とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

21 / 55
episode19:窒素装甲(オフェンスアーマー)

 

 

 

 影も形も見えぬ襲撃者に気を張り巡らせつつ、ブラックフライ一同は樋口製薬支社ビルの下層へと到達していた。万が一、"バタフライ"が口にした"奴等"と遭遇すれば、状況からして戦闘は避けられない。都合の悪いことに、相手の情報は微塵も持ち合わせていない。

 

 ただひとつだけ判断できるのは、襲撃者達が恐るべき手練であることくらいだった。彼らはごく少数で、この巨大なビルを制圧したのだ。ブラックフライのメンバーは、そこいらのゴロツキよりはるかに肝の据わったメンツではあった。だが、誰ひとりとして正面切っての戦闘を望んではいなかった。

 

 修羅場を経験した場数には、それなりに自信があった。銃撃戦では怖いもの知らずであったし、それで何人も殺している。けれども、思い上がっていたのかもしれない。赤髪の少年は、在りし日の路地裏とはかけ離れた、ほのかに死の香る空気を胸に吸い込んだ。

 

 歪な静けさの中、言いようのない焦燥と恐れを感じ取る"ファイアフライ"は、"ギャッドフライ"の能力に手を合わさずにはいられなかった。どれほど心を奮い立たせようとも、臆した彼の靴裏はぎこちなく床と衝突した。緊張が身体を硬直させている。そのような有様だったが、いくら雑に踏み出そうとも足音はほとんど立たなかった。同僚の能力なくしては盛大に雑音を響かせていただろう。

 

 先行する"ギャッドフライ"は常に冷静であった。可能な限り、接敵しないように丁寧に索敵しつつも、大胆に移動した。その動きには徹底した合理性があった。単に"場慣れ"しただけで、かような動作が身につくとは思えない。彼の出自にはただならぬものがあるにちがいない。赤髪は頼りになる仲間の背を見つめ、俄かに出現した小さな猜疑心を押さえ込んだ。

 

 そして、唐突に気づく。出自の気になるもうひとりのメンバー。腹から爆弾を作り出した巨漢のことを思い浮かべ、振り向いたその時。危うく声を上げそうになる。最後尾にいるはずのモヒカン男が見つからない。いつのまにか姿を消していた。"ファイアフライ"は小さく、掠れた声を精一杯に張り上げる。

 

「クソッ。デブちゃんが居なくなってんぞッ」

 

 3人とも、物陰に潜む敵対者ばかりに意識を向けていた。加えて、"ギャッドフライ"が皆の足音を極限まで小さく抑えていたことも裏目に出たのだろう。誰もが、巨漢の消失を察知できていなかった。"グリーンフライ"は予想外の事態に困惑を隠せずにいる。

 

「どこではぐれたんだよう。かっぱらったブツの半分はアイツがもってんだぞう」

 

 ありありと表情に苛ちを顕にした2人は、巨漢の消失にも顔色を変えない"ギャッドフライ"へと意見を求めた。両名ともに、金銭に執着するその金髪の男は、"シャッドフライ"を捜索する、と言い出すはずだと覚悟を決めつつあった。しかし、意外にもその期待は裏切られた。

 

「シャッドフライは諦める。今は脱出することに全霊を注げ。気を抜くな。暗部の非正規部隊なんぞに補足されれば、後はない」

 

 3人は素早く意見を合致させた。迷いなく、ビルから脱出せんと動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "バタフライ"が口にした通りに、そのビルの中層には数多くの実験室が設置されていた。絹旗最愛はフレンダからの連絡を手がかりに、先んじて謎の侵入者の影を捉えていた。

 

 彼女からの、『研究室の薬品が荒らされている』との報告から、ある程度侵入者の狙いに目処が立つ。金銭目当てか、産業スパイの類か。手がかりは少ない。まずは単純に、火事場泥棒に来た輩であるのかも知れないと推察したのだ。それでも、一体どうやって彼女たち"アイテム"の行動を把握したのか疑問が残るが。

 

 絹旗の予想通りに、研究室の一室に身を潜めた巨体を発見する。その男は不可解な出で立ちだった。その男の体中に、ねばつく謎のジェルがこびりついている。僅かな薄明かりでも、はっきりとその瑞々しい光沢が確認できた。

 

(滝壺の予想が超的中しましたね。呑気に背後を晒して、研究データの盗み取りですか。金庫室へ向かったフレンダにも超連絡を入れてあげたいところですが……)

 

 絹旗はとうの昔に、"窒素装甲(オフェンスアーマー)"を展開させていた。窒素でコーティングされたブーツ裏は、極めて柔らかい窒素の層を纏っている。大能力者(レベル4)である彼女にはその層を、その気になれば大口径のライフル弾すら縫い止める驚異の硬度まで圧縮させられたのだが。彼女はあえて、能力を抑え、応用した。当然、接地面からは無音の、軽やかな空気の流れが生じるだけである。

 

 

 無防備に背中を曝け出し、画面に夢中となっているその巨漢へと、絹旗はしのび寄る。滝壺は離れたところに避難させている。敵の反撃を恐れての判断である。それに加えて、絹旗は自身の戦闘能力にも自信があった。相手を無力化させた後で、滝壺の"能力追跡(AIMストーカー)"に対象の能力を記憶させるつもりである。もし、相手が能力者であった場合は。

 

 影のように、男へと気取られずに近づいていく絹旗だったが、その目論見はあっさりと失敗に終わる。その部屋の薄暗さが災いした。床に、男から放射状に広がるように、うっすらと存在不明の液体が張っていた。絹旗はそれに気づけず、見逃した。羽のように空気を広げて床に接地させていたが、にもかかわらず。僅かな圧力に反応し、その液体は過敏に発火した。極めて不安定な物質だったのだ。

 

 巨漢はギョッとした様子で、隙無く振り返った。全身から警戒を滲ませている。

 

「ちッ。超ぬかりました!」

 

 そのモヒカンの男は、慌てて無理矢理にコンピュータからフラッシュメモリを抜き取った。その動作を視界に映す前に、既に絹旗は男目掛けて飛びかかっていた。"シャッドフライ"は大いに肝を冷やしたことだろう。ギリギリで前に飛び退り、なんとか絹旗の突撃を回避していた男は。眼前で、ひしゃげた計器から盛大に飛び散る火花を目撃した。小柄な少女が放った、たった一発のパンチで、頑丈な機械はまるで大型トラックがぶつかったように変形している。

 

(雑魚の割には、いい動きですね……ッ)

 

 目の前で起こった現象によほど動揺したのだろう。尻餅をついたまま、男はしばし呆然と静止した。絹旗は舌打ち混じりにコンピュータに刺さった腕を引き抜く。その仕草に、男はようやく反応した。勢いよく立ち上がるのと同時に、盛大に息を吸う。

 

 少女が飛び込む瞬間を狙い、男は口から煙幕を吐き出した。絹旗の突き出した腕が空を切った。再び壁面に突き刺さる。素早く部屋中に視線をはりめぐらせるも、有色のガスが満ち満ちた空間からは男の姿を捉えることができなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絹旗は窓ガラスを突き破り、ガスの充満した部屋から脱出した。それでも、彼女には何事もなく無傷である。能力で形成された窒素の装甲は、機械やガラスの破片、ガスから彼女の身を完璧に守り通した。

 

「滝壺!無事ですか!?すみません。超逃がしました!」

 

「私は大丈夫。きぬはた。安心して。対象のAIM拡散力場も記録できてる」

 

 急ぎ滝壺と合流した絹旗は、仲間の安否を確認して胸をなで下ろした。

 

「対象は、下層へ向けて逃走中。速い」

 

 滝壺の言葉を耳に、絹旗は苦々しい顔付きを見せつつも、手早く"アイテム"のリーダー、麦野沈利へと通信を入れた。

 

「麦野。すみません。1人逃がしました。麦野の予想通り、地下へと逃走中です」

 

 絹旗の恐れを余所に、麦野からの反応は穏和なものだった。

 

『そっちは1人か。こっちはたった今3匹見つけたところよ。下へ逃走、か。どう考えても侵入経路は地下みたいだね。いいわ、逃したヤツは放っときなさい。アンタ達は真っ直ぐこっちへ降りてきて。今、"近道"作ったげるから。滝壺。位置は大丈夫?』

 

「大丈夫。問題ない。むぎの」

 

 滝壺の返答のすぐ後に。彼女たち2人の視界に、空へと突き抜ける、圧倒的な閃光が迸った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慎重に慎重を重ね、ブラックフライの3名は地下の広々とした駐車場へとたどり着いた。このスペースの真下が、彼らの侵入口のある下水処理施設となる。即ち、ゴールは目と鼻の先だ。

 

 彼らの目に映るのは、大きな金属扉。その向こう側が駐車場だ。見覚えのある扉に、"ファイアフライ"は喜び、一息に下水処理施設まで駆け抜けてしまいたい衝動にかられた。しかし、それは束の間の喜びとなった。"ギャッドフライ"と"グリーンフライ"は彼とは真逆に、少しも嬉しそうではなかったからだ。重々しく、金髪の男が呟いた。

 

「今まで随分と静か過ぎた。都合が良すぎる。唯の幸運で済めばいいが。そうでなければ。……そろそろ仕掛けられる頃合だろう。覚悟はいいな?」

 

「ああ。……先頭はアンタでいいのかよ?」

 

 "ファイアフライ"はしかと頷き返す。彼に追従するように、"グリーンフライ"も肯定の意を返しつつ、最後の確認を投げかけた。

 

「ヘマでもされたら耐えられないからな。俺が行く。姿勢を低くしろ。絶対に立つな」

 

 "ギャッドフライ"はそれまでの行軍で見せてきた繊細な動きにより輪をかけて、息を殺し扉を抜けていく。駐車場に点在する車両の陰を縫うように、丁重に歩を進めていった。

 

 彼は車両を背に、彼の位置とは反対の方向へと指でサインを送った。"グリーンフライ"は銃器をしっかりと腹部に固定すると、床に手足をつけた。四つん這いのまま、音もなく近くの車の下へと滑るように向かっていく。

 

 "ギャッドフライ"が、"ファイアフライ"へとハンドサインを指示した。先行した2人よりも、より奥の車両へと指が刺されている。"ファイアフライ"は緊張に負けじと、中腰のまま車の隙間を駆け出した。

 

 一目見た限りでは、敵の姿は何処にも存在していない。遠目に見えた、下水処理施設の入口に付けたビーコンにも、反応は無し。敵は近辺に居ない。思わず、"ファイアフライ"は"ギャッドフライ"が示した場所から、ほんのわずかに奥まった車両へと移動した。

 

 いや。移動しようと試みて、最後の車両間を跨ごうとした瞬間だった。

 

 "ファイアフライ"は朧げに光と熱を知覚した。そして。その次の瞬間には、地面が目前に迫っていた。不覚を取った。緊張で転倒してしまったのか。床に手をついて、衝撃を和らげる。まずい。体が思いっきり車両の陰からはみ出ている。これでは、自分の姿が丸見えではないか。周囲の空気が一気に、チリチリと熱を帯びている気がする。

 

 ようやく、"ファイアフライ"は不自然さに気づいた。慌てて立ち上がろうとして、失敗した。当惑した表情に亀裂が入る。彼の、その左足の膝から下が無くなっていた。遅れて。体中から、熱気が沸き立つ。

 

 

 

「……つッ…………はああ?お、あ、――――ッ痛ぇええええええエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!なんだ?なんだッ?どうして足、あしぃ――ぁぁぁいてえよおおおおおおおおおおおおお」

 

 彼が影を晒した刹那の間に、音も無く、稲光の如く閃光が煌めいた。火線は"ファイアフライ"の身体と交差していた。最後の爪が甘かった。気をはやらせ、軽率に距離を詰めた赤髪の、その左足は消滅した。文字通り、灼熱の閃光に瞬く間に燃やし尽くされていた。

 

 目尻に涙を浮かべて、"ファイアフライ"はぶすぶすと肉の焦げる音を生じさせている、自身の左膝の、その断面に手を這わせた。じゅわり、と被せた彼の手は火傷し、火脹れと炭の欠片が所狭しと付着した。彼の炭化した左ひざの肉片の、炭の欠片だった。所々赤黒く、血が混じっている。だが。幸いにも、血管まで焼けていたために、出血は微々たるものだった。代わりに、骨と神経を焦がす苦痛が、"ファイアフライ"の正常な思考を著しく侵食していく。

 

「あづううううううううううういいいぃぃぃ……いてえよお……いてえよぉぉおぉぉぉ……いてええよぉぉぉぉぉぉっあしっ足がぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 

 

 

 

 

 泣き喚く"ファイアフライ"などお構いなしに。彼の頭上では、"ギャッドフライ"の投擲した閃光手榴弾と、謎の閃光の柱が直ちに交差した。称賛すべき状況判断速度のもと、"ファイアフライ"の転倒と同時に瞬時に閃光手榴弾を放っていた"ギャッドフライ"は、先程通り抜けてきた扉へと躰を飛び跳ねさせていた。彼は、即座に仲間を見捨てたのだ。

 

 閃光の柱は糠に釘を打つように、"ギャッドフライ"の身を隠していた車を貫通した。彼が背をつけていた、寸分違わぬ位置に、大穴が空く。彼は殺傷される寸前であった。閃光手榴弾の裂光に紛れ、"ギャッドフライ"は辛うじてその閃光を躱すと。その回避運動と一緒くたに、駐車場の外へ出る扉を潜っていた。

 

 直ちに追撃の閃光がいくつもいくつも放たれ、頑丈な金属製の扉は蓮根の輪切りのように穴だらけになった。しかし、彼は逃走に成功していたようだ。それ以上は、何の音沙汰もなかった。

 

 "グリーンフライ"は眩しい光景の下、辛うじて、身を隠す位置を別の場所に移せていた。それだけが、あの瞬間に唯一彼にできたことだった。馬鹿げた火力を誇る閃光の持ち主が、狙いを変えた。直後、彼が先程隠れていた車が発光し、爆発した。

 

 

 

 

 

 "ファイアフライ"の悲痛なすすり泣きだけが、駐車場内をこだまする。永遠に続くかと思われた、その緊迫とした空気は。若い女の声で、あっという間に幕を閉じた。

 

「フレンダ。悪い。そっちに1人行ったわ。……うん。そうそう。生け捕りよ、生け捕り」

 

 

 位置を悟られないように、"グリーンフライ"は努めて息を潜め続ける。錯乱する"ファイアフライ"は、恐らくは閃光を放った女の口にした"生け捕り"という単語に一縷の希望を見出した。

 

「あ、あんたぁっ!勘違いしてるゥッ!オレたちは敵じゃない!敵じゃないんだぁぁっ!殺さないでくれよぉ、ぜんぶ、ぜんぶ話すぅッてッ!そしたらきっとわかるっ"ベルゼブブ"が裏にいるんだぁっ!俺たちはきっと裏で繋がってるんだぁってぇぇえ!」

 

 雇い主の名を躊躇いもなく口にする"ファイアフライ"を前にして、"グリーンフライ"は恐る恐る拳銃に手をかける。前触れ無く、敵対者の足音が反響した。彼は再び、一切の動作を停止させねばならなくなった。

 

 

「はぁ?何言ってるんだか、コイツ」

 

 無防備なことに、陰から1人の、大人びた少女が現れた。柔らかな栗色の髪を靡かせ、美しく整った相貌を持つ少女だった。しかし、表情を嗜虐的に歪ませる、その仕草は板についている。己以外の全てを見下すような、侮蔑の含まれた視線と相まって、見る者によっては彼女に冷たい印象を思い描くだろう。慄き苦しむ赤髪の少年は、少女の接近に顔色を蒼白に引きつらせた。

 

 周囲を油断なく見渡していた栗毛の少女へ、再び仲間から入電があった。ややして、何時何度、銃弾が飛び交うかわからぬその状況下で、少女は口元を面映そうに歪ませる。

 

「そっちは1人か。こっちはたった今3匹見つけたところよ。下へ逃走、か。どう考えても侵入経路は地下みたいだね。いいわ、逃したヤツは放っときなさい。アンタ達は真っ直ぐこっちへ降りてきて。今、"近道"作ったげるから。滝壺。位置は大丈夫?」

 

 その場に居たブラックフライの2名は、その後、自身の目を疑った。閃光を繰り出していた人間は、やはり栗毛の少女だった。彼女が無造作に天井へ放った光柱は、容易く分厚い壁材を溶解させた。光線の先端は、きっとどこまでも天高く、ビルごと貫き通したのではないか。2人が思わずそう捉えたほど、その閃光は圧倒的なものに見えた。

 

 その光景に、必死に転がった銃へと手を伸ばしていた"ファイアフライ"から、抵抗する意欲の欠片すら失われた。

 

「殺さないでくれぇぇぇぇ……っは、はなしをきいてくれぇ。はなしをきけば、わかるぅって……"ベルゼブブ"に頼まれたんだぁッ!あんたたちのボスか、それに近いヤツのはずなんだっ、オレを捕まえていけばわかるっ、わかるんだっ、この、まま、生け捕りにしていいからぁっ、殺さないでくれよぉぉ……」

 

 恐怖に震えながらも、涙し、足元へと這いずり寄る赤髪の少年を目にして。立ち塞ぐ少女は声に愉悦の色を溢れさせる。

 

「"ベルゼブブ"? なぁにそれ。ふふふ。心配せずとも、アンタのお仲間を全員クビり出すまでは生かしといてあげるわよ。そこに隠れている奴が助けに出て来てくれると嬉しいんだけど」

 

 その言葉を聞いた"ファイアフライ"は、苦しみにしかめていた顔を微かに綻ばせた。

 

「た、たの、む。はや、く。はやくっオレをっつ、つれて……行って手当を、手当をっ……痛くて気が狂うぅぅ……いそうぅだぁ……っ」

 

 激痛に朦朧とする"ファイアフライ"が、少女の足へと手を伸ばした。しぶとく身を隠す、もうひとりの侵入者へと気を向けていた麦野沈利は一時、虚を突かれた。素早く脚を払うも、彼女のストッキングには少年の血と炭の跡が残った。形相が一変する。

 

「何晒してくれてんだ?アァ?」

 

 その様はまるで、虫ケラ(Black fly)を相手に臨むものであった。少年に対する慈悲の心など微塵もなく、麦野は冷徹に彼の左ひざを踏み付けた。

 

「あぎゃあああああああああああああああああああああ」

 

「うるせぇんだよ、虫ケラ」

 

 水滴が高温の物体に弾け、一瞬で蒸発するような。光とともに、液体が即座に沸騰するような、激しい濁音が轟いた。その音を境に、"ファイアフライ"のうめき声は鳴り止んだ。

 

 

 

 

 

 麦野沈利が残る1人へ意識を戻した、その時。

 

「麦野、今の悲鳴は!?」

 

 天井に空く大穴から、滝壺理后を背負った少女、絹旗最愛が落下した。彼女たちの登場を予測していたのだろう。麦野沈利は振り向きもせずに、背後へと注意を促した。

 

「2人とも気をつけなさい。この駐車場にまだ1人ネズミが隠れているから。3人いたんだけど、1人逃がしちゃってね。あとの1人はそこに転がってる。逃げた奴はフレンダが追っているわ」

 

 地に足を付け、滝壺は着用していたジャージの縒れをいそいそと整える。彼女はその場の状況を確認する間もないうちに、急ぎ麦野へと問いかけた。

 

「むぎの」

 

「わかってるわよ。ほら使って」

 

 返答とともに懐から取り出されたのは、じゃらじゃらと錠剤の入る小さなケースだった。投げ渡されたケースを危なげに受け取ると、滝壺は躊躇なく、中から一粒取り出し咥え込む。すぐさま、彼女の瞳は極限まで見開かれ、両の眼球が不規則な軌道を描きだす。

 

 

 

 

 

 

「ちょうどいいわ、絹旗。あの辺にそこの車を投げ込んでくれない?私がやってもいいんだけど、当たり所が悪かったら殺しちゃうのよね」

 

「超お安い御用です」

 

 不敵な笑みの元、絹旗はすぐそばに停まっていたセダンを、片手一本で軽々と持ち上げた。常軌を逸した怪力も、少女たちにはとりわけ驚くべきことではない様子である。

 

 振りかぶる絹旗の虚を突くように、滝壺が叫び声を張り上げた。

 

「敵がひとり、こっちに向かってくる!正面入口!っ来た!」

 

 滝壺の言葉通りに、穴だらけになった扉入口の隙間からまるまるとしたシルエットが露見する。その影を捉えた絹旗は反射的に、手にしていた車両を扉へと投げ撃った。

 

 駐車場へと飛び込んでいた巨漢は器用に飛び伏せ、地を這うように体をスライドさせた。彼の頭上では、放たれた閃光が飛来する車を貫く。間を開けず爆発し、男は数メートルほど吹き転がった。

 

「シャッドフライかよっ?!」

 

 "グリーンフライ"は決死の覚悟で、車両の裏から声をあげた。離れた場所から、返事がかえされた。

 

「……ニゲロッ!オレが時間を、稼ぐッ!」

 

 カチリ、と金属音が響く。"グリーンフライ"は覚悟を決めていた。銃を構え、少女たちを狙いつつ、走り出した。

 

「カッコつけてんじゃねえようッ、おデブ!お前さんも走れぇッ!」

 

 "グリーンフライ"は少女たちへと闇雲に発砲し続け、下水処理場への扉を目指した。"シャッドフライ"も機を逃さず射撃を行い、前進を試みる。

 

「ちィッ。絹旗!ソイツを抑えときなさい!」

 

 麦野は滝壺を庇うように一歩進み出る。湯水のように撃ち出していた光の柱を、彼女は造作もなく円盤状に展開し、男達の銃弾から仲間を守った。

 

 

 

「貴方、超いいカンしてますね。私には一発も撃ち込みませんか。ですが、私の接近を超食い止められなければ、即、詰みですよっ?」

 

 絹旗の発言は、巨漢には届いていなかった。彼女は能力を展開し、男へと砲弾のように跳躍していたからだ。

 

 "シャッドフライ"は慌てて、再び口から煙幕を吐き出した。煙の壁を前にした絹旗は即座に停止する。しかし、同じ手が再び通用するものか、と。彼女は嘲るように頬を歪めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カチカチ、と弾切れを知らせる音を耳にして、"グリーンフライ"は苛立たしげに鉄塊を放り捨てる。全力を振り絞り、下水処理場への扉へ飛び付くが。

 

「バレバレなのよ」

 

 滝壺を庇う必要のなくなった麦野は、淡々と光線を繰り出した。健闘むなしく、"グリーンフライ"は扉を目の前に、大地に転がった。

 

 

「あ。んー……」

 

 

 滝壺はぼそりと呟いた。その様子に気づいた麦野が口を開く前に、今度は絹旗から呼び出しがかかった。

 

「滝壺。位置を教えてください」

 

 いきり立つ絹旗を、麦野は柔らかく押しとどめた。

 

「あれじゃめんどいでしょ、絹旗。私に任せなさい。滝壺、位置は?」

 

 煙の中に身を隠す敵の位置を、滝壺は寸分の狂い無く把握した。情報を得た麦野は、閃光を細く束ねて、威力を抑えた一撃を放つ。

 

 しかし、それは"シャッドフライ"に命中しなかった。巨漢が煙幕から飛び出す。麦野の攻撃は、イチかバチか"シャッドフライ"が煙の中から出ようと図ったタイミングと奇跡的に重なっていた。

 

「あらぁ?運がいいわね。それじゃあ、ご褒美にコイツをど・う・ぞ」

 

 快感に酔いつつ、麦野は狙いをつけた。懸命に走る巨漢の下腹部へと、細く練った火線を当てる。致命傷にはならない。だが、内蔵は焼き払われ、壮絶な痛みを味わうはずだ。じきに男はじわじわと地獄の苦しみを味わい、地に倒れ悶え苦しむことになる。

 

 そのはずだった、が。麦野の放った光線が、男の腹部に的中すると同時に。まるで風船を針でつついたように、男は爆散してしまったのだ。

 

「――ッ!?」 「え、ええ!?」

 

 爆音で、麦野と絹旗の驚愕の声はかき消された。滝壺は不思議そうな面持ちで、小首をかしげている。

 

 

 

 

 

 なんとも言い表せぬ表情の絹旗が、ぎこちなく麦野へと振り返った。気まずそうな顔を浮かべ、麦野はそっぽを向いた。

 

「な、なによ。……私のせいじゃないわよ……。さ、さあ、とりあえずひとりは押さえたんだし、フレンダに成果を訊いて――――」

 

 

 絹旗と顔を合わせぬようにつかつかとうつ伏せる"グリーンフライ"へ歩み寄った麦野は、とうとう二の句を告げられなくなった。胴体のド真ん中に黒焦げの大穴を空けた"グリーンフライ"が、苦しむことなく絶命していた。麦野の閃光が着弾する間際。彼は運悪く躓き、その人生を終えていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局。麦野が全員殺した訳ですが」

 

「ちょっと!フレンダみたいな言い方はやめなさい」

 

 絹旗の瞳から色が失われていく。一方、滝壺は先程から変わらず、不思議そうに頭を傾けている。麦野は矢庭に体をヒネリ、2人へ背を向けた。

 

「……はぁーーっ……はいはい。私が悪かったわよ。これはもう、フレンダに期待するしかないね……」

 

 

「超珍しいですね。麦野が自ら非を認めるとは。フレンダが聞いたら超喜ぶでしょう」

 

 絹旗がからかうと、麦野は気恥ずかしそうに、はぐらかすようにフレンダへと通信を図った。

 

「フレンダ。そっちの状況は?こっちは失敗しちゃってね。アンタが最後の……って、どうしたの、フレンダ?返事をしなさい」

 

 何度呼びかけても、フレンダからの反応は無い。仲間の窮地を悟った絹旗と麦野は、顔付きも硬く、視線を交差させた。

 

 フレンダが向かったのは、ビル下層の金庫室だった。目を見合わせ、少女2人は同時に駆け出した。それを、それまで俯いていた滝壺が突如、静止させた。

 

「待って。やっぱり。まだ反応が消えてない。おかしい。……っ!後ろに、い、るっ!!」

 

 滝壺理后が、彼女にしては珍しい、機敏な動作で真後ろへとクビを旋回した。直後に、声なき悲鳴をあげて、硬直する。

 

「ひ――!?」

 

 注意を受けて、同じく背後をのぞき見た麦野と絹旗も、滝壺と同様の反応を見せた。

 

「ご、きッ――!?」

 

「なっ――!?あああ、あれはぁッ!」

 

 少女3名の背後。天井に、逆さに、謎の巨大生物が張り付いていた。見ようによっては、巨大な触手がいくつも生え揃った、クマほどもある巨大なゴキブリだと言えるかもしれない。生物の内蔵をそのまま取り出したような体色に、ねとつき泡立つ体液がとめどなく滴っている。歪な外見の深海生物に、万人が嫌悪感を催すように、更にとって付け加えて手を加えたような。悪意のある、凶悪な形状であった。

 

 一際過敏に奇声を生み出したのは、何故か頬を上喜させた絹旗最愛だ。

 

「あああああああ、アストロヴェノム、ヴァルミシオン!!ななななななぜ!?どうしてっ!?こんなところにぃぃぃぃ!?」

 

「な、なによ絹旗!?知ってるの?!」

 

 動揺を隠すように、毅然とした態度を貼り付ける麦野。かくかくと震える滝壺は、目尻に涙粒を結んでいた。

 

「ぴ、『P.V.A』ですよ!『P.V.A』!!!」

 

 絹旗が叫び上げると、異形の怪物はぶるりと躰を震えさせた。触手を波打つように動かし、じりじりと少女たちへとにじり寄る。

 

「ぴーぶいえー?ポリビニル、アルコール。スライムの、材料……ホウ酸ナトリウムと、エイチツーオーと、ポリビニルアルコールを……1対1で混ぜ合わせて攪拌すると……あんな感じの……すらいむが……」

 

 蒼白な滝壺は、足が棒のように固まっているのか、まんじりともせずその場に立ち尽くしている。ブツブツと小さな声で、不明瞭な呟きをこぼし続けながら。

 

 

「映画です!映画!あの生物、サイキック(Psychic) VS エイリアン(Alien)というC級映画に出てくる宇宙怪獣に超ソックリなんですよ!」

 

 麦野の額から冷や汗がひと雫流れ落ちた。

 

「え、映画のキャラクターだぁ?」

 

「そうです!無限再生能力を誇る地球外来生命体、サイキックの天敵、アストロヴェノム、ヴァルミシオン!超瓜二つです!そのものといっても超過言ではないですよこれはぁぁ!こんなところでお目にかかれるとは……なんという幸運でしょう。あああ、待ってください麦野ぉ!写メを一枚ああいややっぱり動画を撮らせてくださいはわあ!」

 

 慌ただしく挙動不審になる絹旗を諦め、麦野は極限まで警戒を露にする。怪物の頭部らしき箇所に狙いを定め、先手必勝とばかりに能力を撃ちだした。体の一部が弾けとんだネトネトの生命体は「pigyaaaaaaaaaaa」と衝撃に慄いた。

 

「苦しんではいるけど効果は薄いか!クソ、馬鹿いってんじゃないわよ絹旗。映画のキャラクターだってんなら、誰かが仕組んだもんでしょこれは!」

 

 興奮冷めやらぬ絹旗は、激怒した麦野と顔を合わせ、ようやく正常な思考をとりもどした。

 

「あ、う、そうだった!気をつけてください麦野、滝壺!作中ではヴァルミシオンは大量の子分ゴキブリと、強酸性の白い粘液を吹き出してきま――滝壺ッ!超危険です下がって!ああああ」

 

 奇音を響かせた化物の、胸部に付属した顎門がぽっかりと真横に開いた。投網のようにまだらに打ち出された白い粘液が、"アイテム"3人へと降り注ぐ。

 

 絹旗と麦野は能力で対処が可能だった。だが、滝壺は。仲間の助言も虚しく、大量の白濁液に体中を犯された。

 

「……べと、べと……」

 

 一言だけ呟くと、彼女は白目をむいて立ったまま気絶した。そしてふわりと、背中から倒れ込む。すぐに助けにいかなければ滝壺が危険だが、あのまま触れると嫌悪感100%の白い粘液が体にこびりつく。麦野は非情にも、同僚へ命令を下した。

 

「き、絹旗ッ。頼むわ」

 

「ちょ、超最悪ですっ!どうにでもなりやがれですっ!」

 

 動き出した絹旗を支援するように、麦野は天井に張り付く異形へと大出力の熱線を発射した。肉の塊にしか見えないその異形は、初めて大きな動きをみせた。カサカサと気味悪く、天井を逆さに駆け回る。巨体からは考えにくい素早さだった。続けざまに麦野は火線を打ち込んでいくが。異形は蝗の如く跳ね、回避した。

 

 悲壮な面持ちの絹旗は滝壺へと飛びつき、仲間の無事を確かめた。ただちに絹旗の顔に色が戻った。滝壺には何事もないように見える。スクリーン上では人間をドロドロと溶かしていた卑猥な白い液体は、単に悪臭を放つだけの粘液であったようだ。

 

「滝壺は超無事です!」

 

「それならいいわ。それよりアンタ、さっき子分のゴキブリがどうとか言ってたわねっ?」

 

「そ、そうです。窮地に陥ると、ヴァルミシオンは体から無数の幼生体を放出します。といっても、ただのゴキブリですが……」

 

「ツッコむのもアホらしいわよ!とっとと手伝いなさい!」

 

 とうとう、麦野の光線が怪物の脚を数本吹き飛ばす。天井から落下すると、振動と同時に液体の押しつぶされる卑猥な水音が弾けた。怪物はそのダメージをものともしなかった。機敏に起き上がり、突如、うねうねと体をくゆらせ始める。艶やかな外皮の光沢がその動きに合わせて輝く。

 

 怪物が再び顎門を開いた。再び汚らしい音が鳴り響き、白い粘液が麦野たちへと放射される。絹旗は甘んじて滝壺の前にそびえ立った。目と鼻の先、数cmの距離に垂れる白い液体を目にして、生気が失われていく。

 

 麦野は円盾上に閃光を広げて対処した。だが、びちゃりと床を跳ねた液体が少量、彼女のブーツを汚していた。

 

「ナメてんじゃねぇぞコラ!下等生物がァ!」

 

 血管を沸き立たせ、学園都市"第四位"の超能力者がその能力の真髄を開放した。

 

 次の瞬間には。開け広げられた駐車場の空間一帯が、白光で埋め尽くされていた。

 

 目を細めていた絹旗は、頬に外気の冷たい空気を感じた。その風の元を辿ると。彼女は壁に空いた直径数メートルほどの、巨大な空洞を目撃した。学園都市性の壁材は、気が遠くなるほどの強固な耐熱性と耐久性を兼ね備えていたはずだったが。空洞の淵は高熱で赤く発光し、床は焦げて悪臭を放っている。嫌な匂いに顔をしかめずにはいられなかった。

 

 怪物の姿を探す。すぐに、左半身を消失させた異形を発見できた。一面が黒く焦げ、じゅわじゅわと肉が焼けている。決着が付いたかと思い浮かべた、その時。死んでいたと思い込んでいた怪物は、無音のままに、しかし空間を揺るがすほど、力強く吼えた。絹旗にはそう見えた。

 

 残っていた怪物の半身がひと回りほど膨れ上がる。やがて、体中に亀裂が入った。

 

「ま、ずいです!麦野、来ます!」

 

 麦野の横顔を窺い、絹旗は背筋が冷えた。完全に加減を忘れている。彼女は手早く、懐から結晶が輝くカードの束を取り出した。

 

「むむむ、麦野!私たちがここに超いるんですからねえ!?超手加減してくださいよおおおおお?!」

 

 怪物は最後の力を振り絞り、体中から黒い羽虫を大量に撒き散らした。それだけで視界を黒く染めてくれそうであり、遠目に見てもおぞましい数である。絹旗の願い儚く、蟲の大群を前に、麦野は一切の手加減なく能力を行使した。

 

 

 

 ぞんざいに投げ上げられたシリコンの板へ、圧倒的な熱量を有した閃光が注ぎ込まれた。結晶が光の柱を幾重にも分散させる。そして部屋中に、無数の光柱がばらまかれた。麦野の頭上を頂点に、光線の針山が羽虫を巻き込みつつも、床へと広がり吸い込まれていく。

 

 絹旗は地震と間違うほどの振動を知覚した。滝壺を庇うように身を寄せる。穴だらけになった床が崩壊した。怪物と少女たちは、真下の階へと落下していく。

 

 

 

 浮遊する感覚の中、絹旗は闇に煌くひとすじの光線を目に捉えた。それは力なく転がる異形の中心を貫通し、消滅した。絹旗はそのまま、目で怪物の跡を追っていく。空中でドロドロに溶けた怪物は力なく、下水へとつながる排水路へと着水して。跡形も見えなくなった。

 

 

 

 

 

「これは流石に……少しやりすぎたかしら」

 

 埃に塗れた麦野沈利は瓦礫の山を踏みしめ、しみじみと言い放った。意識のない同僚の安全を確認した絹旗は、喉から出かかったあらゆる種類の文句を全て飲み下すことにした。未だに機嫌が悪そうである。今、"原子崩し(メルトダウナー)"を刺激するのは大変に危険だった。

 

 絶妙なタイミングであった。心配していたフレンダから連絡が入る。やはり、彼女は"持っている"に違いない。絹旗はフレンダの通信を訊いてくすりと微笑んだ。

 

『む、麦野ぉぉぉ……。ごめんね……。そのぅ、逃げたって言ってた奴、見つからなくて。これでも必死に探してた訳よ。そしたら……アタシが回収し忘れたトラップに、引っかかってて……死んじゃっ、て、た、みたい……な?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "サンドフライ"は苛立たしげに足をゆすり、運転席のシートに深くもたれかかった。予定時刻を5分過ぎても、仲間がやって来る気配はない。

 

「……潮時だな。悪い、皆。ここはトンズラさせてもらう。……くたばってねえ事を祈ってるぜ」

 

 彼は勢いよく、アクセルを吹かす。同時に、暫くの間、注意深くバックミラーをのぞき続ける。

 

「ちッ」

 

 2台ほど、不審な車両が目に付いた。その動きはどのように考えても、彼の乗っているワンボックスカーを追跡しているとしか思えなかった。

 

 "サンドフライ"はブラフを貼ってみた。慌てて逃げ出す風を装い、勢いよく車間を縫って走り出す。目星をつけていた2台とも急変した。彼の乗る車へと接近を図ってくる。

 

「くっ。やっぱ失敗してたのか。んだよ、結局、稼げたのは200万とちょっとか。……まあ、半蔵はどうとでもなることだし。問題は駒場さんだな。畜生、何て言い訳するかな」

 

 暗部の車両2台に追跡されてもなお、"サンドフライ"こと浜面仕上は、余裕の表情でハンドルを操った。

 

 自信が示した通りに、彼は僅かな間に、難なく追手を振り払っていた。相手はやはり、"アイテム"が急遽間に合わせに放った追跡部隊だった。"アイテム"メンバーから暗躍者の報を受けた後衛の支援部隊は大いに焦った。急発進した不審車両の追跡に、ビル周辺に展開していた別の部隊を振り分けるしかなかったのだ。そのため、数が極端に少なかったという幸運も確かにあったのだが。それ以上に、彼が無事に逃げ延びた要因は、彼自身の運転技術・状況判断能力の高さによるものが大きかった。

 

 これを期に、浜面仕上は。有能な"運び屋"として、"アイテム"の下部組織に目星をつけられることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局は。"アイテム"の仕事の隙を付き、裏でこそこそと"何か"を画策していた者たちを生け捕ることはできなかった。唯一の生き残りが載っていた、ビルの近くに張り付いていた不審車両にも、あっさりと出し抜かれたらしい。

 

 後は組織のスタッフが死人に問答を行うだけ。そんな無味乾燥な仕事、毎度毎度やらされる奴らはたまったもんじゃないわねえ、嫌気がささないのかしら、と。事の顛末の通信を聞き終えた麦野沈利は、落ち着きを取り戻し哀れんだ。

 

 彼女に八つ当たりに近いお仕置きをくらったフレンダは、ボーッとして虚空を見つめている。ステーションワゴンの後部座席で、滝壺は横になっていた。まだ意識を取り戻してはいない。

 

 麦野の携帯が振動した。ようやく来たか、と"第四位"の超能力者(レベル5)はそれまでの不機嫌さを綺麗に吹き飛ばし、満面の笑顔で通話に対応した。

 

「こんばんわ。うふふ。黙りなさいよ、マヌケにも情報を漏らしたエージェントさん?口汚い言い訳をする前に、何か言うことがあるんじゃない?粗相の後始末を代わりに殺ってあげたのは一体誰だったかしら?」

 

 至極機嫌良さげに会話を続ける麦野の横で、滝壺を介抱していた絹旗は彼女たちの話を耳にした。

 

 

 名誉挽回の機会を得ようと死に物狂いの、"アイテム"下部組織、情報部から、続々と報告が上がってきているらしい。その中のある話が、絹旗を驚かせた。奇妙な話だった。

 

 現場に四つ転がっていた死体の中で。死亡推定時刻がどう足掻いても矛盾してしまう人物が、1人、浮かび上がってきたのだという。

 

 その人物は、記録によれば。2日前に、死んでいなければならなかったらしい。第十学区に設置されていた街頭の監視映像に検索をかけると、簡単に引っかかったとのこと。その男は、二日前の晩に。第十学区のスキルアウトの抗争で、心臓に銃弾を受け、確かに死亡していたのだ。

 

 絹旗は凍りついた。彼女が戦った、その男。奴が生きて動いて、あまつさえ、戦闘行為に及び、能力を使用した現場すら目撃しているのだ。死んでいたとはどういうことだ?

 

 

 

 

 突然、目の前の滝壺が音もなく起き上がった。心臓が爆発しそうになる。絹旗は車内で思わず飛び上がった。銅鑼を力任せに叩いたような鈍い低音が響き、ステーションワゴンの天井が無残に変形してしまった。能力が咄嗟に出た。絹旗はほのかに顔を赤らめた。

 

「何してるのよ、絹旗。気をつけなさい……って、あれ。滝壺、目を覚ましたのね。ちょうどいいわ」

 

 麦野が取り出した体晶の容器を見て、絹旗は滝壺の容態を懸念した。ところが、目を覚ました滝壺は鼻息も荒く、能力を行使する気満々である。体晶を飲み込み、滝壺は眼球を瞬かせた。

 

 『急にどうしたのよコラぁこいつときたらーっ!無視すんじゃないわよーっ!!』と、麦野の携帯から雑音が飛び出してくる。麦野はうっとおしそうに、携帯をそのまま無人の助手席へと放り投げた。

 

「確かめて欲しいことがあるの。滝壺、あのビルで戦った能力者のAIM拡散力場、まさか、いまだに感じ取れたりはしないわよね?」

 

 

 小さく体を痙攣させる滝壺は、僅かにだが苦しそうに息をついた。そして、それまで"アイテム"メンバーが接してきた中で、初めて。彼女はとりわけて一等に真剣な表情を、形作った。

 

「……それは、感知できない。たぶん、死んでいると思う」

 

「ふうん。そうなの」

 

 麦野は腕を組み、俯いた。

 

「それより、言わなきゃならないことがある。麦野、絹旗、あの太った男のAIM拡散力場の反応、あの男が爆発して死んだあとも、暫く残っていたの。そして……実は、あの怪物も、AIM拡散力場を発していた。まるで能力者みたいに。そしてそれは……それは、太った男ととっても良く、似ていた……とても、似ていたの……」

 

「どういうこと?滝壺」

 

 怪訝な顔付きの麦野は、矢継ぎ早に話を急かした。

 

「正確には、同系統の反応、かな。ううん……どういえば、いいのか。同系統の能力者は、他の系統と比べれば、やっぱり似ているように感じるもの、だけど。あの男と怪物の情報は、それ以上に似通っていた、気がする。でも、完全に同じものでは、無かった……」

 

「ありがと、滝壺。色々と不可解な情報が上がってきててね。アンタの言う、その男。どうやら、二日前に死んでなきゃおかしい人間だったみたいなのよ。アンタの教えてくれたことが、解決の糸口になればいいんだけど」

 

 滝壺は目を瞑り、深呼吸をひとつ行った。しばらくして、再び口を開く。

 

「大丈夫。もし、また似たようなAIM拡散力場の情報を探知したら、すぐに教える」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜二時。丑三つ時と呼ばれる頃。第七学区を横断する大きな河のほとりには、人っ子一人存在せず、無人であった。夏場ならいざ知らず、四月初頭の夜はそれなりに冷え込み、薄暗い河の河川敷には、夜通し騒ぐスキルアウトたちすら見当たらなかった。

 

 闇の中。1人の少年が、河の淵から岸へ、ゆっくりと音を立てずに身を乗り上げた。彼はつい先程まで、"シャッドフライ(蜉蝣)"(かげろう)と名乗り、"アイテム"メンバー3人と戦闘を繰り広げていた。

 

「後は祈るしかないな。ベストは尽くした。あれでバレてたら、諦めるしかないさ。暗部の連中はホントに人間離れしてるからな。本当の目的がアイテムの威力偵察だってバレてませんように!」

 

 深く息を落とし、景朗はまるで宝物を扱うように丁重に、胸元から小さなフラッシュメモリを取り出した。祈るように、大事そうにそれを両手で包み込む。その中には、樋口製薬が過去、"第二位"の能力を応用しようと試みた企画の研究データが詰まっていた。

 

「まあ、運良く第二位のデータが手に入ったから、運は悪くなかったはずだ。信じるしかない。うまくいかずに凍結した計画みたいだったのがちょっと残念だけど……。ないよりマシだろ、きっと」

 

 御坂さんより、まずは"第二位"を優先して考えないとな、と呟きつつ、景朗はぐったりとコンクリート塀に背中を付けた。

 

 自らを落ち着かせるように、目を閉じ深く考え込む。彼は心配だった。"アイテム"には、自分がちょっかいを仕掛けたことを、絶対に知られたくなかったのだ。そのために、足りない頭を振り絞り、稚拙な計画を組み立てた。そしてそれを、潤沢な資金を頼りに実行に移した。それは"実行"というよりは、"ゴリ押し"したと言ったほうが良いものだった。

 

 

 

 

 

 

 三月の半ば。怪しまれぬ程度に、"猟犬部隊(ハウンドドッグ)"の情報網を使い、なんとか"第四位"の超能力者が"アイテム"と呼ばれる組織に所属していると突き止めた。だが、そこから先が問題だった。

 

 すなわち、"第四位"に戦闘行為を仕掛けるということは、等しく、"アイテム"と敵対するということになってしまうのだ。ただでさえ"超能力者"相手にケンカを売り、禍根を残す行為に嫌気がさしているのに。正面からぶつかれば間違いなく、個人ではなく組織をまるごと相手取らなければならなくなる。冗談ではない。

 

 情報をもっと集めたかったが、統括理事会の最暗部で跳梁跋扈している非正規部隊の秘密を探るのは非常に難しいことだった。例え景朗が"猟犬部隊"に所属していようとも、公に行うには多大なる勇気と運が必要になる。

 

 暗部の世界では、どこに諜報の芽が潜んでいるかわかったものではない。同じ部隊に所属していようとも、"猟犬部隊"の輩に根掘り葉掘り"アイテム"の情報を尋ねるのは危険だ。

 

 その時、景朗は木原数多のまとめたリストに、頭一つ飛び抜けた難易度となる依頼を発見する。それまでの情報からなんとなく、"アイテム"の役割は、自分たち"猟犬部隊"とほとんど同質のものであると察せていた。

 

 難易度の高い依頼は、当然、報酬も高くなる。超能力者を有する非正規部隊(アイテム)が、この依頼を受けずして、一体どの依頼を受けるというのだろう。どうやらアレイスターの直轄部隊である"猟犬部隊"は、機密性も暗部の内では最高峰であるらしかった。憎らしいが、アレイスターの情報規制技術は信じるに値する。

 

 軽く調査したところ、樋口製薬第十六学区支社は、過去に"第二位"の能力の研究を行っていた時期があるという。景朗は賭けに打って出た。

 

 自分がレベル5へと到達したあの晩。土壇場で"人材派遣(マネジメント)"が裏切ってくれたことを、逆に感謝すらしてしまいそうな気分であった。そのおかげで、彼に怯える"人材派遣"には、ほぼ絶対の服従を誓わせることができている。

 

 金をばら撒いて、欲望のままになんでも犯罪を犯す、札付きの悪たちを操ろう。

 

 景朗は命じるがままに指令をこなす、金で雇われた無頼漢どものチームを組織した。コードネーム、"ブラックフライ(Black fly)"。自ら変装し、その中の1人として潜入した。

 

 変装には一番に気を使った。暗部の情報網を辿り、"死体置場(モルグ)"と名乗る、警備員(アンチスキル)や裏稼業での諍いの捜査をかく乱するための遺体を販売する業者と接触した。暗部で最後の最後、どん底まで落ちた人間は、死後、遺体すら他の組織に買い叩かれることになっているようだ。

 

 心が痛まぬはずがなかった。だが、"アイテム"という組織まるごとを敵に回してしまう事態を考えれば、覚悟を決めるしかない。"死体置場"から死体を購入し、景朗は体を液状に変化させ、その死体を内側から操っていた。これで現場に残る、DNAやら歯型といった物質的な情報は、全て死人が有していた固有のものとなる。

 

 そこで、"死体置場"で死体を購入した事実から、足がつく可能性を考えた景朗は。

 

「……く、ふふ。ははは。ふふふふはは。きっと、おったまげるだろうな」

 

 景朗は次々と4,5日ごとに、操る死体を変えていった。死体は全て"死体置場"から購入した。最初に購入した死体を操り、その姿で次の死体を買いに行っていたというのに。"死体置場"の奴は、まったく気がつかなかった!

 

 "アイテム"の捜査員が"死体置場"をとっ捕まえて、監視機材をチェックしたら。小便をちびるんじゃなかろうか。数日前に売った死体が、延々と次の死体を買いに来ていたのだから。残した毛髪の遺伝情報まで一致する。

 

 

 

 肝心の樋口製薬第十六支社に対しては、極悪な保安部の部長、副島という男を味方につけた。景朗は一応本心から、利用する以上は、その男の身を案じてやろうと思っていた。やはりそれなりのポストに就いていた男である。聞かれて困らない範囲の情報を伝え、保身を保証してやると。それが真実だと判断したのだろう。気の小さい男は何でもこちらの言うことを聞くようになった。

 

 

 

 景朗は"バタフライ"から連絡が入るまで、姿と名前を"メイフライ"、"デイフライ"といった風に次々と変え、"ブラックフライ"の中でひたすら"アイテム"を待ち伏せた。

 

 最終的なメンバーは、景朗本人である"シャッドフライ"(死体は二日前に死んだ"油河雷造(ゆかわらいぞう)"という男を使用した)に、"ファイアフライ"、"ギャッドフライ"、"グリーンフライ"、"サンドフライ"の5名となった。巻き添えて死なせてしまったら心が痛みそうな人員は、須らく運転手へと指名している。

 

 通常、一般的な学園都市の地下街は、全てのエリアが警備員(アンチスキル)の管理下に置かれている。しかし、今回景朗たちが侵入した樋口製薬支社のビル地下のセキュリティは、樋口製薬支社の方に権限が移譲されていたのだ。樋口製薬の不正を推進するために、裏取引を行っていた樋口製薬の密売人自身が手ずから変更していた。

 

 結論から言えば、内通者の"バタフライ"がセキュリティを無効化させていたため、景朗たちは安心してトイレの壁を爆破してよかったのだろう。

 

 それから先は、概ね順調だった。でも、一つ誤算が生じてしまった。ライバル企業の妨害工作、または、樋口製薬自身の内部工作、もしくは、学園都市上層部のマッチポンプと見せかけるために。景朗には微塵も必要なかった、樋口製薬支社の機密薬品を回収しようとした時だった。

 

 "ギャッドフライ"が命令を無視して突然、"バタフライ"を射殺したのだ。一体何故、奴は命令を無視したのだろう。"ウェルロッド・白凪"なる傭兵崩れの素性のしれない奴だったが、背後に大きな組織の影はなかった。最近学園都市に入ってきた新参者だったからだろうか?

 

 とかく。恐らくは、"バタフライ"が死んだせいで。"アイテム"がこちらの動きに気づくのが早まり、"ブラックフライ"は奇襲を受ける羽目になったのだろう。景朗は、第二位の情報を獲得するために、副島の死体から抜き取ったカードキーを使い、研究室のデータを回収していたため、襲撃の現場に居合わせることができなかった。どのような形で襲撃を受けたのだろう。たどり着いてみれば、"ファイアフライ"が死んでいた。"ギャッドフライ"も行方不明で。まごついている間に、"グリーンフライ"も死なせてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い河川敷で、景朗は気が滅入りそうになった。その時ふと、偶然にも再開した絹旗最愛のはしゃぎ顔が脳裏に蘇った。

 

「はは。まさか、絹旗さんと再開するなんてさ。暗部の世界は案外狭いなあ。ってーか、絹旗さん、ああいうキャラだったのね。もっとクールなキャラかと思ってた……。まあ、絹旗さんだから良かったけど。黒夜なんかと会ってたらどうなってたことか……ッ駄目だ駄目だ!口に出したら現実になりそうだ。楽しいことだけ考えよ」

 

 誰も知らないエイリアンを参考にしようと思って、わざわざドマイナーな、そしてもう一歩そこから外れた、誰からも見向きもされなかった駄作、『P.V.A』を選んだってのに。なんで知ってるんですか絹旗さん。俺、あのキャラに"あすとろヴぇのむ ヴぁるみしおん"なんていう立派な名前があることすら知りませんでしたよ。ビクッとしましたよ、まったくもう。

 

 それに。まさか、暗部の殺し屋、"原子崩し(メルトダウナー)"さんが、あんなセクシーなお姉さんだったとは思わなくてさ。予定では、割とビシバシ交戦するつもりだったんだけど。メンバー全員が可愛い女の娘たちだとはさすがに予想してなかったから。

 

 それっぽい白い液体(卑猥な液体ではありません)をぶっかけてキレさせて、逃げてしまいました。

 

 もんのすごい怒ってたなぁ、あ、でも、ぶっかけて気絶しちゃった女の娘には不覚にも……ゴホゴホ、ゴホン。景朗は微かに唇を綻ばせた。

 

「くああぁぁぁーッ。さて、と。次は一段飛ばしで、第二位対策を考えなきゃな」

 

 景朗はもういちど、確かめるように手の中のフラッシュメモリを握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから。事件後日。通りかかった、第七学区の樋口製薬関連施設にて。滝壺は"ヴァルミシオイン"と良く似た反応を偶然にも受信することになる。"アイテム"の上司に寄れば、樋口製薬第十六学区支社の粛清任務の依頼は、おそらく樋口製薬本部から統括理事会を通して送られてきたものだという。すわ、樋口製薬自身が仕込んだ自作自演だったのか、という疑惑が生まれたが。

 

 しかし。その後も時たまに、滝壺は様々な場所で、"ヴァルミシオン"なるAIM拡散力場の情報を探知する機会に恵まれた。その場所は決まって、統括理事会の上層部が管理する、暗部の闇の深いところばかりであった。不可解なことに、複数のAIM拡散力場を確認できた施設もあったという。

 

 事件の首謀者は統括理事会の上層に位置するものであると、"アイテム"は結論づけた。今尚、捜査は難航している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "スクール"が拠点とする一室で、垣根帝督は瀟洒なソファに深く腰を下ろし、仲間の報告に耳を傾けていた。派手なドレスの少女が、所属するチームのリーダーへと、にこやかに言葉を投げかけた。

 

「白凪から連絡が途絶えたわ。おまけに彼の自宅へ、"アイテム"の下部組織が捜査に入ったそうよ」

 

 垣根帝督は、心底、面映そうに笑みを零した。

 

「決まりだな。出待ちされるのは趣味じゃねえ。そろそろこちらから出向くとするか。なかなかに楽しみだ、第六位。面白い奴だと嬉しいんだが」

 

 




浜面さんに、アイテムヒロインズに白い液体をBUKKAKEる手伝いさせた雨月って……

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。