架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:この世界の太平洋戦争⑨

 1945年4月1日、アメリカ軍が再びサイパン島に襲来した。襲来したのは、高速機動部隊の第5艦隊と火力支援部隊の第7艦隊だった。第5艦隊の戦力は、ユナイテッド・ステーツ級空母(史実のミッドウェイ級空母)1、エセックス級空母8、インディペンデンス級軽空母5、ライト級軽空母(史実のサイパン級空母。この世界ではボルチモア級重巡洋艦から改装)3、アイオワ級戦艦4、アラスカ級大型巡洋艦2を中核とした。他にも、巡洋艦、駆逐艦は全て大戦中に竣工した艦艇で構成されていた。また、第7艦隊の戦力は、旧式戦艦3、護衛空母12を中核とした。

 

 これに対して、サイパン島の日本軍は、1944年6月の一度目の侵攻以降、満州の2個師団をこの地に移動させている。また、大量の武器・弾薬・食糧・施設建設用の資材を輸送した為、前回の戦闘で消耗した分の補充は完了していた。そして、防御施設の建設も進み、『半年はこの地で戦える』と判断された。

 この序でに、サイパン島に残っていた民間人の疎開も行われ(前回の戦闘前にも疎開したが、4割程度残った)、内地に帰還した。

 しかし、航空戦力については多く補充されず、戦闘機が100機近く駐留したものの、練度の問題があった。実際、サイパン空襲の際、40機程度落としたものの、全ての機体が撃墜されるか地上撃破されて戦力価値が無くなった。

 

 撃退される度に規模が拡大していくアメリカ機動部隊だが、その実態はお寒いものだった。大規模戦闘の度に多くのセイラーとパイロットを消耗し、消耗しては新兵の補充を繰り返していた。その為、未だにセイラーや艦載機パイロットの練度が低いままで、特に尉官、佐官クラスの中堅層が大量に消耗した事が痛かった。

 ソフト(将兵)の方も問題だったが、ハード(艦艇)の方も問題があった。緒戦で多くの空母を失い、戦争中盤には空母と戦艦を多数失い、戦争中に多くの巡洋艦と駆逐艦などの補助艦艇を失った。これにより、アメリカ軍では慢性的に艦艇が不足していた。補助艦艇については1945年までに多数竣工するが、戦艦や大型空母については1946年以降にならなければ数が揃わないと見られた。

 特に戦艦については、開戦初期に航空戦力が主戦力になると見られた事で、両用艦隊法で計画されたモンタナ級の建造が後回しにされ、アイオワ級の5、6番艦の建造中止も取り沙汰された。しかし、1943年6月の第二次ミッドウェー海戦によって戦艦部隊が壊滅状態になった事、その中で日本の新型戦艦(大和型の事)の存在から、戦艦の整備も行う必要があるとされ、残るアイオワ級とモンタナ級の整備が急がれた。特に、マリアナ沖、レイテ沖の後には最重要戦力と判断されて、戦力化が急がれた。

 しかし、いくら急いでも、モンタナ級が竣工するのは1946年以降と見られ、現状では間に合わなかった。また、マリアナ沖とレイテ沖で5隻以上の戦艦が一戦で失われるなど想定しておらず、現状では高速戦艦4と旧式戦艦3の合わせて7隻しかいなかった(大型巡洋艦を含めても9隻)。

 

 これに対して日本海軍は、サイパン島襲来を受けて4月3日に横須賀から第二艦隊が、呉から第三艦隊が出撃した。第二艦隊は「大和」を旗艦に戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦2、駆逐艦12からなり、第三艦隊は「大鳳」を旗艦に空母4、戦艦2、重巡洋艦4、軽巡洋艦4、駆逐艦16からなっていた。この時期、第二艦隊司令長官は宇垣纒中将が、第三艦隊司令長官は山口多聞中将がそれぞれ就任していた。

 上記以外にも、戦艦「信濃」や「扶桑」、空母「天鳳」や「鞍馬」などが呉や横須賀に残っていたが、修理中や竣工直後で練度の問題があるなどして動かせなかった。1944年半ば以降、空襲圏内に入っていた佐世保の使用が難しく、マリアナ沖やレイテ沖で多数の艦艇が損傷し、損傷の度合いが軽い艦艇から修理を優先した為、修理が遅れていた。

 

 第二、第三両艦隊の目的はシンプルで、第二艦隊はサイパン島に突入し、敵上陸部隊を艦砲射撃で粉砕、第三艦隊は第二艦隊の上空を援護するものだった。既に、日本海軍には大規模海上航空戦を行える航空隊、特に艦載機部隊が殆ど無く、実質的な戦力として存在するのは水上打撃部隊しか無かった為、この様な作戦案しか採れなかった。

 

 4月6日、ここまでは第二・第三両艦隊は何事も無くマリアナ諸島北西沖に進出した。アメリカ海軍も日本艦隊が本土から出撃した事は潜水艦からの偵察で把握していたが、駆逐艦や航空機の妨害で具体的な編成を掴めず、その後の移動も掴めなかった。しかし、サイパン島に向かっている事は予想出来た為、第5艦隊は地上支援を取り止め、空母部隊と打撃部隊に分けた(同時に、打撃部隊に第7艦隊を臨時編入)。空母部隊は北東方面に、打撃部隊は北西方面に北上した。

 しかし、空母部隊は北上する事が出来なかった。大型機による夜襲を受け、大損害を負った為である。これは、陸海軍合同で行われたもので、硫黄島から出撃した四式重爆撃機「飛龍」80機と陸上爆撃機「銀河」50機、四式大型陸上攻撃機「連山」と四式大型重爆撃機「光龍」合わせて50機による特殊攻撃だった。これらの機体には、通常の爆弾では無く自動追尾誘導弾、現在で言う対艦ミサイルを搭載していた。

 

 この攻撃で使用されたのは、「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁自動追尾誘導弾と、「連山」に搭載されたイ号一型戊自動追尾誘導弾である。イ号一型誘導弾は、陸軍によって1944年から開発が始まった。史実では甲から丙の3種類だが、この世界では4番目の丁が開発された。イ号一型丁は陸海軍合同で開発され、陸軍の持つ赤外線誘導装置と、海軍が持つ大型徹甲弾、航空機メーカーが開発したジェットエンジンを組み合わせて1944年3月から開発された。紆余曲折を経て、1944年12月に試験が完了した。その後、何度かの小改良が加えられ、1945年2月に製造が開始され(同時に、大型化したイ号一型戌も生産開始)、この時まで丁と戌合わせて300発が完成した。

 四式大型陸上攻撃機「連山」は、中島飛行機が開発した4発機である。史実では、1942年から計画がスタートし、1944年10月に試作機が完成した。しかし、エンジンの不調や戦局の悪化によって開発が進まず、4機が完成したのみであり(これ以外に生産中の4機があった)、1機を残して全て空襲で喪失した。戦後、アメリカ軍に残った1機が修理してアメリカ本土に移送されたが、エンジンの不調によって研究は殆ど行われず、朝鮮戦争中に廃棄処分となった。

 この世界では、1943年の実機開発の際、陸軍から共同開発したいと申し出があった。海軍もこれを承諾し、中島飛行機と川崎航空機による共同開発が行われた。川崎も、陸軍からキ85(陸上攻撃機「深山」を改良した機体。計画のみ)を依頼されていた事もあり研究ノウハウがあった。これにより、1944年7月には試作機が完成した。エンジンの問題があったものの、1944年末には量産体制が整った。これにより、海軍では四式大型陸上攻撃機「連山」として、陸軍ではキ91・四式大型重爆撃機「光龍」として採用され、この作戦用に合計50機が緊急に生産された。

 

 「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁100発と、「連山」と「光龍」に搭載されたイ号一型戌50発が、空母部隊から120㎞離れた所から放たれた。赤外線誘導の為、狙った目標に命中させる事は難しく、製造不良などで全ての誘導弾が目標に到達しなかった。

 全体として8割の命中だったが、その効果は絶大だった。空母部隊は、突然の衝撃と大火災によって大混乱となった。航空機が途中で引き返したと思ったら、急に高速で接近してくる飛翔体を多数捉え、それから暫くして後ろから火を噴いて急速に接近してきた。そして、1分も掛からずに艦艇に命中して大火災が発生した。避けようとしても、目が付いているか如く追ってくる事も混乱を助長した。

 結果、エセックス級空母2、インディペンデンス級軽空母3、サイパン級軽空母1、巡洋艦4が沈没するか自沈処分となり、空母「ユナイテッド・ステーツ」、エセックス級空母3、インディペンデンス級空母2、サイパン級空母1、巡洋艦5が中破以上の損害を負った。これらの損害と回避行動の結果、艦隊の陣形は滅茶苦茶となり、艦隊の再編成と損害の確認の時間が費やされた事で北上が不可能となった。

 その後、正午前には再編成が完了して北上を再開したが、航空戦力の半数以上を損失した事、偵察を開始する時間が遅れた事で、夕方に第二艦隊を発見したが攻撃隊を出す事が叶わなかった。その為、第二艦隊の迎撃は打撃部隊に係っていた。

 

 日付が7日に変わるまで後2時間となる頃、第二艦隊と打撃部隊が衝突した。日本の方が戦艦の数が多く、練度も勝っていた。一方のアメリカは、電子機器の質の高さを活かして、夜戦や練度の不利を補おうとした。

 しかし、結果は日本側の大勝だった。この戦闘では、電子機器の優劣よりも、練度の差による瞬間的な反応の差、太平洋で活躍出来る船体かどうかが勝敗を分けた。

 確かに、アメリカの方が電子機器の性能が高かったが、セイラーの方が電子機器の扱いに慣れていなかった。また、練度の低さから咄嗟の判断が難しかった。これにより、被弾した時や回避の時に時間が掛り被害が拡大する事が多かった。

 また、アメリカ海軍の艦艇の特徴として、大量の対空兵器と重装甲がある。これにより、対空戦闘に強く打たれ強いという利点があるが、一方でトップヘビーになりがちという欠点でもある。この戦闘では短所の方が目立った。戦闘が行われた当日、マリアナ諸島付近では小規模の台風が発生しており、海がやや荒れていた。その為、アメリカの艦艇は波によって揺れる事が多かった。これにより、命中率が大きく低下した。

 一方の日本側は、元々日本近海やマリアナ諸島などで艦隊決戦を行う事を目的とした艦隊編制や艦艇の設計を行ってきた為、この地域で戦う事を苦にしなかった。それに、駆逐艦や巡洋艦は兎も角、戦艦はアメリカのと比較して艦幅に余裕がある為、安定性では勝っていた。これが命中率にも表れ、日本の方が命中する数が多かった。また、日本はセイラーの損失がアメリカよりも少ない為、未だに高い練度を持っていた事も、瞬時の判断や細かい調整で優位に立った。

 この戦闘で、アメリカは戦艦4、大型巡洋艦2、巡洋艦7などを失い、それ以外の艦艇も大小の損傷を負いつつ撤退した。日本は、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦3を失ったものの、戦艦は最大でも中破の損傷を負っただけで失わなかった。

 

 その後、日本軍は進撃を再開した。そして、4月7日午前2時、第二艦隊はサイパン島沖に到達、停泊中の船舶と上陸部隊に対して攻撃を開始した。第二艦隊を阻止する為の戦力は、多くを打撃部隊に編入した為、巡洋艦2と駆逐艦10程度しか存在しなかった。後は、レイテの時と同様に抵抗する戦力を捻り潰し、輸送船団と上陸部隊に対し攻撃を開始した。硫黄島からの報告で、敵機動部隊は大損害を受けて暫く行動出来ない事を知った為、当初の予定では30分で切り上げる所を、1時間掛けて攻撃した。

 これにより、敵輸送船団の8割が沈没、陸上部隊も半数以上が戦死するか戦闘不能な程の損害を受けた。これに呼応して、サイパン島の防衛部隊が総反撃に移り、アメリカ軍は再びサイパン島から叩き出された。

 

 午前3時、第二艦隊は攻撃を終了し、隊列を整えて日本本土への帰還を始めた。敵上陸部隊を殲滅し、サイパン島を守り切った事で、日本側は作戦を完遂した。

 しかし、8時15分、第二艦隊は再編成が完了した機動部隊から放たれた偵察機に発見された。前日の襲撃で展開が遅れていたが、その後の反応は素早かった。偵察機が発見した報告を受け取ると、既に甲板上に展開していた攻撃隊を発艦させた。そして、9時30分、第二艦隊の南東方面の上空に機動部隊から放たれた攻撃隊が現れた。

 それと同じくして、北方からも航空隊が接近してきた。第三艦隊から放たれた制空隊だった。約60機のこの航空隊は、当時の日本が送り出せる最後で最良の艦載機であった。その機体だが、ゼロ戦では無く四式艦上戦闘機「烈風」だった。

 

 艦上戦闘機「烈風」は、ゼロ戦の後継機として計画された。史実では、「雷電」の設計・開発、ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良に人や時間が取られた事で遅れ、試作機が完成しても今度はエンジンの問題から予定性能を発揮出来なかった。

 この世界では、陸海軍の航空機の共同開発が早期に行われた為、三菱による「雷電」の開発が行われなかった(中島の「鍾馗」がこの世界の「雷電」)。その為、三菱は「烈風」の設計・開発に注力出来た。ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良もあったが、史実より人的資源や生産設備に多少余裕がある為、1943年内に試作機が完成した。史実で問題になったエンジンも、誉エンジンの性能の安定化で解決し、1944年8月に四式艦上戦闘機「烈風」として生産が開始された。

 しかし、ゼロ戦以上に複雑化した設計によって生産に時間が掛り、レイテ沖海戦の時までに配備が間に合わなかった。その後、一定数以上の数と訓練によって、1945年から実戦配備される様になった。そして、この時が初の実戦となった。

 

 アメリカ軍は、初めて見る「烈風」とその強さに戦慄した。20㎜機関砲4門という大火力と日本機らしからぬ防御力、ゼロ戦並みの運動性とF6Fヘルキャット並みのスピードを持つ機体が一斉に襲い掛かった。これにより、一撃で30機近くが落とされ、ヘルキャットは追い掛け回された。一部は攻撃隊に向かい、攻撃隊も大きく体制を崩された。これにより、組織的な攻撃が出来なくなり、艦隊に対する攻撃が五月雨式となった。

 その為、第二艦隊も対処が容易となり、「大和」と「武蔵」に攻撃が集中したのも幸いし、他の艦隊は至近弾が数発あるか無いかの被害で済んだ。「大和」と「武蔵」も爆弾1~2発と魚雷を1発喰らった程度で、戦闘航行は可能だった。

 この攻撃で、第二艦隊は「大和」と「武蔵」以外の被害は無かった。第三艦隊の制空隊は7機が落とされたが、代わりに攻撃隊を約70機落とした。

 その後、制空隊は燃料の関係から帰還し、その直後に第二波攻撃隊が接近したものの、機動部隊と第二艦隊との距離の問題や出せる機体の数から、大規模な攻撃とならなかった。それでも、「大和」と「武蔵」、「加賀」と「土佐」に攻撃が集中し、「大和」と「武蔵」は中破した。

 その一方、第二次攻撃隊も被害が大きく、約30機が対空砲火に撃ち落された。これは、大量に増設された対空機関砲や高角砲、対空ロケット弾の存在が大きかった。

 時間の関係からこの日の攻撃はこれまでとなり、以降は機動部隊や硫黄島からのエアカバーによって守られた。

 

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 二回目のマリアナ諸島攻防戦も、日本側が勝利した。アメリカ軍は、この攻勢で再び戦力を消耗した。特に、戦艦の消耗が酷く、これが無ければ地上支援や日本艦隊の接近阻止すら不可能な程だった。

 これに対して、大量の艦載機をぶつけて対処すればいいという意見もあったが、艦載機の方も練度や空母の問題があるからそう簡単にいかなかった。何より、航空機の方が天候に左右されやすい事、時間の制約が大きい事がネックだった。

 

 正面戦力の問題があったが、何より大きかったのが厭戦機運の高まりと戦費だった。開戦以来、対日戦で大敗を喫している事、1944年以降、優勢であるにも関わらず大きな犠牲を払い続けている事は、元々高くなかった戦意を下げさせた。

 これにより、戦時国債の購入が当初予想よりも鈍り、1944年末の予想では、1945年半ばには戦費が戦時国債の購入量に追いつかなくなり、戦費不足で戦争継続が難しくなると判断された。そして、1945年4月の第二次マリアナ攻略作戦が失敗した事で、国債の購入は急激に減少した。これにより、日本だけでなくアメリカも経済的に戦争を続ける事が難しくなった。

 

 経済事情や戦争方針の変更、第二次マリアナ戦の大敗もあったが、何より国内にソ連のスパイが大量にいる事が判明した事で、アメリカは遂に日本との停戦に踏み切った。

 ウォレスが大統領に昇格して直ぐ後に、不透明な資金の動きや情報の流れがある事に気付いた。それを内密に調査した所、ソ連と繋がっている人物が多数存在する事、そしてその人物達が国務省や財務省の高官に紛れている事が判明した。つまり、アメリカの国家機密はソ連に漏れている事であり、アメリカの戦争方針はソ連に操られている事でもあった。

 この時、アメリカとソ連は連合国として共にドイツと戦っていた。その一方で、アメリカへのスパイ行為は容認されるものでは無かった。よく考えれば、ソ連の社会主義・共産主義はドイツの国家社会主義・全体主義と大差無く、アメリカの自由主義・民主主義とは相反するものだった。今は共通の敵がいるからいいものの、それが終わった後は対立関係になると見られた。そして、ソ連の後背を突ける日本は重要な存在だと気付いた。

 

 日本をソ連に対する防波堤とする為には、これ以上の戦闘を停止して、速やかにアメリカの影響下に置く必要があった。その為、5月26日にアメリカは対日停戦を対象としたワシントン宣言を打ち出した。主な内容は、「日本軍の無条件降伏、皇室護持の容認、民主化の実施、南樺太を除く全ての海外領土の放棄、それらの監視を目的とした本土へのアメリカ軍の駐留」だった。

 日本側は、この宣言を受諾する事が御前会議で決定された。皇室護持という重要な問題がアメリカ側から容認されている事から、日本としては受諾し易かった。それ以外の内容については、厳しいものがあるが現状では打開する手段が無い事から、飲む以外に方法は無いとして受け入れる事となった。受け入れ予定日は、6月5日とされた。

 

 それでも、国内にはワシントン宣言の受諾を拒否する者がいた。ここ数戦で勝利を重ねているのだから、更に勝利を重ねれば対等な講和条約を結べるという論拠だった。

 上層部はこの意見は『馬鹿げている』と一蹴したが、中堅層や若手は受諾を拒否しようとしてクーデター計画を打ち立てた。そして、近衛師団の一部は6月4日にクーデターを起こした。目標は、皇居、陸軍省、参謀本部、東部軍管区司令部、警視庁、日本放送協会だった。

 しかし、クーデターは失敗した。目標のワシントン宣言を受諾する玉音盤の入手が叶わず、クーデター後の政権擁立の為の人物の説得にも失敗した。そして、兵が従わなかった事でわずか半日で鎮圧された。

 

 6月5日正午、ワシントン宣言を受諾する旨の玉音放送が放送された。これにより、日本はアメリカとの停戦が実現した。その後、7月2日に正式に終戦となり、同時に他の連合国との停戦が行われた。3年7か月にも及ぶ長い戦争が終わったのである。


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