渚カヲルを乗せた車がネルフ本部へ着いた時、地上には夜の帷が下りていた。
厚い装甲板と幾重もの岩盤に覆われた地下施設では、昼と夜の違いなど照明の色でしか分からない。車から降りたカヲルは、迎えの職員に促されるまま認証ゲートを通り、用意された簡素な部屋へ案内された。
荷物は小さな鞄一つだけである。
カヲルは部屋へ入ると、その鞄をベッドの脇へ置いた。窓はなく、壁の向こうでは何本もの配管を流れる液体と、遠くで稼働する機械の音が途切れることなく続いている。
そのさらに奥に、シンジはいるはずだった。
初号機の中に存在していることだけは、ここへ来る前から分かっていた。ゼーレからも、シンジが第十四使徒との戦闘後に初号機から戻らなかったことは聞かされている。
それでも、カヲルは期待していた。
初号機の内部にいるのなら、声を届けることはできるかもしれない。これまで繰り返した世界と同じように、シンジが自分の呼びかけへ応えてくれるかもしれない。そう考えていたからこそ、シンジのいない世界へ来る意味を失いながらも、ゼーレの命令に従ってネルフ本部まで来たのである。
だが、どれだけ意識を向けても、カヲルが知っている碇シンジの心は聞こえてこなかった。
孤独を恐れ、誰かに拒絶されることに怯えながらも、それでも最後には他人を求めてしまう。カヲルは、そんなシンジの矛盾した心を何度も見つけてきた。それは暗い場所で聞こえる小さな音のようなものであり、どのように世界が変わっても、シンジへ辿り着くための目印になっていた。
この世界には、その音がない。
カヲルはベッドへ腰を下ろした。いつものように微笑もうとしたが、今度はうまく笑えなかった。
「本当に、君はいないんだね」
分かっていたはずの事実を口にしたことで、僅かに残っていた期待まで失われる。
カヲルは俯き、組んだ両手を見つめた。
長い時間を繰り返してきた。それでもシンジと会えない世界へ来たことは、一度もなかった。
その落胆を埋めるように、ネルフ本部の別の場所から、小さな音が聞こえていた。
シンジのものではない。
自分と同じ源へ連なりながら、同じものと呼ぶにはあまりにも小さい。それでも、この世界に存在していること自体がおかしいほど、異質な気配であった。
カヲルは顔を上げる。
今はまだ、その気配が誰から発せられているのかまでは分からなかった。
――
翌朝、冬月は執務机の上へ置かれた書類を読み終え、眉間へ皺を寄せた。
フィフスチルドレン、渚カヲル。
修復中の三号機に対する予備搭乗候補。書類にはそう記されている。
しかし三号機には、正式搭乗者として鈴原トウジが登録されていた。使徒に侵食された機体は長い修理を経て、脊椎部を含む主要機関の交換をほぼ終えている。残っているのは再起動試験と、搭乗者を含めた最終調整だけであり、この段階で新たな候補を送り込む必要はない。
冬月が書類を机へ置く。
向かいに座るゲンドウは、添付されたカヲルの写真を見ていた。
昨夜、少年が本部へ入った直後から、胸の奥に微かな違和感がある。
駅のホームを見る悪夢と似ているようにも思えたが、確信はない。夢そのものが何者かによって見せられているのか、それとも自分の記憶が形を変えているだけなのかさえ、ゲンドウには分かっていなかった。ただ、カヲルが近くにいる時だけ、古い傷の奥を指でなぞられるような感覚が残った。
「最後の使徒を、チルドレンとして送り込んできたか」
「老人たちは、いよいよ隠すつもりもないらしいな」
使徒は残り一体。その事実を知る者は本部内でも限られている。そして、ゼーレが送り込んできた渚カヲルこそ、その最後の一体であることもゲンドウたちは知っていた。
分からないのは、なぜ最後の使徒へ人間の名とチルドレンの資格を与え、堂々と本部へ送り込んできたのかということだ。初号機は封印され、シンジもその内部から戻っていない。以前の計画から状況が大きく変わった今、老人たちが何を成立させようとしているのかまでは読み取れなかった。
「追い返すか」
「いや」
ゲンドウは写真から目を上げた。
「監視下に置く。目的を確かめるまでは、本部から出すな」
相手が最後の使徒である以上、危険であることは分かっている。それでも、少年が近くにいる時だけ生じる違和感を確かめずに排除することはできなかった。
――
三号機の修復区画では、溶接の白い光が断続的に明滅していた。
黒い巨人の外装は既に大半が復元されている。しかし、背部から腰へ伸びる装甲の一部は外されたままで、交換された脊椎機構と新しい配線が剥き出しになっていた。
使徒の侵食によって損傷した箇所と合わせ、技術部は機体を一つずつ本来の状態へ戻していた。
見学窓の前で、トウジは隣へ立った白髪の少年を横目で見た。
「自分が乗る機体を見るのは初めて?」
カヲルが尋ねる。
「乗る予定の機体、や。まだ一回もまともに動かしとらん」
トウジは訂正した。
機体へ乗る前に使徒が目覚め、三号機は無人のまま零号機、初号機、弐号機に襲いかかった。あの日、もし起動試験が予定通り行われていれば、自分はこの黒い装甲の内側にいた。
結果だけを見ればトウジは無事だった。しかし、だからといって自分には関係のない事件だったとは思えない。
「あんたが予備いうことは、ワシに何かあったら代わりに乗るんか」
カヲルは答えず、三号機を見上げた。
トウジが自分へ警戒と疑問を抱いていることは分かる。だが、説明するつもりはなかった。シンジ以外の誰かと親しくなれば、この世界へ未練が生まれるかもしれない。今のカヲルには、それを望む理由がなかった。
「君から何かを奪うために来たわけではないよ」
それだけを伝え、カヲルは検査担当者の後へ続いた。
簡易適性検査では、一度だけ異常な数値が表示された。
ダミーシステムとの同調適性は、基準となっているトウジに届かない。しかし、エヴァ本体を想定した神経接続試験へ切り替えた直後、表示された波形が急激に上昇し、疑似波形までカヲルへ合わせるように変化した。
「先輩、これ……」
マヤの声に、リツコが端末を覗き込む。
「一度切って。最初から測り直すわ」
二度目の数値は、ごく平凡なものだった。機械の異常を疑って別の装置を用いても、結果は変わらない。
最初の数値が誤作動だったのか。それとも、カヲルが二度目から何かを抑えたのか。リツコには証明できなかった。
「今日はここまでよ。三号機の起動試験には参加させません」
「分かりました」
カヲルはあっさりと従った。三号機へ乗ることは、本部へ来るために与えられた名目にすぎない。そのため、起動試験へ進めなくなったことへの失望もなかった。
――
検査区画を出たカヲルは、連絡通路でアスカとすれ違った。
アスカは左腕の経過観察を終えたところだった。第十六使徒の侵食によって受けた傷は薄くなり、日常生活に支障はない。それでも、時折皮膚の下を何かが這うような感覚が戻り、眠れなくなる夜がある。
弐号機はもう存在しない。
第十六使徒を巻き込んで自爆し、回収できる破片さえ残らなかった。それでも本部の通路を歩いていると、いつものケイジに赤い機体が待っているような錯覚を覚えることがあった。
自分を必要としてくれる場所を失ったのだと考えれば、今でも胸が苦しくなる。けれど、以前のようにエヴァがない自分には何も残らないとまでは思わなくなっていた。レイやトウジがいて、疎開したヒカリもいる。そして帰ってくると信じたいシンジも、初号機の中にいる。
「君が、惣流・アスカ・ラングレーだね」
初対面の少年に名前を呼ばれ、アスカは足を止めた。
「何。あたしに用?」
「会ってみたかったんだ」
「悪いけど、今そういう気分じゃないの」
アスカはその横を通り過ぎようとした。
「君は、残されたんだね」
足が止まった。
シンジは初号機から戻らず、加持は死に、弐号機と母親は自分を生かして消えた。
何も知らないはずの少年に、その全てを一言で触れられた気がした。
「初対面で、知ったようなこと言わないで」
振り返ったアスカの声には、隠しきれない苛立ちが混じっている。
カヲルは謝らなかった。ただ、通路の先にある閉鎖区画へ視線を向ける。
その先には、封印された初号機がいた。
アスカも同じ方向を見る。
「あんた、誰を探してるの?」
問いかけるつもりはなかった。けれど、カヲルの横顔が、返事のない誰かを待っている者の顔に見えた。
「僕の声を、何度も見つけてくれた人だよ」
「訳分かんない」
アスカは吐き捨て、今度こそ歩き出す。
数歩進んだところで、胸の奥に小さな棘が残っていることへ気づいた。少年の探している相手が誰なのかは分からない。それでも、もう会えない誰かを探しているのなら、自分と無関係だとは思えなかった。
振り返った時には、カヲルは反対側へ歩き出していた。
――
カヲルがレイと出会ったのは、四号機の検査区画へ続く通路だった。
レイは検査を終えたばかりで、壁際に立っていた。
二人は、離れた場所で同時に足を止めた。
レイは、地下の巨人を初めて見た時に近い感覚を覚えていた。自分の奥にある、自分ではない何かが、目の前の少年を知っているように揺れる。
だが、恐怖とは少し違った。
カヲルの方も、レイを見つめている。
「君は、自分が何者か知ったんだね」
「あなたに話したことはない」
「話さなくても、選んだ人の顔は分かる」
レイは眉を寄せた。
自分が何から生まれたのかは、まだ分からない。ゲンドウから聞かされたのは、誰もいないはずの初号機のエントリープラグに、自分が突然現れたということだけだった。
それでも、自分は綾波レイとして生きると決めた。
「あなたは、誰として生きるの?」
今度はカヲルが答えられなかった。
渚カヲルとして生きることと、碇シンジを幸せにすること。その二つを、カヲルはこれまで一度も分けて考えたことがない。
シンジを見つけ、近づき、心へ触れ、その結末を彼に委ねる。それを何度繰り返しても、シンジが望む幸福へ辿り着くことはなかった。
「私は、何から作られたかと、誰として生きるかは別だと思う」
レイは自分へ言い聞かせるように続けた。
「まだ、分からないことは多いけど。私は、自分で決めたい」
「君は、どんな未来を選んだんだい」
レイは、部屋の机へ置いてきた進路希望調査票を思い出した。
「ケーキ屋」
答えた後で、レイは少し恥ずかしくなった。人間ですらないかもしれない自分の未来としては、幼すぎる夢に思えた。
しかし、カヲルは笑わなかった。
「いいね。君の未来には、甘い匂いがする」
レイは何と返せばよいか分からず、黙ってカヲルを見る。
「僕にも、そんな未来を考えられたらよかった」
カヲルはそれだけを残し、通路の奥へ歩いていった。
――
初号機の封鎖区画には、二重の隔壁が設けられていた。
正式な許可を持たないカヲルは、最初の検問より先へ進めない。だが、距離は問題ではなかった。
隔壁へ手を触れ、目を閉じる。
その向こうでは、左腕を失った初号機が拘束架の中で沈黙している。覚醒中に赤く発光した装甲は安全を示す緑へ戻り、機体の組成も戦闘以前の状態へ戻っていた。
ただ一人、碇シンジだけが戻らなかった。
カヲルは、初号機の内部へ向けて呼びかけた。
何度も繰り返した世界で、その名を呼んできた。そしてシンジも、迷いながらではあっても、最後には必ずカヲルの声へ応えた。
今は何も返らない。
死んでいるわけではない。シンジという存在は初号機全体へ広がり、その深い場所に残っている。
しかし今のシンジには、外から届いた声を受け止めるための人間としての境界がなかった。心が消えたのではなく、カヲルが知っている人間の心より、さらに深い場所へ沈んでしまったのだ。
「シンジ君」
カヲルは、もう一度名前を呼んだ。
返答はない。
隔壁へ置いた手に、僅かに力が入る。
「僕は、君に会うために来たんだ」
それでも、初号機は沈黙を続けていた。
カヲルは長い間その場を動かなかった。やがて、これ以上呼び続けても届かないことを認め、隔壁から手を離す。
シンジへ会えないのであれば、この世界で自分が果たすべき役割はない。
そう思った時、別の気配がはっきりと聞こえた。
自分と同じ源へ連なるもの。
しかし、自分と同じものではない。あまりにも小さく、どこかが欠け、遠い場所から取り残された名残のようなものだった。
カヲルには、それが何なのか分かった。
同時に、今ここで名前を与えるべきものではないとも理解した。
カヲルは目を開く。
その気配が、一人の人間と共に移動していることへ気づいた。
――
ゲンドウの執務室へカヲルが現れたのは、勤務時間を過ぎた後だった。
入口の保安部員が制止したが、室内からゲンドウが入室を許可した。
カヲルは机の前まで進み、椅子には座らなかった。
「碇ゲンドウ司令」
「何の用だ」
カヲルはゲンドウを見た。
やはり間違いない。小さな残響は、目の前の男の内側にある。
しかし、それをここで言葉にするつもりはなかった。誰が聞いているかも分からない場所で話せることではなく、カヲル自身もゲンドウへ確認したいことがあった。
「誰もいない場所で、あなたと話がしたい」
ゲンドウの表情は変わらない。
「最後の使者が、私に何を話す」
「君の内にあるものと、君がここへ来た理由について」
胸の奥に、あの違和感が生じる。
ゲンドウはすぐには答えなかった。
カヲルも返事を急かさず、ただ目の前に立っている。
シンジに会うことはできなかった。
その代わり、この世界にいるはずのないものと、それを連れてきた人間を見つけた。
カヲルは、ゲンドウの返答を待った。
罠である可能性は高い。相手が最後の使徒である以上、普通ならば保安部を集め、すぐに拘束を試みるべき場面である。
だが、カヲルが口にした自分の中にあるものという言葉を、ゲンドウは無視できなかった。駅のホームで見る悪夢も、時折胸の奥に生じる違和感も、自分では何一つ説明できていない。ここでカヲルを排除すれば、その答えへ辿り着く機会を永遠に失う可能性がある。
「分かった」
ゲンドウは席を立った。
冬月へ行き先だけを告げる。事情を聞いた冬月は止めようとはしなかった。
「保安部をつけるか」
「必要ない」
「そうか」
冬月は短く息を吐いた。
以前のゲンドウなら、自分だけが知るために他者を遠ざけた。今もその性質がなくなったわけではない。しかし今回は、未知のものを利用するためではなく、自分の内にあるものと向き合うために行くのだと、冬月には見えた。
「今度は、お前自身で確かめてこい」
ゲンドウは僅かに頷き、カヲルと共にエレベーターへ乗った。
――
セントラルドグマへ降りるほど、空気は冷たくなった。
カヲルは経路を教えられていない。それでも分岐で迷うことはなく、ゲンドウより半歩前を歩いている。
最深部の隔壁が開く。
巨大な空間の奥に、白い巨人が磔にされていた。胸には槍を抜かれた傷が残り、下半身から伸びた無数の脚が、赤い液体の中へ沈んでいる。
カヲルの表情に驚きはなかった。かといって、懐かしいものへ再会したようにも見えない。
長い道の先に用意されていた答えが、自分の予想とは違っていた。それを改めて確かめるように、カヲルは白い巨人を見上げていた。
「君は、ここへ来るために生まれたのか」
ゲンドウが尋ねる。
「そう決められていた。けれど、生まれた理由と、生きる理由は同じではないらしい」
レイの言葉が、カヲルの中に残っていた。
「最後の使徒が、ここへ触れずに何を選ぶ」
「それを決めるために来たんだ」
ゲンドウは銃を抜かなかった。
カヲルがその気になれば、この距離で人間の武器が役に立たないことは分かっている。何より、少年からは白い巨人へ触れようとする意思を感じなかった。
「碇シンジを知っているな」
カヲルは、初めて少し悲しそうに笑った。
「何度も」
その答えを、ゲンドウはすぐには理解できなかった。一度や二度会ったという意味でないことは、カヲルの表情を見れば分かる。しかし、十四歳の少年がシンジと何度も出会ったという言葉を、そのまま受け入れることもできない。
「海が赤くなるたび、月の棺が開くたび、僕は同じ名前を探した。彼が孤独である限り、僕は彼を見つけることができた」
「何の話だ」
「繰り返された、あなたの息子の話だよ」
カヲルは具体的な出来事を語らなかった。
同じ場所へ流れ着き、そのたびに少しずつ違うシンジと出会ったこと。近づき、言葉を交わし、幸福を与えようとしてきたこと。それでも、望んだ結末へ一度も辿り着かなかったことを、夢の断片を並べるように話した。
ゲンドウには全てを理解することはできない。
ただ、カヲルが自分の知らない時間の中でもシンジを探してきたらしいことだけは分かった。前の世界と同じものを見たのか、それともまったく別の意味なのかまでは判別できなかった。
「今回は、彼が僕を知るより先に、リリンを愛してしまった」
ゲンドウの眉が僅かに動く。
シンジは、自分を愛していると言ったことなどない。それでも、初号機を動かした理由は覚えている。
帰ったら木彫りのお守りを渡すと決め、初号機へ乗った。自分の命だけでなく、アスカやレイ、この街で得た全てを守ろうとして、人間の境界を越えた。
「僕は彼を幸せにしたかった。けれど、彼の幸福を僕が決めてしまえば、それは彼の願いではなくなる」
白い巨人の前へ、カヲルの声が静かに響く。
「愛していたから、僕は彼の世界を決めようとした」
その言葉は、ゲンドウ自身へ向けられているようでもあった。
ユイを取り戻すため、他者を犠牲にし、最後にはシンジさえ補完へ巻き込もうとした。傷つくことのない世界を与えるという言葉で、自分が妻を失いたくないだけの願いを覆い隠した。
愛しているから相手の幸福を願うことと、相手を失いたくないから自分のそばへ置こうとすることは、よく似ているようで違う。
以前のゲンドウには、その違いを認めることができなかった。だが、シンジを失って初めて、自分がユイやシンジへ向けていたものの中に、愛だけではなく依存があったことを考え始めていた。
カヲルが振り返る。
赤い瞳はゲンドウの顔ではなく、その奥にあるものを見ていた。
「あなたは、自分の内にいるものを知らない」
「知っているなら話せ」
「君が探しているものとは違う。生まれ直すものでも、ここで眠っていたものでもない。遠い命の残り香だ」
カヲルはゲンドウへ近づいた。
触れはしない。ただ、胸の奥にある音へ耳を澄ませるように目を閉じる。
胸の奥に潜む何かが、大きく揺れたように感じた。
ゲンドウの視界へ、赤い海と、崩れた駅のホームが一瞬だけ重なる。
「同じ空には二つ並べないものが、君と一緒に岸を越えた。あなたも、この世界だけを生きてきた人ではない」
「…何を言っている」
「小さすぎて、もう同じものには戻れない。それでも、この世界にあってはならないほど大きい」
カヲルは目を開いた。
正体を理解していることは、その表情から分かった。しかし、それ以上を語ろうとはしない。
「なぜ黙る」
「言葉にすれば、君は知ったつもりになる。それでは意味がない。それは、君が選ぶ時に自分で知るべきものだから」
ゲンドウは苛立ちを覚えた。答えを知っている者が目の前にいるのに、その答えを与えようとしない。以前なら、力ずくでも答えを引き出そうとしたかもしれない。
だが、カヲルが告げたところで、自分が正しく理解できる保証はない。未知の力へ縋り、都合のよい結論だけを選べば、補完計画へ縋った時と何も変わらなかった。
「シンジを幸せにすることが目的なら、なぜ諦める」
「僕が救い出した彼は、僕の望んだ彼かもしれない」
「詭弁だ」
「そうだね。何度も繰り返した僕が、今更怖くなっただけなのかもしれない」
カヲルはそれを否定しなかった。
しばらく白い巨人を見つめた後、静かに口を開く。
「大切なものがないから、一線を越えられる者がいる」
ゲンドウは黙って聞いていた。
「大切なもののためなら、一線を越えてしまう者もいる。どちらも同じ境界を越える。けれど、同じ場所へは行かない」
ゲンドウの脳裏に、ユイの姿が浮かんだ。
かつての自分には、失うものなどないと思っていた。世界も他人も、自分自身さえ価値のないものとして扱えば、どのような犠牲も選ぶことができた。
しかし、ユイは違う。
ユイには、守ろうとしたものがあった。シンジがいて、ゲンドウがいて、自分の後へ続く人々がいた。
初号機へ残ったのは、ただの事故ではない。シンジを守ろうとする母親の本能だけでも説明できない。
ユイは何かを守るため、自ら一線を越えた。
その先で何をしようとしているのかは、まだ分からない。だが、初号機の中で夫が来るのを待っているだけではない。
もしかすると、ユイは今も初号機の中で何かを待っているのかもしれない。
もちろん、現時点では何の証拠もない。ただ、ユイが自分との再会だけを望み、初号機の中で待っているという考えの方が、自分にとって都合のよい願望だったのではないか。
ゲンドウは初めて、そこまで疑うことができた。
――
カヲルは白い巨人を見上げた。
ここへ触れるために送られた。触れれば、ゼーレが望む何かを始めることができる。
逃げることもできる。生き続け、いつか別の形でシンジへ辿り着くこともできるかもしれない。
しかし、それを繰り返せば、またシンジの幸福を自分が決めようとするだろう。
これまでカヲルは、最後の選択をシンジへ委ねてきた。自分を受け入れるか、拒むか。生かすか、殺すか。選ばせることがシンジへの優しさだと思っていた。
だが、それは自分の結末を決める責任まで、シンジへ背負わせる行為だった。
この世界のシンジは初号機の中に存在しているが、カヲルへ答えを返せる状態ではない。
「僕はいつも、彼に選んでもらっていた」
カヲルが呟く。
「それはきっと、優しさではなかった。僕が、自分で選ぶことから逃げていただけだ」
ゲンドウは、カヲルの周囲で空気が変わるのを感じた。
A.T.フィールドが薄い光となって、カヲルの輪郭を浮かび上がらせる。
「何をするつもりだ」
「彼を愛しているなら、彼の世界を君の望む形にしないで」
ゲンドウは答えなかった。
補完計画を使えば、シンジを取り戻せるかもしれない。傷つくことも、他者を失うこともない場所へ、息子を置くことができるかもしれない。
その誘惑を、今のゲンドウは完全には捨てられない。それでも、シンジが愛した世界を奪うことになると知ってしまった。
「これが、僕に残された最後の自由だ」
カヲルが微笑む。
A.T.フィールドが消えた。
ゲンドウが破壊したのでも、白い巨人に吸収されたのでもない。人の形を他者から隔て、渚カヲルという一つの個体を維持していた境界を、カヲルは自らの意思で解いたのだ。
白い指先から輪郭が薄れ、細かな光へほどけていく。
ゲンドウは手を伸ばしかけた。
止める言葉を口にすることはできた。しかし、生きろと命じれば、最後までカヲルの選択を奪い、別の役割を押しつけるだけになるような気がした。
これは絶望に追い詰められただけの死ではない。与えられた役割にも、ゼーレにも、シンジにも結末を委ねず、カヲルが初めて自分で選んだものだった。
「さよなら」
輪郭を薄い光に滲ませながら、カヲルは初号機のある方角を見た。
「今度は、君が選んだ世界で」
その声が、深い場所へ沈んだシンジまで届いたのかは分からない。
光が消えると同時に、人の形を保てなくなった肉体が崩れた。
淡い橙色の液体が足元へ落ち、カヲルの着ていた衣服だけを濡らして、薄く床へ広がっていく。残されたLCLの表面に、消えかけた光が一度だけ揺れた。
白い巨人にも変化はない。
セントラルドグマには、ゲンドウ一人だけが立っていた。
――
渚カヲルの記録は、その日のうちに処理された。
ゼーレから提出された身分情報に重大な不備が発見され、三号機への適性検査は中止。本人は所属元へ送還されたことになった。
冬月は整えた記録をゲンドウへ見せる。
「これで本部の職員には説明がつく。老人たちは納得せんだろうがな」
「構わん」
ゼーレがカヲルを送り込んだ以上、その消失を偽り続けることはできない。これは本部内部へ向けた説明にすぎなかった。
翌日、トウジは予定通り三号機の調整へ呼ばれた。
「昨日の白い奴は、もう帰ったんか」
担当職員は、書類上の説明をそのまま答える。
トウジは納得していない顔をしたものの、それ以上尋ねなかった。カヲルが何をしに来たのか、最後まで分からない。ただ、君から何かを奪うために来たわけではないという言葉だけが残っていた。
アスカは送還の話を聞き、「最後まで気味の悪い奴だった」と吐き捨てた。あまりにも短い滞在だったため、それ以上の感想を持つこともできなかった。
レイだけは、カヲルが本当に帰ったのではないと感じていた。
自分と似ているようで、まったく違う少年。もうこの本部に彼の気配はない。
何を選んだのかは分からない。ただ、あの少年が誰かに連れ戻されたのではなく、自分からいなくなったような気がした。
――
同じ頃、ゼーレの会合では、長い沈黙が続いていた。
暗闇に浮かぶモノリスの中央で、カヲルとの接続が失われた時刻と、ネルフ本部周辺で観測された微弱なA.T.フィールドの消失記録が繰り返し表示されている。
予定された接触は起こらなかった。
補完は発動せず、白い巨人も初号機も沈黙を続けている。
『碇ゲンドウが、最後の使徒を処分したか』
『現場の記録は残されていない』
『もはや契約は失われた』
キールは、老人たちの声を黙って聞いていた。
これで、使徒は全て失われた。
ゼーレにとっては、本来ならば契約を成就させる時が来たことになる。しかし、補完を始めるために用意した最後の使徒は、何も起こさないまま消滅した。
ならば、残された障害はネルフ本部と、その地下にある初号機。そして計画を自らの手へ奪おうとする碇ゲンドウだけである。
『各国で建造中のエヴァシリーズを、最終段階へ移行する』
『ダミープラグの実装は』
『既に開始されている』
別の場所で、一人の技術者が、量産機へ実装された疑似人格の波形を見ていた。
白い髪の少年を模したパーソナルデータ。ネルフのダミーシステムとは異なり、搭乗者を必要とせず、機体を完全に自律させるためのものだった。
画面の奥には、まだ誰にも明かされていない命令が沈んでいる。
技術者は、その内容を改めて確かめることなく、表向きの実装承認を行った。何が眠っているかは、最初から知っている。
ゼーレは同時に、日本政府を通じて既に発令された戦略自衛隊への準備命令を、実行命令へ切り替える手続きを始める。
人類を脅かしてきた最後の使徒が消えたことで、人間同士が戦うための障害はなくなった。
――
ゲンドウは、封印された初号機の前へ戻っていた。
ケイジには誰もいない。
左腕を失った紫の巨人は、拘束架の中で沈黙している。胸部装甲は解析のために外され、赤いコアが作業灯を鈍く返していた。
あの中に、ユイとシンジがいる。
同じ場所に存在する二人が、同じものを望んでいるとは限らない。当たり前のことであるはずなのに、ゲンドウはこれまで二人の願いを自分に都合のよい形で一つにしようとしていた。
ユイは、大切なもののために一線を越えた。
シンジもまた、自分たちを守るために、人間として戻れなくなるかもしれない場所へ踏み込んだ。
ならば、自分はどうする。
補完計画へ縋れば、息子を取り戻せるかもしれない。失う痛みも、他者に拒絶される恐怖もない世界を作ることができるかもしれない。
だが、それはシンジがこの街で得たものを奪う行為でもある。
アスカやレイ、トウジ、ケンスケ。傷つきながら結ばれた人々との繋がりも、未来を自分で選ぶ自由も、自分が息子を失いたくないという理由で消すことになる。
ゲンドウはコアへ手を伸ばさなかった。
以前なら、答えが返らないことを理由に、自分に都合のよいユイの意思を作り上げただろう。
今は、沈黙を沈黙のまま受け止めるしかない。答えがないのであれば、分からないまま考え続けなければならない。それは、既に用意された答えへ縋るよりも遥かに苦しいことであった。
「ユイ。お前は、何を選んだ」
答えはない。
それでもゲンドウは、目を逸らさなかった。