架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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41話 昭和戦後⑤:中外グループ(4)

 戦前からの企業や戦後に発足した企業、かつては他の財閥・グループに属していた企業が集まって構成される企業グループ、その中の1つである中外グループだが、グループ内においても、躍進している企業と斜陽傾向にある企業とで別れていた。躍進しているのは、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学系と商社であった。

 

 戦後、日本の経済構造は大きく変化した。今まで、日本の主要な輸出商品は繊維だったが、戦後になってからは鉄鋼や造船、後に自動車や機械などの重工業に転換した。国内需要の増大や輸出の拡大が設備の拡大を生み、それが更なる国内需要や輸出の増大を生んだ。

 

 この恩恵を中外グループも大きく受けた。大合同で復活した大室重工業と日本鉄道興業、大室電機産業、大室通信産業といった重工・電機系、大室製鉄産業や大室金属産業といった製鉄・金属系、大室化成産業や日林化学工業といった化学系は、この頃は黄金時代を謳歌していた。作れば売れるという時代だった為、増産に次ぐ増産となり、その為の設備投資も積極的に行われた。

 

 特に造船と製鉄はその代表格だったが、その対応が異なった。製鉄は、既存の設備だけでは不足すると見られた事から、現在の場所を拡大する事と、別の場所に新たな設備を開設する事となった。

 一方の造船は、拡大と同時に再編という形が取られた。合わせて、造船と近い関係にある重工と電機の再編も行われた。

 それ以外の各社も、他の企業と合併したり、事業の統合が進められた。1960年代後半から70年代前半は、グループ内の再編の時代でもあった。

 

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 1960年代後半の日本の大手製鉄会社(ここでの「大手」とは、高炉を持つメーカーとする)は、富士製鐵、八幡製鐵、住友金属工業、大室製鉄産業、川崎製鉄、日本鋼管、神戸製鋼所、日新製鋼の8社があった。その後、富士製鐵と八幡製鉄が1970年に合併して、「新日本製鐵」が誕生した。

 

 当時の大室製鉄産業は、堺と和歌山の2か所に製鉄所を持っていた。堺は大型高炉2基で比較的新しいものだったが、もう一方の和歌山は中規模の高炉1基しか無かった。高炉3基では今後増大する需要に応えられる訳が無い。加えて、1950年代から60年代にかけて新しい製鉄所を建設していた事から、それらに対抗する意味でも新しい製鉄所は必要だった。特に、1961年に住友金属工業が和歌山に、八幡製鐵が堺に建設した事は、テリトリーを脅かされる事になるとして、既存設備の更新・強化と新たな製鉄所を建設する事が求められた。

 

 当初は、京葉方面に建設する予定だったが、八幡製鉄が同時期に君津に建設する事となった為、競合を避ける意味から京浜方面に変更となった。そして、川崎側は日本鋼管が存在する事から、横浜に建設する事となった。1960年代は、横浜市南部の本牧・磯子地域が重工業地帯として整備された為、そこに進出する事となった。

 1962年から建設工事が行われ、67年には高炉に火が入れられた。これ以降、高炉は計4基設立され、首都圏方面に供給された。

 

 堺と和歌山の方も設備の強化が行われた。堺では、今まで2基だった高炉を2基増設して、その後に既存の2基を更新する方向が取られた。これらは1964年から行われ、高炉の建設は69年に、更新は73年に完了した。これにより関西圏への供給が行われたが、完成直後にオイルショックが来た為、その後の不況を受け、当初予定していた採算ラインに乗らなかった。

 それでも、西日本の生産拠点だった事、中外グループで鉄鋼を使用する工場が西日本に多かった事、設備が新しい事で製造効率が上がり生産コストが下がった事などから、想定以上の赤字とはならなかった。その後も、西日本の製造拠点として稼働し続けた。

 

 和歌山の方はもっと深刻だった。当初計画では、大型高炉を2基建設し、建設終了後に使用中の高炉を解体する方針となった。建設は71年から進められ、予定では1977年に全て完成する予定だったが、建設中にオイルショックが発生した為、計画が変更となった。これにより、2基目の建設が延期となり、一方で中型高炉の解体が進められた。75年に高炉は完成したものの、2基目の完成はその後の経済構造の変化や、堺と横浜への集中から白紙となった。

 

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 製鉄所の方は増設が進んだが、造船所の方は拡大と同時に整理が進んだ。

 中外グループ内で造船を行っているのは、元・大室財閥系の大室重工業、元・日鉄財閥系の日本鉄道興業の2社である。大室重工業は長万部・仙台・横浜・堺・多奈川・松山(長万部・仙台・松山は、元・日林造船機械。木造船や小型船が専門)に、日本鉄道興業は尼崎・三田尻・戸畑・大分(尼崎と戸畑は元・大同造船。小型船が専門)にそれぞれ造船所があった。

 両社の大合同以降、中外グループ内では事業内容が重複している企業の整理が行われていた。大室重工業と日本鉄道興業は共に重工であり、商品も似ていた。また、日本鉄道興業の経営が不安定だった事もあり、一部事業の交換が行われ、1975年に以下の通りとなった。

 

・日本鉄道興業の造船部門:大室重工業に譲渡

・日本鉄道興業の弱電部門:大室電機産業に譲渡

・大室電機産業の鉄道車輛部門:日本鉄道興業に譲渡

 

 これにより、中外グループ内で重工系の大室重工業、電機系の大室電機産業、鉄道部門の日本鉄道興業に一本化された。ただ、重電部門については大室電機産業と日本鉄道興業で分立し続ける事となった。

 

 さて、事業の統合が行われる前、大室重工業と日本鉄道興業は別個に造船所の拡張計画を立てていた。大室重工業では、長万部と仙台を分離独立させるものの、松山を拡大して大型船を建造可能にする計画だった。日本鉄道興業も、尼崎と戸畑を分離独立させて、大分の規模を拡大する計画だった。分離独立させるのは、事業内容を大型船に集中させる事が目的だった。

 この一環で、1963年に大室重工業が長万部と仙台の造船所を分離させて「大室船舶工業」を設立、1965年に日本鉄道興業が尼崎と戸畑の造船所を分離させて「大同造船(2代目)」を設立した。その後、グループ内の事業毎の再編によって、1974年に両社が合併して「両大造船工業」となった。

 

 小型船部門の分離に合わせて、両社の造船所の拡大がスタートした。

 大室重工業は、1964年に松山造船所周辺の土地を購入し、大規模ドックを3基持ち、当時最新鋭の造船技術を持つ巨大造船所として建設が開始された。1969年には全ての工事が完了し稼働した。松山以外でも、堺・横浜・多奈川の設備を拡大させる計画があったが、これらは設備の過剰が謳われた事、景気の鈍化、日本鉄道興業との統合から白紙となった。

 一方の日本鉄道興業は、1962年から三田尻と大分の設備の拡大が行われた。共に巨大ドックを1基追加し、1968年から稼働した。

 

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 製鉄は拡大、重工は拡大と再編という流れだったが、他の業態も拡大と再編が行われた。特に大きなものが製紙だった。

 中外グループの製紙業は、元・大室財閥系の大室製紙と、元・日林財閥系の日林製紙の2社に別れていた。戦後、両社は戦後に発足した製紙会社を子会社化したり合併したりと拡大したが、共に準大手クラス止まりだった。当時、その上には王子製紙、本州製紙、十條製紙(戦前の「大・王子製紙」が、財閥解体によって3社に分割された。この時の「王子製紙」は、苫小牧製紙が1960年に改称したもの)が存在しており、その差は巨大だった。

 その3社が1969年に合併し、戦前の「大・王子製紙」が復活した(史実でも1968年に合併が計画されたが白紙となった)。ただ、合併に際して、一部工場の他社への譲渡や、独占状態になる商品の他社への技術提供、王子製紙系の中小製紙会社の他社への株式譲渡などが行われた。

 

 これに慌てた他の製紙業者が、大合併を行い王子製紙に対抗しようという動きが出た。この動きの中心となったのが、日林製紙と大室製紙、芙蓉グループ系の山陽国策パルプの3社だった。1970年に3社が中心となって合併協議に入り、合併によって王子製紙の対抗勢力になる事が決定した。

 1972年に上記三社とその子会社、東洋パルプ、元王子製紙系の東北パルプ、北日本製紙、日本パルプ工業が合併して、「扶桑製紙」が誕生した。これにより、日本第2位の製紙会社が誕生したが、その規模は王子製紙の6割程度だった。

 また、合併直後にオイルショックで紙製品・パルプの需要が急激に減少し、経営が急速に悪化した。加えて、合併後の内部融和とリストラが進まなかった為、競争力でも王子製紙に敵わなかった。この状況が改善するまで10年掛かったが、その後は需要の回復や多角化によって王子製紙に対抗し続けた。

 

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 高度経済成長期、戦後にGHQによって分割された商社の再統合が行われた。これにより、三井物産と三菱商事が復活した。それ以外にも、大手商社が準大手や中堅クラスの商社を合併して規模の拡大に乗り出していた。これにより、オイルショック前には三菱商事・三井物産・丸紅飯田(現・丸紅)・住友商事・伊藤忠商事・日商岩井・日綿實業(以上、後の双日)・トーメン(後に豊田通商に合併)・兼松江商(現・兼松)・安宅産業の10社が「大手商社」や「総合商社」と呼ばれていた。

 後に、安宅産業が海外事業の失敗や架空売り上げなどが原因で実質破たん状態となり、1977年に伊藤忠に合併された。その後は、暫く9社体制だったが、バブル崩壊後は更なる再編が行われたが、これは別の話。

 

 この世界では、大室物産がこの中に加わり、総合商社は11社体制となっていた。中外グループの商社は、大室物産以外にも日林財閥系の日林物産、日鉄財閥系の日鉄商業、大室物産の退職者が設立して大合同に加わらなかった商社が数社いた。

 しかし、中小規模商社では規模や扱う商品の多角化が求められる時代に合わなかった事から、これら中規模商社の大室物産への合併が行われた。1959年には日林物産を、1962年には日鉄商業を合併し、1970年までに他の中規模商社を2社合併した。これにより、大室物産は11社中5位の中位クラスの商社となった。

 因みに、この時大室物産に合併されなかった大室物産出身者によって設立された中小規模商社は、大室製鉄産業系の「大鉄商事」や、日林製紙系の「日紙商事(扶桑製紙成立後は「扶桑紙商事」に改称)」に合併された。

 

 規模だけでなく、扱う商品も多数に上った。大室物産が得意な機械と鉄鋼、化学に資源・エネルギー、日林物産が得意な木材と製紙・パルプ、日鉄商業が得意な機械が合わさった事で、重化学部門、特に機械と鉄鋼に強い総合商社となった。繊維や食品といった軽工業系は弱かったが、大室物産と日林商事が一定程度扱っていた為、極端に弱い訳では無かった。

 統合後、大室物産は海外事業の強化や新事業への進出、投資事業の強化などを行い、更なる拡大へと邁進した。


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