架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

70 / 112
久々に本編です。
規模が大きくなった結果、自分でも理解している範囲を超えました。その為、内容にちぐはぐな部分が多いです。
また、本編に関するアイデアが無くなってきた事、本編内で昭和50年代に入った事から、昭和末期から平成初期、つまり史実のバブル崩壊付近で本編を終わらせる予定です。その為、恐らく次が最終話となるでしょう。


43話 昭和戦後⑦:中外グループ(6)

 オイルショック後、日本経済は失速した。今までの様な高成長は見込めなくなり、低成長時代に突入した。特に、今まで日本で経済をけん引していた重厚長大産業(製鉄や造船、セメントに化学など)と商社の経営が傾き、商社に至っては「商社不要論」まで出てきた。

 それでも、アジア方面で有数の工業力・技術力を有している事、新技術の確立などから、まだまだ成長の余地はあった。今までの様な重厚長大産業から軽薄短小産業(自動車、家電、コンピューターなど)への転換、重厚長大産業における高付加価値商品の開発が進んだのもこの頃からだった。

 

 中外グループもこの流れに乗った。特に、重工や化学などの重厚長大産業や商社の規模が大きい事から、転換は早急に行う必要があった。

 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。その為、今までの様な設備の拡張は、オイルショックによって一時中断となった(後に多くが白紙化された

 また、不採算事業や小規模な施設の分社化を行い、採算が取れる事業や新分野への経営資源の集中も行われた。以降、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造に転換する事となった。

 

 一方、これからの成長産業である電機、新技術の開発が進んでいる繊維などの規模も大きい為、新時代への足掛かりは既にあった。その為、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から企業体力や技術の強化が行われた。

 

____________________________________________

 

 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。これからは、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造にする必要が生じた。

 重厚長大産業が軒並み足踏みしていたが、その中でも拡大していたのがいる。大室重工業と大室製鉄産業である。大室重工は海外との連携と同業他社との競争が拡大の要因となり、大室製鉄はグループ内の他社の新規事業の進出が好機となった。

 

 大室重工は、今までの事業を基に多くの新規事業に進出した。造船の技術を活用して海洋プラットフォームの研究に乗り出した。これは、南樺太や尖閣諸島付近での海上油田・ガス田の開発が検討されていた事が理由だった。

 今まで中東やインドネシアの石油が安価の為、国内油田を開発する意味は薄かった。しかし、中東産の石油が高騰した事で、国内の石油の開発でも採算が合う可能性が見えた事、資源面での安全保障の構築から、国内油田の開発や天然ガスの活用が行われる事となった。

 他にも、ゴミ処理用タービン、メガフロートの研究、航空機用エンジンの国際共同開発、リージョナルジェットの共同開発など、航空宇宙産業を中心に多くのプロジェクトに手を出した。これらの研究成果が出るのは暫く先だが、この時の研究成果は後に大きな財産となった。

 尚、新規プロジェクトの内、最大のものと位置付けていた「リージョナルジェットの共同開発」は、社運を賭けたものである。詳しくは番外編で記す。

 

 また、オイルショックの少し前の1966年に、大室重工の乗用車・トラック部門と傘下の自動車・オート三輪メーカーを統合して「大室自動車産業」を設立している。当時、乗用車部門は傍系だった為(本流は重機やトラック)、重工本体内で保有する意味が薄かった。

 一方、モータリゼーションの影響で乗用車やトラックの需要は年々増加しており、生産量も右肩上がりだった。しかし、重工単体の技術力の不足や造船の需要も増加しており、何方かに注力したいと考えていた。社内での検討の末、大規模で企業体力が必要な造船の方を注力する事となり、自動車は別会社に分離する事となった。

 その為、本体の経営資源の集中、外部からの技術の導入の意味で、自動車部門を分離した。その際、フォルクスワーゲンに技術支援を頼んでいる。

 

 大室重工の新規事業の進出、大室自動車の拡大は、大室製鉄産業にとって恩恵そのものだった。その生い立ちから船舶や鉄道との繋がりが深い事から、厚板や鉄道車両に関する鉄製品の製造技術が高かった。実際、製造量そのものは決して高くなかったが、技術は新日本製鐵や住友金属産業にも劣らなかった。

 また、大室重工が海上建造物を、大室自動車が乗用車を製造するに当たり、鋼材が必要になる。それも、海上で使用するのに錆びにくい鋼材や、軽量だが高い強度を持つ鋼板など、今までとは異なる新素材が必要になる。

 その為、鋼材の製造は多少減速したものの、特殊鋼の開発についてはむしろ加速した。実際、オイルショック以降、技術に関する投資は年々増額しており、特許の申請数も年々増加していった。そして、新日鐵に並ぶ程の技術を有するにまでなった。

 

 それ以外の金属や化学、製紙にセメントなどの企業群も、新分野の開拓や新技術の開発、高収益体制への転換が急がれた。特に、これからの成長産業である半導体や電子素材、機能性高分子などの先端技術に関する研究や生産体制の構築に力が注がれた。

 技術への投資によって一時期業績は停滞したが、技術面での大きな向上が見られた。大学との共同研究も多数行われた事で、多数の技術特許の獲得にも成功した。これらの技術は、生産面や採算面からこの時は活用されなかったが、1990年代に入ってから大きく活用された。

 また、オイルショック後の景気低迷の後、暫く景気は小康状態だったが、1980年に今度はイランイラク戦争を理由とした第二次オイルショックが到来した。しかし、今回は前回の反省から金融の引き締めや省エネルギー化が進んでいた事から、大規模な経済の混乱は無かった。

 むしろ、既に高収益体制が構築されており、大きく業績を落とす事は無かった。また、これを契機に、更なる省エネ化が進められ、技術に対する投資も進んだ。

____________________________________________

 

 一方、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から体力や技術の強化が行われた。

 大室電機産業は家電と発電機、大室化成産業と日林化学工業は新素材や電子材料、大室通信産業は半導体に電子機器などに注力した。他にも、グループ内での共同開発によって、高性能な充電池や新素材の開発などが行われた。産学連携も活発に行われた。

 

 その結果、1980年代になりそれらの産業が拡大し、新たな輸出産業として成長した。他の企業も同様であり、1960年代の再現となった。

 但し、史実と異なり、国内各社は量的拡大よりも質的拡大を選択した。これにより、精密機械や電子部品の技術が向上し、史実より2,3年早い技術進歩となった。

 また、日本政府が技術面での優位性の維持を目的に、国内各社に新技術に対する積極的な特許申請、国内技術者・研究者の流出阻止、産官学連携の奨励が行われた。これらの政策により、バブル崩壊後の技術者の流出や、それに伴う東アジア諸国の先端技術面での競争力強化が発生しなくなった。

 

____________________________________________ 

 

 産業面では、再編と技術革新が行われたが、それ以外の分野では別の様相を見せた。

 商社は、今までの様に流通や貿易、商社金融に頼る体制を維持するのは難しくなった。取引先の企業の規模が拡大するにつれ、自社で流通や取引を行える様になった事で、商社に頼らなくても商品の流通が可能となった。また、今までの売上重視から利益重視への転換、コスト削減などから商社金融も減少傾向にあった。

 その為、オイルショック後の商社は冬の時代を迎え、「商社不要論」まで出てきた。しかし、商社は今までの経験やノウハウを生かし、この難局を乗り切った。それが、多様な人材を抱えている事、様々な情報を持っている事にあった。

 

 大室物産も、今までの売上重視から利益重視に転換し、高収益体制の構築が急がれた。また、新規事業への進出も行い、新たな収益源の確保も急がれた。急速に伸びている小売業やリース業への進出、火力発電事業の共同運営、資源への投資など、ありとあらゆるものに手を出した。

 その結果、国内第4位の総合商社としての地位が固まった。当然、更に上への野望があったが、「身の丈に合った事をするべき」という教えや、グループ内の繋がりの強さによる強み、元から強みのある部門(資源・エネルギー、機械・鉄鋼)など他社と比較して総合面で優れている事から、その地位に納まった。

 

 商社も変革を余儀無くされたが、もう一つ変革を余儀無くされたのが銀行だった。オイルショック以前、企業の体力の低さとそれに伴う信用の低さから、社債や株券を発行しても買い手が付き難かった。その為、企業の資金集めは銀行からの融資が大半を占めていた(間接金融)。

 しかし、オイルショック以降、企業の体力が付いた事で信用が増し、社債を発行して資金を集める企業が増えた。その為、1970年代から公社債市場が急速に拡大、証券会社の規模が再び拡大した(1960年代前半に公社債の投資信託が急拡大した。その後、東京オリンピック後の不況で急速に萎み、恐慌一歩手前の状態となる)。

 証券会社が拡大する一方、銀行は優良な貸出先を失う事となった。その為、銀行は新たな貸出先を開拓する必要に迫られた。

 

 大室銀行と協和銀行も、当然この影響を受けた。協和銀行はリテールに強く、中小企業との取引が多い為、大きな影響を受けなかった。中小企業だと、社債や株式を発行しても信用力の問題から取引されづらい為、間接金融に頼らざるを得ないのである。

 それでも、中堅企業や準大手企業との取引が増加していた為、それらの企業の融資が減少した。その代わりとして、地場産業への融資の強化や、新興企業の育成などを強化する事ととなった。

 

 大室銀行は、多くの大企業と取引していた為、直接金融の拡大の影響は大きかった。重厚長大産業は規模の拡大を止めた事で大規模融資の必要性は薄くなり、公社債市場の拡大によって、社債や株式の発行で資金を調達する比率も増加した。

 その為、銀行離れは深刻な問題であり、早急に別の手段を考える必要があった。その為、流通や金融、情報に電子と言った次世代系産業に対する融資が強化された。

 しかし、むやみやたらに融資する事は無く、将来性や企業体力相応の計画を持っているかなど、様々な要素を確かめてから融資を行った。その為、銀行の調査部門が強化され、後に「大室総合研究所(大室総研)」として国内有数のシンクタンクとして独立した(因みに、中外グループ全体のシンクタンクは「中外総合研究所」として別個に設立)。

 大室銀行の新方針により、新たな企業の発掘と融資の拡大に成功した。この時に大室銀行の方針が決まり、「まず確かめてから行動する」事となった。これにより、情報の精査から始まる為、初動こそ遅くなるものの、リスクを最小限にする行動が取れる様になった。その成果は、バブル景気の時に過剰融資を行わず、堅実な経営を行った事で、その後の不良債権処理に追われずに済んだという結果が示した。

 

 因みに、信託銀行は直接金融の拡大の影響は小さかった。経済力の拡大で、金銭信託や年金信託などの規模は拡大した為である。

 

____________________________________________

 

 オイルショックによって、日本経済は大規模な再編を余儀無くされた。しかし、それによって新たな成長や技術の獲得に成功した。これにより、約20年間の次なる黄金時代を迎える事となる。

 

 中外グループも同様であり、航空宇宙産業や新素材、電子と言った新産業への進出が強化された。一方、かつての花形である製鉄や造船、繊維と言った産業も、新分野への進出によって新たな可能性が開かれた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。