「おや、鬼ごっこはお終いかね」
無機質で長い廊下の奥から、しわがれた声が聞こえてくる。待ち構えながらそれを聞く食蜂操祈は、いつもの小さな高級バッグ1つで立っていた。
その中にあるリモコン1つで学園都市の頂点まで駆け上がった少女だが、それが通じない老人の前では、ほぼ丸腰に近い。
「さっきは年甲斐もなく興奮して失礼したね。新しい可能性を見ると、周りが見えなくなるのが僕の欠点でね」
それが原因で事故を起こして何度も死にかけたよ、と老人が笑う。その時ちゃんと死んどきなさいよ、とは言わなかった。
「しかし意外だねぇ、食蜂君の方から待ち構えてるなんて。てっきり逃げ回るものと思ってたよ」
「……
なるべくいつも通りの口調で続ける。「交渉とは?」という老人の質問に、ふぅ、と息を吐く。
勝率が高い——あくまで比較的だが——策を選ぶなら、『リミッター解除コードを教えてあげるから見逃してちょーだい☆』とでも言えばいい。
そうして油断させ、仕掛けたトラップで始末——もしくは仕込んだ『策』が発動すれば、こちらの勝ちだ。
いずれにせよ、真っ向勝負では勝てない。生き延びることを考え、搦手を使うのが最善————
「リミッター解除コードは教えない。大人しく投降するか、入江明菜から手を引きなさいっ☆」
幻生の目が、ほんの少しだけ大きくなった。白と黒が反転したような異形の目が、私の全身をくまなく捉える。
今の私は、平静でいれただろうか。
どこかで笑っている金髪の支配者のように、軽い口調になれていただろうか。
「……ホウ。これはこれは。食蜂君らしくもない正直な物言いだねぇ」
「だからこそ予測力してなかったんじゃなぁい?」
「確かにね。しかし、正面から勝てないのが分かっていたからこそ、今まで逃げていたのではないかい?てっきり『見逃してくれ』とでも言って不意打ちを狙うと思っていたよ」
「陰謀力でアナタの上を行くのは難しいからねぇ。それに——」
そこまで言って、一度言葉を切る。
学園都市の闇を棲家とするこの老人に、私のような小娘の策略が通じる可能性は低い。
だが、逃げ続けるにも限界があるし、なにより——
「——アンタみたいな下衆に頭を下げるのは、例え演技力でも私のプライドが許さないのよ」
そう告げた直後、ペキッという音がした。
その瞬間、立っていた床が崩れ落ちた。そこに吸い込まれるように、幻生はもちろん、私も宙に投げ出される。
「おぉ——」
「これも予想外でしょ☆」
唐突な浮遊感と共に、天井が急速に遠ざかっていく。心臓が早鐘を打つより早く、強烈な恐怖が私を飲み込んだ。
この捨て身——いや、破滅的とも言える手段は、幻生にとって予想外のはずだ。
私は幻生にとって敵だが、殺すことはできない。
目的達成のためには、私の脳に刻まれている『
ゆえに、解除コードを抱えたまま転落死へ向かう私を助けない選択肢はない、はずだ。
「(さぁ、早く私を助けなさい。能力を使った瞬間、最大出力の
私は運動は苦手だが、精神系能力ならば、学園都市最強を自負している。加えて、いくら
幻生が能力を使っている隙に、私の渾身の一撃を叩き込む。勝機はそこにある。
「っ——」
高さはビル10階程度。30mはあるが、落下時間にすれば3秒もない。
数秒後に自分が生きている保証がない。そんな事実が理解できず、妙な笑いが込み上げてくる。
「(——まだ、1秒もう2秒?)」
落下が続く。リモコンを構える手に、さらなる力が加わる。幻生は反応できていないかのように、落ちた瞬間の体勢から変わっていない。
今までで1番長い数秒だ。それこそ幻生の手の動き、ほんの僅かな視線の揺らぎすら見えるほどに。
「(——まさか見捨て)」
幻生がこちらを見た、気がした。
幻生の口が弧を描いた、気がした。
それが見えた瞬間、リモコンのボタンを思い切り押し込んだ。
「いま——」
ドゴンッッッ‼︎という衝撃。それが能力によるものか、それとも地面との衝突音だったのか。
人生最期かもしれない景色は、一面の黒だった。
*
ドンッ、という衝撃。前原将貴の視界が縦に弾かれ、直後に明々した。鈍い痛みが少し遅れて頭を駆け巡り、反響するように脳に集まっていく。
転倒を耐えられたのは偶然と言えよう。
「あぉ——っ」
焦点が追いつかない視界に入ったのは、右腕ごと特殊警棒を前に突き出し、身体を半身にした涼乃の姿。
恐らく特殊警棒が俺の頭の前にくるよう
助走が無いぶん、衝撃は大きくない。しかし偶然か否か、脳だけを揺らす手段としては有効であった。
「(器用なことを——)」
頭を支えるように、俺は手で頭を押さえる。すぐ目の前にいた涼乃は、その隙を見逃さない。
踏み込んだ右足を軸に、突き出していた右腕を引きつける。そうして生まれた反動を上乗せし、左足で蹴り上げてきた。
咄嗟に右手を構えるものの、脳を揺さぶられたせいか、その防御はあまりに脆かった。
「この――」
「――――」
ミシリッと、抑えきれなかった靴が右の脇腹にめり込む。脳に続いて内臓が揺さぶられ、強烈な吐き気が込み上げてきた。
その足を掴もうとするが時すでに遅く、真正面のすぐ上に跳んだ涼乃は、壁を蹴るように俺の胸元に踵をぶち込んだ。
「かっ——」
呼吸がコンマ数秒止まる。心臓か肺か、いずれにせよ大切なものが揺さぶられ、その場で膝をついて咳き込んだ。
既に空間移動した涼乃は、地上で溺れたように息を荒げる俺を、少し離れた場所で見下ろしている。
「げほ、ごほっ……やっぱ、強いな……」
俺の呟きに、涼乃は何も言わない。
いくら心優しい女の子でも、3年以上真面目に訓練を受けてきたのだ。純粋な格闘術でも、やはり普通に強い。能力や躊躇なしで殴り合うなら勝てるだろうが、そんなことは死んでも許されない。
しかし涼乃は、そんな思考を嘲笑うように、すっと目を細めて手のひらの上に向けた。
瞬間、宙から弾丸が現れる。
「————え」
思考が止まる。
目の前で起きた現象を理解するより早く、今度はその弾丸が消失した。
ぞぶり、と。
体の内側に、何かが生まれた。
「——ッッがはぁッ‼︎」
内臓が爆ぜたような感覚。それが脳に届いた瞬間、強烈な吐き気と違和感が込み上げた。叫びと共に口から弾けたのは、黒々とした赤。
「ぐぶッ、がっ——げはぁ‼︎」
膝をつきそうになるのを耐えても、吐き出る液体は止められない。脳内の『?』は増えるばかりだ。
「は——」
「————」
視界の目の前に、見慣れたローファーが映った。
俺の1メートルほど手前に跳んだ涼乃が、俺の顔面を蹴り上げようとする。なんとか片手を出しても、この状況では抑えられない。
ゴンッッ‼︎という衝撃。その後、俺の体は空を仰ぐように地面に倒れた。
「ぐっ——ッッ⁉︎」
視界の鈍色の空が一瞬で埋まる。俺が倒れた瞬間、覆い被さるように涼乃が跳び、その柔らかな手で俺の首を包んだのだ。
血管と空気孔が急激に圧迫され、喉に強烈な違和感が走った。
「——ごっ、ぁ……」
「————」
ギリギリと脳内で音がする。首と喉の感覚が薄れていき、不思議と視界が明瞭になっていく。
無感情な薄茶色の瞳が、じっと俺を見下ろしていた。
見慣れたはずの、知らない目。
いま考えるべきことではないのは分かっている。
しかし、俺が巻き込んでしまったばかりに、涼乃にこんなことをさせてしまった事実が、その自己糾弾が、俺の思考を占めていった。
「(ごめん、涼乃)」
腕を解こうとする力が弱まるのが分かる。視界の隅が黒い靄のようになり、涼乃だけを映すよう強制される。
げほっ、と咳き込んだ。そうやって吐き出した血が涼乃の頬に当たってしまった。
「(顔、汚して——)」
それを拭おうと手を伸ばす。頬に触れたかどうか、それが確信できないほど意識が遠ざかっていく。
「(ごめん——)」
涼乃の顔が、黒に呑まれた。
*
学園都市中枢の第一学区。首都機能の集中と自動化により人が少なく静かなこの地域は、いつになく賑やかであった。
地面を揺らす爆発音と、何かが崩れる衝撃音。たまに叫び声と、少女の軽やかな声。
最後の声の担当は、
「まもなく——いま」
ゴッッッ!!!と、爆風と衝撃波が炸裂した。金糸を編んだような金髪と、それを後ろで結んだ深紅のリボンが荒れ狂い、
私はそれを右手で払い、攻撃の有効性を観測する。
「ま、そんな簡単にはいかないよねー」
にゃはは、と笑ってため息をつく。
砂塵から現れたのは、先ほどとまったく変わらない白いシルエット。そこから生える翼は、先ほどより成長しているような気さえする。
人の形をしたそれは、床から少し離れて不自然に静止している。顔にあたる部分がぐりゅんと動いて、墨汁を満たしたような黒い穴が、こちらを捉えた気がした。
「——
そう呟いて、視界が一瞬だけ入れ替わる。
その瞬間、脳を掴まれて直接揺さぶられたような感覚に陥った。
ゴバッッッ‼︎!と、白いシルエット——入江明菜のいた場所が、火山の噴火のように爆発した。
「——うへぇ」
それを見届けた瞬間にふらついて、膝をつきそうになった。その勢いでまた口から血が漏れ出てしまう。
私はそれを無視して、攻撃回避の成功を少しだけ喜んだ。
私の
本来なら副作用などは無視できる——が、相手は理論の外側に至りかけている存在。理論の内側にいる私にとって、ほんの一瞬の視界共有ですら負担が大きいらしい。
「変化は確認できず。引き続き攻撃を続行——」
努めて冷静にそう命令を飛ばしていると、ふと気付いた。
白いシルエットの足元、厳密にはその辺りにある電灯。それがバチバチと明滅していたのだ。
足元のはともかく、その近くにある壊れてないものも明滅してる、ということは——
「あー、電磁パルスも起きてるんだ。なかなかやばいねー」
「で、電磁パルスですか⁉︎」
私の呟きに、僅かに動揺が広がった。
雷や太陽風が起きていない中それが起こる理由は、それこそ核関係くらいだ。周囲もそれを知ってるからこそ、動揺が広がっているのだろう。
「慌てないで。電磁パルスを起こせる『だけ』なら、少し熱いくらいで人体に大きな害は無いよー。それ以上なら、そもそも私達は生きてないし」
にゃはは、といつも通りに笑い、『近接攻撃は中止』と指示を出す。私の声に安心したのか、潮が引くように周囲の騒ぎが消えていった。
「(戦争やサイバー攻撃は想定してたから、あらゆる電気系統に保護素子を備えてはいる……けど、継続的にやられたらそれも分からないねー)」
シルエットに対して、今度は遠距離からの攻撃が命中する。しかしやはり効果は確認できず、私はその余波で破壊される本部ビルを静かに見上げていた。
変に手の内を明かしたくはない——けど、出し惜しみして死んでもアホらしい。ならば実行あるのみだ。
「スピーカー、前に。総員、耳栓を用意。なければ手で耳を完全に塞いで。10秒後に攻撃を発動——ん?」
指示を出して、腕時計型の携帯端末を操作する。
秘密兵器の『音』を準備して、合図と同時に発動させる——直前に、白いシルエットの輪郭がブレた。
「——?」
白いシルエットの、顔にあたる部分。眼球があるべき場所に、墨汁を満たしたような黒い穴が2つある。
それがひび割れるように広がり、じわじわと顔を覆っていった。やがて真っ黒な夜空のようなもので覆い尽くされ、シルエット以外の存在が不明瞭になった。
背中から伸びていた翼はギチギチと圧縮され、長めの襷のように閉じた帯となり、シルエットの背中で陽炎のようにその輪郭を揺らしている。
「(……進化、してるねー)」
何が起きたかは分からない。しかし、私たちにとって不都合なことが起きたのは間違いない。
スッと、白い手のようなものが動いた。私たちに向いたと認識した瞬間、私は叫んだ。
「防御——」
ゴッッッ‼︎‼︎と、地面を揺らす衝撃が突き抜けた。本部ビルの一角がカステラのように抉れて、周辺のビルが軋んだ。
その余波だけで、防御が間に合わなかった者、貧弱だった者が数メートルは吹っ飛んでいく。
「各員、異状の有無知らせ」
そう叫ぶと、すぐに各方向から号令詞が飛び交った。
悲鳴を上げるのはごく一瞬。すぐに適切に動き始める風紀委員は、やはりなかなかのものだ。
そんな呑気なことを思っていると、ふと端末が鳴る。
画面を見ると、そこには待ち望んだ名前。私はふっと笑って通話を始めた。
『やあ、松浦君。生きているかな』
「なんとか、ですねー。それより、良い報告ですよね?」
『ああ。間も無く完了するから、その報告だよ。起動はどうする?』
「即座発動で。私も死にたくありませんからねー」
『了解した。1分ほど待ちたまえ。ああ、君なら大丈夫だろうが、万能感に呑まれないよう』
そう言い残し、通信は切れる。にゃはっと笑い、改めて風紀委員たちに檄を飛ばした。
状況は悪化するばかりだが、まったくの無策でもない。こういう状況でも、希望は捨てないのだ。
今までの攻撃は、目的はどうあれ、せいぜい時間稼ぎ程度のものだったろう。
しかしこれを以て、明確な反撃としよう。
「期待してますからね、木山センセッ♪」