架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:この世界の太平洋戦争⑧

 レイテの戦闘で劇的な勝利を果たした日本だが、その勝利を講和に活かす事は叶わなかった。それ処か、マリアナ沖に続いて大勝した事で主戦論が拡大し、講和を打ち出す事すら出来なくなった。特に、陸海軍の中堅層、特に軍政部(陸軍省、海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)に勤めている者は主戦論が強く、上層部の中にはそれに同調する者も多かった事から、軍部は意見の統一が出来なかった。加えて、大規模戦闘では勝ち続けている事が災いして、未だに戦い続けられると考えている人が多かった。

 しかし、現状では継戦能力が低下している事は事実であり、特に海軍が艦艇の建造・修復、航空隊の再編が追い付いていない事から、海軍上層部では講和論はそれなりに強かった。そして、海軍三長官(海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官)に付いている米内光政、山本五十六、堀悌吉は今こそ講和するべきと考えており、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀本部総長、教育総監)の梅津美治郎、阿南惟幾、畑俊六もこの意見には反対しなかった。

 以前であれば講和など不可能だったが、大統領がウォレスに代わった事で、戦争の終わり方を無条件降伏に限定しない事が発表された事で、講和に対する心理的障壁が小さくなった。これにより、政府閣僚では講和論が大きくなり、軍上層部でも「皇室保全が保障されるのであれば講和も可」という意見が次第に拡大した。

 

 政府と軍上層部の講和派の努力が実り、連合国との停戦の窓口を作成する事には成功した。その窓口は、ソ連を介したものを主力とし、予備としてスイスとスウェーデンに設ける事となった。しかし、ソ連は対日参戦を決めていた事から、のらりくらりと返事をするだけで事態は進まなかった。スイス、スウェーデンも同様に進まなかった。

 

 この事態を打開する為に、再度大規模な攻撃を仕掛けて、敵に更なる出血を強いる事で、交渉の打開策にする事が検討されたが、それも敵が攻めてきた場合にのみ有効な為、現状では打つ手無しだった。

 

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 マリアナ沖で勝利し、サイパン、テニアン、グアムが陥落しなかった事で、本土空襲が激化する事は無かった。日本は既にB-29に関する情報を概ね把握しており、マリアナ諸島からであれば余裕で本州は攻撃圏内に入る事が分かっていた。その為、日本軍はマリアナ沖の戦闘で凄まじい抵抗を行い、辛うじて勝利を掴んだのである。

 しかし、パラオや中国大陸奥地の成都からの空襲が月に1回あり、本土空襲が無い訳では無かった。実際、1944年6月から成都から発進したB-29による八幡空襲が行われた。被害そのものは軽微であり、数機のB-29を撃墜若しくは撃破した。

 日本は、被害よりも空襲を受けた事そのものを重視した。特に、本土防空を担う統合防空総司令部は空襲を防げなかった事の責任もあり(実際、総司令部の人員の半数が入れ替わった)、九州北部への防空戦闘機と高射砲の大量配備で当座を凌いだ。その後、本格的な防空戦闘機の開発、既存の機体の中で高度10000mに到達出来、且つ戦闘が可能な機体の増産が行われた。これにより、陸軍からは一式複座戦闘機「瞬鷹」、二式戦闘機「鍾馗(海軍名:雷電)」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」が、海軍からは局地戦闘機「紫電」が大量生産・配備が決定された。また、高度10000mまで届く高射砲の開発も急がれ、それまでの繋ぎとして九九式八糎高射砲の大量生産と、秋月型駆逐艦で採用されている九八式十糎高角砲を陸上用に転用する事となった。

 陸海軍も、本拠地を叩いてB-29を地上撃破する作戦を検討したが、日本の中国大陸における占領地域(この世界では沿岸部のみ)と成都との距離の関係から、片道攻撃しか出来ない事が判明した為、実行に移される事は無かった。

 

 日本側に多数の負担を強いる事に成功した本土空襲だが、アメリカにとっても負担は大きかった。B-29を使用出来る基地が成都とパラオ(ペリリュー・アンガウル両島)にしか無く、パラオもフィリピンやマリアナからの空襲などがある為、安全に使用出来なかった。成都の方も、補給の難しさ(アメリカから見て地球の反対側、日本海軍がベンガル湾で行った通商破壊)から大規模出撃が月に1回出来ればマシな方だった。

 そもそも、この2つの基地の規模が小さい事(100機も駐機出来ない)、日本から遠い事から、これ以上の規模の拡大は不可能だった。

 一度、漢口に進出して1944年12月8日に佐世保と呉を空襲したが、九州北部と山陽の防空戦闘機隊と高射砲によって手痛い損害を受け、帰還後は日本軍が陸海軍共同で送り狼として送り込んだ爆撃隊の空襲を受け、漢口基地壊滅と全てのB-29の地上撃破という大損害を出した。その結果、空襲を受けない成都に逆戻りとなった。

 

 日本本土防空戦は、見かけ上は両者一進一退の攻防を繰り広げていた。実際は、日本軍は広大な防空圏内に大量の戦闘機と高射砲を揃えなければならない負担が大きく、日に日に日本近海に増加する機雷で徐々に締め上げられていた。

 一方のアメリカ軍も、基地機能の拡大が不可能な事からこれ以上の空襲の規模の拡大が不可能で、それにより空襲を仕掛ける機体が常に少数となる為、出撃機体の1割は撃墜されるか帰還後に廃棄処分になるなどの被害を受けていた。

 

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 本土空襲の被害は大きいものでは無いが、機雷敷設の方が被害は大きかった。B-29が日本近海に大量の機雷をばら撒いた。多くが磁気感知式であり、他にも水圧探知式やなど多くの機雷がばら撒かれた。

 これにより、横浜や名古屋、神戸や博多など太平洋側や中国大陸に近い主要港が機雷で封鎖され使用不可能となった。一応、日本海側の舞鶴や新潟、東北、北海道の機雷封鎖が行われていない為、海運の完全な封鎖とはならなかった。

 しかし、効率の面では悪くなったのは事実で、今まで海運で行っていた輸送の一部を鉄道にした事で、輸送時間が長くなった事、一度に運べる量が減少した事、何より主要幹線の輸送量が限界になった事で、既存の輸送に皺寄せが来た事など、多くの悪影響が出た。

 

 海軍と海上警備総隊は、共同して機雷駆除を行ったが、装備の不足や機雷の性能から、機雷を駆除する船舶の方が、逆に機雷によって撃沈される事が多かった。その為、老朽船を機雷源に突入させて自爆させたり、非鋼鉄船を掃海艇として運用するなど様々な策を取った。

 

 特に大きかったのが、コンクリート船の活用だった。コンクリートであれば磁気感知式に反応しない、船体が破損してもコンクリートで修復出来る、鋼鉄よりも破損に強いなど、対機雷には有効だった。材料となるコンクリートも国内で供給出来(但し、石灰からセメントに精製する設備の限界という問題があったが)、重要資源である鋼材の節約にもなるなど、利点は大きかった。燃費の悪さや排水量の割に運べる量が少ないという欠点もあったが、非常時という事で割り切られた。

 このコンクリート船は1944年6月頃から配備され、同年末までに大量配備が行われた。上記の掃海艇以外にも、本来の近海用輸送船として活用された。これにより、日本近海だけでなく朝鮮や満州、華北との航路にも活用される様になり、機雷で封鎖された港湾でも多少利用出来るとあって活用された。

 

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 日本本土空襲が千日手の状態の中、1945年2月25日に帝都東京に対する大規模空襲が行われた。これは、浅草区や深川区、本所区など下町が対象となった。木造家屋の密集地帯である為、大きな被害が出た。実際、下町の多くが被災し、5000人近い死者を出し、数万人の住宅喪失者を出した。

 

 しかし、アメリカ軍からすれば、この作戦は政治的には兎も角、純軍事的には失敗だった。空襲を仕掛けたのが僅か70機程度(この時の為にペリリュー・アンガウル両島の飛行場を限界まで拡大した)で、これ以上の戦果の拡大が不可能だった。また、パラオ東京間の距離が約3100㎞とB-29の性能ギリギリ(理論上だと、約7トンの爆弾を搭載して6600㎞を飛行可能だが、エンジンの信頼性や迎撃などを考えると、爆弾搭載量はこの半分程度となる)の出撃となった。他にも、途中に目印になるものが無い事(パラオ東京間だと硫黄島ぐらいしか無い)、ナビゲーターの役割をする潜水艦が護衛艦や対潜哨戒機に攻撃されて役割を果たせなかった事、何よりレーダーに探知されて日本本土に辿り着いたら高射砲や戦闘機による大規模な迎撃に遭った。

 これにより、出撃した機体の1割以上の9機が撃墜され、残る機体の殆ども被弾し、その内の28機が修理不可能な損害を受けた。つまり、1度の出撃で戦力の半分を失ったのである。しかも、この時の為に備蓄していた燃料と爆弾をほぼ全て使い切ってしまい、向こう1ヶ月間は出撃不可能となった。

 

 東京空襲によって、日米両軍は大規模作戦を検討した。

 日本軍は、B-29の策源地の内、攻撃が可能なペリリュー・アンガウルへの攻撃を検討した。しかし、航空攻撃では被害が大きくなる割には成果が挙げられない為、戦艦を突っ込ませて灰燼に帰そうというものだった。内容そのものは捷一号作戦を応用すれば良い為、作戦案の作成は1か月程度で完了した。また、この頃には損傷が軽い艦艇の修理が軒並み終わっており、燃料もまだ備蓄が残っており、油槽船の手当てさえ付けば、4月初頭には行える状況だった。

 アメリカ軍は、B-29の基地として再度のマリアナ諸島攻略を検討した。前回は失敗したが、今回は前回以上の戦力を揃え(そしてそれが実行出来るだけの戦力がある)、日本軍の抵抗も小さいと見られる為、今回は成功すると見られた。

 また、護衛戦闘機の基地兼航路の目印として硫黄島の攻略も同時に行う事が検討されたが、同時に行うには戦力不足と判断され、マリアナ攻略後に実行する事となった。予定では、4月1日にマリアナ諸島攻略開始、7月1日に硫黄島攻略開始となった。


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