とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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episode33:旱乾照り(ブレイズダウナー)

 

 

 景朗と陽比谷はカフェから連れ立って退席して、そのまま第七学区の駅に向かっていた。

 陽比谷はすぐにもその場で文句の言い合いをつづけたそうだったが、常盤台中学が目の前にあることに気づくと、態度が豹変した。

 まるで背に腹は代えられぬとばかりに、とりあえず移動しよう、という事になったのだ。

 

「殴ってサーセン。色々積もるものがあったからさぁ……」

 

「はぁ?! 積もるもの!? それはこっちの台詞だろうがッ」

 

 陽比谷の放ったローキックを、やれやれ、と涼しい顔をしてもらい受けた。

 全くもって痛くも痒くも無さそうな態度に世の不条理を味わっているのか、むしろ蹴りを見舞った方が渋面で足を擦っている有様である。

 いつもより多めの通行人が、暴力行為を見て驚いて避けていく。

 人が多いのは、どの学校も始業式とコードレッドのコンボによるものだろう。

 

「あのなぁ……人として最低限の謝罪くらいしてほしいんだが?」

 

「もうどうしようもないジャン。別にほら、君はイカ臭くないよ? 俺が太鼓判を押すから」

 

「少しも心が痛まないのか?」

 

 蔑みきった陽比谷の視線の方が、今日に限ってはちょびっと痛い。

 

「……わかった詫びる。ごめんなさい。はいこれで詫びたよ。もうチャラだからな、はい、俺に付きまとうのは止めな? な?」

 

「それはできない」

 

「じゃあ『つきまとわない』って言うまでボッコボコにして泣かすわ」

 

「ハッ! よっしゃ! こいよ! オラ! こい!」

 

 陽比谷はニッコニコの笑顔で血管をブチ切れさせるという芸当をやってみせ、バチバチと周囲の空気を炸裂させながら、ボクシングスタイルで機敏にステップを踏み出す。

 その姿は様になっていて、またしても通行人が距離を取っていく。

 

「はぁ……わかったよ、どうすりゃいいんだ?」

 

「……ふん。……ぅうむ、うん。今さっき思いついたんだが、寿司ネタのしょくざいは寿司ネタでとれ。てことで今から回転寿司に行こう。もちろん奢りで」

 

(丹生とダーシャを待たせてんのに、この状況でオマエと悠長に寿司を食うんかい?!)

 

 しかし、本気で陽比谷が取り巻きの大能力者軍団を召喚して景朗を追跡してきたら、それはそれでウザすぎる。丹生たちと合流できなくなる。

 ここで陽比谷を昏倒させてその辺に放り捨てちゃうか。前に一度やってるけど。

 でもやっぱ、その場しのぎでしかないか。

 コイツはまた、"お仲間"を引き連れてしつこく街中を探し回るかもしれない。

 

 苦渋の選択で、景朗はその条件を飲んだ。

 

 

 

 

 

 寿司屋に向かい始めたばかりで、警備員の巡回と遭遇した。

 物々しい雰囲気は、やはり朝から第一級警報が出ているせいだろう。

 

 その2人組の片割れは、景朗の潜入する高校の教師、黄泉川愛穂だった。

 

「はぅぁ、黄泉川センセー!」

 

 真横で陽比谷が大声を出して駆けて行った。

 まさかのお前が反応するんかい、と心の中で毒づかずにはいられない。

 

 

「陽比谷ぁ? なんでこんなとこ(第七学区)にいるじゃん? 正直に言え、悪さしてないだろうな?」

 

「してますしてます、悪さしてまーす!」

 

「あー、はいはい。わかったわかった、今日は見逃してやるじゃんよ。ほらアッチ行った、行った!」

 

「鉄装さんお久しぶりです。今日もかわいい! センセーたち、これから一緒にお寿司どうですか?!」

 

(何を考えてんだこいつは!)

 

「仕事中だ! ったくお前はぁ、ホントに良くお前は教師をナンパできるじゃん? 万が一、お前が"超能力者(レベルファイブ)"にでもなったらと思うと……悪夢じゃんよ」

 

 黄泉川よりも若く、眼鏡をかけた女性は、やや照れつつも苦笑い。

 先生という貫録はあまりないが、鉄装というらしい。

 "武装無能力集団(スキルアウト)"より"警備員"を煩わせている"高位能力者(エリート)"というギャグ集団の頭を張っているだけはある。陽比谷はよく名前まで知っている。

 

「言っとくけど、テロリストに遭遇しても喧嘩を吹っかけるんじゃないぞ! ほら返事は? 今度ばかりは全力をあげてしょっぴくぞ!」

 

「え!? センセーに全力でしょっぴいていただけるんですか? そんなぁ、それは! それはそれは! ――すいません冗談です。不謹慎でした」

 

 本気の説教モード到来の兆しに慌てて、陽比谷はとりなした。

 景朗もほっと息を吐いて。そこで『しまった!』と自分自身にツッコミをいれる。

 青髪ピアスの習性が出てしまってるじゃないか。

 姉御肌で包容力のある黄泉川センセーに本気で怒られると、己の人間性の矮小さを思い知らされて、悲しくなってしまうのである。

 本音を言うと、学校で青髪ピアスとして黄泉川先生に怒られる分にはご褒美だ。

 その点では陽比谷と気が合いそうで、自己嫌悪感が湧いてくる。

 

 

「絶対だぞ!」

 

「もちろんです。大体、今日はテロリストなんて眼中にないですから!」

 

 カラッと快活に笑った陽比谷だったが、『テロリストに眼中がない』発言で、黄泉川は下げていた目尻を上げ直してしまった。

 

「気になる言いぐさじゃん、何を企んでいるんだッ?!」

 

「いやいや単に、友人と遊ぶつもりなだけですよっ」

 

 日ごろの行いが悪いせいか疑われるのも無理はない。

 たじろぐ様を見て、黄泉川はさらなる気炎を上げる寸前だった。

 

「ところでそっちのお前さんはお前さんで、どこかで会ってるよな?」

「初対面ですー」

「そうかー? あたしを見たとき『げっ、黄泉川だ』ってカオしたじゃぁん? 一度シメたやつは皆同じカオするからわっかりやすいのなんの」

「なんでそんな自信あるんですか……ボクは先生みたいな長身巨乳美人にアレルギーが出る体質なんで」

「出るのはアレルギーじゃないだろぉ?」

 

 ちゃちゃをいれてくる陽比谷の脇腹を肘で突く。ゲホゲホと咽ている。

 

 

 そこで、時間がありませんよ、と横から鉄装が注意を促してくれたのが、助け舟になった。

 彼女の焦りには真実味があったので、助ける意図はなかったのかもしれないが。

 

「すまん、時間を取った。……はぁ。ったくもう、どうしてこう生徒にまでセクハラ発言されるかねぇ」

 

 なんとまぁ、青髪ピアス変身時でもないのにセンセーに『陽比谷の仲間は所詮同じ穴の狢か』みたいな顔をされてしまったではないか!

 集ってくるブンブンバエを追い払うように、黄泉川はどっかにいけ、と手をしゃくった。

 

 しかし、黄泉川が落ち込むとは。セクハラって一体誰に?

 景朗の脳裏に、サイゴリラ先生の顔が浮かんで消えた。

 

 

 

 

 

 

 

「君、黄泉川センセーと面識あったのかい?」

 

 警備員2人が離れていったその場で、タイミングを逃すモノかと陽比谷がせまる。

 

「どっかですれ違ったかもな」

 

「ふぅん」

 

 信じて無さそうな返事である。

 景朗は改めて陽比谷と距離をとった。

 うっすら不安に思っていたところを、彼はさっそく疑ってきた。

 この男は、こういう馬鹿ではないところがウザったい。

 言い訳をするようだが、景朗は変身して人に化ける様になってから、表情の使い方には自信があった。黄泉川相手にも不覚を取ったつもりはない。

 

(しっかし、顔以外の所作で感づかれたのか? 黄泉川のヤツ、やっぱ直感がハンパないわ)

 

「はぁ~、しっかし、黄泉川センセー、ワンチャンあるかな?」

 

「……ハ? なに? ワンチャンって? 犬のハナシ?」

 

「はいはい、君にも理解できるように下品に言い換えるとだな、つまり"一発お願いできないかな"ってことだよ」

 

「どうせなら上品に言い換えろよ……そういうもんかねぇ」

 

「大事な事だろ?!」

 

 話題を変えたくて陽比谷の話に付き合おうとしたものの、方向性がはやくも危い方向にそれていて、景朗ははやく寿司店に着け、と祈った。

 

「年上だぞ? 先生だぞ?」

 

「女性を年齢で判断しようだなんて、最低だな」

 

「なんなの急に」

 

「男なら女性は年齢じゃなくて、エロいかエロくないかで判断しろよ!」

 

「どっちが最低だよ。……ったく、わかんねえな」

 

「まだ言うか!」

 

「わからねえって! なぜそんなくだらねえコトを! あったばかりの俺にイチイチ語ってくるんだよ! ひと月前に会ったときも、いきなし似たようなシモネタぶっこんできてたしよ!」

 

 陽比谷はその指摘に、意外なほど衝撃を受けていた。はっとした、と言い換えてもいい。

 

「と、当然だろう? 一度決闘しあった仲なんだ。凡百の友情よりも硬い絆で結ばれた……そう、もう僕ら"ダチ公"ってやつじゃないか」

 

「……」

 

 無言で距離をとる景朗に対し、陽比谷は苦しそうに語り出した。

 

「実は。頭のイカレた奴だと思われたくないから、正直に打ち明けとくよ。……僕は中学は男子校でね。3年間365日、寝ていない時はほとんどシモネタ漬けの毎日だった……。その習慣が染みついてしまってて、女の子が目の前にいないと無意識のうちにどんなハナシだろうがオチをぜんぶエロネタでシメてしまう体質になってしまっているんだ……」

 

(体質?)

 

 なんかもう、とりあえず疑問符は流そうと思うけれど。

 

(いやそれでも、依然としてお前から"頭のイカレた"って部分は切り離したくないのじゃが)

 

「なんだ。そうだったのか。陽比谷クン、正直に話せるなんて、君はじつにエライね」

 

「そ、そうかい? ありがとう」

 

「ボクが浅学だったよ。男子校に行った人って、みんなそうなるの?」

 

 コクリ、と陽比谷は悔しそうに、力なく頷いた。

 

「そうなんだ。ところで、陽比谷クン、あの、これだけは言わせてほしいな」

 

 景朗は酷薄そうな無表情を、演じることなく本心で造り出して。

 

「病院いけよ」

 

 冷酷に切り捨てた。

 

「ぁっ、ぁば、ぁぅ」

 

「なに大嘘ぶっこいてんだこの猿ゥ! シモネタしか言えんのはお前が、脳ミソがキンタマに付いてるチンパンだからじゃろうが! 二度と俺に触るなよ、チンパンが染つる!」

 

 自分のことを思いっきり棚に上げて、唇を釣り上げて罵った。

 

「うわあああああ! もうやめろ! やめろっ!」

 

 大ダメージを受けた陽比谷は、両耳を手でふさいでガードするので精いっぱいだ。

 景朗は更なる大声で、追撃を見舞う。

 

「みなさーん! ここにどんなハナシもシモネタでオトせると豪語する変態芸能の天才がいますよー! よってらっしゃいみてらっしゃーい!! さあさあさあ! ほら!」

 

「ワアーアーアーッ! やめてくでえええええええええッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛めつけすぎたのか、陽比谷は抜け殻のように質問にするすると答えるようになった。

 舌なめずりをした景朗は、"超能力者"とは実際どんな風に戦ったの? と聴いていこうとしたかったのだが。

 最初に話題になった御坂美琴との対戦バナシが、初っ端から脱線して彼女のバストのハナシに変わってしまい、それに気づいた陽比谷は会話を自粛してしまった。

 無理にこじ開けてもどうせ……と景朗サイドも諦めた。そんな顛末だった。

 

 

 まあ、要約すると以下の流れだった。

 御坂美琴にタイマンを挑み、戦いの場を予め狙っていた建設現場の空き地にまんまと誘導できた。

 そこは新素材を使った木造家屋が建てられる予定で、置いてある建材には御坂美琴が磁力で操れるものがほとんどなかったそうだ。

 しかも念入りに、前の日に磁力で操れそうなものを取り除いておいていたらしい。

 まぁそこから色々あって、戦いの最中に家の柱が吹き飛び、戦いを見ていたギャラリーの子が柱の下敷きになったという。

 下敷きになった子は奇しくも発電能力者で、御坂さんに至近距離で能力を使われると痛みがある、と言いだした。

 その場には高位のテレキネシストもおらず、青ざめた御坂さんに、陽比谷は2人して柱をどかそうと提案した。

 その時に『せーの!』と掛け声を合わせよう、と勢いでゴリ押したのだそうだ。

 人の良い御坂さんは恥ずかしながらも付き合ってくれたらしい。

 だが、それは陽比谷の罠だったのだ。

 

「実は『セーノ』という発音はイタリア語で『おっぱい』という意味なんだ。汗で夏服のシャツに浮かぶ、つつましやかな彼女の胸元を眺めながら、2人して「せーの!」と掛け声を合わせたときの背徳感は! もう! 対戦なんかどうでもよくなってしまいそうだったよ……あ、ちなみに『せーの!』って掛け声をモンゴルで言う時は『オッパイ!』って発音するんだ、知ってたかい? つまりだな! なんとか御坂さんをモンゴルまでつれていければ、彼女に合法的に『オッパイ!』と言わせることが可能になるってことなのだ!』

「マジか……やべぇな……」

「な! ヤバイだろ!?」

「お、おう……男子校って……マジでヤバいんだな……」

 

 景朗の発言で正気に戻った陽比谷からは、壊れていく音がしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「はよ歩けよ、オラ、乳(ぱい)ろきねしすと!」

 

「うるさい……黙れ……」

 

 脱力しきった陽比谷の尻を足で小突くが、のれんに腕押しである。

 

 カフェから回転寿司店まで大した距離もないのに、まだ移動できていないなんて。

 この野郎もどっかの少女と同じくトラブルばかり運んでくるヤツである。

 

「(……おにぃー……さまぁー……)」

 

 先程から上品な叫び声が、遠くから聞こえていた。距離的には100mも離れていないのだろうが。

 景朗にとっては、あらゆる距離から人の声が届いてくるのは日常的なことである。

 ただ、彼が"気にした"となれば、その声の主がこちらに近づいていることを示している。

 

「ん~……なあおい、あれ見ろ。 こっちに近づいて来てないか?」

 

 陽比谷は声に気づいていないのか、何事かと景朗の指差す方向へ首を振った。

 

「ん? ……うそだろっ……あ……ま、まひゃか!」

 

 怯えだす陽比谷だったが、近づいてくる声の主は、それほど危険には見えない。

 なにしろ相手は、常盤台中学の制服を着た少女がたった1人である。

 彼女は日傘を差したまま走り出したので、バサバサという音が激しくなった。

 

「ああああ、ない! ない! ないないない! ひ、日焼け止めが! あった! あああ、これダメなやつじゃん、パぁぁ!」

 

 通学バッグを漁り、取り出した日焼け止めのチューブの記載を見て青年は悲嘆に暮れている。

 その日焼け止めではダメなのだろうか?

 

「おいダイナソー、頼む! 日焼け止め持ってたら貸してくれ一生のおねが」「お兄様? おにぃさまぁー!」

 

「寄るな触るなそんなもんない! 無いって、俺はんなもん使ったこともない」

 

「じゃあ急げ! とにかく日陰に、日陰に、日陰に」

「お兄様っ! 逃げないでっ! おにぃさまぁー!」

「ちょっ触んな! クソッ離せ触ってんじゃねえぞカマ野郎! 何べんも言わすなッ――――チンパンが染つる!」

 

 陽比谷の力は火事場の馬鹿力とも呼べるほど強く、しつこかった。

 

「ああもう、こっちこいっ――うああ動けよっ!」

 

 背中を押してくる陽比谷。ビクともしない景朗は、意味がわからない。

 陽比谷を兄と呼ぶ以上、妹ではないのか。

 食蜂操祈は"義理の"と口にしていたが、陽比谷兄妹の、片割れ。

 変に逃げて追い回されるより、忙しいからときっぱり断ればいいはずだ。

 

 と、思った瞬間から、それは始まった。

 

(焦げ臭い)

 

 唐突に、辺り一面から空気の乾くニオイが巻き起こりだす。

 それは水気の一切ない、まるで炎天下の砂漠のような……。

 乾燥した突風が吹いたわけでもない。

 近場でも離れた場所でも、火事など起きていない。

 原因は何か。もしやテロリストが?

 違う。そんな騒動は聞こえてこない。

 

「ああ、ちちぃゃっ、いっちゃちゃぁ!」

 

 たまりかねたように、陽比谷がカンフー映画のような悲鳴をあげだした。

 その理由はニオイで分かった。

 周囲はすでに焦げ臭さの海だが、その中で最も強く臭いを放っているのは、彼なのだ。

 体中をやんわりと焦がしまくって、悶えている。

 音を立てているのは――――彼の、皮膚? 

 いや"表面まるごと"だ。制服もチリチリと音を立て始めた。

 

 原因は――"日差し"か?

 少女がすぐそばに寄って来ると、疑いようがなくなった。

 太陽の照り付けが猛烈に強まったからだ。

 もはや陽比谷は乾燥機に入れられて転がされているような有様である。

 

「南天(なんてん)、いつも言ってるでしょう……こんな真夏日に出歩いちゃいけないよ……」

 

 絞り出されたのは、この短時間でカラカラに乾いてしまった声だった。

 

「ご機嫌よう、お兄様っ! ご機嫌よう、お初にお目にかかります」

 

 ペコリと頭を下げられたが、茜色の日傘から現れたのは少女が被るカンカン帽のてっぺんだけ。だいぶ身長差があった。

 兄とは対照的な、みずみずしく高い声。でも常盤台中学の制服を着ているので、中学1年生なのは間違いない。

 

(これが陽比谷の妹、陽比谷南天か)

 

 不思議な臭いのする少女だった。

 身もふたもないが、景朗にとって人間の匂いはみんな等しく臭いと定義するようなものである。

 しかして、この少女のものは、とりわけ動物的なソレの印象が濃ゆく感じてしまう。

 彼女が発動させている能力のせいだろうか。そもそもどこからも焦げクサいニオイが立ち込めていて何とも言い難い。

 

「やっとお兄様の方からお会いに来て下さったのですね! 寮監様が大変厳格な方でして、なんとまぁ夏期休暇期間だというのに、私からはお兄様に会いに行けなかったのです。ご病気で臥せられておられたときもお母様に許可をもらえず、風雪に耐えがたき思いでした。お許しくださいお兄様」

 

「ハハ……南天が言うと、なんてことなかったように聞こえるね……」

 

 最初からわかっていたが、景朗には興味がないらしい。

 熱心に陽比谷にだけ話しかけている。

 

「しっかし寮監さんは正しいよ。正しすぎる……夏休みは……夏だから、夏だからね……」

 

「そういうわけでお兄様すみませんっ、やっと会えました嬉しさで力(能力)がどうしても緩んでしまいます!」

 

 えいっ、と腕を伸ばして、南天は兄の上に日傘を掲げた。

 しかし、陽比谷は変わらずオーブントースターに閉じ込められたハムスターのよう。

 あまり効果はないみたいである。

 

「夏場はぁ、自重してほしい。人様に迷惑が、掛っちゃう季節だろ?」

 

「そんなことありませんっ。おひさまだって、いつもこのくらいのご陽気ではありませんか」

 

(どこがだ)

 

 被害は甚大だった。

 景朗たちの周りにいた通行人はギラギラと滾る日射に耐えかねて、とっくに日陰に逃げ散っていた。

 聞いたこともないが、これが少女の能力なのだろう。

 

(……いや、見覚えはある、あった。"陽比谷兄妹"。"陽比谷"をネットで検索した時に、出て来たワードだ!)

 

 異臭の質は刻一刻と変化している。真横を走る道路のアスファルトはもうユルッユルだ。

 側を通り過ぎて行く乗用車のタイヤが、ベリベリベリ、と汚い音を立てていく。

 陽比谷の言った『人様に迷惑がかかる』という部分には2重で赤線を引くべきだ。

 

 どうせ2人だけで話し込んでいるので、景朗は端末でネット検索に勤しんだ。

 陽比谷の妹について。

 ひとまず、兄貴ほど有名人ではなかった。

 検索できたのは、彼女の能力くらいである。

 "旱乾照(かんかんで)り(ブレイズダウナー)"。大能力者(レベル4)。

 名前の通り、日差しを強め乾燥を招く。

 ただし、今のように能力を抑えずにまともに使えば、周囲を旱魃状態にさせるどころでは済まず、容易く業火を引き起こすほどの猛威を振るうという。

 流石はネット記事。かっこよく大げさな文章であるが、読む限り"灼熱"と形容できそうだ。

 かんかんでり……旱魃。なんだか、聖書にでもでてきそうな力だな、というが景朗の印象だった。

 

 研究機関や一部の生徒には、兄妹ともに屈指の発火能力を操るので有名なようだ。

 

 さもありなん。兄妹だからといって同系統になるわけではない。しかも2人とも大能力者。

 DNA的な面から能力を語る好例として、様々な場で議論が交わされている、とのこと。

 これが、ネットに陽比谷のみならず、兄妹二人分の名前が転がっていた理由である。

 景朗が知らなかったのは、能力分野がほとんど被っていないせいかもしれない。

 生じている現象のエネルギースケールが違いすぎる。

 

 

「能力ぅは、順調に上がってるかい?」

 

「いいえ、其方は芳しくありません。ですがっ、胸囲は1.5cm大きくなりました!」

 

 あ、胸の話題ですこし活力が戻ったように見える。筋金入りの変態だぜこいつは。

 

「胸なんか……あ、いや、大きくなったのなら、おめでとう、と言っておこうかな。ごほん。違う違う、そうじゃない。南天、そんなことは気にしなくていいの。僕は女性を外見で判断したりしないよ」

 

「はいっ。承知しておりますっ」

 

「あまり迷惑をかけずに気を付けて、開発を頑張ろう。約束だろ、約束」

 

「はぁいっ。頑張って、もっとお胸を大きくします!」

 

(妹にはエロ猿だってバレてんじゃん)

 

 だからぁ……と掠れた声で訂正しようとするも、妹に押し切られている。

 陽比谷にはもはやその程度の元気も残っていないらしい。

 

「お兄様。今、御付き合いされている方は何人なんですか?」

 

「だからぁ、居ないって。ほら、それより、新しくできた"男"友達を紹介するよ。この人は"メリト"とは関係ない友人だよ」

 

 陽比谷は殊更に"能力主義(メリトクラート)"とは無関係な点を強調した。

 意外だった。南天ちゃんは、陽比谷の学生決闘に否定的らしい。

 

(いや、意外じゃないか。常盤台は能力の濫用を許可してさそうだものな)

 

「この殿方が、ですか……?」

 

 カンカン帽を目深にかぶって目線を合わせてこなかった少女が、ようやくこちらを見上げた。

 

「失礼申し上げます。お兄様とは、如何様に交誼を結ばれたのでしょうか?」

 

 名前すら聞かれずに質問されるとは、珍しい。

 

(なんで、この娘は初対面の俺に敵意ムキ出しなのかね)

 

「それは……」

 

 陽比谷が答えあぐねている。

 

「いや、単に道でとおりすがっただけだよ、"最初は"」

 

「なるほど。行きずりのご関係から……」

 

 得心が行きました、と時代がかった台詞を紡ぎ、少女は景朗の前に立ちふさがった。

 陽比谷を背中に隠すように。そして。キリッ、と凛々しいドヤ顔が襲ってくる。

 

「この方は、お兄様の貞操を狙うホモセクシュアル野郎に決まっています!」

 

(兄妹そろって血の気が多いなぁ。……いや、食蜂の話が本当なら、血は繋がってない……)

 

 義理の兄妹か――などと心の中でシリアスに展開していた考察が、月面までぶっ飛んでいった。

 

(なんてことほざくこのガキ?!)

 

「なァんてん?! ホントに失礼だよ?」

 

「だってお兄様はご存知ないかもしれませんが、特殊嗜好の殿方からの評判が異様に高いのですっ! 同性愛者の方々の好きな学園都市タレントランキングでは不動のトップスリーにランクインされているのですよっ!」

 

 身体的に干からびてミイラになりかけていた陽比谷に、今度は精神的なダメージでトドメが入りそうだった。

 妹の暴言による刺し傷が骨髄まで到達しつつある彼の様子は、あまりに哀れを誘った。

 

「ひっ、人様に出会い頭にホ○臭いと言いがかりつけるたぁ、ホンットーに失礼だぞおじょーさん。だったらこっちも遠慮なく言わせてもらおうか。俺は分け合って鼻が利く。君ね、言うまいと思ってたんだが」

 

「なんですかっ?!」

 

「変な香水つけてるのか知らないが、ひっでえ臭いだぞ。嗅いだことがない臭いだ。君が迷惑省みずタレ流してる能力も合わさって、最悪の悪臭だよ! 兄貴の心配する前に自分の能力を――」

 

「あ、あああくしゅう? う、うう。なんなんですかその無礼な物言いはっ」

 

「貴様っ、人様の妹を本気で異臭呼ばわりか!? 謝れ、年頃の女の子になんてこと言うんだ!」

 

 陽比谷はどっちの味方なのか。

 しかし、南天ちゃんが泣きそうだったので、しぶしぶ謝るしかない。

 萎れる様に目元がうるんでいく南天ちゃんだったが、しかして現実はその逆。

 陽比谷南天の周囲数十メートルは最早、灼熱の大地と化している。

 アフリカ大陸の乾荒原をイメージさせる、空気の揺らめきすら煮え立っていた。

 

「くちびるが割れたぁぁ、なんてぇん! もうヤメテ!」

 

 なんともいえない、この髪の毛の焦げる匂い。

 火澄に炙られる時と同じ匂いだ。

 たまらず日陰に逃げ込んでいく兄貴だったが、その逃亡にさほど意味はなかった。

 涼しそうな日陰に陣取ったというのに、チリチリと陽に照らされ揺らめいている。

 シュールな光景であるが、恐るべき事実を浮き彫りにしていた。

 少しでも日光が差す空間であれば、この少女の能力は何物をも逃さないのだ。

 

 ただ太陽光を強めているわけではない。

 太陽が当たったところに、何らかの作用が働いている。

 

 

「ごめん言いすぎた。ほらほらほらほら、陽比谷クンがミイラになりかけてるゾ。能力おさえて、おさえて」

 

「なぜ、貴方は平気なのですか?」

 

 ぎゅっ、と日傘の柄を握りしめ、南天は平然と立つ景朗を不気味そうに見上げている。

 

「やはり貴女でしたの、陽比谷さん」

 

 突然、新たに少女が現れた。

 聞き覚えのありすぎる声。ツインテールのシルエット。

 テレポーターの接近には音が無く、肝を冷やされる。

 

「あら、白井さん。御機嫌よう。朝からお姿をお見かけしませんでした、いずこに?」

 

「異常な日差し。と伺って真っ先に貴女を思い浮かべましたけれど、アテは外れてくれなかったようです。良かったのか悪かったのか」

 

 一体どちらの間が悪いのだろう。何度目か数えていられない、雨月景朗と白井黒子の対面である。

 

 

「白井さん、この方が私に暴言をっ。私、侮辱されましたっ! 確保してくださいましっ」

 

「"暴言"~? ってアチッ!」

 

 白井黒子は慌てて南天の日傘に退避する。陽比谷は日傘の下でもチリチリしていたが、白井黒子は日差しが和らいだように感じているらしい。

 どうみてもこの状況に慣れている。

 

 

「白井さん、お手伝いできなくて申し訳ありません。しかし、能力は私闘に用いるべからず、その禁を破れば……あ、ああああ"あの方"にどんな非道を誅されることか……"風紀委員"に属しておりませぬ私には、ご助力できかねますぅ」

 

 ぶるぶると震えて、白井黒子に助けを乞うているが。

 

(はて。能力は既に使っているだろ?)

 

 あきれ果てた男。憤る同級生。悶えるその兄のミイラ。

 それらを順番に観察して、白井黒子はあっというまに結論を導きだした。

 がしいっ、と南天の手の甲ごと、彼女は日傘の軸を握りしめた。

 

「確保されるのは、貴女ですわ!」

 

「またですか? どうしてですかっ!」

 

「まったく、紛らわしい騒動を起こさないでくださいまし。

 "風紀委員"も"警備員"もテロリスト探しにピリピリしておりますのにッ。

 常盤台の生徒だと聞いてしまっては、ワタクシが駆けつけるほかないじゃないですのっ!

 

 そちらの殿方には多少、怪しい点はありますけれどっ、毎回毎回貴女の引き起こす騒動とは比べられませんわッ」

 

(おや? これは良い流れだぞ??)

 

「ひゃぁ~~っ、やっぱり! やめてください白井さんっ、私まだっ、お兄様とお話したいんですっ! 連れてかないでっ!」

 

(話せる状態じゃないと思うんですが……)

 

 南天は強引に日傘を放りだすと、白井の拘束から逃れる様に暴れ出した。

 

「ウッゲェェェェッ! おやめくださいな陽比谷さんワタクシのお肌がッーー! この街のUVケアでも貴女の日差しは防げませんの!」

 

 白井黒子はいったん拘束を解いて、猛スピードで日傘を拾いなおした。当然その隙に、南天は逃げる。

 

「私だって晴れやかな空の下でお兄様とお喋りする権利があるんです! 見逃してくださいましっ!」

 

「大人しくしてくださいましッ! 悪気がなかったのは認めますがっ、一応規則ですからっ! いい加減ッ、こちらにッ!」

 

 お嬢様言葉を連発する2人は景朗の周りをぐるぐる回りだした。

 

(なんスか、この茶番?)

 

 しばし追いかけっこは続いたが、唐突に終焉を迎えた。

 足を突き出して南天をすっころがした、景朗の功績によって。

 

「お仕事、お疲れ様です!」

 

 ピシッと敬礼をキメると、南天を確保した育ちの良い白井さんは、あらどうもご丁寧に、と返してくれる。

 

「あら?貴方、どこかで……?」

 

「いえ、決して。それより、そっちの彼の面倒は自分が看ます。近くの警備員のところに連れて行くので、大丈夫です。それほど親しくないのですが、まぁ友人なのでそれくらいは」

 

「あら、そうですか。それは助かりますわ」

 

「ふぇああああ! いやいやいや、わぁ! お待ちください白井さっ、お兄様ぁ~、助け」

 

 一刻も早く南天を抑えてしまいたかったのか、白井黒子は礼を述べるとともに、さっそくテレポートで南天ともども姿を消した。

 

「う、嘘だ……嘘だっ……」

 

「ん? あ、おい、何してるッ、やめろ! 傷口を広げるな!」

 

「だ、だって、ラ、ランキング……はああう、ほ、本当に載ってるっ!僕の名前がぁあああああああああああああああああああっ!」

 

「どうしてそんなことを! 諦めるべきだったんだ、現実は変わらない!

良く言うだろ!? 芸能人はネットでエゴサしちゃいけないんだよ!!」

 

「うわあああああああああああああああ……」

 

 ミイラのような相貌で絶望の雄叫びをあげる様は、ホラー映画さながらである。

 実のところ、目まぐるしく不運に襲われた彼の姿を慮れば、仕方がない寿司くらい奢ってやろうかという心持ちだったのだけれども。

 しかしこの惨状ではどうあがいても、不可能だろう。

 

「結局……チミは"警備員"のところでお世話になる宿命なんだね……」

 

 

 

 

 

 

 朝からコードレッドが発令されていたおかげか、街を巡回している警備員は探せばすぐに見つかった。

 陽比谷を預けて、待たせっぱなしの丹生とダーリヤのもとへ急行する。

 

 連絡では、景朗たちがいたカフェテラスから、少し離れたティーハウスで2人は時間を潰してくれていたようだ。

 

 

 幹線道路から1本ずれた通りの、寂れた文具店の前で2人を待つ。

 姦しく言い争う女子高生と女子小学生……ではなく女子児童が近づいてくる。

 

 変身しているので、見つけてもらえるように片腕をあげ、ぐるぐると大げさに回して合図を送る。

 とぱぱぱぱーっ、とダーリヤが走り出した。

 やや遅れて、何かに気づいたらしい丹生も、過敏にスタートダッシュを切った。

 

「うづゅふまん! たいへんっ、たいへんよ!」

 

「なに!?」

 

 全然そのような雰囲気はなかったが。

 

「ニウはっ、今までトナカイが! うどぅふまん! ニウはトナカイがいるって今までハカッ」

「うぎょぁぁクソガキッ! それ以上言うんジャネェー!」

「何だよ……」

 

 どこも大変そうではない。

 何事かと思って聞き流したが、アイコンタクトでウルフマンと呼んでんぢゃねえ、としかめっ面を送った。如何せん、2人はそれどころではないけれども。。

 

 もしかして今までずっと口喧嘩していたの?

 そう思わせるほど出会ってすぐのはずなのに既に遠慮をどこかに置き去りにした、丹生さんの本気度90%越えの羽交い絞めがダーリヤに見舞われている。

 

 相性は良くないと思っていたが、速攻で喧嘩するほどとは。

 ダーシャは丹生のことをナメきっていたので、ひと悶着あるかと覚悟していたが想定以上である。

 

「ぐぶ、はなせ、はなせ貧乳、ヒンニウッ、ヒンニウオンナッ、ぅぐ、ぐぺっ」

 

 ダーリヤはガシガシと丹生の足を蹴っているが、その方とて暗部のウェットチームで鍛えていた人財だ。ダーリヤも知っていように。フィジカルで敵うはずが無いだろう。

 

「"それ"言うなッてイッテェァオ! ィタッ、タタッ、ゆるさネェーッ、クスガキィィ!」

 

「ヒーッ、ヒンニウッ! ヒンニウーッ! ヒッ――ひんにゃ。ぬゅひ」

 

 『絞められた9歳の児童が』とはいえ、本気で蹴られている以上、お互いにソコソコ痛いようで、引く気がまったく無い。

 ……これは余計かもしれないが、丹生だってC……B以上はありそうで、特に貧乳とは呼べ無いだろう、不憫だった。

 

「たすけて! うぐっふ、まぁぁん!」

 

 どうなったら終わりなの、この闘いは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 無理やり両者を引きはがし、ケンカを再開させないように、売店で並々と注がれたドリンクをテイクアウトして持たせて。

 それから景朗たちはタクシーを拾って、第十学区のセーフハウスへと向かっている。

 

 後部座席で2人に挟まれた景朗は、機を見計らって話を切り出した。

 

「でさ、たま~に、チビガキの面倒を見てもらうことになるかもなんだよね。風呂に入れたり」

 

「お風呂?」

 

「風呂のサボり魔なんだよ」

「ガロー、一緒に入ればいいでしょう」

「仕方ないなぁ……」

 

 景朗と丹生は息を合わせて、ダーリヤをスルーした。

 

「そのときは飯とかも作ってくれたら……良ければ」

 

「ええぇ……」

 

 景朗の頼みにここまで丹生が拒否反応を示すのは珍しいが、気持ちはわかる。

 今なおダーリヤは景朗に隠れて、時たま丹生にガンつけている。

 景朗の優先順位がどちらにあるのか、理解してくれているのだろうか。

 任務上ダーリヤを守るつもりではあるが、それが破錠する惨事にでもなれば、丹生の身の安全を第一に取る。

 この娘の勘違いを正したくはあるが、ストレートに伝えたらショック死される気がして、めんどうくさい。

 

「はぁ~。わかった、でもッ。そんなに期待しないでよ」

「いいのか?」

「まあね。ふふ、激辛カレーをお見舞いしてやる……キラッ!」

 

 攻撃的な丹生のウインクに、ダーリヤはガチギレ一歩前といった表情だ。

 

「くちに出して言うんじゃないわよヒンニギッ。ふりふまん助けへふ」

 

 景朗はダーリヤの口を抑える。だからウルフマンて言うな。

 

「おや、まだカレーの修行は続いてたんだ?」

 

 ちょっと前まで、彼女はオムライスの修行をしていた。

 修行といったが、一定期間集中して同じ料理を上達するまで作り続けるだけである。

 成果として披露された、見事なふわとろオムライスをご相伴にあずかったこともある。

 見事だったのは料理の外見だけだったことは秘密である。

 

「むご…むばっぺッ。こんなやつの料理なんて食べたくないわ。私の食事に口を出さないでっ」

 

「俺が預かってる間に病気にはさせられないだろうが」

 

「病気に? ならないわよ」

 

「そうか? じゃあ最後に野菜を食べたのはいつ?」

 

「サプリを飲んでるから平気よ」

 

 おすまし顔が可愛らしい。

 

「そういうことね」

 

 丹生は納得してくれたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十学区のセーフハウスは、景朗の所有する物件の中でも一等のセキュリティを施してある。丹生にも各種デバイスの使い方は熟知してもらっているし、何かあればすぐに連絡はくる。

 

 丹生とダーリヤを置いて、景朗は早速、第七学区マンション群通称"蜂の巣"へと足を運んでいた。

 

 元ダーリヤ宅へと近づくと、誰かが現場を調査している気配があった。

 十中八九、"迎電部隊"であろうから、昨夜コンタクトを取った"電話の男"に確認を図ってみる。

 すると、幸いにも応答があり、景朗は何故か、予想と違って別棟の別室へと案内をされたのだった。

 

 

 隊員に身分をチェックされて、部屋に入った。

 空き家であったようで、生活跡は全く無く、照明器具もなくて暗く、埃臭い。

 

「どうも、"スライス"だ」

 

 しゃがんで床を調べていた男の背中に、話しかける。

 

「こちらこそ昨晩はどうも。意外と早い再開になったな、"猟犬"」

 

 立ち上がって振り向き、男は名乗った。中肉中背。黒っぽい装備で身を固めている。

 ほとんどパーソナリティを出していない。身長・年齢・性別くらいしかわからない。

 

「クリムゾン01,君と話したのは私だ。早速だがひとつ、質問がある。答えてくれるならば、それなりの情報を差し出そう」

 

「まずは聞かせてもらっても?」

 

「ここに、数人の足跡と、何らかの機材を扱った跡があった。君が排除した襲撃犯の仲間だろう」

 

「そいつらから吐かせた情報は? うち(猟犬部隊)が確保したんだから、こっちに何も無しってのはキツいんですが」

 

「まだ質問をしていないぞ。ここから――――狼の"体毛"が見つかった。君に心当たりはあるか?」

 

「……いいえ。まったく。勘違いなさらずに、我々はあずかり知らない。……見つかったのはそれだけ? 他には?」

 

「ない。狼の体毛、それが微量。"それだけ"だ」

 

 景朗は動揺を抑えて、ダーリヤの帽子の話を伝えるか迷い、口を閉じた。

 

(襲撃犯の手に"帽子"は渡ってたのか! "狼の毛皮"の帽子……なんでその帽子のなごりがこの部屋で見つかるのかわからないが……それをこいつは"俺の体毛"だと勘違い……いいや、この様子だと確認しておきたかっただけ、か)

 

 奇妙な関係である。お互いに情報を渡すまいとしているが、その実、襲撃犯の確保は望んでいる。

 こちらとしてはダーリヤを渡さなければよいだけで、残りの問題は迎電部隊に解決して貰いたいのである。

 多少の情報提供は仕方がない。

 

「ヨーロッパオオカミの毛皮か?」

 

「…………そうだ。シベリア一帯に生息しているグループに近い」

 

(やっぱりDNA情報をどこかで照合してたか)

 

 一歩踏み出して答えた景朗に、男も素直に返事をした。

 バラクラバ(目だし帽)で表情は良く見えないが、40代半ば前後。

 口臭から、景朗はそれを察しとり、この男が捜査の指揮を執っているのかと予想する。

 

 しかし……精神的な疲れのせいだろうか。嗅覚の感じ方がいつもと違うのか。

 景朗にしては珍しく、男の吐息に妙な嫌悪を感じてしまって、モヤモヤする気持ちを無理矢理抑え込んだ。タバコ等を吸っているわけでもない。その男の口臭が他人と比べてとりわけひどい訳でもない。

 先ほど会った陽比谷の妹にもニオイのことを言ってしまったし、本格的に精神面から疲れてしまっているのか? そんな疑問が浮かんでしまった。

 

「捕虜からの情報が欲しければ、そちらのと"交換"してもかまわないが?」

 

 残念だが、景朗は絶対にダーリヤは渡せない。

 

「……」

 

 まさか、本当に自分が疲れて"調子が悪い"なんて思ってはいない。

 ただ、景朗の第六感が、男に対して不穏な予感を囁いていた。

 確かに、相手は抑電部隊のベテランだ。

 暗部の情報屋を相手に口を滑らせ、不利な情報を渡すことを避けるべきかもしれない。

 

 帰りを待っている丹生とダーリヤのことを想うと、それが景朗の背中を押した。

 

「ダーリヤ・モギーリナヤが紛失したと主張する所持品に、ヨーロッパオオカミの毛皮で造られたロシア帽があった」

 

「そういうことか……感謝する」

 

「いい。それより、そのロシア帽はカタが付いたら彼女に返したい。留意してほしい」

 

「善処しよう」

 

 背を向けた景朗を、感情の読めない声が追い止めた。

 

「情報の見返りだ。客人は"ラングレー(CIA)"から。無論、出迎えたのは内部の裏切り者だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりぃ~……」

 

 出迎えた丹生の疲労感がたっぷりつまった姿に、苦労が想像できて、クスリと笑っていた。

 

「あれ? 髪、どったの?」

 

 丹生は長めのショートヘアだが、片方だけ耳が覆うくらい伸ばしている。

 いつもはそこをまとめてアップしたりお団子にしてたりするのだが、というか出かける前もそうしていたのだが、今は下ろしてしまっている。

 

「まぁ。あれ」

 

 指の差された方向には、熱心にTV番組を見ているダーリヤの頭が。

 なるほど、長くてぼさぼさの好き放題になっていたロングヘアが編み込まれている。

 

「ダーリヤがTVくらい見せろってダダこねたから、景朗のカード使っちゃった」

 

「ああ、全然いいよ、ありがとう。てかむしろ危ないから何をするでも俺の用意したのを使って。しっかし、TVごときでよく黙らせられたね、あのガキンチョ」

 

「ずっと動物の出る番組観てんの、すっごい集中しちゃってさ。アタシの方がつまんなくなって髪の毛で遊んぢゃった」

 

「そういやぁ、買い物は終わった?」

 

「うん。必要なものは大体注文させといたよ」

 

 当面のダーリヤの生活必需品を揃えるため、とりあえずネットで買うように命令しておいたのだ。宛先は自前の貸倉庫へ。人財派遣(マネジメント)をパシればそこそこ安心だ。

 もちろん、ネットを使わせる以上、丹生にもその監督を頼んでいた。

 

 TVは、ダーリヤがゴネたのでぱぱっと買ってきてくれたようである。

 子供が暇をつぶすようなものは何も無し。ネットも禁止。

 ダーリヤが文句を言ったのも仕方がない。

 何事もなかったようでほっとした。

 

 

「うるふまん? 帰って来たの?」

 

「おう。ダーシャ、定番だけど良いニュースと悪いニュースがあるよ」

 

「聞かせて」

 

「ダーシャのウシャンカは火事で燃えてはいなかった」

 

「ホント! どこに?」

 

「それが、襲撃者の仲間が持って行ったみたいだ。なあ、本当にただの帽子なんだよな? 中に記録媒体とか、仕込んでなかったんだよな?」

 

「だから、何にもしてないわ。ただの帽子よ、他人にとっては」

 

「それじゃあ、何で持ってったんだろうな……?」

 

(現場に狼の毛を残してる。わざとそうしたのか、と疑った方がいいくらいだ)

 

「……わからないわ。でも、そいつら殺してほしいわ、うるふまん」

 

「はぁ。まぁ、たぶん見つけるのは他の部隊だよ」

 

「えっ?」

 

 ラングレー、つまりCIA。彼らとの戦いは"抑電部隊(スパークシグナル)"の主戦場である。

 これは流石に、彼らと競争するのは分が悪い。

 ダーリヤを守り通して、事件が解決するのを待ったほうがいいだろう。

 

「大丈夫。ちゃんと返品してほしい、って頼んでおいたから」

 

「そうなの、そうなの! ありがとう、ウルッフマン!」

 

「ねえー、おふたりさん。お話終わった? 景朗、御飯作ってって言ってたけどさ、お肉と魚しか冷凍庫に入ってなかったから、どうしようもなかったんだけど」

 

 給湯室の手前の部屋には大型冷蔵庫が2台も鎮座してあって、丹生は中を覗き込みながら不満そうに声をあげていた。

 

 ダーリヤも一度中身を見ていたのか、すささっ、と丹生の隣へとよっていく。

 

「ねえこれっ! ウルフマンのえさ?」

 

「エサ、って。チミ、嫌な言い方するね」

 

 牛。羊。鯖。鮫。どーんと冷凍ブロック状態で詰め込んである。

 丹生がグチをこぼした通り、量だけはあるが、本当に肉と魚介しか入っていない。

 

「しかもさぁ景朗、これって見たカンジ、けっこう悪くなってない……?」

 

「ほ、ほら、お肉は腐る直前が一番おいしいっていうじゃん?」

 

「お魚も?」

 

 ダーリヤの無垢な質問が胸に突き刺さる。

 

「"腐る直前"じゃなくて、これもう腐ってんじゃん!」

 

 あぁ、落ち込む。丹生にツッコミ入れられるなんて。

 なんというか彼女も、最近はゲンナリした表情を隠さなくなってきているんです。

 

「……お弁当、買ってきます……」

 

「ダーリヤちゃん、何がいい?」

 

 丹生はスッと首を振ってダーリヤを向いて。

 

「ん~……うどん!」

 

 スッと景朗に向き直り、キリッと言い放った。

 

「わたくしもうどんを所望します」

 

「ちょ、おれが、出前ってか、俺が運ぶの……運ぶか。わかったよ」

 

「あ! ウルフマンのえさはわたしが用意するわ。食べさせてあげる!」

 

 ダーリヤがむっふー、ととてつもない興奮を見せている。

 彼女が観ていたTV番組には、タイミングよくシャチの食事シーンが映っていた。

 飼育員さんが放った魚をドデカく口を開けておいしそうに頬張っている。

 

 景朗はダーリヤを無視して、帰って来たばかりでもう一度、外へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スペシャル特盛えび天うどんで丹生の機嫌を取ってから、彼女を無事に家に送りとどけて。

 翌日。早朝。

 景朗は任務の学校生活へ。登校前に、またダーリヤを貸倉庫に押し込めておく。

 

 

「あれ? なんか荷物、多くね?」

 

 "猟犬部隊"から取り寄せた、ダーリヤの監視ができる情報処理端末。

 そして、その他もろもろの彼女の日用品。

 それらが貸倉庫内に無造作に置かれている。

 "人材派遣"は急ぎの仕事をこなしてくれたようだ。無論、猟犬部隊のPCは景朗の部下に持ってこさせている。

 しかし、その日用品なのだが、予想外な量なのである。

 

(丹生さん、いろいろ必要なものって。子供の一人暮らしを送り出すお母さんじゃないんだから……)

 

「おおー」

 

 ダーリヤは、景朗から渡されたPCを立ち上げて機嫌が良い。

 この端末で、猟犬部隊のIDを使ってダーリヤの言う仕事をさせる。

 逆に、それ以外はさせない。このPCなら、彼女の行った事を全て監視できる。

 このことは、プラチナバーグの組織にも了承させてある。

 

「ypaaaaaaaaaaa! プ・リーグ開幕だあああああああ! ハランデイイ、ハランデイイッ!」

 

「なにそれロシア語? てか、それ絶対仕事じゃないよな? こっちきて手伝えよ」

 

 景朗は一応、送られてきた荷物を確かめる。ダーリヤにも手伝うように言ったが、彼女は剛毅なもので、要請を無視してPCにかかりっきりだ。

 ここでもう1度、シメてやらなきゃだめかもしれない。

 

「はちみつ。はちみつ。はちみつ。なんでこんなにはちみつが要るんだよ……はぁ?」

 

 まずもって、段ボール小箱にぎっしりのはちみつのビン、というのもおかしいが、それ以上に。

 

「おいダーシャ、なんだよこれ!?」

 

 女子児童用パンツ2ダース入りの段ボール箱が、いち、に、さん、よ……

 80枚以上!?

 

「うるふまん? ――いっ」

 

 ダーリヤは一瞬驚いた顔をして。そしてすぐ、ずる賢そうになんともない顔に戻した。

 景朗はしっかりと一連の動作を見逃さなかった。

 

「どうしてこんなにパンツがいるんだよ? まさか、もしかして――おわっ!? 俺のアカウントじゃねえか!? ふざけんなよ! 業者でもないのにこんなに注文しやがって、女児童パンツ収集癖の変態だと思われちまうだろうが!?」

 

 思われちまう? 時すでに遅し。

 "あなたへのおすすめ"に女の子のパンツがラインナップされてしまっている!

 

「もうこのアカウント誰にもみせらんねえよ!」

 

「だって! ウルフマンの、あそこのビルには洗濯機ないじゃない。だから毎日新しいのと取り換えるのよ!」

 

「ちかくにコインランドリーがあんだよ、そりゃあ万全を帰すならチミの言う通り新品を使い捨てて証拠を残さない方がいいけどっ、そうじゃないんだろ?! 洗濯機が無いんなら、買ってやったよ!!!」

 

「はぁ、やれやれ。子供相手に怒らないでほしいわ」

 

「素直に注文で桁を間違えたと言え!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダーリヤがPCで悪戯しないかヤキモキしながらの学校は、いつもより長く感じてしまった。

 放課後、帰り支度中に、吹寄氏に掃除当番だ、と呼びとめられて、気づけば三馬鹿が勢ぞろいしていたのである。

 どこの誰だ、サボりそうな奴らを固めて、見張り番を付けたのは。

 

「新学期二日目、実質初日に掃除当番に指名されるとは~さすがの上条さんでゴザイマス」

 

「君もなんですけどね?」

 

 携帯片手にサボっている土御門に目がけて、上条と青髪ピアスは仲良く箒を振るう。

 そんなことをしていたら……ほら、吹寄整理に蹴りを喰らった。

 

「いやそれはほら、上ヤ、ゴミヤンの不幸の巻き添えやあらへんか。昨日も一体なにがあったんや」

 

 遠くを見つめるような悩んだ顔が、上条当麻にはらしくなかった。

 

「テロ騒ぎの巻き添え食ったんだよ。あーっ、たく、頭が痛いぜ。はぁ~っ」

 

(うそつけ!)

 

「もー、なんなんですか。 新学期早々ため息ついて、ゴミ条クン?」

 

「おまえにゃわかんねーよ、青ゴミピアスクン」

 

「っかぁー! JKなんてBBAだぜよ、BBA! BBAの学校なんて掃除する気が起きねーぜよー。別の(小)学校なら金払ってでもやるってのに」

 

「「黙れシスロリ、ツゴミカド」」 

 

 2人ともこの男とだけは同類だと思われたくなかったので、タイミングは完璧に重なった。

 

「「「わーっはっはっは俺ら全員ゴミがついてるじゃねえかwww」」」

 

「いいから手を動かせゴミども!」

 

 すぱーん、と吹寄がほうきを薙いだ。青髪と土御門はとっさに屈んで避けたので、ど真ん中にいた上条当麻の背中だけが、ペチリとほこりまみれのほうきとキスをした。

 

「さながら吹寄氏はゴミ整理がかりですかな! あっとごめん、悪口みたいになって、悪気はなかったんだ、ごめんごめん」

 

「うまいでーゴミヤンww」

「ゴミゴミうるせーなww」

 

「もう! い・い・か・ら、ほら! 誰かちりとりやって!」

 

「ええーナチュラルに自分を選択肢から外してる吹寄氏こそ」「私はゴミの整理役なんでしょう? お望み通り箒で整えてあげますけど?」

 

 ブーイングは一蹴された。

 

「土御門は黒板消しとって逃げたか。だいたい、なんでうちの学校はこんな漫画に出てきそうなクラシックオールドスタイルなんだよ。掃除ロボットなら街中に走ってるじゃねえか――あれ。どうにかして中に入れちまうか?」「まぁ2人がかりで十分イケるんちゃう?」「馬鹿か問題は警報だろ! あのロボに悪戯したら即通報されるんだぞ」「あいわらずロクでもない経験は人一倍ありますのんね」

 

「あーもう! そこまで嫌がるか! ほら、アタシがやる! はやく集めて!」

 

「あざーす」「どうも~」

 

 ちりとりに集めたごみを袋に入れて、帰り支度を始めた2人を、吹寄がキッとにらんだ。

 

「ちょっと、まだよ! 今学期から当番が代わって、教室の外の階段まで私たちのクラスが担当するの! 説明きいてなかったの?!」

 

「そうだっけ?」「ええ~、えらい優等生やなぁ、吹寄サァン」

 

「言わせてもらうけど! あんたらと一緒なったアタシが一番不幸でしょ。いったい誰よ、アタシを毎回監視役に付けてんのはっ。まぁ、アタシが居なかったら3人とも逃げてただろうけどっ」

 

「逃げませんって」「土御門どこいった?」

 

 

 吹寄、上条、青髪は階段の全体を箒がけ。

 逃げた土御門は1人、罰ゲームとして階段の雑巾がけを命じられていた。

 土御門は「雑巾と箒の人数比がおかしい」と途中まで喚き続けていたが、今は静かなものだ。

 

 早く帰りたい気持ちは皆同じだったのか、4人とももくもくと手を動かしたので、掃除はほどなく終盤に差し掛かっていた。

 

 

「さ、あとはこれを集めて終わり」

 

 階段の踊り場に集めたごみを、誰が集めるかでまたケンカが勃発した。それしきのことで、また勃発してしまったのである。

 

 土御門は3人の側で、ひとりバケツに手を突っ込み、己が最も大義を為したとばかりに悠々不敵の表情である。

 

「ごほん。うえっへん。あのー、まずおひとつよろしいですかな? 常識的に考えてボクより背の低いゴミチビクンがちりとり係に適任と考えて間違いないですやろ。こういった小さな掃除にも、それなりに効率性を取り入れていかないとやっぱアカンでしょー?」

 

 嫌味たっぷりのニヤケ面で、自分より背の低い友人2人の頭にそれぞれ手を載せて、ぽふぽふと撫でる様に頭をたたいた。しれっと土御門まで巻き込んでいる。

 

 ウニ頭と金髪のお二人が額に青筋を浮かべているのに、青髪は気づいていないふりをして、続けた。

 

「さ、ほら、みなさん多数決できめましょー、ちりとり係に適任の人を指差して? さん、はいっ!」

 

 青髪は上条を指差した。が、残りの三人は息を合わせたように、ただ一人の人物を指差した。

 満場一致で、青髪がちりとり役になった。

 

 

「吹寄さんだからまだ許せるんですけれどもね。次はあんたらやからなー」

「もう終わりだって」

 流石の吹寄氏も疲れたのか、苦笑しつつ箒を動かす。

 

「はい、しゅ~りょ~、っと。あ、ワリい青髪、頭にゴミついちまった」

 

 ぱふり、と上条は青髪の頭部を叩いた。

 なんと"右手"で。以前の彼なら決してしなかった。

 

「はえ?(あ~ッ、ビビった! 大丈夫だ、当たったのは髪の毛だけだ。一瞬だから耐えられるはず。くそ、上条め!)」

 

 景朗は焦ったものの、大事には至らなかった。髪の毛が一瞬、赤みの混じった焦げ茶色にもどっただけである。

 

 だが、流石は不幸を呼ぶと他人にすら豪語される上条当麻である。

 

 忘れてはいけない。たった今しがた目の前で起こった光景に、景朗以上に焦りを生み出す人物が、その場には存在していたことを。

 

 隣で雑巾ごとバケツを抱えていた土御門が、血相を変えていた。

 次の瞬間。

 彼は、汚水のたっぷり入ったバケツを、両手で振りかぶった。

 

(あっ)

 

 それはもう体中の筋肉をフルスロットルで酷使したにちがいない、ダイナミックなフォームで素早い動きだった。

 

 景朗は、避けられた。間違いなく、楽に避けられた。

 しかしそうしていたら、どこか火澄に似ている景朗お気に入りの吹寄ちゃんに、バケツがクリーンヒットしていただろう

 

 だから結局。

 

 「ごむぅうえぇぁるうがおぁあつあgぁじゃぁ;あj!!!」

 

 汚水バケツが、景朗の頭に勢いよくかぶせられた。

 

「すまん手が滑った、おおっと足も滑ったにゃー!」

 

 こともあろうに土御門はバケツを被せるだけでなく、景朗の尻をおもいっきり蹴っ飛ばした。

 そこは階段の踊り場。彼は階下へと転がり落ちていく。

 

「!? あがッがががががが ごぇあがああがあがががががあっがっ!!」

 

 バケツという目隠しをされて、階段を転げ落ちていく青髪。

 どでかい車輪に体を括りつけ、急斜面から滑落させる処刑法が古代ローマで行われていたのだが、それを彷彿とさせる姿だった。

 

「い、いくら青髪きゅんだからって容赦なさすぎじゃないでしょうかッ、土御門ぉ!」

 

「ちょ、ちょっと! 青髪君大丈夫! 何やってんのよ土御門! 流石の青髪君でもキレるわよ?」

 

 ドン引きの2人のヤジが飛ぶ。

 土御門をサイコパスでもねめつけるような視線で見ているに違いない。

 あきらめ境地の景朗は、バケツ色に染まった視界の中でそう切に願った。

 

「おおっと! すまんすまんすまんぜよーい、大丈夫かにゃっ!」

 

 景朗にかけより、青髪ピアスの姿のままだとわかると、安心したのか。

(心配させるな)

 小声でそう言うと、土御門はわざとらしくも、心のこもっていない台詞をぶっこんだ。

 

「まっこと申し訳なく御免ですたい! いやほら雑巾汁で手足も滑るってなもんで!」 

 

「て、てめぇ」

 

(いかん。いかんぞ景朗。切れるな。わざとじゃない。むしろこいつは善意でやって……善意で……)

 

「青髪君、すごい顔してる……」

 

 吹寄サン、それは見たこともない怒り顔を、って意味だよね。

 汚物に塗れた悲惨な顔だからってわけじゃないよね?

 

「あ、あおがみー、今のは流石にキレていいぞー、キレていいからなー?!」

 

「何言ってんのよ、煽らないでよ上条当麻! 怒ってもいいけど、暴力は禁止よ青髪君! というか、後始末は私たちがやっとくから早く顔洗って来て!」

 

「そ、そうさせてもらうわー」

 

 景朗は起き上がって、じーっと土御門を見つめている。

 

「あ、あぁーん? め、めんごっていってるぜい。ほ、ほら、ハンカチかしてやるにゃー」

 

(わ、わかってるよな? 咄嗟に助けてやった俺様の機転に感謝するんだにゃぁ!)

 

「あ゛!? あッ、あっ、あ……あり、がとう、土御門クン」

 

「なぁっ?! なぁ、なぁーんでそこで礼を言うんでせう? 青髪……君」

 

 急に青髪に"君"付けするようになった上条が遠くに感じる。

 頼むから呼び捨ててほしい。なんぞこれ。上条との間に距離感がある。

 カミやんはまるで初めて会った時の様に、切なそうに景朗から目をそらした。

 

「ドMって噂が……まさか正しかったなんてね……普段からああなの?」

「い、いやーわたくしもそこまで詳しくは……」

「なによ。意外と仲良くないの?」

「野郎どうしでもそこまでコアな話題はしませんのことよ」

 

 火澄にちょっと似てるので景朗的好感度の高い吹寄ちゃんには、完全に誤解されましたな!

 はっはっは。でもいいんですよ、これで。

 これぞ、青髪君なのだからね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔を洗って、着替えて、ダーリヤを迎えに行く。

 

「ダーリヤさん。元気にしてましたか?」

 

「? どうしたのよ、ガロー?」

 

「どうしてましたか?」

 

「ナショナ○ジオグラフィ○クみてたわ」

 

 すり寄って来たダーリヤの両肩に手を乗せ、景朗は優しく微笑んだ。

 

「ダーリヤ、君は、いいニオ……わるい臭いがします。 てかくせえよホント。ちゃんと風呂入れって昨日も言ったろ」

 

 はたと真顔に戻ってクサイと言われたのに、ダーリヤは平気なカオをしている。

 

「入ったじゃない」

 

「洗わなきゃ意味ないんだよ」

 

「"風呂嫌いの理由を当ててみせようか"」

 

「は? どうしたんだ急に」

 

「"心の構えーーー つねひごろ 気と体の状態は いつ何どき斬りかかられてもしゅんじに対応できるよう備えている ねこのように 垢と一緒に その構えまで解かれてしまう気がするゆえに 風呂が嫌い"なのよ」

 

「……なんだ? なんだ急にお前。 お前、漫画かなんか読んだだろ? 何の漫画だ!?」

 

「バガボ○ド」

 

「だからお前、そのPCで読むなよ。くっそ、木原の野郎になんて言われるかッ」

 

 

 部屋の中は、食い散らかした菓子の匂いが充満していた。

 お菓子を没収するかどうか悩んだが、こいつとの別れもそんなに遠くはない。

 好きにさせてやるか、と嘆息し、立ち上がった。

 

「飯食ってから帰るか?」

 

「悪いけど、今おなかいっぱいよ」

 

 だろうね、口からはちみつガスがでてきてるもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新学期が始まって最初の日曜日。

 結標淡希は"窓の無いビル"を暗い表情で見上げて、覚悟を決めたように息を飲み込んだ。

 とあるゲストを迎えに来るように連絡が来たのだが、用向きは果たして本当にそれだけなのか、不安が拭えなかった。

 

 浮遊感、悪感、悪寒。ビル内部にテレポートした結標は、しばらくその場で呼吸を整える。

 そこで、なんとはなしに眺めたビルの壁をみて、内壁が変形していることに気づく。

 見上げる。壁一面に、細かな凹凸が突き出ている。それはくまなく、ビル内部を見渡す限りに。

 

 知っている。これは音を吸収する壁。理事長の部屋は今、無響室と化している。

 

 この光景は、過去に何度も目にしている。

 この部屋がこうなるのは、ある人物が理事長に謁見するときだけだ。

 

 

 理事長の水槽がある方向から、かすかに話声がする。

 不安を抑えきれず、結標は恐る恐る様子を覗いてしまった。

 

 

 女性にしてはすらっとした長身、ぼさぼさの髪、真夏にマフラーの後ろ姿。

 やはり理事長に呼ばれていたのは、紫雲継値だった。

 

 

[[貴女はどうしてそこまで馬鹿なしゃべり方をしてるのですか?]]

 

 若く、低い男の声。

 

[[クセになってしもうて言葉づかいを直せないのよ]]

 

 若くも、古臭い口調の女の声。

 2人ぶんの話声。

 

 部屋には、水槽の中で逆さまに浮かぶ理事長と、紫雲の2人だけ。

 しかし会話をしているのは、彼らではない。

 

 

[[今までそんな馬鹿な言葉遣いで学園都市の代表を協議してきた訳]]

[[大丈夫大丈夫。確けし確けし]]

 

 

 声が小さすぎて会話の内容は分からない。しかし、結標は奇妙に思う。

 会話は、スピーカーから聞こえてくるような質ではない。

 どう聞いても、この部屋の中で、ついその先で立って喋っているかのごとく、生々しい肉声そのものなのだ。

 

 

[[仕事の話を進めてください]]

[[其の先に]]

[[何をやっているんですか?]]

 

 

 部屋の中に、唐突にバスか何かのクラクションが鳴った。それは話し声と同じく小さなものだったが、そのおかげで結標は、会話をしている二人組が屋外にいることを察した。

 加えて、聞こえたクラクションは、学園都市では聴き慣れない異国めいたものだった。

 

(外国? 盗、聴?)

 

 疑問を確かめようとさらに集中しはじめたところで、唐突に会話が終わってしまった。

 

 しばしの静寂。

 口を開いたのは、紫雲だった。

 

「もしかしたら――――気づかれたのかも、しれません。相手は声帯での会話をやめました。音は、拾えません」

 

 いかなる失態を犯したのだろうか?

 想像はつかないが、理事長に報告する紫雲の声は震えていた。

 

 

『あの女とコンタクトを取った人間は予想がつく。十分だ、下がっていい』

 

「はい」

 

 一刻も早くその場を離れたかったのか、返事と同時に紫雲はくるりと振り向き、結標の元へと真っ直ぐ歩いてきた。

 

「はやく。お願い」

 

 ぶっきらぼうなその頼みを、結標は素直に聞きとめることにした。

 口数の少なさは普段通りだったが、薄暗い室内ではっきりと見えずとも彼女の具合はひどく悪そうだった。

 

 

 結標の能力は一瞬で済む。

 2人は、残暑の喧騒へと瞬く間に帰って来た。

 

「あなた、大丈夫?」

 

 貧血でも起こしそうなほど蒼白な紫雲は、テレポート後のはじめの一歩でつっかかり、転げて地面に手を着けた。

 

 結標が思わず差し伸ばしていた手を見上げ、紫雲は泣きそうな表情をマフラーをずり上げて隠した。

 結局、彼女はその手を取らず、ひどく心細そうな足取りで消えていった。

 

 同じ境遇の、同級生。

 能力さえなかったなら、こんなに怖い思いをせずに済むのにね。

 

 結標は小さくなっていく背中を、まるで自分の姿を重ね合わせるかのように、しばらく見つめて。

 覚悟を決めたように、忽然とその場から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダーリヤを連れて登校し、ダーリヤを連れて下校する。

 上条も騒ぎを起こさない。木原数多からも連絡が来ない。

 迎電部隊からも連絡はない。プラチナバーグからも当然連絡がない。

 

 平和といえば平和だった。でも。

 その繰り替しが、気づいたら2週間目に突入しそうだった。

 

 

 それはつまり。

 ダーリヤがこの一週間、朝・昼・晩と、ほぼお菓子のみしか食さなかったことを意味している。

 

 月曜日。放課後にダーリヤを貸倉庫からセーフハウスへと連れ帰り、そのまま外泊の準備をしなさい、と言い付けた。

 

「あとな、今日からお菓子は禁輸・禁止措置を取らせてもらう。もちろん丹生を使った密輸入も禁止だ。おーけー?」

 

「なんでよ? だいたいヒンニウはあれからずっと来てないし、わたし、病気はしてないわよ」

 

「そいつはまだ十代にもなってないお前さんの若さが必死でカバーしてくれているだけで、それもそろそろ破錠しかけてんだよ。気づいてないと思ったか、ほら、これでどうだ」

 

 景朗はダーリヤのほっぺたの"とある"位置を指で軽く押した。ただ、それだけだ。

 

「ひゃぅっ!」

 

 口内炎を刺激された少女は、うめき声を我慢できなかった。

 

「今日から明日まで、2日間は丹生が面倒みにきてくれる。あいつにも頼んで、お菓子は食べさせない様に徹底するからな。んやぁ、まぁ、完全に禁止ってわけじゃなくて、おやつくらいならいいんだけど、ちゃんとメシは食わせる。今のお菓子=メシ状態は終わりにするぞ。ってか、終わりにしねえといい加減ヤバイよ? お前の小便の匂い、ほんとに……」

 

「えーヒンニウがここに来るの?」

 

「いいや。第七学区の別のセーフハウスに一時移動するよ。ココとは違ってマンションを改造したところ。ココに丹生を泊めるのは気が咎めるし」

 

「え、泊めるの?」

 

「おう」

 

「え、泊まるの?」

 

「何を心配してるのか知らんけど、俺はたぶん明日まで帰ってこないよ。ずっと仕事だから」

 

 丹生を呼ぶのには理由がある。

 アレイスターから殺しの命令があったためダーリヤの側にいられなくなったのだ。

 とある企業のお偉いさんの暗殺である。

 今晩から潜入の準備をして、明日、殺して後始末をして帰ってくる。

 一泊二日の殺人旅行だ。

 

 丹生を巻き込むのは苦しい。

 

 しかし、景朗はどうしてもセキュリティを強化したかった。

 ダーリヤを狙う者たちは、彼女の帽子を使って何かを企んでいる可能性がある。

 背に腹は代えられない。景朗不在中は、同じマンション内の、ダーリヤの隣の部屋に待機していてもらうことにした。何かあっても戦わずに、景朗に連絡さえしてくれればいい。

 もともと、景朗がダーリヤを保管しておくマンションは、猟犬部隊の隊員の数名も住居にしている、セキュリティに特化した物件だ。

 丹生は大能力者であり、しかもオートで展開する防御性能を持つ、対人向けの能力を有している。

 昼間、学校にいたときも、襲撃は無かった。

 ほんの1日ほど。大事なく済むことに賭けている。

 

 『丹生は暗部から足を洗った』なんて理屈は暗部では通じない。

 基本的には、一度暗部で名が通れば、一生暗部扱いされかねない。

 だから、安全のために、丹生の側にいる。

 そんな言い訳を使って、今回ような一件に巻き込んでいては、丹生を暗部から脱出させるなんて夢のまた夢ではないか? そんな苦悩が到来する。

 でも。丹生以外に信用できる人物はいない。丹生の側から離れたら危ない。丹生と何時までも一緒にいると危ない。すべてが事実だ。

 

 

「んなわけで、さあ出発です。行きがけになんか買って、ついてから晩飯にしよう」

 

「うどんがいいわ」

 

「またぁ?」

 

 この一週間。ダーリヤ自身に調べさせていたことがある。

 今のところたったひとつの手がかりである、ダーリヤのロシア帽についてだ。

 

 襲撃者がプロでも素人でも、狼の毛皮を現場に残して行ったというのは、素人臭さいを通り越して、罠かもしれないとすら思えるミスである。

 

 ただ、罠でも、罠でなく犯人たちの油断でも。

 どちらにせよ、奴らは帽子を持っていることがバレても問題ない、あるいは、そこから足は付かない、と考えていたことになる。

 

 当然、迎電部隊も同じ可能性を当たっただろうが、念のために、ダーリヤに所持品から持ち主を特定するダウジング能力者や、警察犬のように臭いで追跡するタイプの能力者などを総当たりで調査させてみた。

 ヒットする件数がそこそこあったらしいが、"書庫"登録者内のめぼしい候補は暗部に属していなかったという。

 しかし、実際のところは、暗部でも重宝される系統の能力であるらしいので、書庫未登録の能力者が暗部に何人かいてもおかしくはないそうだ。

 ダーリヤはその年齢ながら、この調査を景朗よりよほど効率的にこなしてしまった。

 

 暗部の情報分析官という縦書きは、嘘ではなかったようだ。

 この事をほめたら、どえらく調子に乗られてしまったので、景朗は速攻で褒めなくなった。

 ダーリヤは不満たらたらである。

 

 閑話休題。という経緯があって、ダーリヤの調査結果から景朗は考えを改めた。

 よくよく考えずとも、あっさりダウジング系能力者探しから候補が搾り込めるのであれば、スパークシグナルがとっくに捕まえているはずである。

 

 逆に言えば、ダーリヤの帽子を持っている、と追跡側に知られれば、そこから暗部能力者に居場所を察知され、逃亡中の犯人側の方が危険にさらされかねない。

 

 襲撃者たちが今も捕まらずに逃亡しているのだから、帽子はとっくに捨てられている可能性もあるだろう。

 

 ひとまずできることは、ダーリヤを守り通すこと。

 

 ――結局のところ、景朗はなんだかんだ言って、暗部組織"スパークシグナル"を信用しているのかもしれない。

 彼らが動いているのだ。時間が経つにつれ、襲撃者たちは窮地に陥っているはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれて初めてスカートを着用したというのに、雨月景朗はその感想を思い浮かべる余裕も、猶予も、気の向きようすらも、持ち得なかった。

 練習するハメになった化粧、腰元にぴったり張り付くタイトスカート、初体験のパンプスの履き心地、踏み出した途端に折れてしまったヒールの不安定さも、意識の内に入らない。

 

 

 景朗は、第一学区の高層ビルの、一室にいる。

 学園都市大手の建設会社の、とある顧問を殺害するために。

 

 無論。彼の姿は、いつものようにむさ苦しいテノールボイスを生み出すガタイではない。

 細い脚に、色香を纏わせた縊れ。どこをどう見ても瀟洒なセクレタリーそのものだった。

 肉体変化(メタモルフォーゼ)の面目躍如とばかりに奇跡を演出して見せている。

 

 意識を奪った、変装元の"お姉さん"は、猟犬部隊の隊員が確保している。

 標的の規模が規模なので、証拠を残さない様に処理するだけだ。殺しはしない。

 

 彼女には眠ってもらう前に投薬をして、その日のスケジュールを吐かせている。

 

 

 ターゲットは、景朗の隣の部屋にいる。

 

 造りの良いデスクに、高級そうなスーツを着こなした老紳士が座り、会報に目を走らせている。

 このビルは第一学区に存在する。第一学区は、学園都市の行政機能があつまった区画。

 そこに本拠地を持つ企業には、ひとつの共通点がある。

 学園都市創設時から共に歩んできた歴史を持つことだ。

 

 

 

 この顧問は、学園都市創設時から働いてきた業界の重鎮のひとりらしい。

 

 つまり、アレイスターは、裏切り者はたとえ昔からの協力者でも、あっけなく殺すということだ。

 

 方法はシンプルだ。彼は、毒で殺す。

 懸命に珈琲を淹れる景朗の手つきには、真剣さがくっきりと滲み出ている。

 

 薄く焼き上げられた白磁だけに許される、独特の澄んだ音色。

 そこにまぎれる様に、透明なしずくが一滴、黒い水面に垂れて静かに波紋を立てる。

 

 人を永遠の眠りに誘う"悪魔憑き"の渾身の"毒液"は、

 馨り高いブラックコーヒーに一切の風味の変化も、雑味の造成も、与えることはない。

 

 ただの人間には気づけない。この、"悪魔憑き"をのぞく誰一人として。

 

 

 隣室に待つ標敵(ターゲット)に残された人生を、眠るように刈り取ることだろう。

 嗜好のひとときを口にしたその時に。

 

 

「ありがとう」

 

 どこか人を安心させるような、しわがれた低音のお礼の一言は、逆にこちらを申し訳なくさせるくらいに心地の良いものだった。

 書類に釘づけだったお爺さんは、いたわるように老眼鏡をそっと外し机に置いた。

 まるで凝り固まった眼球に湯気をあてるようにカップを近づけ、戸惑うようにしばしカップの水面に目をやって、深く深く香りを味わうように息を吸った。

 

「お気に召しませんか?」

 

 老人に背を向けたまま、景朗は疑問を口にした。

 

 配膳用のカートワゴンをまさぐるその手は、既に動きを止めている。

 

 お爺さんは、毒入りの珈琲に口を付けることなく、カップをソーサーに戻したのだ。

 

「実は、私は紅茶派なんだよ」

 

「ご冗談を」

 

 この部屋には、上品な珈琲の匂いがうっすら染みついている。

 お姉さんは嘘は言っていない。毎日数杯は欠かさず飲んでいるはずだ。

 

 だが。確かに。

 わずか。ほんのわずか。たった1秒間ほどの戸惑い。

 お爺さんは、珈琲に疑問を持った。

 

 背後に座す老人の気配がまたたくまに変化していくのを、景朗はあまさず感じ取る。

 

 動揺。驚愕。恐怖。

 場数を踏んだ、経験豊かな人は、こうやって殺意に気が付くことがある。

 

「君が。理事長殿の使いなのかね?」

 

 そして、目前に迫った死を意識して、お爺さんの気配に新たに加わったもの。

 新たなる発見という、喜び。

 それは未知の現象を前にして、そこに素直に興味と関心を抱くような。

 この場にそぐわない、何故か前向きな感情のように思えてならなかったからだ。

 

「人を呼ばないんですか?」

 

「まさか。クロウリー氏の刺客を目の前にしてかね? 部下を犬死させんよ……それに、君と話す時間がなくなってしまうだろう」

 

 刺客を前にしておきながら、抵抗する意志はなく。

 それどころか諦観の気配すら感じ取れるのに、同じようにどこか楽しげなのだ。

 だからだろうか。景朗は初めて経験する戸惑いから、話しかけてしまった。

 

「ご心配なく。お姉さんは無傷です。ほうっておけば勝手に目覚めます。服だけお借りしたんですよ、ここまで来る道中が面倒だったもので」

 

「完璧な変装だが、今日は午後から孫が遊びに来る予定だったんだ。だから彼女に、今日だけは珈琲を我慢するように釘を刺されていてね。『お孫さんに、お爺ちゃんお口がくさいよう、って言われない様に』だとさ。だが昨日、口うるさく注意した本人が珈琲を淹れだしたのでね、驚いたよ」

 

 お爺さんは、ネクタイをするすると外し、いっそう深く椅子に姿勢を預けた。

 

「もう次の会議に出なくてよくなったからね。はは、こんなことなら最初からサボってゴルフに行っておけばよかった」

 

「殺し屋の毒に気が付くほど、毎日毎日何におびえて暮らしてたんですか……。ふふ。こちらこそよかった。あんたは真っ当な人生を送ってきていたわけじゃあないらしい。暗殺者の身分で生意気を言わせてもらいますが」

 

「ほっほ。まったくだ」

 

 楽しそうにお爺さんは笑った。

 景朗は、自分が言い知れぬ怯えを感じているその原因に、気が付いた。

 この人は、死ぬことなんて何とも思っていない。

 どことなく、木原幻生と話をしているようだった。

 

「最後の一杯がこれかね。君、なってないよ、淹れ方が素人だな。だがまあ、これも良い。はじめて自分で入れた一杯を思い出したよ。覚えてないがね。はは。後ろ指を指される時代だったが、懐かしい。最近は忘れていたよ。懐かしい香りだ……。さて、君はいくつなんだい?」

 

「いいから、はやくそれを飲んでください。あなたを苦しめたくない」

 

「優しいね。だから毒を選んでくれたのか」

 

「時間稼ぎはさせません。早く飲んでください」

 

「そう、かね。……これは、飲んだらすぐに効き目があるのかな?」

 

「遅行性です。ゆっくりと眠るように……何も感じません」

 

「そうか。ではこれを飲んだら、眠るまで付き合ってくれたまえよ?」

 

 

 お爺さんはまるで悪戯をするような目つきで、珈琲を呷った。

 咽が音を立てる。疑いなく、致死量を飲んだ。

 

 景朗はその事実を確認したので、あとは後始末をして帰るだけだ。

 会話をしたい? そんなものに、付き合う必要はない。

 

 ピコン、とデスクからアラームが鳴った。

 だが、老紳士は機敏にパネルをなぞり、音を消しさった。

 彼の孫の来訪を知らせるアナウンスだったようだが、自らそれをキャンセルしたようだ。

 

「大事な人はいつだって突然いなくなる。私の孫にそれを教える良いチャンスだ」

 

(お孫さんが、来てるのか……?)

 

 景朗は、目の前でその死を看取るつもりだった。だが、その事に恐怖を感じ始めている。

 

「君は獣のようだな。労わる様な眼差しだね。しかし、これは当然の運命なんだよ。君のような子供にこんな真似をさせようとは。私にはその責任があると、言えるだろう……」

 

 何をしたのか。何をしてきたのか。景朗は聞いてみたかった。だが、ずうずうしくも、自分が殺した人間に、それを聞けるほど恥知らずではないつもりだった。

 

「君に、助言を言いたい。大人に、助けを求めなさい。いいかね? 誰か身の回りの信頼できる大人に、助けを求めるんだ。いなければ探しなさい。全力を賭すんだ。そこに君の未来が、人生がかかっているんだからね」

 

「僕は子供でもないですよ」

 

「子供だ! ひとりでここまで難なく私を殺しにやって来れたんだから、子供(高位能力者)に決まっている!」

 

 声を荒げたことに気が付き、老紳士はニコッと微笑んで、部屋の隅に置いてある帽子掛けへと手を伸ばした。

 だが、毒が回っているのか、彼はもう立ち上がれなかった。

 

 景朗はどうしてそんなことをしたのか自分でも理解できなかったが、彼のかわりに帽子を手に取って、デスクの上に置いた。

 

「ははっ。今日が会議でよかった。決まってるじゃないか。このまま棺に入れそうだ。ふん、死ぬ時くらい、ネクタイはいらない」

 

 お爺さんは帽子をかぶり、スーツの襟をピッと手で整え、ニヤリと口角をあげた。

 

「では、人生の先輩からの、最初で最後の助言だよ。2回目だけどな。ふふ。君は――老人に毒を食わせ、そしてそのまま永遠に命令されるがままの、鼠のような使い捨ての人生で本当に満足なのかね?」

 

 景朗はするどく老人を睨みつけていた。こんなことをしても意味はないとわかってはいても、彼にはそうするほかなかった。

 

「足掻け。私を見ろ。悪人だろうと、家族を成し、幸せを手にできたぞ。

等しく人生は一度きりだ。だからこそ、悪事を働きたいなら、行え。善き事を行いたいなら、行いたまえ。だが"働きたくもない悪事"はやめてしまえ! 

わたしは"そのこと"を後悔しているよ。最近はタバコもやめておけばよかったと思っていたんだが、心配はいらなかったようだな。はは」

 

 カップを握り、残りをすべて飲み干して。

 

「私の人生は、まさしくこの一杯にふさわしいものだった。だが、素晴らしい宝物にも巡り会えた。その出会いに、乾杯だ。喜んで飲み干そう――――君の躍進を願う。私は英国と手を結ぼうとした。だが、アレイスター君はそれに反対のようだ。このままいくと"戦争"になる。アレイスターの刺客よ、君は凡百の輩ではない。"その時"は、その資質を無駄にするなよ」

 

 言いたいことは言ったと、満足そうに、お爺さんはかぶっていた帽子を顔に載せ、ゆったりと椅子を倒し、眠りについた。

 

 

 

 景朗は逃げるように急いでいた。

 ビルの屋上から飛び立とうとしたところで、階下から『おじいちゃんはー?』とまのぬけた孫娘の声が聞こえて来くる。

 景朗はもうそれ以上、一言だって聞きたくないと、大慌てでその場から飛び去った。

 そうするほかなかった。

 

 

 

 

 

 みっともなく逃げ去って。言われた言葉の意味を咽の奥でせき止めて。

 飲み込めぬまま、景朗は窓の無いビルを見下ろして、足止めを食らっていた。

 

 アレイスターに報告に行きたいが、結標淡希と連絡がつかない。

 タイミングよく土御門から、メッセージが届いた。

 

 

 

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