架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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8話 明治初期③:大室財閥(8)

 彦兵衛商店が設立して以降、時間と共に規模や業績は拡大していった。主な事業内容は商社と海運業だった。

 

 商社部門は、彦兵衛商店の祖業と言える。設立当初から扱っている茶や染料、美術品に、その後洋書や国内開発や産業開発用の機械や資材も扱う様になった。洋書については前述しているが、それ以外の機械や資材の取引は、外国の商館を吸収する事で獲得した。

 明治に入ってしばらくすると、日本に進出したは良いものの利益を上げられない商館も出てきた。利益を上げられない以上、店舗を置き続ける事に意味は無い為、引き上げるものも多かった。

 これに彦兵衛商店は目を付けた。外国の商館が持っている代理店の機能や販売ルートを利用できれば、取り扱える商品の種類を増やす事が出来る上に、輸出先も増やせると踏んだ。勿論、逆に利用されて買い叩かれるという意見もあった。だが、ここは積極姿勢で行くべきという彦兵衛の熱意によって、撤退する商館の買取に走った。

 結果的にこれが功を奏した。三井物産や大倉組(後の大倉商事)、高田商会には劣るものの、国内の商社では前述の3社に次ぐ規模に拡大した。主要取引先は、洋書の取り扱いで繋がりを得た内務省と文部省、産業振興を行っていた工部省である。内務省・工部省向けに各種機械や鉄道用資材、鉱山用資材を、文部省向けに教材が納められた。特に内務省・工部省向けの納品は、当時両省が「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下、国内の開発に勤しんでいた時期であった為、大きな需要があった。

 しかし、1880年代半ばになると、官営の工場や鉱山が民間に払い下げられた事、それによって工部省が廃止された事で大きな需要を失ってしまう。これによって、彦兵衛商店の業績は悪化するかと思われたが、そうはならなかった。

 

 1880年代半ばは、後で言うところの「第一次鉄道ブーム」であった。日本鉄道(現在の東北本線や常磐線などを建設した会社)から始まり、日本各地で鉄道会社が設立され、日本中に線路が敷かれた時期だった。つまり、鉄道を造る上で必要になる線路や車輛、枕木などの需要が高まっていた。そして、当時の日本でこれらを自作出来る能力は無かった為、輸入するしかなかった。

 そして、彦兵衛商店は内務省・工部省関係で鉄道用資材の輸入経験がある事から、この需要に乗っかる事が出来た。その為、彦兵衛商店の被害は最小限で済む所か、彦兵衛商店が自前の銀行を持っている事から、銀行による出資と合わせて、資材と資金の両面で鉄道会社に強い影響力を有する事が出来た。この時の経験から、鉄道会社との関係を強めていく事となる。

 

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 彦兵衛商店では幕末から明治にかけて、廻船問屋を多数吸収した。これによって、自前の流通機能を有する事が出来、今までネックだった仕入れ元(京都周辺)から店舗(横浜)への時間を大幅に短くする事が出来た。明治が10年程経過してもそれは変わらない所か、仕入れ元を増やす事が可能となり、扱う品や量を増やす事による増益も出来た。加えて、佐賀の乱から始まり西南戦争までの士族の反乱では、微力ながら物資や兵員の輸送に関与して、この時に陸軍や海軍とのパイプを形成する事に成功した。

 その一方、当時の日本近海の海運は、三菱系の「郵便汽船三菱会社」と三井・政府色が強い「共同運輸会社」に二分されていた。両社は後に統合して日本郵船となるが、当時はがっぷり四つに組んでの大激闘を繰り広げていた。共同運輸会社の運航開始は1883年1月(設立は前年7月)であり、日本郵船の設立は1885年9月の事の為、約2年半の間で共倒れになるのではと言われる程激しい競争が行われていた。

 両社の競争が行われていた頃、彦兵衛商店の海運部門は特に何もしていなかった。政治的影響力や資金力の面で三菱に勝つ事は不可能と悟っており、極力競争しない分野(地方間航路や自社の貨物だけを扱うなど)に進出した事で何とか生き残った。

 

 拡大こそ小規模だったが、海運部門も十分に稼ぎ頭だった。一方、日本郵船の設立は、再び国内航路が独占になるのではという恐れから、彦兵衛商店では海運部門の拡大強化に乗り出した。同時に、彦兵衛商店の海運部門を「大室船舶」として独立させた。これは、海運部門が大きくなり過ぎる事による経営資源の配分問題、彦兵衛が商社部門に注力したかった事に起因する。

 

 この時、彦兵衛は自力での船舶建造を考えた。現在保有している船舶は、全て外国からの輸入であり中古も多かった。国内で建造したものは多くが帆船であり、汽船が多い日本郵船や海外の海運会社と競争するには不十分だった。その為、自力での船舶建造を考えたのだが、三菱と異なり造船所の払下げを受けていない事から、自前で造船所を建設しなければならなかった。流石にそこまで自力で行うのは負担が大き過ぎる事から、この時は諦める事となった。自前の造船所を有するのは、日清戦争後の1899年まで待たなければならなかった。

 

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 上記2つの業務に加えて、彦兵衛商店ではある事が重視されていた。それは「情報」である。戊辰戦争時の経験から、情報を素早く手に入れる事で決断を下しやすくなると学び、急速に発展する新聞を見て、情報を素早く集める手段になると睨んだ事で、多くの新聞社を傘下に収めた。そして、東京・横浜・京都・大阪・神戸に出店した事は、より多くの情報を複数の目線で見る事を目的としていた。それだけ、彦兵衛は情報を重視した。

 この為、彦兵衛商店内に独自に経済・治安・風習などを調査する部署が設けられた。商社と海運は、国内各地で取引を行う事から、調査をするのに打って付けだった。調査部門は長らく商社の一部局として存在しながらも、海運部門や金融部門とも緊密な繫がりを持っていた。




次からは、大室財閥とは別の財閥の話になります。数話使うかもしれません。「なぜここで?」と思うかもしれませんが、

・時系列順に並べたい
・戦後に中外グループとして合流する

事が理由です。その為、大室財閥とは無関係ではありません(戦前だと繫がりは弱い)。

次回も見てください。

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