架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

65 / 112
38話 昭和戦後②:中外グループ

 戦後の混乱によって、各社の経営状況は不安定だった。在外資産の喪失、財閥間の繋がりの喪失、有力な人材の追放など、挙げればキリが無かった。

 それでも、戦後復興の為に、皆は精力的に働いた。この途中で、デフレによる急速な景気の後退があったものの、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争によって、今までの不景気は吹っ飛んだ。

 

 朝鮮戦争中、日本は朝鮮半島の後方支援基地として活用された。被服や食糧、武器・弾薬と言った前線で使用されるものは勿論、機械や造船、鉄鋼や化学など、ありとあらゆる物資の需要が急増した。

 また、日本軍が国連軍の一員として朝鮮戦争に参戦した事で、軍需も復活した。特に、銃器や被服、造船や車輛などの需要が急増した。また、今までGHQによって制限されていた航空機の製造・開発が解禁された(この世界では、日本の航空機開発は民間機や練習機に限定されていた)。

 

 これにより、日本経済は急速に回復、復興が一段と進んだ。生産力増強が進められれ、その後の経済発展の第一歩となった。

 

____________________________________________

 

 朝鮮戦争の恩恵は、大室・日林・日鉄も受けた。大室が得意の造船、車輛、機械、航空機、日林が得意な木材と化学は、設備をフル稼働して生産に当たった。日鉄も、大室だけでは手が回らない造船や機械を担当した。

 アメリカ軍向けの装備や機械の製造、兵器の修理などを行った事で、新しい技術の獲得にも成功した。特に大きかったのが、電機や精密機械、車輛の部門であり、これらの部門は生産こそ出来るものの、質の面ではアメリカに大きな後れを取っていた。それが、この戦争中に技術提供やリバースエンジニアリングによって技術を獲得、その後に大きく役立った。

 

 国連軍向けの軍需は大きかったのが、それに並んで大きいものが日本軍向けの軍需の拡大だった。この世界では、日本軍は存続したが、敗戦とそれまでの経緯から、大規模な軍縮が行われた。その為、戦後5年間は既存戦力のみで増強しなかった事から、軍需が殆ど無くなった。

 それが、日本軍が国連軍の一員として参戦した事で変化が起きた。今まで装備の充足率が6割程度だったものが、急速に整備する必要が生じた。その為の生産が急務となり、それ以外にも新装備への転換や新しい部隊の編制などが行われた。同時に、アメリカによる軍備の制限が緩和された為、その後はアメリカ軍から極東方面の防衛を担う事となり、その為にも軍備を整える必要があった。

 

____________________________________________

 

 朝鮮戦争によって、大室系、日林系、日鉄系の各企業の経営状況は好転し、その後は躍進した。同時に、GHQによる旧財閥に対する締め付けが弱くなり、旧財閥名の使用が解禁された。持株会社の禁止や、独占・寡占的企業の存在の禁止こそ残ったものの、経済に対する制限は劇的に緩和された。

 

 各社が元・大室物産、若しくは大室物産の元社員が興した企業であるだけに、行動は素早かった。1956年には主要各社が大合同に賛成し、翌年には正式に「大室物産」が復活した。その後、日林や日鉄、その他多数の中小の商社を合併し、日本有数の総合商社として発展していく事となる。

 

 大室物産に続き、大室重工業も1958年に復活した。大和重工業と大同重工業に分裂した大室重工だが、朝鮮戦争後の高度経済成長によって、業績は回復した。その後、造船や車輛などで上位に名を連ねる様になったが、グループ内で同じ様な形態の企業を複数持つ事の非効率さ、中堅規模の会社を複数持つより大規模な会社を1つ持った方が効率が良く競争力も得られるとして、両社の合併が進められた。両社もこの意見には賛成であり、1957年には翌年の合併が決定した。

 そして、1958年に大和重工業を存続会社として大同重工業を合併、「大室重工業」に名称を変更した。ここに大室重工業は復活した。

 

 それ以外の企業も、元の姿に戻るか社名をかつてのものに戻すなどして、急速にかつての姿を取り戻しつつあった。違うところは、各社の関係が(名目上)対等なところであり、絶対的な親会社が存在しない事である。

 

____________________________________________

 

 財閥が解体されても、元財閥同士の繋がりが消える事は無かった。これは、人的繋がりの為、規制する事が難しかった。

 実際、1950年には中外銀行や西新商事など、大室直系の10社が集まり「大和懇親会」を開いている。その後、元大室系や新規参入組が加入して、1953年には「大和会」に改称した。

 日林や日鉄も、1950年代半ばには企業グループを形成しており、元の財閥の形に戻ろうとしていた。ただ、戦前との違いは、持ち株会社の下に各社があるのでは無く、各社が名目上対等な立場で存在する事だった。

 

 その後、大室と日林、日鉄が中外銀行をメインバンクにしている事から、中外銀行とこの頃に大合同した大室物産を中心とした新たな企業グループを1959年に形成する事となった。企業グループは、中核となる銀行名から「中外グループ」と命名された。社長会は、全世界に広がる存在になりたい事から「九天会(くてんかい)」と命名された。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。