架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:戦後の日本の鉄道(南樺太・千島)

〈南樺太〉

・南樺太における鉄道網の拡充

 戦前の南樺太における鉄道の基幹となるのは、大泊から豊原を経由して北上、敷香でスイッチバックし、日ソ国境付近の古屯に至る樺太東線だった。これ以外に、樺太西岸を通る樺太西線、豊原と真岡を結び、樺太東線と樺太西線を繋ぐ豊真線、川上炭山への路線である川上線が存在した。他にも、国鉄の自動車線や各種私鉄が存在した。

 これらは、1945年8月のソ連参戦による樺太侵攻でソ連のものとなった。戦後、近代化が進められたが、ソ連崩壊による経済の混乱によって保守が行き届かなくなった。現在では、ロシア経済の復活や北海道との連絡構想などにより、鉄道の復興が進んでいる。

 

 この世界では、南樺太と千島が日本領として残った。戦後、米ソ冷戦が鮮明になるにつれ、西側における極東の防波堤として、日本の存在感が徐々に出てきた。

 その為、「南樺太・千島の防衛」の理由から、鉄道の整備が検討された。国鉄として建設を行う為、1946年に鉄道敷設法が改正され、151号から165号が追加された。この内、151号と152号は千島に、153号から165号は南樺太に充てられた。

 

 南樺太における鉄道整備は、一部私鉄線の買収、樺太西線(改正鉄道敷設法第153号)の延伸、真久線の開業(改正鉄道敷設法第155号)、内恵線の開業(改正鉄道敷設法第158号)、恵屯線・香屯線(改正鉄道敷設法第164・165号)の開業である。

 この内、樺太西線と真久線は沿線開発の目的があるが、それ以外は国防目的が強かった。実際、建設には国防予算が流用されたり、鉄道連隊や工兵隊が参加していた。

 

 樺太西線は、本斗から真岡を経由して久春内に至る路線であり、久春内から恵須取・藻糸音への延伸も予定されていた。久春内~恵須取は戦時中から建設が進んでおり、一部の区間ではレールの敷設が行われていた。その為、1947年6月には全線開業した。また、南樺太炭鉱鉄道を買収して、本斗から内幌への延伸も行われた。

 同様に、真縫と久春内を結ぶ真久線も一部で工事が進んでいた事、短い区間である事から、工事は順調に進み、1947年9月に開業した。

 両線の開業によって、豊原と恵須取が鉄道で結ばれた。1945年10月の恵須取の市への移行、炭鉱や林業の開発促進、冷戦体制による軍事施設の進出など、南樺太北部の経済的効果は絶大だった。

 

 内恵線は、恵須取から太平を経由して内路に至る路線である。この区間はバスが通っていたが、恵須取と敷香の連絡、内陸部の石炭や林業、農業の開発促進、何より国防目的の為、建設が急がれた。

 1947年6月から工事が行われた。王子製紙から買収した王子恵須取軌道を流用して、同年11月に恵須取~太平は開業したが、残る太平~内路が山越えとなる為、工事が長期化した。また、先述の樺太西線と真久線、後述の恵屯線と香屯線の建設が優先された為、後回しにされた事も長期化した要因だった。

 結局、残る太平~内路が開業したのは1952年6月の事だった。他の路線より遅れた理由は、朝鮮戦争の影響によるものだった。それでも、樺太が攻撃を受けた事から工事の促進が行われた為、当初予定よりも早い開業だった。 内恵線の開業で、南樺太北部の開発が進んだ。しかし、山岳地帯の為、農業開発は進まず、人口の増加も緩やかなものだった。また、南樺太北部の東西の輸送路としても、先述の真久線と後述の恵屯線・香屯線で対応可能だった。

 この為、道路の整備が進むと輸送量の減少が激しく、国鉄再建時に第二次特定地方交通線に指定され、1986年9月に廃線となった。

 

 恵屯線は樺太西線の延伸と言ってよく、恵須取から藻糸音、名好と北上し、西柵丹で東進して、樺太東線の古屯に至る路線である。香屯線は、敷香から東進して多来加、池田沢を経由し、雁門で西進して古屯に至る路線である。両線は国境付近の路線である事から、建設は急がれた。1945年8月に、ソ連が樺太に「進駐」しようとした経緯もある為、こちらは軍と共同で建設が行われた。

 早期に完成させる為、規格を落として建設が行われた。基本は簡易線、場合によっては側線規格で建設された。その為、重量物の輸送は難しかったが、1948年までに全線が開業した。

 その後、朝鮮戦争中にソ連軍が北樺太で軍事的牽制を行った事、実際に南樺太に攻撃してきた事により、輸送量が急激に増加した。これに伴い、重軌条化などが行われ、大量の物資や車輛の輸送にも耐えられる様になった。また、重軌条化や沿線の開発が進んだ事により(減税や徴兵免除など様々な優遇措置がある)、旅客輸送も小規模ながら行われた。

 国鉄再建時、両線は第二次特定地方交通線程度の輸送量しか無かったが、軍事目的という特殊性から、最初から除外されていた。その為、民営化後も存続した。また、この路線の存在から、JR北日本(北海道・千島・南樺太を管轄)は政府からの優遇措置が他のJRより多く取られた。

 

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〈千島〉

・国後線・択捉線の開業

 史実の千島では、鉄道は建設されなかった。道路の整備もされていなかった事から、海運の方が重視されたのだろう。そもそも、人口の少なさから、鉄道を敷く意味が薄かったのだろう。

 

 しかし、この世界ではソ連と直接接している事、朝鮮戦争におけるソ連の攻撃により、南樺太と千島の防衛が急務となった。その場合、海運に頼るのは通商破壊で寸断される恐れから、国後島と択捉島については鉄道を敷く事で対応する事となった。その為、国後線(改正鉄道敷設法第151号)、択捉線(改正鉄道敷設法第152号)がそれぞれ計画された。

 

 国後線は、島南部の泊から北上し、古釜布を経由し、北部の留夜別に至る路線である。1948年から工事が進められ、1952年8月に開業した。時間が掛ったのは、択捉線や南樺太の路線の方を優先した事(国後島より択捉島の方がソ連に近い)、朝鮮戦争が始まり資材不足になった事が理由だった。

 開業により、島内の鉱山開発が進み、それに伴い人口も増加した。更に、漁業開発も促進されるなど、島内の経済を活発にした。

 しかし、元々人口が少ない地域の鉄道の為、輸送量の増加は次第に鈍化した。鉱山の閉鎖もあり、貨物の輸送量は大きく減少した。道路の整備も進み、観光輸送や通勤・通学輸送も減少した。何より、国後島に大規模な軍事施設が無い事から、軍関係の輸送に携えなかった。

 それらの要因から、国鉄再建時に第二次特定地方交通線に指定され、1986年10月に廃止となった。

 

 択捉線は、島南部の萌消から北上し、留別、紗那を経由し蘂取に至る路線である。萌消が起点の理由は、萌消湾に建設予定の萌消港との接続を狙ったものである。途中で経由する留別付近では、日米両軍共用のオホーツク海・北太平洋の大規模軍事拠点として単冠湾の整備が計画された為、整備の一環として1947年5月から建設が行われた。工事には米軍の工兵隊が投入されたり、アメリカから予算の一部を肩代わりしてくれた事から工事は進み、1949年8月に全線が開業した(同時に、大量の作業用車両を無償でプレゼントされた)。

 択捉線の開業により、島内の鉱山開発や牧場開発が進んだ。また、単冠湾向けの軍事輸送にも活用された。朝鮮戦争中のソ連による攻撃によって単冠湾が壊滅状態になったが、留別や萌消などへの代替輸送として活用された。

 その後、国鉄再建時には、択捉線の特殊事情から最初から特定地方交通線に指定されなかった。その為、民営化後もJR北日本に残った。民営化後は、観光路線としての活用もされている。


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