とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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お久しぶりです。長らくお待たせしました。すごく不安でいっぱいです。


とりあえず、この四か月間、お待たせした感想とコメントへの返信を、明日中に行います。
感想の返信については、4か月もお待たせして本当に心苦しいです。
申し訳ないですorz すんごい遅ればせながらですが、お返事いたいますのでお許しください……


あ、あと、4か月も更新とまってたんで、もうお話の続きが分らない!忘れた!って人のために、年表?みたいなものをご用意しました。
内容どんなだったかわすれたー、でも読んでやるカー、というご親切な方がいらっしゃいましたら……どうか、お読みください~


episode30:引出移動(ドローポイント)

 

 

 

 

「狙われてる? 君を襲ってた連中に当たりはついてるのか?」

 

「ううん、わからない。わからないけど、わたしの能力を狙って襲って来てるはずよっ!」

 

 

 ピクリ、と景朗の片腕が脈打った。彼の指先は、少女へと向けられている。

 自由に形状を変える凶器の触腕は、先ほどから『耐え難き』とふるふると揺れている。

 キンキン声をあげる少女の、その細い首を狙っている。

 

 景朗は耐えていた。

 普段の調子であれば、もはやとっくの昔に容疑者の首を"触手"で絡めとり、拷問まがいの方法で尋問を行っているはずだった。

 

 でも。

 

 

 彼は、側坐に暴力的な解決に打って出られなかった。

 

 少女は本当の事を言っているような気がする。

 言いようのない第六感。ただそれに従っていた。

 彼女の幼い容姿も、荒い衝動を押しとどめるのに一役買っているのかもしれない。

 そうに違いない。

 

 

 あの瞬間、確かに直感がよぎった。

 初めて聞く少女の声に、わずかながら覚えのある口ぶりの幻聴をとらえた気がして。

 事実、たった今、こうして今も。

 景朗は少女に言わせるがままに、何故かその一喜一憂に耳をそばだてている。

 

 

 そうこうするうちにも、少女はじれったそうに距離を詰めてきた。

 大男に物怖じせず、その表情を覗きこんでくる。

 

 

「前と違う顔だけど今のが本当の顔なの? 今はウゲツカゲローじゃないの?」

 

 『待て』と手のひらをかざして、景朗はそれを押しとどめた。

 

(ちょっと待て。待て、待て、待て)

 

 身長差ゆえに、たったそれだけで相手の表情は手の甲で隠れて見えなくなった。

 

「"ウルフマン"? まだ信じてないのっ?」

 

 信じるもなにも、こちらは端から疑っている。

 君がスパイか。もしくはロクでもない輩からの"回し者"かもしれないと。

 

 

 PRRRRR,という着信音が、先ほどからうざったく耳にまとわりついていた。

 手元のケータイが、応答に答えろとしつこく暴れている。

 

 

 ぷるぷると手のひらで震える着信の振動だけでは、確実な証拠にはならないのかな?

 ダーリヤと名乗った少女は、そういう風に考えたらしい。

 

 

 彼女は景朗の手から、抵抗もなくするりとケータイを抜き取り、もどかしそうに口元へと添えた。

 景朗はその様子を鋭く見つめていた。だが、行動をとがめるつもりもないようだ。

 

 少女はすぐさま着信に応えて、わざとらしい挨拶を口にしてみせた。

 その間もしつこいほど、熱いまなざしを景朗から離さなかった。

 

 

「はい、もしもし」

 『はい、もしもし』

 

 カン高い女児の舌足らずな声が耳に届く。

 それとほぼ同時に重なるように、まったく同じセリフが別人の女性の音声で、景朗のケータイからも飛び出した。

 

 二人の声が届いたタイミングは、ほぼ同時だ。

 誰かほかの人間がケータイに応対している? さすがにそれは考えられない。

 第三者の工作を疑う必要がないほど、タイムラグはゼロに等しい。

 

 

「ほらね。ウルフマンみたいに声を自由に変えられたら、わたしも楽チンなのに」

 『ほらね。ウルフマンみたいに声を自由に変えられたら、わたしも楽チンなのに』

 

 おまけにそれはずいぶんと聞き覚えのあって、懐かしい声質だった。

 わざわざ一度スピーカーを中継させて発声されたかのような、無機質な声色。

 それでいてどこか、妙齢の女性を思わせるハスキーボイス。

 

 景朗の暗部駆け出し時代に嫌というほど耳にした、あの当時の彼女の声だ。

 まったくもって、記憶に残るものと遜色はない。

 

 

 紛れもなく"オペレーターさん"の声だ。

 

 

 ダーリヤという少女は、通信時に声に加工を施していたようだ。

 そもそも、暗部ではそういった個人情報保護の行為は珍しくはない。

 声紋も立派な情報戦の手がかりになる。

 犯罪の捜査にも使われているし、況や暗部ではその用心が生死を分け得る。

 

 

 景朗がうっすらと関心を寄せたのは、少女が声色を大人びたものに変えるだけという、中途半端な真似をしていたことについてだった。

 声紋を特定される事を嫌う暗部のオペレーターたちは、ダーリヤと名乗った少女とは違って、普通はもっと念入りに音声を加工する。

 いかにも機械じみた声音へと変えるものだ。その方が安全なのは考えるまでもない。

 

 

 故に、当時の景朗も"オペレーターさん"の秘密について、そこまで深く気にかけられなかったのだろう。

 

 

「あっ、ねえウルフマン覚えてる? わたしに成長期か? って言ったことあったでしょう。あの時はびっくりしたんだから」

 『あっ、ねえウルフマン覚えてる? わたしに成長期か? って言ったことあったでしょう。あの時はびっくりしたんだから』

 

 同年代の平均身長よりも小柄であろうダーリヤの地声は、とりわけ幼い。

 命を切り売りする任務中に、一体誰がこんな小さな子供の指示に素直に従えるだろうか?

 誰だって承諾しがたい。まともな人間なら誰もが嫌がる。

 

 

「でもわたしも気づいてたのよっ。 ほらさっきウルフマンが吠えた時、ウルフマンの声に似てた気がして、もしかしたらって考えていたんだから。一瞬ッ!」

 『でもわたしも気づいてたのよっ。 ほらさっきウルフマンが吠えた時、ウルフマンの声に似てた気がして、もしかしたらって考えていたんだから。一瞬ッ!』

 

 

 

 してやったり、と表情に浮かべ、ダーリヤはぎょロリとまぶたを開き、大男を見上げている。

 一心にこちらを見つめてくる少女は、無邪気なものだった。

 正直言って、悪意を見出す方が難しい。

 

 

「ウルフマンみたいに――わあ!」

 

 

 

 景朗は再び、少女の手中からケータイを奪い取った。

 その中身について、先ほどから彼は必死に考えていた。

 

 

 

 オペレーターだと言いだしたダーリヤと名乗った少女が、どうしてケータイを証拠として突きつけたのか。

 

 景朗にもその理由は分かっている。

 復元されたケータイの中身がどうして根拠になるのか。オペレーターがダーリヤであることの証明になるのか。その根拠は、仰天するようなものであった。

 

 

 重要なものであるはずなのに、少女がいやにあっさりと手渡したそのケータイに、表示されていた文字列。

 

 それはやはり、何度見ても偽物には思えなかった。

 

 その"記録"は、脳裏にこびりついている一年前の記憶と寸分違わない。

 

 

 一年前の九月、その初週。中学三年生だった景朗は『暗部の初任務』に臨み、自らの手で初めて人を殺した。当時の感触は色あせることなく、くっきりと残っている。

 "そうなってしまう"ことに、もとより予感があったのか。火澄やクレア先生、手纏ちゃんが心配して送ってくる連絡に、初任務を終えるまで景朗はまともに返事を返すことをしなかった。

 

 あの当時、火澄とはほとんどケンカしている状態だったが(よくよく考えると彼女とは定期的に衝突しているかもしれないが)それでも彼女は連絡は欠かさず、多量のメッセージやメールを残してくれていた。

 

 "ユニット"の初任務に臨む直前まで、彼女からのメッセージに目を通していたから。

 だからよおく、覚えていた。

 

 

 そして。その当時。同時期に。

 『"ユニット"指令部からの業務連絡』も、またわんさかと受け取っていた。

 

 

 

 ダーリヤと名乗った少女が言外に景朗に追及しているのは、間違いなくこの"ユニット"からの"業務連絡"についてだろう。

 

 "業務連絡"と言うからには、その内容は暗部組織では珍しくもなんともない、一般的なものだった。

 いついつの時間帯に、どこどこに来られたし、というありふれたものにすぎなかった。

 そんな風な内容が、固有名詞をボカすような"符丁"がふんだんに駆使されて、送られてくるのだ。

 事前知識のない他人が読めば、当たり障りのなく、特徴もない日常生活の一幕にしか見えないはずだ。

 

 

 

 その"当たり障りのない"メールを、この少女は一目覗いただけで"ウルフマン"のデータだと理解してみせたのだ。

 

 

 この変哲もない業務連絡のくだりで、見ず知らずの猟犬部隊の男を"ウルフマン"だと看破したのであれば。看破できるとするならば。そんな芸当が可能な人物は誰か。

 

 "オペレーターさん"は、確かに妥当な答えだ。なぜなら。

 

 このケータイに表示されている"連絡"は、全て"ユニット"時代の"オペレーターさん"が作成し、送ってきたものだからだ。

 

 

("ユニット"の事はともかく、箝口令が敷かれていた"スキーム"の一件は……俺がLv5に到達したあの事件は、ごく少数の人間しか知らないはずなんだ)

 

 このガキは、俺が"Lv5になった最後の戦い"のことを知っている。

 あの場にいた人間しか知りえない、"穂筒(プラズマエッジ)"の事まで口にしている。

 

 

 

(妥当? 筋は通っている? ……だいぶ強引じゃないか?)

 

 と、そこまで考えて。

 景朗は馬鹿馬鹿しい、と自分に言い聞かせた。

 

 

(素晴らしい。奇跡的な偶然だ! ――――んなわけあるか?!)

 

 

 偶然捕まえたこのチビが、"彼女"でしたと??

 偶然俺の秘密を暴いて、窮地に陥らせていると??

 

 

 すぐに信じろと言う方が無理だ。

 しかし、どれほどあやふやな話だろうと、雲をつかむような話だろうと、景朗はここで、この場で判断しなくてはならない。

 

 

 

「"ウルフマン"ッ! ねえほら変身してみてっ、お願いよ、お願いッ!」

 

 白い肌。白髪。全体的に"白い"少女は『変身しろ』と口にしはじめる。

 ところが景朗にとってその"変身"という単語は、忌避感を匂わすものだった。

 

 幸いにも、この少女の前で変身能力を使ってはいない。

 決定的な証拠を、まだこの娘に与えてはいないのだ。

 

 雨月景朗の過去が啄まれようとしている今、むざむざと致命的な秘密を明かしてなるものか。

 

 

 すうう、と景朗の瞳孔に縦に亀裂が入り始めていた。

 少女の興奮から、景朗の心は遠ざかっていく。

 躰は炎の様に、脳は氷の様に、肉体変化能力者は気勢を整えていった。

 

 

(呑気に構えている猶予はない。いい加減、覚悟を決めろよ。このガキは……このまま帰すわけにはいかないだろう? もう仕方のないことだろう……?)

 

 

 完全に油断していた。

 こんな小便を漏らして怯えていたチビっ子が、まさか自分の正体を見破ってくる伏兵だとは夢にも思えなかった。

 

 ああ。そうだ。

 

 知られてしまった。

 この際、このチビッ娘がオペレーターさんであろうと、そうでなかろうと、関係はない。

 知られてしまったのだ。

 "ウルフマン(雨月景朗)"が、猟犬部隊に所属している事実と。

 彼自身のウィークポイントそのものである、雨月景朗と仄暗火澄との関連性。

 

 最重要と紐付けても過言ではない秘密を、この少女は(あば)いてしまっている。

 

 

 景朗は彼女を自由にさせ過ぎたのだ。

 ケータイを弄っていた少女が、そのままどこかに"雨月景朗"の秘密をリークしていたらどうする……。

 その時間は、先ほどから十分にあった。

 

 

 このガキがスパイであったとしたら。もう手遅れだ。

 一年前。

 "ジャンク"と闘ったあの一件以降、世情から忘れ去られた人狼症候(雨月景朗)が、ここで再び"アレイスターの下僕"として"裏"の"表"に晒されることになる。

 

 

 "三頭猟犬(ケルベロス)"は大勢の人間に憎まれている。

 また、アレイスターへの"取っ掛かり"として、攻略を考えている人間もいるはずだ。

 

 

 もし、このチビが悪意ある敵対者の回し者であったとしたら。

 暗部を取り巻く雨月景朗の旗色は、既に取り返しのつかなくなるほど悪い状況に陥っている。

 

 

(もしかしたら、もう手遅れ、かもしれない……)

 

 

 ただし、絶望する前に、いくつかの疑問が浮かんでいる。

 

 

 

 もし、本当に――――少女がスパイであったとしたら。

 

(……まんまと"猟犬部隊"と"迎電部隊"を出し抜いてきたってことになる)

 

 猟犬部隊も、迎電部隊も、統括理事会が組織する優秀な部隊だ。

 この二つを欺き、一体どんな機関が、わざわざ"三頭猟犬"にスパイを送り込める?

 しかもこんなチビッコを!

 

 

 

 ……木原数多は有能だ。ただし、猟犬部隊の正式なメンバーではない雨月景朗に関わる事には、嬉々として手を抜くことがある。

 

(クソ、クレア先生の言う通りだ。"敵からは自分で守れるが、友の裏切りは神に守ってもらうしかない")

 

 味方でなければならないはずのあのクソ野郎を、心の底から信用できない。

 木原数多には、雨月景朗を擁護するという観点が絶対的に欠けている。

 

 

 

 

 とにかく確かめるしかない。

 

 このガキの能力が本当に"欠損記録"という代物なら、"データ"は今この場で復元されたものだ。

 このガキが本当に"オペレーターさん"なら、"俺"の事を知っていてもおかしくない。

 

 

 

 景朗の冷え続ける心象とは裏腹に、目の前の少女のエキサイト度合いは尋常ではなかった。

 

 

「"ウルフマン"なんでしょう? あんな力持ち"ウルフマン"しかありえないものっ!」

 

 思わず少女の様子を眺めて、ひとつまばたきを終えて。

 続いて、景朗は信じられないものを目撃するに至った。

 

 つつつ、と少女の小さな鼻から赤い"すじ"が垂れたのだ。

 

(鼻血?)

 

 えも言われぬ奇妙な感覚に包まれていた。

 自称"あなたのオペレーターさん"こと銀髪アンモニア臭少女の躍動感に溢れる喜び方には、どこかで見たような懐かしさがあった。

 

 長々と思案を巡らす間もなく、景朗は求めていた答えにたどり着いた。

 

 ああ、あれだ。ヒーローショーでカラフルなピチピチタイツメンを目撃した小学生そのものだ。

 あの狂いかけたガキどもみたいに、今にも身体中のあちこちを"はちきらせそう"な勢いなのだ。

 

 仮にこの少女があの"オペレーターさん"に関わる何者かであるならば、"雨月景朗"が"ウルフマン"として活動していた一件を知っていたのも、それなりに納得ができる。

 

 しかし、どうしてここまで嬉しがるのか。それはさっぱり理解不能だ。

 もしかして、奇跡のような出会いを目の当たりにしたからか?

 そんな偶然性には、誰もが多少なりとも興奮しようか?

 

 

「ねえ"ウルフマン"、"カスミ"って誰なの?」

 

 

 ただ、残念ながら。

 そいつが万が一"偶然"の産物に過ぎない奇跡であったとしても、景朗にはどうでもいいものだった。

 

 

 

 

「ひぐっ」

 

 長く太い、大木のような男の腕がするりと伸びると。

 まるで小枝を拾うような気軽さで、簡単に少女の細い首を掴んでいた。

 

「ごほっ。わ、なに?」

 

 驚いた様子のダーリヤは息苦しそうに首筋を伸ばし、両手で男の手首に触れた。

 がっちりとした腕は力強く、少女の力では岩塊のようにビクともしなかった。

 

 

 大男にまっすぐに見下ろされ、少女の表情に怯えによる陰りが生じつつある。

 

 

 

 

 高いところから落下して、恐怖で失禁した女児だからなんだ?

 火事を見て泣いていた女児だからなんだ?

 帽子を無くして泣いていたからなんだ?

 オペレーターさんしか知りえない情報を知っていたから、なんだ?

 

(やるしかないだろ)

 

 

 巻き付いた指の表面から極小の無痛針が無数に生え出し、少女の柔肌に食い込んでいく。

 理性と集中力をボロボロに破壊するホルモンを、景朗は疑わしきスパイ候補に注入していった。

 

 

 ここからは、投薬と暴力を交えた"尋問"の始まりだ。

 

 

 "これ"を人間相手に少なくない回数こなしてきた景朗は、もはや知識と経験として知っていた。

 

 

 嘘をあぶりだすには、コツのようなものがある。

 

 

 人間が嘘をつくには、それなりの"演技力"が必要である。

 そしてその"演技力"が発揮されるには、最低限の"冷静さ"と"集中力"が揃っていなければならない。

 

 

 

 

 ……質問を工夫して、誘導して、相手の嘘を見抜く?

 俺には、そんな必要はない。

 

 思考回路に介入して、嘘を付けなくさせてやればいい。

 

 

 全部、奪ってやればいい。

 

 冷静な判断力も、集中力も、記憶力も。

 

 

 自分が生み出す体液は、相手からそのすべてを奪い去る。

 

 

 意思や訓練では逆らえない。

 

 どんなに当人が痛みを感知したくとも、鎮痛剤を注射されれば、もはや無痛を甘受するしかない。

 

 これはそういった類の、抵抗できない現象なのだ。

 

 さらには、景朗の細い神経は直接、相手の神経に繋がる。

 意識的だろうが無意識なものだろうが、どんな反応も見逃さない。

 

 

 それはつまり。

 

(心理系のエキスパートでもない限り、俺には誰も嘘を付けない)

 

 

 もっとも、こんな小さな子供に手を下すのは、さすがに初めての経験だった。

 やり過ぎないように注意を払う必要がある。

 いまいち確証は持てないが、護衛対象なのかもしれないからだ。

 それも敵対者の回し者であれば、話は変わってしまうけれども。

 

 

「ごめんなさい。怒らないでウルフマン。ごめんなさい」

 

 明らかな怯えと不安を織り交ぜて、少女は硬直した。

 

(歳はななつ? やっつ? ここのつ?)

 

 

 うっすらと。

 ほんのうっすらと涙を浮かべ始めたダーリヤの瞳を、正面から覗く。

 そこには能面のように無表情を貼り付けた"自分の顔"が反射している。

 

 何を考えているかわからない、いかにも危険そうな男だった。

 今すぐ殴りつけて追い返してしまいたくなるような、危うさを感じさせる不審な男だ。

 

 

(もし。どこかから送られてきた回し者なら……素直に黒幕を話すわけがない。あるいは、知らされていないかもしれない)

 

 

 しかし、尋問の目的が危険性を確かめることにある以上、中途半端に行っては意味がない。

 さあ、これほど幼い相手に、どこまで"やる"つもりだ?

 こいつが口を割らなければ、一体どこまで容赦なく"やれ"ばいい?

 

 景朗も一緒の気持ちだった。

 このガキが、自分の正体を見抜いてしまったこと。

 願わくば、それは偶然の産物であってほしい。

 

 

(もういちいち気に病むな。仕方ないだろうが。

……悪いな、俺も安全な立ち位置にいるわけじゃないんだ)

 

 

「違う。怒ってないよ。ただ悪いけど、こっからはちょっとこっちの質問に答えてくれないかな? 君がダーリヤ・モギーリナヤ本人で間違いない?」

 

 当然のごとく、少女とて、景朗が素直に信じてくれる、と。

 そんな楽観的な予想はしていなかったようだが、それでも、突如攻撃性を露わにした男に、少なくない衝撃を受けているようだった。

 

 

「怒らないで。ほんとよ、わたしはほんとにオペレーターよ」

 

「怒ってるわけじゃないよ。"こうしてる"とわかるんだ。"オペレーターさん"が本当の事を言ってるのか、嘘をついてないのか。本当のことを言ってくれればなにもしないよ」

 

 最悪の想定が脳裏によぎるのか、女児は不安そうに心臓をばくばく鼓動させはじめた。

 幼い子供は祈るように、景朗の手首に触れる両手に力を込めた。

 

「もう一度聞くけど、君がダーリヤ・モギーリナヤ本人で間違いない?」

 

 景朗には、心理情報を感覚的にモニタリングすることができている。

 体内に侵食させた針が、その脈拍や反射運動、神経伝達、血中成分の変化をリアルタイムに読み取ってくれているおかげだ。

 彼女の恐れが、言葉の通り手に取るように理解できる。

 

「ホントよ。わたしがダーシャよ」

 

「ダーシャ?」

 

「ダーリヤだからダーシャでしょ? だからウルフマンはダーシャって呼んでいいわよ」

 

(嘘をついている様子はない……)

 

「って事は、あの家に居たのは結局君ひとりだったってことか?」

 

「うん……おうち……あそこに住んでたわ」

 

(……チビッ子は緊張してるし……本気で悲しんでるようだし……だいぶ興奮もしてる。こんな状態じゃ嘘は付けない……はず…………心理系に操られているのでなければ……)

 

「"マーマ"ってのは?」

 

「わたしのマーマよ。2年前に死んでるわ」

 

「……そう。じゃあ次は、どうして俺が"ウルフマン"だと思ったのか説明してくれないか?」

 

「だってわたしが"ユニット"で"ウルフマン"に連絡してたのよ? わたしが送ったメールだもの、見覚えあるわよッ! まちがいないっ! あなたはウルフマンなんでしょう?? どうして、わたしたち一緒に戦った同志――――」

 

 ばきり。

 それは、小さな電子機器が凶悪な握力で破損した音だった。

 ダーリヤは男に握りつぶされた己のケータイを見て、瞳に絶望を色濃くしていった。

 

「ああ。オペレーターさんが情報を誰かに売ってたりしてなければね。きっとあのメールの"意味"が分かった奴は、この世に2人だけだったろう。でも、そんな確証はないだろ? ……さあ、"ダーシャ"。これが一番重要な質問だ。

 

このケータイで、どこかにあの"データ"を送ったりしてないよな?」

 

「そんなことしてないわ! どうして怒るの、ウルフマン? どうして?」

 

「君が勝手に俺の秘密を探っていたことについてかい? 大丈夫、ちっとも怒っちゃいないさ。

油断してた自分が悪かったんだからね。

でもさ"ダーシャ"、他人の秘密をこそこそ嗅ぎまわる奴を一体誰が好きになる?」

 

「わたしの事は"デザイン"に訊けばわかるわ!」

 

「ああ。俺もそう思ってたさ。でもなぜか君の組織は、君の情報をこれっぽっちも寄越してこないんだ。"猟犬部隊"も"迎電部隊"も困惑してるよ」

 

 "デザイン"が情報提供してこない理由が、めっきり理解できない。

 そのことも、嫌な予感がする原因の一つだった。

 

 

「もう少し待って! きっと混乱してるのよっ!! わたしはオペレーターよ! "ウルフマン"は――――"ウルフマン"は"スリット"と戦った後、わたしに水道水にはゴキブリのエキスが入ってるから危ないって話したでしょう? ほら、こんなこと知ってるのわたしだけよ!」

 

 

 少女は頭に血が上り、興奮しつつある。それは景朗が仕組んだことだった。

 おかげで、反応が読みやすい。

 演技で怒りを見せているわけではない。少女は心底、景朗に不満があるようだ。

 ……嘘をついている兆候は見られない。

 最初から最後まで、徹頭徹尾、この子は嘘をついていない。

 

 

「確かにその可能性はゼロじゃない。じゃあ、俺が君の事をあれこれ調べるのに協力してくれるよな?」

 

「いいよ」

 

「……それじゃあこれから君の能力を試そう。ほら、壊れたケータイを返すよ」

 

 ダーリヤは強めに口を閉じると、潰されたケータイをてのひらで受け取った。

 

「たしか、"欠損記録(ファントムメモリー)"だったな? 君の説明じゃ、"読心(サイコメトリー)"なのか"念写(ソートグラフィー)"なのかわかりにくかった」

 

「ソートグラフィー。私は念写能力者よ。壊れた"記録媒体"からなら何でも情報を復元できるわ。でも"念写"するのにはまっさらな新しい記録媒体がいるの」

 

「何でもか。ありきたりだけど、写真や本でも?」

 

「できる!」

 

「それじゃあほら、新しいケータイだ」

 

 景朗は自分のケータイを差し出し、ダーリヤに見せつけた。

 

「さっきの"データ"を移せるな?」

 

 

 やれないはずはないよな? 

 わかっているだろうが、できなければ君を酷い目に合わせないといけない。

 

 言外にそう語った冷酷な男の視線を浴びつつも、少女は気丈に手足を動かし、行動に移った。

 景朗には聞こえている。

 彼女の心臓はバクバクと震えている。冷や汗が、その頬を伝って垂れた。

 

 

 

 しかし。景朗の想像以上に、ダーリヤは集中力を発揮した。

 

 

 小さな手に、二つのケータイを握りしめて。

 彼女は目を閉じ、まるで瞑想するかのように静かに息を吐いた。

 

 

 脅され、命令に努める。

 まだ小さな少女は、そんな状況に"慣れている"ようだった。

 

 

 その姿に、景朗は気づかされた。

 

 やらなきゃ殺す。できなきゃ殺す。

 そう命令してくる"悪魔"どもがずっと憎らしかった。

 他人の自由意思を歪めるあいつらを、全霊を懸けて嫌っていたはずだった。

 

 自分には守るべきものがある。その為には、手段は選べない。

 だが、それでも、あいつらの様になるのは嫌だった。

 まあ、とっくにそんなことを言える状況ではないし、諦めてはいたのだが……。

 

 でも、気が付けば……。

 

 自分は幼い少女相手に、当たり前のように決死の命令を強制するようになっている。

 

 

(結局、この世の中は行動が全てだ。俺が心の中でどんなに嫌がっていても、誰も信じないってんだから。当然だけど、当然だけどさぁ……)

 

 

 

 畳にちょこんと座ったダーリヤは、むむむ、と目をつむり唸っている。

 

 その姿を見て、景朗は唇を噛んだ。

 

 決めなきゃいけないことをまだ決めていない。

 万が一、この子がスパイだったとして、その後どうする?

 

 洗いざらい吐くまで"やる"のか?

 かといって、ほかの奴に任せたら、もっと――。

 ――――俺がやるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「できたわ! ほら、カンタンよ!」

 

 ダーリヤは立ち上がり、景朗の元へ壊れていないケータイを差し出した。

 景朗はそれを受け取って、新たに追加された"データ"に目を通した。

 

「そうみたいだな」

 

 あっさりとしたその反応を、ダーリヤは予測していたらしい。

 文句ひとつ口にせず、少女は黙って立ち尽くしている。

 次の要求を待っているのだ。

 真摯な視線が、景朗の顔面に向けられている。

 

 

 もちろん、そのつもりだとも。景朗はそんな風に、目で答えた。

 

 

 一度の実験で信用できはしない。

 まだまだ確認作業が続くことを、彼女も理解してくれている。

 

 

 手ごろなものがそれしかなかったのか、景朗はいつのまにか手にしていた教科書を、ばさりと力づくで半分に千切ってみせた。

 

 それはアームレスラーがデモンストレーションで分厚い少年誌を破くような、インパクトのある行為だった。

 ダーリヤの視線は景朗の手元に釘づけになっている。

 

 彼はそのまま、部屋に設置してあったコンロに近づいた。

 スイッチをカチリとひねると、勢いよく青い火がたぎる。

 

 真っ二つになった教科書の上半分がコンロへ突っ込まれ、火がついた。

 鍋を棚から取出し、燃え盛る紙束をゴトリとそこに放り込む。

 振り向いて、景朗はダーリヤに告げた。

 

「次はこの本だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燃えた教科書。景朗の胃液で半分ほど溶けた写真。割れて粉々になったCD。砕いて水に浸したSSD。

 それら全てに記録されていた情報を、少女は目の前で"取り出して"みせた。

 彼女が念じるだけで、損傷し、永久に失われたはずのデータ群は次々と蘇ったのだ。

 

 

 ダーリヤ・イリイーニチナ・モギーリナヤと名乗った少女は、自ら説明した通りの"能力"を景朗に証明してみせた。

 

 

 実際にまざまざと"復活"した情報を提示されては、景朗も信じなくてはならなかった。

 少なくとも、ダーリヤが"欠損記録"という特異な能力を所有しているのは、事実だ。

 

 それどころか、景朗は表情には決してあらわさなかったが、大いに驚いていた。

 学園都市においては、とりわけ"時空"に連なる能力は希少だとされている。

 代表的なのは"空間移動(テレポート)"、"読心能力(サイコメトリー)"あたりだろう。

 

 

 "予知能力(ファービジョン)"という、発現できれば一発で"超能力者"認定されるのではないかと噂されている伝説も、時間に関連する能力である。

 

 ダーリヤの"欠損記録"は"念写能力"ではあるが、時間を遡及する要素が含まれていそうだ。

 これだけの才能があれば、"警備員"の捜査補助員などに抜擢され、保護を受けつつ生活することも可能だったろう。

 

 よくよく考えれば暗部でもこれほど幼い人材は流石に珍しい。なぜ"暗部"に?

 ダーリヤの境遇に興味の芽が生え始めたところで、景朗は他人の心配をしている場合でないと、今一度振り返ったようだ。

 

 

「能力は信じよう。だから今後、命が惜しかったら二度と俺の秘密を勝手に探ろうとするなよ」

 

(そして俺も、"命が惜しかったら"相手がどんなチビであろうと油断するのはやめなくては……)

 

「大体、君もチャレンジャーだね。あんなことをしてバレたら普通ただじゃすまない。俺は未だに君が信用できないよ」

 

「だって"ウルフマン"のおたけびに似てたから、もしかしたらって思ったのよ」

 

「……君を脅したあの時の"アレ"か……」

 

 確かに、あの時のダーリヤは何かに気づいたような、怪訝そうな顔つきをしていたような。

 

「だからって"直感"と"あれだけの根拠(ユニットの業務連絡)"で、良く言い出せたもんだ」

 

 そもそもからして、ダーリヤの行動は極めて危険な行為だった。

 暗部の人間の秘密をこっそりと盗み出した挙句、自らその悪行をカミングアウトしたのだから。

 

「でもほら、わたしは無事よ。やっぱりあなたは"ウルフマン"なんでしょう?」

 

「俺は君の"能力"を信じただけだ。まだ疑ってるよ。報復しないのは、ただ単に君がまだ護衛対象だからさ。だいたいその自信はどこからきてるんだい? 俺がその"ウルフマン"だったとして、君のように怪しい奴を歓迎するとは思えないけどね?」

 

 この娘が本当にオペレーターさんだったとしても、残念ながら景朗にそれを喜ぶ心持ちは皆無だった。

 

 それどころかダーリヤには、火澄の事を知られてしまっている。

 どんな結末になろうと、最低でも彼女の記憶から"火澄の記録"を消し去ってから、送り返さねばならない。

 

 景朗のそっけない返答に、ダーリヤはそこで初めて唇を噛んだ。

 

「……それじゃあ、どうしてわたしが"ウルフマン"宛てに送ったメールが、あなたのケータイに詰まっていたの?」

 

「"ウルフマン"って奴が、とっくに死んでるからじゃないか?」

 

「……そう。じゃあ早く"デザイン"に確認してちょうだい? もういいでしょう? まだ質問する気?」

 

「そうだね。それができてれば一番手っ取り早かったな」

 

 

(……あれから一時間は経った。木原から連絡はまだ来てないが、進展くらいはあっただろう。あの野郎の事だからな。連絡サボってただけってことも……)

 

 

 

 

 油断なく、畳の上にへたり込んでいるダーリヤを見つめつつ、景朗は木原へ連絡を入れる。

 

 目尻がたるんと落ち込み、ひどく疲れたような顔つきだ。

 原因は恐らく、過度の疲労と寝不足によるものだろう。

 

 色々とダーリヤを質問攻めにして、確認作業を行っている途中からだった。

 少女は目つきがショボショボと落ち着かなくなりだした。

 

 無理もない。あの少女からすれば、昼間から大冒険を繰り返してきたような感覚のはずだ。

 目まぐるしく展開は変わり、男たちに襲われ、男に助けられ、かと思えば疑われて……。

 

 もとより、あまり睡眠を取っていなさそうだった。

 体力もそろそろ限界だろう。

 

 

「"ウルフマン"、お願いよ」

 

 幾ばくか元気のなくなった声だったが、少女ははっきりと景朗を見上げ、懇願した。

 

「確認が済んだら、もういっかいわたしのウシャンカを探してきてほしいの。もういっかい、おうちのところを探してきて……おねがい……」

 

(ウシャンカ? なんだそれは。……帽子のことか?)

 

 答えようとした次の瞬間、木原数多が通信に応じた。

 

「"ボス"。何か進展はありましたか?」

 

『無しだ。未だに"迎電部隊"のアホどもはマゴついてるらしい。だがまあ奴らにも機密ってもんがある。情報が欲しけりゃ向こうからの連絡を待て。じゃあ切るぞ』

 

「待ってくれ。このガキの情報は?」

 

『無えな。切るぞ』

 

「待てよ! ふざけるな! ――ちゃんと答えてくださいよ」

 

『だぁーからなんも音沙汰無えって言ってんだろうが。不満ならテメエで全部やれ。全部だ。いちいちオレに頼ってくるな。許可ならくれてやる。おら、これでいいだろーが?』

 

「俺に命令したのはあんただ。犯人の情報はともかく"デザイン"はどうしてこのガキの保護を依頼しといて、だんまりくれてやがるんだ? だいたいらしくねーじゃねえか? んな訳わからねーことにツッコミ入れんの大好きだったろ、あんたは?」

 

『あー。テメエ何か勘違いしてやがるなぁ――――そのガキを一応キープしとけっつったのは"スパークシグナル"の無能どもだ。で、そのガキが"デザイン"どうたらこうたらと一方的に言って来やがったのも"スパークシグナル"だ。

つか同僚だのどーこういう話はどうなった?

テメエが知らねえならオレにわかるわきゃねえだろ。

"デザイン"は最初っから何も言ってきてやがらねえ。

こっちからどういうこったと問い詰めようがしらばっくれてやがる。つか、そもそも興味ねえのかもな』

 

「っ! "デザイン"側は無反応だったのか? 今まで一貫してずっと?! 先に言えよクソ野郎!」

 

『かっかっか。喜んでガキを連れてったのはどこのどいつだぁ? 何も聞いてこなかったマヌケがいっちょまえに説教たぁ、あぁー、やってらんねえよ。どいつもこいつも笑わせるぜ。だからオレは言っただろぉが、テメエに一任するってよ。メンド臭そうだからなあ!』

 

「他人事のように……っ!」

 

『キャーキャーうるせえぞ少女趣味。何かあったらスパークシグナルに責任おっかぶせりゃあいいだろ。あ。それかオマエが取るってのはどうよ?』

 

 プツリ、とそこで通信は断ち切られた。

 

「あいつ……いい加減……殺し……ッ!」

 

 それ以上食いついても無駄だと察した景朗は、木原との会話をそこで諦めた。

 

 その時。理不尽な扱いに耐える景朗の耳に、すう、すう、と小さな寝息が入り込んだ。

 とても穏やかな音だった。

 

 いつの間にか無言となった保護対象は、今では壁に寄りかかっていた。

 限界が来たのか、ダーリヤはヨダレを垂らして眠り込んでいる。

 

 

("スパークシグナル"が"デザイン"の情報分析官だと言っただけ? "デザイン"は徹底して無関与? ……それじゃあヘタしたら、このガキが"デザイン"所属だったかどうかも確証が無いじゃないか!)

 

 ダーリヤの発言に、嘘はなかった。それは景朗が手ずから確かめたので間違いはない。

 しかし、彼の嘘発見能力にも限界はある。

 

 弱点があるのだ。それは、"予め洗脳を受けてきた人間の嘘は見抜けない"ことだ。

 

 

 当人が、"偽りの記憶"を洗脳により本気で"真実"だと思い込んでいた場合。

 それがその人間にとって"偽りのない真実"と成り代わっていた場合。

 

 彼らは自覚がまったくないので、"嘘つく瞬間の歪な反応"が肉体に現れないのだ。

 

 

 

("メンド臭い"どころの話じゃない! キナ臭え! ……クソッ! "デザイン"が一つも連絡をよこさないのは……このガキが端から"デザイン"所属じゃなかったからだってのか?)

 

 

 

 "欠損記録"によって移された、ダーリヤの連絡先を開く。

 "デザイン"への連絡先だ、と少女が答えた宛先。

 そこにはとうに確認を取っている。ただし。

 木原の言葉を証明するかのように、どこからも無反応だ。

 

 

(とにかく、ダメ元でも早急に"迎電部隊"に事実確認を取らないと)

 

 "迎電部隊"は検閲を行う部隊だ。口は相当に硬い。

 木原数多に伝達した内容以上のことを、景朗にも教えてくれるとは思えない。

 

 "猟犬部隊"の隊員として、景朗は今一度"迎電部隊"に情報提供の催促を送る。

 

「さて、どうする……?」

 

 用を終えたケータイをポケットにしまって。

 得体の知れなくなった少女を前にして、超能力者は考え込んだ。

 

 

 明日から新学期だというのに、下手をしたら雨月景朗は破滅する。

 今できることを、余さずやるしかない。

 

 

「……そうだ。"オペレーターさん"だ。少なくともこの子は"彼女"と関わりがある」

 

 もはやおぼろげな記憶であるが、ダーリヤは景朗が"オペレーターさん"と交わした雑談まで知っていた。

 本当に本当に"彼女"なのかもしれないし、"彼女"に非常に近い場所に居た人間である可能性も、また高いのではないか。

 

 それなら"奴"とも少なからず関わっている。

 景朗とて、彼には少なくない恩を売ってきたつもりだ。

 

 「組織がダメなら"個人的"に教えてくれよ、"プライム"(プラチナバーグ)さんよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数時間前。太陽が一番空高く上る頃合いへと、わずかに時間はさかのぼる。

 

 

 

 

 

 黒髪をざっくばらんに切りそろえた"少年"はスコープを覗いて、第七学区、"蜂の巣"の様子を眺めていた。

 

 

 自信満々に自らを"最精鋭"だと名乗っていた傭兵たちが、ハリウッド映画の悪役のように吹き飛んでいく。

 負け方までそちらさんの流儀でやってくれるとは、義理堅い人たちだ。

 ご苦労さん、と"少年"は精一杯の侮蔑を込めて呟いた。

 

「"アメリカ"。あれで"アメリカ"か。はは、あんな様じゃロシアの方がまだマシだったんじゃないか?」

 

『姐さんの決定に文句付けんなよ』

 

 耳にぴったりと添えられたイヤフォンが震えて、別地点で観測している相棒の返事を"少年"へと届けた。

 耳の軟骨を直接振動させるこの学園都市製のイヤフォンは、常軌を逸した静音性能を誇る。

 

 相棒の返答を合図に、"少年"は磁力投射式の長距離ライフルを慣れた手つきで構えなおした。

 

 そしてひたすらに、馬鹿力で豪快に人間を吹き飛ばしている、謎の乱入者の観察に意識を戻す。

 

 長身の男だった。肉食獣のような、鋭い動き。"少年"がそれまで観察して来た"人間の運動"の中でも最上位に位置する、惚れ惚れとするしなやかさだった。

 

 ハリウッド映画に例えたが、実際に映画の撮影なのではないか、と思い込んでしまうほどに、突然の乱入者は見事な演武を披露してくれている。

 

 直に、動ける者は誰一人いなくなるだろう。

 スコープの中心には、恐らくターゲットであろう異様に白い少女が隙を晒して縮こまっているというのに。このままでは手が出せない。

 

 次々と大した抵抗もできずに意識を失っていく"一応の味方たち"へ向けて、どうしてもむかっ腹がたって抑えられなかったのか。気がつけば彼は、またひとつ愚痴をこぼしていた。

 

衝槍弾頭(ショックランサー)(こんなもの)で俺らにあてつけといてあのザマだぞ?」

 

 長距離射程のライフルを用意しておけと託けておいたにも関わらず、あのアメリカ人たちが用意した弾薬は、精密狙撃不可能の"衝槍弾頭"だけだった。

 "少年"たちに出番はないと、彼らは鼻で笑っていたことだろう。

 にも関わらず、全員がたった1人の乱入者に制圧されてしまった。

 

 早くも計画は路頭に迷い始めている。

 押し寄せてくる徒労感に、少年はどっと息をついた。

 

 しかしまあ、それでも心地よくなかったか、と問われれば嘘になる。

 他所からやってきた"大人"が、この"街"の厳しい現実を知って膝を折る。

 その無様な姿は、見ているだけでどことなく胸がすうっと晴れた。

 

 身に染みて分かっただろう。俺たち"能力者"は、あんたたちとは根本的に違うんだ、と。

 

『認めるよ。オレらの事舐め腐るわ、あげく何もせずにノされるわ。まったくアテにならなかったな。オマエが正しかった、認める。だからもう機嫌治せよ』

 

「悪い。集中する」

 

『やるのか?』

 

「ダメ元で撃つ。準備頼むぞ」

 

 

 "少年"は、射撃の腕には少しばかり自信があった。なにせ、丸一日つかって"練習"したのだ。

 距離は1km近くある。その上、使用する弾薬は長距離射撃だと弾道がめちゃくちゃになる"衝槍弾頭"だが――――問題ない。自分になら当てられる。

 

 

 狙いはもちろん、あの男だ。

 うまくいけば、今日ここで決められる。

 

 

 才波徹兵(さいばてっぺい)は目を見張る集中力を見せ、ものの数秒で引き金を引いた。

 

 

 

 結果として。引き金を引いた瞬間、徹兵は弾道が狂うことを"経験的"に悟った。

 練習に使った銃とは違う反動が、それを教えてくれていた。

 

 

 まずい。"ターゲット"ではなく、"目標"に当たってしまうかもしれない。

 食い入るように見つめる最中。

 あの男はまたもや、惹きこまれるような美しい反応を、徹兵の目の前で繰り出した――――。

 

 

 その神懸った反応に、徹兵はゾッとした。

 

 思えば、自分は無意識のうちに"ダメ元で撃つ"と口にしていた。

 気付きたくなかっただけだ。

 頭の奥の冷静な部分は正直に、当たらないと判断していたではないか。

 

 撃つべきではなかった。徹兵は思わず歯噛みした。

 その後の行動は迅速だった。もうミスは犯せない。

 

 ライフルの引き金を引いた時とは比べ物にならないほど、彼は全神経を集中させて、その場から撤退した。

 己の"能力"の全てを引き出して、全身全霊で、ただただ逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 "少女"は、仲間が待機しているはずのマンションの一室に恐る恐る足を踏み入れた。

 

 ドアノブが鳴る金属音を聞き取ったのか、部屋に顔を出すと真っ先に、両手両足を無骨なグローブとブーツで揃えた"少年"と目があった。

 

 メタルブラックの光沢が美しいグローブが、真っ直ぐに少女へと――牡丹要(ぼたんかなめ)へと――向けられていた。

 

「わたしだッて宗吾ッ。もってきたのっ」

 

 少女は小声で出せる精一杯の叫び声をあげて、警戒する仲間へと抗議のジェスチャーを繰り返した。

 

「もってきたのっ!」

 

 ぐいぐい、と握りこぶしに親指を立てるGOODサインを返し、"少年"こと七分咲宗吾(しちぶさきそうご)も笑顔を見せた。

 

『徹兵(てっぺい)、あの子の"帽子"を取ったよっ。"ロシア帽"ってやつ? これでイケると思うっ』

 

 要は両腕で、黒い毛皮でできた耳たぶの付いた帽子を大事そうに抱えている。

 それは先ほどの火災現場にて、標的の白い少女が確かに落とした所持品だった。

 

『お手柄だ。……おい待て。マーカー(発信機)とか入ってないよな? 一応調べたよな?』

 

「やばい。まだやってない」

『OK. 今すぐやるんだ』

「マジかよ。いいニュースだと思ったのによおッ」

 

 宗吾と呼ばれた少年こと、七分咲宗吾(しちぶさきそうご)は徹兵の指摘に慌てふためくと、いそいそと手に握っていた猫のぬいぐるみをバッグへとかたずけ始めた。

 

 非常に精巧な猫のぬいぐるみは、生きている本物と見分けがつかないほど、そっくりに作られていた。

 

 猫の両眼にはカメラレンズが取り付けられていて、バッテリーも内臓されている。

 言ってしまえば、猫型の監視カメラである。

 

 味方のアメリカ人傭兵たちを襲った謎の襲撃者の姿は、この猫の両眼がきっちり撮っていてくれている。

 

 

 一方で、白い少女が所持していたと思われる"ロシア帽"を手に取った牡丹要は、ショートカットの髪の毛を盛大に揺らして、その帽子をフリスビーの様に思いっきり投げ放った。

 室内であるから、当然のように、近くの壁に目がけてだ。

 

 間もなく、帽子は壁に激突する――――かに思えた、その時。

 

 帽子はそのシルエットごと、まるごと空中で掻き消えた。

 パッと、手品のように消滅した。その途端だった。

 

 "ロシア帽"は、少女の手元に再び手品のように唐突に現れた。

 

 学園都市に住む者ならば、一目でその現象の正体に思い当たることだろう。

 メジャーである割に、使用者が少ない能力。

 "移動系能力(テレポート)"だ。

 

 牡丹要は、"移動系能力"の中でも、"取り寄せ(アポート)"専門の能力者である。

 Lv3の能力、"引出移動(ドローポイント)"の使い手だ。

 

 非常に分かり易い能力名だ。離れたところにある物体を、手元に引き寄せるようにテレポートさせる。

 日常生活でも非常に便利で、使い勝手が良い能力だ。――――ゲームセンターで、一切のクレーンゲームができないことを除けば、だが。

 

 

 要(かなめ)が引き寄せたロシア帽は、綺麗にすっぽりと彼女の手元に収まった。

 慣性も、綺麗にすっぱりと失われている。

 だが。ロシア帽の中に巧妙に縫い付けられていた"電子部品"は、そうもいかなかったようだ。

 

 要は帽子を投げる前に、しっかりとその毛皮の感触を確かめていた。

 帽子だけを、正確にアポートさせるためにだ。

 

 投げた拍子に勢いが付いたロシア帽は、その中に隠されていた発信機のみを虚空(空中)にのこして、要の手元へ帰ってきた。

 

 帽子から放り出された数点の発信機は、至極当然、勢いよく投げ出され――――いそいそと片づけに専念していた宗吾少年の背中へパラパラとぶつかった。

 

「あ」

 

「んあ? おい、要、なんだ? んん?」

 

「ごめん宗吾、それ、発信機、たぶん発信機」

 

「はあっ? ちょ、おま、これ――――何個あった?」

 

 薄暗い部屋の中で、足元に散らばった発信機と思しき電子部品の、その正確な数は宗吾にはわからない。

 さりとて、要にも数を数えられる余裕はなく。

 

「ごめん、わかんない。壊して、全部壊してっ。宗吾詳しいでしょっ」

 

「おい、オマエ、おまえなあっ」

 

 宗吾は逃げ惑うゴキブリを踏みつぶすように、どかどかとブーツで足踏みを繰り返す。

 

「しーっ、うるさいよっ」

 

「オマエがやったんだオマエがっ」

 

『どうした? 何かあったのか?』

 

「"アレ"を床にバラ撒いちまった。徹兵、とにかくこっから早くでないとまずい」

 

『わかった。落ち着け。どの道そこは危険なんだ。構うな』

 

「なんだこれは? ……これ"外"の奴だ、初めて見るな。……本当に動いてんのかこれ? にしてもほんっとセンス無えなあ"外"は、不細工なヤツ使ってんぜ」

 

「ねえ、この帽子で大丈夫だよね?」

『選択肢はない。そいつで"獏"にやってもらうしかない』

 

 猫のぬいぐるみから撮影データの入ったチップを取り出し、少年は準備を終えた。

 

「よし。すぐ出よう」

 

『おい、あの男の動画は送ったか?』

 

「いやそれが姐さんは文字だけで情報のやり取りをしろってさ。やっぱ検閲が危険なんだって」

 

「ただのバンテージ野郎じゃないの?」

 

『違うな。あいつ命中する前に気づきやがったんだ。やばいぞ』

 

 ショックランサーの弾速は空気抵抗で遅くなる。とはいえ、仮にもライフル弾の、不意をついた初撃に"あんな反応"ができるとは、並大抵の"能力者"ではない。

 

『絶対まともなヤツじゃない。"裏"の能力者だ。大能力者。嫌な予感がするから今すぐ帰ってこい。ああいや、お前はそのまま"獏"を迎えに行ってくれ』

 

「わかってんよ。なあ、帽子を持ってけばいいのか?」

 

『その帽子だけが今のところ唯一の手がかりなんだぞ? 俺らが預かっとく。お前は俺たちのために陽動を頼む。それでとにかく無事にあいつを連れてこい』

 

「私は?」

 

『帽子を頼む。"お前"が本命だ、頼むぜ。サポートはお前だ、いいか、"獏"には合流地点だけ教えればいい。お前は絶対に捕まるな、でも少しだけ目を引いてくれ。お前1人なら撒けるだろ?」

「大丈夫?」

「大丈夫だって」

 

『あのバカどものバカさ加減だと、俺らの事までバレちまうと思う。……糞ッ。だからいいな? あいつに合流地点を教えたら速攻で潜れよ? あと、危ないかもだがあいつのところから出るときも陽動役をやってほしい』

 

「おう。オッケー。……まあ、それはいいんだけど、とりま、金くれよ?」

 

 金をくれ、との発言に、ジロリ、と要は宗吾を睨んだ。

 

『仕方ない。渡してやってくれ。とにかくもう急げ』

 

 唇を尖らせて、少女はしぶしぶと革の財布をどこからともなく取り出(アポート)した。

 にやけた少年は、嬉しそうにそれを受け取って、ポケットに押し込む。

 『能力禁止』と小声で少女を煽りながら。

 

「やっぱこういう時はキャッシュかー」

 

『たぶんもう少し時間がかかる。しばらく逃げ切れ』

 

「お前こそしくんなよ?」

 

『わかってる。というか急げ、早くしろ』

 

「宗吾、あんま獏野(ばくや)をいじめないでよね?」

 

「いや無理だろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しっかし……しょんべん臭えなあ……このまま持ってかなきゃならないとは……」

 

 地面は日差しに焼かれ、容赦なく大気を温めている。

 その夏の暑さによって、蒸れに蒸れた少女の粗相の匂いに、景朗の嗅覚は苦しめられていた。

 

 

 景朗が木原数多に呼び出しを食らったのは、午前中の涼しい時間帯である。

 あれから色々とあった気がするが、まだ数時間ほどしか経っていない。

 まさに今時が、気温が最も高くなる頃合いだった。

 

 

 景朗はダーリヤを背負い、馴染みの"洗浄屋"を目指している。

 

 進んでいるのは、第十学区で一番賑わっているはずの通りだった。

 だが、雑踏と呼べるほど通行人の姿はない。

 ダラけたがりの不良の街だ。この暑さに真面目に向き合う奴が少ないんだ。

 "悪魔憑き"にとって、暑さ自体は全く気にならない。しかし。

 嗅覚や聴覚は、そうもいかない。敵対者の行動を察知する重要なファクターだ。

 鋭敏にしておくに越したことはない。

 となると。街中の悪臭や雑音が、研ぎ澄ませた分だけ跳ね返ってくる。

 

 様々な事情が絡み合い、今の景朗は常時臨戦態勢を心がけている。

 五感の鋭さを最大限に上げている、今の状況では……。

 

「このチビ、お菓子ばっかり食ってやがるな。成長期に真っ向からケンカ売ってるなー、これは」

 

 文句の一つも飛び出ようものだ。

 少女を連れ出す前に風呂に突っ込もうかと、彼も迷ったのだ。

 されど、彼女のゴタゴタとしたリュックサックを探っても着替が入っていなかった。

 

 

 あいにくと洗濯機や乾燥機といったものは、セーフハウスに設置していなかった。

 近くにコインランドリーがあるにはあったが、やっぱり時間が惜しかった。

 

 

 最終的に、景朗は『"ニオイ"が強くて分かり易い』と前向きに捉えることにしたのだが。

 少女を背負ってセーフハウスを出て、そして。

 早くも後悔にかられている、といった塩梅なのだった。

 

 

 

 

(うだうだ言ってねーで、さっさと行こう。

プラチナバーグの所へ行く前に、この子の頭の中から"俺たちの秘密"を削除しとかないと……)

 

 ダーリヤを連れてプラチナバーグの所へ押しかける前に、"火澄"の記憶を削除しておかねばならない。

 

 景朗の祈りが最大限に叶った場合――――すなはち、ダーリヤが"デザイン"所属の"オペレーターさん"だった場合だ――――その場で彼女を突っ返すことになる。

 

 

 願わくば、この子が"デザイン"所属でありますように、と景朗は祈るような気持ちだった。

 そうでなければ、この娘は恐らく、得体の知れない組織からの回し者だ。

 

 

 

 

 

 

 決して疲れを知ることのない景朗は、少女1人を背負ったままでも、淀みなく歩き続けた。

 

 その甲斐あってか、あっという間に目的地へたどり着いた。

 

 "みりん"さんの経営する記憶洗浄屋の、その玄関の前で、景朗は立ち止まった。

 

 

 そして――――異変に感づいた。

 

 立ち止まったのは、危機を察知したからだった。

 

 

 異変。それは異変というより、異臭だった。

 食べ物が腐ったような臭い。まるで、掃除をしていない廃屋のようなニオイだ。

 

(ここはオカシイ)

 

 中には、2人の人間が住んでいたはずだ。

 幾度も立ち寄ったことがある場所だが、きちんと手入れがされていた。

 当然だ。住人たちにとっては、自らの拠点に異変が無いか探すことが、命を守る術そのものだったのだから。

 

 

 十分に警戒して、景朗は住人へ来訪を呼びかける。

 学園都市の最新技術で造られた防音の建物だ。音だけで中の様子を調べることは難しかった。

 だが、鼻孔をくすぐる火薬と肉の腐った臭い。それが代わりに教えてくれる。

 店の見栄えはほとんど変わっていないが、景朗にはわかる。

 前回の訪問から時間が空いているが、わずか1, 2か月の間に随分と陰気な雰囲気を放つようになったものだ。

 

 

『フェニックス? 本物?』

 

 機械音の女性の声による出迎えだ。ここまでは、普段と同じだった。

 

「そちらが信じてくれるなら、ですけど」

 

 銀行の金庫室のような、分厚く頑丈な金属の塊のようなドアのスリットが、ガラリと開いた。

 

「いまさら何しに来たの?」

 

 そこから飛び出したのは、見知った女性の肉声だ。

 ぷーん、と沸き立つアルコールの香りと、人間の脂肪と垢と汗と、血の臭い。濃厚な女の臭い。

 

(こいつも風呂に入ってねえのかよ)

 

 厄介なのは、ドア越しに伝わってくるアルコールの臭いだ。

 アルコールの香りそのものは、景朗も大好きな香りの類であるのだが、どうしてだろう?

 この香りはいっぺん他人の口に入って出てくると、途端に不快に感じるようになる。

 

 気になるのは臭いだけではなかった。

 カチャカチャと小さな金属音が聴こえてくる。

 恐らく、内側から銃口が向けられている。

 

 "みりん"さんの対応で、景朗の予想は確かなものになった。

 

「"廃業"ですか?」

 

「廃業よ。お仕事したくてもできなくなっちゃったから」

 

 やはり、"きなこ"君は攫われたのか。いずれにせよ、いつか訪れる未来だった。

 

「最近、じゃなさそうですね。だいぶ時間が経ってますね、ひと月くらいですか?」

 

 ギリギリと、銃を握りしめる握力の軋みが聴こえてくる。相手の反応はそれだけで、返事は返ってこない。

 

「ひと月もここで何してるんですか?」

 

 ぱぁん、と弾丸が飛び出して、景朗のシャツの胸ポケットに風穴をあけた。

 

「あなたまで巻き添えを喰らわなかったのは、たぶん俺のおかげですよ」

 

 もう一発弾丸が飛んできそうだった。景朗はその前に、目にも止まらぬ早さで腕を伸ばして、スリットに突っ込んだ。

 

「あうあっ」

 

 女性の悲鳴。景朗がドアの隙間から引っこ抜いた手の中には、冷たい感触があった。

 学園都市製の優美な造形の、一丁のマシンピストルが握られていた。

 今となっては、本来の役目に使われることのなかったガラクタだった。

 

「逆恨みはやめてください。最初からわかってたことでしょう?

空から降ってくる雨粒をひとつひとつ避けるには、大きな傘か、誰も気にもとめないような小さな肉体が必要なんですよ」

 

「……助けてください……」

 

 唐突な、涙ながらの懇願だった。来ると予想していた景朗だったが、それでもわりと衝撃があった。

 

「心配しなくとも今まで無事だった以上、あなたのことは誰も気に止めていなかったみたいです。

これを機会に、ほかの学区に引越ししたらどうですか?

羨ましいですよ、全部忘れて普通に暮らしていけるなんて。

……さて。それじゃ俺も忙しいんで。もう会うこともないですね。さようなら」

 

 "色々なもの"を無視して、立ち去った。

 置き去りにした彼女の事が気になって、景朗の耳は遠く離れるまで、ぴくぴくと動いていた。

 しかし、今度は予想を裏切って、その店はずっと無音だった。

 泣きわめくとか、怒るとか、物に当たるとか、後を追って来るとか。

 色々なことを予想したがそれらを一切裏切って、とうとう、あの店の中はずっと無音だった。

 いつまでも、静寂そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 当てが外れてしまった。

 記憶操作をやってくれる"業者さん"で、あそこ以上に信頼できる店はなかったのに。

 頭の中にインプットされれている残りの候補は、イマイチ信用できない連中だけだ。

 

 

 これからどうしようか。腕のいい洗浄屋をまた見つけなくてはいけなくなった。

 

 経歴としては、雨月景朗は暗部に数年ほど漬かってきた。

 だが、最暗部に身を置いてから計算をすると、まだ1年ほどしか経っていない。

 こんな業界だ。暗部の戦闘部隊はしょっちゅう潰れるものだし、身に染みてそれは経験してきていることでもある。

 ところが、ああやって鉄火場を避けて細々と生き延びていた人たちが消えていく様を見るのは、初めての経験だった。

 

 

 いつも消す側だからわからなかった。

 何時も便利に使っていた人たちに急にいなくなられると。

 なんというか、不便だ。

 

 

 景朗は考え事を振り切るように、勢いよく歩き出した。

 けれど、目的地は決まっていない。

 

 

 これからどこへ行く?

 先に自分の状況をどうにかしなくてはならない。

 

 そう頭で理解しているつもりでも、思いのほか飲み込むことはできていなかったようだ。

 あの2人のことが、なかなか頭から離れなかった。

 

 あの人たちが敵に回していたのは、"不老不死"の馴染みの店を襲っても平気な連中だった。

 ただそれだけのことだ。

 

 かといって、景朗があれ以上彼女たちに肩入れしていたら、自分まで争いに巻き込まれていた。

 無理だ。統括理事会に関わる闇に、もうこれ以上は景朗とて関わりたくはない。関われない。

 

「もうあそこに行けないのか……弱ったな」

 

 それでも……と、IFの出来事を考えてしまった。もう何もかも手遅れで、全部遅い。でも。

 後先考えなければ、自分には何かしらの"行動"ができたはずなのだ。

 その辺を歩いている無力な"無能力者"たちとは違って。

 

 

 

「……って、おいおい、ンなこと考えてても仕方ない。今考えなきゃいけないことを考えろ。このガキが何者なのかマジでとっとと調べないと」

 

 普通の人間の躰ではないもので、頭は冷静さを維持してくれている。

 だがそれでも、やはり景朗は焦っていた。

 背中には、自分が"オペレーターさん"だと信じきっているチビッ娘がいる。

 もし、この子が"オペレーターさん"ではなかったら?

 その場合、自分は一体どこのだれの策略に巻き込まれている?

 

 

 

 心理系、心理系と脳味噌を探り、ふと、景朗は閃き行き着いた。

 

「"精神掌握"……。背に腹は代えられない。食蜂に頼むか?」

 

 

 食蜂祈操。彼女と初めて会話を交わしたのは、六月の終わりかけの大事件の最中だった。

 思い起こせば、あの日は色々なことがあった。

 

 朝っぱらから"妹達"の一件で暗部のはぐれ者たちを殺し。

 土御門にバイオテロ事件に巻き込まれ、食蜂祈操に度肝を抜かれ。

 中学生を数人死なせて、大勢のお嬢様を救った。

 直後に一般人を襲い、上条当麻にしこたま殴られ……最後の最後に、手纏ちゃんに。

 

 食蜂祈操。彼女は景朗の秘密をまるごと握っている。

 聖マリア園。仄暗火澄。手纏深咲。

 弱みのほぼ全てを握られた"悪魔憑き"は、"精神掌握"に手も足も出ない。

 

 アレイスター、幻生、垣根提督。彼らに続き、またしても己を縛る手綱が現れたのか、と景朗は決死の覚悟で彼女の元へと赴いた。が、その時の会話は、密約は、今考えても景朗にはさっぱり理解できない。

 

 食蜂は、景朗と敵対するつもりは一切無いようだった。

 木原幻生。彼の情報をリークすることを条件に、食蜂は自ら、景朗に一切干渉しないことを誓ったのだ。

 

 

 到底信じられない確約で、現に景朗はいつ裏切られるかと日々警戒しているものの、幸い今日この日までは、彼女の言う通り。

 食蜂祈操の能力の影響、その影の一片すら、景朗の目に入ってはいない。

 

『アナタに本気で寝首を取りに来られたら、制圧力の無い私にはお手上げだもの☆』

 

 放たれた冗談交じりのその一言は、案外、彼女の本音を語っていたのかもしれない。

 

 

 さて、その食蜂祈操についてであるが。

 彼女は暗部駆け出し以前から、景朗の行動を観測していたのであるからして。

 つまり、考えるだけで居心地が悪くなる思いだが、景朗の秘密のほぼ全てを知っている、といっても過言ではない人物である。

 

 故に。

 食蜂が相手であるならば、火澄との関係をこれ以上知られても、もはや何も問題はあるまい。

 ダーリヤの正体も、一発で判明する事だろう――――食蜂が正直に教えてくれれば、だが。

 

 とっさに思いついた代案だったが、思いのほか良案であるようだ。

 

「あいつに頼むのがベストだな、畜生」

 

 

 

 

 ダーリヤを背負ったまま、景朗は器用にポケットからケータイを取り出した。

 食蜂へと連絡が繋がる、憐れな操り人形の少女へと、連絡を入れようとして――――。

 

 

 PRRRRRRR. と着信があった。見知らぬ番号からだった。

 

 

 今更だが、景朗のケータイは"猟犬部隊"から支給された特別製だ。

 それはつまり、最先端の科学技術を有する学園都市のコミュニケーションツールの中でも、最もセキュリティに秀でた逸品であるということを意味している。

 

 

 その画面に、非通知の番号が映っている。

 かつてない出来事だった。

 

 アレイスターは、何時も誰かの回線を乗っ取って、誰かの振りをして連絡を押し付けてくる。

 

 一体誰だ?

 

 

 

 景朗からすれば、運命とは常に、向こう側から勝手にやってくるものだった。

 その原則は、昔からずっと変わっていない。今日という日も、また"そう"だった。

 

 着信に対応する。出迎えたのは、一人の中年男性だった。

 その人物と会話を交えたことは一度もない。

 されど、嫌というほど聞き覚えのある声でもあった。

 

 

『やあ、初めまして……というのも今更な話だな。どうかな? もしや、私をお探しではなかったかな?』

 

「……なるほど。こうして会話するのは初めてですね、"プライム"さん。ええ、是非ともあなたにお聞きしたいことがあったんです」

 

『君からの頼みとあっては無下にはできないさ。少々手違いがあって"連絡"が遅くなってしまった。すまないね』

 

「お時間を下さるんですか?」

 

『すぐに迎えを寄越そう』

 

 

 

 

 

 

 

 




今回の投稿では、あまりストーリーが進みませんでした。
その割には文章が長々とつづいて、正直言うと、面白くない、かも、しれません……

次の更新も、急いでご用意いたします。
もはや説得力が無いのですけれども(汗)

新ヒロイン登場させたから、すぐ更新するよー → 四か月停滞 の流れなので……

一応、まったくお話を書いていない、というわけではないです。
この四か月間で、部分的に、それこそ1シーンごとちぎれ千切れに書いてきました。
シーンとシーンを繋げることができれば、ぱぱっとご用意できそうなのです。次の話とその次くらいまでは。
とりあえず、ダーシャの事件が落ち着くまで、全速力で書きたいと思っていま……す!
リアルが、落ち着いてきてますので……次の木曜日!あたりに更新します。
ストーリーいっぱい進めようと思ってます、次の話は!

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