架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:中外グループの社会人野球(2リーグ分立後~1980年代)

 リーグ拡張による選手の大量引き抜きという事態はあったものの、社会人野球の選手人口は拡大し続けた。まだプロ野球は賤業、つまり「下賤な者が行う卑しい職業」と見做されていた時代であり、アマチュア野球の方が人気があった。その最たるものが高校野球なら夏の甲子園、大学野球なら六大学、社会人野球なら都市対抗である。

 この関係が逆転するのは、1959年6月25日の後楽園で行われた巨人対阪神の天覧試合まで待たなければならなかった。

 

 プロ野球の人気が高まる一方、社会人野球の人口も拡大した。当時、復興景気や朝鮮特需、それに続く高度経済成長期によって、1950年代初頭から1970年代初頭までの約20年間は一時的な景気の落ち込みはあったものの、好景気が長く続いた。それに伴い、社会人野球の規模が拡張し、新規に参入する所も増えた。特に、重工系の社会人チーム(新日鐵堺や日本石油、日産自動車など)はこの頃に設立されたものが多い。

 この時のチーム拡大と樺太及び沖縄の存在によって、1959年の第30回都市対抗から出場チームは30に変更となった(※1)。その後、順次出場チーム数は拡大され、1964年の第35回大会から36チームと固定される(※2)。これにより、史実では出場しなかったチームが出場する様になる。

 同様に、日本選手権も最初の出場チーム数は24で(※3)、以降順次枠を拡大させ、最終的に都市対抗と同じく36チームで覇を争う事となる(※4)。その為、こちらも同様に史実では出場出来なかったチームが出場する様になる。

 

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 中外グループでは、本業の拡大に伴い、社会人野球の拡大も行われた。一時はプロ野球に選手を引き抜かれたが、本業の拡大は人員の拡大を呼び、人員の拡大は選手層の厚みを意味した。そして、プロ野球の人気は1959年の天覧試合まで微妙なものだった為、優秀な人材は社会人に入ってきやすかった。

 実際、東京六大学や東都、関西六大学(※5)や近畿学生野球連盟など、大学野球の有力連盟出身の選手がこの頃は多く入ってきた。プロ野球の人気がアマチュア野球と逆転した後は有力連盟出身の選手は少なくなった一方、東京新大学野球連盟、首都大学野球連盟、京滋大学野球連盟、阪神大学野球連盟など新興の大学野球連盟出身者や高卒選手が多くなった。

 

 この頃の中外グループの野球部について、元大室財閥、元日林財閥、元日鉄財閥の順に述べていく。

 

 大室物産は、1966年に日林物産を合併したが、日林物産は野球部を持っていた為、大室物産はそれを引き継いだ。チーム名は「大室物産野球部」と変更になったが、体制の変更は無かった。

 当時、商社は花形産業の一つであり、優秀な人材が入ってきやすかった。日林物産時代は東京新大学や首都大学などからの選手が多かったが、大室物産と合併した事で変化した。当時の大室物産は三井物産や三菱商事程では無いにしても人気の就職先であり、東都や関西六大学、東京六大学出身の選手が入る様になった。

 この恩恵を受け、1968年の第39回都市対抗で初出場してベスト4進出、翌年の第40回大会では決勝まで進出するも電電関東に敗れて初優勝とはならなかった。ここまで進出出来た背景として、六大学出身者が多数入ってきた事が大きかった。その後も、何度か都市対抗や日本選手権に出場しているものの、中々優勝出来ない状況が続いた。

 

 大室重工業は、横浜と堺、徳島に野球部を置いている。この中では徳島が強豪だが、1947年以来、都市対抗の出場は長い事無かった。だが、出場枠が拡大した1960年の第31回大会に大室重工徳島は2度目の出場を果たした。準決勝で熊谷組に敗れたものの、3位決定戦で三菱重工名古屋を大差で破って3位入賞という結果となった。それ以外のチームは、横浜は1962年に、堺は1966年に出場したものの、前者は1回戦敗退、後者は準々決勝敗退という結果に終わった。だが、その後の3チームは何度か都市対抗及び日本選手権に出場している為、決して弱いチームではない。

 オイルショック後の1975年に中外グループ内の重工業の整理が行われ、日本鉄道興業の造船部門を統合した。これにより、日鉄の防府と大分の造船所が大室重工に移ったが、大分造船所は日鉄大分野球部を保有していた。野球部は大室重工に移り「大室重工大分野球部」として存続したが、日鉄に残った千葉や防府に有力選手を移した為、弱小チームに転落した。

 その後、他の大室系野球部から人員を移したり、積極的な補強を行ったものの、三菱重工長崎や新日鐵八幡などの壁は厚く、中々都市対抗や日本選手権に勝ち進めなかった。この状況が終わるのは、1988年の第15回日本選手権に初出場し準優勝するまで待たなければならなかった。

 

 大室鉱業と大室金属鉱山は、共に岩手県を本拠地とするが、県内の富士製鐵釜石(後の新日鐵釜石)と盛岡鉄道管理局(国鉄民営化後に仙台鉄道管理局と合併して「JR東日本東北」となる)、宮城県の仙台鉄道管理局といった強豪の存在から都市対抗進出は叶わなかった。その後、国内鉱山の採掘量減少や採掘コストの高騰、海外産の安い鉱石の大量流入などにより、1960年代中頃から経営が厳しくなっていた。特に大室鉱業は炭鉱事業が中心の為、エネルギー革命の影響も受け、1960年代から国内炭鉱の多くを閉山するなど事業転換を強いられていた。その一環で、経営合理化の為に野球部を休止せざるを得なくなり、大室鉱業は1965年に、大室金属鉱山は1971年に休止した。共に都市対抗への出場経験が無いままの休止であった。

 その後、大室鉱業はセメントメーカーに転換して業績を伸ばし、1982年に野球部は復活したが、大室金属鉱山は再開する事は無く1980年に廃止となった。復活した大室鉱業野球部だが、17年間のブランクは大きかった。再開して十数年間は都市対抗及び日本選手権への出場は出来ず、1997年の第67回大会でようやく初出場する事となる(結果は準々決勝敗退)。

 

 新東繊維は、1952年に野球部を設立した。本拠地は工場のある埼玉県となった。だが、埼玉県は強豪の日本通運と本田技研の存在から都市対抗への進出は叶わなかった。その後、オイルショックによる本業の打撃から野球を続ける余裕が無くなり、1974年に廃部となった。この時、部員は大室物産や大室重工千葉など、関東を本拠地とする他の中外グループの野球部に移籍した。

 

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 日本林産は、1960年の第31回大会に日本林産四国が初出場した。結果は2回戦敗退だったが大室重工徳島だった。四国は翌年も出場し、1963年には日本林産山陰が初出場したものの、共に1回戦で敗退した。

 高度経済成長期までは拡大期であったが、外材の輸入量増大と国産材の価格高騰などで減益となった。そうなると、金が掛かる社会人野球を続けるのは難しかったが、社内からは全廃に対する反対が強かった。だが、当時3チーム保有しており、どのチームを残すべきかが焦点となった。真っ先に強豪相手が多い中部が廃部対象に上がったが、残る四国と山陰のどちらを残すかが問題となった。これも、強豪相手が多い四国では都市対抗進出は難しいと見られ、最終的に山陰を残して後の2チームは廃部が決定した。だが、ここで日林製紙から「四国の野球部を譲り受けてもらえないか」という声が掛かった。日本林産からすれば特に問題は無かった為、二つ返事で了解した。

 1969年に中部の廃部と四国の日林製紙への譲渡が正式にアナウンスされ、翌年に実行された。これによって中部は廃部となり、部員の多くは山陰に移動した(一部は日林製紙に移動)。日本林産山陰野球部は「日本林産野球部」に、日本林産四国野球部は「日林製紙四国野球部」にそれぞれ改称した。

 

 日林製紙は、大室製紙や山陽国策パルプと各社の子会社と1972年に合併して「扶桑製紙」を設立したが、これに伴い日林製紙の各野球部も改称した。また、合併時から北海道の野球部が存在した為、1978年の山陽国策パルプ旭川硬式野球部は設立されなかった。

 日林製紙時代、北海道、四国、宮崎の各野球部は都市対抗及び日本選手権への出場経験は無く、1976年に北海道が都市対抗に出場したのが初めてだった(結果は2回戦敗退)。その後、同じ年の日本選手権に宮崎が、1979年には四国が都市対抗と日本選手権の両大会に初出場したが、共に1回戦で敗退した。

 

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 かつて日鉄系だった鉄道会社の内、北陸鉄道(加越電気鉄道、温泉電軌)と駿遠鉄道(藤相鉄道)は野球部を保有しており、戦後もそれは変わらない。一時はプロ化も考えられたが、球団の枠や選手の問題、プロ化への抵抗感も強く実現しなかった。

 この内、北陸鉄道は1965年の第36回大会に初出場するも、初戦敗退となった。次に出場したのは、加越能鉄道に社名を変えて2年後の1979年の第50回大会であり、準決勝で三菱重工広島に敗れたもののベスト4にまで進出した。

 駿遠鉄道は、日本楽器(現・ヤマハ)や大昭和製紙など静岡県内での競合相手が多かったが、1957年の第28回大会に初出場して初優勝を果たした(※6)。だが、日本楽器と大昭和製紙の壁は厚く、出場枠が拡張した1960年以降も中々勝ち上がれず、次に出場するのは28年後の1985年の事だった(結果は2回戦敗退)。

 

 戦後になって保有したのは、山陽電気鉄道(山電)と札幌急行鉄道(札急)の2社である。

 山電は、1950年から2軍だけだがプロ野球チームを保有していた。しかし、2軍だけでは経営が成り立たなかった事、岡山延伸に注力した事から1952年のシーズン中に解散した。その後、経営が落ち着いた頃に野球部の復活運動が興り、1957年に「山陽電気鉄道硬式野球部」が設立され、再度野球に参加する事となった。だが、2軍時代とは異なり、本拠地は岡山県に移した。これは、兵庫県は三菱重工神戸や富士製鐵広畑といった強豪や、川崎製鉄神戸や神戸製鋼といったライバルが多く苦戦が予想される事から、ライバルが少ない岡山県に移した。

 都市対抗の初出場は1960年の第31回大会だが、2回戦で敗退した。その後、1966年の第16回サンベツ(※7)で初出場で初優勝(※8)、1968年の第39回都市対抗に出場してベスト4となるなど60年代は強豪として名を馳せ、その後も都市対抗や日本選手権に何度か出場している。

 

 札急は、前身会社の関係から定鉄―東急派と石狩―京成派の内部対立が酷い状況だった。その内部融和の一環と北海道における社会人野球の新興勢力になる事を目的に、1981年に「札幌急行鉄道野球部」が設立された。当時の北海道5強(※9)の壁は厚かったが、打撃力はあるチームの為、北海道における台風の目として恐れられていた。

 社会人野球でも指名打者制度が導入された1988年の日本選手権(都市対抗でも翌年から導入)、札急の打線は火を噴き北海道・樺太に一大旋風を巻き起こした。極端な打高投低で一発勝負のトーナメント戦にも拘わらず、北海道5強を真っ向から打ち砕いて初出場、同時に初優勝を成し遂げた。年が明けてもこの勢いは止まらず、都市対抗も初出場、「前年の日本選手権の再来」と言われてこちらも初優勝を成し遂げた。

 

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 都市対抗や日本選手権への出場が中々出来ないとなると、野球部を持つ熱意が徐々にだが薄れていった。勿論、都市対抗や日本選手権での優勝だけが社会人野球の目的では無い為、保有は続けられた。

 しかし、景気の悪化で本業に支障が出てくると、本業への集中や合理化の為に廃部となるチームも出た。実際、炭鉱系のチームはエネルギー革命の頃に本社の経営が危なくなった事で解散となったチームが多く(日炭高松、日鉄北松など)、オイルショックとその後の不況で本業の方が傾いた事で、経営合理化の点から解散となるチームが多かった(クラレ岡山や東洋紡岩国、四国電力など)。その間でも、不況や本業拡大による合理化などで解散するチームは多かった(丸井や新潟交通、三重交通など)。

 中外グループも例外では無く、鉱業系の大室鉱業と大室金属鉱山、繊維系の新東繊維が休廃部した事は前述しており、そうならなかったチームでも運営費の削減や新規部員の応募休止などを行っており、少しでも経費の削減が行われた。

 それでも、「社会人野球を辞める」という選択肢は無かった。

 

 オイルショック後も、社会人野球の新規参入は止まらなかった。重工といった従来の業種以外にも、金融や小売など新たな業種からの参入も多く見られた。

 1975年、中外グループの生命保険会社の1つである三洋生命が軟式野球部を硬式野球部に転向した。これは、前年に日本生命が日本選手権に出場した事に影響された為だった。これに対抗する様に、翌年には中外グループのもう1つの生命保険会社である昭和生命が準硬式野球部を転向させて参入し、同じ年に協和大同銀行も旧協和銀と旧大同銀の内部融和を目的に軟式野球部を転向して参入した。本拠地は、三洋生命と昭和生命は東京に、協和大同銀行は大阪とした。協和大同の本店は東京だが、旧大同銀の顔を立てる為に大阪を本拠地とした。

 だが、グループの中核でもある中外銀行、大室と共立の両信託銀行、日鉄と大室の両証券会社、大室と昭和の両損害保険会社は参入しなかった。これは、全て本社が東京に置かれており、仮に参入した場合は東京を本拠地とする事となる。ただでさえ激戦区の東京にこれ以上増やすのは良い事では無い為、硬式野球部への転向はせずに軟式野球及び準硬式野球のままとした。

 硬式野球部に転向した三洋生命、昭和生命、協和大同銀行だが、東京及び大阪は激戦区である為、都市対抗及び日本選手権への出場には少々時間が掛かった(地区連盟主催大会(※10)は幾つか制している)。それでも、三洋生命は1986年の都市対抗と1987年の日本選手権に、昭和生命は1980年の都市対抗、協和大同銀行が1981年の都市対抗に出場しており、結果はそれぞれ2回戦敗退、1回戦敗退、準々決勝敗退、準々決勝敗退となった。

 

 小売だと、GMS(ゼネラルマーチャンダイズストア。イオンやイトーヨーカドー、ダイエーなど)の日本小売がブランド名だった「NICCOLI(「ニッコリ」と読む)」に社名変更した1982年に、埼玉県を本拠地とする「ニッコリ硬式野球部」を設立した。当時、小売業の社会人野球チームは殆ど無く、後にヤオハン(1992年にクラブチームを企業チーム化、1998年に再びクラブチーム化)やローソン(2002年廃部)が参入するが、NICCOLI参入時点では1975年設立のヨークベニマル(1999年廃部)程度だった。

 野球部は「社員の福利厚生」が最大の目的で設立された為、設立当初は都市対抗や日本選手権への出場を本気で狙う事は考えていなかった。それでも、地区連盟主催大会(※10)では何度か優勝しており、決して実力がない訳では無いが、都市対抗や日本選手権への出場は一度も無かった。




※1:史実では30チーム出場はこの大会限定で、翌年からは25チームに戻った。
※2:史実では32チーム。その後、30~32チームで推移し、現在は32チーム。史実における36チーム出場は1969年の第40回大会と2009年の第80回大会のみ。
※3:史実では22チーム。
※4:史実では22(1974~1980)→24(1981~1989)→26(1990~2005)→28(2006)→32(2007~:2014のみ40回大会記念で34)と拡張。
※5:「関西六大学野球連盟」の略だが、この「関西六大学」は旧連盟のもので、現在の「関西六大学」とは異なる。旧連盟の加盟校は関西、関西学院、同志社、立命館、京大、神戸大で、現連盟の加盟校は龍谷、京都産業、大阪商業、大阪学院、大阪経済、神戸学院。加盟校を見ると「関西学生野球連盟」の方が旧連盟の流れを汲んでいるが、神戸大が抜け、近畿大が加盟している(神戸大は近畿学生野球連盟に加盟)。
※6:大昭和製紙に代わって出場。史実では2回戦敗退。史実の優勝チームは熊谷組(1993年廃部)。
※7:「日本産業対抗野球大会」の略。1951年に始まった大会。その名の通り、業種別に分かれて「どの業種の野球部が一番強いのか」を争う大会だった。その後、1974年に「社会人野球日本選手権大会(日本選手権)」に発展的解消。同時に、会場が後楽園から関西に移転。
※8:史実の優勝チームは全鐘紡。
※9:大昭和製紙北海道、新日鐵室蘭、王子製紙苫小牧、北海道拓殖銀行、NTT北海道。史実ではそれぞれ、1993年に「ヴィガしらおい」としてクラブチーム化するも1997年に解散(2000年に「WEEDしらおい」として再建)、1994年に休部して「室蘭シャークス」としてクラブチーム化、2018年に再び新日鐵の企業チームとなる、2000年に廃部し一部はクラブチーム「オール苫小牧」に合流、1996年に廃部、2001年にクラブチーム化し(名称はそのまま)、2006年に解散。
※10:各地区連盟が主催する社会人野球の大会の事。社会人野球を統括する日本社会人野球協会(2013年から「日本野球連盟」だが、この世界では改称せず)には、北から順に北日本(史実の北海道)、東北、関東、北信越、関西、中国、四国、九州9つの地区連盟がある(この世界では南樺太(樺太県)が日本に残っている為、北海道と樺太県を統括する組織として「北日本地区連盟」が置かれる)。この世界では、史実の大会に加え、架空のJABA樺太県知事旗争奪大会(北日本)、JABA京浜産業大会(関東)、JABAせとうち杯争奪大会(四国)、JABA沖縄大会(九州)が存在し、樺太大会と沖縄大会は日本選手権対象大会(2007年以降、この大会に優勝したチームには日本選手権への出場枠を獲得する)となっている。

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