とある暗部の暗闘日誌 作:暮易
仄暗火澄がトボトボと覇気のない足取りで、公園の中程まで顔を出した。
身だしなみを整えて濡れていた服も乾かしたようだが、少しシワになっている。
すぐさま近づいていった景朗は声をかけた。同時に、ポケットから拾っておいた携帯電話を差し出す。
「壊れてるけど、これ」
「景朗っ。どうやって、あぅ――ありがとう」
受け取る寸前に、火澄はぎくりと体をこわばらせた。携帯が壊れたそもそもの理由が、記憶に蘇ったのだ。彼女の右の手のひらには、今だに赤い線が薄く走っている。紫雲に凍らされた携帯を握り締めて負った、軽い凍傷の跡だ。
しかし、携帯は夏の熱気にさらされ、とっくに常温で生暖かくなっていた。触っても平気に決まっている。落ち着かなさそうに携帯を握りしめたところで、火澄は思い出したように礼を返してくれた。
「見せて?」
景朗は自ら彼女の手を取って、腫れた赤い筋に目をこらす。
「見たところそこまで酷くなさそうだけど……」
「大丈夫。すこしひりひりするだけ」
「うん、ほっといてもすぐ治ると思う。その前に痒くなるかも」
「これもほとんどやけどみたいなものでしょ?発火能力者はこれくらい平気です」
「そっか。良かった。あ。……そういえばまだあれあるの?お腹のやけどの跡」
「へっ?……ああ。ありますけど?」
「見せ「見せないっ」ろなんて言わないって……」
火澄は両手を腹部に回して隠すと、すこし頬を赤くして睨みつけた。二の腕が胸の前面で狭まり、前傾姿勢気味だ。
(あーお。そのポーズ、すっげえ胸部が強調されるんですがくぁwせdrftgyh)
景朗は唐突に、ものすごく昔にあった出来事を思い出していた。火澄とやけどと、おっ○い。恐らくその三つの単語が引き金になったのだろう。
小学生の頃だ。買い出しを頼まれた景朗が、手痛い失敗をした話である。
スーパーで、メモに記載されていたものとは値段が断然に違う、叩き売られていたトマト缶を発見したのが始まりだった。本来買う予定だったものではなく、捨て値で売られているモノを代わりに買おう。そうすれば、浮いた差額で露店のケバブサンドをGETできる。
ちょっとした"やりくり"の範疇だと、その時の景朗は思ったのだが。
呪うべきは、彼の注意不足だった。結論から言うと、トマト缶だと思って買ったものは、トマト缶ではなかったのだ。ビートの缶詰だったのだ。
もちろん彼は、マジギレした料理当番の火澄からその場で報復を受けた。煌々と体中にまとわりつく熱風の恐怖を、今だに思い出せるそうだ。
それほどまでに、その時の彼女の怒り様が半端ではなく怖かったので、景朗は命からがら少女の胴体に飛びついた。感触は覚えていないが、なにかがふにゃふにゃしていたことだけは何故かおぼろげに覚えていて……。
自分の体ごと燃やす馬鹿はいない。慌てて火を消そうとした火澄も動揺したのか、うまく消火できずにお腹にやけどを負った。そして最終的にはクレア先生に喧嘩両成敗の沙汰を受けて、2人とも凹んだ。そういう話だ。
(そうだ。そういえば、あの時から柔らかかったんだっけ……)
彼を責めないで欲しい。青少年は切欠さえあれば、エロい妄想をせずにはいられない生物なのだ。エロとは条件反射なのだ。
あの時のやけどの跡が、まだ彼女の腹部に残っているのかどうか。景朗は唐突に気になった。ここ数年の過去を辿る。彼女とともに幾度かプールに行ったはずだが、景朗の記憶にやけどの印象はない。
なるほど。そういえば、彼女はいつだってお腹周りが露出するセパレートタイプの水着を着用していなかった。
そんなまさか。それではもはや……自分は火澄のビキニ姿を拝むことは一生無いということなのか。こんな時にこんなことに気が付くなんて、青髪クンを頑張りすぎた弊害だ。
余談だが、残された大量のビート缶の処理は、当然のごとく景朗に押し付けられた。苦戦した彼がたどり着いたのが、件の彼の得意料理、ボルシチレシピである。それは園生からのプレッシャーに晒されて、彼が泣きながら編み出したものだったのだ。
景朗は二重の意味でダウナー気味になり、気が付くとじぃっと、目線を一箇所に固定させてしまっていて……。
「わ。こら、みるなっ」
何をしていたのか、察知されてしまった。
唐突に2人は何も語ることなく、ぎこちなく見つめ合った。両者ともに何かを言いたそうで、しかし言いあぐねて口を閉じる。
短い無言の後に、火澄はふぅぅーー、っと重いため息をついた。まだ昼時を過ぎた頃合だというのに、ひどく疲れた顔つきそのものだ。
その気持ちは、景朗にもよく察せられた。先ほどの騒動で、彼女にも十分な量の災厄が降りかかっていたと言えよう。
「よし。とりあえずコーヒーを飲もう」
「とりあえずコーヒー、ねぇ?」
「それで少しは元気でるでしょ?」
「それはアンタだけでしょ?まあいいけど。あ、いや。待って、あのね、さっきの人たちが景朗を狙ってて」
「それなら大丈夫。俺もその人たちのことなら大体わかってるから。その陽比谷って奴は夜まで警備員の少年房から出てこないよ。ほかの奴らも病院にいる」
「そう。それなら……。そういえばよくココがわかったね。携帯失くしちゃってどうしようって思ってたから、助かったけど」
「あー。匂いを辿って」
「……に、におい、で?」
"ちょうどトイレから出てきたばかり"の火澄は、羞恥と怒り、その他にたくさんの種類の感情をブレンドさせて、顔を赤らめる。景朗がそこいらのワンコよりももっと優れた嗅覚を持つことを、その身を実感して思い出したようである。
何かを堪えるように涙目で、無言のままに景朗を再び睨みつけている。
「あいや、待たれい。拙者にそのような趣味はございま……アッー!危ッ、あぶなッ!ストップストップ待て待て待て、さっき助けてあげたじゃん!仕方ないじゃんっ!」
火澄が恥ずかし紛れに炎を繰り出した。仰々しく手を差し出して制止していた景朗は、ひょこりと身をかがめてそれを避ける。
炎の攻撃はすぐに止んだ。
"能力主義(メリトクラート)"から助けた。その言葉が効いたらしい。火澄は頬をややふくらませ気味だったが、矛を収めることにしたようだ。
手近なカフェテリアに入り、相手がアイスティーをゴクリと一口のみ飲み込むまで見守る。当然、やりづらそうな目つきが反応として返ってくる。
相手の口から文句が飛び出す前に、景朗は待ち望んでいた議題を持ち出した。
「で、陽比谷って奴とどんな関係なんスかね?なんか狙われてたみたいだけど」
「ふうん」
「……いや、なに? ふうん、て」
「やっぱり知らないんだな、って」
「何を?」
「陽比谷君とワタシはクラスメートです。同じ発火能力専攻の生徒だから、基本的に学校では毎日顔を合わせます」
「は?」
「関係って言われれば、それだけです。さて。景朗。あなたが学校に来て、まともに生活さえしていれば、彼のことは知らずとも耳に入っていたでしょうけど。そうじゃなかったってことね?」
ぐうの音も出ずに、景朗は軽く息をつく。そのまま黙り込んで、深く椅子に腰を落ち着け直した。
「ごめん」
ごめん、と呟いたのは景朗ではなく、火澄だった。
「いや、いつまでもその事で愚痴ってたら話が進まないなって。色々と特別な理由があるんでしょう? ――――そうだ。今日は……助けてくれてありがとう」
「いいよ、あれくらい」
「お礼をまだ言ってなかったから」
「じゃあ、教えてほしい。"能力主義"って奴らのこと。俺、待ち合わせの時間に遅れるってメールしただろ。あれは、あの時まさに陽比谷ってのに絡まれてた真っ最中だったからなんだよ」
景朗は火澄に問いただしておきたい情報を、思いつく限り説明してみせた。"能力主義"とはなにか。陽比谷たちメンバーの個人情報。彼らが"先祖返り(ダイナソー)"を襲った理由。火澄自身が陽比谷や紫雲に狙われていた理由、などだ。
"能力主義"とは大能力者(レベル4)が集まる社交クラブみたいなものだと、火澄もそう説明した。要は、彼女が知っていた事に景朗が収集した情報以上のものはなかったということだ。
陽比谷たちの個人情報についても、火澄はあまり詳しくない様子だった。彼らの主要メンバーには"五本指"の生徒が多いらしいこと。陽比谷があくまで学園都市内限定活動のローカルモデルで、"潮岸"の又甥で、実家が金持ち。そのくらいのことしか火澄も知らなかった。強いて言えば、特筆すべき事でもないが、ひとつ。
岩倉火苗という子とは、常盤台中学在校中に色々とヤりあった仲、なのだそうだ。(それを聞いて、火澄がよく文句を言ってた娘の名前だ、と景朗もようやく思い出した)
陽比谷に毎日のように熱心に誘われ、たまたま一週間前に見学に行っただけ。当然のごとく、彼らの内部のイザコザなどに関与していない。
景朗(レベル5)と待ち合わせた場所で、"彼ら"と鉢合わせた。その結果が今日のあの騒動だと、うんざりとした顔で火澄はアイスティーをがぶ飲みする。
「紫雲やら、垂水、茜部ってのに面識はなくて、なのに何故か興味を持たれてた?」
「本当に理由がわからないの。……眞壁さんが言うには……ワタシの能力なら、あの紫雲って人を打ち負かせる? って話だったみたい。言っておくけど、これも全部あやふやな話だから……」
火澄には、本当に狙われる心当たりが無いようだ。それだけわかれば、あとは彼女に教えてもらうべきことは、無かった。そのはずだった、が。
――どうして、あんな奴らとかかわり合いになろうと思ったんだ?
心に湧き上がる疑問。"能力主義"に関わった理由は、誘われたから。彼女の話ではそのようだ。聞くべきことは全て聞いたまだ完全じゃない。
――どうしてあんな"奴"の誘いに乗ったんだ?
いいや。これもまだ違う。本音に耳をすませば――。
――もしかして陽比谷のこと好きだったり? じゃああいつ○○すわ。
という、嫉妬に近い衝動だった。ちなみに、○○にはすべてのワードが当てはまる。『コロ』や、『つぶ』、『ボコ』、という可愛い二文字が候補となる。
何故誘いに乗った?!
物凄く訊きたい。問いただしたい。そんな想いがふつふつと湧き上がる。しかし景朗は何故だか、その意欲を全力で体の内に押さえ込み、蓋をして平然と振舞い続けてしまうのだ。
――――絶対訊かねえ。いや、訊こうぜ。いやだよ恥ずかしいだろ。でも訊かねえと……。
胸の内でぶつかり合う二つの思考。
心地の良い声に耳を傾けている間、深く深く、その思考に煩わされつづけた景朗は、最後にでたらめな解決方法を思いつく。
まるごと無視してほうっておくことにしたのだ。一般的には解決方法とは言わないけれども。
良くないことだと頭で分かっていても、そうするしかなかった。そうしてしまおう、と。
そう決意したところだったのだが。
「かげろう? なんだかすごく怒ってない?」
「いや。ただ、どうして陽比谷なんかの誘いに乗ったんだと?」
(あ。言っちまった。……いや、そうだよ。別に質問を我慢しなきゃならない理由もないし。俺の頑固な嫉妬がなければ尚更……)
「なっ、なにそれッ。ワタシの勝手でしょ?」
「うん。言った瞬間自分でもそう思った。火澄の勝手だな。言いたくないならやっぱ喋らなくていいよ」
「……言います。教えてあげますぅ!」
わずかに怒気を含んだ、火澄の声。景朗も、何を勿体ぶって口にされるのだろうかと、身構えた。
「あ、ああ。聞こう」
「……"超能力"が知りたかったから」
「う、うぅん?」
ほんの少し、わかりにくい答えだった。景朗の合いの手も、精彩を欠く。
「だからッ、景朗に先越されちゃったまんまじゃムカつくから、とっとと追いつきたかったってこと!だから"能力主義"の見学に行ってみようかな、と踏み切ったの。何か文句あるッ?」
「ぅーん。――本当にそれだけ?」
純粋な疑いの質問だった。だが、それは挑発と受け取られたらしい。
「わ、悪い?! あんたに舐められっぱなしなんて今までなかったじゃない!?」
「え、俺、舐めてたの? 舐めてるの?」
「……かげろ~おぉぉぉぉ」
ふぅ、と誰の目にもわかりやすく、景朗は鼻で息をついた。彼の態度に煽られた火澄の姿勢が、危険なものに変わっていく。
(舐めてると思われてても、仕方ないか)
四月の終わりごろに"第二位"の襲撃に巻き込んで、説明も端折り端折りで大まかにしかしていない。少なくとも、火澄が納得するまで話し込んではいない。彼女にあれだけの危険が生じたにも関わらず。
どうやら彼女は、景朗が幻生とコンタクトを取り始めた頃から不審に思っていたところがあって、それがあの一件で吹き出したのだろう。
ここ最近仲が悪くなっていたのも、教えろ、教えない、のやり取りを続けてきたからだ。景朗も、不器用にも『危ないから話せない』の一点張り。景朗は、彼女の保護者気取りだったつもりはない。でも、彼女にとってはそう感じる部分もあったに違いない。
「ふ。かもね。確かに舐めてたかもね。でも好き好んでやってるわけじゃないって、それくらいはわかってくれてるんだろ?」
急に自嘲気味につらつらと語りだされて、今度は火澄がクエスチョンマークを浮かべている。
「仕方ないんだ。超能力者(レベル5)は別次元だよ。人生が変わるって意味でもね。とにかく……申し訳ない」
さっぱりとした口調で、景朗は淡々とそのセリフを口にすると。最後には、深々と頭を下げて、幼馴染に謝罪した。当人はいたって真面目で、からかうような雰囲気は皆無だ。
「なに。急に」
戸惑い。ほかの質問は、そのせいで火澄の喉元で止まっているようだ。
「とにかく、迷惑かけないように努力するから。誓うから。色々説明するのが筋だって思うこともあるんだけど、本当に危ないから。俺は話さないよ」
「もう、いい。もういいから。あーもう、このやりとり何度目? はぁー。わかったから。そんな泣きそうな顔しないでよ。デカい図体しといて」
「ういっす。よかった、分かってもらえて。でも別に泣きそうじゃないけど」
「いいえ。ものすごく見覚えのある顔です」
「はぁ? なんでそうなるのかわかりませんね、いやマジで。あんま否定すると嘘っぽくなりますけれどもね」
「いいえ。小さい頃はそんな顔で泣いてました」
「いいえ。それは気のせいです」
「いいえ。急に敬語を使い出すところとか、それっぽいです」
「そ、そんなことマジでないっての。ちょお、なんなんスかこれ。泣けばいいの?」
(あれ。なんか前みたいな雰囲気だ。このノリ、だいぶ戻ってきたぜ。確信がある)
以前のように、にこやかに火澄と語らえている。素直に一言でいうと、楽しい。
やはり、面と向かって話すと、コロコロと変わる相手の表情が飽きさせない。面白い。
(彼女たちを、アレイスターが狙ってる? ヘマをしたら、ペナルティを食らわせられる?)
ありえない。無しだ。それだけは無しだ。止めさせてもらう。防がせてもらう。いつまでだって。
そうだ。いつまでも……彼女たちの安全の代わりに、"あいつら"を……。
ああ。考えるだけで最悪だ。今日も命令があれば……。
アレイスターの苛政を正す!
そう決意した、肝の据わった素敵な連中が、毎度毎度俺の牙の餌食になっていく。
彼らの中には、こう信じきっていた奴らも居たりする。
『あの男の生命装置を外せば、すべてが終わる』
そう思い込んでいた人間は、意外にも多かった。
(残念だが、そんなわけねえんだ。そんな一手間で済むわけねえだろ。
教えてやりたいなぁ。そんなことしても無意味なんだ。
生命維持装置の破壊なら、俺がもうとっくの昔にやってみたんだから。
去年のクリスマスに無謀にも壊してみたさ。
でも……今なら考えるまでもなく当然のことだ。
そんなあからさまな弱点が、あいつに存在する訳が無い)
だから一層、哀れみを誘う。
忸怩たる想い。どう考えても不可能だ。
あの男が強いとか、強かだとか、そういう以前の問題だ。
接していると、ひしひしと感じられる。
濃密な時間の密度。
雨月景朗が生まれる前? 学園都市が生まれる前?
違う。おそらくはあの木原幻生が生まれる前からでも、まだ足りない。
どれだけ遡ればいいのか、見当もつかない。でもきっと、それくらいでちょうどいい。
ずっとずうっと、ずぅーっと前から入念に準備してきたその全てを。
アレイスターは"今"この時に集約しているに違いないのだ。
そんな相手に、一朝一夕でどうにかなるはずもない。
勿論、アレイスターは悪どい奴だ。人質を取られてるから、景朗だって十分に理解できるとも。
でも、だからこそ。もっと命を大事にしていこうぜ。不死身の自分だって、この有様なんだ。
どうか死に急がずに!
あの男は何でも知っているんだ。街で起こる事件をまっさきに嗅ぎつけ、害虫駆除の注文を授けるように、簡単に自分を顎で使う。
アレイスターの命令には逆らえない。絶対だ。
まあ、理解している。このままじゃ永遠に奴の奴隷のままだと。
倒せないなら、アレイスターの弱みを握ろうか。そう考えたりもする。
弱みを握る。あの得体の知れない、未知の方法を駆使するあの男を出し抜いて。
どうやってだ? まるで想像もつかない。
おまけに……失敗すれば? しっぽをつかまれたら?
アレイスターの弱みを探ろうと、画策する。
そんな試みすら、試したことはない。
アレイスターが、火澄たちに手をかける?
まいったね。奴の手にかかれば、ヤッヴァイくらいに簡単なことだろう。
――――冗談じゃない!
自分にだって執着を寄せる人間はいる。
彼女たちがいなくなってしまうなんてゴメンだね。
景朗はただアレイスターの命令を鵜呑みにしつづける。逆らう素振りすら見せたくはない。アレイスターと敵対しては、自分の身すら守れない。そんなこと、わかりきった事実だ。
しかし。そんな簡単な事実が、毎夜毎晩、景朗の脳みそにハンマーを打ち付ける。
(逆らったってムダなのに、懲りない連中が湧き続ける。きっと永遠に終わらない)
身を持って知っている。"連中"だって、バカじゃあないのだ。ならば、何故?何故?何故?
おいおい。またネガティブなことを考え始めている。考えても仕方のないことは考えるな。
ん。あれ? はて。迷惑をかけないように?
そういえば、もとからそんな話をするつもりでそもそも今日は彼女と待ち合わせをしたのではなかったか。
「そうだそうだそうだ。こんな話はヤメにして、そろそろ本題について話さないと」
「本題? あー……。そう、ね。クレア先生の……」
どうしたというのだろう。火澄は話題が切り替わったのとほとんど時を等しく、落ち着きがなくなった。
「ウチ(聖マリア園)の手伝いは、ワタシが何とかする」
そして、彼女は何の前振りもなく、そう宣った。
「火澄が? え、それって全部? 全面的にってこと?」
そもそもの発端は、カプセルのアジトで回収した子供4名の身元の引取りにある。子供達が増えたせいで、クレア先生の目が回りそうだ、という火澄の報告でこうして集合したわけなのだが。
「そうよ。ワタシ以上に適任者はいないでしょ? ウチの事は何でも知ってるもの」
(それは素直に、頼もしい。本人のおっしゃるとおり。文句のつけようがない)
「そのさ。なんというかね。火澄がバイトとして働くってことだよね?」
「うん」
「なんというか、色々とほぼ解決?」
「それはそうだけど、景朗は少し冷たいんじゃない? 今、ウチには高校生の代はワタシたちしかいないのに」
「ごめん。でも無理なものは無理だ」
中学の卒業はそれと同時に、聖マリア園からの卒業も意味していた。どこも似たり寄ったりだ。"置き去り(チャイルドエラー)"にとっては16才で独り立ちしたも同然だ。皆、別々の道を歩いていく。
とは言っても、人と人との縁が途切れる訳ではない。聖マリア園にも、昔は高校まで世話になる兄貴・姉貴分たちも居たと聞く。最近はそうもいかなかったみたいであるが。
然るに、景朗は中学の卒業を期に、ほとんど顔を出さなくなっていた。月に一度、様子見に行くか行かないか。そのくらいだ。あまりに頻繁に景朗自らが視察に乗り出せば、リスクを招く事態になるかもしれないからだ。
そのような体たらくだったので、園内の実情を知る手立ては、ほとんど火澄からのクチコミ便りになっている。
「ううん。ごめん、またグチっちゃって。別にいいから。仕方ないんでしょ」
ところが意外にも、火澄はすんなりと許した。景朗は目をしばたかせる。てっきり、本日はその事で色々と話し込む予定なのかと思っていたからだ。
「いや、謝るのはこっちのほうだって。あー、それじゃ。なぁ、今日は何を話したかったの?」
その質問を付け加えた途端だった。火澄は歯切れの悪そうに、どこか悩むようにアイスティーを手に取って、口に含む。
(何か変だぞ。……最初から少し変だと思ってたんだ。そりゃあ、ウチは今じゃ数が増えて20人ほどになってたけど、それが急に24人になったからって、何もかも急に忙しくなるわけじゃない。24人で目玉が飛び出るような忙しさだってんなら、その前の段階でも相当無理がたたってたはずだもんな)
火澄がバイトとして、正式にクレア先生の手伝いをしてくれるというのなら、まさしく100人力だ。問題など出てこないはずだ。
そこまで考えて。景朗は不思議に思う。それくらいの連絡なら……わりとギスギスしていた彼女との関係を考慮すれば、電話の一本で済ませてきそうなものじゃないか。
それはそれで悲しいけれども。ありえない話ではない。
現に、目の前で『自分が何とかする』と一言で言い切ったくらいなのだから。
ゴクリ、と彼女の喉が鳴る。
アイスティーに手を伸ばしたのは、逃げるためか、時間を稼ぐためか。
その瞳を、じぃっと見つめる。火澄の目は大海を自由に泳ぎ、とらえどころのない軌道を描く。
この娘、カナヅチのくせに目を泳がすのは得意ときた。
(ん? お、おや? なんか前もこんな雰囲気を味わったことが……身に覚えがある気が……)
そういえば、丹生がカノジョなのかどうか、御用改めを食らった覚えがあった。常盤台中学の、いつものカフェテリアでの話だ。まだLv5になる前で、もう少し楽観的に人生を考えていたあの日々を、思い出す。
「か、かげろう。今日はね――――深咲の事、で話をしに来た、の……」
くるものが来たか。
その話か。
この娘もう知ってるよ。あれ? 当然か?
手纏ちゃん話したのか……
女の子ってこういうことほかの人にも言っちゃうんだろうか。漫画とかドラマとかだとそうしてるしな。そうなんだろうな。火澄知ってるのか。
だいたい、彼女は手纏ちゃんと一緒に暮らしてるんだしな。遅かれ早かれ、だ。だから、まぁ……………………………………………
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああた、ハメやがった! 火澄ぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!!
「か、火澄さん、あまり人を騙すのは宜しくないのでは? 特に、俺に対して。昔からあなたは――」
「そんなの景朗には言われたくないんだからっ! アンタがワタシに吐きまくってる嘘を思えばこんなの些細な問題でしょっ?」
(うげッ。その通りだ。正論すぎる、言い返せないっ)
「な、何を根拠にそんなことを」
「わかるわよそのくらいっ! とぼける気? お馬鹿? アホなの? 無理があるでしょ?」
「うぬぬぬぬ……。ふっ。悪いけど、その話は俺と手纏ちゃんのプライベぇと」
「わかってる! 口出しはしない! でも聞いて!」
「!?」
ピキリ! と景朗は目を見開いた。
何を言い出す、この娘。
口出しをしないと言い出しつつ、まさに口出ししようとしているではありませんか!
(え? え? 口出ししない! っつって口出ししてきてますよ? なんですかこれ? 口出ししないんでしょう? ええっ?? 二律背反ですか?)
豪快な矛盾の発言に口をぽかーん、と開けた景朗を見てしまったせいなのだろうか。火澄はやや気恥ずかしそうに早口にまくし立てる。
「待って! アンフェアになっちゃうから私は余計な口を出すつもりはないの。まあそう言いつつも現時点で口を出しつつある状態ですけど! でもお願い聞いて」
息を吸うっと短く吸い込んで、さらに早口に言い切ってくる。
「その、ね? 口出しには違いないかもしれないんですけど、でもそうじゃなくてあくまでアドバイスとして聞いてください。そこのところはスルーしてお願い!」
景朗も、ようやく口を開く。
「え? アンフェア? 今、アンフェアって……アンフェアってことは何? つまり?」
一瞬にして、火澄の顔は燃えるような真っ赤に染まる。しかし顔色は変化せずとも、彼女の口調だけはすぐに平静にもどった。
「ええ、アンフェアじゃない。人の恋路に無闇に口を出すもんじゃないでしょ、フツー。例えそれが友達であろうとも」
「いやいやいや、口出しするのが一般論的にアンフェアやって言ったんとちゃうんですやろ、今の。今のアンフェア発言は誰か手纏ちゃんのほかに対抗馬が居るから、具体的な対抗馬が居るからそういう言い方になっ」
「じゃあそこもスルーしなさいっ!」
ボフ! 聴き慣れた水蒸気爆発の小さな音だ。
景朗の珠玉の一杯が、黒い飛沫を立てて襲いかかってきた。
「チョッ?! あ、わ、わあああ! うわあああッ俺のインドモンスーンが! アッ、アメリカンだったんだぞ! ああああーアメリカンのインドモンスーンだったんだ!」
悲しみを全身で表現する大男から、椅子をガタリと引いて火澄は距離をとる。
「はぁ? インド? アメリカ? なにをわけのわからないこといってんのよ、コロンブスかアンタは」
「このコーヒーのことだ! この辺じゃ珍しく挑戦的な一品だったのに。ほとんど口つけてないっ! うもああああっ、だいたい勿体無いだろ何故俺のドリンクを爆発させたがる! それ禁止!」
インドモンスーンと呼ばれる、インドのコーヒー豆がある。景朗が言っているのはその事だった。インドモンスーンを使ったアメリカンコーヒーが、無残に飛び散り果てたということなのだ。
「直接炙ったらかわいそーだからでしょ!」
後ろめたそうに、そっぽを向いている。しかし。正面を向いたほっぺたが紅い。
「いいから! 珈琲にやるくらいなら俺の髪を炙ってくださっていいから! もうアフロになるくらい深煎りしていいからっ!」
バスッ、と火澄がテーブルに両手をついた。
「話をもどしましょう」
肝の据わった眼光に威圧され、景朗は姿勢を正してしまう。きっと、幼い頃からそうやって躾られてきたからだ。気がついたときには躰がそのように行動してしまっている。
(も、もどすのか~。話を、もどすのかぁー……)
正面にいる彼女も、口では話をもどすと言っておきながら、どこかモジモジしているように見える。
「どうして返事をしないの」
何故、手纏ちゃんに告白の返事をしないのか? そういう意味だろう。
しかし、どうしてと言われても、具体的に手纏ちゃんに返事をしろ、何をしろ、と言われているわけではない。あれが告白だったのかすら、よくわからないところがある。
有耶無耶なままに終わったからだ。でも。
(わかってますよ。そんな"逃げ口上"を手纏ちゃんに言えるわけない)
「急かされたってどうにかなるもんじゃないだろ?」
「ふぅー。これは。純粋なアドバイスです。口出しじゃありません」
「おう」
「逃げずに話してあげて」
「なんて言えばいいか」
「だから今日は話をしたかったの。そんなの考える必要ないの。ただ会って、景朗の本心を言えばいいだけ。何も思いつかないなら、何も考えが浮かばないって、そう返事をすればいいんだよ? 変に取り繕わなくていいの。それだけでいいの。バカなのにどうして考えたがるの?」
「あー、それ言っちゃう? なんかもう俺、元気ない……おうち帰る……」
落ち込んだ素振りを見せる景朗を完全スルーして、火澄は言葉を重ね続けた。
「深く考えずに深咲と会って、その時感じたことを言えばいいだけなの! 何を言われるか、言うかじゃなくて、それすらわからないなら、今は会ってみてどう感じているかだけ伝えればいいいと思う」
そこまで言うと、火澄はいきなりテーブルに腕を載せ、そこにぐったりと顔を伏せた。彼女にとっても、そこまで口にするのが限界だったのだろう。
腕の中から話すせいで、火澄の声はくぐもって聞こえてきた。
「こんなこと言っちゃったけど、逃げるのも景朗の自由だから。もうこれ以上私だって偉そうなことは言わないし、景朗の選択には何も関わらない、から。でも、私は、深咲と話をするのは、早ければ早いほど良いと思う。これからも深咲と一緒に居るつもりなら」
「うん。そうだね」
「ふぅぅー。最近、深咲にはお世話になりっぱなしだったから、お節介せずにはいられなかっただけ。ごめんね景朗。余計なこと言って。これで全部、おしまい。あとは何も言いません。
まあ、あとは……同居人がいつまでも落ち込んだままなら、そうさせた犯人のことを少しくらいは、恨めしく思っちゃうこともあるかもね」
疲れたように、どこか寂しそうに、ふぃーっと息をついて、火澄は顔を上げた。
景朗は照れくさくなって、かりかりと後ろ髪を掻いた。そのまま、目線をどこへも向けずに呟く。
「あー。とりあえず、近いうちに話すよ。会ってから」
「ふーん、そう」
火澄は興味がないですよ、とばかりにバッグから携帯を取り出して、それが壊れていたことに遅れて気づいて、気まずそうにぬったりと鈍重な動きでそれをしまい直す。
「ぅおーっしゃーっ!」
ドゴッ! と今度は景朗が両腕でテーブルを叩く。火澄が突然の奇行に肝を冷やして、びくりと震える。
勢いで何もかもを吹き飛ばすように、彼は軽快に提案してみせた。
「お腹減った! 奢るからお昼食べに行こう? 嫌?」
「い、いいけど。じゃあご馳走になっちゃおうかな」
「いやー、何食う? 久しぶりに第十四学区行っちゃう?」
気まずい空気はいつものノリで吹きとばせ。景朗の態度に、火澄も追従してくれるようだ。
「うん。私もさっきの騒動でお腹へってるなあ!」
火澄も背伸びをして、気持ちよさそうに目を閉じている。
「お゛う゛っ」
(ものすごい着信履歴と、メール受信。はひいいい、丹生先輩だああああ)
胸騒ぎがして、ひとまずOFFにしていた携帯の電源をONにした。その直後。
心配した丹生からの、怒涛の着信とメールの嵐。
(ドタバタで……丹生のことすっかり忘れてた……履歴、すごいことなってる……)
「どうしたの?」
硬直した景朗を不審に思い、バッグを肩にかけた火澄が不思議そうにかしげている。
(こ、ここで丹生さんシカトなんてありえない。後日火澄さんに今日のこと教えてもらって、次は丹生さんが水蒸気爆発するよっ。ていうかそれ以前に、嫌われたくなああああい)
「あ、あのさ……丹生さんも一緒にどう?」
火澄はニコニコしていたのだが、その一瞬、時が止まったように見えた。
気のせいだったらしい。ほとんど気のせいだと思えるようなタイムラグで、もちろん! と答えてくれた。
電話で丹生を呼ぶ。ついでに手纏ちゃんにも声をかけることになるな。そう予想しつつ、景朗は横目で火澄を盗み見る。
彼女も、どこかほっとしたような表情だった。
そして、昼食を皆で一緒に食べて。事態は急変した。
手纏ちゃんと一体一(サシ)で、レストランのど真ん中。丹生と火澄は先に帰ってしまった。
これは、もう。
(今、言うしかないよな……)
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