保育所に通っていた頃から自殺願望にとらわれていた主人公の玲子。父のドメステックバイオレンスに脅えていた。しかし、彼女の両親は自殺をして、施設に入ったが、友達も先生からも無視された。
 IQが高く、しかも霊さえ見える玲子は図書館で司書の吉田さんに出会う。
 みすぼらしい喫茶店でおぞましい吉田さんの本性を知る。
 吉田さんの娘の智子は縊死していた。気がつくと、玲子はその智子に変身し、数々のおぞましい経験を強いられ、更に次々輪廻を繰り返し奇奇怪怪な体験を余儀なくされる。
 最後には今まで出会った人々に市営プールで命を奪われる。
 その本当の原因は? 死神? それとも誰かに恨まれていたのだろうか?

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私が自殺願望を持った本当の理由とは?


殺される私

 

「いつ頃から、自殺願望が芽生え始めたのだろう? 保育所に通っていた時からかなぁー。……多分、その頃からだったと思うわ」

――私はこの世のどこにも身の置き所もない。死んだ方が良いと考えるようになった。朝、目覚めると、新しい日のはじまりを迎えた事に、がっかりしたのは!――

 

山下義人≪やました よしと≫は、『辛抱』という二文字を身に付けずに育ったのだろう。わずか1週間も経たずに次々と仕事を変える。友達に誘われてか友達を誘ってか、毎晩のように安い居酒屋に通う。しかも、些細な原因で暴力沙汰を起こし、警察の厄介になった事は、数え切れない。

独身の20歳の時に、喧嘩で、青年2人を血祭りにした。救急病院に運ばれたが、1人が死んでしまい『臭い飯』を4年食べざるを得なかった。つまり、父には、前科1犯の烙印が押されていた。

 

今夜も、居酒屋で喧嘩をして相手の2人に全治2カ月の怪我をさせた。誰が見ても陰気な母は、頭を床に擦り付けるようにして謝った。

「申し訳ありません。……主人が度々お世話になって。本当にご迷惑をお掛けします!」

「いやいや。奥さんも気の毒だなぁ。こんな旦那さんと結婚したばかりに……」

もう顔なじみになっていた年配の警官から、度々、靖子≪やすこ≫は慰められた。

「何度も世話になり、誠に申し訳ございません!」

「奥さん、もういいですよ。……頭を上げてください」

母の靖子は、背の低い体を更に低くして頭を下げた。そして、父の好きなホカ弁、下着等を差し入れるのだった。生活に疲れ、化粧っ気のない痛々しい顔を、涙でクシャクシャにして。

 

「ぎぁーああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ……」

 母の悲鳴に、私の全身がガタガタと音を立てて震える。2DKのカビ臭い古くて狭いアパートの1室。そこで、毎晩のように繰り返される陰湿な家庭内暴力。

「お父さん、止めて! もうこれ以上……おっ、お、お母さんを叩かないで! お願い、お願い!」

泣きじゃくる実の娘の私に対しても、父は鬼のような形相で拳を上げた。

「生意気な娘になったなー。ふん、これでもくらえ!」

「お父さん、痛いよう。叩かないで! 痛いよう、痛いよう」

「喧しい! ビービー泣くな! 泣くと、蹴ってやる! これでもくらえ!」

父の蹴に私は壁まで数メートル飛ばされ、激痛で目が眩んだ。

母娘は、アパート中に響き渡る大声で泣き喚いた。

「ぎぁーああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ……」

(何という非情な父だろうか?)

その時期に受けたPTSD――私の心に巣くった悲しみと苦悩の記憶は、今でも消滅していない。私をかばう母さえ蹴飛ばした。そんな時、父は、いつも酔いで足がもつれていた。

父は、一切働こうとはしないで母にたかっていた。まるで、『ヒモ』のような存在だ。母が大事にしていた着物、帯、貴金属等質屋に入れられる物は何でも勝手に持ち出した。

それでも飽き足らず、遊ぶ金欲しさに高利の融資にも手を染めていた。取り立てに暴力団員風の男達がアパートに来てはドアーを蹴り、大声で喚いていた。その声はアパート中に響き渡る。ドアーもデコボコになっている。母が親戚、知り合いから愛想をつかされるほど金策に走り回っていた。だのに、父は競輪、競馬、競艇、パチンコ等にうつつをぬかしていたのだ。それらの後始末と言う重圧が、母に重く圧し掛かっていた。そのせいだろう母は、何時も暗く沈んだ顔をしていた。顔中、熊のように髭だらけの典型的な『遊び人』。『腕力だけが取り柄』だと周囲に豪語し、正に筋肉隆々の体格をしていた。が、時には、気の弱い神経質な面を覗かせていた大男の父。

生活に困窮し、朝早くから夜遅くまで働き詰めだった母。哀れで暗い影のある、体中痣≪あざ≫だらけの母。

 

 よく皆が私達一家の噂話をしていた。私は、家に帰って来るのが恥ずかしく苦痛でもあった。保育所の先生にも、家庭の惨事を打ち明けられない気の弱い一人っ子の私。4歳の幼い子供ながら、もうその頃から、真剣に『死』を考えていた。

 詳しい話は聞かせてもらえなかったが、両親とも悲惨極まりない生い立ちらしい。自分のコンプレックスを『鬼』になる事で誤魔化し、粗暴な振る舞いをしていた父。一方、何事にも後ろ向きで、何時も、オロオロとして気の弱い優柔不断な母。正に対照的な両親だった。私は、父に可愛がってもらった記憶は皆無で、いつも父の顔色ばかりを覗っていた。

 

「お母さん、お願い! 玲子と一緒に、お父さんから逃げて!」

何度も繰り返し母に、父から離れるよう泣きながら頼んだ。が、母は、決して首を縦に振ってくれなかった。当時の私には全く理解出来なかった。でも、24歳の今では、ある程度理解出来る。

――甲斐性もなく、ぐうたらで自己中心の父を、母は心の底から愛していたのだ!――

 

父が、特に大暴れをした夜。2年前に亡くなった父の母が、節だらけの天井に現れる。般若のようにグロテスクに変化した形相だ。恐ろしい形相! 私は、その姿を見て、肌が粟立つような恐怖で全身震えた。毎回、夜中の2時頃に現れる。戒を授け成仏させるための葬儀もしたにも拘らず、行くべき所に行けていないのだ。死に装束――白地の経帷子≪きようかたびら≫は茶色に変色し、しかも、ボロボロだ。私は、凄まじい恐怖に胃が痛み強烈な吐き気がしてくる。

金縛りにあわされ、私は身動き一つ出来ず、悲鳴すら出せない。イヤーナ汗が体中から噴き出す。目だけは自由に動くが、どうしても瞼を閉じる事ができない。私に忌まわしい姿を見せるためだろうか? 眼窩から垂れ下がった2つの目は赤くただれ、緑の瞳には恐怖が貼り付いた私の顔が映っている。真っ赤な粘液が糸を引いて滴る3つに裂けた青黒い舌を、口から絶えず出入りさせている。私の顔に腐りかけた上半身の細かく千切れた肉片が落ち、鼻腔に猛烈な悪臭を放つ。所々白っぽい肋骨も見える。

腰から下は、クネクネと動き、茶色と焦げ茶色ミックスしたコブラのような蛇だ。その尻尾の先が天井に刺さっている。歯のない口から、焼けるような熱い涎を私の顔に滴らせる。

「熱いから止めて! お願い! 誰か助けてー」

と喚くのだが、声にならない。またも恐怖で胃の奥から吐き気が上がってくる。祖母はゆっくりと降りて来て、ガリガリに痩せた手で私のパジャマと下着を剥ぎ取る。まる裸の私を、所かまわず歯茎で噛み付く。痛さのあまり泣こうとしても、涙さえ出ない。突き上げてくる恐怖と不安で息苦しい。なすがまま、1時間ほど恐怖と痛さに耐えるが、あまりの激痛で気を失う。

 

翌朝、トイレで見ると、父に蹴られた青あざの上に水ぶくれが何か所も出来ている。『悪夢』で

なく、私は『悪霊』を見たのだ。生前の祖母には、いつも素っ気なく扱われ、可愛がってもらった記憶は一切ない。でも、何故、亡くなってからも私を苛めるのだろう? 多分、父の私への憎しみが祖母に同調しているからだろう。世間では『孫は目に入れても痛くないほどに可愛い存在』だと言うのに……。

当然、この事は父には話せない。母に話せば悲しませるだけだと思い、胸の奥底にしまうことにしていた。全てが自分の心の中で作り出した幻影だろうか? 否、私は『怨霊』に取り憑かれたのだ。心の底に淀んだ冷たい恐怖は、今でも私を震え上がらせる。恐ろしい夢の中で……。

 

この頃から、私は真剣に『死』を意識しだした。まだ、保育所に通っている年齢なのに……。でも、昼間はそんな辛い出来事も忘れ、保育所の『さくら組』では、朗らかで聡明なリーダー的存在だった。やはり、まだ子供だったのだろう。

 

墨汁を塗られたような雪雲が、空一面をおおっていた2月の初旬。

今年小学1年生になる私は、お金をお気に入りのビーズで縁取りした財布に入れた。イソイソ

鼻歌を歌って、駅前のスーパーで、プリントを何度も確かめていた。文房具、上履き、上履きを入れる袋等を買い揃えるためだ。店員さんは、難しい漢字混じりのプリントを読んでいる幼い私に向かって

「えぇ―! 本当に読めるの? こんな漢字の多いプリントを!」

「うん。私、読めるわ。全部」

店員さんは、最初、半信半疑だった。

「凄いわ。親御さん宛のプリントを、このお譲ちゃんが、読めるのよ! ……嘘じゃないわよ!」

私の頭をなでながら、近くにいる同僚と一緒に大いに感心していた。恐らく、店員さん達にも、私と同じような年齢の子供がいたのだろう。私は、既に小学5年生までで習う国語、算数、理科は完全にマスターしていた。何よりも勉強が大好きな女の子だった。絵でなく文章に埋め尽くされた本を読むのが、唯一の楽しみでもあった。後で聞けば、母は職場で喜色満面の笑顔を見せ、いつも私の自慢話をしていたらしい。

 

しかし、この世を【悪魔】が支配しているに違いない。私にそう思わせる出来事が起こった。

 

牡丹雪を髪に積もらせ、斜めに黄色い傘を回しながら……黄色い長靴で微かに積る雪を踏み、ルンルン気分で帰って来た私を、待ち受けていたもの。

それは――

赤色灯を点滅させている数台のパトカー。

赤と白が交互に塗られた円錐形のカラーコーン。

アパートの1階に【立入禁止】のプレートを下げた黄色いトラテープ。

白のヘルメットを被り、同色の雨合羽を着て、近所で聞き込み捜査をしている警察官――

アパートのおばさん達が、傘をさして、1階西端にある私の住居近くに集まっていた。私にも聞こえる嫌味をたっぷり含んだ大声で騒いでいる。

「怖いわねー。ガスで無理心中したらしいわ。でも、爆発しないで良かった! もしそうだったら、私達も死んでいたわ! あー怖い、怖い!」

おばさん達は、執拗に同じ話題を繰り返していた。その中心には、近所でも有名な『放送局』がいた。皆から、そう呼ばれている40代半ばのオバサンだ。そのオバサンは、汚れた割烹着をいつもだらしなく着ていた。しかも、ショートヘヤーなのに色とりどりのカールを、無理矢理、巻いていた。その『放送局』が、警官達よりも先に目敏く私を見つけたのだ。案の定、薄汚れたツッカケをビチャビチャ鳴らし、慌てて私に駆け寄ってきた。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

『放送局』は、腐敗臭を伴ったドブ臭い息を吐きながら喘いでいた。ズングリムックリな体格に似合わない猫なで声で私に言った。まるで、私に同情しているかのような顔つきをしていた。本当は『他人の不幸は最高の美味』だと思っているのに……。

「ビックリしないでね! おばさん達がいるから、大丈夫よ。何も心配しなくても良いのよ。実はねー。あなたのお隣の奥さんが、ガスが漏れている臭いに気付いて110番したの。つい今さっき、お父さん、お母さんは、救急車で運ばれて行ったわ。私から、警察の人に頼んであげるから、病院に連れて行って貰いなさいね。気をしっかり持つのよ! 玲子ちゃんなら、出来るでしょう! おばさん達、皆が、玲子ちゃんの味方だからね! ……分かった、賢い子ね!」

口角泡を飛ばし、早口で一気にまくしたてた。耳障りなダミ声で言われたのには、正直辟易した。オバサンが発した我慢出来ない『ドブ』のような口臭。背中に氷柱を入れられたように、私は、体中に鳥肌が立った。

 

鑑識活動と法医学者が行った遺体解剖の所見によれば――

母は、常に精神的に追い詰められ鬱≪うつ≫に苦しんでいた。足繁く通っていた総合病院の心療内科で調合された睡眠導入剤を使った。まるで浴びるかのように、朝から酒を飲み家で寝そべっていた父。その父が、こだわっていた燗酒に、多めに睡眠導入剤を溶かして飲ませた。母も適量飲んだ後、ガス栓を全開にして無理心中を図ったらしい――

 

(仕事場でガス自殺したノーベル賞作家・川端康成氏と同じだわ! 現在の家庭用ガスは、毒性の無いプロパンガス。あるいは、一酸化炭素を除去した都市ガスになっている。だから、この方法では死ねないの! 今では、そんな事は常識。だから、最近では排気ガスを車に引き込む自殺が多いわ!)

 

数時間後、私は、パトカーに乗せてもらった。両親が搬送された救急指定病院に行くためだ。パトカーに乗ったのは初めての経験だった。何故か、浮き浮きした気分になったのは、不謹慎だったかもしれない。

 

病院で幼い私を見て、気の毒そうな表情をした係りの女性は、優しい言葉をかけてくれた。

「お嬢ちゃん。手をつなぎましょう。あら、冷たい手だわね。寒くないの?」

私は、涙を手で拭いながら無理に強がった。

「うううん。少しも寒くないわ」

「でも、お嬢ちゃんの唇とても青白いわ。このマフラー暖かいわよ……少し長いけれど、どう、してみる?」

お母さんのように優しく、私の首に軽く何重にも巻いてくれた。

「ありがとう。とても暖かいわ!」

その女性に手を引かれて着いた場所――そこは、外より温度が4度~5度も低く、ひんやりした空気で満たされていた。地下にある霊安室だった。ロウソクの炎が、弱々しく灯っている。煙たい線香の白い煙が、ユラユラと流離≪さすら≫っている――

両親は、別々の冷たそうな黒っぽい狭いベッドの上に寝かされていた。真っ白な布に全身覆われていた。中の空気は外とは全く異質に感じた――寒々として異様な雰囲気と冷気が、辺り一面を占拠している。

 

何気なく、上を見上げると天井近くに両親がゆらゆらと彷徨っている。まるで幽体離脱しているかのようだ。でも、それは、生きている人間に起こる現象だ。死人にはそのような事が起こる筈はない。でも、両親は天井を背にして、私をみいる。

生前と同じポーズをとっている――父は、私を大きな拳で殴ろうとしている。母は、陰鬱な表情で涙を流し父の暴力を阻止しょうとしている――

(お母さんは、亡くなっても私をかばってくれているわ。片や、父は亡くなっても、まだ私を苛めようとしている。お坊さんに拝んでもらったのに、成仏出来ないのだろうかなぁ!?)

 父に暴力をふるわれた悲しみが再来した。激甚な恐怖がよみがえり、私はその場でしゃがみ込んでしまった。

「お嬢ちゃん大丈夫?」

その言葉で我に返ると、とめどなく涙が溢れてくる。

「ご両親が、同時に亡くなられてひどくショックを受けたのねー。可哀想に!」

 係りの女性は、私を心から慰めて下さった。そうじゃないのに、と言いたかったがその言葉を呑みこんだ。

 

その霊安室の向かい約2メートル離れて事務当直室があった。事務員が宿直の際に仮眠をとる為の部屋だ。私は、その前に『時代遅れの看護婦姿をした年配の女性』を見た。その女性は、全身がぼんやりと霞んで立っていた。私は、無邪気に係りの人に尋ねた。

「あの人は、何をしているの?」

すると、係りの人の顔は、真青になった。恐怖を含んだような微かに震える声で否定した。

「誰もいないわよ、お嬢ちゃん。何かの見間違いだわ、きっと、きっと、そうよ。……お嬢ちゃんの見間違いだわ!」

係りの人の顔には、玉になった冷や汗が浮いていた。『なにもの』かは、紛れもなく『この世の人間でない』と、私は直感した。その日以来、私に『霊』が、その存在を厳然と主張するようになってしまった。

 

その時、突然、私の脳裏に浮かんだ話。外国で起こった実話ばかりを集めたホラー小説の一話だ。私が、1歳9カ月の頃に読んだポーランドの田舎町での話だった。

――死体安置所で永眠している筈の死体が、ムックリと起き上がり、老女が生き返った。医師が『死亡』と診断していたのに……。女性の亡骸≪なきがら≫は死体安置所へ運ばれ、全身をビニール製の袋で包まれていた。しかし、数時間後、ムクムクと動いていることに気がついた夫が、医師を呼んだ。女性は、まだ生きていることが判明したのだ。医師が死亡認定した時には、心配停止状態だった。が、突然、心臓が動き出し、数時間意識がない状態で生き続けたらしい――

 

こんな奇跡が母の身に起きる事を、心底願った。星がキラキラ瞬く夜空に向って真剣に心を込めて【神様】にお祈りした。紅葉のような小さな手を合わせて。

 

でも、私の悲痛な心からの願いは、当時、天におられると信じていた【神様】に届かなかった!

とうとう母は、暗い夜空に瞬く星になってしまった。

 

その後の私自身の生活を振り返ると、今でも、胸がキュンと苦しくなる。

「この世の中は、薄情な人ばかりだわ!」

そう思わざるをえなかった。『世間は非情だ』という事実を、この時いやという程思い知らされた。少ないながら親戚もいた。けれども、誰一人として引き取り手はなかったからだ。今では、待遇も良い『児童養護施設』という名称に改められている。でも、当時は『養護施設』という名の私にとっては不自由極まりない『檻』だった。私の意志とは関係なく、その中に強制的に入れられてしまった。

 

『檻』に収監された午後、早速、滑り台に上った。

「うわー、すごい! 大きな海が見える。淡路島が手に取れそうだわ!」 

明石海峡が一望に見渡せたのだ。光り輝く海は美しかった。空気が澄んだ日には、淡路島の家々でさえくっきりと見えるらしい。

霊安室で両親の霊を見て以来、負のオーラが私の全身から出ているのだろうか? 皆に嫌われるようになってしまった。養護施設で誰一人友達が出来ない私は、皆から邪険に扱われた。子供の方が、大人よりも理性で自分を制御出来ない傾向にあるようだ。だから、子供は直情的で残酷だ。

「あなた! 私達の邪魔だから、スグにそこをのいてよ!」

私の唯一の楽しみさえ奪われるのが、常だった。滑り台から、皆に私は追放されたのだった。

「玲子ちゃんは、可愛いわね!」

院長先生はじめ諸先生も、最初だけはとても親切に接して下さった。

(西洋のお人形さんのように黒目が大きく、鼻筋が通った愛らしいおさげ髪の少女だった。ハーフと間違えられる位、可愛い女の子だったからかなぁー?)

 

「変な子が入ってきたわ。何よー。偉そうに図書室ばかりにとじこもって。あの子、本当に字が読めるの! 生意気な子だわ。皆、あの子とは遊ぶのはよそうよ!」

私は、図書室にある本ばかり読んでいた。先生も少しも懐かない小生意気で可愛げのない私を、次第に疎んじるようになった。施設の大人達にも子供達にも、嫌われるようになってしまっていた。私は完全に無視されてしまった。誰も、かまってくれない。施設の全員にシカトされていたのだった。私は、四六時中孤独に苛まれていた。

 

小学校に通うようになっても、真から心を許せる友達は一人も出来なかった。一人ぼっちで寂しい女の子だった。まだ7歳の小学1年生になったばかりなのに――陰鬱≪いんうつ≫な思考回路が私の脳に巣食っていた。

(ああ、やはり、ここでも私の居場所はないわ。この世から消えてしまいたい!)

夜寂しくてシクシク泣いている時。少しひんやりした空気と共にオネーチャンが現れた。セーラー服姿のスタイルが良い高校1年生位だ。私が理想としていた女性だった――醸し出す雰囲気は優しく、黒目が大きくて少し憂いを含んだ美人。しかし、その顔色は中国宋代の青磁器のような青さだった。

「もう泣きやんで! 私が子守唄を歌うから。悲しかった事は忘れてね!」

冷たい腕であったが、手枕をして横で優しく子守唄を歌ってくれる。そのことが、私の唯一の救いでもあった。今思えば、恐らく女性としての楽しい未来を断たれてしまって――この施設で、無念をこの世に残したまま亡くなった女性の『霊』に違いないだろう。

 

小学校では、先生の目を見て大きく手を挙げても、常に無視された。先生には答えられない難しい質問ばかりしていたからだろう。そんな時、傍らに例のオネーチャンが現れ、私を慰めてくれた。

「気にしなくても、いいわよ。あなたの味方がここにいるわよ!」

しかし、そんな慰めの言葉さえ、私の自殺願望を消滅させることは出来なかった。それどころか、苦悩が次々入り込み、風船のように日に日に大きく膨らんでいった。

「あぁ、どうにも出来ない。もう限界だわ!」

何時も、何時もそのような強迫観念に苛まれるのは、心底悲しかった。そんな時、学校の図書室で本を読んでいると『自殺防止10則』が、目に飛び込んで来た。

1則 自殺のサインを見落とすな。

2則 子どもを孤独にするな。

3則 死の教育をするな。

4則 子どもの頭で考えよう。

5則 家庭ではよく話し合う。

6則 親は聞き役にまわれ。

7則 夫婦は仲よくしよう。

8則 子どもは模倣で育つ。

9則 しつけはふだんから。

10則 親自身の性格を見直そう

(警視庁防犯部少年心理研究会)

(嘘ばっかり。両親もいなければ、親身になって私を考えてくれる大人も周りにいない。だから、どれも私には当てはまらないわ!)

と、心の中で叫んだ。その本をメチャクチャに破りたい衝動に駆られた。

(図書室の先生に怒られるだけだわ! それでなくても、先生に嫌われているのに)

そう思って、心で呟くだけにして、辛うじてそんな行為を抑制した。

 

希望ある未来など、到底考えられる状況ではなかった。とても悲しいけれど……。

 

――施設から学校に通う途中に、JRの踏切があった。赤い目を何度も交互に点滅している警報機。それを無視して、黄色いテープを等間隔に巻きつけた遮断機を潜った。線路内に入ろうとしたのだ。警笛を鳴らし続ける貨物列車が、もう目前に迫ってきていた。でも『なにもの』かに連れ戻され、線路内に留まれない。時を置いて何度も繰り返したが、どうしても鉄道自殺出来ない。

仕方なく、高層県営住宅の5階から手すりを乗り越えようとした。すると、耳元で、憂いを含んだ優しいささやき声が聞こえてきた。

「死んではいけないわ。命を大事にして生きて、生き抜いて、皆を見返すのよ! 貴女にはできるでしょう!?」

「………」

私は絶望の虜になったまま、うな垂れて沈黙していた。生きていく希望に溢れる目標が見当たらなかった。『なにもの』かが、私の背後にいる気配がした。飛び降りるのを阻止しているようなのだ。私は、何度も繰り返し飛び降りようと試みた。だが、その都度、背後から『不可思議な力』で止められた。

飛び降りるのをしぶしぶ諦めて、薄暗い階段を下りた。

(施設に帰っても、誰も親身になって悩みを聞いてはくれないだろう!?)

そう思うと、眼の端に薄らと涙が滲≪にじ≫んできた。高層県営住宅の近くに、誰もいない公園があった。絶望に打ちひしがれ、曇って暗い空をボンヤリと見上げていた。雨が降る前の一陣の風が、ゆっくりとブランコを漕いでいた。

 

その刹那だった。

「将来、有名な小説家になりたい! ……私ならきっとなれるわ!」

明確な目標と、この世に対する様々な執着心が、湧き出してきた。後から後から噴き出す泉のように……。11歳、小学5年生の時だった。私を悩ませていた『自殺願望』は雲散霧消していた。私の心の中には、もうその残債も跡形すらなく消滅していた。将来著名な小説家になれる自信と確信が、身内より漲ってきた。何の根拠も存在しないにも関わらず……。実現可能性を自分なりにシミュレーションを繰り返しても、何も障害は見当たらない。『赤毛の司祭』と呼ばれたヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』を初めて聞いた時のようだ。背筋にカミナリが通電したような快い痺が走った。何度も何度も繰り返し走る、心地よい響きと高揚感を伴う電撃、衝撃。めくるめく至福。

 

――生まれて初めて味わった輝ける未来への希望――

 

『段取り八分に仕事二分』の諺を、私は忠実に実行した。早速、今出来る限りの準備にとりかかったのだ。学校の前に、サクラや ケヤキ、ブナ等が生い茂るよく整備された公園があった。その公園の中ある遊歩道を10分程歩くと、市立図書館があった。図書館は、壁面が茶色で威風堂々として佇んでいた。学校の図書室では、目ぼしい本は全て読んでしまっていた。学校にはない、ハイレベルな本を求めて、初めてそこに行った日だった。司書の吉田さんと出会ったのは。熱心に通ったのは、受付にいた40歳代の吉田さんと仲良しになったせいだろう。吉田さんは、牛乳瓶の底みたいなレンズの厚い眼鏡かけていた。実際、そんなに分厚いと重たいのだろう。何度も、ずり落ちる眼鏡を人差し指で押し上げていた。 

市立図書館に初めて来たので、私は、様子が分からずウロウロしていた。その時、優しく声を掛けてくれたのが吉田さんである。現在に至るまで『霊』以外、私を心底可愛がってくれた唯一の人だろう。

「将来、小説家になりたいの! どんな本を読めば良いのですか?」

吉田さんに相談すると、本棚を30分位走り回って下さった。大粒の汗を体中から迸らせていた。顔ばかりか、着ている洋服さえ汗染みに覆われていた。

「こんな本はどうかしら? でも、小学生の貴女には難しいかな? でも、貴女が希望するのは、こんな本しかないのよ」

と言って、数冊の本を選んで渡してくれた。ビール樽のように太った体を、重そうに左右に緩慢に振りながら。リノリュームの床が、軋む音さえ聞こえた。

「どうも、ありがとう!」

私は、にっこり微笑んで、すぐに、閲覧室で夢中になって読み耽った。読めば読む程、作家になるのがいかに大変であるかを、思い知らされた。

作家になる近道として

――プロ作家の弟子になって、小説の『イロハ』を教えてもらう

――様々な出版社に自作品を持ち込んで「有能な新人ですよ!」と編集長に推薦してもらう

――同人誌やブログ等で発表し、出版社からスカウトされる

――出版社で働きながら作品を書き、認めてもらう

――新人賞に応募して、『最優秀作品』に選ばれ、作家としてデビューする

【応募作品多数ため、ハードルはかなり高いらしい】

等と書かれていた。でも、文房具さえまともに買えない貧乏小学生には、どれ一つとして叶えられそうにない。けれども、作家になる夢は捨てきれなかった。吉田さんが薦めてくださった国内外の著名な作家の作品を、必死で読み漁った。かなりの読書量だった。寝る間も惜しんで、理科系の書物を丁寧に読んだ。大学か、大学院で学ぶ科目の書物さえ読破した。数学、建築学、情報工学、 宇宙論、宇宙物理学、数理科学、 理学等々。それらを勉強した時間は、この上なく私には楽しかった。

 

(こましゃくれて、鼻もちならない子供だ!)

と皆から思われているのは、自分自身でも十二分に承知していた。でも、もしも裕福なアメリカ人家庭で生を受けていれば……飛び級で、私立で最難関のハーバード大学に入学出来ただろう。

――7人のアメリカ合衆国大統領。74人のノーベル賞受賞者を出している大学だ。または、MIT(マサチューセッツ工科大学)で研究に勤しめる道も拓けていただろう。MITはノーベル賞受賞者を多数輩出している大学である。そんな大学で、年上の同級生と肩を並べ勉学に励めていただろう――

そう考えると、現在置かれている境遇に、益々苛立ちと惨さを感じた。不思議と、この頃には、『優しい幽霊』は現れてくれなかった。何故だろう? 私が本心から打ち込める対象を発見したから――これが答えではないだろうか?

 

ムクムクと成長した入道雲が、今にも大粒の涙を降らせそうな蒸し暑い時。

学校帰りの私を校門で待っていたのは、深刻な顔をした吉田さんだった。眉間に幾筋も深いしわを寄せている。普段の吉田さんとは、別人のような暗い雰囲気を周囲に漂わせている。

蔦≪つた≫が我が物顔で伸びて、壁全体を覆っている喫茶店へと私を誘った。そこは、陰気で小さな喫茶店だ。何か重大な話があるような深刻な顔をした吉田さん。そんな吉田さんを見たのは、この時が初めてであった。

 

生まれて初めて喫茶店に入るので、心臓が口から飛び出すほどドギマギしている私。落ち着きなくキョロキョロと周囲を見回す。店内は、寒いぐらいヒンヤリとエアコンが効いている。この寒さは、エアコンのせいばかりでない。この店に漂う冷気も作用しているように思える。吉田さんは、薄暗くて陰気な4人掛けの椅子に私を誘導し、差し向かいで座った。店内は外見と同じく、否、それ以上に『老朽化』している。身震いするような不潔さを曝け出しているのだ。オープン以来一度も改装していないだろう、と思う。不潔さに耐えようとして、私は何度も全身が打ち震えた。体がこわばるほど、凄く緊張していたのも確かだ。椅子に張った布が所々ほころびているのを、目敏く見つけた。

(この不潔さは、喫茶店には全く相応しくないわ!)

というのが、私だけでなく誰でも抱く第一印象だろう。まして、女性の客達は、決して入って来ないだろう。店の前を歩くのさえ、嫌悪感で全身鳥肌が立つに違いない。それ程、店外にも悪臭が漂う不潔そのものの店だ。喉にもヒリヒリした痛みが走る。本来なら、こんな時間帯は帰社する前の営業マンで賑わっている筈なのに……。しかし、お客は私達2人だけだ。カウンターを含めて44席あるにもかかわらず。

 

汚れて皺≪しわ≫だらけの灰色カーペットには、何かが蠢≪うごめ≫いている。

(何がいるのだろう?)

目を凝らして観察した。私は、思わず大きな悲鳴を出した。

「ギヤーあああああああぁぁあああああ……」

薄暗い中を、ゴキブリが触覚を動かして辺り構わずゾロゾロ這い回っている。図鑑で見たことがある、体長が約70ミリメートルもある大型マダガスカルオオゴキブリだ。夥しい数の大きなゴキブリを目にして、胃液が逆流して吐きそうになった。更に、悪寒が背筋を走った。でも、吉田さんの手前、無理してどうにか我慢した。薄暗い照明に背後から照らされた吉田さん。まるで【悪霊】に憑かれたような恐ろしい形相をして言った。

「遠慮しないで、何でも、注文していいのよ。そうねぇ……チョコレートパフェはどうかしら?ここのは、とびきり美味しいわ! 私は、いつものをお願いね。……ママ、ママ、聞こえたかしら?」

 

煤で汚れた厨房から、白毛混じりで年齢不詳の老女が緩慢に近づいてきた。老女は、体を右に傾け、ガバガバの運動靴を履いている。歩く度に、数センチは積っていると思われる床の埃を舞い上げる。しかも、ヨロヨロとした足取りだ。原形を留めないほど歪んだトレイに、水の入ったコップを載せている。目の前にある木製テーブルは、古色蒼然としていて、傷まみれだ。耳が痛くなる程の音を立てて、所々黒ずんで欠けたガラスコップを4杯置いた。かつては薄水色だっただろうコップの半分程の水が、床にも飛び散った。でも老女は、そ知らぬ顔をしている。片方の眼だけが、ガラス玉を嵌め込んだような虚ろな光を不気味に放っている。しかも、その体から発する臭いは、ヘドロ以上の悪臭である。私は思わずハンカチで鼻と口をふさいだが、吉田さんは平然としている。舞いあがった埃が私の眼を襲ったので、瞬きと涙で防戦した。

老女は、押し黙ったままトレイを左脇に挟んだ。そして、クルリと素早く向きを変え厨房の方へ帰って行く。何やら念仏をブツブツと唱えながら……。私は、老女の痩せて貧相な後ろ姿をボンヤリと見ていた。が、不可解な疑問が、脳裏に浮かんだ。

(何故、2人しか座っていないのに、コップを4つも置いていったのだろう? 氷が浮いていない生温い水だけが入ったコップを……)

 

 だが、瞬きをした瞬間、私には見えたのだ。吉田さんの隣に両目が胸元まで落ち体が半分以上溶けだした異様な姿の人間。皮膚が溶けて赤い筋肉組織が露出し、微かに骨すら見えている。私の隣には、既に骨だけになってクモの巣に覆われた骸骨が座っている。二人とも美味しそうに生温い水を一気に飲み干し満足げに椅子の背に凭れている。気味が悪いが無視することにした。

(二人は、何の目的があって此処に座っているのだろう?)

 

……私の思考は、ここで唐突に遮られた。吉田さんのなせる超能力だろうか? 右側が少し上に歪んでいる口を動かさないで、私の脳に直接響く『言葉』で語った。自分の想念が、他者の頭脳に進入する『考想吹入』の能力が、吉田さんには備わっているのだ。

(きっと、吉田さんは自在にテレパシーを使える超能力の持ち主に違いない。同時に、私にもテレパシーを『言葉』として認知できる能力が備わっているのを、確信した)

 

「私にも、貴女と同じ年齢の女の子がいたわ。仕事を終え、買い物を済ませて家に帰って来た。でも、家の中は真っ暗で、何も見えない。この時間には、智子が奥の部屋で宿題をしている筈なのに……。イヤーナ予感が胸をよぎったわ。手探りで、やっと探し当てたキッチンの蛍光灯をつけた。4畳半と奥の6畳の間を仕切っている鴨居に――ああああぁぁぁぁ……何ということなの! 智子の首には、太いロープが食い込んでいる。ほとんど風はない筈なのに、智子はブラブラと揺れている。智子を見上げて、わなわなとその場に座り込んでしまった。涙で霞んだ目を凝らして、再度、見上げた。既に乾燥して、綿のような鼻水が微かな風になびいている。口からは長い舌を出している。真下には、大量の屎尿が広がっていたわ。娘を降ろしてから、慌てて救急車を呼んだけれど、既に心肺停止で手遅れだったの。その後の事は、はっきりとは覚えていない。         

気がつけば、病院の地下にある霊安室で娘に縋≪すが≫って泣きじゃくっていた。

 

胸騒ぎがして、私1人家に帰り、娘が大事にしまっている玩具の宝石箱を捜した。ようやく、私宛にしたためた遺書らしい紙切れを見つけた。読んでいるうちに止めどなく大粒の涙が、溢れ出したわ。大袈裟でなく、畳には小さな涙の池が出来た。随分前からイジメに遭っていたなんて! 私は、少しも知らなかった。母娘2人だけなのに親として失格だったわ!

『貴女を苛めたのは一体誰なの! 私が復讐をしてあげる! 絶対に呪い殺してみせる!』

ブラブラと鴨居に揺れている『霊』になった智子の蒼い口から、怨嗟の言葉が私の脳に轟いた。

『クラス委員長の園田君、私の隣の席にいた本田君。でも、一番悔しいのは、幼馴染だった鈴木さんよ。あんなに仲良しだったのに! 私を苛める側に立つなんて! 私をかばったりしたら今度は自分が苛めの餌食になる。だから私を無視したのよ!お母さん 皆に復讐して……きっとよ!』

私は、楽しそうに笑っている智子の黒いリボンがかけられた遺影に、誓ったわ! 

必ず呪い殺してやると!

 

翌日、小学5年生の担任の先生に会って、さり気なく尋ねた。

『昨夜、亡くなった吉田智子の母親です。今晩お通夜を執り行います。是非、同じクラスの皆さんに予めご挨拶しておきたいと存じます。無理なお願いでしょうが、何時でも結構です。お名前と顔をお教え願えれば幸いです』

『じゃあ、6時限目にホームルームを致しますので、その時はいかがでしょう?』

『ありがとうございます。ご面倒をお掛け致しますが、先生、よろしくお願い致します』

 こちらの思惑通り、智子を苛めていた同級生の顔と名前を確認した。棺桶の中の娘に報告を済ませると、クラス委員長の園田、本田、鈴木を呪った。3人を模した藁人形を作り、5寸釘で何度も何度も柱に打ち込んだのよ。思わず、笑みが漏れたわ。

『イッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、イッヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……』

 

思惑通り、3人は、お通夜に来なかった。いや、来る事は不可能だった。先生に聞くと、学校から帰った後、直ぐに自宅の鴨居で首を吊って自殺したらしい。私の呪いが成功したのだ。ニヤーと勝ち誇った笑いがこぼれそうになった。だから、ハンカチで口元を押さえて誤魔化したわ。目には、大粒の涙は流したまま……。

 

当夜8時から始まるお通夜式の前に葬儀会社の人達が来て下さった。葬儀会社の人が湯灌≪ゆかん≫後、綺麗に死化粧をした娘は、まるで眠っているようだった。

『智子、朝よ! 早く起きて、すぐに朝食を済ませて学校に行きなさいね』

と、思わず、言いそうになったわ。親戚だけでなく、娘も私もお友達が少なくて、寂しいお通夜と告別式だった。遺影を胸にしっかり抱きしめて、霊柩車の助手席に初めて乗ったの。でも、後ろの小さい棺桶ばかりに、私の意識は惹きつけられていたわ。

 

友引の翌日のためだろうかしら? 次々と霊柩車が斎場に入って来た。まるで戦場のように慌ただしかった。斎場専属のお坊さんが『南無阿弥陀仏…』と読経し、係りの人の手で窯に棺桶が入れられた。蓋を閉め、ガスで棺桶もろとも娘の遺体に火がついたらしい。

 

その時だった。

『ぎいああああぁぁぁぁああああああああああああああ……』

この世の声とは思えない断末魔の悲鳴が、釜の中から確かに私には聞こえた。私の幻聴ではなく、間違いなくこの耳で聞いたのよ。一連の出来事は『脳が私に見せた単なる悪夢であって欲しい』と繰り返し、繰り返し願った。

リアリティーがあるからといって、今体験している『現実』が真実の『現実』だとは断言できないわ。『現実』だと脳が思い込んでいるだけかも知れない。『娘がなくなった悪夢』から目覚めるかもしれない。でも、悪夢から目覚めると、やはり悪夢だと認識し……。私は、永遠にその『悪夢』から現実へ覚醒しないかもしれない恐怖におののいた。私の単なる夢であって欲しかった。

――でも、悲しいけれど娘はあの世に旅立ってしまった。

 

『お気を落とさないでね。天国で天使と楽しく、白い雲に乗って遊んでいるわよ!』

おざなりのお悔やみを済ませた数人しかいない親戚。皆は、結婚式にでも出席しているかのようだった。何の遠慮もなく、むしろイソイソとしていた。お膳の料理をムシャクシャと厭らしい音を立てて頬張った。瓶ビールも浴びる程飲んでいた。お膳を目の前にしても、私には、お箸を使う気がおきなかったわ。

食欲のない私は、芝生を敷き詰めた屋外に出て空を見上げた。すると、幾つもの煙突から黒っぽい灰色の煙が出ていた。霧雨の空に拡散して行き、徐々に消えていく。

『あの煙の一筋が娘のだわ。とうとう、娘の肉体は一条の煙となって、天に上って行ってしまったわ』

そう思うと、悲しさが津波のように私を襲い、止めどなく涙が溢れ出したわ。

 

窯に棺桶が入れられてから約2時間後、斎場の係員から丁寧な説明を受けた。喪主の私は、窯から出された骨を真っ白い陶器の骨壺に喉仏を入れた。その後、親戚が、バキ、バキ……と音を立てて、残りの骨を無造作に骨壺の中に押し込んだ。不思議なくらい何の怒りも、何の感慨すらも湧かなかった。親戚の人が言うように、穢≪けがれ≫を知らない娘の魂は、昇天したの。真っ白な綿雲に乗って、仲良く天使達と遊んでいる筈だから……。

 

1人で、両親の位牌を祀っている仏壇の前に娘の骨壺を安置した。すると、私は急に空腹を感じた。テーブルに、今朝の残りのおかずと冷えたお茶碗半分のご飯を置いた。黒の着物を着換もせずに、口一杯頬張った。それでも、空腹は満たされなかった。陶器で出来た骨壺をガラー、ガラー、ガラー、ガラー……と鳴らせた。空腹に耐えきれず、美味しそうな骨を4つ口に含んだ。すると、鳥の唐揚げのような味が、ふんわりと口中に広がったわ。筆舌に尽くしがたいほどの美味。病み付きになりそう――いえ、病み付きになってしまったの。

 

その日以来、夜毎、車のトランクに必要な物を載せた。懐中電灯、先の尖った剣スコ、先が平らな角スコ、軍手等。カーナビを頼りに、土葬しているお墓を捜しては、死体を掘り出すの。ウジが大量に発生し、あらゆる所に這っている溶けかけの遺体。既に、ミイラ化している遺体。骨だけになっている遺体。その場で、それらを美味しく頂いて餓えを満たしているわ。だけど、お寺にあるお墓は、2つの意味でダメなの。一つは、お寺の関係者がいるかもしれないから。もう一つは、骨壺を出すのに文字通り骨が折れるからなの。だって、娘の骨なんかでは、一日も満足出来なかったもの。貴女には分かるでしょう? 私の苦しみと悩みを……」

 

文章で書けば長いけれど、ほとんど一瞬だったわ。私の脳に、吉田さんの言葉の全てが飛び込んできたのは。気味が悪い話であるが、真面目な石原さんが嘘をついているなんて! そんな事は、とても信じられない。きっと、きっと、精神に異常をきたしているに違いないわ。精神病者は、自分が精神を病んでいるのを自覚出来ないからこそ、精神病者だ。私に話すより、心療内科あるいは精神科のお医者さんに語るべき内容だと思うわ。

 

先程の老女が、今度は静かにチョコレートパフェを私の前に置いた。アイスクリーム、ホイップクリーム、チョコレートソース等を細長いグラスの中に入れている。上には見栄え良くメロンとバナナをのせている。石原さんの前には、陶器で出来た黒い特大マグカップを置いた。特大マグカップの中には、並々と注がれた独特の臭いがする液体が入っている。コールタールらしきドロリとした液体だ。私の鼻腔を強烈な匂いが襲った。吉田さんは、さも誇らしげに言った。

「さあ、遠慮しないで召し上がってね。……とっても、素晴らしいお味だわよ!」

「それでは、遠慮なく、いただきマウス!」

ゾロゾロと集まって来た例の大きなゴキブリ達。私は、運動靴が汚れてしまうのを覚悟で力を込めて踏みつぶした。

店内の様子を見る振りをして、眼の隅で吉田さんの行動をつぶさに観察した。吉田さんは右手でコールタールを掻き混ぜた。おもむろに、半分ミイラ化し猛烈な悪臭が鼻をつくドブネズミの尻尾を高く持ち上げた。頭からさも美味しそうにグシャグシャと身震いするような音を立てて頬張りだした。歯も、唇の周りも真っ黒にして……。

 

私の前にあるチョコレートパフェのチョコレートにフォークを突き刺す。すると、ジヤージヤージヤージヤー……と耳障りな音がする。小型のチャバネゴキブリの群れが、ガラスの器から逃げ出したのだ。メロンに見えたのは蛾のさなぎで、無数の短い足でノロノロと逃げ出した。バナナは得体の知れない生き物だ。それが、羽を出して羽ばたき、薄暗いランプシェードに跳びついたのだ。そして、何年、いや何十年もの間、溜まっていただろう大量の埃を、頭上に撒き散らした。ホイップクリームの中には、大量のウジ虫がゾロゾロと蠢≪うごめ≫いている。もう、吐き気はしなかった。

だが、私の恐怖と怒りは頂点に達していた。無造作にマガジンラックに置かれていた埃まみれの雑誌をつかんだ。私は、何度も何度も繰り返し、力を込めてテーブルの上を叩いた。私を無視して、吉田さんは、さも美味しそうに2匹目のドブネズミを齧≪かじ≫っている。頭蓋骨が割れて脳味噌を垂らしている。ドブネズミの空洞になった目と鼻を、無数のウジ虫が出入りしている。吉田さんは、よだれを垂らし耳まで裂けた口を、大きく開けた。黒い歯茎と歯を見せて「ケケケケ……」と笑いながら嬉々として食べている。ビー玉のように変に緑色に光輝く眼で、私を見つめながら……。

やっと、吉田さんは2匹のドブネズミを食べ終わったようだ。

 

「ママ、いつもの美味しいデザート、お願いね!」

すると、老女は小さなハンマーと何かが入ったガラス瓶を運んできた。中で何やらゴソゴソ蠢いている。昆虫やクモ、ワラジムシなどの陸生の節足動物を食べているヤモリだ。吉田さんは、テーブルに載せられたガラス瓶をハンマーで何度も叩く。当然、中にいる数十匹のヤモリも原形をとどめないほどに千切れ体液が飛び散った。歯も、唇の周りも真っ黒にした吉田さんは、貴重な物をすくうように両手で掻き集め口に運ぶ。吉田さんの両手には無数のガラスが刺さっている。しかし、全く気にしていないようだ。バリバリとガラスが砕ける音。ムシャムシャとヤモリを骨ごとかみ砕く音が聞こえる。またしても、私の胃から嘔吐が喉までこみ上げてきた。

 

既に、我慢の限界を超えていた私は、強い力で抱き付き阻止しょうとするママを振り払った。ドアーに向かって必死で走り出した。やっと、取手を手前に引こうとした時だった。4人~5人の男達が入って来て、表情一つ変えずに私を突き飛ばした。彼等は、老婆に向かって全員揃って最敬礼し、異口同音に同じ品を力なく注文した。

「ママ、美味しい、いつもの品をお願い致します。……湯気が出ているのを頼みますよ!」

 

尻もちをついた時、私は、何気なく天井を見た。頭・胸部と尾部を大きく反らしている幼虫がウジャウジャいる。シャチホコのようなポーズをとっているシャヤチホコガの幼虫だ。それらが数十匹も群れて、モゾモゾと天井を這っている。私は、ヨロヨロと立ち上がった。

男達はヘラヘラと微かに笑いながら、弱々しく全員が拍手をした。男達は皆、第二次世界大戦時の帝国陸軍軍人達のようだ。兜≪かぶと≫は、銃弾が貫通し砲弾のかけらがあたった跡等で穴が開き、デコボコだ。軍服も所々穴が開きボロボロになっている。裸足には泥がベットリ付着している。細菌やウィルスに感染しているのだろうか? 特に痩せ細った一人は、穴だらけのズボンから、水っぽい下痢を床に垂れ流して前屈みに歩いている。その軍人の頬がこけた泥だらけの顔には、大きく見開き狂気に支配された眼が虚ろで、特に気味が悪い。軍人達は、カエル、ネズミ、ミミズ、植物か動物かは区別出来ない物を咥≪くわ≫えている。一人の軍人は、毛深い男の足らしき物体を咥えている。狂わしくおぞましい身の毛がよだつ、奇怪な光景だ。

 

隙を見計らって一切後ろを振り向かず、私は、喫茶店から脱兎の如く一目散に逃げ出した。

 

喫茶店を飛び出すと、上空には真っ青な空と入道雲が広がっている。白っぽい太陽が、ジリジリと容赦なくアスファルトを焦がしている。冬服の私に、遠慮なく真夏の太陽の熱気と湿気が、じっとりと纏≪まと≫わりついてくる。とにかく、喫茶店から一歩でも遠くへ逃げようとして、無我夢中で走った。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

息を弾ませ、うるさい蝉しぐれに満たされている古びた公園にたどり着いた。太陽の位置は、ほぼ真上だ。暑さのせいと昼時なのだろう。その公園には誰もいなかった。水飲み場を占領して、長い間、喉を潤し、頭にも水の恵みをお裾分けした。ようやく冷静さを取り戻すと、藤棚があったのでその下の木製の椅子に座った。まだ、息が弾んでいる。芭蕉の俳句に『くたびれて宿かるころや藤の花』とある。その句の通り私はくたびれていた。藤は、4月~5月には淡紫色または白色の花を房状に垂れ下げて咲く。しかし真夏らしい今は葉が青々と茂っている。4本の太い藤の樹が約、縦4メートル、横9メートルの藤棚を形成している。ボンヤリと木製のテーブルに背をもたれて一息ついていた。

 

忌まわしい喫茶店での出来事が、脳を駆け巡る。私は、幾多の疑問の渦に巻き込まれた。

学校を出たのは、確か真冬だったのに、今は真夏だ。勝気な性格だが『虫』と聞くだけで、全身寒気がする。だのに、卒倒もしないでウジ虫等を退治した。恐ろしい人達に囲まれているのに、堂々としていたこと。生きている人が2人しか居ないのに4つのコップ運ばれて来たのはどうしてだろう? ママと呼ばれた老婆にはっきりと見えたのだろうか? ――半分以上溶けだした異様な姿の死人。既に骨だけになってクモの巣に覆われた骸骨が―― 

TV等の映像でしか観た事がない軍人を、帝国陸軍兵だと分かったのだろう? あの様子から察すると、護衛艦に護られて自分達を迎えに来る輸送船が、着岸する海岸に向かって最前線の戦場から撤退中だったに違いない。

【当時の大本営発表では、『撤退中』とは言わず、『転進中』としていた】 

煙が立ち上る位にこんがりと焼いた人肉を注文するのを、予め知っていたのだろう? 第一、あの古ぼけた喫茶店の正体は、一体何なのだろう? ――学校の理科室にぶら下がっているガイコツの模型に、皮を張り付けたようなママ。そう呼ばれていた白髪の老婆の正体は?――

更に、どうして、吉田さんは、娘さんの自殺を事細かに私に話したのだろう? 挙句の果て、奇怪でおぞましい姿を現したのだろうか? そう見えたのは、私がみた単なる『奇怪な夢』だったのか? 私の『錯覚』にしか過ぎなかったのだろうか? 今となっては、真相を知るのが恐ろしい。私の頭全体には、無数の疑問符が渦巻いていた。しかし、出来るだけ何も考えずに、ボンヤリしていたかった。

 

ところが、濡らした髪が半分程乾いた頃、背中に突き刺さるような痛い視線を感じた。多くの人々の視線だ。振り向くと大勢の軍服を着た軍人や国民服や着物にモンペ姿の女性や子供がいる。全員が防空頭巾をかぶっているのだ。先程の恐怖が再来した。両足が音を立てて震えている。

「私に、何の恨みがあるの! そんな恐ろしい形相をして! 」

 歯をガチガチ鳴らしながらも精一杯怒鳴った。でも、全員、恨めしそうな表情が顔に貼り付いたまま無言だ。

「黙っていないで、何とか言ったらどうなの! 私はあなた達に何をしたっていうの? もうこれ以上私を怖がらせないで!」 

すると恰幅の良い一人の軍人が、スーと目前に近づいてきた。良く見ると腰から下は千切れて血が滴っている。真夏なのに真冬のような寒気が、私の全身を包み込んだ。戦争で突発的に死んだ人は、自分が死んだことを受け入れる事が出来ないのだろうか?

「私達の魂を行くべき所に先導して下さい。お願いします。後生ですから!」

その科白が、キーンと痛烈に頭に響き渡った。

「でも、お門違いよ。私には、あなた達を黄泉の国に導ける修行なんか積んでないのよ! 子供の私よりも、今までどうして……霊能力を身につけた大人に訴えなかったの?」

「何度も、何度も、訴えたのですが無視されたのです。多分、私達の霊を感じられなかったのでしょう。あるいは、私達の霊が見えても気味悪がって逃げて行った人も多くいました。自縛霊なので此処から移動出来ません。この公園の中で、成仏できないで彷徨っているのです!」

事情を知り、可哀想に思った私は優しく尋ねた。

「ここで何があったのですか?」

すると、両腕を失くしたらしい乳飲み子を抱いた首から上のない母親がツツー私の前にきた。首の付け根から血飛沫≪ちしぶき≫を空高く噴出させながら……。彼女は口がないのに私の脳に直接訴えかけたのだ。

「貴女の純粋な祈りで私達を行くべき所へ送って下さい。お願いします。ここは、空襲時の避難場所で多くの防空壕があったのです。でも、B29の爆撃で一人残らず爆死したの!」

私は、読誦経典の代表的な般若心経を心から唱え、皆さんの冥福を真剣に祈った。繰り返し、繰り返し……。

真摯な祈りが通じたのだろうか? 公園から皆揃って姿を消していた。我に帰ると、全身に気だるさと清々しさが溢れていた。重い足取りでその公園を出て、人家の密集した場所までやってきた。今更、学校に行く気もしないので、施設に帰ろうとした。が、どうしても道順を思い出せない。足はクネクネした道を勝手に進み、見知らぬ平屋に私を運んだ。まるで、脳と肉体が、互いに分離したかのようだ。妙な気分に陥り、眩暈≪めまい≫がして、その場で立ち竦≪すく≫んでいた。

 

ようやく、気分が良くなったので目を開けると、そこには平屋建ての家があった。早速、その2DKの家に入って、重いランドセルを畳に投げるようにして降ろした。そして、冷蔵庫の中から冷えたプリンを取り出した。

(おかしいなぁー。 施設では、いつも、宿題を終えた後にオヤツを食べる習慣なのに……)

食器棚から出したガラス皿上手く裏返せた。喜びの「ヤッホー」を大声で連発し、マサイの戦士の真似をして数回飛び上がった。儀式を終え、大好物のチョコレートプリンを口一杯に頬張った。さて、気が進まない宿題をしようとしてランドセルから、数枚プリントを出した。ところが、どうしたのだろう? そこに書いている文章の意味を、半分位しか理解出来ない。

(一体どうしただろう? 常に学年で一番なのに、ほとんど分からないなんて! きっと、まだ、気が動転し、混乱が私を占拠しているのだろう?)

と思うや否や、急に猛烈な睡魔に襲われ、意識を失って深い眠りに落ちた。

 

気づいたのは、タオルケットを掛けられ、吉田さんの野太い声を聞いた時だった。

「お腹が空いたでしょう。すぐに貴女の大好きなハンバーグを焼くから、もう少しだけ待ってね」

――ビール樽のように太った体を揺らし、台所に向かって行く吉田さんの後姿を見た――

「どうして、私はここにいるの。ねぇー吉田さん」

と言う積りだったが、実際に口をついて出た言葉は違っていた。

「お母さん、早くしてね。智子、凄くお腹が空いているの!」

「ハイ、ハイ,すぐに出来るから。……待ってね!」

と吉田さんの優しい返事が聞こえた。私は、不安に駆られて、ランドセルの名前を確認した。なんと--―そこには、下手な字で【吉田智子】と書いてある。

(彼女は苛めを苦にして、ロープを使って縊死した筈じゃなかったのかしら?)

事態を全く把握できない。きっと頭脳の回線がショートしたようだ。私の脳は、混沌に支配されていたのだ。

(自分の中には、二重の人格が同居しているのかなぁ? ――記憶や意識、知覚等、本来なら一人が連続して、統合して持っているべき精神機能。それがうまく統一されていない解離状態になってしまったのだろうか?)

今は、自分が、【吉田智子】に変身しているらしい。吉田さんが、テーブルの上に夕食の皿等をならべ始めたので、勇気を出して尋ねてみた。

「お母さん、名前は何というの?」

「何を馬鹿な事言っているの! 頭がおかしくなったの!? お医者さんに連れていくわよ。詰らない事を言わないで、早く食べなさい。でないと、冷めてしまうわよ!」

私は、それ以上深く聞けなかったので、夕食に取りかかることにしてその場を濁した。

 

幾ら記憶の底を掻き回しても、結果は同じだった。私の顕在意識には、二種類の異なった記憶が、存在を誇示している。多重人格障害(解離性同一性障害)は、1人の人に、違う2つ以上の同一性が存在する。2人の人格が存在する状態を特徴とする解離性障害で『多重人格・二重人格』と呼ばれる症状だ。自分がしたことを覚えていなかったり、自分のやったことを説明できなかったりする。この疾患に対し『人間、誰しも多重人格的な部分がある』とも言える。しかし、私は『性格の多面性』と『独立した2人の記憶』を持っているのだ。

――私の場合は、氏名・年齢・食・服の好み・口調・筆跡等も、全く異なっているが――

 

理屈はどうあれ、今は『中西智子』を演じなければいけないような雰囲気だ。施設では、大人にも子供にも嫌われるようになってしまった。山下の子供であり続けるよりも、中西智子になった方が、私には幸せかもしれない。自分が何者であるかを確かめようと、恐る恐る手鏡を見た。西洋のお人形さんのように黒目が大きく、鼻筋が通りおさげ髪の可愛い女の子は写ってはいない。容貌が全く違う。鏡からはみ出しそうな、一重瞼で鼻が上を向いた肥えた顔があった。夕食後、お風呂に入って、体重計で量ってみた。智子さんは、まだ小学校2年生なのに、50キログラムを超えている。体格に反し頭脳は、幼稚園の年長さん並みに甘んじなければならないのだろうか? この状態では、小説家を目指すどころか、クラスの皆に追い付くのが精一杯である。

 

その時以来、学校ではいつも下を向いて、先生と目を合わせないようにしている。『山下玲子』であった時とは逆で、先生の質問にほとんど答えられないからだ。

 

でも、数年間は何事もなく、私達、母娘はある意味幸せに暮らしていた。

 

小学5年生の2学期が始まってすぐに、私は初潮を迎えた。

「お赤飯を炊いて、お祝いしましょうね」

母は喜んで、私一人では食べ切れない程の赤飯を夕飯に出してくれた。

「あー美味しかった。ご馳走さま。こんな赤飯が食べられるなら、毎日初潮を迎えたいわ!」

「食慾だけは旺盛ね。勉強にも身を入れてね!」

 チクッと痛いところを刺されてしまった。私の成績は、相も変わらず下の下であった。料理、洗濯、ピアノ等女性としての嗜みを身につける事に、母は熱心であった。その後、母と同じ職を目指して私なりに猛勉強をした。高校、短大を四苦八苦してようやく卒業できた。短大で、所定の14科目をクリアーし、司書の資格を最短の半年で取得する人が大勢いた。でも、私は、1年間も費やして、やっと念願の司書の資格を手に入れた。公立図書館で、今は、司書として働いている。母とは別の図書館だったが。公務員と同じ待遇なので、おやつ以外に投資しない私には金銭に余裕があった。従って、平凡な生活だが、お金には何ら苦労することはない。施設にいた時には想像すら出来ない位の贅沢が出来るようになった。

母は定時に仕事を終えると、毎晩、商品で溢れんばかりの買い物袋を提げて帰宅する。家で2人揃って夕食の支度をし、今日の出来事を話しながら、旺盛な食欲を満たす。また、母は、とにかく綺麗好きで、洗濯、清掃には余念がなかった。休みの日には早朝から、到る所を雑巾がけする程の清潔好きであった。

 

ところが、一体どうしたことだろう?

 

「今日も、仕事が忙しいので残業するわ。冷蔵庫に用意しているおかずを、レンジでチンして夕食を先に食べてね」

最近、朝出かける時、母にそう告げられる日々が増してきた。明け方近くになって、母は帰宅する。更に、休みの日には朝から濃い化粧をして外出する。今までは、仕事の日も薄化粧で、休日にはスッピンだったのに……。浮き浮きしながら鼻歌を歌ってどこかへ出かけ、疲れた顔で帰宅しだした。女性特有の勘で、好きな男性と逢っているらしいと思った。

初めの頃、私は、見て見ぬ振りをしていた。だって、母も子持ちとはいえ、独身女性だったから。数カ月経る頃、母の振る舞いに『異常さ』を感じざるを得なくなった。四六時中、焦点の合わない目で、何もない空間に向かって、ニタニタ……笑っている。毎晩、魘≪うな≫されて夢遊病者のような言動をするようになってきた。眼の下にはどす黒いクマができ、しかも、家中を徘徊し出したのだ。大声で意味不明な言葉を喚き散らしながら……。その眼には、尋常でない鬼気が宿っている。そんな母を見ると――私は、全身に冷や水を浴びせられたように、寒気がして身震いが止まらなかった。『この世の人』だとは到底思えない鬼気迫る表情をしていたのだ。

相手の正体は不明だが、母が『悪霊』にとり憑かれているのは、明明白白だと思う。

 

母が休みの月曜日、私は、職場へ行ったように見せかけて、後をつけた。

『生霊』か『死霊』かの男性に逢いに行く異様に濃い化粧を施した母――どう贔屓目≪ひいきめ≫に見ても『美人』とは対局にいる母。その母がイソイソとして、電車を乗り継ぎバスに乗り換えた。私は、数枚の予め持参してきた2万5千分の1で表された地図で確かめる。木々が鬱蒼と生い茂る、ある廃村へと向かっているらしい。母は、その間中、まるで熟れ過ぎたトマト以上に真っ赤に塗った唇を歪めている。更に、黄色く変色した歯茎に唾を垂らして、ヘラヘラと笑い続けている。電車でもバスの中でも、皆の軽蔑の視線が母にそそがれていた。私は、母のそんな姿を見て悲しかった。

母は、バスの終点で降りた。当然、私も降りたが、周囲は山々に囲まれた辺鄙な場所だ。母は、脇目も振らず一目散に森の奥に向かって、大股で進んで行く。だんだん狭くなっていく獣≪けもの≫道に分け入っていく。幹と枝の区別がなく、根本からいくつも枝が出て、卵形や箒≪ほうき≫を立てたような樹形のツツジ、サザンカ、バラ等々。それらの低木に躓≪つまづ≫きながら、ヨロヨロと歩を進めている。自宅から約2時間費やして、やっと、ある平屋の廃屋の玄関の前にやって来た。廃屋全体に、まきひげの先端が吸盤になった薄緑色の蔦≪つた≫が幾重にも絡まっている。家屋は傾き、窓があったらしい木枠は朽ち落ちている。まるで眼玉のない暗い眼窩のようだ。近隣の村人が、神社で祈祷してもらったらしい御札を、引き戸に上下合わせて4枚貼ってある。

(悪霊を封じ込めようとしたのだろうか?)

と思いながら、母の行動を見逃すまいと密かに監視を続けた。その家に近づいていくだけで、気分が悪くなる。

 

 

その時、子供の頃に読んだ、機械仕掛けの巨大キョンシーが登場する児童書を思い出した。

――足首のみを利用して跳ねるように移動し、バランスをとるために腕を前に伸ばす。生き血を求めて、人間や動物の頸動脈を狙い、咬み付くキョンシー達――

何ともおぞましい姿だった。そんな忌まわしいゾンビのような『悪霊』に母が会いに行くのだ。私の両足がガタガタと音を立てて震えだした。

「何を貼っているの! ふん。バカな村人。こんな小細工をしても、私には通じないわよ。こうしてやる!」

母は、廃屋の前で一瞬ひるんだが、蒼白な顔をしてその御札を全て剥がした。更に足で踏み躙≪にじ≫って粉々にした。ガラガラガラガラ…と空気を震わせる音を立てて、引き戸の片方を全開にした。

「ゴザエモンさぁん、ゴザエモンさぁん、ゴザエモンさぁん、ゴザエモンさぁん…」

甘ったるい妖艶な声を出して、何度も何度も中に向かって呼んでいる。大きな銀杏の木に隠れていた私は、思わず身を乗り出した。引き戸の中から現れるだろう『悪霊』の正体を見届けるために……。

 

その時、雑食で動物の死骸も食べる漆黒のハシブトガラスが、4羽飛んできた。私が、身を隠している太い銀杏≪いちょう≫の天辺あたりに止まった。何かの生き物を咥えた一羽以外、バタバタ羽ばたいている。

「グァー、グァー、グァー、グァー……」

私を見下ろして、うるさく鳴き出した。静寂に慣れた私の聴覚を驚愕させた。青空に聳え立つ銀杏の木から、廃屋の玄関に目を移した。しかし、そこに母の姿はない。忍び足で開け放たれたままの引き戸に近づき、埃がうず高く積った三和土≪たたき≫へと入った。そこで、悪趣味極まる母のパンプスを見つけた。ショッキングピンクの皮革に、ゴールドに輝くラメで縁取った大きな下ろしたてのパンプス。もう既に、重い体重で内側だけが僅かに擦り減っている。

密会の現場を盗み見て良いのかどうか、躊躇している自分に気がついた。

(ここまで来たのだから)

と、無理やり自分を納得させ、埃が舞う座敷にいるだろう『相手』を観察した。その途端、急に吐き気を催した。

「ゲエー、ゲエー、ゲエー、ゲエー……」

玄関から出て、未だ完全に消化されていない胃の内容物を、胃液と一緒に飛び出させてしまった。その廃屋には、臭気に満ちた霊気が漂っていた。奥は薄暗く、カビと埃、それに朽ちた木材の臭気が漂ってきた。

 

 

座敷に横たわり、既にバラバラの骸骨となった『相手』には――ナタが兜に深く刺さり、肋骨を覆っている鎧には4本の矢が貫いていたらしい。骨だけの両足には1本の槍と2本の先の尖った朽ちた竹が貫通している。それらは、いずれも原形を留めていなかった――

400年程昔の武士の朽ちた甲冑が見える。粗末な鎧兜から判断すれば、下級侍に違いない。斬バラ髪を振り乱した髑髏≪どくろ≫となった彼の顔。昔日には、輝く双眸があった眼窩≪がんか≫には、何匹ものクモの巣が張っている。それが、母を凝視しているように見える。彼の体と畳に付着したであろう鮮血は、もう既に焦げ茶色に変色して干乾びていた。

(恐らく、命取りになる傷を抱え、生きたい一心で、この民家まで辿り着いたのだろう。しかし、彼の命の炎は儚くも消え、ここで息絶えたのだろう。苦悶に身を仰け反らせて……)

そう私は想像した。彼の無念さを考えると、心が張り裂けそうになった。

(成仏も出来ずに、今は悪霊となって、母を誘惑したのだろうか? いや、その逆かもしれない。母が『生霊』となり霊道を通って、彼に接近したのかもしれないのだ。それが最初の出会いだった可能性だって考えられるわ!)

座敷に靴を履いたまま上がる。泥沼のように腐った畳が沈んだ。廃屋特有の悪臭も鼻腔を強烈に刺激した。目と鼻の距離で座っている母を見た。すると、母は恍惚の表情をして、頭蓋骨を抱いて、愛おしそうに頬ずりしている。しかも、この廃屋では、スローテンポで時間の流れが経過しているのだろう。母の動きは非常に緩慢だ。スローモーションの映像を見ているようだ。

 

あるいは、宇宙は無数の相対状態を含んでいて、その一部は『彼が生きている相対状態』にある。別の一部は『彼が死んでいる相対状態』にあり、その分布は量子力学方程式に従う。あらゆる事象については、一般的な解釈と多世界解釈で予測される結果に差は出ない筈だ――それは、量子論の基本だという事を私は思い出した――

(何だか、昔の鼻もちならない成績抜群の山下玲子に回帰したようだわ! 妙に頭脳が冴え渡っている感じがする。とても山口智子には理解出来ない理論だろう。きっと、きっと、そうだわ!)

 

根暗のオーラに支配されている廃屋から、燦々と太陽の輝く外に出た。ダサい山口智子のポーチから手鏡を取り出した。出来るだけ全身が映るように、右腕を精一杯伸ばし丸い鏡を見た。西洋のお人形さんのような玲子が、鏡の中にいたのだ。『山口智子』から元の『山下玲子』に戻った。スローモーションで抱き合う二人を尻目に、獣道をダッシュし森を抜けた。バス、電車と乗り継ぎ街へと帰ってきた。当然、山口さんの家には戻らなかった。

――いや、あの家には、二度と寄り付きたくはなかった――

 

一目散に、児童養護施設へと急いだ。ひんやりした空気と共に現れる、15歳位のオネーチャンが、横で優しく子守唄を歌ってくれた施設へ。帰ると、何の違和感も心理的抵抗もなく、吉田さんとの生活一切が存在しなかったような生活が、可能であった。小説家志望の11歳、小学校5年生に何の不自然もなく帰る事が出来た。本来の自分に帰れたのだ。吉田さんとの生活の記憶を保ったまま、一連の出来事を悪夢として記憶の隅に追い遣って……。

 

小学6年生になり、恐る恐る吉田さんが勤める図書館に顔を出した。が、彼女は、私を以前の通り『山下玲子』として接してきた。私との記憶は皆無のようだった。 

 

だが、私が、短期間とはいえ時間旅行をした事が原因で、恐ろしい結果が生まれた。タイムトラベルが不可能だとする「時間順序保護仮説」。「過去に行くことを許容する閉じた時間線が存在するには、場のエネルギーが無限大でなくてはならない」。そう提唱した筋萎縮性側索硬化症発症で苦しんでいるイギリスの理論物理学者ホーキング博士。彼とは真逆の症状に、私は苦しむ事になってしまった。筋萎縮性側索硬化症は、重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患だ。  私は、彼とは反対に『体が成長し過ぎる症状』に苦しむ羽目に陥った。

 

――どうやら、私の1歳は、通常の人の5歳に相当するようだ――

身長159 センチメートル、体重53キログラム。つまり、小学6年生の私は、高校2年生の平均的な肉体になってしまった。同級生の中では一番の巨体になった。違うクラスの生徒、先生すら、私を見るなり露骨に驚きの表情を示した。高校卒業時には、誰が見ても、カラスの足跡と小皺が気になる32歳位のオバサンだ。18歳になると施設を出た。と言うより、余程の理由がなければ、施設を出なければならない。首尾よく奨学金のお世話になり、関西にある国立大学文学部に現役で合格できた。

 

桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年平安京に遷都した事に始まる『千年の都』

――京都――

そこで、初めての経験である不安に満ちた一人暮らしを始めた。学業にも励みながら、料亭でのアルバイトを4年間続けた。が、哲学科修士課程で助手としてゼミの教授の手助けをし、研究に没頭する頃。

「還暦直前の歳にしか見えないわねー」

「そうねえ。ホントだわ! 60歳前後にしかみえないもの!」

同僚は口を揃えて言った。まだ実年齢は23歳の若さなのに。恋人はおろか、親友すらいない寂しさから、幼い頃のように、真剣に自殺を考えた。24歳になった今では、外見的には60歳後半にしか見えない。もう既に総入れ歯をし、顔には深い皺とシミが出来ている白髪の『老女』である。このペースでいくと、実年齢27歳の若さで、日本女性の平均寿命86歳を超えてしまう。見た目には、そんなおばあさんになってしまう計算になる。

(24歳になった今『自殺』を真剣に考えるのは当然だわ! 太宰治は『人間失格』『桜桃』などを書き上げ、小説家としての名声を勝ち得た。彼は、大学時代より自殺未遂・心中未遂を繰り返していたわ。1948年、玉川上水にて山崎富栄と共に入水自殺をした。私もそうしたいが、その相手すらいない。一人寂しく死ななければならない運命なのだろうか?)                     

覚悟を決め、近くの高層マンションの19階の手すりを乗り越えた。その時、一瞬、例のオネ-チヤンを目にしたような気がした。が、数秒後に私の意識は、奈落の底に落ちていき消滅した。

 

私は、ぬるま湯のような中で、真っ裸で上向きに浮いている。が、体は自由には動かせない。多分、ここは人間のお腹の中だろう。母親と胎盤および臍帯でつながり酸素と栄養の供給を受け、老廃物と二酸化炭素を排出しているに違いない。

――そう、私は、今、胎児の状態にあるのだ――

何時からこの状態になったのかは、判然としないが、哺乳動物として生まれ変われるのを喜んだ。

(生まれ変わるのが早すぎるのでは?)

と一瞬、不安が脳裏に浮かんだが、とりあえず、神様に感謝した。だって、自殺すれば必ず地獄に落ちて、その世界で、種々の苦しみを経験すると仏教では教えているから。

――例外もあるのだろうか?――

そんな地獄での苦しみを味わう事もなく、人間として生まれようとしている。手足が肌色に見えるのは、まだ、私の眼が瞼で覆われているからだろう。凄く気分が良いので、よくまどろんで、種々の楽しさに満たされた夢をみる。

(私の母親は、どのような女性なのだろう? 今から楽しみでワクワクするわ! 研究者となり、ミトコンドリアDNAを調べれば、母親、母親の母親…と女系を辿る事が出来る。ミトコンドリアDNAは、必ず母親から子に受け継がれ、父親から受け継がれることはない。どうしてだかその理由は不明だが、先祖を突き止めてみたい欲望で頭が満たされている。こんな思考過程から類推すれば、私は『男』ではなく『女』として産まれるのは必至だわ!)

 

ここで、私は、オパーリンが著した1936年の論文『生命の起源』を思い出した。

――オパーリンは、ソ連の生化学で化学進化説の提唱者でその後も研究を深めた。1957年に『地球上の生命の起源』1966年には『生命の起源-生命の生成と初期の発展』が出版された。66年版では、コアセルベートよりも複雑で整った機構を持つが、原始的生物よりは簡単な系『プロトビオント』について、その進化を論じている。この研究は、新しい科学分野・宇宙生物学への道を開いた――

彼の説によると、原始海洋の中で生命は誕生した。その前段として、自然界の中で簡単な分子から高分子が合成されていった。これが『化学進化』だ。高分子の中には、生物の体を作るたんぱく質の構成要素であるアミノ酸も含まれる。自然に無機物からできた有機物が、原始の海で濃厚な『有機物のスープ』ができた。その中でアミノ酸、核酸、更には、たんぱく質が出来てくる。そのたんぱく質は、コアセルベードと呼ばれる膜を持った粒状の組織となった。そして自己増殖の能力を持つようになった。我々の直接の先祖である、ホモサピエンスと呼ばれる人類にまで進化してきた――

 

そのような気の遠くなるほど長い生命の流れが、一瞬にして私の頭の中を駆け巡った。IQが特別高い人の中には、自分がこの世に生れ出る瞬間からの記憶を持っている。私の場合は、まだ母親の胎内にいるのだ。

(このような意思、知識、前世の記憶が、いつまで、私の頭の中に留まっていられるのだろうか?)

イヤーナ予感がして、なぜか身震いが止まらない。意識を失って身体の硬直や痙攣がおきる『てんかん』による痙攣≪けいれん≫だろうか? いや、産まれた後に、私が辿っていかねばならない、忌まわしく、恐ろしい生への予感だった。

 

利香≪りか≫はこの世に出てきたが、死んだようにぐったりとしていた。ここは病院ではない。

――2DKの部屋がある古びた喫茶店。太陽で黄色く変色した畳の上に敷かれた、綿が、所々顔を出している煎餅布団の中だ――

助産婦の助けを借りて生まれてきた。何度も逆さにされ、思いっきりお尻を叩かれた。

「オギャー、オギャーオギャー、オギャー…」

利香は、ようやく力のない声で産声を上げたのだった。凸凹の金盥《かなだらい》で体をゴシゴシ洗われた。変色したボロボロのバスタオルで、生まれたばかりの利香は拭かれた。産みの苦しみで汗にまみれ、まだ口にタオルを咥えている母親。腕を伸ばして母親は、助産婦から利香を奪い取った。そして、利香の口に、萎れて血管が浮き出たお乳を無理やり押し込んだ。

「シィーシィー、早くここから出てお行き!」

母は、体力が衰えているにもかかわらず、家を震わせる大声で叫んだ。茫然としている助産婦を、まるで野良猫を追い出すような仕草で……。ガラガラと建てつけの悪い引き戸を開けて、逃げるように助産婦は出て行く。左足が悪いので、びっこを引いていた。母は、肥満タイプの助産婦の背中にベットリとして黄色い粘っこいツバを正確に当てた。

「イッヒヒヒヒ,イッヒヒヒヒ,イッヒヒヒヒ,イッヒヒヒヒ…」

歯のない皺だらけの口を大きく開けて、奇妙な笑いを洩らし続けていた。

 

利香は、保育所に通っても、皆から敬遠され、誰一人友達がいなかった。

「利香ちゃんって、すぅーごく、臭くない?」

「あたしも、そう思うわ! ママが、ゴミのような臭い匂いがする子とは、遊んじゃいけないって!」

「ヤーイ、おまえはゴミから生まれたのか? 臭いから、あっちへ行け!」

「そうだ。そうだ……」

皆が、まるで合唱しているかのように、口を揃えて常に言っていた。保育士さん達も、あからさまに利香を敬遠し、侮蔑に満ちた眼差しを向けていた。泣きに泣いた日々は、数え切れない。母に訴えたが、何時も無視された。

「イッヒヒヒヒ,イッヒヒヒヒ、イッヒヒヒヒ,イッヒヒヒヒ…」

と歯のない皺だらけの口を開けて、笑ってばかりいたのだ。小学校に通うようになっても【4年生】になるまで、利香はイジメの対象だった。あいも変わらず、汚れて、プーンと匂う臭い服を着せられていた。風呂は月に一度しか入れてもらえなかった。体中からヘドロに似た悪臭が立ちこめていた。母は、1年生の参観日に一度だけ顔を出した。この事が、事態を更に悪化させてしまった。

「お前のオバアチャンも、お前と同じ臭い匂いがする! 教室に、入ってきた時に、すぐわかったぞー。やーい、やーい『うんこ』の家族!!」

「そうよ、そうよ。あたしたちに近づかないで! 先生が、教室の一番後ろの皆から離れた所に、机を置いたのは正解よ! ママも言っていたわ。貴女のオバアチャン、凄く臭い匂いがするって! 授業参観どころじゃなかったって。ハンカチで鼻を押さえても我慢出来ないから、おトイレで吐いたのよ。あの日は一日中気分が悪かった、と言っていたわ!」

白髪交じりで片方の眼だけが虚ろに光っている母を、オバアチャンだと思い込んでいる。母だと言ったなら余計にバカにされそうで、本当のことは黙っていた。学校から帰って、母に打ち明けると、やっぱり、保育所の時と同じだった。

「イッヒヒヒヒ、イッヒヒヒヒ、イッヒヒヒヒ、イッヒヒヒヒ、……」

歯のない皺だらけの口を開けて、笑っていただけだった。私は、悲しくて泣きだした。でも、母は、そんな私を無視した。

 

学校での成績はグンバツだった。IQは155もあった。学年では常に1番なので、私に目をかけて優しく接して下さった先生がいた。担任の先生ではなく、隣のクラスの山村先生だった。私を不憫≪ふびん≫に思ったのだろう。何度も何度も、家に来るように誘われた。

「是非、家に遊びに来なさいよ。腕によりをかけて御馳走するわ!」

私は、母もさることながら他人にも親切にされた事はなかった。だから、そんな声をかけられたのは、まるで天にも昇る程嬉しかった。早速、私は、山村先生の自宅に遊びに行った。小学4年生の蒸し暑い真夏の土曜日だった。書いて下さった地図を頼りに、先生のお宅に着いた時は、体中が汗だくだった。比較的新しいワンピースまで汗の臭いがして恥ずかしかった。自宅から約50分歩いて、真夏の太陽に焼かれれば当然だろう。方向音痴の私は、誰かまわず歩いている人に繰り返し尋ねた。やっと、見つけた先生のお宅は、真新しい2階建ての真っ白な瀟洒≪しょうしゃ≫な家だった。恐る恐る玄関のチャイムを鳴らすと、待っていたかのように、直ぐに山村先生が顔を出した。

「お邪魔いたします。お言葉に甘えて来ました。汗で匂うでしょう、スミマセン」

「そんな事は、気にしなくていいわよ。さあさあ、中に入ってちょうだい」

広いリビングのソファーに座ったが、何だか落ち着かない。すると、先生は、お風呂をすすめて下さった。

「でも、私、恥ずかしいし、第一あつかましいわ!」

「そんな事、全然、気にしないでいいのよ。……主人と、一人娘の綾≪あや≫は、2階の自室にいるように言っておいたから。決して下には降りて来ないわ。さぁさぁ、遠慮しないで、お風呂に入ってね。……ここに来るまで、いっぱい汗をかいたでしょう。お家から遠くて大変だったわね。ゴメンナサイネ」

大きなバスルームとゆったりしたバスには驚いた。ボディーウォシュ、シャンプー、リンス等は、素晴らしい香りがした。皆、高価そうな品ばかりだ。

「着替えを藤のバスケットに入れてあるから、遠慮しないで使ってね!」

リビングから、先生の声が微かに聞こえた。

「良いのですか? どうもありがとうございます!」

私は、リビングにいる先生に聞こえるように大声で言った。でも、厭な予感がして、何故か落ち着かなかった。『カラスの行水』よりも早くお風呂から上がり、新品のワンピーに着替えた。お風呂場とキッチンを隔てているアコーデオンカーテンを僅かだけ開けた。その時、私が、目にした奇奇怪怪で、何とも表現出来ないおぞましい光景――先生、ご主人、一人娘の3人が、私の着替えた汗だらけのワンピーと下着に群がっている――歓喜と恍惚の表情を浮かべている。

「俺が手にした彼女の下着を盗むな! 誰も、近づくな!」

「何よ。パパだけ、美味しい思いをして! 私にも少しかじらせてよ! パパは、卑怯だわ!」

「喧嘩しないで、早く食べなさい! まだワンピースがあるじゃない! 早く食べないと、もうすぐ、お風呂から上がってくるわよ!」

私の汗で汚れた服と下着を、3人がムシャムシャと厭らしい音をたてて食べていた。地獄の餓鬼のような表情をして……。

「ギャーああああああああああぁぁぁぁ……」

私は、家中に響き渡る金切り声で叫んだ。玄関を開けっぱなしにして、慌てて自分の家に向かって走った。今見た何ともおぞましい光景が、頭の中でグルグルと渦巻いていた。

「はぁー、はぁー、はぁー、はぁー……」

30分程全速力で走ると、小さな公園を見つけた。幸いにも水飲み場があったで、思い切り、渇ききった喉を潤した。

(一体、あの家族は何なのだろう? 変態を通り越しているわ。きっと、精神に異常をキタシテル! 学校で顔をあわせたら、どうしよう!? 恐ろしいわ。あーヤダヤダ。そうなったら、どうしたらいいのかしら?)

先生達が追いかけて来るのではないかと、時々、後ろを振り返って早足で帰った。私は、自宅の玄関を開けた。すると、入口に母が仁王立ちしていた。この頃には、もう白髪だらけだった。ガラス玉を嵌め込んだような片方の眼の光も、光彩を欠いて濁っていた。

「今まで、どこをほっついていたの! 忙しいのに! 早く、エプロンして、お店を手伝ってちょうだい。この役立たずが!」

「でも、今日出かける時に、お母さんに言ったわ!」

「何を生意気な口を叩いているの、この子は!」

と言うなり、私の口を思いっきりつねり、長い柄の箒で何度も叩いた。溜息と共に服を着替え、泣きながら、ヨレヨレのエプロンをして油まみれの厨房で働かざるをえなかった。

 

【光陰矢のごとし】の諺通り、私はもう中学1年生になっていた。小学4年生からは、誰からも好かれている。小柄であるが、顔立ちは堀が深く愛らしい西洋人形のようだった。学校から帰ると、流行の最先端の赤のデイバッグを背中から外した。早速、数十着ある中でもお気に入りの刺繍がある可愛いエプロンをして、元気よく店に出た。店は、祖父母の遺産で建てた喫茶店でもう既に築24年を経過している。カウンター席も含め44席ある中規模の店で、6畳と4畳半の住居つきである。駐車場はこのような都会では珍しく33台のスペースを有している。営業時間は朝7時から夕方6時までで、毎週月曜日が定休日である。朝は4種類のモーニングを、昼もコーヒー付きのランチを同じく4種類提供している。厨房では母と、パート従業員で44歳の野川さんが慌ただしく働いている。同じくパート従業員2人がホールを担当している。19歳のお洒落でハキハキした鈴木さん。歳は同じで少し服装はダサいが、愛想の良い大西さんだ。つまり、4名で、老朽化してきたこの喫茶店を運営している。学校から帰ると、私も出来るだけホールを手伝うようにしている。お客さんに私の美貌を見せびらかすのが目的だ。名前はサイフォン喫茶茜≪あかね≫だが、建物が老朽化しているせいか、入口のドアーが開きにくい時がある。お客さんによく茶化される。

「それでアカネと名付けたのか!? なるほどナー。うーん、洒落にしては素晴らしいできだ。先生は、ハナマルをあげちゃおうかな?」

でも、そんな人に限って頼みもしないのに、ライトバンの後部から電ノコを担いでくる。それを使いドアーの下部を削り、スムーズに開け閉め出来るように無償で修理して下さる。

 

閉店後、外に出している2つの電飾看板を店の入り口まで運ぶ。その後、私にとっての恒例【お楽しみタイム】が始まる。小学4年に初潮が始まって以来、毎夜欠かすことなく行っている。残酷過ぎる一種の『儀式』のようなものだ。幼児期に反抗の対象を、年長者に向ける第一反抗期ではない。思春期にさしかかる第二反抗期は、自分を取り巻く伝統的な慣習や権威に向けた反抗をするのが普通だ。しかし、この『儀式』は、第一反抗期の様相を示している。幼い頃から今まで、体積と重量を増し続けてきた鉛の塊のごとくに心に鬱積してきた夥しい苦悩の数々……。

――父親がどこの誰だか不明であること。 

――医学的にはあり得ない、とっくの昔に閉経した64歳の母から誕生したこと。

――母の醜い容貌。白髪交じりでガラス玉のような片方の眼。

――『生臭い女の子』と言う理由で、いつも一人ぼっち。友達は一人もいない。常にイジメの対象だった。

――偶に悪霊が見え、その都度、体中の血液が逆流するような眩暈に襲われる。気絶して記憶が飛んでしまうだけの中途半端な霊感に苛まされている。つまり、霊感に踊らされているだけで、なんら私の役には立たない。六親等以外の他人の未来や守護霊、前世が、時々見える。だが、幼い『霊能者』として世に出るのにも中途半端な状態だ。HさんSさん等のように、TVで活躍出来るほど修行を積む気も、さらさら湧かない。

しかし、IQの抜群の高さで、大人ですら難解な書物をハイスピードで読める。しかも、内容が頭脳で簡単に咀嚼≪そしゃく≫出来るある種の天才だ。それは自他共が認めている。将来の夢は、最先端を行く天体物理学者になる事だ。300名の研究者を擁し、光学望遠鏡、電波望遠鏡、宇宙望遠鏡を用いた天文学研究を行っているマサチューセッツ州ケンブリッジに天文学・宇宙物理学に関する研究所がある。そのハーバード・スミソニアン天体物理学センターで、ノーベル賞を獲得出来る有能な物理学研究者になる。それが私の夢だ。その夢が叶うよう、人一倍勉学に励んだ。だが、その代償作用――ストレスの発散も必要悪だと私は考え、忌まわしい【儀式】を正当化しているのかもしれない。

 

最近、TV等が、こぞって児童虐待の惨たらしい報道を繰り広げている。通報件数はウナギ登りだ。でも、実際に行われる虐待は、むしろ減少しているらしい。逆に子供が親を虐待している件数が、高齢化社会の到来で、増加しているのだ。近世までに行われてきた『間引き』よりも、昔映画化された『姥捨て山』の風習の方が、身の毛がよだつ話だ。江戸時代、今でいうところの刑法においては、親が子を殺すのを容認していた。親の都合で子供を犠牲にする事――即ち子供を殺害する事は、親の正当なる権利として広く認められていた。当時の日本では生後間もない子を殺す事例があり、間引きと呼ばれた。貧しさから起こるものだけではなく、生活水準を保つためにも行われていた。また、普遍的にみられる事象であるが、生まれてきた子供が奇形児や障害を持った子供であった場合。その子が持っている適応価が低いので、投資が無駄になる。そのため、多くの子供がこの世から無理やりあの世に旅出された。現代日本その他でも、優生学その他の影響もあり、このような子供は処分することが、通例だ。現代でも、近代医療による出産前の子殺し。つまり、中絶が普及していない地域では、出産後の新生児の間引きが行われている国も現に存在する――

 

児童虐待は、次に掲げる行為をすることと定義している。

児童の身体に外傷が生じ、または生じるおそれのある暴行を加える――身体的虐待。

児童に猥褻≪わいせつ≫行為をすること、または児童を性的対象にする、又は、猥褻なものを見せること――性的虐待。

児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食、もしくは長時間の放置、その他の保護者としての監護を著しく怠ること――ネグレクト(無視する行為)。

児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと――心理的虐待。

 

 性的虐待以外は、毎夜、私が母に行っている何ともおぞましい【儀式】なのだ。親と子供が入れ替わっているが……。そう――虐待の主役は子供の私であり、それに甘んじざるを得ないのは、憎たらしい母である。

 

近所に悲鳴が漏れないように、ステレオのボリュームを最大にする。鍵で厳重に封鎖している学習机の一番下の引き出しから、おもむろに夜店で買った弓を取り出す。先に吸盤が付いた矢ではなく、アーチェリーで使う本物の矢だ。それを10本使う。

蛇に睨まれた蛙のように、ほとんど身動き出来ず、恐怖で全身打ち震えている母。義眼でない右の眼から、大粒の涙が迸≪ほとばし≫る。腰が抜けて、黄色くなった畳の縁を掴もうとしている。私は、右足を狙い、あまり深く刺さらないように調節して矢を放つ。母の近くには、廃校から盗んできたおぞましい内臓を露わにした色付き人体模型が、40Wの裸電球で照らされている。その人体模型こそは、母が身を守る唯一の盾になっているのだ。私は、そんな盾もひと蹴りで横に転がす。

「あーはっはっはっ、あーはっはっはっ、あーはっはっはっ、あーはっはっはっ……」

私は、恍惚で歪んだ口から甲高い雄叫びを家中に響かせ、次々と矢を放つ。一方、食事も満足に与えず、栄養失調で骨に皮が辛うじてへばり付いている母。足に突き刺さった4本の矢を、呻き声と涎を出しながら抜こうとしている。それを見た私は、化膿止めの軟膏で傷口を手当し、刺さった矢を抜く。そして、詰め込めるだけポケットに入れてある布団挟みを、母の顔と体に挟む。更に、タバコに火をつけ、口と鼻から煙を2回~3回吐き出す。痛さでのた打ち回っている愚かな母の腕をめくる。ゆっくりと、火のついたタバコを軽く、何度も何度も繰り返し押し付ける。ジュージュージュージュー……と、肉の焦げた匂いが、鼻腔をくすぐるのを楽しむ。

「ギャー…あああああああああああああああああぁぁぁぁ…」

と大声で喚く母を無視して、たて続けに6本のタバコを咽びながら半分吸い、同じ行為をする。

ところが、きっかり40分後に、今度は、私が大きな悲鳴を上げる。

「可愛そうなお母さん。大丈夫よ。利香が治療してあげるわ。だからそんなに泣かないで! お薬をたっぷり塗るわね。心配しないで私に任せて!」

と言って、額から汗をふき出させながら、母の治療に専念するのだ。母親が自分の子供を傷付け、健気な子育てを演じ、他人に見せて周囲の同情をひく。それで自己満足する『ミュンヒハウゼン症候群』の逆バージョンである。

私は、何らかの精神疾患に罹患しているだろうか? 特に幼児期に、繰り返し強い心的外傷を受けた場合に、自我を守ろうとする。その心的外傷が、自分とは違う『別の誰か』に起こった事として記憶や意識、知覚等を解離してしまう『解離性同一性障害』ではない。それが証拠に、他人の個性が交代する『多重人格』を経験する訳ではない。いわば、天使の肉体の中に悪魔のような恐ろしい思考回路が、私の脳には存在しているのだ。

 

そんな私は、人並み外れて、知識欲が旺盛である。学校の図書室にある本では物足りなかった。授業終了後、整備された公園の中を15分程歩いて、市立図書館に毎日通い詰めている。小学4年生の初め頃から店の売り上げを管理していた。つまり、店の利益のほとんどを自分の為に消費する。思春期にさしかかった私は、身綺麗にし、もうクラスの苛めの対象ではなかった。むしろ、贅沢な女王様だった。母を搾取≪さくしゅ≫し、主導権を完全に手中に収めているのだ。

 

ある日、私は、どうしても読んでみたい書物を見つけられなかった。仕方なく、少し面長の司書さんに尋ねてみた。彼女は、宝塚の男役でも十分通用しそうな美貌である。ショートカットの髪をオーツバックに纏≪まとめ≫ている。相談した事がきっかけで、山中さんという25歳~30歳位の司書さんと仲良くなった。この事が、怪奇な体験への第一歩へと陥れる契機になるとは、その時の私は、夢にも思わなかった。

 

『因果応報』あるいは、『因果は巡る』とは言い得て妙だ。

――蒔かない種は生えないが、蒔いた種はいつか芽を出し、大きく育つものだ。但し、肥料を絶え間なく与え続ければ……。昔のインド人は、現世を苦しみの多い世界と考えた。死後の世界を(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類した。死後は、この六道を輪廻・転生すると考えたのだ。仏陀は、六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることが出来ないと考えた。そこで輪廻を超越した極楽世界である浄土を、考え出したのだ。私は、この『思想』の信奉者である。母に対する楽しみの【儀式】は、輪廻思想で正当化されると信じて疑わない。つまり、前世では『今の母親』が、私に重く圧し掛かっていたのだ。

――地学でいうプレートテクトニクスでは、プレートはその下にあるアセノスフェアの動きに乗って、固有な運動を行っている。アセノスフェアを含むマントルは定常的に対流している。一定の場所で上昇・移動・沈降して、プレートはその動きに乗って移動する。そして、『プレート境界部』では、造山運動、火山、断層、地震等発生している――

前世で、母は、正に私を恐怖に駆り立てた【地震】だったのだ、と固く信じて疑わなかった。持って生まれた霊能力が、そうだと、今なお私に囁き≪ささやき≫続けているのだ。

 

仲良くなった司書の山中さんと、近くにある市営プールで遊ぶ約束をした。放課後、待ち合わせの公園へと急いだ。そこでは「ジリ、ジリ、ジリ……」と鳴くアブラゼミが、桜の木に群がっていた。油で揚げるような鳴き声だ。『アブラゼミ』という和名の由来らしい。その鳴き声は、昼下がりの暑さを更に増幅する。桜の木以外にも多くの木々が鬱蒼と生い茂っている。そんな昼なお薄暗い公園で、山中さんと会った。大声で仲良く楽しいおしゃべりに興じて、目的のプールへと向かった。プールへ行く途中、真夏に相応しいオカルトチックな話が話題になった。山中さんが語りだした。

「ある温泉旅館でのお話。夜、寝床で夫婦が眠っていると、夜中の2時頃になったの。その時、2人は、何か得体の知れない物体の重みで目を覚ました。すると、胸の上に、大男が乗っているのが、ぼんやりと見えたのよ。大きな鎌を持ち、眼のあるはずの眼窩が真っ暗で、痩せ細って悪臭を放つ【死に神】だったの。

『イヒヒヒヒ、イヒヒヒヒ、イヒヒヒヒ、イヒヒヒヒ、…』

と何故か自嘲気味な笑みをこぼして、2人の上でドンドン音を立てて『ランバダ』を踊っている。余りの苦しさに、呻き声を上げようとしても、喉の奥に、粘り気のあるお餅を入れられたように、一言も発せられない。【死に神】は、さんざん踊ると、長い爪で二人の鼻の中を掻き回して、鮮血を噴出させた。そして歯茎だけの口を押し付け、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ……と音を立てて吸い始めたの。鮮血で顔中赤くした【死に神】は、恐怖で錯乱し震えている2人を、研ぎ澄ました鎌で喉を掻き切った。辺りには、大量の赤黒い血液が飛び散ったわ。

『朝食の準備が出来ましたので、2階の大広間にいらしてください』

と、翌朝、告げに来た仲居さんは、室内から一向に返事がないので、嫌な胸騒ぎを感じたの。

『失礼しても、よろしいですか?』

と言って襖を開けて、仲居さんが見た光景。それは――血しぶきが飛び散った部屋。更に、天井にまで飛び散った大量の赤黒い血液。そして、血だらけの浴衣を着て、苦悶を顔に貼りつかせて息絶えた2人。空を掴むかのように手を高く上げ、肉体は、既にミイラ化していた。鮮血を辺り一面に、撒き散らして息絶えた夫婦の目を覆いたくなる遺体だった――

他の泊まり客に分からないよう配慮して、すぐに警察に連絡した。鑑識を連れた地元の刑事一課の刑事達が、不審な死に方をした夫婦の室内を、隈なく検分したの。結局、2人の遺体は、法医学教室に運ばれて解剖に付された。執刀医が下した夫婦の死亡原因は、鋭利な長い刃物で切られた結果の『失血死』だったの。すぐさま、捜査本部が立ち上げられた。所長は、残忍な殺害方法から判断して、怨恨の線が濃厚だと判断した。部下の刑事達に指示し捜査させたが、容疑者は一向に浮かんで来なかったわ。結局、刑事さん達の靴が、更に、いっそう擦り減っただけ。やがて、捜査本部は、解散され迷宮入り事件になったわ。当然だわね。人の所業ではないもの」

司書の山中さんは、あたかも、この事件の関係者のように、顔を曇らせて話し終わった。その横顔に、私は一瞬『悪魔』の表情を見たような気がした。でも、私は、何かの錯覚だと無理やり思い込んだ。

 

そんな話をしているうちに、目的地の市営プールに到着して、仲良く水着に着替えた。プールは、消毒のためか、塩素で薄い緑色になっていた。炎暑続きで、プールの水は気持ち悪いほど生温かった。でも、私達は、童心に帰ってはしゃいでいた。

「キヤー、キヤー、キヤー、キヤー……」

と、水を掛け合いながら、黄色い声を上げた。また50メータープールを競泳したりして楽しんでいた。ところが、30分と経っていないのに、真黒な雷雲が立ち込めた。そして、大粒の雨を降らせ始めた。気がつけば、2人だけになっている。せっかく、時間を合わせて、わざわざ遠く離れた市営プールまで来たのだ。だから、雨の中を泳ぎ続けることにした。私が、平泳ぎしていると、山中さんは背後からクロールで迫ってきた。そして、あろう事か、いきなり私をプールの底に沈めようとしたのだ。驚くと同時に苦しくて口を開け、苦い水を大量に飲んだ。手足をバタバタさせて抵抗した。足が届かないプールの中央だったので、どうにも出来ない。すると、無数の手が足首を掴み、更に、深く沈んでいく。数分経た頃には、目もかすみ、苦しさで思いっきり水を飲んだ私が、見たもの……。 

――オネーチャン。『腕力だけが取り柄』だと周囲に豪語していた大男。哀れで暗い影のある女性。司書の吉田さんと娘。司書の山中さん。隣のクラスの山村先生。私が虐待した白髪の母等々――

「もうすぐに、貴方達の狂気の世界に行くわ! これで、やっと、自殺願望ともお別れだわ!」

との思いが一瞬脳裏をかすめたが、意識は漆黒の深い奈落に落ちていった。

 

それは、流れ星の彼女が、地球(生命)の大気に突入して発光(生活)し消滅した短い生だった。

 

「強欲な婆さんだ。自分の不老不死と引き換えに、孫の魂を差し出すとは! 何にせよ、煮えたぎる釜で茹でられる地獄の亡者が、また1人増えたわい! ケケケケケケケケケケケケケ……」

 

鋭利な鎌を持った【死に神】の狂気に満ち溢れた喜びの雄叫びが、遠雷のように、この世のどこかに響き渡った。

 

 

 

 

 




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