架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:満州プロ野球

 満州連邦共和国(以降、満州)でも、日本と同様にプロ野球が発達している。満州も2リーグ16球団体制となっている。しかし、この体制になったのは2008年であり、それまでの満州のプロ野球の道程は平坦では無かった。

 

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 満州は、日本の勢力化にあった事から野球が盛んに行われていた。実際、大連(当時は関東州で日本領だった)の満州倶楽部と大連実業団、奉天・撫順の満鉄倶楽部、鞍山の昭和製鋼、新京の新京電電と満州国新京が都市対抗野球大会に出場している。特に満州倶楽部と大連実業団の所謂「実満戦」は、「満州の早慶戦」と言われる程の人気があった。また、満州倶楽部は第1回大会と第3回大会の、大連実業団は第2回大会の優勝チームであり、その後の出場大会でも4強まで残る事が多いなど、実力の方も申し分なかった。

 しかし、戦時体制に突入すると、今までの様に野球を行う余裕が無くなった。都市対抗も1942年の大会が、戦前・戦中の最後の大会となった(この年の優勝チームは朝鮮・京城府の「全京城」。優勝旗は戦後、全京城の元選手が命懸けで持ち帰った)。

 その後、1945年6月5日に日本は連合国との戦争を終了させた。それとほぼ時を同じくして、日本本土に米軍の進駐が開始された。本土の進駐が完了次第、台湾や朝鮮半島、満州にも進駐する予定だったが、それが不可能となった。8月8日にソ連が「連合国による日本領及び日本勢力圏への進駐」を名目に、満州への侵攻を開始した為である。

 

 ソ連の侵攻に対し、現地日本軍や満州軍は必死に抵抗した(GHQから「米軍が来るまで、現地の治安を維持するように」という命令があった為)。しかし、主力部隊の多くが戦時中に南方に引き抜かれていた事、ソ連軍の戦力が約100万人だった事から、抵抗にも限界があった。その結果、9月までに満州全土が占領され、朝鮮半島北部も占領されつつあった。

 ソ連占領下の満州は、日本人にとっては地獄そのものだった。ソ連は「自国の復興」を目的に、現地にあった鉄道や工場などの多くを分解して本国に持ち帰った。その中でも大きなものが、鞍山の昭和製鋼所、鮮満国境の水豊ダムの発電機であった。

 また、現地日本人の大半は捕らえられ、同時に朝鮮人や台湾人、満州国の関係者も捕らえられた。捕らえられた人達はシベリアや中央アジアに抑留され、現地での強制労働に就かせた。労働は鉱山開発や鉄道の敷設、建物の建設など多岐に亘った。食糧や衣服などの不足もあり労働は過酷を極め、日本人だけでも約200万人が労働に従事させられ、その内の約80万人が後述する満州建国までに死亡した。

 

 この様な状況下では、野球など行える筈も無かった。何とか大連に残った人達で実満戦が実施されるなどしたが、ソ連に野球文化が無かった事から行う機会が無かった。抑留されている人達も、自作の道具を作ってはプレーするなどしていたが、この時は満州野球界の暗黒時代だった。

 一方、抑留されていた人達と現地住民の交流によって、住民に野球が伝えられた。後に交流試合が行われるなどして、中央アジアやシベリアの限られた地域においてだが野球が広がった。

 また逆に、現地住民から抑留された人達にサッカーが伝えられ、こちらでも交流試合が行われた。

 朝鮮戦争によってウラジオストクやハバロフスクが原爆で壊滅した後、都市の復興の際に日本人も従事させられたが、その際にレクリエーションの一環で野球が行われた。これが後に、ソ連極東部において野球が広まった要因となり、クラブチームも複数誕生した。

 

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 状況が変化したのは1954年になってからだった。この年、ソ連占領下の満州が「満州民主共和国」として独立した。また、ソ連各地に抑留されていた日本人が「満州国民」として満州に戻ってきた(満州へ戻る流れは1950年から細々とあった)。

 独立とそれに伴う社会の安定によって、国民の間にも余裕が生まれた。また、ソ連に対する不満を逸らす意味から、ソ連の方からスポーツクラブの充実が「指示」された。当初はサッカーだけだったが、翌年には野球も解禁された。

 これにより野球のクラブチームが複数誕生し、特に大連の満州倶楽部と大連実業団が復活した事は大きかった。これを記念して、1955年に「満州都市対抗野球大会」が開催された。栄えある初代優勝チームは、大連の満州倶楽部だった。

 その後も、主要都市には複数のクラブチームが設立され、地方都市にも広がりを見せていった。また、戦後復興で満州がソ連や北朝鮮に土木工事などで進出した事で、現地にも野球が伝えられた。1960年にはソ連のウラジオストクとハバロフスクが進出した事で、名称が「北亜都市対抗野球大会」に変更された。1962年には北朝鮮の平壌と清津、プリモンゴルのフフホトと包頭から進出するなど周辺諸国からのクラブチームが出場するなど、国際色が強まっていった。

 

 野球が拡大する一方、サッカーの方も拡大していた。ソ連はサッカーが盛んな国であり、占領時代から駐留軍との交流の一環で広まっていった。抑留者も現地住民との交流でサッカーを行っていた事、建国時にソ連に抑留されていたドイツ人が入ってきた事、東欧やソ連からの移民もあり、満州では野球以上スポーツとなった(野球は日系や朝鮮系、後の漢人が中心だった)。

 ソ連や東欧諸国との交流戦を多く行った事から、満州サッカーのレベルは向上した。その結果、1970年のFIFAワールドカップにアジア・オセアニア勢として初出場、4位と大健闘した(史実では、アジア・オセアニア勢の出場国はイスラエル。4位はウルグアイ)。その後も、東アジア屈指の強豪国として名を馳せて行く事となる。

 

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 満州の野球界が次の段階に進んだのは1968年の事となる。この年、「満州職業野球協会」が設立され、満州でプロ野球が結成された(公式戦の開催は1970年から)。満州でプロ野球がスタートした経緯は3つあり、1つ目はクラブチームの拡大が進み野球人口が拡大した事、2つ目は中国から多くの野球選手が亡命してきた事、3つ目は日本のプロ野球が大人気を博した事である。

 

 1955年に野球が復活して以降、満州各地でクラブチームが多数設立された。首都である新京や南満州の要衝である奉天、北満洲の要衝の哈爾浜に最大の港湾都市である大連などの大都市では、多数のチーム(5~10チーム)が設立された。地方都市でも、複数存在する事が当たり前の状況となった。

 一方で、チームの乱立によって選手の質が低下した。実際、1960年以降の大会におけるプレー内容は褒められたものでは無く、急速な拡大に選手の質が追い付いていない状況だった。

 また、一部のチームは選手に報酬を渡している、所謂「セミプロチーム」となっていた。これは、クラブチームの本質から外れた存在であり、有力選手の引き抜きを多く行っていた。その為、チーム同士の戦力の不均衡が目立った。

その為、都市の人口に応じてチームの制限が掛けられる様になった。

 これにより、クラブチームの削減による質の低下が抑えられ、チームが存在しない地方への移転も進んだ。一方で、有力選手の受け皿が存在しないという問題も生じた。

 

 当時の中国は文化大革命の真っ只中であり、中国からの亡命者が多数満州に押し寄せた。その中で、野球経験者が多く亡命してきた。

 中国は、文革までは野球文化が比較的進んでいた。19世紀にアメリカの宣教師が広めたり、日本やアメリカ帰りの留学生が広めるなどして、都市部を中心に野球が行われていた。中華人民共和国成立後も野球は残り、1959年から始まった全国運動会(国民体育大会に相当)でも野球が競技として行われた。

 しかし、文革によって社会が混乱すると、スポーツをする余裕が無くなった。また、文革自体が「資本主義文化批判」という意味合いがあった為、資本主義最大の国家であるアメリカを象徴するスポーツとなれば、攻撃対象とされやすかったと推測出来る。

 その為、この頃には野球文化が衰退したが、文革による弾圧から逃れる為、再び野球を行いたいという思いを持った人達が、満州に多数亡命してきた。この結果、クラブチームに多数の亡命者が参入する様になり、前述のクラブチームの飽和状態と合わせて、選手数が過剰状態となった。

 

 当時、日本の野球はプロ野球が絶大な人気を誇っており、日本野球連盟(ジャ・リーグ)と国民野球連盟(ナ・リーグ)が鎬を削る状況だった。その人気を見た満州野球界の人達も、日本に倣ってプロ野球を行いたいと考える様になった。

 この背景には、前述の2つの経緯に加え、1965年に満州代表チームが来日して対戦した際に歯が立たなかった事(ナ・リーグのオープン戦として行われ、毎日・東映・名鉄・大洋・広島を相手に3戦ずつ、計15戦行われた。結果は、東映・大洋・広島に1勝ずつした以外は負け)があった。

 

 クラブチームの整理とセミプロチームへの対策、整理によって生じる選手の新たな受け皿、日本プロ野球に追い付く為として、野球を生業とする、つまりプロ野球の整備を行い、技術の向上や新たな娯楽の提供をする事が検討された。

 野球のプロ化に反対する勢力も存在したが、日本遠征時に同行した政府高官や党員が日満野球の技術差に愕然とし、「少しでも日本プロ野球に追い付けるのであれば」としてプロ化を推してくれた。これにより、反対派もプロ化に賛成せざるを得なくなった。1968年に「満州職業野球協会(略・MPBA(Manchuria Professional Baseball Association))」が設立され、2年以内に公式戦が行える様に整備を進める事が宣言された。

 プロ野球チーム編成に際して、セミプロチームが挙って申請を申し込んだ。首都・新京だけでも新京倶楽部や新京実業団、新京野球団の3チームが申請を申し込み、奉天や大連でも複数のチームが申し込んだ。多くのチームが申請した為、当初予定だった8チームから10チームへと拡大した。その結果、次のチームが設立された。

 

・新京ジャイアンツ

・新京ユニオンズ

・四平ドラゴンズ

・鉄嶺ファイターズ

・撫順ライオンズ

・奉天イーグルス

・遼陽レッドソックス

・鞍山ブレーブス

・大連ホエールズ

・安東タイガース

 

 安東タイガース以外の全チームが連京線(大連~新京)沿いの都市に本拠地を置いており、安東タイガースも安奉線(安東~大連)沿いと、全ての球団が元満鉄沿いに置かれる事となった。これは、満州北部(哈爾浜、斉斉哈爾など)は気温が低い事から芝の育成への影響や春・秋のリーグ戦への影響が大きい事が懸念された為、必然的に比較的気温が高くなる南部に偏った。また、少数の都市に固まるのは少数のパイを分け合う事になる為、周辺に分散させる事ととなった。

 

 そして、1970年3月、新京・四平・奉天・大連でMPBA関係者と政府高官、党の重鎮に自治体の長などによる始球式が行われて、試合が開始された。ここに、満州プロ野球がスタートした。

 ペナントレースの結果だが、前期優勝はジャイアンツ、後期優勝はホエールズとなった。満州シリーズの結果は、4勝1敗1分けでジャイアンツが勝利し、初代満州一に輝いた。

 

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 満州プロ野球は、前後期の2シーズン制を採用している。7回戦の総当たり戦を9回で計63試合、それが2シーズン行われる為、年間で計126試合行われる。日本より試合数が少ない理由は、満州では暖かくなるのが遅く寒くなるのが早い為である。その為、開幕は4月に入ってからとなり、9月中にシーズンが終了する。

 オールスターゲームも行われ、前年の前期優勝チームが中心の紅組と前年の後期優勝チームが中心の白組に分かれてチームが編成される。開催時期は前期終了後となる。1970年に限り、開催中に行われたくじ引きで紅白に分けられた。

 

 勝率の決め方は「勝利数÷試合数」としている。15回裏までに決着が付かなかった場合、後日再試合となる。その為、制度上引き分けは存在しない。

 前期終了時に、最も勝率が高いチームを前期優勝チームとする。同様に、後期終了時に最も勝率が高いチームが後期優勝チームとなる。

 後期に同率首位のチームが発生した場合、前期の成績が上位のチームが後期優勝チームとなる。これが前期に発生した場合、前シーズンの通年成績(前後期通しての成績)が良かったチームの方を前期優勝チームとなる。

 シーズン終了後、前期優勝チームと後期優勝チームとで満州シリーズを行う。満州シリーズは7戦4勝方式で行われるが、満州シリーズに限り延長15回までに決着が付かなかった場合は引き分けとなる。引き分けとなった場合、第8戦以降は延長制限が無くなる。勝利したチームがその年の「満州一」となる。

 前期優勝チームと後期優勝チームが同一の場合、満州シリーズは行われずそのチームが満州一となる。この場合、翌年のオールスターゲームのチーム分けは、満州一のチームが紅組、通年2位のチームが白組の中心チームとなる。

 

 ドラフトは、その年の最下位のチームから指名が開始される。指名対象者は翌シーズン開催時に満18歳以上27歳以下である、翌シーズン開催前の卒業が確定している高校生・大学生、2年以上社会人野球でプレーしている選手となる。指名可能人数は、各球団15人までとなる。

 指名方式は、シーズン最下位の球団から始まり、最後に満州一のチームとなる。2位までは2球団以上の競合となった場合、くじ引きによる抽選が行われる。3位以下は、指名した順に交渉権の獲得が決定する。

 

 八百長やドーピングなど、試合や競技そのものを侮辱する様な行為が発覚した場合、それを行った選手は永久追放の処分が下される。また、球団もそれを防げなかった事や行った事に対するペナルティとして、罰金や該当選手が出場していた試合の没収(負け扱いとなる)などの取り決めも決められた。

 また、球団の査察や審判の誤審などへの対応を行う部署として、MPBA内に監察部が設けられた。外部の人間による不定期な査察の為、査察側は遠慮無く査察を行う事が出来、球団側も不祥事を起こさない様に運営するなどして、良性の結果となった。

 尤も、査察側に賄賂を贈るなどして、不祥事を揉み消す事も何度か起きていた。その事が発覚した事で警察も動き出す大規模事件となり、多くの選手や球団関係者、査察部から逮捕者を出した。これによって、野球人気が一時大きく減少したが、後述の新球団参入と2リーグ化、リーグ間の差別化などを行う事で、人気を回復させた。

 

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 プロ野球がスタートして最初の数年間は、真新しさや(満州では)高い技術力を持つ選手同士の対決などによって、多くの観客を集めた。また、オープン戦として日本のナ・リーグとの試合が行われるなどして、技術の向上も見られた。

 満州ではサッカーの方が人気が高い事、芝の育成に時間がぜん掛かる事、職業スポーツそのものへの忌避感から、次第に人気が衰えるのではと見られていたが、MHK(満州放送協会)や各機関紙への広告やニュースの差し込み、夏場における北満州での主催試合の増加、MPBC自らスポーツ紙を発行するなどして人気の維持に努めた。

その結果、1978年には全球団で年間観客動員数100万人を記録した(最初に達成したのは新京ジャイアンツで1972年、最後は鉄嶺ファイターズ)。その後も観客動員数は増加し、全球団の黒字化も見えてきた(社会主義国では珍しいが、満州は部分的に資本主義が導入されている)。

 日本遠征の方も結果を出す様になり、1980年のオープン戦という形で各球団が遠征した。その結果、ジャイアンツとイーグルス、ホエールズは6球団(巨人・西武・名鉄・近鉄・阪急・広島)との3戦で9勝8敗1分けと勝ち越した事は大きな自信となった。また、他の球団も勝率3~4割程度で終えるなど、最初に遠征した頃よりは勝負になっていた(但し、ファイターズとライオンズは勝率2割台だった。しかも、当時弱小と言われた南海・大洋・西鉄相手に全敗するなどした)。

 

 多くは負け越したものの、日本プロ野球と勝負を行える程度にまで成長した事は大きな自信を付ける事となった。その結果が満州にも伝わり、更なるプロ野球人気を呼び込んだ。また、日本プロ野球に対する関心も高まるなどして、職業スポーツへの忌避感も薄れた。

 MPBAは、更なる満州プロ野球のファンの拡大、ゲームの質の向上を考えた。その為には、外国人選手の解禁と球団数の増加が必要だった。

 

 前者は、キューバ人野球選手のプロ入りの容認が最大の目的だった。キューバは、キューバ革命まではプロ野球リーグが存在しており、その実力はメジャーリーグに劣らないと言えた。その後、キューバ革命によってプロリーグは解体され、アマチュア野球に再編された。以降、キューバ人野球選手が国外のプロチームとの契約が禁止されたが、これの緩和が出来ないかと外務省と組んでキューバとの交渉が1982年から行われた。

 交渉は1年以上掛かったが、1983年に「リース契約(国外リーグへの貸し出し)とする事」で決着した。これは、有力選手が亡命しない為の措置だった。また、これとは別に選手とキューバ政府との間に「契約金及び年俸の2割を政府に納める事」という契約も交わされた。

 1983年に決まるや否や、早くも多くの選手が満州行きを希望した。しかし、各球団の受け入れ人数の制限(1球団6人まで、1軍戦に出場出来るのは3名まで)もある為、最も優秀な選手が選抜されて各球団に入った。

 また、満州でプレーした選手がキューバ本国に戻って、新技術の伝播や将来を嘱望される選手の満州行きの打診なども行われ、満州とキューバの野球の技術向上に繋がった。

 

 後者は、参入希望者が多数存在した。1980年から行われた限定的な経済の開放によって、西側諸国からの投資が入ってきた。民族的繋がりから日本やドイツ、華僑、東側との付き合いがあるフランスからの投資があったものの、冷戦最後の絶頂期と重なった事もあり、直ぐに投資が下火となった。

 それでも、一時的に多くの資本が入ってきた事で経済が上向きとなり、新興企業を中心に軽工業やサービス業の発展が見られた。新興企業が中心となって、プロ野球への参入が目された。

 MPBA側もこれを歓迎したが、2球団に限定された。これは、急速な拡大は技術低下に繋がり、それによる人気の低下も懸念された為である。その後、参入希望者同士が共同してチーム編成が行われ、1984年に「奉天コンドルス」と「大連マリーンズ」が新規参入する事が決まり、翌シーズンから公式戦に参加する事となった。

 また、1リーグ12球団では試合数が組み難い事、試合数が増やし難い事、盛り上がりに欠ける事から、2リーグへの分割も同時に行われた。MPBA傘下組織として中央野球連盟(セントラル・リーグ、略は「セ・リーグ」)と大陸野球連盟(コンチネンタル・リーグ、略は「コ・リーグ」)が置かれる事となり、次の様にリーグ分けされる事となった。

 

〈セ・リーグ〉

・新京ジャイアンツ

・四平ドラゴンズ

・撫順ライオンズ

・奉天イーグルス

・安東タイガース

・大連マリーンズ

 

〈コ・リーグ〉

・新京ユニオンズ

・鉄嶺ファイターズ

・遼陽レッドソックス

・奉天コンドルス

・鞍山ブレーブス

・大連ホエールズ

 

 1985年から2リーグ体制になる事から、ペナントレースと満州シリーズの内容も変更された。

 ペナントレースは、シーズン試合数が4試合増の130に変更となった。その一方、前後期制は廃止となり、シーズン勝率が1位のチームがリーグ優勝となる。

 満州シリーズは、セ・リーグ優勝チームとコ・リーグ優勝チームとで争う事となる。7戦4勝方式は変わらず、これに勝利したチームが満州一となる。

 このルールに変更して行われた1985年のペナントレースの結果は、セ・リーグは新京ジャイアンツが、コ・リーグは大連ホエールズが優勝した。そして、両チームによる満州シリーズの結果は、大連ホエールズが4勝1敗で制した。

 

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 2リーグ体制になってから、両リーグの観客動員数は増加した。特に、リーグ別に球団を抱える事となった新京、奉天、大連では、街全体がセ・リーグファンかコ・リーグファンに分かれる程となった。それ以外の球団でも、一部の対戦が無くなった事への不満はあったものの、2リーグの対抗戦となった事、試合数が増加した事、満州シリーズ進出の為のリーグ優勝争いが激しくなった事から選手の強化が進み、ファンの増加に繋がった。

 冷戦の終結に伴う東西の緊張の緩和、それに伴う外資の流れ込みも大きくなり、満州経済も拡大した。これに伴い、満州でも日本の様にドーム球場の整備が考えられた。ドーム球場であれば環境に関係無くプレーを行えるとして、1996年から新京、哈爾浜、斉斉哈爾にドーム球場を建設する計画が浮上した。同時に、セコ両リーグに2球団を新規参入を行い16球団体制とする事も計画された。

 しかし、この計画は極東危機を原因に延期となった。また、極東危機が原因で外資の流れが停滞するなど経済に悪影響が生じた事もあった。ドーム球場の完成は2006年まで待たなければならず、球団拡張も2008年にようやく実現した。

 

 2006年、新京に満州初のドーム球場「新京ドーム」が開場した。新京ドームは東京ドームを基に建設されたが、用地の広さが充分にあった為、両翼100m、右中間・左中間115m、中堅120mとなった。新京ドームの開場に伴い、新京ジャイアンツと新京ユニオンズは2006年の公式戦から本拠地として使用される事となる。ホームゲームの際、偶数月はジャイアンツが、奇数月はユニオンズがホーム開催の優先権を持つ。

 翌年には哈爾浜、斉斉哈爾でも開場し、2008年には佳木斯(ジャムス。満州東部の主要都市)と奉天も開場した。奉天のドーム球場開場に伴い、奉天イーグルスと奉天コンドルスは本拠地を移した(偶数月はイーグルスが、奇数月はコンドルスが優先権を持つ)。

 

 2007年のシーズン終了前、翌シーズンから両リーグで2球団、計4球団の新規参入を行う事が決定された。その為、参入希望者が募られ、次の4球団の参入が決定した。

 

〈セ・リーグ〉

・哈爾浜ホワイトソックス

・錦州ガーディアンズ

 

〈コ・リーグ〉

・斉斉哈爾カブス

・佳木斯アスレチックス

 

 新規参入も決定し、2008年シーズンが開催された。ホワイトソックスの最下位はある程度予想されていたものの、それでも首位ドラゴンズとのゲーム差28.5と戦力不足の状況を鑑みれば充分に健闘した結果と言える。それ以外の球団は、アスレチックスは6位、カブスは5位とこちらも健闘し、ガーディアンズに至っては首位レッドソックスとのゲーム差12.0の3位と参入初年からAクラス入りと今後の大波乱を予想させる結果となった。

 実際、2014年のセ・リーグペナントレースでは、ガーディアンズが球団創設7年目にしてリーグ優勝を成し遂げた。その後の満州シリーズでも、大連ホエールズを4勝1敗で下すして満州一に輝くなど、素晴らしい結果を出した。

 翌シーズンにはアスレチックスがリーグ初優勝を果たしたものの、セ・リーグ優勝チーム・四平ドラゴンズとの満州シリーズはストレート負けとなった。それでも、8年目でリーグ優勝した事は自信を付ける結果となった。




満州シリーズの結果(1970年~1984年)
(西暦:前期優勝チーム―ナ・後期優勝チーム(○は満州一、●は負け):満州一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1970:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/1/1)
1971:●大連ホエールズ―〇奉天イーグルス(4/2)
1972:〇新京ジャイアンツ―●新京ユニオンズ(4/3)
1973:●新京ユニオンズ―〇大連ホエールズ(4/1)
1974:●安東タイガース―〇撫順ライオンズ(4/0)
1975:●鞍山ブレーブス―〇新京ジャイアンツ(4/1/1)
1976:〇遼陽レッドソックス―●大連ホエールズ(4/1)
1977:(新京ジャイアンツが前後期優勝した為、開催されず)
1978:●新京ユニオンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1979:〇撫順ライオンズ―●安東タイガース(4/1)
1980:●安東タイガース―〇鉄嶺ファイターズ(4/2)
1981:(大連ホエールズが前後期優勝した為、開催されず)
1982:●新京ジャイアンツ―〇安東タイガース(4/3/1)
1983:●安東タイガース―〇新京ジャイアンツ(4/1)
1984:(奉天イーグルスが前後期優勝した為、開催されず)

満州シリーズの結果(1985年~2015年)
(西暦:セ・リーグ優勝チーム―コ・リーグ優勝チーム(○は満州一、●は負け):満州一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1985:●新京ジャイアンツ―〇大連ホエールズ(4/1)
1986:〇新京ジャイアンツ―●新京ユニオンズ(4/3)
1987:〇四平ドラゴンズ―●鞍山ブレーブス(4/1)
1988:〇奉天イーグルス―●遼陽レッドソックス(4/0/1)
1989:●撫順ライオンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1990:●安東タイガース―〇新京ユニオンズ(4/3/1)
1991:●新京ジャイアンツ―〇遼陽レッドソックス(4/2)
1992:〇撫順ライオンズ―●大連ホエールズ(4/3)
1993:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/2/1)
1994:●大連マリーンズ―〇大連ホエールズ(4/1)
1995:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1996:●新京ジャイアンツ―〇奉天コンドルス(4/3/1)
1997:●新京ジャイアンツ―〇新京ユニオンズ(4/0)
1998:●奉天イーグルス―〇奉天コンドルス(4/2)
1999:〇撫順ライオンズ―●遼陽レッドソックス(4/1/1)
2000:●安東タイガース―〇鉄嶺ファイターズ(4/2)
2001:〇新京ジャイアンツ―●鞍山ブレーブス(4/1/2)
2002:〇安東タイガース―●新京ユニオンズ(4/2)
2003:●奉天イーグルス―〇大連ホエールズ(4/2/1)
2004:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/1)
2005:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/3/2)
2006:●大連マリーンズ―〇鉄嶺ファイターズ(4/1/1)
2007:〇撫順ライオンズ―●鞍山ブレーブス(4/1)
2008:〇四平ドラゴンズ―●奉天コンドルス(4/0)
2009:●新京ジャイアンツ―〇遼陽レッドソックス(4/1/1)
2010:〇奉天イーグルス―●新京ユニオンズ(4/2/1)
2011:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/0)
2012:●奉天イーグルス―〇大連ホエールズ(4/2)
2013:●新京ジャイアンツ―〇大連ホエールズ(4/1/2)
2014:〇錦州ガーディアンズ―●大連ホエールズ(4/1)
2015:〇四平ドラゴンズ―●佳木斯アスレチックス(4/0)

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