架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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すいません、遅くなりました。

今回は、戦後処理と日本の状況、日本の周辺の変化について書かれている為、非常に長いです。


5章 昭和時代(戦後):新たなる時代
番外編:太平洋戦争の総決算と戦後の東アジアの混乱


 1945年6月5日、日本の戦争は終わった。正確には停戦であり、正式に戦争が終わった訳では無かった。それでも、多くの人にとってはこの日が戦争が終わった日と判断された。

 停戦前後、国内や外地、占領地では継戦派、宣言破棄派が戦争継続の為の行動を起こそうとしたものの、日本から有力皇族が特使として派遣され、それによって現地の暴発は避けられた。それでも暴発しそうになった者は、即刻処断した。時間が無かった為、荒っぽい対処となった。

 

 7月2日、応急修理された「ミズーリ」の艦上で、日本は終戦の文書にサインした。これにより、日本とアメリカの戦争状態は終了した。その後、日本本土にアメリカ軍の駐留が開始され、8月2日には日比谷の第一生命館に連合国軍最高司令部(GHQ)が設置された。その初代司令官に、ジョージ・パットン大将が就任した。

 史実では、マッカーサーがその職に就任したが、この世界ではレイテ戦で第二艦隊の艦砲射撃によって吹き飛ばされて死亡した。その為、彼が就いていた南西太平洋方面最高司令官(太平洋方面の連合国軍を統括する)を誰にするかという問題になり、ヨーロッパで活躍しているパットンが適任とされ、急遽ヨーロッパから太平洋方面に送られた。

 この経緯から、パットンがGHQ司令官として日本に赴任した。そして、GHQ主導の下、日本の民主化が始められた。

 

 先ず始められたのが、戦犯の処罰だった。対象者として、閣僚や大本営の幕僚、現地の高級指揮官や財閥のトップなど多岐に亘った。

 当初は天皇も含まれていたが、日本が全力でこれに反対し、米英も「処罰した場合、日本人は最後の一人になるまで戦い続ける」と考え反対した。天皇については、天皇大権を放棄し国民主権に移行、天皇は象徴君主として存在する事で決定した。

 戦犯の処罰だが、史実の様な連合国による一方的なものとはならなかった。これは、日本が条件付き降伏で停戦した事、停戦時の内容に「現行の国際法に則って裁判を行う事」と明記されていた事が大きかった。それに、ウォレス大統領やトルーマン副大統領、パットン最高司令官が「事後法で裁く事は、先進国として、法治国家として許される事では無い」と考えていた事もあり、以降の利益を考えるとここで日本を必要以上に痛めつける事は国益に反すると考え、史実よりも穏便に事が進んだ。

 これに対し、中華民国やオーストラリア、オランダは厳しい処罰を望んだ。アメリカとの意見が平行線となった為、アメリカはこの3国については諦める事となり、そのまま裁判となった。

 史実よりも穏便となったが、アメリカは戦犯の追及に手を抜く事は無かった。目に見える形で処罰しなければ、国内には勝利したと宣伝する事は難しく、日本国内に対しても「誰が悪だったのか」をハッキリさせる為にも、裁判は必要だった。

 

 裁判の結果、死刑を宣告された者は一人もおらず、全員が終身刑か禁錮刑となった。ただ、東條英機は、自身の責任や天皇への申し訳無さなど様々な要因によって、獄中で割腹自殺を遂げた。同様に、獄中で自殺した者は複数人出た。その後、この裁判の被告人となった軍人が亡くなった後、靖国神社に葬られる事無く家族に遺骨が渡った。

 

 しかし、この裁判はここで終わらず、日本側の逆提案によって、連合国の戦争犯罪も裁かれる事となった。これは、日本側の証言で連合国の戦争犯罪が明るみとなった事、この裁判前にソ連が満州や朝鮮に侵攻してそこでの行為が暴露された事から、連合国の正義が疑われた。

 これを払拭する為に、連合国も裁かれる事となった。これにより、現地で捕虜を虐待した者が裁かれたが、処罰の内容が2階級降格の上で除籍処分、禁錮刑など日本側と比較すると軽いものとなった。

 

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 次いで、日本の海外領土をどうするかだった。この対象となったのは、台湾、朝鮮半島、関東州と南満州鉄道、南洋諸島だった。南樺太は除外され、以降も日本領として扱う事が許された(1947年に樺太県に移行、1950年に北海道と南樺太の開発事務を担当する「北方開発庁」が後述する総務省の外局として設立)。

 当初は、日本は無条件にこれらの領土を手放す事になっていたが、日本は「無条件で」という部分に異議を唱えた。現地住民の声を聴かずに、勝手に決めていいのかという疑問を投げかけ、住民投票で決める事を提案した。

 連合国としても、条件付き降伏をした国に対し好き勝手に行うのは長期的に見てマイナスになる上に、民衆の声を聴いて今後を決める方が「民主主義の守護者」としての体面を保てる事から、日本の意見を取り入れた。この結果次第で、日本への対応も考える必要があり、内容によっては「日本を悪の帝国だ」と攻撃出来る材料になる為でもあった。

 

 投票結果、ソ連の占領下にあった関東州や朝鮮北部では独立が圧倒的多数となった一方、アメリカの影響下にあった朝鮮南部、台湾、南洋諸島は日本への帰属が多数となった。

 アメリカとしては、日本を叩く事は難しくなった事は別に構わないが、これらの領土を再び日本が統治する事にも難色を示した。朝鮮半島は独立させる事が決まっており、台湾は中華民国に返還する予定だった。それらの地域が「不正投票だ」と騒ぐ一方で、日本も現状ではこれらの地域は負担になりかねなかった。

 その為、南洋諸島については暫くアメリカが信託統治を行い、朝鮮南部と台湾は独立させる事となった。中華民国が騒いだが、戦時中に殆ど血を流していない事、台湾に侵攻しなかった事などから相手にしなかった。独立は、朝鮮は5年以内に、台湾は10年以内に行う事が決定された。

 

 投票後、日本国内にいる外地出身者は出身地に戻る事となった。ただ、希望するのであれば日本国籍を取得出来るが、その条件が厳しく(犯罪歴の有無、学歴、収入など多数)、殆どがこの条件に通らなかった。同時に、外地にいる日本人の帰還が行われたが、満州や朝鮮北部の日本人の帰還は叶わなかった。

 住民の帰還と同時に、外地にある日本の資金で建設された固定資産は独立予定国が安価で購入するか、日本の在外資産とする事が決定された。朝鮮は猛反発したが、既に取り決められている事から取り消されず、アメリカが大規模な借款を行う事で鎮静化した。ソ連占領地域ではこの取り決めは適用されず、「戦時賠償」として没収された。

 

 朝鮮南部は1948年に「大韓民国」として、台湾は1952年に「台湾共和国」として独立した。

 尚、これに対抗する様に、ソ連が朝鮮北部を1948年に「朝鮮民主主義人民共和国」として、満州を1954年に「満州民主共和国」、内蒙古を「プリモンゴル人民共和国」として独立させた。

 

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 戦犯、領土の問題の後、各種民主化や再編が行われた。ここでは、史実と異なる部分である、軍部(実戦部隊)、中央省庁、経済の順に説明する。

 

 アメリカは当初、日本の軍事力を全て解体する予定だった。しかし、太平洋戦争でアメリカ軍、特に海軍が壊滅的打撃を受けた事で、その方針が変更された。また、ソ連が終戦後に満州や朝鮮に侵攻した事で、日本をソ連に対する防波堤とする事となった。

 その為、軍の解体では無く、軍縮による再編に変更された。そして、アメリカ軍のコントロール下に置かれる事となった。

 

 その中で、軍縮の過程で生じる艦艇、特に戦艦と重巡洋艦を各国に賠償として引き渡される事となった。特に、大和型については各国が欲しがっていたが、「信濃」がアメリカに「メーン」として引き渡され、「大和」と「武蔵」は新生日本海軍の主力艦艇として引き続き使用される事となった。同様に、「天城」、「赤城」、「加賀」、「土佐」、「長門」は日本海軍に残った。

 それ以外の戦艦は、「金剛」と「扶桑」はイギリスに、「比叡」と「山城」はフランスに、「榛名」と「霧島」はオランダに、「伊勢」と「日向」は中華民国にそれぞれ引き渡される事となった。英仏蘭は、自国の艦艇との規格の違いや老朽化(一番新しい「日向」でさえ1918年竣工の為、27年経過している。「金剛」に至っては32年経過している)によって、屑鉄として売却される事となった。ただ、中華民国は、自国海軍の再編成に活用され、それぞれ「定遠」、「鎮遠」に改称された。

 

 空母は、「天鳳」、「高雄」、「葛城」、「阿蘇」が残された。「大鳳」は、アメリカ軍に賠償として引き渡されたが、これは飽くまで研究の為だった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「大鳳」は日本海軍に復帰した(同時に「高雄」は退役)。「生駒」はフランスに、「鞍馬」はオーストラリアにそれぞれ賠償として引き渡された。

 軽空母は、商船改造空母しか残っていなかった。状態が良ければ元の商船に戻す予定だったが、「飛鷹」以外は通商護衛で酷使された為、修理する方がコストが掛かるとして解体処分となった。「飛鷹」は中破しており徹底的に改装された事で商船に戻す事は難しかったが、日本に残った数少ない大型優良商船の為、何とかして商船に戻す事となった。これにより、1948年には「出雲丸」として再スタートした。

 

 重巡洋艦は、損傷した艦艇が多く、7隻(青葉型1、妙高型2、鳥海型2、穂高型1、伊吹型1)のみ稼働可能だった。この内、2隻ずつがフランス、オランダ、オーストラリアに賠償として引き渡され、残る1隻(青葉型)は日本に在籍して実験艦として運用される事となった。

 軽巡洋艦は、稼働可能な全て(5500t型3、最上型2、利根型2、阿賀野型3、大淀型2、練習巡洋艦2)を日本海軍に在籍する事となった。

 

 駆逐艦は、艦隊用駆逐艦は2個水雷戦隊分(24隻)まで保有する事が許され、残りは破棄するか各国に賠償とあった。ただ、損失数が多く損傷も激しい為、賠償に回せる分は数隻しか無かった。その為、護衛駆逐艦や海防艦を多めに賠償に出す事となった。

 潜水艦は、保有は16隻まで、航空機搭載可能型はその機能を撤去する事、潜水空母(伊四百型、伊十三型)は全てアメリカに引き渡す事となった。

 

 海上警備総隊は、所属を内務省に移し「海上保安隊」に改称となった。船団護衛の任は新生日本海軍に移され、海上警備を主任務とする事となる。

 

 陸軍は、国内12個師団まで保有可能、内機甲師団及び機械化師団は1個ずつ、近衛師団は廃止、各種装備はアメリカ軍と共通化する事が決められた。だが、後の冷戦の訪れでこれが緩和され、1950年代には16個師団、内機甲師団2個、機械化師団2個まで拡張する事が認められた。

 

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 中央省庁は、内務省と軍政部(陸軍省・海軍省)が焦点だった。GHQは、内務省が戦前日本のファシズム化を進め、非民主的支配を行っていた中核と考えていた為、解体をする予定だった。

 しかし、ソ連との対立が早まり激化した事で、内務省解体論は急速に衰退、緩やかな分割に変更となった。具体的には、

 

・内務省は「総務省」に改称する。大臣官房・地方局(地方行政部門)以外の内局は全て分離する。

・都道府県知事は全て公選とする。

・警保局(警察部門)は総務省の外局「警察庁」に改編する。全都道府県に都道府県警察を設置する。

・警保局の消防部門を分離して外局「消防庁」を新設する。

・高等警察・特別高等警察は都道府県警の公安課、司法省(後に法務省に改編)の外局「公安調査庁」に改編する。

・国土局(土木行政部門)は「建設省」に改編する。

 

というものだった。内務省は名目上は解体されたが、「特高の解体」は行われなかった。その為、内務省解体後も社会主義・共産主義に対する取り締まりは継続した。

 

 軍政部は、陸軍省と海軍省を解体し、「国防省」を新設する事で解決した。これ以外にも、参謀本部と軍令部が解体され、「統合幕僚本部」が新設された。また、法律で統合幕僚本部は国防省の下に置かれる事となり、憲法で国務大臣は文民に限定される事となった為、戦前の問題だった軍政部と統帥部の関係、軍部大臣現役武官制は解消された。

 これ以外に、海軍情報本部と参謀本部第2部が統合して「国防情報本部」に改編となり、軍の情報機関が一本化された。

 

 これ以外では、内閣に付随する部局を統括する「総理府」が新設され、宮内省が「宮内庁」に縮小改編されて総理府の外局となった。厚生省からは、労働部門が分離して「労働省」が新設された。これにより、日本の主な中央省庁は1府13省(1948年当時)となった。

 中央省庁以外では、内閣情報調査局が内閣官房傘下に収まった。他にも、軍と政府、政府間の調整機関、国家の安全保障を検討する「国家安全保障会議」の設立が検討された(実際に設立されたのは1951年)。

 

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 経済では、財閥の解体が行われた。特に、五大財閥と呼ばれた三菱、三井、住友、安田、大室、新興財閥で最大規模の日産、中島の解体は急務だった。

 実際、1946年4月に上記7グループの持株会社は解体された。その後、年内までに他の大規模財閥の持株会社は解散するか分割され、独占・寡占状態の企業は分割されるか株式公開が行われた。翌年には、地方財閥も解体となった。

 また、財閥の称号の使用も禁止され、これが解除されるのは1951年まで待たなければならなかった。

 

 この部分は概ね史実通りだが、解体はやや緩やかだった。極端な細分化は行われず、大企業を数社から10社程度の分割となった(史実では、三井物産や三菱商事が100社以上に細分化された)。分割された企業の大合同についても、早いものでは1951年から進んだ(史実より5~10年早い)。

 

 これと並行して、特殊銀行が普通銀行に転換され、外地の運営機関や戦争遂行に深く関わったとされた機関が「閉鎖機関」に指定されて閉鎖される事となった。特殊銀行は、日本勧業銀行(勧銀)と日本興業銀行(興銀)、北海道拓殖銀行(拓銀)が普通銀行に転換され、他の4行(横浜正金銀行(正金)、台湾銀行(台銀)、朝鮮銀行(鮮銀)、朝鮮殖産銀行(殖銀))は閉鎖機関に指定された。東洋拓殖(東拓)や南満州鉄道(満鉄)など、約20の外地や占領地で営業していた機関は清算される事となった。

 その後、閉鎖機関の残余資産を基に第二会社が設立された。史実では、正金が1946年に「東京銀行」、鮮銀が1957年に「日本不動産銀行(後に日本債券信用銀行に改称)」、台銀が1957年に「日本貿易信用(後に日貿信に改称)」を設立した。

 また、長期信用銀行法が制定されると、興銀は長期信用銀行に転換し、勧銀と拓銀の長期金融業務を継承する「日本長期信用銀行」が設立される。日本不動産銀行も、長期信用銀行として設立された。

 

 この世界では、東京銀行は史実通りだが、他の企業が大きく異なった。

 鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。

 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。

 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。

 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。

 

 国民更生金庫は、「国民産業公庫」に改称して、後に「中小企業金融公庫」に改称した。戦時金融金庫は、融資先を軍需企業から輸出産業としての重化学工業に融資する「日本復興金庫」に改称した。

 

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 日本は6月5日に停戦した。その後、7月2日にアメリカが日本本土に進駐を開始した。以降、アメリカは日本の外地である台湾や朝鮮、日本の影響力が強い満州への進駐を予定した。

 

 これに焦ったのがソ連、正確に言えばスターリンだった。もし、このままアメリカの進駐を見過ごせば、ソ連国境にまでアメリカ軍が来る事になる。加えて、太平洋への出口の獲得は絶望的となる上、アジアへの橋頭保も確保出来ない。そして、荒廃した国内の復興の為の人材や技術の略奪も不可能となる。

 これを危惧したソ連は、8月8日に「連合国各国による日本駐留を行う」という名目で、満州、内蒙古、朝鮮、南樺太、千島列島への侵攻を開始した。

 

 この侵攻は、ソ連にとって綱渡りだった。当時のソ連は、独ソ戦が終わったばかりで軍の移動が済んでいなかった(独ソ戦は、現在のドイツ=ポーランド国境付近で終了。つまり、ドイツ中心部への侵攻が叶わなかった)。その為、この時の侵攻軍は、極東軍管区やザバイカル軍管区、シベリア軍管区や中央アジア軍管区といった独ソ戦から見て後背に位置する軍管区に残存する部隊から抽出されたものだった。それでも不足の為、囚人や政治犯を解放する条件として舞台に編入した。

 これにより、数だけは100万人と揃ったが、武器は旧式なものが多かった。それでも、ソ連側以上に内容がお粗末であり、武装解除状態だった関東軍相手には問題無かった。この時の関東軍は、優良部隊が南方に送られ、現地で招集した人達で編成した部隊で穴埋めしていた状態であり、練度は低く重装備も無かった。

 この侵攻で、満州と内蒙古は瞬く間にソ連に制圧され、その勢いで朝鮮北部も制圧された。南樺太と千島は、現地部隊の抵抗と、現地に展開していたアメリカ軍や海軍の存在から、侵攻は小規模なものとなり、ソ連は直ぐに撤退した。

 ソ連に占領された地域では、徹底的な略奪が行われた。持ち運べるものは全て持ち去られ、持ち運べないものでも強引に持ち去った。人も殆ど強制的に連れ去られ、過酷な労働を強いられた。日本人だと分かれば、更に過酷な現場での工事や鉱山活動を行わせた。満州民主共和国が建国されるとそちらに移住させられたが、この時までに4割が亡くなった。

 

 これに慌てたアメリカ軍は、直ぐさま西日本にいた部隊を朝鮮半島に送った。同時に、ソ連との交渉が行われた。両者の意見は平行線を辿り、決まった事は朝鮮半島の北側はソ連に、南側はアメリカが管理する事だけだった。これにより、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断される事となった。

 ソ連は、アジアでの足場の拡大に成功した。しかし、この行動がアメリカの対ソ戦略の構築を早める事となり、日本が対米協調路線を明確にする最大の要因となった。

 

 ソ連のアジアでの拡大は留まる事を知らず、1947年には東トルキスタンを取り込み「ウイグルスタン人民共和国」として衛星国化した。1949年には北京で「中華人民共和国」の建国が宣言され、中国大陸も共産主義に覆われた。これにより、中華民国は中国大陸から追い出され、海南島に逃走した。

 中国大陸が共産主義化すると、中国にいた中華民国支持者や反共主義者、反体制派や暴力団、及びそう見做された人などが一斉に摘発された。これにより約2000万人が摘発され、その殆どが国内の強制労働に従事されたり、ソ連に武器や物資の「対価」として輸出された。

 1940年代末は、北東アジアでの共産主義の拡大の時代となった。




変更前
『鮮銀は、1952年に残余資産を基に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。台銀は、台湾拓殖や南洋興発の一部が合流して、1952年に「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立したが、こちらは外国為替銀行法を根拠にしていた(外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。殖銀は、東拓や満鉄の一部を統合して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 東拓や満鉄、台湾拓殖など外地開発の企業は、自前の金融機関を持ちたいとして、1955年に長期信用銀行「日本興産信用銀行(興信銀)」を設立した。その後、以前の同門がいる日貿銀と昭和信託、以前のグループ企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

変更後
『鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。
 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。
 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

長期信用銀行は国策銀行であると同時に、その特殊性から複数行も必要無いと判断しました。実際、日本不動産銀行が設立しようとした際、「既に日本興業銀行と日本長期信用銀行があるから、新たな長期信用銀行は要らない」と言われた程でした。

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