架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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4章 昭和時代(戦時中):崩壊への第一歩
34話 戦時中:大室財閥(21)


 太平洋戦争によって、国内の企業は自由な経済活動を行う事はほぼ不可能となった。経済には多くの統制が掛けられ、1機でも多くの航空機を、1隻でも多くの軍艦を、1人でも多くの兵士を前線に送る事が急務となった。

 

 大室財閥も例外では無く、「大室重工業」では軍艦や輸送船、航空機、「大和航空工業」は航空機エンジン、「大室電機産業」は工作機械や産業機械、「大室通信産業」は無線機や通信機、「大室化成産業」では火薬、「大室製鉄産業」では鉄鋼、「大室金属産業」ではアルミや銅などの非鉄金属の増産が叫ばれた。それらに原料を供給する「大室鉱業」では、国内鉱山や炭鉱での増産が叫ばれると同時に、金鉱の縮小が行われた。

 増産には施設や人員の強化が必要になるが、戦時中という事で資材や人員不足が著しく、思う様な拡大や増産は出来なかった。大室系の金融機関や、日本興業銀行や戦時金融金庫の様な国策金融会社からの融資によって資金面では問題無かったが、人とモノが無い状態ではどうしようもなかった。

 

 実際、大室鉱業では熟練の鉱員が徴兵に取られ、その代わりに朝鮮半島や中国大陸から来た労働者が入ったが、効率面では下がり、増産処か採掘量の維持すら難しいとされた。

 大室重工業や大和航空産業、大室電機産業など重工系の企業でも、熟練工が取られた事で製品の質の低下が見られた。戦前の外国製の工作機械の大量輸入や工作機械の国産化などによって重工業化が進んだものの、工作機械を扱う熟練工がいなくなった事で、効率的な運用が出来なくなったのである。それでも、残った熟練工による指導や非熟練者でも容易に扱える工作機械の開発・配備が行われた事で、効率は多少向上した。

 大室製鉄産業、大室金属産業、大室化成産業では、原料不足から減産も考えられたが、大室鉱業を始めとした鉱山会社、大室物産を始めとした商社によって原料の供給が行われた事で、減産にはならなかった。しかし、戦争後半には、アメリカの通商破壊が激化した事で原料が届かなくなり、1944年の後半頃からは減産となった。

 

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 大室銀行や東亜貯蓄銀行、東亜生命保険などの各種金融業は、上記の産業部門や国債の引き受けの為に、貯蓄が強力に奨励された。

 元々、大室銀行や東亜貯蓄銀行は預金集めを得意としており、特に大室銀行は開戦時の預金量では安田銀行に並ぶ程だった。そこに、国家主導で行われた貯蓄の奨励、贅沢品が市中に出回らなくなった事で国民の支出が抑えられていた事によって、大量の預金が集まった。

 

 また、国内の金融機関の統合も行われた。1943年に三井銀行と第一銀行が合併して「帝国銀行」となり(1944年に十五銀行も統合)、三菱銀行が第百銀行と統合し、安田銀行が日本昼夜銀行と統合した(1944年に昭和銀行と第三銀行も統合)。これにより、大銀行の整理が進んだ。

 大室銀行も、1943年に日本林商銀行を、1944年に日本鉄道銀行と東亜勧業銀行を統合した。これにより、店舗274(出張所を含む、後に統廃合で213となる)、資本金15億円となり、この合併で安田銀行を抜いて日本最大の銀行となった。また、預金獲得が得意な大室銀行と日本鉄道銀行が合併した事で、大量の預金を保有する事となり、国としても国債の有力引受先と見做す様になった。

 

 東亜貯蓄銀行の方も、東京に本店を置く不動貯金銀行や内国貯金銀行、安田貯蓄銀行などと合併し、1945年に東日本に本店を置く貯蓄銀行が大合同して、改めて「東亜貯蓄銀行」を設立した。同時に、大阪や名古屋など西日本に本店を置く貯蓄銀行が合併して「日本貯蓄銀行」が設立された。これにより、史実の「日本貯蓄銀行(後の協和銀行)」は成立はしない。

 

 地方銀行も「一県一行主義」によって統合が進められた。大室系の銀行は軒並み他行に統合され、大阪府や神奈川県などでは影響力も失った。それでも、青森県の「青森商業銀行」、宮城県の「奥羽銀行」、石川県の「越州銀行」については他行に吸収される事無く独立を守った。また、統合された銀行も、戦後に相互銀行や戦後地銀として事実上復活するものも出てくるが、それは別の話である。

 同様に無尽でも統合が行われた。影響力を持っていた神奈川県の「相武無尽」と埼玉県の「北武無尽」は、他の無尽に統合される所か、県内の無尽統合の中心的役割を果たして存続した。

 

 大室信託や大室證券も、公社債(国債や金融債)や株式、特に軍需企業や特殊会社(植民地経営を行う会社や国策会社)の引き受けによって拡大した。

 特に、大室證券は、日鉄證券や他の中小証券会社と合弁で、投資信託の販売を行う「東亜投資信託」を設立した。銀行や無尽などの地方金融機関が、預金を使って大量に投資信託の商品を購入し、一定額までの収益は非課税とされた為、莫大な利益を上げた。

 

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 また、生命保険部門である東亜生命保険や日本弱体生命保険も、他の中小保険会社を統合する事で保険加入者を大幅に増やした。また、兵士に生命保険が掛けられた事で、大量の保険加入者によって資金は豊富だった。これは、日本政府によって出征する兵士にも生命保険を掛けられる様にする事、戦死した場合にも保険金を全額出す事となった為である。

 

 本来、生命保険では戦死者や自然災害による死亡では保険金が下りない。これは、生命保険が寿命による自然死の統計を基にして資金の運用や保険金の支払いを行う事を目的に設立された為である。その為、一度に大量の死者を出す戦争や天災で同じ事を行えば、大量の保険金を一度に支払う必要があり、保険会社の運営が立ち行かなくなる恐れがある。

 しかし、戦前の日本では日清・日露戦争の時に軍人(将校)が生命保険を掛けて、それによって生命保険が人々に認知され、こぞって生命保険に加入する様になったという経緯があった。また、生命保険会社も軍人という社会的地位と資産も持っている人が纏まった数加入した事で、経営難が解消し、その後の生命保険が人々に認知された事は非常に大きかった。

 

 この様な経緯から、兵士にも保険金を掛ける事となった。当初、政府は戦死者よりも戦傷者の方が多いと睨んでいた事もあり、この動きを進めた。しかし、実際は戦死者の方が多く、生命保険会社は保険金の支払い能力を超える事となり、大きな損失を出し続けた。この状況が変化するのは、戦後のインフレまで待たなければならなかった。

 

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 損害保険の方も、1943年に大室火災海上保険は日鉄火災保険と他1社と合併し、1944年に大室倉庫保険は日林火災保険と他2社と合併して「東亜動産火災保険」と改称した。これにより、大室火災と東亜動産火災は被合併保険会社の契約を引き継いだ事で拡大し、大室火災は大手六社の一角(他は東京海上、大正海上(後の三井海上)、大阪海上(後の住友海上)、安田火災、日本火災)に、東亜動産火災は動産四社の一角(他は日本動産火災(後の日動火災)、東京動産火災(後の大東京火災)、日本簡易火災(後の富士火災))を占める様になった。

 

 通常の損害保険では、戦時中の損害(通商破壊による船舶の沈没や人員の被害)については補償されない為、それらに対して補償が出る戦争保険が開発された。戦時中という事もあり、これに加入する人や法人は多数に及び、大量の保険金が集まった。

 その一方、戦争保険のリスクの高さ(一度に大量の保険金を支払う)から、戦争保険の再保険を行う必要が出てきた。その為に、1940年に損害保険各社の共同出資によって「東亜火災海上再保険」が設立した。

 

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 各種産業や金融以外にも、他の企業は戦争遂行の為に行動した。

 大室船舶は、日本郵船や大阪商船などと共に内地から東南アジアへの兵員や機材の輸送、東南アジアから内地への各種原料資源や食糧の輸入を行った。尤も、これは「船舶運営会」による統制の下で行われた。

 

 大室物産は、アメリカやヨーロッパの支店は閉鎖され、その地域からの情報が途絶える事となった。これにより、大室財閥の武器であった情報を失う事となった。戦後に改めて欧米に出店するが、情報収集・分析能力の復活には更に時間が掛る事となった。

 また、戦時中には占領地での原料資源や食糧の買い付けや鉱山開発、森林開発などを行った。多くが初めての事業であり、商社が行う事業では無かった。しかし、国や軍部から『やれ』と言われれば、やるしかなかったのが当時である。

 大室物産は、主にフィリピンやインドシナ、マレーでの鉱山開発や森林開発、農地開発を行った。多くは、アメリカやイギリスの資産を接収して利用するものだったが、自前で開発する場所も多かった。大室物産は現地での開発に消極的ではあったが、現地住民との摩擦の発生には注意を払っていた。これは、情報収集の一環で得た現地住民との接触や摩擦を避ける方法を活用したものだった。これが上手く行き、大室物産が開発を担当した地域では大規模な反日武装組織の活動が見られなかった。

 

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 大日新聞も、東京の中小新聞社を統合し、後に六大新聞の一角を占めるまでに拡大した。

 一方、戦時中という事で論調が変化した。戦前の大日新聞は、政府に対しては批判しつつも対案を出し、軍に対しては批判しなかったものの擁護もしなかった。論調としては中道右派だった。

 しかし、戦時体制になった事で自由な記事を書く事が不可能となった。論調も変化し、政府や軍の賛美に終始する事となった。戦後、この体制が内部から批判され、一時期は左派色が強くなったが、冷戦構想が鮮明になると、反共色が強くなる一方で、戦前の中道右派路線へ回帰する事になった。

 

 また、1942年にプロ野球チーム「黒鷲軍(旧・後楽園イーグルス)」を譲渡され、「大日軍」に改称した。大日軍は1944年にいったん休止となったが、戦後、大日軍の復活と同時に大日新聞は本格的にプロ野球に参入する事になる。


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