架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:この世界の太平洋戦争⑤

 1943年5月末、アメリカはミッドウェー島奪還作戦を実行した。これは、前年に日本軍に占領されている事、占領以降続いているハワイへの妨害を無くす事、一定程度まで海軍が再建された事から、実戦経験を積ませる意味で行われたものだった。この時動員された戦力は、戦艦4(「アイオワ」、「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」、「ネブラスカ」:「ロードアイランド」と「ネブラスカ」はアラバマ級戦艦の3番、4番艦)、空母7(「エセックス」、「レキシントン」、「エンタープライズ(史実のバンカー・ヒル)」、「インディペンデンス」、「ベロー・ウッド」、「カウペンス」、「モンテレー」)、巡洋艦8を主力とした。主力艦艇の殆どは開戦後に竣工したものであり、航空機も全て新型(F6Fヘルキャット艦上戦闘機、SB2Uヘルダイバー艦上爆撃機、TBFアベンジャー艦上攻撃機)を搭載していた。

 しかし、練度については余り向上しておらず、実戦不足も相まって、書類上の戦闘能力を発揮出来るかは疑問だった。戦力面でも、日本が機動部隊の総力を挙げて出撃してくる事を前提としておらず(日本が全空母を出動したら大小合わせて12隻が出てくる)、もし日本が総力を挙げて出撃してきた場合は、即座に作戦を中止する予定だった。

 

 日本は、潜水艦とミッドウェー航空隊の偵察によって、ハワイから機動部隊が出撃したという知らせを受けた。この知らせを受けて、トラックにいた第三艦隊(い号作戦時のままの為、戦艦4、空母12という艦隊。2つに分かれており、第一群は小沢治三郎中将が第三艦隊司令長官を兼任して率い、第二群は角田覚治中将が率いる)が出撃し、臨時で「大和」と「武蔵」も編入された。

 日本にとってミッドウェー島は、既に太平洋上に孤立した島でしか無く、占領し続けるだけでも一苦労だった。実際、補給任務中に高速輸送船を10隻と護衛艦隊1個戦隊を失っている。

 その為、これを利用して敵機動部隊撃滅とミッドウェー島からの撤退を行おうとした。この為の検討は占領後暫くしてからされており、機動部隊もFS作戦用に準備されていた事から行動は早かった。

 アメリカ側は、機動部隊出撃を暗号解読と潜水艦からの報告で確認したものの、暗号が複雑化していた事から進出方面を読み切れず、潜水艦も報告直後に護衛艦に沈められた事から、ミッドウェー方面に向かっている事を知らなかった。

 

 6月5日、奇しくも前年日米機動部隊が相対したのと同じ日に、同じ海域で再び相対する事となった。この日、アメリカによるミッドウェー島攻撃が行われ、1回目の艦載機の空襲でミッドウェー島の各種施設は炎上し、ミッドウェー守備隊の命運は尽きつつあった。

 しかし、2回目の攻撃隊の発艦中に、第三艦隊の偵察機によって発見された。それと時を同じくして、艦隊の周辺海域を哨戒していた機体からも『敵機動部隊発見』の報告が届いた。

 これに慌てたのは機動部隊司令部だった。既にこちらの位置を知られた以上、事前に決められていた即時撤退を行うべきという意見が多数あった。現状で戦っては勝ち目が無く、徒に戦力と将兵を失うだけであり、そうなれば再建が更に遅れる事になる為だった。

 その一方、第一次攻撃隊はまだ戻ってきておらず、ここで移動すると攻撃隊の収容が難しくなる。また、第二次攻撃隊も発進中の為、そちらも戻す必要がある。それに、ここで日本機動部隊を叩いておけば、今後の反攻作戦に有利になるという意見も少なくなかった。

 どちらの意見も間違いでは無い為、決断は司令官であるハルゼー中将に任された。その結果、第二次攻撃隊をそのまま敵艦隊に向け、第二次攻撃隊が戻るまでは防御に徹し、全機収容後速やかにハワイに撤退する方針となった。やや中途半端に思えるが、状況が微妙過ぎた事、日本側との戦力差から、ハルゼーと言えども大胆な判断を下せなかった。

 

 日本側は2回、アメリカ側は1回の攻撃で終わったが、両軍共に大きな被害が出た。

 日本側は、アメリカ軍艦載機の行動範囲を誤り、その範囲内に進出した事で攻撃を受けた。それが間の悪い事に、第二次攻撃隊が発艦中だった。この時は、レーダーによる探知と無線を駆使した防空戦を行った事、未だに高い練度を持つ艦載機の活躍によって、被弾した艦艇は少なかった。それでも、「愛宕」、「蒼龍」、「祥鳳」が被弾し、発艦中という事もあって艦載機や爆弾に引火して大破した。防御力の低い「蒼龍」と「祥鳳」は消火が不可能と判断されて自沈処分となり、「愛宕」は何とか消火が完了して撤退した。他の艦艇も、駆逐艦2隻が沈没し、「榛名」と「筑摩」が小破した。

 アメリカ側はもっとひどく、「エセックス」、「レキシントン」、「インディペンデンス」、「カウペンス」、「モンテレー」が沈没し、他に巡洋艦2と駆逐艦2が沈没した。「マサチューセッツ」、「ネブラスカ」、「エンタープライズ」は大破しつつも航行可能でありハワイへと撤退する所だった。

 航空隊の被害も酷く、日本はアメリカの濃密な対空砲火や、洗練された防空戦によって出撃した3割が未帰還となり、アメリカは空母毎破壊されたり、収容が間に合わずに海に投棄する機体などを合わせて6割を失う事となった。これにより、日本は機体の防御力の強化や集中運用による敵の迎撃能力の飽和を、アメリカは空母の早期戦力化を目指す事となった。

 

 アメリカがハワイに撤退する最中に、『敵戦艦部隊接近中』という報告が挙がった。日本艦隊は22ノットで接近しつつあるが、米艦隊は損傷艦に合わせる必要から14ノットが限界だった。また、距離も100㎞とかなり接近していた為、逃げる事も難しかった。幸い、午後4時を回っており、この後の航空機による攻撃は無いと見られたが、それでも戦艦を含んだ艦隊が突入すれば全滅は免れない。

 その為、損傷艦全てを自沈して退避する意見が強かったが、太平洋艦隊司令部の事前打ち合わせでは『空母を最優先で守る事』と言われていた為、「エンタープライズ」を退避させる為に水上艦艇が囮になる案も出た。両者の意見で再び対立したが、ハルゼーは素早く後者の案を採用した。これは、旧式とはいえ戦艦は取り敢えず数が揃っているが、空母は1944年になるまで数が揃わない為、ここで貴重な空母を失う事は出来ないと考えた為だった。これにより、空母と戦艦以外の損傷艦全て、それらの護衛艦以外の全てを接近する日本艦隊に当てて、空母を安全圏に逃がす方針が取られた。

 

 期せずして、太陽が出ている状態でかつ弾着観測用以外の航空機を用いない正統派の艦隊決戦が発生した。この艦隊決戦で、アメリカ側は戦艦3、巡洋艦4、駆逐艦6を失い、残った艦艇も全て小破した。大損害だったものの、空母を逃がすという目的は果たした。

 一方の日本側は、巡洋艦2、駆逐艦4を失ったものの、戦艦については損失が無かった。しかし、旗艦「大和」に攻撃が集中し、内1発が艦橋に命中して栗田健男中将以下司令部の面々が負傷してしまい、人事不省となってその後の追撃が中止となった。

 

 海戦は日本の勝利に終わった。その後、予定通りミッドウェー守備隊の収容が行われた。これにより、日本は当初の予定通りアメリカ機動部隊を叩き、ミッドウェーからの撤退が完了した。戦術的にも、戦略的にも、日本の勝利だった。

 しかし、ミッドウェーの撤退以降、日本の攻勢は殆ど無くなった。この頃になると、アメリカの生産力はフル稼働状態となり、損失しても直ぐに数倍の規模で展開出来る程にまでなった。実際は、運用する人員の問題から簡単に展開は出来ないが、生産力や人口、後方支援能力によって日本よりも遥かに早く大量に展開した。

 その結果、この海戦から2か月後、アメリカは珊瑚海とミッドウェーの両面作戦を実行する事となった。

 

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 1943年8月1日、アメリカは「ライトハウス(灯台)作戦」を実行した。この作戦は「第二次ウォッチタワー(望楼)作戦」とも言われ、その名の通り、一年前に失敗した南太平洋方面での反攻作戦を再び行うものだった。

 前回と違う点は、目標地点がガダルカナル島では無くポートモレスビーである事だった。この時のアメリカにとって、ガダルカナル島は南太平洋に浮かぶ島でしか無く、飛ばしても問題無いと判断された。それよりも、早急にポートモレスビーを占領して、北上してフィリピンへの足掛かりを築きたいというアメリカ軍、というよりマッカーサーの思惑があった。何しろ、南太平洋で大きく躓いて半年から1年を無駄にしたのである。これ以上、時間を無駄に出来なかった。その為、ミッドウェーには再建された空母機動部隊を、ポートモレスビーには旧式戦艦と護衛空母が大挙して押し寄せた。

 既に撤退していたミッドウェーについては無駄弾を大量に消費しただけだったが、ポートモレスビーは壮絶な戦闘が繰り広げられた。上陸してから1か月半後に、日本軍の大半はポートモレスビーで玉砕し、僅かに残った生き残りは後背のオーエンスタンレー山脈に逃げ込んだ。上陸から占領まで時間が掛った理由は、日本軍による現地の要塞化が進んでいた事、補給が続いた事と備蓄物資が大量にあった事から継戦能力が高かった事が挙げられた。

 

 ポートモレスビーが戦場になった事で、FS作戦の実行は事実上不可能となり、ガダルカナル島を占領し続ける理由も無くなった。また、ポートモレスビーがアメリカの勢力圏となった事で、ラバウルが再び前線となった。その為、南太平洋からの撤退が8月半ばに実施される事となった。

 尚、この作戦が開始される少し前の8月7日に、豊田副武連合艦隊司令長官が辞任した。これは、FS作戦が不可能になった事、この後の戦争に自信が無くなったなど様々な憶測が出たが、重要な時期に辞任した事は大きく批判された。しかし、この重要な時期に司令長官不在は拙い為、高須四郎が代理を務めた後、8月17日に堀悌吉が連合艦隊司令長官に親補された。同時に、後任の海上警備総隊司令長官に古賀峯一が親補された。

 堀悌吉が司令長官に就任後、直ぐに新しい国防体制の構築が御前会議で決定した。その内容は、トラック諸島を外縁に、千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、ビアク島、蘭印、アンダマン・ニコバル諸島、チッタゴンを結ぶ線を「絶対国防圏」として、その圏内に敵を入れないものだった。堀はこの構想が具体化する前から、戦線の整理と戦力の集中を行う為、南太平洋やギルバート・マーシャルからの撤退を考えていた。

 

 南太平洋からの撤退作戦は「ろ号作戦」と命名され、ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ラバウルなど南太平洋地域に展開する航空隊がポートモレスビー沖にいる米艦隊を攻撃、その間にこの地域から兵力をラバウルに撤退するものだった。その後、進出するであろう中部太平洋(マリアナ諸島やパラオなど)に展開する事になっていた。また、第二段作戦として、ギルバート・マーシャル両諸島からも12月から翌年頭にかけて撤退する予定となった。

 

 ろ号作戦は、6割の成功となった。航空機の4割が落とされるか帰還後に廃棄されるなどした為、今後の作戦に大きな影響が出るだろうと見られた。一方、陸上部隊の撤退は順調に進み、2回程米艦隊の夜襲で全滅したものの、それ以外は被害を受ける事無くラバウルに撤退した。

 しかし、第二段作戦は行う直前にアメリカ軍がギルバート諸島に侵攻した為、マーシャル諸島からの撤退のみとなった。この撤退を支援する為、航空隊と潜水艦が大挙して出撃したが、護衛空母と駆逐艦を数隻撃沈したのみであり、逆に出撃した航空機と潜水艦の半数を失った。その後の撤退には成功したものの、中部太平洋方面の航空戦力の多くを失う事となった。


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