エブリスタに投稿。

 当然この世に生きている人ではないと、理性が勉にささやく。殆ど何も見えない暗い空間なのに、男が着用している紺色の作業服が、鮮血で赤く染まっているのが見えるのだ。作業服を着ている男ばかりか、髪を足元まで伸ばした、真っ裸で奇怪なシワだらけの老女も、彼に迫ってくる。老女の顔の肉は、腐って爛れており、老女の全身の殆どがミイラ化している。無数のハエが群がって、老女の腐った肉の中まで入って、卵を産みつけているのだろう。一瞬のうちに、無数のウジ虫が老女の体を見えなくし、老女の形をした無数のウジ虫が、こちらに向かって迫ってくる。
 瞬く間に、勉の心は恐怖に凍って、今にも吐きそうになったが、そんな暇すらない。  次々と、地獄の亡者が向かってくるからだ。学校の理科室にある、赤い筋肉をあらわにした人体標本のパレードさながらだ。
 勉は震えながら確信した。
(ここは、悪霊どもや妖怪の通り道に違いない! いわゆる、霊道だ!) 
 今度は、下半身が千切れ、クネクネと動いている大腸と小腸を、ホコリっぽい廊下に引きずった上半身だけの男が、まるで飛んで来るかのように素早く、勉に向かってやってきた。男の口には、焦げ茶色に変色した血が、ベットリとまつわりついている。その男は、喉の奥から絞り出すような家を振動させる大声を出して、勉にペコペコ頭を下げて懇願≪こんがん≫してくるのだ。
「頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。……後生だから、お前の脳味噌をこのわしにくれ! わしを助けてくれ! 痛いだろうが、ほんの一瞬の辛抱だよ。何も怖がることはない! イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ……」
 今まで何度も怨霊に遭遇している勉もでさえも、こんな怨霊は初めてだったので、体全体がブル、ブル、ブル、ブル……と震えてしまい、思わず後ずさりしたてしまった。すると、ドンと背中に誰かが当たった。その弾みで、側面の壁にあちこちに衝突しながら、階段を転げ落ちたのだ。勉には、まるでマネキンが落下するような光景に見えた。だが、マネキンではなく雄太の妹、妙子だった。


1 / 1
どのようにして、主人公の勉は完全犯罪を犯すのであろうか?


完全犯罪

 勉は悪夢を見たせいだろうか? 急に忌まわしい出来事が、忘れていた記憶の奥底から飛び出してきた。それは……。

 今日のようにまだ肌寒い時、勉が小学二年生の四月に起きた出来事いや事件、と言った方がより正確だろう。勉を含め、当時話題になった映画の「七人の侍」のように、固い絆で結ばれていた彼等の上に、まるで火の粉のように降りかかってきた事件だ。勉ばかりでなく仲間達も、警察の事情聴取を数時間も受けた事件だ。取調官に、何度も何度も同じような質問をされたのは、誰かが異なった回答をすれば、その矛盾を追求するのが、狙いだったのだろう。

 それ以来、勉は多くの友人を失ってしまった。恐らく、この事件がその原因だと、大学四回生になった今でも深く後悔している。

 その事件は、ある公園周辺から始まったのだ。

 勉は、漫然と生きてきた友達への支配感を味わって、優越感に酔っていた。それが、彼の無上の幸福だった。

 当時、リーダー的存在であった勉は、興奮気味に、友達に対してある提案を持ちかけた。

「夜の八時に、皆、家を出られるだろう? 僕にいいアイデアがあるんだ。【幽霊屋敷】の探検は、肝試しにもってこいだよ。……皆でやろうぜ! どうだい?」

 清≪きよし≫、悟≪さとる≫、雄太≪ゆうた≫、信二郎≪しんじろう≫達、男の子は目を輝かせて賛成し、男の子に押し切られて、優子≪ゆうこ≫、好恵≪よしえ≫、妙子≪たえこ≫も賛同した。彼等は、「怖いもの見たさ」に対して、好奇心を抑えられない年頃でもあった。

 勉は顔を紅潮させて、興奮気味に提案した。

「今週の土曜日の夜に探検しょうぜ! 一時間位だから、親に何とか言い訳を考えて集まろう。

あぁ、そうだ。良いアイデアを言うのを忘れていた。……友達の家で宿題をする、と言ったら皆の親は誰も反対しないだろう! どうだい!?」

 勉は、胸を張って、得意満面の笑みさえ顔に貼り付かせて、皆に告げた。半分以上、強制的だった。

「そんな幽霊屋敷があるなんて聞いたこともないよ。なぁ、皆知っているかい? ……知らないだろう。勉君、一体どこにあるのかなぁ?」 

 肥満気味の雄太が聞いてきた。雄太は、仲間の中で縦にも横にも一番長い体をしていた。つまり、一番背が高くて太っていたのだ。勉は、まるで恋人に向かって優しくささやくように、仲間達に小声で言った。公園で遊んでいる他の子供達に、聞かせたくなかったからだ。

「国鉄西明石駅の北にある公園近くに、空き家がある! かなり大きな家だぜ。誰も知らないかい? 四年以上、誰も住んでないみたいだ。なんで、分かるって? あの家には、表札が出ていないからだよ! だから、無人の家ってわけ。その家を探検しょうぜ! ……皆、駅の南に住んでいるから、その公園で遊ばないだろう? でも、俺達家族は、毎年桜が満開の頃を選んで、弁当を持って花見に行くんだ。だから、その家を知っている!」

 ガヤガヤと友達が相談をしているのを、自信に満ちた勉は、そば耳をたてて聞いていた。

 結局、【幽霊屋敷】の探検に、全員が進んで賛意を表したのだった。

「一週間後の六時に、例の秘密基地に集まろうぜ!」

 皆に異論などなかった。

 そして、探検ごっこをする約束の夜が訪れた。事前に打ち合わせしていた通り、仲間だけが知っている秘密の大きな木の下に、皆が懐中電灯を持って自転車で集まった。葉でカモフラージュした、九個のダンボールで苦労して作った基地周辺に集まったのだ。

(もちろん、秘密基地の設計、監督……などの全ては、リーダーである勉が担ったのだった)

 勉が、もう夕闇が押し迫っている中、皆を先導して公園に着いた。

 公園ではもうこの季節になると、既に桜は散っており、不気味な枝だけが夜空に向かって両手を上げているように見える。その夜は曇っていたから、月明かりもほんのわずかだけしかさしていない。公園には照明設備は一切なかったから、公園を自転車で通る時、とても薄暗いので勉以外の全員が気味悪がった。金属製の滑り台だけが、まるで深い霧に覆われているように、ボンヤリと銀色に輝いている。

 小刻みにブル、ブル、ブル、ブル……と震える手に持った懐中電灯を、薄暗い前方に照らし、目をこらして恐る恐る公園を縦断した。自転車同士がぶつかる位に、一つの塊になって、ゆっくりと運転している。もしかしたら、公園にお化けがひそんでいるのではないか? そう思っているのだろうか? それ程までに怖がっていたのだ。勉以外の仲間達は……。

 勉が言っていた家は、公園のすぐ近くあり、暗闇を背景にして黒いシルエットだけを見せていた。そのシルエットは、アルコールにつけた臓器のような灰色をしていた。いかにも、幽霊が住む屋敷のように見えたのだろう。あるいは、魔王が住んでいる城のようにも、彼等には見えたのだろう。 

 勉は門のクサリを、用意周到に持参して来たクリッパーを使って、いとも簡単に切断し、恐怖で顔を引きつらせている皆を招き入れた。女の子達は、もう幽霊にでも遭遇したかのように、両腕を胴にきつく押し当てて、見ていても可哀そうな程、早くもブル、ブル、ブル、ブル……震えていた。     

 勉達は、名の知れない雑草に占拠された荒れ放題の庭を通り、玄関まで辿り着いた。玄関で細かな打ち合わせをしている間、庭の伸び放題の草木は、絶えず鼻を刺激する悪臭を放っていた。

 勉強、腕力、容姿、実行力、度胸などが備わっているように見える勉は、誰もがリーダーであるのに、異論を差し挟まなかった。(現在流で言えば、超、超イケメンだ!)

 ところが、実際の勉は、度胸なんて微塵もない。それこそ超がつく程の怖がりなのに……。

「他人の人を見る目は、まるであてにならない」のは、真実だ。

 リーダー気取りで勉は、皆に注意事項と【幽霊屋敷】の内部を事細かく、周囲にある住宅に住む人に聞かれない為に、蚊の鳴くような小声で語った。

「静かにしていてくれよ! いいか、どんな事があっても、……大声を出さないと約束してくれよ! 僕が前もって調べたところ、この家は、三DKの二階建てで、一階には、台所と六畳の和室、押入れ、風呂場、トイレがある。でも、一階と二階にある和室の畳は、かなり腐っているから、充分に注意しょうぜ! 下手に足を踏み入れたりすると、怪我をするからな。

 和室の畳には、何の種類か分からないが、所々に草が生えている。ギシ、ギシ、ギシ、ギシ……とうるさく鳴る二階への狭い階段を上がれば、六畳と四畳半の和室と大きな押入れがある。原形を留めていない程、畳は腐って色も変わっている。足を踏み外して落ちないように、細心の注意を払って! 皆に言っておくのは……えーと、これ位かな。誰か質問はあるかい? どんな細かい事でも良いよ!」 

 雄太の妹で、やはり肥満気味の妙子が手を上げた。

「オシッコは、どこでしたらええん?」

 手を上げるなんて、学校と混同している。妙子は、兄の雄太より一年下の小学一年生だ。

 心の中で面倒だなと思いながらも、勉は優しく答えた。

「家の中に、トイレはあるよ。多分、今でも使える筈だよ。どうしても怖かったら、兄貴の雄太に見張ってもらえば?」

「誰か他に質問はあるかい?」

「……」

 探検の時間が短くなるので、勉は皆をせかす。

「もうあまり時間がないから、すぐに探検を始めようぜ!」 

 先ず一階から探検を始めた。漆黒≪しっこく≫の中、複数の懐中電灯の明かりだけが頼りだ。

「ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ……」 

 めっぽう怖がりの清のエコーで増幅された悲鳴が、風呂場で響いた。皆は、何事が起きたかと思い、風呂場に集まった。あちらこちらに張ったクモの巣と、天井にまでビッシリと、はびこっているカビだらけの風呂場。

 勉は、かなり腹を立てて言った。

「そんな事位で大きな声を出すなよ! 約束したろう、静かにするって! 何度も言っているけれど、他の家の人に聞こえたらマズイからなぁ。シイー」 

 勉は、赤い顔をして、口の前で人差し指を立てた。本気になって怒っていたのだ。

 皆が持っている懐中電灯の明かりの複数の輪が、脱衣場に移った時だった。奇妙な霊に、勉が遭遇したのは……。

 カビがはびこって青黒くなっている浴槽に、素裸でいる女性を、勉は見てしまったのだ。

 まるで、湯が胸元にまであるかのように、目にも鮮やかな真っ赤なタオルを、はちきれんばかりの豊満な胸に当てている若そうな女性が、やはりカビだらけの壁の方を向いている。突然、その女性が勉の方に顔を向けた。その途端、ギャーと大声を出しそうになったが、必死で耐えた。ここで喚いたら、勉の沽券≪こけん≫にかかわるからだ。

 女性は、この世のとも思えない妖艶な雰囲気を漂わせており、女性の肌は、まるで秋田美人のように白くて美しい。しかしながら、勉が今の今まで想像すら出来なかった程、その顔は奇妙であり、思わず大笑いしてしまう位に滑稽≪こっけい≫でもあった。

 女性の顔は、福笑いで目隠ししてパーツを置いたように、本来あるべき所に、眉毛、目、鼻、口がなかったからだ。眉毛が本来あるべき所に鼻があり、目が本来あるべき所に口が、口が本来あるべき所に目がある。しかも、各パーツの大きさはバラバラだった。地獄の亡者だか化け物だか知らないが、大さのチグハグな目で、勉の脳味噌に直接優しく語りかけてきた。

「一緒に、お風呂に入りましょうネ! そんな所にいると風邪をひくわよ。早く、いらっしゃい!」

「い、い、い、いいです。せ、せ、せ、せっかくのお誘いですが、ご、ご、ご、ご遠慮します。さ、さ、さ、さようなら!」

 勉は、慌てて風呂場から逃げ出そうとしたのだが……。瞬く間に女性の髪が、生きているかのようにクネクネと伸びて、彼の足に絡みついてきたのだ。束になった髪が、太いロープのようになって、くるぶし辺りを締め付け出した。これでは、化け物のエジキになってしまうと思った勉は、幼い頃に祖母から教わった呪文を、無我夢中で何度も唱えると、呪文が威力を発揮したのだろうか、断末魔のような声を聞いたような気がした。すると、女性は元々いなかったように、そのおぞましい姿を消していたのだ。

 勉の全身は、恐怖でカチカチに固まり、心臓がバク、バク、バク、バク……して、今にも口から飛び出しそうだった。

 勉は慌てて風呂場から仲間のいる所に戻ったが、皆は、まるで時間が止まったかのように、微動すらしていない。一人、一人に声をかけても、皆は、石材を刻んで造った石像になってしまったかのように、その場で固まっていた。まるで、様々な服装のマネキンがバラバラなポーズで立っているようにも見える。

 数十分が経過し、勉が、今まで味わっていた恐怖も、次第、次第に熔け出した。時を同じくして、幸いにも、仲間は平常の状態に戻ったのだ。

 仲間には、自分が味わった、いまわしい出来事を伝えなかった。と言うのも、誰も信じないだろうし、第一、皆を怖がらせるだけだ、と思ったからだ。そういう点では、彼も優しさを持ち合わせていたのだ。

 しかし、恐怖そのものが、彼の脳味噌の襞≪ひだ≫に今でも残存している。それが証拠に、勉の唇はまだ青かった。少し震え気味に、蚊が鳴くような小さな声で、皆に提案した。

「一階の探検は、これ位にして二階を見てみようぜ! さっきも、言ったように足元に気を付けて! 階段も部屋の中も!」

 本来ならもっと饒舌≪じょうぜつ≫なのに、今まで味わった恐怖で、そう言うのが精一杯だった。

 二階への階段は今にも壊れそうで、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ……と、鈍い悲鳴を上げていた。

階段を上がると、早速、勉は、二階で鉄臭いような、塩辛いような独特な血の匂いと、腐臭≪ふしゅう≫の混じっている耐えがたい悪臭を感じた。まるで腐った魚が放つような猛烈な臭気が、勉の鼻を襲ったのだ。ふと振り返ると、またもや皆は時間が止まったように、微動すらしていない。小さな声で皆の名前を呼んだが、何の反応もない。どうやら、勉だけが奇怪な悪霊のトラップ(わな)に、はまってしまったようだ。勉は、異界に迷い込んだ気分に再び襲われた。今度は妖怪にでも遭遇するのだろうか? やはり、悪霊に肝を冷やされるのではないか? 彼がそう考えていた時だ。

 廊下の空間が、あたかも陽炎≪かげろう≫のように、ユラ、ユラ、ユラ、ユラ……している。再び、素手で胃をつかまれたような激甚≪げきじん≫な恐怖を、勉は感じた。懐中電灯は電池が切れたのだろう、暗闇が迫りくる。この時ばかりは、霊を感じ霊が見える自分を、心の底から呪ったのだった。

(多くの悪霊達が浮遊しているに違いない! 霊感があるのも良し悪しだ! コンチクショウ!)

 背中に多くの氷の棒を入れられたように、急に全身が震え出した。

 すると、目の前に負の感情に全身支配された男が、突然現れた。首のわずかな肉だけで、顔が繋がっているその男から、猛烈な死の匂いが漂ってきた。

 当然この世に生きている人ではないと、理性が勉にささやく。殆ど何も見えない暗い空間なのに、男が着用している紺色の作業服が、鮮血で赤く染まっているのが見えるのだ。作業服を着ている男ばかりか、髪を足元まで伸ばした、真っ裸で奇怪なシワだらけの老女も、彼に迫ってくる。老女の顔の肉は、腐って爛れており、老女の全身の殆どがミイラ化している。無数のハエが群がって、老女の腐った肉の中まで入って、卵を産みつけているのだろう。一瞬のうちに、無数のウジ虫が老女の体を見えなくし、老女の形をした無数のウジ虫が、こちらに向かって迫ってくる。

 瞬く間に、勉の心は恐怖に凍って、今にも吐きそうになったが、そんな暇すらない。次々と、地獄の亡者が向かってくるからだ。学校の理科室にある、赤い筋肉をあらわにした人体標本のパレードさながらだ。

 勉は震えながら確信した。

(ここは、悪霊どもや妖怪の通り道に違いない! いわゆる、霊道だ!) 

 今度は、下半身が千切れ、クネクネと動いている大腸と小腸を、ホコリっぽい廊下に引きずった上半身だけの男が、まるで飛んで来るかのように素早く、勉に向かってやってきた。男の口には、焦げ茶色に変色した血が、ベットリとまつわりついている。その男は、喉の奥から絞り出すような家を振動させる大声を出して、勉にペコペコ頭を下げて懇願≪こんがん≫してくるのだ。

「頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。……後生だから、お前の脳味噌をこのわしにくれ! わしを助けてくれ! 痛いだろうが、ほんの一瞬の辛抱だよ。何も怖がることはない! イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ……」

 今まで何度も怨霊に遭遇している勉もでさえも、こんな怨霊は初めてだったので、体全体がブル、ブル、ブル、ブル……と震えてしまい、思わず後ずさりしたてしまった。すると、ドンと背中に誰かが当たった。その弾みで、側面の壁にあちこちに衝突しながら、階段を転げ落ちたのだ。勉には、まるでマネキンが落下するような光景に見えた。だが、マネキンではなく雄太の妹、妙子だった。

 勉は、思わず密かに呟いてしまった。

「ドジった! だが、今更、どうにもしょうがない。お遊びは、これで中止としよう。楽しみは腹八分目が、ちょうど良いかも知れないなぁ。……もう、これ位にしておこう!」

 勉は、例の悪霊退散の呪文≪じゅもん≫を唱えた。すると、瞬時に悪霊達は姿を消した。

 それと時を同じくして、今まで凍りついていた皆がモゾモゾと動き出した。まるでキツネにつままれたような、それでいて恐怖感を味わった顔をしていた。皆は悪夢を見ていたようだ。恐怖に襲われた夢を見ていたせいだろうか、全員が、一斉に階段に殺到し、我先に一階に下りて行った。

 一番先に清が、下の踊り場で雄太の妹、妙子を発見した。彼女は、体のあちこちから生臭い血を吹き出していたが、まだかすかに息をしていた。この時点では、妙子は心肺停止の状態ではなかったのに……。誰かが応急処置をしていれば、助かった命かも知れなかった。だが、小学二年生にそれを求めるのは、酷な注文だと言えよう。

 勉は、表面的に慌てた振りをして、近所にある家に入って救急車を呼んでもらった。ところが、皆は、ガタ、ガタ、ガタ、ガタ……と震えているだけしかできなかった。

 勉は、皆を心の底で苦々しく思った。

(なんと情けない奴らばかりだ! 何もせずに、友達をほったらかしにしておくなんて!)

 兄の雄太は、ぐったりしている妹に縋り付き、悲鳴混じりの大声でいつまでも泣いていた。

 妙子は、近くの救急病院の集中治療室に搬送された。だが、約四十分後に【天使】の仲間入りをしてしまった。つまり、息を引き取ったのだ。文字通り、けがれのない【天使】のような顔で亡くなった。

 一方、勉は般若≪はんにゃ≫のような怖い顔をして、この出来事を誰にも話さないように、皆に強い口調で命じたのだ。

「……決して、この事を誰にも言わないようにしてくれ。後々、厄介だからなぁ。頼むぜ!」

 不審な死であるから、全員が、鑑識係、警察署員に何度も何度も、事細かく事情を聞かれたが、誰も真相を話さなかった。勉の思惑通り、事故死として処理された。勉は、悪魔以上の恐ろしい行為をしたのだ。親達は、誰かの家で宿題をしている、と信じ込んでいたから、警察は親達より有益な情報を得られなかった。 

 妙子の父親が、神戸市中央区の勤め先より、救急病院に急いで駆けつけ、地下にある霊安室で変わり果てた娘と対面した。父親は、遺体になった娘に縋り付き、おえつしながら大粒の涙を流し続けたのだった。

 彼が嘆き悲しむ姿は、勉以外の友達と親達の涙を誘った。周囲には、息苦しいまでの重苦しい雰囲気が、のしかかっていたのだ。しかし、勉は平然として自分の犯した罪を、直ぐに忘れようとした。勿論、うわべだけ、皆のようにしゃくりあげ、大声を出して泣いていたが……。

(何とも素晴らしい名演技だ! 将来、立派な役者になれるかも知れないなぁ!)

 人を殺してしまった直後なのに、呑気な考えに没頭できる勉だった。まさに悪魔的思考の持ち主だ。

 だが、勉は、兄の雄太に対して、精神的に大きい鉛の塊のような重い責任を、背負ってしまった。コンチクショウ! ……勉は胸中で、そう呟いた。

 しかし、勉にとって、この日は、生涯忘れ得ない濃密な喜びに満ちた一夜ではあった。悪魔的思考回路が彼の全身に張り巡らされている、としか考えられない。

 雄太の家族は、妙子が死んだので父親と彼だけになってしまったのだ。亡くなった幼い妙子が、主に食事の用意をしていた。いろんな料理の中でも、雄太は、妙子が丹精込めて作ったカレーが、大の好物だった。

 そこで、勉はあれこれと理由を作って殆ど毎晩、雄太を家に通わせた。なぜなら、近くのメッキ工場から盗んで来た毒性が強いのを利用し、農薬や木材防腐等で使用するヒ素の入ったカレーを、たっぷりと彼に食べさせる為だ。勿論、祖母の協力が欠かせなかった。勉の言う事に従順な祖母は、少しずつヒ素をカレーに混入させた。

 少しずつヒ素が、雄太の体内に蓄積していったのだろう。学校帰り、まるで夢遊病者のように、フラフラしながら歩いていた雄太が、通学路に面した池に落ちて溺れているのを、多くの同級生が目撃していた。だから、目撃者等に対して警察の事情聴取も簡単であった。つまり、警察は、単なる事故死として処理したので、当然だが、司法解剖は行われなかった。

 勉の思惑通りに、雄太はあの世に旅立った。誰一人、勉を疑わなかった。

 勿論、警察ですら……。

 勉は、完全犯罪に成功したのだ。

 

              

               ―完―

 




ぜひ、あなたのご感想をお寄せください。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。