している状態では新線建設など夢のまた夢であり、少しでも現金が入るのならばとして、1924年に日林財閥に売却した。

 阿南鉄道の免許を譲り受けた日林財閥は同年、「四国中央鉄道」を設立し免許を譲渡した。そして、その免許の延長線として上勝、木頭(現・那賀町)、物部(現・香美市)を経由して土佐山田への免許を申請した。この免許が認可されたのは1928年の事であり、同年には立江~棚野が開業した。そこから先は山岳地帯、人口希薄地帯である事、昭和恐慌で日林財閥が一時的に身動き出来なかった事から、工事は一時的に停止した。それでも、1934年に土佐山田~物部、1937年に棚野~上勝、1939年に上勝~木頭、1941年に木頭~物部が開業して全通した。しかし、上勝~木頭~物部は物資・資金不足からやや規格を落として開業した(高規格な森林鉄道程度)。

 

 開業によって、沿線の豊富な森林資源と鉱山(主にマンガン・石炭・粘土)の開発が進んだ。また、全線開業前の1936年から、徳島と高知に日林財閥の企業が進出した。本体の日本林産に加え、徳島には日林製紙に日林化学工業、日林陶器に日林特殊陶器が進出し、高知には日林木材工業が進出した。

 戦時中、四国中央鉄道は木材や鉱石の輸送、高知と徳島を結ぶ第二ルートとして活用された。その事から、一時は国有化も検討されたが、他の重要路線(中信電鉄や防長電鉄など)の買収を行っていた事、極端に重要という訳では無い事から買収は後回しにされ続け、そのまま終戦を迎えた。

 

 戦後も沿線からの木材や鉱石の輸送に役立てられたが、木材資源の減少や鉱山の閉鎖、沿線人口の減少などの要因が重なり、横瀬~上勝~木頭~物部は完全に赤字路線となった(他の区間は、通勤・通学などで辛うじて黒字)。それでも、沿線の観光地への輸送や国鉄の優等列車の運行、観光列車の運行などによって、21世紀に入った時点では何とか全線が存続している状態となっている。




今回は、余り日鉄は関わっていません。中国地方って平地や人口集積地が少ない事から、鉄道が通せる地域って限られますね。
後、大阪・和歌山の対岸である徳島の路線が多く、それに伴って工場の設立も多いですから、この世界の徳島は香川・愛媛に並ぶ重要な県となるのではないでしょうか。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。