架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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申し訳ありません。当初予定の別の財閥の話ですが、考えを纏める内に明治初期(明治10年代)では合わない事が分かりました。その為、大室財閥に関する話が続く事となりました。読者を裏切ってしまい申し訳ありませんでした。

また、今回の話は7話の後半に書いた保険会社の事が多くなります。1度書いた部分ですが、今回は設立の経緯を少し掘り下げています。


9話 明治中期:大室財閥(9)

 大室財閥は、1880年代までの業種は商社・海運業・銀行・保険(損害保険)・新聞の5つだった。これだけでも、当時から見れば多角的な経営を行っていると見られただろう。これが更に多角化していくのは、日清戦争以降の事となる。少し時を進める事となる。

 

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 1894年、日清戦争が勃発した。東アジアの大国清との、朝鮮半島の主導権を巡る戦いが始まった。詳しい結果はここでは述べないが、日本が勝利した。その講和条約である下関条約によって、朝鮮半島の独立や賠償金の獲得、台湾と澎湖列島、遼東半島の割譲が決定した。

 

 この戦争中、大室財閥が行っていた事は兵員・物資の輸送ぐらいだった。海運業を行っていた為、朝鮮半島に送る兵員や物資の輸送に動員された。

 しかし、この時の動員である事実が出た。それは、「船が徴収されると、自前で活用できる船が殆ど無い」事だった。実は、彦兵衛商店が所有している船は、自分達の需要を満たす程度しか無かった。その為、今回の様な事態が発生すると、会社の経営が危うくなると見られた。実際、戦争中の商社部門の売り上げが、前年比2割減だった事を考えると、この事態は危険だった。

 その為、以前考えられていた「自前の造船所を保有する」計画が実行に移される事となった。場所は、堺が選ばれた。その理由は将来の事を考えて拡大しやすい事、鉄の加工に慣れた人材が多い事にあった。前者は言うまでも無いが、後者については少し説明しておこう。

 堺では、戦国時代から鉄砲の生産で知られており、刃物の生産でも有力な場所であった。加えて、この世界では堺の刀鍛冶や鉄砲鍛冶が合同して「堺鉄鋼金物」という会社を1888年に設立している。大室商店はこの会社と合弁という形で、1895年に「堺造船所」を設立した。この翌年に造船奨励法が交付され、造船所の建設に補助金が出る事も追い風となった。その後、造船所の建設が行われ、1899年に造船所としての機能がスタートした。

 ここで最初に建造された船に「大室丸」と名付けられた。1902年に竣工、総トン数は1200トンと小さく性能も平凡だったが、初めて建造した事に意義があった。この船は都合4隻建造され、彦兵衛商店の海運部門に投入された。

 

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 生命保険と動産保険が設立されたのもこの頃だった。

 生命保険は、当初こそ『人の生死を操れる』といった迷信があった事から不調だった。実際、大室財閥も一時近いものを持っていたが直ぐに手放している。しかし、前述した様に明治生命の成功によって、1890年までに帝国生命と日本生命が設立された。この3社の成功と日清戦争による死傷者の増加によって生命保険が軌道に乗れる条件があった事から、生命保険への参入が急がれた。当時は生命保険会社が乱立していた時期であり、この流れに遅れると先発会社に契約を取られ、経営が安定しないと考えられた為だった。

 こうして1899年に、大室火災保険が買収した保険会社の生命保険事業を分離・新設する形で「東亜生命保険」を設立した。当初は、大室財閥各社の社員とその家族を対象とした小規模なものだったが、その後は、日清戦争後に乱立した生命保険会社を買収する事で拡大し、銀行や商社の支店網も活用して日本各地で活動する様になった。加えて、この後の日露戦争や日本経済全体の拡大に伴い急速に規模が拡大し、千代田生命や帝国生命と肩を並べるまでになった。

 

 もう一つの動産保険は、倉庫業を始めた事と関係する。中核企業の彦兵衛商店内に、倉庫部門が設置された。これにより自社だけでなく、広告などで取引関係となった他者の荷物を扱う様になった。

 しかし、1893年に所有していた倉庫が火災で全焼、荷物も全て焼失する事件が起きた。発火原因は、自社の社員のタバコの不始末であった。これにより、彦兵衛商店は取引先に荷物の焼失に対する責任を負わなくてはならず、最終的に彦兵衛商店の謝罪と多額の賠償金によって決着した。

 これを機に、荷物が火災に遭っても被害を最小限に抑えられる保険、つまり動産保険を扱う会社の設立が検討された。当初は大室火災保険に任せる案もあったが、1社に集中させると万が一被害が多数発生した場合、保険金の支払いでショートする可能性を考えると、動産保険を担当する保険会社を別個で設立した方が良いと判断された。その結果、1897年に「大室倉庫保険」が設立された。

 大室倉庫保険はその設立目的から、当初の顧客は自社と自社と取引のある会社には限られていた。その為、規模としては小さかったが、万が一倉庫や荷物に被害があっても補償が発生する事が口コミで広がり、自然と保険加入者が増加していき、年々契約数も増加した。これにより大室倉庫保険は、彦兵衛商店や大室火災保険と並んで大室財閥の中核をなすようになった。


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