架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:この世界の戦時中に開業した鉄道

〈北海道〉

・改正鉄道敷設法第128号(戸井線)の開業

 戸井線は、函館本線の五稜郭から分岐して、湯の山を経由して戸井に至る路線として計画された。目的は、青函航路の代替として、青函海峡で最も距離が短い大間戸井間に航路を設立(大戸航路)、その北海道側の連絡鉄道として計画された。

 史実では、1937年から工事が進められ、9割方の路盤は完成したものの、1943年に工事が中止された。その後、青函トンネル建設の際、東側ルートとして検討されたものの、地質や水深の問題から現行のルートが選択された。以降、戸井線は開業する事無く放棄された。

 

 この世界では、戦況の悪化が緩やかだった事、北海道の食糧や石炭などの各種資源を大量に本土に運ぶ目的から、大戸航路の早期整備と戸井線、大間線の早期開業が推進された。途中、工事の中断があったものの、1945年4月には五稜郭~戸井が開業した。

 開業後直ぐに終戦を迎えた為、最大の目的だった青函航路の代替は失われたが、沿線開発という目的は果たされた。今まで交通機関がバスだけだった地域に鉄道が開業した事は大きく、函館市街の通勤・通学輸送に役立てられた。青函トンネルの計画が立った際、東側ルートとして検討されたものの、史実と同じく検討止まりに留まった。

 国鉄民営化後はJR北海道に移管され、通勤・通学輸送だけで無く、湯の川温泉への観光、函館空港の利用客などの輸送に活用された。

 

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〈東北〉

・改正鉄道敷設法第1号(大間線)の全通

 大間線は、大湊線の下北から分岐して、大畑、下風呂、大間を経由して奥戸に至る路線として計画された。目的は戸井線と同じで、こちらは本州側の連絡鉄道として計画された。

 

 史実では、1939年に下北~大畑が大畑線として開業し、大畑~大間~奥戸の工事が進められた。しかし、戦局の悪化や資材・労働力不足によって1943年に工事は中断された。その後、戸井線と同じく青函トンネル計画から外され、工事は二度と再開される事は無かった。大畑線も、1985年に下北交通に移管されたが、2001年に廃線となった。

 この世界では、戸井線の時と同様に工事が促進された。これにより、戸井線より一足早い1945年2月に全線が開業した。同時に、大間港の工事も行わたものの、直後に終戦となった為、港の建設工事は5%程度で中断された。

 

 戦後は、青函航路の代替としては殆ど活用されず(但し、大戸航路そのものは存続した)、沿線から産出される木材資源の輸送が主要目的となった。青函トンネル計画も、検討段階で外された。

 国鉄再建時、大間線は第2次特定地方交通線に指定されたものの、むつ市や大間町が沿線の観光開発や大間原発の対価などを理由に第三セクターとして存続する事が決まり、1986年12月に第三セクター「大間鉄道」として存続する事となった。

 

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〈関東〉

・東武熊谷線の全通

 東武熊谷線は、熊谷~妻沼を結んでいた路線である。これは、中島飛行機への工員・物資輸送を目的に敷設された。戦時中に敷設された為、秩父鉄道の複線用地を利用する、「戦後に立体交差にする」という条件の下、国道を平面交差するなどした。本来は熊谷~西小泉を予定していたが、妻沼~西小泉で利根川を超す鉄橋を建設中に終戦となった為、全通する事は無かった。

 軍の命令で建設した事、それ故に集落から離れて敷設された事、他の東武線と接続していない事から、常に赤字続きだった。沿線からは全通の要請が相次いだが、東武側は廃止したいという話が何度も出た。

 結局、1983年6月に東武鉄道の合理化(この時、最後まで残った非電化路線だった)、熊谷駅の橋上化及び再開発を理由に廃止となった。

 

 この世界では中島飛行機、及び中島飛行機と繋がりがある大室重工業が工事を手伝った事で建設が進んだ。これにより、1944年11月に妻沼~西小泉が開業して全通した(熊谷~妻沼は1943年12月に開業)。

 戦後、熊谷線は沿線開発に活用される事となった。また、1958年に熊谷周辺のルートを変更し、南口から北口に乗り入れた。これにより、秩父鉄道から借りていた土地は返却された。

 1966年には、西小泉~竜舞と熊谷~東松山が開業し、全線複線化が行われた。同時に、熊谷線は東松山~熊谷~西小泉~太田となった。以降、熊谷線は池袋と上毛地域を結ぶ路線となり、池袋~熊谷・前橋で国鉄、後のJRと競合関係を築いていく事となる。

 

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〈東海・北陸〉

・改正鉄道敷設法第70号(渥美線)の全通

 豊橋鉄道渥美線は、豊橋に隣接する新豊橋と渥美半島の中程の三河田原を結ぶ路線である。現在は、豊橋と田原市を結ぶ通勤・通学路線だが、かつては渥美半島先端の伊良湖には陸軍の試砲場への延伸を目指していた。

 その為、前身の渥美電鉄時代に免許を取得しており、黒川原まで延伸したが、そこから先は延伸出来なかった。戦時中、延伸区間を鉄道省が建設したが(全通後は国有化する予定だった)、こちらも戦局の悪化で進まず、終戦によって消滅した。この間、三河田原~黒川原は休止となり、1954年に廃止となった。

 

 この世界では、1944年5月に黒川原~堀切が開業した。渥美電鉄に合わせて電化での開業となった。同時に、渥美電鉄を買収して「渥美線」となり、新豊橋は豊橋に統合された。運用は、飯田線と共用になった。

 戦時中は、伊良湖の軍施設への輸送に活用されたが、終戦によってその目的は失われた。戦後は、沿線の農村部から食糧の輸送に活用され、高度成長期以降は沿線の宅地化が進んだ事で通勤・通学路線として活用された。

 

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〈近畿〉

・改正鉄道敷設法第78号(篠山線)の全通

 篠山線は、福知山線の篠山口から分岐して、篠山、日置、福住を経由して山陰本線の園部に至る路線として計画された。目的は、沿線で産出されるマンガン鉱の輸送(兵庫、京都北部はマンガン鉱が薄く広く広がっている)、山陽本線のバイパス(山陽本線は海岸沿いを通る為、攻撃を受けやすい。同様の目的で敷設されたのが二俣線)があった。

 

 史実では、1944年に篠山口~篠山~福住が開業したものの、福住~園部は未開業となった。篠山駅が篠山市街から遠く離れている事、盲腸線である事から利用客が増加せず、赤字83線にピックアップされ、そのまま1972年に廃線となった。

 この世界では、篠山鉄道(篠山(後の篠山口)~篠山町を結んでいた鉄道。史実では篠山線開業と同時に廃線)を国有化して「篠山線」とし、そこから延伸した。これにより、工事の負担が多少緩和され、戦況が史実より有利に進んでいた事から、工事の中断はされなかった。そして、1944年に篠山(篠山町から改称)~福住が、1945年の終戦前に福住~園部が開業して篠山線は全線開業となった。

 

 当初の目的である山陽本線のバイパスや沿線のマンガン鉱開発は終戦と共に消滅したが、地域開発には大きく貢献した。特に、篠山駅が市街地に近い事、全線が開通して盲腸線とならなかった事は大きく、この世界ではギリギリ特定地方交通線に指定されなかった。これにより、篠山線は国鉄民営化後も存続した。

 

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・改正鉄道敷設法第79号(小鶴線)の開業

 小鶴線は、山陰本線の殿田(現・日吉)から分岐し、美山、鶴ヶ丘、名田庄を経由して小浜に至る路線として計画された。目的は、京都と小浜を一本で結ぶ事(伝統的に、京都と小浜の結び付きは強い)、沿線の木材資源や鉱物資源(マンガンやタングステンが薄く広範囲に存在)の輸送だった。

 史実では、1922年に改正鉄道敷設法に掲載され、1928年には工事線に昇格した。しかし、この後に来た世界恐慌で建設は先延ばしとなった。戦時中は、建設は間に合わないと判断されたのか、省営自動車(国鉄バス)が開通した。

 戦後も建設計画が上がったものの、モータリゼーションの急速な進展や産業構想の変化、林業の衰退、沿線の過疎化に若江線(近江今津~上中)への期待の高まりで、建設への関心は低下していった。極め付けが、国鉄再建法による建設予算の凍結と国鉄民営化による鉄道敷設法の失効だった。これにより、小鶴線が開業する事はほぼ無くなった。

 

 この世界では、1939年から工事が進められた。準戦時体制になるにつれ、マンガンやタングステンといった金属の需要が急増した。これを受けて、国内の鉱山開発が進められ、以前から有望視されていた小鶴線沿線の鉱山開発も進められた。そこへの資材搬入、産出した鉱石の輸送、増加するであろう京都~舞鶴のバイパス線を目的に、小鶴線の建設が行われた。

 工事中に戦争開始となった為、元々の工員が出征するなどして人員不足が深刻化した。その為、1942年に一度建設中断となったが、朝鮮人や中国人が労務者として大量に送られてきて、鉄道連隊の協力もあり、工事が再開された。山岳地帯を通るが、戦時中の為、多数のスイッチバックやループ線で対処した。また、早期開業の為に規格も大きく落とされた(当初は丙線規格だが、後に簡易線規格に落とされた)。これにより、1945年3月に全線が開業した。

 

 開業したものの、直ぐに終戦となった。戦後は、沿線の木材資源や小浜からの水産資源の輸送に活用されたが、規格の低さや災害の多さ(大雨になると土砂崩れが頻発した)がネックとなった。

 それでも、京都と小浜を結ぶ最短ルートである事から、急行の運転も行われ、これに合わせて路線の規格が上げられた(正確には、当初の丙線規格に戻した)。また、沿線の観光開発も進んだ事で、沿線の過疎化が史実より緩やかになった。

 その後、林業の衰退やモータリゼーションの侵攻によって貨物輸送は無くなり、残るはローカル輸送と観光輸送のみになった。また、国鉄再建時に第2次特定地方交通線に指定されたものの、観光開発に活用出来る事、急行の運転が多かった事から第三セクターへの転換が行われ、1987年4月に「丹若鉄道」に転換された。

 

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・八日市鉄道(近江鉄道八日市線)の旅客輸送廃止

 八日市鉄道は、1913年に近江八幡~八日市口(1919年に新八日市に改称)が湖南鉄道として開業した事から始まる。その後、1927年に琵琶湖鉄道汽船(現在の京阪石山坂本線と琵琶湖汽船)に合併されるが、1929年に旧・湖南鉄道線が八日市鉄道に譲渡された。譲渡された翌年、飛行場のある御薗まで延伸し、全線が開業した。

 戦時中の1944年に近江鉄道に合併され、「近江鉄道八日市線」となった。戦後の1946年、近江鉄道本線との接続を目的に新八日市~八日市が開業し、1948年には軍の解体で飛行場への路線の価値が無くなり、新八日市~御薗が休止となった(1964年に正式に廃止)。

 

 この世界では、八日市鉄道に沿う形で1940年に名古屋急行電鉄(後の京阪電気鉄道名古屋線)が開業した。これにより、八日市鉄道の旅客輸送量が大きく減少した。

 戦時中、不要不急線に指定されかけたものの、飛行場への物資輸送という目的があった為、廃止にはならなかった。しかし、旅客輸送は休止となり、貨物輸送のみとなった(この時、近江鉄道に合併)。

 戦後、旅客輸送を復活させる事が検討されたが、京阪名古屋線との競争や本線復興に注力する事から、終戦直後から休止状態となり、1958年に正式に廃止となった。

 

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〈中国・四国〉

・呉線の海田市~呉の複線化実現

 三原~海田市を竹原・呉経由で結ぶ呉線は、呉軍港への物資・人員輸送、山陽本線のバイパスとして活用された。しかし、海田市~呉の開業は1903年に対し、全線の開業の開業は1935年11月まで待たなければならなかった為、最重要目的は呉軍港への連絡であり、山陽本線のバイパスは後に追加されたと見るべきだろうか。

 その重要性から、1939年から海田市~呉の複線化が計画された。これは、戦時体制になるにつれ、軍需工場への工員輸送が急務になった為である。1941年から工事が始められたが、資材の不足で工事が進まないのに対し、工員の急増が激しかった事から、バス輸送で代替となった。工事も終戦によって中止され、半分以上のトンネルは完成するも放棄されたが、呉線電化の際に再利用された。

 

 この世界では、工事の開始が1940年と1年早かった事で工事が進み、戦局の悪化が緩やかであった事から資材・労働力不足が逼迫しなかった事で工事が中断しなかった。これにより、1945年2月に海田市~呉の複線化が実現した。

 

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〈九州〉

・室木線と幸袋線の延伸

 室木線は遠賀川~室木を、幸袋線は筑豊本線の小竹~幸袋~二瀬をそれぞれ結ぶ路線である。筑豊地域の路線である為、沿線の炭鉱から産出される石炭を輸送するのが主要目的だった。

 しかし、そうである為に、炭鉱が閉鎖されれば、後は小規模の旅客輸送しか無かった。実際、両線は国鉄内でも有数の赤字路線であり、赤字83線に指定されている。特に幸袋線は、「飯塚市内を分断している事から早期に廃止にしてほしい」という声が多かった。

 その結果、1969年12月に幸袋線は廃止となった。これは赤字83線に指定された路線で最初に廃止となった路線であり、以降の国鉄のローカル線の廃止におけるモデルケースとなった。

 室木線も赤字83線に指定されたが、この時は廃止にならなかった。その後、山陽新幹線の博多延伸の際、小倉~博多に隣接している事から、レールの輸送に活用された。しかし、その後の国鉄再建時に第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止となった。

 

 両線には延伸計画があったらしく、幸袋線は二瀬から桂川への、室木線は筑前宮田への延伸計画というものだった。理由はそれぞれ、戦時中の筑豊本線のバイパス、延伸予定地域に建設される工業団地への輸送を予定したという。しかし、結果は実現しなかった。

 

 この世界では、筑豊本線のバイパスとして、室木~筑前宮田~幸袋と二瀬~桂川を建設する案が出た。また、戦時体制になるにつれ、燃料資源である石炭の需要が急増する事から、沿線に新しく開坑される炭鉱の輸送手段としても目された。

 1939年から工事が行われたが、二瀬~桂川は兎も角、室木~幸袋は山越えになる事から難工事となった。一時は中断も検討されたが、沿線予定地の炭鉱事業者や成立した西日本鉄道の助力もあり、1945年1月に全線開業となった。この時、遠賀川~室木~筑前宮田~幸袋~二瀬~桂川は「鞍穂線」と命名され(由来は、起点の遠賀川が鞍手郡、終点の桂川が嘉穂郡の旧・穂波郡に所属している事から)、旧・幸袋線の小竹~幸袋は筑豊本線の支線に編入された。

 

 終戦直前の開業となった為、筑豊本線のバイパスという目的は失われた。石炭輸送も、エネルギー革命と炭鉱の資源枯渇によって次第に縮小し、1970年頃には完全に貨物輸送は消滅した。路線の長さや一定程度の旅客輸送がある事から赤字83線にリストアップされつつも廃止されなかったが、第2次特定地方交通線に指定された。

 しかし、沿線に工業団地が出来る事から旅客輸送の増大が見込まれ、廃止は一時延期となった。その後、沿線自治体や進出企業が中心となって、1988年2月に第三セクター「筑豊縦貫鉄道」に移管された。


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