日本はマリアナ諸島での戦闘に勝利したものの、その反面、マリアナ諸島やパラオ諸島、機動部隊の航空戦力を大幅に減少させた。この時の日本の生産力では、この地域の航空戦力の再建はほぼ不可能であり、機動部隊の再建も同様だった。
一方、マリアナ沖で勝利した事で、国内や軍内部の主戦派が攻勢を強めた。新聞社もこれに同調し、再び主戦論が幅を利かす様になった。海軍内では損害の大きさから停戦派が出たものの、マリアナ沖海戦で勝利した事で勢力は大きくならなかった。また、多くの戦力が残っており、特に大和型戦艦の3番艦「信濃」と重巡洋艦「伊吹」が1944年9月に、改雲龍型空母の「葛城」、「阿蘇」、「生駒」が年内までに竣工する事で、戦艦16、大型空母9、重巡洋艦10以上と、まだ戦えるだけの戦力が残っている事(序でに、国内の各種燃料の備蓄も2年分ある)も主戦論が強い理由だった。
東條英機首相も、この戦闘の結果を基に連合国との交渉を行えないか画策したものの、国内の主戦派の強さや連合国、特にアメリカ国内でも主戦論が強かった事でこの動きが実を結ぶ事は無かった。この事が理由か不明だが、東條首相はこの戦争の行く末に絶望したのか1944年8月に首相を辞任した。
これにより、東條内閣は崩壊し、後任の首相に小磯国昭が就任した。他に、後任の陸相に梅津美治郎、海相に米内光政が就任した。小磯内閣は戦争継続では無く、対等の状態での停戦を目的とした内閣として成立した。しかし、この後の米軍の動きから、当初の目的を果たす事は出来なかった。
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アメリカ軍は、1944年9月にビアクに、11月にパラオに上陸した。両地域とも、約1万人の兵士がおり、要塞化も進んでいた。
その様な中でアメリカ軍が侵攻してきた理由は、フィリピン攻略だった。この頃、アメリカ軍の戦略が変化し、マリアナ方面の攻略を一時棚上げし、フィリピン方面に全力を注ぐ事となった。その為、マリアナ戦で投入された戦力と大西洋から抽出した戦艦などを投入してこの方面にぶつけた。
要塞化していた事、アメリカが大量の戦力をぶつけた事で慢心した事で、当初の想定以上の時間が掛った。攻撃を開始してから日本軍の抵抗が終わるまで、ビアクで1か月、パラオで2ヵ月も掛った。
同時に、アメリカ軍の犠牲も大きく、ビアクで1500人、パラオで4000人が死亡した。負傷者や病人も死者の数倍に上った。
アメリカ軍のこの行動に対し、日本海軍は大規模な行動を起こせなかった。マリアナ沖海戦の傷がまだ癒えておらず、特に航空戦力の再建が進んでいなかった。戦艦を含む水上艦艇はある程度残っており、実際、戦艦を突入させて敵上陸部隊と支援艦隊を殲滅するという作戦が検討されたが、航空支援が無い状態で出撃するのは自殺行為と判断され実行に移される事は無かった。
尤も、妨害を目的として駆逐艦や潜水艦による襲撃は何度か行われた。当初は上手く行っていたが、その後はレーダー能力の差や戦力差から損失が相次いだ。しかし、この作戦によって最低でも1週間の時間を稼いだ。
その為、アメリカ軍が上陸しても、日本海軍の主力は出撃する事は無かった。この間、損傷した艦艇の修理、対空兵装の強化、訓練の徹底、航空戦力の再建(比較的損耗が軽かった戦闘機を中心に再建された)を行い、次の作戦に備えていた。
その機会は意外と早く訪れた。1945年1月17日、再建なったアメリカ機動部隊がレイテ沖に襲来、レイテ島周辺にある日本軍の飛行場を攻撃した。同時に、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸した。その戦力は、高速機動部隊で空母7、軽空母8、戦艦4、巡洋艦以下は多数だった。上陸支援部隊は、戦艦6、護衛空母20、巡洋艦以下多数だった。艦載機の数も合計で1500機以上に及び、その瞬間的な破壊力は絶大だった。僅か3日で、フィリピン中部の航空戦力は壊滅し、これに慌てたルソン島やミンダナオ島、台湾に展開していた部隊が攻撃を仕掛けたが、連携が取れていなかった事で、効果的な攻撃が出来なかった。
しかし、ある程度纏まった数の編隊による五月雨式の攻撃によって、大型空母1大破と撃墜・撃破200機という戦果を挙げた。その一方、フィリピン戦用の航空戦力の多くを失う事となり、戦果に見合う損失では無かった。
同日、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸を開始、これを受けて連合艦隊は捷一号作戦を発令し、リンガ泊地にいる第二艦隊(司令長官は南雲忠一中将、旗艦は「信濃」)と本土にいる第三艦隊(司令長官は小沢治三郎中将、旗艦は「大鳳」)に出撃を命じた。
尚、この時の指揮系統はそれぞれ独立して運用される事となった。これは、両艦隊の目的の違い(第二艦隊はレイテ湾に突入し輸送船団を攻撃、第三艦隊は敵機動部隊の戦力を引き付ける牽制役)、距離の遠さ、昇進時期の違い(海軍には「後任者が先任者を指揮する事は出来ない」という慣習があり、南雲は1939年11月15日に、小沢は1940年11月15日に中将に昇進している。何度か廃止が検討されたが、有耶無耶になってこの時も残っていた)などを鑑みて、両艦隊は独立した指揮系統の方が円滑に進められると判断された為だった。
18日、第二艦隊はリンガ泊地を出撃、第三艦隊も瀬戸内海を出撃した。第二艦隊はレイテ湾に、第三艦隊はフィリピン北東沖に向けて進撃した。予定では、22日にレイテ湾に突入する事になっていたが、時間的に厳しいと判断され、突入日が25日に変更となった。
両艦隊の出撃はアメリカ潜水艦に発見された。攻撃はしてこなかったし、潜水艦自体も駆逐艦や対潜哨戒機に追い掛け回されて連絡が遅れたものの、北から機動部隊、西から戦艦を含んだ打撃部隊が接近してくる事は分かった。この対処として、アメリカ軍は機動部隊の一部を北方に移動させ、偵察と警戒に当たらせた。
20日、アメリカ軍はレイテ島に上陸した。この頃、第二艦隊はブルネイで燃料の補給中だった。翌21日、全艦艇への燃料補給が完了しブルネイを出撃、一路レイテ湾に向かった。途中、パラワン諸島でアメリカ潜水艦の接触を受けたが、全て駆逐艦と軽空母「千歳」、「瑞鳳」所属の対潜哨戒機によって撃退された。その為、アメリカ機動部隊は東進してくる日本艦隊の存在は知っていたものの、その規模については分かっていなかった。
お互いは、その存在については知っていたものの、艦隊の内容については分かっていなかった。その為、両軍は日の出と共に偵察機を放ち、艦隊の詳細な位置と内容を探ろうとした。
24日8時10分、アメリカ機動部隊(第3艦隊)の偵察機が第二艦隊を発見した。日本側も9時40分、11時、12時10分にアメリカ機動部隊(の一部)を発見した。
第3艦隊は、日本艦隊を発見したは良いものの、その艦隊編制に疑問が持たれた。戦艦・重巡洋艦を主力とする水上打撃艦隊は今大戦では時代遅れとなりつつあり、軽空母が同伴しているとは言え、対空戦闘力が低いこの艦隊は囮ではないかと見られた
一方、戦艦12(「信濃」以下、大和型3、加賀型2、長門型1、天城型2、金剛型4)を中核とする大艦隊が突入してくれば輸送船団と陸上部隊の全滅は避けられない事、これを阻止出来る位置にいる第7艦隊の戦力では太刀打ち出来ないのも事実だった。大和型には過去2回新型戦艦を撃沈されており、それが3隻も存在し、16インチ砲搭載艦も5隻いる事から、水上戦闘となれば勝ち目が無いと見られた。
その為、この艦隊に対して何度か航空攻撃を掛け、撤退させる方針が取られた。これは、機動部隊を主力と見ていた為であり、水上打撃部隊に時間を掛けられない為だった。
しかし、この日5回に及ぶ空襲を行ったものの、効果的な攻撃をする事が出来なかった。この理由は、軽空母搭載の戦闘機と台湾からフィリピンに進出してきた戦闘機隊の援護があった事、各艦艇の対空火器が増設されていた事、艦隊の回避戦術が徹底していた事、第三艦隊の空襲があった事、何よりアメリカ艦載機隊の練度の低さがあった。
尤も、第二艦隊も無傷では無く、「千歳」は沈没し、「瑞鳳」も大破し自沈処分となった。他にも、重巡洋艦「開聞」が沈没し、「蔵王」と「乗鞍」が大破し、護衛と共にブルネイに戻った。他にも、大和型3隻が何かしらの損傷を受け、特に「信濃」は戦闘可能だが最高速力が23ノットに低下した。
5回目の空襲の後、第二艦隊は一時反転し、各艦艇の応急修理と陣形の再編成を行った。アメリカ軍はこの動きを確認したが、撤退と誤認した。実際には、この後17時15分に進路を戻しレイテ湾に向かった。
24日未明、第二艦隊はルソン島とサマール島を分けるサンベルナルジノ海峡に差し掛かろうとした。この時、第二艦隊司令部は敵艦隊の存在は分かっていなかったものの、海峡の状況から何かしらの妨害、特に駆逐艦による襲撃の可能性が高いと見ていた。その警戒として、艦隊から偵察機が放たれた。
その結果、海峡に魚雷艇と駆逐艦が複数存在する事が確認され、海峡出口には敵艦隊(第7艦隊、旧式戦艦7を中心とする火力支援部隊。この海戦前、機動部隊から高速戦艦2を含む艦艇を編入している)が陣取っている事も確認された。この事から、このまま進めば襲撃を受ける事は確実の為、妨害の意味で偵察機から照明弾が投下され機銃掃射を行った。
これにより、襲撃部隊は大混乱となり、陣形を大きく崩された。一部の艦艇は、銃弾が魚雷に命中して爆発、そのまま轟沈した。偵察機の攻撃で出だしを崩された襲撃部隊だが、この後は突撃してきた水雷戦隊の攻撃を受けて、活躍出来ないまま沈没するか撤退した。
第7艦隊は、当初の予定だった魚雷艇や駆逐艦による襲撃が失敗した事、照明弾によって発見された事で大混乱となった。そして、この混乱を抑えられないまま第二艦隊と衝突した。
大規模艦隊同士の夜戦、狭い海域、混乱状態、練度などの要因によって、レーダー射撃という優位を活かせないまま、第7艦隊は良い様にやられた。この海戦に参加した巡洋艦以上の艦艇の内、巡洋艦2を除いて全て撃沈された。駆逐艦も半数近く撃沈されるなど、全滅と言っていい損害を受けた。
これに対し第二艦隊は、戦艦の砲撃が大和型に集中した事、練度の低さから殆ど命中しなかった事、日本の方が夜戦に慣れていた事などから、「信濃」と「大和」に数発命中しただけで損害は皆無だった。その「信濃」と「大和」も、バイタルパートを破られる事無く、戦闘航行が可能な状態だった。
この海戦の完全勝利によって、第二艦隊を遮るものはほぼ無くなった。その後、第二艦隊は陣形を戻しサンベルナルジノ海峡を抜け、サマール島の沖西を航行、レイテ湾に向かった。
この途中、護衛空母を中核とした部隊(第7艦隊第4群第3集団、護衛空母6、駆逐艦7)を発見した。対潜哨戒を行っていた偵察機から小型空母を主体とした部隊という事を知り、高速機動部隊(=第3艦隊)では無い事は残念だったが、このまま攻撃しないのは危険な為、戦艦の艦砲射撃で一掃する事となった。主砲に三式弾を装填し、全戦艦が一斉に砲撃した。
特に狙いを定めずに撃ったが、艦隊上空に全弾飛来し炸裂した。対空散弾の役割がある三式弾が全弾炸裂し、その中に入っていたマグネシウムやゴムが艦艇に降り注ぎ、船体を貫いた。熱せられた弾片が弾薬庫やガソリン庫に命中し、全艦爆沈、全艦生存者無しという壮絶な結果となった。
これ以外にも、水雷戦隊がこれとは別の部隊(第7艦隊第4群第2集団、護衛空母6、駆逐艦8)を発見し、これに突撃している。こちらも三式弾による射撃に加え、魚雷による長距離攻撃が行われた結果、護衛空母4、駆逐艦3の撃沈が確認された。
護衛空母の機動部隊2郡を殲滅し、第二艦隊の行く手を遮るものは第7艦隊の本隊のみとなった。本隊と言っても司令部程度のもので、戦力は巡洋艦数隻と駆逐艦程度しか無かった。この程度の戦力では抵抗など無謀であり、実際、10分足らずで全艦撃沈された。
そして、正午頃に第二艦隊はレイテ湾に突入、輸送船団に対する攻撃を開始した。輸送船団の中には、弾薬やガソリンを満載した船が多数あり、1発命中しただけで大爆発を起こし、周辺にいた船も巻き込んだ。それ以外にも、兵員を満載した船や戦車を搭載したLST(戦車揚陸艦)が多数存在し、上陸すれば陸軍に大打撃を与えただろうが、野戦砲を遥かに上回る砲撃を受けた事で利用価値を発揮する事無く海に消えた。
その後、海上の目標を粗方殲滅した第二艦隊は、レイテ島に向かって砲撃した。これにより、上陸していた数万の将兵が消滅した。輸送船団と上陸部隊に対する砲撃は約2時間に及び、レイテ湾は血に染まった。
この襲撃で、アメリカ軍の陸海軍を合わせた将兵の死者・行方不明者は8万人近くに上った。道中で沈めた艦艇を含めると、更に2万人増加する。つまり、僅か数日で10万人近い将兵を失ったのである。
襲撃後、第二艦隊はスリガオ海峡を経由してブルネイに帰投した。道中、基地航空隊や護衛空母の艦載機による空襲を受けたものの、空襲の機体の数の少なさや練度の低さ、ミンダナオ島に僅かに残っていた戦闘機による護衛によって、沈没艦を出すこと無く28日に帰投した。
第二艦隊がブルネイに帰投した日、アメリカ軍はレイテ攻略を断念、全部隊に撤退を命じた。陸上戦力の不足、支援部隊の壊滅、何より内政事情が響いた。
1944年の大統領選挙は大接戦となり、僅差で民主党が勝利しウォレスは続投となった(同時に、トルーマンが副大統領に就任)。その直後にこの大敗北の為、これ以上敗北を続ける事は政権が飛びかねない事から(僅差で勝利した為、政権基盤が不安定)、民心安定や批判を躱す目的で作戦中止がなされた。
同時に、この作戦が失敗したのは海軍の責任だとして、この海戦に参加した海軍将官の殆どを2階級降格の上で予備役編入し、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将も引責辞任となった。
しかし、この大量除籍によって現場の人間の多くがいなくなり、人事不省に陥った。その為、佐官クラスを1階級上げて任務に就かせるなどして数を揃えたが、経験不足は否めず、むしろ現場の中級、下級指揮官が減少した事が大きな問題となった。この一件があり、アメリカ海軍は数ヶ月間動く事は無かった。
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第二艦隊がレイテ湾に突入していた頃、第三艦隊はアメリカ機動部隊が第二艦隊に空襲を掛けない様に牽制していた。通信を盛んに打ったり、偵察機を大量に放つなどして目立つ行為を行った。
その結果、24日正午に第3艦隊は第三艦隊を発見したが(第二艦隊の偵察機が「第3艦隊を発見した」という報告が、第三艦隊に届いていなかった)、この時までに第二艦隊に対して2回の空襲を掛けていた。第三艦隊は、偵察後に一度だけの全力攻撃(戦闘機72、爆撃機72、攻撃機72)を仕掛けた。全ては、第二艦隊に攻撃を仕掛けさせない為である。
この攻撃で、第3艦隊は混乱した。第4次攻撃隊の発進途中だった為、攻撃が命中すれば大惨事の為である。この攻撃は一度きりだった為、沈没艦こそ軽空母2に留まったが、大型空母2も被弾して大破しかけた。この攻撃で200機近くが一瞬にして破壊され、2割近くの戦力が消滅した。
一方で、日本側の被害も甚大で、攻撃隊の8割が撃墜されるか近くの友軍飛行場に降りるなどして未帰還となった。この為、第三艦隊の残存艦載機は8割が戦闘機になり(戦闘機182、その他37)、以降は防空戦に徹する事となった。
翌25日、第3艦隊は北方に大量の偵察機を放って日本機動部隊の発見に躍起になった。前日の空襲による被害が予想以上だった事、前日未明からサンベルナルジノ海峡で発生した海戦で第7艦隊が阻止に失敗し壊滅状態になったという報告を聞いて、急いで機動部隊を壊滅若しくは撤退させ水上打撃部隊を攻撃しなければ、作戦の失敗は勿論、挟撃の恐れがある為だった。
この為、第3艦隊は戦艦を含む打撃部隊を編成しレイテ湾方面に南下し、機動部隊は総力を挙げて日本機動部隊を壊滅させる事が検討されたが、この案は採用される事無く、まず全力を挙げて日本機動部隊を壊滅させ、その後全速力で南下する事となった。前者の案を採用しなかったのは、日本機動部隊が護衛の戦艦4(「扶桑」、「山城」と、中央の主砲塔2基と副砲全てを降ろし、有りっ丈の高角砲と機銃を搭載して防空戦艦に改装された「伊勢」、「日向」)と共に南下、つまり接近してきていると偵察があった事、既に高速戦艦2を第7艦隊に異動させており、こちらには高速戦艦2しか残っていない事、第7艦隊が敗れた事から打撃部隊を編成しても戦力価値は低いと判断された為だった。
その後、第3艦隊は第三艦隊に向けて3度の攻撃を行った。日本側の戦闘機の多さや対空火器の密度の高さ、頻繁の回避運動によって思っていた様な攻撃は行えなかったが、「瑞鶴」、「飛龍」、「蛟龍」、「隼鷹」、「龍鳳」が沈み、「天鳳」も飛行甲板が大破して発着艦が不可能となった(但し、水面下の損傷は無い為、高速航行は可能)。航空機も100機以上撃墜され、日本機動部隊はここに壊滅した。
しかし、アメリカ側も100機近くの艦載機を失う事となった。また、「大鳳」と「高雄」は残り、残る艦載機と戦艦4を使って巧みに第3艦隊を牽制し、第二艦隊への攻撃を躊躇させる事に成功した。
この戦闘によって、第3艦隊は第二艦隊のレイテ湾突入を阻止出来ず、ブルネイに帰投する最中に攻撃する事も叶わなかった。今海戦の内容から、第3艦隊司令長官ハルゼー大将以下第3艦隊の幕僚全員が2階級降格の上で予備役編入となった。この件で、第3艦隊司令部の再建(実質的な新設)に手間取り、機動部隊の再建もあって、最短で3ヵ月、長ければ半年は動く事が不可能となった。