架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:アジアシリーズ②

 1989年、第二回アジアシリーズが開催される事となるが、この回から韓国も加わる事となった。この年は台湾で行われる事となり、参加チームはNPBは読売ジャイアンツ(巨人)、TPBLは基隆台塑ホエールズ、MPBAは鞍山ブレーブス、KBOはヘテ・タイガースとなった。

 当初、MPBAの参加は難しいと見られた。同年、満州の社会主義政権が崩壊し、国号も「満州民主共和国」から「満州連邦共和国」に変更された。これに伴う混乱で状況が不安定で、スポーツをする余裕が無いのではと見られていた。

 しかし、政権崩壊と言っても自由選挙の導入の結果による政権交代程度でしか無く、その政権与党も今までの支配政党だった満州社会党の改革派が中心の満州社会民主党の為、大きな混乱は発生しなかった。また、国民の多くが政治改革・経済改革と同時にスポーツを望んだ為、アジアシリーズ不参加は選択肢に無かった。その為、MPBAは予定通り参加する事となった。

 

 この年から4チームになったが、試合方法は前回と同様だった。予選の結果は、巨人が4勝2敗、台塑が3勝3敗、鞍山が4勝2敗、ヘテが1勝5敗となった為、決勝戦は巨人と鞍山ブレーブスとなった。

 因みに各チームの対戦内容は、巨人は台塑と鞍山に1勝1敗、ヘテに2連勝、台塑は巨人・鞍山・ヘテに1勝1敗、鞍山は巨人と台塑に1勝1敗、ヘテに2連勝、ヘテは巨人と鞍山に2連敗、台塑に1勝1敗だった。

 決勝戦の結果は、7-5で鞍山が勝利した。勝利の仕方も劇的で、9回表開始時に2点ビハインドだった鞍山が、先頭打者がヒットで出塁し、その後はアウトとヒットの繰り返しで2アウト満塁となった。この時のバッターが9番・ピッチャーだったので代打が送られた。代打が初球を打ち、それがホームランとなった事で鞍山は2点勝ち越しとなった。その裏、巨人は3番からの打線だったが、鞍山は絶対的なクローザーを投入し3者凡退でゲームセットとなった。

 第2回優勝チームとなった鞍山には、優勝ペナントとスポンサーからの賞品・賞金が授与された。満州にとって、NPBの最優秀チームを下してのアジアの覇者に輝き、国家の新しい船出を祝う幸先の良いスタートとなった。

 

 一方、優勝を逃した巨人だが、日本一になった事への慢心があったのか、試合後半は明らかに精彩を欠いていた。そこを鞍山に付け込まれた結果が、9回表の逆転満塁ホームランと9回裏のクリーンナップの3者凡退だった。

 だが、巨人はこの敗戦を「データ不足」が原因によるもので考えを止めていた。実際は、攻守の隙を突かれた事が原因だったのだが、巨人は選手・ベンチ共にそれに気付く事は無かった。その結果、翌年の日本シリーズでのストレート負けに繋がった。

 他のチームは、台塑は勝率を五分五分まで持ち込めたことは大きいと考えていた。それも、目標としているNPBとMPBAの優勝チームに五分五分の戦いが出来た事は非常に大きな収穫だと感じた。

 それでも、矢張り決勝に進みたかったという想いは強かった。日台シリーズの頃から対戦しているが未だに優勝していない為、決勝に進んで優勝したいという気持ちが強かった。その為、更なる技能向上とNPB及びMLBとの連携強化を模索するが、翌年に新リーグ設立問題で台湾プロ野球界が混乱した為、そちらの対処に時間と労力が取られ、技能向上は後回しになった。

 初参加のKBOは、最も敵視していたNPBに手も足も出なかった事(9-0、11-1)もショックだったが、(勝手に)格下と思っていたMPBA・TPBLに勝ち切れなかった事もショックだった。しかし、それを自身の実力・経験不足では無く、「相手の運が良かっただけ」としてしまった。また、「相手に有利で地震に不利な誤審があった」という意見もあり、実際にNPB・TPBL・MPBAに抗議しているが相手にされなかった。逆に、3者から「危険行為をするな」という忠告を喰らったが、KBOは聞く耳を持たなかった。

 

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 1991年、1993年も無事に大会を行う事が出来た。優勝チームはそれぞれ西武、新京ジャイアンツだった。

 だが、1993年の第4回大会はTPBLにとって歴史的な大会となった。初めて決勝に進んだ為である。

 

 第4回大会の出場チームは、NPBはヤクルトスワローズ、TPBLは台南台糖カブス、MPBAは新京、KBOはヘテとなった。優勝候補は、ID野球でペナントレース・プレーオフ・日本シリーズを制して初めての日本一に輝いたヤクルトか、何度も満州シリーズを制している新京のどちらかと見られていた。

 しかし、予選の結果、ヤクルトが3.5勝2.5敗、台糖が4勝2敗、新京が4.5勝1.5敗、ヘテが0勝6敗となり、決勝進出は台糖と新京になった。ヤクルトの敗因は、台糖の投手陣を攻略出来なかった事による貧打だった。

 決勝戦は、最初から両チームの打線が爆発した。1回表に新京の先頭打者が初球にホームランを打つと、その裏に台糖が2者連続ホームランで逆転した。その後、両チームはヒットを打ち続け、最終的に41本の安打が出たが(新京:16本、台糖:25本)、試合結果は14-9で新京が勝利した。台糖の敗因は、安打数こそ多いものの、要所要所で新京の投手に止められた事で流れを呼び込めなかった事にあった。

 

 TPBLは敗れたものの、初めて決勝の舞台に立てた事の歓喜は大きかった。決勝戦の視聴率も、台湾で行われた事もあり40%越えを記録した。

 だが、攻めの甘さによって安打数の割に点を取れなかった事、投手陣が踏ん張り切れなかった事を指摘された。これについては台糖及びTPBLも認識しており問題解決を急ぎたかったが、この年に新リーグである太平洋職業野球連盟(PPBL)が始まった事で、選手の獲得や引き抜きなどの問題が多発した為、解決の方が最優先となり、技能の改善は中断する事となった。

 この余波は長引き、21世紀に入るまで台湾プロ野球はアジアシリーズで好結果を残す事が減る事となった。

 

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 1994年、翌年の大会で新たな試みとして出場チームの拡張が検討された。この予定では、比較的野球が盛んな中華民国(海南島)・フィリピン・ベトナム(※)・オーストラリアの4か国の招待となっていた。「アジアシリーズ」と銘打っておきながら、4か国のみというのは寂しかったし、「アジア地域での野球振興」がアジアシリーズの目的の一つの為、現状で野球が比較的盛んな国の参加を求めた。

 3か国からの返事は、条件付きながら賛成だった。各国の条件は殆ど同じで、「渡航費用は相手持ち」と「自国の野球振興の費用の肩代わり」だった。

 この要求に対し、日台はフィリピンとオーストラリアの、満州はベトナムの支援を表明し、海南島については3国で共同で出す事となった。海南島と3国の関係は控えめに言って良好と言えない為、3国による共同支援という形にした。

 尚、支援の動きに対して韓国は資金不足から何も出来なかった。

 

 翌1995年、第5回アジアシリーズが日本で開催された。出場チームは、NPBが阪急、TPBLが台北台湾時報イーグルス、MPBAが鞍山、KBOがLGベアーズとなった。海南島(CPBL)は統一ライオンズが出場し、オーストラリア(ABL)はリーグ選抜チームが編成され、フィリピンとベトナムはプロリーグが存在しない事からアマチュアによる選抜チームが編成された。

 8か国と多くなった為、この年から開催方法が以下の様に変更された。

 

・予選として、4チーム×2ブロックに分け、ブロック内で2試合の総当たり戦を行う。ルールは今まで通りとする。

・ブロック内で勝ち数が多かった2チームが準決勝進出。勝ち数で決まらなかった場合の取り決めは今まで通りとする。

・準決勝も2試合の総当たり戦を行い、上位2チームが決勝進出。ルールは予選に準ずる。

・決勝戦は今までと同じ方法で行う。

 

 ブロック分けによって、Aブロックには日本・韓国・ベトナム・オーストラリアが、Bブロックには満州・台湾・海南島・フィリピンとなった。

 予選の結果、Aブロックから日本とオーストラリアの出場が確定した。ベトナムは、オーストラリアと勝敗数・直接対決の勝敗数が同じだったが、得失点差(オーストラリア:+3、ベトナム:+1)で惜しくも敗れた。しかし、対日戦では勝ち越しており(オーストラリア:0.5勝1.5敗、ベトナム:1勝1敗)、どちらが勝ってもおかしくなかった。

 Bブロックの結果は、満州と台湾となった。こちらは順当な結果と言えたが、フィリピンが満州から1勝した事はMPBAにとって意外だった。勝手に格下と考えていたが、「勝負は時の運」であると考え直した。

 

 準決勝は日本・オーストラリア・満州・台湾となった。オーストラリアを除けばアジアシリーズ発足時の加盟国であり、プロ野球の歴史も長い。そうなると、技術面ではこの3国が上だが、その中だと台湾が下だった。

 結果もそうして表れ、上位2チームは日本と満州だった。オーストラリアは満州に、台湾は日本にそれぞれ1勝して意地を示した。

 決勝は阪急と鞍山の一騎打ちとなった。偶然か共にチーム名は「ブレーブス」であり、日満のマスコミは共に「勇者の決闘」と宣伝した。

 試合結果は、阪急が7-3で鞍山を破って優勝した。この年、阪神・淡路大震災で以前の本拠地だった西宮市は大きな被害を受け、現在の本拠地である京都市でも被害が生じた。この年のナ・リーグ優勝チームのオリックスと共に震災復興のシンボルとなり、阪急のアジアシリーズ制覇は大きな象徴となった。




※:満州からの経済進出や技術提供、満州への移民からの情報で、社会人野球が盛んになった。その後、学生野球が盛んになり、20世紀末には社会人野球リーグや学生野球リーグが行われている。

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