とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

2 / 55
episode02:戦闘昂揚(バーサーク)

 

 

 

結局、鎚原病院から出られたのは、茜色に眩しい、夕暮れ時になってからだった。もはや第七学区に寄り道する時間も元気もなかったため、そのまま最初の予定通り、第五学区、第六学区を通るルートで聖マリア園へと帰った。

 

電車の中で、今日あった出来事を振り返る。現実味がない。あんなんで、ホントにボクらの孤児院が救われるのだろうか。今までずっと、クレア先生の溜息を見ることしかできず、苦しかった。孤児院のみんなも、今とは全く違う、裕福な生活。

 

そんな夢を見たのは一度や二度じゃ済まないだろう。ある日突然、ボクの能力に価値があります。それを研究します。資金が出ます。……なんじゃそりゃ。なんてご都合主義だ。こりゃ夢だな。ははは…

 

そう。夢のような話だ。だが、記憶の中の木原幻生は、はっきりと「孤児院への経済的な支援」と言っていた。この時のボクは、これは夢なんだ、淡い期待なんだ、きっとボクの能力なんて途中で、いや始まる前から「やっぱり駄目でした」ってなるに決まってる。だから、期待なんかするもんか、こんなご都合主義、信じるもんか。

 

そういう風に、誰よりもこの"夢の成就"を渇望しつつも、それが不可能だった時の落胆が怖くて、ただただ、必死に祈っていた。物事が良い方向に動きますように、良い方向に動きますように、と。

 

 

駅から出て、うちへと帰る途中で、火澄とばったり出くわした。火澄は第十四学区の図書館に行ってたようだ。第十四学区は留学生の学区。なるほど、世界中から腐るほど色んな言語の洋書が集まっているのだろう。それ目当てか。

火澄は珍しいものを見た、という顔をして、ボクに休日はどうだったのか聞いてきた。

 

「いや、第七学区や第十八学区に行って、目星をつけてある中学校の見学をしてきたよ。どこもそんなに違いはなかったなぁ。」

 

ボクがそう言うと、火澄は疑わしそうな目線で見つめてくる。思わず明後日の方向に目をそらす。

 

「ウソでしょ。景朗、嘘を吐く時、目を上にそらすもの。今、私が言ったとおりに目をそらしてたわよ。」

 

マジかよ!?しまった。視線に耐えるべきだった。ボクも学習しないなあ。素直に考えていた言い訳を話すか。

 

「バレるの早ッ!…はぁ~。お察しの通り、第七学区に行ったは良いものの、友達が言ってた例のゲームセンターに行ってしまいましたよ。ロクに中学校は見学できませんでした。」

 

それを聞いた火澄は、ほれ見たことかと目を吊り上げ、ぷくっという音が聞こえてきそうなほどに、頬を膨らませたた。

 

「むぅぅ。どうやら遠出するみたいだったから、何をしに行くのかと思ったら…!1人で楽しんで来たのね!私は図書館で勉強してたのに!ズルいわよ!」

 

「い、いや、最初はオレもちゃんと見学に行こうと思ったんだけどさ…やっぱり、いざ第七学区についたとなると、やっぱ休みだし、みんな楽しそうに遊んでて…つい魔がさしてさ…」

 

言い訳をしていると、火澄はボクを糾弾することに徒労を感じ始めたらしく、なにやらポツリポツリと独り言を呟きだした。なにやら「1人でいってつまらなくないのー?」だとか。

ボクは火澄にウソを吐いた罪悪感からか、それとも彼女に対する下心からか、両方か。気づいたら、彼女にある提案をしていた。

 

「や、やっぱりオレも、今日行ってみてさ、1人でゲーセンはどうかなって思ったよ。…よかったらさ、今度行く時、1人だとつまらないだろうからさ、一緒に遊びに行ってくれたり…しない…?」

 

その言葉を口にしたとたん、火澄が一瞬硬直したように見えた。その後、オイルの切れた機械が動くように、ぎくしゃくと首を不自然に回してこっちを向き、返事をしてくれた。

 

「人が一生懸命勉強していると思いきや、遊んでいる人がいて、悔しいったらありゃしないわ。…悔しかったんだから!今度はワタシだって遊ぶ!遊んでやるんだから!今度は連れて行きなさいよね!」

 

その返事に嬉しくなって、そしてちょっと恥ずかしくなったボクは、彼女の顔を直視できず、下を向いたまま、

 

「そうだね!偶には遊ばなきゃ!オレたちまだ小学生なんだから!よし、遊びに行こう!」

 

こう言う風に相槌を打つことしかできなかった。なんだかドキドキするな。後ろから火澄の黒髪サラサラロングヘアーと、白いうなじのコントラストを眺めていると、なんかこう…ムラムラ?

 

ボクの視線に気づいたのか、彼女がさッと振り返った。咄嗟に目をそらす。しまった。いやいや、ボクもう小学五年生ですから。許しておくれ。

 

 

 

 

 

翌週から、ボクの生活は新しくなった。月曜日から金曜日、平日は今まで通りだけれど、それに加え毎週末、土曜日か日曜日、時たま土日両方が実験に消えるようになった。

 

毎週毎度のように出かけるボクを、最初はみんな訝しんだものの、あれこれ言い訳を、それこそ中学校の見学だの、図書館に行って来るだのと説明していたら、みな、「ああ、要するに、1人でぶらぶらしたいんだな、コイツ。そういう年頃なんだな、コイツ。」という風に勝手に納得してくれるようになった。

 

クレア先生はボクが大人になって寂しいわ、と大げさに嘆き、花華たちは、最近遊んでくれなくなったと不機嫌になった。でもまあ、日頃の行いが功を奏したのだろう。誰もボクが人体実験スレスレの研究に参加しているとは思っていないようだった。

 

ただ、火澄だけはちょっとボクを疑っているようで、素直にボクの言い訳を信じているようではないようだった。ボクは新たに、こう言うときの火澄を煙に巻く方法を見つけ出して、うまく使っていた。

 

火澄に、「そんなにオレのことが気になるのかよ…?」と言いながら、じっと目を逸らさず見つると、彼女はいたたまれない気持ちになって、慌てて何かを誤魔化そうと声を張り上げる。そしていつの間にか追及の芽が摘まれている、といった具合だ。

 

ちなみに幻生先生からの連絡は普通に携帯に来る。ただし、この携帯は幻生先生にプレゼントされたもので、前からボクが使っていた携帯と見かけは一緒だけど、中身は特別製になっている。ちょ、ちょっと!そこのキミ!いくらボクらの孤児院が不景気だからって、携帯くらい前から使ってたぞ!ここは腐っても学園都市なんだよ!

 

 

 

 

 

冬のある日、たしか十二月真近に迫る頃合いだったと思う。嬉しい話だ。ある日の晩、クレア先生が突然、

 

「明日は焼肉よーーーっ!!」

 

と、園に帰ってくるなり絶叫した。みんなは、ついに不景気過ぎて乱心したか!?と心配そうな表情でクレア先生を宥めていたが、ボクだけは違った。ついに来るべきものが来たか、と想像した。今まで実験に協力し続けてきたが、それでうちの園の経営が良くなっているという実感はなかった。ボクらの生活に一切変化はなかったからだ。

 

しかしまあ、それは当然のことで、ボクが幻生先生に報酬は後払いにしてくれと言っていたせいである。あの時のボクは自分の能力に完全に自信が無く、何も成果を得る前に、報酬だけ先に支払われることが怖かったのだ。責任のとりようが無いしね。

 

どうやらクレア先生の絶叫ぶりを見ると、期待していたものが遂に来たのかもしれない。先生は落ち着いていつもの調子に戻り、明日の焼肉は必ず決行することと、自分が狂っていないことを必死にみんなに伝えようとしていた。涙目のクレア先生萌える…おっと、ゲフンゲフン。

 

 

みなが一通り納得して、クレア先生に興味を失った頃合いを見計らい、気になっていたことを質問してみた。

 

「先生、さっきはあんなに発狂していったいどうしたんですか?原因が気になります!教えてくださいよ。」

 

発狂という言葉に反応したのか、クレア先生は必死に弁明を始めた。

 

「か、かげろう君まで!?原因ってなんですか!私は発狂なんてしていません。」

 

「いや、先生のあれほどの狂乱狂喜っぷりは初めて見ました。なにかとてつもなく良いことがあったんじゃないんですか?…たとえば、どっかのお偉いさんが気まぐれに、うちにめいいっぱいの寄付をしてくれた、とか…」

 

その言葉を聞いたとたん、クレア先生が硬直した。ヲイヲイ、態度でばればれだよ、クレア先生。

 

「ええっ。どうしてわかっちゃうんですか?かげろう君。そんなに私の態度、わかりやすかったかしら?」

 

クレア先生の問いに、どう答えたものかと考えるが、すぐにどうでもいいか、という気になった。こんな言い訳、考えるまでもない。

 

「いえ、クレア先生の喜びっぷりが、とにかく凄まじいものだったので。そのぐらいしか、先生を喜ばせるものはないかなーって。」

 

「うう。私、そんなにはしゃいでたのかしら。それにかげろう君…『そのぐらいしか、先生を喜ばせるものはないかな』なんて、地味に酷過ぎます…」

 

ほらね。簡単だった。クレア先生のことは何だって知ってるんだぜ…。クレア先生をからかうのは、そこまでにしておいた。ボクだって嬉しくて、飛び上がらんばかりだったのだ。ついにこの時がやってきたぞ、と。ボクは、やれたんだ、と!これからも一生懸命、幻生先生の実験に協力すれば、きっと…きっと……

 

幻生先生は本物だった…。よかった。ボクが、ボクの能力、痛覚操作(ペインキラー)を発現できて、本当によかった…!幻生先生!一生付いて行くぜ!!

 

 

 

 

 

この晩、ボクの念願の夢が叶った。ボクは狂喜した。そして幻生先生に心酔した。彼を完全に信用し、信頼し、尊敬するようになった。未来に、希望に埋め尽くされていた。今こそ、生涯で一番幸せな時だと。

 

ああ、この時の"俺"はなんて浅はかだったんだろう。そんな"俺"の幻想は、あっというまに、木っ端微塵に破壊される。同年、小学五年生の冬だった。"俺"は地獄を見る。同じ境遇であるはずの、"置き去り"達の地獄を…

 

 

 

 

次の日。その晩に、本当にバーベキューが実施された。聖マリア園の庭先で。お隣の回教(イスラム)系の組織が集まったビルの方々が、窓越しにボクたちを迷惑そうに眺めていた。

 

相変わらず、仄暗火澄(11);発火能力レベル3の調理能力は超能力(レベル5)級で、完全にバーベキューの炎を支配しているように見えた。

うちのチビどもは火澄にべったりで、恥ずかしくて火澄に絡めない年頃の小学生男児数人と料理が全くできないシスター・ホルストン(29歳独身)を率いて、ボクはもう一台のコンロを四苦八苦させながら、火澄が下味をつけてくれた肉と野菜を焼いていた。

 

うおお。煙で手元がよく見えない。おまけに薄暗いし、よく焼けてんのかわからないよ。畜生。こうなったら、やけど覚悟でもっと大胆に肉にアプローチしていくしかないか。ボクは菜箸を片手に、コンロに顔を近づける。やっぱ熱いけど、能力を使えば平気だからね。

 

 

大盛況のバーベキューが終わった。みんな幸せそうな顔していた。嬉しいな、全く。チビどもは先に寝かしつけて、今は年長組と先生とで後片付けをやっている。コンロを片付けていると、火澄が近付いてきた。

 

「まだコンロ熱いんじゃない?大丈夫?」

 

そういってボクが片付けているコンロに手を伸ばす。その途端、声をあげてすぐさまその手を引っ込めた。

 

「熱ッ。ちょっと、まだこれかなり熱いわよ。景朗、さっきからずっと触ってたけどホントに大丈夫なの!?」

 

コンロは相当熱かったようだ。最近、能力の使い方もだいぶ上達してるみたいで、無意識に痛みを消していたのかも知れない。すでに日が落ちて、辺りは暗く、自分の手の色もはっきりとは見えない。思い切って能力を解除してみた。その直後。

 

「イタタタタ。ヤバい、ヒリヒリする。」

 

ボクのその言葉に呆れたのか、火澄がジト目でこちらを見る。

 

「はぁ。まるでコントね、それ。相変わらず、便利なのか不便なのかよくわからない能力ね。力を使わなければ、手をやけどすることもなかったでしょうに。…もうっ。その火傷した手、かしなさい!」

 

そう言って、あらかじめ準備してあった救急箱を手にとって、ボクの手に軟膏を塗り、包帯を巻いてくれた。火澄がボクの手をさわっている間、なんだか落ち着かなかった。たぶん、ボクの顔、赤くなってるんじゃないかな。

 

「ありがとう。火澄。暗くてよく見えなくて。能力も無意識に使ってたっぽい。」

 

「ふん。無理にやらなくていいっていったのに、言うこと聞かずに、自分で焼き出すからこうなるのよ。…頼めば、ワタシが代わりに焼いてあげたのに…。知ってるでしょ?ワタシが焼くのだけは得意だってこと。」

 

"焼くのだけは"ですか、またまた、ご謙遜を。

 

「うう…。そうすればよかったんだけど。火澄はずっとチビどもに囲まれてたし。いつもより話しかけに行くのが恥ずかしかったんだ。ちょっと照れてたんだよ。最近火澄のこと意識してしまうっていうかさ…」

 

火澄と手を触れあっているからだろうか。満腹で思考回路が鈍っているのか。思っていたことをなんだかすんなり吐露してしまった。

 

「…………い、意識って……」

 

ん?火澄がなんかボソッと呟いたが聞こえなかった。というか、何で何も言い返してくれないんだ?……ちょっとまて、ボクは今何ていった?

 

ふと、火澄の顔色が気になって、視線を向けてみた。おお。薄暗くて確信は持てないが、彼女の顔も赤くなってる気がする。わわ、ヤバい。そのことに気づいた途端、もっとドキドキしてきた。ヤバいぞ。絶対にボクの顔、赤くなってる。

 

「どうしたの?かげろう君。ケガしたの~?」

 

クレア先生が近付いてきた。それに合わせて、さっきの心臓がバクバクするような空気が霧散する。クレア先生、グッジョブというべきか…残念だというべきか…

 

 

 

 

 

バーベキューの翌週。実験により土日の拘束+αが約束されていた週だった。この週末は特別で、病院からボクが検査入院するために、四泊もすることが予め連絡されていた。

 

生徒の検査入院うんぬんは、学園都市では珍しいことじゃないのでそう頻繁に事が起こらなければ、不審に思われることはない。とはいえ、これから、五日連続で検査入院ってのは、けっこう大胆じゃないかな?学校とかは公欠扱いになるから心配する必要はないんだけれど。

 

うちのみんなも、心配していた。重大な病気が見つかったんじゃないかって、クレア先生は涙を流さんばかりに動揺していた。火澄も心配してくれてたような気がする。なぜか最近話す機会が少なかったから自信が無いけど。

 

 

 

 

いつもどおりに、病院の地下に降りると、まずは幻生先生の書斎へと向かった。そこで、ふと疑問が湧いた。なぜだろう、今日はいつもと研究所の様子が違っている。もっとも、それはエレベーターで地下に降りる前の病院の内でもそうだったんだけれど、なんだか普段よりとりわけ人間が多いような気がした。それも学生が。小学生から中学生、高校生までと、幅広い年代の学生が緊張した面持ちで、皆が皆、研究所に新しくできた大型マシンに搭乗していた。そうだ、一体なんだろう?あの機械…。

 

 

今日はのっけから質問タイムだな、と、ボクは足早に幻生先生の部屋に移動した。やはりいつもと違って、幻生先生は珍しく、忙しそうに端末を弄りながら、所内の人たちと無線で話をしていた。無線機を使うってことは、一度にたくさんの研究者さんと連絡を取り合うってことなのかな。

 

部屋に入ってきたボクに気づくと、幻生先生はこれまたいつもどおりのニタニタした笑い顔を浮かべて、ソファに掛けるように手で指示をした。この笑い顔にもだいぶ慣れたなあ。

またしばらく無線で連絡を取り合った後に、ようやく幻生先生がボクに向き直った。

 

「よく来たね、景朗クン。今回は、今までで一番大規模な実験を行うからね。普段より気合を入れて実験に臨んでくれたまえ。とはいえ、実験の内容から言って特にキミが気張る必要はないかもしれないが。」

 

そういうと、幻生先生は手慣れた様子でティーカップを用意し出した。恒例のコーヒーによる一服の時間だ。相変わらず、砂糖をえげつないほど入れるなぁ、と、ボクは表情に出さずに嘆息した。

少々気が滅入るな。今日これから五日間、きっとこの地下に閉じ込められっぱなしなのだろうから。

 

ボクは空っぽになったコーヒーカップをもとのソーサーに戻し、ビスケットをひとつ齧った。甘いな。たまには塩辛い煎餅でも要求してみようかな。

 

とりあえず、だ。幻生先生も一息着けたみたいだし。さっそく、これからの五日間の実験予定と、それから本日の研究所内の異変、この2点について、気になったことを幻生先生に質問してみよう。そう思いいたったボクは、カフェインの力(もしくは糖分の力?)で穏やかな顔をした先生に、身に沸きあがる疑問を問うてみた。

 

「ところで、幻生先生、今日は研究所の様子が一段と違ってますね。やはり、これから行う、その一大実験とやらに関係があるんでしょうか?」

 

ボクのその問いに、よくぞ聞いてくれたという風にうんうんとうなずきを返しながら、幻生先生はゆっくりとその口を開いた。

 

「もちろん、キミの言うとおり関係しているよ。今日から行う実験は、"プロデュース"と呼称されていてね。目的は、"自分だけの現実(パーソナルリアリティ)"が、能力者の脳の一体どの部位に宿るのか、それをより直接的な手段で調べようというものだ。

 

どうだい、景朗クン。魅惑的なテーマだろう。加えて、被験者はすべてキミと同じ"置き去り"でね。すべて何らかの能力を発現している者たちだよ。彼らと協力して、是非とも善き成果を得たいものだ。そう思わんかね?」

 

本当にうれしそうだった。たしかに、ボクもその単純な疑問には興味がある。いったい、どこからボクたち能力者の能力を司る、自分だけの現実(パーソナルリアリティ)が出現するのだろうか?脳のどこにその寄辺があるのだろうか?なるほど、たしかに気になる……。

 

今回の実験は、それに迫ろうとしているのか。幻生先生はやっぱりすごい実験をするんだな。これは、ボクも気合を入れないといけないな。しかし、五日かぁ。ちょっと長いよな…。そんなに集中力持つかな…。

 

そんなボクの葛藤に気づきもしないまま、幻生先生は言葉をつづけた。

 

「この実験に取り掛かる前に、より詳細な脳細胞の反応データ、大脳新皮質に対する電気的な反応、化学物質、プラスチックホルモンや抗生物質に対する反応などなど、取り上げればキリがないが、様々な事前調査が必要だった。

 

しかしそれは、キミの脳波やキミの能力をモニタリングし、実際の環境データを取り込むことで、ずいぶんと進展した。そして、大幅に計画を前倒しにすることに成功したのだよ。

 

ましてやキミは、他人の痛覚に作用する能力、つまりは他人の脳細胞、神経にすら干渉する能力を持っていたのだからね。それがどれほど我々の研究に役立ったことか。今日も是非、キミの能力、キミの脳細胞、キミの脳波を実験に役立てて貰いたい。たのむよ、景朗クン。」

 

幻生先生は感極まったのか、ボクの手を取ると、その手でしっかりと包み込み握りしめた。ボクも一応、その手を握り返して、二言、

 

「はあ。頑張ってみます。やれるだけやってみます。」

 

とだけ返した。ぶっちゃけ、幻生先生に引いていたのだ。自分で喋って自分で感極まるのかよ…。

 

 

 

実験の準備が整ったとの知らせを受け、ボクと幻生先生は別の実験室へと移動した。幻生先生に案内された部屋は、今までに足を運んだことのある実験室ではなく、また見たことのない新しい実験機械が設置してある部屋だった。

 

ものすごい数のチューブが繋がった大きな台座に、いつもの電極ヘルメットの強化バージョンとでも言うような、今までで最高級にサイケデリックなカプセルが付属したマシンが中央に設置してあった。周りにはコンピューターの供体が繋いである。

 

やはり今までの実験と違うのか、事前に打たれる注射の数も3倍近く増加していた。ちょっとこの薬液の量大丈夫なんですか?!という質問が、喉から出かかったが我慢して飲み込んだ。職員さんたちの気合の入り用も、普段と比べてかなり違っていたからだ。

 

ボクはさらに、いつぞやの女医さんに手渡された錠剤とカプセルを水で流しこみ、中央の厳つい台座に腰をおろした。周りの職員さんたちがテキパキと、ボクの体のあちこちに、電極や針を刺し込んでいく。上手く体にセットされているかが重要らしいので、あえて能力は使わず、痛みの強弱でその如何を確かめた。さすがと言うべきか、どれも異状なし。問題なしだ。

 

すでに幻生先生から実験が始まった後の諸注意は受けていた。ここ最近の実験でやったように、能力を強く意識しつつ、できるだけ電極を通して意識を外に向けたままにする。途中で何を感じても、基本的にはその反応を無視し、ひたすら実験の継続を心がけるように、とのことだった。

 

幸いと言っていいのか、ここ数週間はそういった訳の解らないことばかりやっていたので、長時間意味もなく集中して能力を発動させるのには慣れていた。

 

今回の実験はとても大掛かりなので、途中で中断するようなことにはならないらしい。幻生先生は、始まる前に何度も、何があろうとも徹底して実験を継続するように、と研究所全体に繰り返していた。

 

幻生先生は、ボクには身体的な危険はほとんど無いと事前に太鼓判が押して貰ってるし、今までの実験で身の危険を感じたことも全く無いから、彼の言うとおり、フィジカルな面での心配はゼロだった。

 

ただし、メンタル的な面では多少問題が生じる可能性があるらしい。そう聞いていたので、いつもより実験が始まる前の緊張は大きかった。

 

 

 

いよいよ実験が始まった。電極に電源が入り、どの職員さん達も慌ただしく働いている。ボクはというと、何時もの何倍もの刺激が脳みそにピリピリと来るのを感じ、軽いトランス状態に陥っていた。

 

ちょっと、なんだコレは。聞いてないぞ。電気を通して、自分の感覚が広がっていくような…いや、違うな。より正しくは、まるで新たに1つ、感覚器官が増えたような…何とも言えない感覚を感じていた。いつまで続くんだろう…コレ…。

 

 

結局、初日は2~3時間に一度、30分ほど間に休憩を挟むのみで、深夜遅くまでぶっ通しで実験が続けられた。あと四日間の辛抱だ。晩御飯にそこそこ美味しいお弁当が出たので良しとしよう。

 

それにしても、兎に角クタクタに疲れた。ご飯食べたし、さっさと寝たいな。なんだかんだで実験の時は近くにスタンバってくれている眼鏡の女医さんにその旨を伝えると、作業を中断してベッドの置いてある職員用の仮眠室へと連れてってくれた。

 

仮眠室には誰も居らず、ボク一人になった。あの人たち、もしかしてこれから四日間、徹夜でぶっ通して実験するんだろうか。そんな訳無いと信じたい。きっと途中で帰るんだろう。とにかく寝たい。ベッドに入ると直ぐに眠りにつけた。

 

 

二日目も、初日と同じような実験をやるばかりで、これといって真新しい出来事は起こらなかった。それどころか、ひたすら退屈で、コレならトラブルの1つや2つ発生してくれてた方が、実験を中断できて、いくらかマシだっただろう。

 

二日目は午前中から実験が始まったので、前日より一層の疲労が蓄積したように思う。ものは試しにと、お昼休みの恒例のコーヒーブレイク中に、幻生先生に煎餅が食べたいとの旨を伝えてみた。

 

すると、幻生先生による、いかにコーヒーに煎餅が合わないかについての講義が始まり、それが実験開始直前まで小一時間続いたのだった。完全に藪蛇だった。

 

 

 

 

 

そして三日目。後々まで"プロデュース"として悪名高く囁かれる、この狂気の実験の本当の幕が下りた日だった。この日のことは思い出したくもない。

 

しかし、"俺"の地獄が始まった、記念すべき、運命の日でもある。語らないわけにはいかないだろう。

 

 

 

 

 

三日目の朝。連日の疲労が溜まり、正直とても疲れていた。ここが正念場か。ほとんど一日中座っているようなものであり、退屈で頭がおかしくなりそうだった。

 

しかし、実験に付き合っている他の子たちの中には、ボクより年下の子が居るようなので、あまりだらけるのは気が進まないなという気持ちもあった。

 

異変というほどのことでもないが、三日目の午後にして、研究所に滞在する研究員の方々の数が増えてきているような気がした。この地下12階の、人口密度が上がっている様な気がする。

 

 

 

その日の晩。ついに、異変が起きた。ボクが覚悟していたようなレベルではなかった。それはいきなりだった。

 

ボクが、代わり映えのしない実験操作に退屈して、集中を切らさないように、必死に晩御飯のメニューを考えないように、一生懸命神経を研ぎ澄ませていた頃。

 

突然。ダレかの、見知らぬ誰かの、強烈な、膨大な量の思念が、ボクの意識の内側へ入り込んで来た。刃物を刺すような、疝痛を催す思念の刃。まるで身構えていなかったボクの意識に、他の知らない誰かの圧倒的な量の思念がズブズブと挿入されていく。

 

それは人間の負の感情だった。非常に曖昧な形をしていたが、怒涛の勢いでボクの精神にぶつかってくる。動揺。痛苦。諦観。嫌悪。恐怖。怒り。苦悶。

 

パニックに陥った。今まで実験をやってきて、こんなのは初めての出来事だった。機械の誤作動だろうか。能力の集中が完全に切れてしまったせいか?

 

ボクは恐慌状態のまま、もう一度強く自身の能力の覚醒に努めた。しかし、一向に思念の流入は治まらず、それどころか時間の経過とともに、どんどん強くなりつつあった。

 

 

幻生先生はメンタル面で問題が生じる可能性について喋っていたが、このことだったのか。だとすれば、能力の発動を解除すれば、この意識の流入を解除できるかも知れない。

 

だが、恐らくそれはすべきではないだろう。彼等は実験の継続を何度も強調していた。となると、これに耐えなければならないのか。

 

 

 

ボクは、それから次の休憩に入るまで、ひたすら身をちぢ込ませて、耐え続けた。休憩時間になって、実験機の電極を外してもらうと、どっと体中から汗が噴き出た。冷や汗で体がじっとりと濡れていた。

 

さっきの感情の流入は一体全体何だったんだ?体を震わせる悪寒に耐えながら、ボクはすぐそばに侍る女医さんに何度も幻生先生を呼んでくれるように伝えたが、今は忙しいため、ボクの相手をしている暇はないとのことだった。

 

直接幻生先生に言えなくとも、先ほど起こった感情の流入だけでも伝えたいと思ったので、女医さんにさっきの出来事を詳しく説明し、代わりに幻生先生に伝えてくれるように言付けた。すると、すぐに女医さんから、

 

「意識の感応は当初から予測されている。問題ない。」

 

との答えが返ってきた。当初から予測されている?"意識の感応"…。じゃあ、あの莫大な負の感情の流入は、前もって準備された研究者さんによる感情プログラムなどではなくて、実際に誰かと同調(シンクロ)していた可能性が高いということか…?。

 

……心当たりはある。もしかすると、この実験に参加している他の被験者の子供たちかもしれない。嫌な予感がする。ボクの本能はただひたすらに止めておけ、と警鐘を鳴らしていたが、もしまた、次の実験もあの感情の流入が生じるようなら、今度は自分から干渉して、色々と探ってみる必要があるかもしれない…

 

 

 

それから30分後。実験の再開を覚悟していたが、意外にも休憩時間は延長され、次の実験再開まで2時間近く間が開いた。十分に休憩を取れて、だいぶ気は楽になった。そして、実験開始直前にもう一度、実験の継続の徹底が注意された。

 

 

実験再開から15分後、待ち構えていた負の感情の流入が始まった。今回は意識の侵入に身構えていたため、パニックに陥ることはなかった。この思念の発生源は、おそらく機械で繋がった、同じ実験の被験者たちだ。それくらいしか、考えられない。

 

機械越しに思念が伝わってくるのか、それとも被験者の中に強力な精神感応(テレパス)能力者が紛れているのだろうか。少なくとも、ボクの能力の出力如何で、意識の侵入を操作できなければ、必然的に後者によるものだと判断できるだろう。

 

ボクは覚悟を決めて能力の出力を全開にした。脳に負担がかかるのは承知の上だった。伝わってくる感情が曖昧なのは変わらないが、より意識の範囲が拡大していく……より大勢の人間の意識だ…、まるで荒れ狂う黒い獣のようで……憤りと恐怖と絶望がごちゃ混ぜになった、黒い感情がボクの骨の髄まで浸透していくような……

 

今までの人生で受けたことのない、激しい疼痛を我慢しながら、ボクはその意識に、自身の能力を最大稼働させ干渉していく。

 

戦慄。苦痛。絶望。憎悪。恐怖。鬱屈。苦悶。狂気。拒絶。

 

巨大な負の感情の群れが、頭の中で暴れている。気を抜くと、意識を失いそうだった。ボクは、何故だかわからないが、必至に意識を保ち、その感情の流れに身を任せた。

 

圧倒的な思念の塊は、まるで小さなダムのようで、意識を保ったまま、その水底に沈んでいく。限界まで意識を潜らせたその時、突然。

 

今までとは異なるはっきりとした感情のうねりを感じた。

 

死の恐怖。それは、絶望に絶望を重ね、憤りを抑え込み、諦観のその中に、真っ赤に白熱する生への渇望を抑え込んでいて……

 

マテ。ヤメロ。もう十分に苦しんでいる。これ以上は駄目だ。やめてくれ。これは現実なのか!

 

直後の断末魔。発狂。痛みと怒りの濁流。耐えきれなくなる。

 

 

 

 

 

唐突に、意識が浮き上がった。体を拘束するベルトが、痛いぐらいに食い込んでいる。全身の筋肉に力が漲り、膨張しているように感じた。汗で体はずぶ濡れだった。それだけではない。下半身がずぶ濡れだ。あまりの恐怖に、失禁していたのだ。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。そして力の限り叫んだ。

 

「実験を中断してください!異常が発生しています!お願いです!実験を中断してください!」

 

そう大声で叫び続けると、すぐさま女医さんが絶対零度の眼差しでボクを射抜き、実験の中断は許可されていないとボクの要請を却下した。くそ、埒が明かない。幻生先生に直接話を聞きたい!

 

「でしたら!とにかく幻生先生を呼んできてください!幻生先生を呼ぶか、実験についての詳しい説明がなければ、…オレは…オレは…!実験に協力する気はない!教えてください!今、他の被験者は…一体この実験で何をさせられているんですか?!説明してくれなきゃこれ以上は協力できない!」

 

再びオレが大声をあげると、今度こそ女医さんの態度に異変が生じた。眼光が鋭くなり、まるでオレに実験を覗き見する産業スパイを見るが如き視線を浴びせた。無線機で誰かと話をすると、端末を操作して、オレの拘束をより一層強めた。

 

感情の波に中てられたのか、それとも何かのタガが外れたのか、オレは今までに無い"怒り"に支配されていた。何の恐怖も感じなくなっていた。この時、恐いものなど何もなかった。

 

この実験で他の"置き去り"に何をしているのか。絶対に幻生に確認しなくてはならないと思った。

 

力の限り拘束に抗った。ミシミシとオレを拘束しているベルトが音を立てた。直後、金具のはち切れる音が響き渡った。

 

それを見ていた女医さんが息を呑んだ。目の前で起こったことが信じられない、という表情をして、一時、硬直していた。その後、慌てて無線機に連絡を入れる。

 

オレは頭部に装着されていたカプセルを外した。これで実験は一時中断される。後は、待っていれば幻生先生がやってくるはずだ。自分でヤツを探しに行くよりも、ここで待っていたほうが早いはずだ。

 

 

 

間もなくして、2人の守衛を引き連れた幻生がやってきた。

 

「おやおや。どうしたというのかね?景朗クン。そんな無理やりに拘束を引きちぎって、体は大丈夫なのかね?」

 

幻生先生はいつものひょうひょうとした態度を崩さなかった。今の状況は無線で前もって理解しているだろうに、わざと関係のないことを口にした。

 

「大丈夫です、幻生先生。実験を中断させてしまい、すみません。しかし、どうにも精神感応による意識の汚染が激しくて、これ以上は実験を続けられそうにありません。

 

せめて、この実験で、他の被験者に何をやっているのか、説明してもらえませんか?オレには、彼らの悲鳴が聞こえてくるんです。いったい彼らに、何をしているんですか?」

 

オレは幻生に声を荒げた。初めてのことだった。まったく気にも留めていないが。幻生先生は、オレの質問には答えず、普段と変わらない調子で会話を続けた。

 

「まったく。他の実験の熱気に中てられたようだね、景朗クン。いかんなあ。私との"契約"を今一度思い出してくれんかね?キミにはここでわざわざ確認し直す必要はないと思うのだが。

 

さあ、実験を続けようじゃないか。ここでキミに投げ出されると、少々面倒なことになるからね。それはキミだって望まないだろう?」

 

幻生の放った"契約"という言葉に、頭に上っていた血が一気に冷めていく。うちの園の皆の、嬉しそうな顔が浮かんだ。

 

"契約"の単語がもつ力は絶大で、先ほどまでの怒りはすっかりなりを潜めていた。どうにもこの人に逆らうのは不味いんだ、そう頭では理解していても、冷めた頭にあの時感じた断末魔が未だにこびり付いていて、口から疑問が飛び出すのを抑えきれなかった。

 

「お願いです!今、他のオレ以外の、被験者、能力者に、何をしているのか教えてください!」

 

それでも声を張り上げるオレに痺れを切らしたのか、幻生先生はようやくその質問に答え出す。

 

「景朗クン、あの"契約"では、予め、キミには少々危険な実験をさせるかもしれないと、キミの了承を得ることになっただろう。しかしそれは、キミ以外の人間に危険な実験を行わない、という意味ではないのだよ。ここで今実験を受けている彼らも、キミと同じようにその"少々危険な実験"を受けることに対して、承諾している者たちなのだ。彼らと同じように、私と"契約"を結んでいるキミが、そのことに対して、一体どう口を挟もうと?」

 

ああ。その時の、彼の言葉に、オレは抵抗の意思が消えていくのを感じていた。それでも、あの感情のうねり、死に瀕した彼らの想いが頭から離れず、口から言葉があふれ出すのを止められなかった。

 

「しかし、オレは…オレは…感じたんです!彼らが、死に怯えているのを、絶望して、恐怖と苦痛と、未練が……本当に、"少々危険"という程度で済まされるものなんですか?彼らは…大丈夫なんですか?それは違法なことではないんですか?」

 

自分でもわけのわからないことを言っているという自覚はあった。オレの言葉に呆れたようにため息をつき、幻生先生は、諭すように話しかけてくる。

 

「景朗クン。いいかね?実験が"危険"なものかどうか、それを判断するのは我々だ。キミがそれを判断すべきかね?キミにそれができるのかね?キミにその権限があるのかね?」

 

オレは、幻生の言葉になにも反論しなかった。

 

「……異論はないようだね。まぁ、キミが"パニック"に陥ったのも無理はない。初めての経験だったろうからね。私は心配していないよ。キミは良い子だ。さあ、後少し。実験を頑張ってくれたまえ。」

 

そう言って、幻生先生は、女医さんが新たに運び込まれた拘束帯を機械にセットし、オレをマシンに繋ぎ直したのを確認すると、満足げな表情を浮かべ、実験室を立ち去った。

 

 

 

 

それからのオレは、ただひたすら、今なお非道な実験を受け続けいるであろう、他の被験者のことを想った。流れてくる感情を受け止め、せめて彼らの苦痛がやわらぎますように、と能力を全開に酷使し、彼らの無事と安寧を祈り続けた。

 

飯もノドを通るわけがなく、オレは縮こまって必死に他の被験者の無事を願った。そんなオレの様子を女医さんは呆れたように見つめていたが、もはや彼らの視線などどうでもよかった。

 

 

頭の中で鳴り響く彼らの絶望は、四日目も同じように続いた。しかし、四日目の夜。時間が経つにつれて、意識に流入してくる感情の波が小さくなっていった。感情を発する人間の数が減少している。

 

夜更けごろには、4人、3人と減っていき数えられる程になっていた。

 

ふと、カチカチと音が鳴っているのに気づいた。何の音だろうか、と訝しむと、それが自分の歯が震えて鳴っている音だった。感情を発するのをやめた人たちは、無事に実験を終えたのか。"辛い実験が終わって安堵しているだけ"であってほしい。

 

とうとう最後の1人が消えた。しばらくして、実験は無事終了した。

 

 

ついに実験が終わった。拘束具と、体中につけられていた電極や針が外された。台座から降りて、女医さんの後ろについて行く。

 

疲れているはずなのに、体は元気だった。力が漲り、やたら軽く感じる。この実験期間の後半から、なぜかそんなカンジだった。目も耳も鼻も敏感になったように感じる。女医さんの付けている香水が不意に気に障った。

 

その時ふと、思いついた。暴れた三日目は、拘束が解かれて自由に動ける状態になったオレに対して、常に守衛が着けられていた。だが、四日目以降の完全に大人しくなったオレには、誰も監視に着いてはいない。

 

今なら、誰もかもを振り切って、他の実験室の様子をこの目で確かめることができるかもしれない。まだ実験が終わって一時間も経っていない。

 

 

目の前を歩く女医さんを注視した。その後ろ姿から、完全に油断していると判断する。周りを見渡すと、皆実験の後かたずけや他の作業に没頭していた。

 

今ならいける。体がやけに軽い。五感すべてがクリアだった。バクバク心臓が鳴る。緊張しちゃだめだ、落ち着こう。落ち着け…落ち着け…。

能力を使い、心を落ち着かせた。ほんの刹那の時間で、心臓の鼓動は治まり、オレは緊張から解放された。今ならなんでもやれる気がする。

 

女医さんが曲がり角を曲がったその瞬間、オレは一瞬で靴を脱ぎ、反対方向へと逆走し、実験室のある方角へ走り出した。

 

 

 

そして気づけば、想像以上の、とてつもないスピードで走っていた。

 

 

 

なんだ、コレは。疾すぎる。自分自身に驚愕する。ただひたすらに疾い。今までこんなに疾く走ったことなどない。

 

オレは、到底小学生には出しえない速度、それすら超えて、まるで世界陸上の短距離選手のように一瞬で加速し、それ以上のスピードで、人をかきわけ、血の匂いのする奥の研究室へと疾駆していた。

 

体が軽すぎる。オレの体にいったい何が起こったんだろう。今までにない、ほとんど別人の体を動かすような感覚に、パニックに陥りそうになる。

ダメだ。今は目標に集中しよう。チャンスは一度だけ。そう思って、他の被験者の実験があった部屋にたどりつく、そのことだけに集中した。

 

その途端、その一瞬の刹那で、別人の体を動かすような違和感が消え、完全に自分の体として動かす感覚を手に入れた。

 

 

後ろから制止の怒鳴り声がしてきた。時間が無い。ドアの付近にいた研究員を押しのけ、血の匂いの充満する部屋に突っ込んだ。転がり出て、部屋を見渡した。

 

 

 

見覚えのある実験機。体を倒して横になれるシート。頭部がもたれかかるその位置に、大量の血痕が残っていた。

 

 

床にも多量の血液が飛び散っていた。やはりそうだったんだ。危険な実験どころではない。これは死んでいても可笑しくない血の量なんじゃないのか。それなら…やっぱり……あの断末魔は…今際の際の……

 

そこまで考えて、後ろから衝撃を感じた。バチバチと飛び散る火花と刺激。一瞬、体が浮かぶ感じがしたが、すぐに持ち直した。

 

くるりと振り向くと、守衛さんがテーザーを構えながらも、動揺した表情を浮かべ、後ずさった。オレが気絶しなかったのに納得がいかないらしい。なんとなく、直感でだけど、そんなもん効くかよ、と思った。

 

ここで争ってなんになるんだ。と、抵抗する気は無いとすぐさま両手を挙げ、何もしないと喋りかけた。守衛さんは気味が悪そうに顔を歪めると、オレに手錠をかけ、無線で連絡を取り合うと、手錠をかけたままのオレを仮眠室へと押し込んだ。

 

ベッドに横になる。手錠がじゃまだが仕方ない。落ち着いて、天井を眺めた。その時気がつく。足の筋肉が痛い。痛いぞ。それもそうか。さっきあんだけのスピードで走ったんだ。筋肉を痛めてしまったんだろう。足の痛みに辟易する。が、しばらくすると痛くなくなった。

 

疲れてはいないが、もう寝たい。今日は散々だった。

 

 

 

 

次の日。五日目。"プロデュース"最後の日。朝の目覚めは気持ちの良いものだった。昨日はあれだけのことがあって、相当疲れていたのに、どうしたことやら。

現金なもので、体はピンピンしていて、空腹を我慢するのが大変だった。

 

 

ベッドに寝転がって、昨日のことを考えていると、外から施錠してあったドアが開いた。守衛を引き連れた幻生先生のご登場だ。

 

「おはようございます。」

 

とりあえずオレは挨拶してみた。幻生先生も普段と変わらない様子で挨拶を返してくれた。

 

「あぁ、おはよう、景朗クン。昨日は実験が終わった後に、脱走しかけたそうじゃないか。まぁ、未遂で終わらせたようで、そのことはもう結構だよ。」

 

「すみません。先生。どうしても気になったもので…。昨日は、一日中変な声を聞いていたせいか、気が動転していました。」

 

「構わんよ。一昨日もいったが、無理もない話だ。キミが動揺するのもわかる。…そうだな、これから、キミに協力してもらう実験は、今回のように危険度の高いものはやめにしよう。

 

前にも言ったが、我々はキミの能力のもつポテンシャルに大変期待している。これ以上キミの機嫌を損ねるのは御免だからね。どうかな?これからも我々の実験に協力してくれんかね?」

 

正直なところ、断りたくて仕方がなかった。だが、ようやくうちの園の雰囲気が、よい方向に変わってきた所だったのだ。嬉しそうにはしゃいでいたチビどものや、最近はほとんどため息を吐かなくなったクレア先生のことを考える。また、昔のように…。

 

幻生先生は、これからは、今回のような危ない実験はやらせないと言っている。次こそ…次こそ。次こそ、幻生先生たちが、危険な実験をするようだったら、その時は必ず、この"契約"を放棄しよう。

 

愚かなオレは、この時今一度、幻生先生の言葉を信じてしまった。

 

「…わかりました、先生。ホントのところは…オレは、今回のような危険な実験にはもう参加したくありません。ですから、先生がそのように実験を配慮してくれるのなら…これからもどうか、よろしくお願いします。」

 

オレの返事に気を良くした先生は、喜びを露わにすると、一緒に朝食をとろうと言ってくれた。一昨日からロクに物を食べていなかったオレはいい加減、お腹がペコペコだったのでこれ幸いとご一緒させてもらった。

 

 

 

朝食の席で、幻生先生は昨日のオレの、身体能力の飛躍的な上昇についてしきりに興味を示していた

 

「身体能力の飛躍的な上昇…。その現象は、キミの能力を鑑みるに、能力で脳内麻薬を制御し、筋肉のリミッターを外して、意図的に火事場の馬鹿力を引き出しているのか…それとも、脳細胞や神経、筋肉の細胞自体を作り変えたのか、はたまた両方か。

 

詳しいことは調査してみなければわからんが、今までできなかったことができるようになったということは、キミの能力の強度(レベル)が上がったとみて間違いないだろう。だとすれば、これからの実験でより成果を上げやすくなったということだ。大変喜ばしい。」

 

幻生先生はそう言うと、徐に懐からいつぞやのテーザーを取り出した。あ、やっぱり持ってたんですね。オレに会いに来るんだから、準備してたんだろうね。

 

彼はふたたび、電圧の出力を下げ、腕に電流を流した。そのあと、前と同じように痛みを無くしてほしいと頼んできた。

 

レベルが上がったのだとしたら、他人の痛みをもっと大幅に操作できるようになっているかもしれない。気になったオレは、能力を使用して先生の痛みを無くすように念じてみた。

すると、先生は目を見開き、痛みを全く感じないとオレに伝えたのだった。

 

どうやら、レベルが上がったのは間違いないらしい。この五日間で、最悪な経験を積んだものの、まったくの無駄というわけではなかったようだ。

 

ともすれば、すぐに陰鬱な気分になってしまいそうな状況のオレだったが、今までずっと気乗りしなかった身体検査(システムスキャン)、その次回の結果のことを考えると、なんだか少しだけ幸先が良くなった気がした。

 

 

 

 

午前中に最終確認のための軽い検査を受けると、いよいよ実験は完全に終了となった。昼前に病院を出たオレは、さて、今日一日自由な時間を得て、どうしたものかと考えた。何時ぞやの法螺吹きみたいに、ゲームセンターに行くか、学校の見学に行くか。そう考える者の、あまり乗り気がしなかった。

 

なんとなく、うちに帰りたいと思った。クレア先生に会いたい。園のみんなに会いたい。考えだすと、だんだん元気が湧いてきた。今日はもう帰ろう。たった五日帰っていないだけなのに、やたらと聖マリア園が恋しい。

 

 

 

 

第十二学区に着く頃には、低学年の子供たちが下校する姿をちらほらと目撃するようになっていた。第十二学区に入った途端、十字教系の修道服や、回教系の方々だろうか、ヒジャブやニカーブというらしい顔をすっぽり覆うスカーフを被った女性たちの姿が目立つようになった。

 

街並みも今までとは違い、モダンで近未来的な装いから、世界各国の宗教をごた混ぜにしたような、まるで統一感の無い並びになってしまっている。一つ一つの建築物自体は、そこそこシックな出で立ちであり、その点も際立ってユニークな印象を受ける。

 

全体的にはツギハギだらけの様相を呈しているのに、意外と整然な印象も受けるから、宗教の持つ静謐なイメージも馬鹿にならないのかな。

 

 

駅から出ると、一気に冷えた空気が体を包んだ。後少しで三月。だいぶ暖かくなってきたけど、まだまだ寒い。この寒さの中、より道する元気はないかな。

 

まっすぐに聖マリア園へと向かっていると、途中で友達と別れる花華の姿を目にした。近寄って、後ろから声を掛ける。

 

「おーい。オレがいない間、うちでなんか面白いことあったりした?」

 

「あ。かげにぃー。病気だいじょーぶだったのー?」

 

オレの声に気づいた花華は、走り寄ってきて、オレのすぐ横に並んで歩きだした。

 

「とくになんもなかったよぉー。かげにいがいない間、かすみねえが毎日料理作ってくれて嬉しかったぁー。」

 

なんだと。それは勿体無いことをしてしまった。例の経済的支援の影響により、最近うちの園の料理のラインナップは、見るからにクオリティがアップしていた。

 

特に火澄は、精力的にレパートリーの拡大に努めているようで、この五日間にオレのまだ食さぬメニューが提供された可能性があった。

 

「なにぃ~?チクショー、花華、オレが居なかった間の晩飯のメニューを全部教えてくれ!」

 

「えぇ~。そんなのおぼえてないよぉー。病院にお泊りする前に教えてくれればよかったのにぃー。」

 

「じゃぁ、肉だ、ニク。この五日間で提供された肉料理の情報だけでも、オレに伝達するのだ。」

 

「あはは。ニクゥー!ニクねぇ~。んー…と、ねぇ~…」

 

花華はまだガキだからな。オレの言った"ニク"の発音で面白がっていた。結局、コイツが覚えていたメニューは、つい前日に食べたものだけであり、他は綺麗さっぱり忘れていた。

 

料理の情報はなにも得られなかった。ちなみに、その前日のメニューは天ぷらだったそうだ。天ぷらかぁ、惜しいことしたなぁ。

 

 

 

我らが園に帰ってきた。玄関越しに、ちょうど掃除をしていたらしいクレア先生の後ろ姿が見える。ウェーブしたふわふわの茶髪が、棚を掃除する体の動きとともにゆらゆらとゆれていた。その姿を見ているだけで、みるみる心が落ち着いていった。

 

気がつけば、痺れを切らした花華に手を引かれ、玄関に引っ張りこまれていた。ドアの真ん前で、ぼうっと突っ立って、ただひたすらクレア先生の姿を眺めていたらしい。

 

「どしたのぉー?かげにい。…かげにいぃー…もしかして…クレア先生が好きなのぉ~?」

 

ちょ、おい。うるせえな。クレア先生に聞こえるだろ。慌てて花華の口を押さえた。いや、そりゃ好きさ。一番一緒にいて安心する人なのかもしれない。

 

昨日一昨日の出来事で、体の芯にこびり付いてしまっていた、冷たく堅い緊張が、融けて消えていくのを感じていた。オレは心のどこかでこの人を、一番頼りにしていたのかもしれないな、と思った。

 

「ただいま帰りました。クレア先生。オレがいない間、なにか変なことありませんでした?」

 

クレア先生はオレに気づくと、小走りに近寄ってきて、オレの手を両手でしっかり包み込むと、不安そうな表情で病院の検査結果を尋ねてきた。

 

「かげろう君、検査の結果はどうだったの?何か悪い病気でもみつかったの?なんだかいつもより元気ないから、心配です。」

 

「大丈夫でした、先生。何も心配することはありませんでした。お医者さんの勘違いで、検査の結果は完全に白でした。今は逆に検査のせいで疲れがたまってますが、体はピンピンしてますよ。」

 

オレの言葉を聞いた先生はほっとしたようで、安堵の表情を浮かべていた。

かげろう君の体に異常がなくてよかった、今日は頑張って先生がお料理つくっちゃおうかしら、などと犯人は意味不明な供述をしており………すまない。

もとい、"今日は頑張って先生がお料理つくっちゃおうかしら"などと、のたまい始めたのだ。

 

まずい。まずいぞ。やっとあの地獄から帰って来られたのに。帰って早々これはないだろう。だがしかし、火澄のいない今、オレが動かなければ、誰が結末を変えられるというのだろうか。

 

「先生、それなら火澄が帰ってきてから、一緒に買い出しに出かけたらいいんじゃないでしょうか?……おおっと、すみません。せっかく掃除していたのに、邪魔してしまって。とにかく、オレは大丈夫です、お掃除頑張ってください。」

 

「あら、いいのよ。ちょうど終わりかけだったから。ん~、そうね。火澄ちゃんが帰ってきてから、そうしようかしら。」

 

あ、ダメだわ。ごめん火澄。ムリだった。あとは頼む…。

 

 

 

 

 

その日の夕飯が危ぶまれたが、なんとか危機を乗り越え、普段通りのおいしいパスタが振る舞われた。火澄さまさまで、麺のゆで加減もこの上なく素晴らしかった。

 

どうやら結局、また火澄が先生を上手にいなし、興味の矛先を料理から逸らしてくれたようだった。しかしすごいなぁ、火澄。毎度毎度どうやってるんだろ。見当もつかない。

ご心配無く。さきほど料理の配膳を無理矢理彼女に手伝わされ、その時に、先生の対応を押し付けた責任をきっちり追及されました。

 

幸運なことに、彼女もオレの容態が心配だったらしく、体が異常なく健康だったこと、今回のクレア先生の件は本当にいつものうっかりミスではなく、避けようのない宿命だったことを素直に伝えると、珍しくお説教を一度で切り上げてくれた。

 

 

火澄の機嫌を取る必要があったオレは、自ら率先して晩飯の後片付けに協力した。クレア先生と同じく、体調に問題が無い割に元気がないことを疑問に思われた。

 

五日間もずっと病院で検査を受け続けるハメになれば、誰だって元気がなくなるだろうよ、と先ほどと同様に先生に使った言い訳を返したが、それでも疑ってきた。

彼女曰く、オレの醸し出す雰囲気が、前とは打って変わりピリピリしたものに変化しているそうである。冷や汗が出た。当たらずとも遠からずな気がする。

 

「ど、どうしてそんな風に思うんだよ。だいたい、ピリピリした雰囲気って言うけど、一体今までと何が違うんだって話さ。そんな小さな変化を感じ取れるほど、普段からオレのことを観察してたのかよ?」

 

「なッ。ち、ちがうわよッ。今まで一緒に居たから、なんとなく分かっただけよッ。…ホントに、病院で何もなかったの?ホントは…ホントは何か深刻な病気にかかってたりしてないよね?隠してたりしてないよね?」

 

ここまで火澄が心配してくれるの、最近はめっきりなかったな。不安そうな表情でこっちをチラチラ覗き見る彼女に対して、心が暖かくなるような親愛の情と、心臓がドキドキするような、気恥かしさのような、そんな甘酸っぱい想いが浮かんでくる。でも、正直に話すわけにはいかない。罪悪感を踏みしめ、ウソを吐いてごまかすしかなかった。

 

「ふい~。そんなわけあるかよ。いっとくけど、本当に体には何の異常もなかったからな。雰囲気変わったって言われても…そんなの、自分じゃまったくわからないよ。」

 

「……クレア先生にもそう言ったの?」

 

「もちろん。ホントに大丈夫だよ。医者の勘違いだったんだ。五日間も検査させられて、オレもびっくりしたけど、逆にそれだけ長い間みっちり検査した上で、健康ですよってわかったんだ。だからオレは今、安心してるけど。」

 

「…そっか。わかった。…なによ、じゃあ、心配して損したカンジだわ。」

 

彼女の様子は、オレの言葉に納得いっていないように見えた。しかし、それを皮切りに再び追及してくることはなかった。彼女もなんとなく、感であてずっぽうに指摘したのだろうと思いつつも、オレ自身は、雰囲気の変化を昔からの自分を知る2人に立て続けに指摘されて、肝が冷える思いだった。

 

オレがこの五日間で経験したような、危険な、薄暗い実験に協力していたこと、そのことだけは、彼女たちに知られたくなかった。

 

 

 

 

 

3月。新学期まで残すところ僅かひと月となった。小学生も来年で終わりかと思うと、すこし切ない気持ちになる。火澄は間違いなくオレとは違う学校に進学するだろう。今までずっと同じ学校に通ったけれど、それもあと一年で終わりだ。

まあ、中学卒業まではきっとここに留まるだろうから、そこまで気にする必要もないか。

 

この間の"プロデュース"の一件は、確かにオレの肉体と精神を変化させた。学期末の身体検査(システムスキャン)で、なんと強能力(レベル3)の判定を叩き出した。

一度の判定で強度が2段階上昇する。それ自体は珍しい話ではない。ただ、オレの悪口を言っていた奴らが一斉に絡んでこなくなったのが笑いを誘った。

 

まず一つ、身体能力が飛躍的に上昇した。いつの間にか五感が研ぎ澄まされていて、毎日通っていた通学路一つとってみても、以前とは違う印象を受けるようになった。

道を歩いているその時に、目や耳や鼻がとらえ、伝えてくる情報量が一気に増加した。

 

次に、純粋な運動能力の向上。筋肉の肥大、筋肉の質の向上、伝達神経などの発達。

正直なところ、その辺の大人にだって何一つ負ける気がしなくなった。

 

最後に、肉体を操る技量、いわばオペレーティングシステムの向上、だろうか。俗に言われる、"火事場の馬鹿力"。それ以上にの肉体の限界を超え酷使させる使い方ができるようになったらしい。

能力により、そもそもの扱う肉体が強固になり、その上細胞の再生能力が段違いに上昇している。そのため、一般的な人間の尺度を超えた運動ができるようになっている。

 

肉体的な話ではなく、精神的な変化についても、言及すべきことがある。あの"地獄"。彼らの断末魔を聞いたその時から、どうやらオレの性格は変わってしまったらしい。

 

"自分の性格が変わったらしい"とは、奇妙な表現だが。あの一件以来、オレは自分の感情を"完全"に支配できるようになった。人間誰しも、感情の抑制を行うことはできる。だが、その感情の"発露"や完全な"制御"を行うことは難しい。

だが、オレはどんなに恐怖すべき場面でも、その気になれば恐怖をコントロールし、完全に消し去ることが可能だ。もちろん、怒りや悲しみも。

 

これについては、火澄に言われるまで自覚症状がなかった。気づけば、オレはどんな状況においても、常に変わらない精神状態で対応するようになっていた。

それは、どんな状況に差し迫っても、常にクールな思考を忘れない、なんていう都合のよいものではなかった。

 

まるで獣になった気分だった。だって、そうだろう?ある状況に出くわした場合、動物はその身に宿る"本能"で応答する。

今のオレの状態は、獣でいう"本能"が、脳に染み付いた"合理的な思考"や"ロジック"に置き換わっただけだ。

普通の人間は、人それぞれ、時と場合、その時の状態によって感じ方や考え方が異なったものになる。それが当たり前だ。

 

今では。自身の感情の自然な"発露"を、一生懸命"阻害"しないように。普段から心がけねばならない。またまた不便な話だ。

 

最後にもう一つ。

オレの能力はこれまでそのほとんどを、自分自身を対象とし、自らの変化を促すものだった。

しかし、能力がレベル3の強度に達したためか。まったく新しい使い方ができるようになった。

 

それは、接触した相手が受容する、感情や刺激を支配(コントロール)する力である。

良い使い方をすれば、パニックに陥った人間を一瞬で落ち着かせ、怪我をした者の感じる痛みを刹那のうちに消失させられる。

攻撃的な使い方をすれば、先ほどとは逆に、相手を混乱させ、その痛みを増幅させる。ただしこの力は、幻生先生曰く、対象の持つAIM拡散力場の干渉を受け、発動が阻害される可能性があるらしい。

要するに、高位の能力者には通用しない可能性があるということだ。

 

 

 

 

最近、クレア先生は学園都市中を飛び回り、劣悪な環境に置かれている"置き去り"の情報を探し回っていた。

これまでも、悲惨な状況下に置かれている子供たちを見つけ出して、うちに受け入れてきた。クレア先生の学園都市の不正を嗅ぎ分ける能力は確かであり、そうやって連れてこられた子供たちは、みな見るからに精神に病を患っている子がほとんどだった。

 

今でこそ明るてのんびりとしている花華も、そうやってクレア先生に救われた子供の一人だ。うちにやってきた当初も、周りの人間すべてに脅え、縮こまり、遠慮するばかりで見ていられなかった。

クレア先生と、うちの園のゆるゆるな雰囲気が、花華の恐れを融かす助けになったようで、今では彼女はすっかり元気である。

 

ここ数年は、以前にもまして経営状態が悪かったらしく、新しく子供を連れてこなかった。しかし、現在のうちの園の景気は過去とは比べ物にならないほど好転している。きっと、危機に曝されている子供たちをまた見つけだし連れてくるつもりなのだろう。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。