ガダルカナル島からアメリカ軍を追い出した日本軍は、1942年内にFS作戦を実行する予定だった。しかし、相次ぐ大規模作戦によって、燃料不足が著しかった。また、艦艇や航空隊の損傷、将兵の疲弊による練度の低下から、整備・休養・補給体制を整えなければならなくなった。その為、1942年9月以降は準備期間となり、当初予定のFS作戦は年が明けてからに変更となった。
これに対してアメリカも、戦力不足から動く事が不可能だった。空母は無くなり、巡洋艦も不足、おまけにセイラー不足で満足な活動も難しいという、外洋海軍としては致命的だった。その為、ソロモン戦以降は戦力の充実とセイラーの育成に時間が費やされ、ハワイやオーストラリア南部、ニューカレドニアなどの防備強化が行われた。その一方、潜水艦を用いた通商破壊も積極的に行われた。これらは全て、ある程度戦力が揃う1943年中頃までは守勢防御に徹し、戦力が揃い次第反攻作戦を行う計画に沿ったものだった。
しかし、通商破壊は戦果が目に見えにくく短期的には分かりにくい為、早急な戦力の拡充が求められた。また、海上護衛総隊の存在から、日本近海や輸送船団への通商破壊は低調であり、常に半数の潜水艦が帰還しなかった。それだけでなく、航空機を用いた妨害や機雷帯航法の採用、商船隊の定時連絡の取り止めなどが行われた事で、輸送船団を発見する事そのものが難しくなっていった。
しかし、これはあくまで日本近海や南洋諸島、東南アジア方面での話であり、ニューギニア・ソロモン諸島方面では一定の成果を出していた。これらの地域は、海上護衛総隊の管轄外である為である。
それでも、日本はこの地域に常に重巡洋艦を含む艦隊を待機させており、ラバウルの第八艦隊、ポートモレスビーの第九艦隊がこの地域の海上輸送路、特にラバウル―ポートモレスビー航路(通称、ラボ航路)の警戒に当たっていた。
一度、ラボ航路の一時的封鎖を目的に、1942年12月に潜水艦・重爆撃機・巡洋艦を中心とした水上艦隊の攻撃による攻撃を仕掛けたが、輸送船の半数を撃沈するも、参加した巡洋艦5隻が日本艦隊と航空隊の攻撃で沈没。潜水艦も3隻沈没。航空機も8機撃破されるという大損害を出した。これにより、太平洋方面のアメリカの巡洋艦はほぼ全てが無くなった。そして、この行動が、日本の新たな行動の呼び水となった。
1943年1月、日本はニューギニア・ソロモン諸島でアメリカの圧力が増している事を受け、今後予定されるFS作戦の成功を円滑化する為、ニューヘブリデス諸島・オーストラリア北東部を攻撃し、現地戦力を破壊する作戦を立案した。これは、現地での航空戦による消耗や相次ぐ輸送船団への攻撃によって、このままでは現地を維持する事が難しいと判断された為だった。
「い号作戦」と命名されたこの作戦は、当時日本が出せるほぼ全ての戦力が投入された。戦艦10(「大和」、「武蔵」、「土佐」、「長門」、「天城」、「赤城」、「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」)、空母12(「高雄」、「愛宕」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」、「隼鷹」、「飛鷹」、「龍驤」、「祥鳳」、「瑞鳳」、「龍鳳」)、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦も10隻以上投入され、陸軍航空隊を含む現地航空隊計300機も参加予定だった。ここまで大量の戦力が投入される理由は、現地の防備が厚いという報告から、当初案の航空攻撃だけでは大した被害を与えられないと考えられた事、現地航空隊や機動部隊サイドから戦艦部隊への批判(『自分達だけ安全な後方にいる気か』と言われた)を解消する目的からだった。
2月11日、い号作戦が開始され、戦艦部隊の第一艦隊(連合艦隊司令長官豊田副武直率)と空母機動部隊の第三艦隊はトラックを出撃して南下した。
アメリカは、潜水艦からの報告によってこれを発見したが、攻撃目標が分からなかった。これは、1943年に日本が暗号を全面改訂した事で、暗号解読に時間が掛っていた為だった。
その後、潜水艦からの報告で南進を続けていると判明し、南太平洋で大規模な作戦を行うと考え、その方面への防衛として再建なったばかりの空母機動部隊を向かわせた。戦力は、エセックス級空母3(「エセックス」、「ヨークタウン」、「レキシントン」)、インディペンデンス級空母2(「インディペンデンス」、「プリンストン」)、アラバマ級戦艦2(「マサチューセッツ」、「オレゴン」)、ノースカロライナ級戦艦1(「ヴァージニア」)を中心としていた。
しかし、日本も無線傍受やミッドウェーやギルバートからの長距離偵察でこれを掴んでおり、第六艦隊は予定進路中に潜水艦を待機させた。これが見事に当たり、米艦隊は潜水艦6隻による集中攻撃を受け、空母2(「ヨークタウン」、「プリンストン」)、戦艦1(「オレゴン」)、巡洋艦1、駆逐艦2が沈没、又は大破後自沈処分となった。これを受けて、米艦隊は被害の大きさや日本艦隊の迎撃が不可能になった事から、急遽ハワイに帰投した。
第六艦隊の活躍で米艦隊を撤退させた事で、第一・第三艦隊は敵艦隊による横からの挟撃を心配する事無く、当初の予定通り作戦を進めた。17日、両艦隊が予定海域に進出したのを機に、い号作戦が始まった。
最初の攻撃は、第三艦隊によるニューヘブリデス諸島・エスピリツサント空襲だった。これまで、エスピリツサントはガダルカナル航空隊による攻撃を受けており、実際、北部を対象にレーダー監視網が設けてあった。
しかし、機動部隊の利点である行動範囲の広さを利用して、東側から航空隊が侵入してきた。完全に虚を突かれたエスピリツサント守備隊は、直掩機を上げ切らない内に空襲を受けた。これにより、直掩機と地上にいた機の殆どが破壊され、続くガダルカナル航空隊(今作戦の為に、ガダルカナルに進出したラバウル航空隊と陸軍航空隊との合同部隊)の空襲によって、今度は兵舎や港湾施設にも被害が出た。極め付けは、夜間に第一艦隊がエスピリツサント沖に進出して艦砲射撃を行った。これにより、港湾施設や飛行場は完膚無きまでに破壊され(基礎から作り直すレベル)、向こう半年間は再建の為に費やされる事となった。
エスピリツサント攻撃後、珊瑚海に抜けた両艦隊は、続けてオーストラリア東海岸を攻撃した。特に、ポートモレスビーに圧力を掛けている北東部のケアンズやクックタウン、タウンズビル、南太平洋方面の連合軍の拠点であるブリスベーンに対して重点的に攻撃を仕掛けた。各基地は、艦載機と基地航空隊の空襲、艦砲射撃によって徹底的に破壊された。特に港湾部は、艦砲射撃によって一から造り直さなければならない程の被害を受けた。
同時に、オーストラリア北部のポートダーウィンに対する空襲も強化され、こちらも通常の倍近い機数の空襲を受けて基地・港湾施設に大きな被害を与えた。また、一部の機体は航空機雷を港内や湾内に投下し、この地域における軍事的価値を下げる活動も行われた。
2月25日に、目的を果たしたとしてい号作戦は終了した。日本側の被害は、損失艦艇は無し、航空機を艦載機・基地航空隊を合わせて60機程と、規模の割には非常に小さな被害で済んだ。
それに対して連合国側の被害は、攻撃を受けた各基地が壊滅し、航空機を800機近く撃墜か地上撃破された。また、港内で失った輸送船や工作艦、潜水艦などを合わせて20万トン以上を失い、将兵の死者も5万人近くに上った(これらの被害は、救援に向かった機動部隊の損害を加えていない)。
この作戦で、連合国(と言うよりアメリカ)は、オーストラリアに大量の物資と兵器、兵員を送る必要が出た。この作戦で生じた被害によって、オーストラリア首相が『これ以上本土に被害が出る事は許容出来ない。連合国による更なる救援が無い場合は、日本との講和も辞さない』と発言した為、オーストラリアの戦争離脱を避ける為にも、大量の軍を置いて民心を安心させ、破壊された施設の再建を行う必要があった。ここで投入された物資は大量で、一時他の連合国向けのレンドリースが減少したり、アメリカ軍向けの兵器の生産が遅延するといった事態まで起こす程だった。
兎に角、大量の救援をオーストラリアに投入した事で、オーストラリアの戦争離脱という最悪の事態は回避出来た。しかし、ここで大量の物資や兵器を投入した事で、アメリカ軍の再建が2か月近く遅れる事となり、その後の戦争の流れから、オーストラリアに投下した物資や兵器が完全に遊軍化した為、結果からすれば、アメリカは膨大な無駄遣いをした。
また、南太平洋方面における最重要拠点であるブリスベーンが壊滅した事で、この方面での通商破壊に支障を来たす様になった。潜水艦だけでなく、施設も完全に破壊された為である。施設の再建と並行して、他の方面から潜水艦を持ってくるなどして体制を整えたが、それでも3か月は満足に活躍出来なかった。
一方の日本だが、この成功を受けてFS作戦を実行しようという流れになりかけたが、海軍情報本部と海上警備本部からの報告から、作戦を実行に移す事が難しくなった。情報本部からは「1943年内にアメリカは戦艦4、空母10、巡洋艦と駆逐艦を多数揃え、翌年には43年の数字の倍を揃える」と、警備本部からは「護衛地域が広がり過ぎて護衛艦の数が不足し、そこを突かれて撃沈される輸送船が増加している。FS作戦を予定通り1943年4月に行う場合の輸送船の手配が付かない」という報告が上がった。
その為、FS作戦の実行を2か月先延ばしにする事となった。しかし、戦局の急激な変化から、FS作戦は幻の作戦となった。
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い号作戦から1か月後、インド洋方面で次の作戦が実行された。それは、イギリス領インド帝国(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)のチッタゴンを陸海の攻撃で攻略するものだった。これは、インドに直接進行する事でイギリスの継戦能力を下げる事、インド洋を経由して行われている援蒋ルートの遮断が目的だった。
当初、この作戦はビルマ侵攻が一段落した1942年8月頃に行いたかったが、輸送船の手配や海軍が南太平洋に総力を注いでいた事から、作戦が延期されていたものだった。それが、1942年にアメリカのガダルカナル島撤退で南太平洋での戦闘に一段落着いた事、資源輸送に使われていた輸送船の手配が付いた事(戦時標準船の第一弾が完成した為)、海軍もインド洋方面でポイントを稼ぎたかった事から、この作戦が実行に移された。ただ、輸送船の手配に遅れが出た事、1942年末から英印軍による限定的な侵攻作戦が行われた事から、作戦開始が1943年3月に持ち越された。
3月26日、陸路からチッタゴン方面に侵攻した第33師団が攻撃を開始した。戦線は2週間程膠着したが、4月10日に英印軍は海上から戦艦「伊勢」、「日向」による艦砲射撃と、軽空母「瑞穂」(史実通り攻撃を受けたが、当たり場所が良く中破止まり。この時に空母に改装)の艦載機による空襲を受けた。その後、第54師団の上陸が行われた。海上からの攻撃、特に戦艦による艦砲射撃によって英印軍は大混乱となり、そこに陸上からの第33師団と上陸した第54師団による攻撃によって、統制力が完全に崩壊した。これによって、英印軍は総崩れとなり、4月16日に英印軍はチッタゴンを放棄した。翌日に日本は市内に入城し、4月中までに周辺地域の掃討を行って、チッタゴンの安全を確保した。
チッタゴン作戦の成功で、日本はインドへの足掛かりを獲得した。そして、10月21日にチャンドラ・ボースを首班とする「自由インド政府」にチッタゴン周辺部とアンダマン・ニコバル諸島を領土として譲渡した(但し、警備目的で軍の駐留は続く)。
因みに、チッタゴンの占領によって、ビルマ・インド方面の援蒋ルートの遮断という目的はほぼ達成した事、後述するインドの混乱を利用する目的から、チッタゴン防衛が最重要目的となり、計画中だったウ号作戦(インパール作戦)は無期延期となった。
一方のイギリスは、インド洋東部の良港であるチッタゴンを失った事で、中国への輸送路が遮断された。一応、カルカッタ(現・コルカタ)を利用出来なくもないが、距離が延びる事、チッタゴンからの攻撃がある事から、輸送効率が大幅に低下した。また、通商破壊も積極的に行われた為、中国への物資は予定量の半分程度しか届かなかった。
自由インド政府樹立後は酷くなり、インド国内ではサボタージュが活発となり、国内の流通が滞ったり、軍の編制が遅れたり、国内の治安活動で軍を動かせなくなるなど、インドの活用が難しくなった。その為、この混乱を早期解消する為に反攻作戦が計画されるが、多方面に注力していた為、実施は1944年末まで待たなければならなかった。