とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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またお恥ずかしながら戻ってきてしまいました。

今回投稿したこの1話だけで9万字(薄い文庫本1冊)くらいあるので、ゆっくり読んで欲しいです。


episode39:天使の力(テレズマ)

 

 

 

 

 

 "能力"は、その強度を問わず種類によっては高い殺傷性を持つ。

 そういった"能力(ツール)"を数年にわたり扱ってきた"手練れ"が、もし完全に理性を失って暴れ回ってしまったら?

 

 いくら学園都市製の防爆防薬施設内に居ようとも、無手の一般人では壊滅に追いやられてしまう。

 

 そうだ。

 もはや取り返しがつかなくなったこの悲劇は、雨月景朗と手纏深咲が二人で手がけた地獄にほかならない。

 

 一つ目玉の悪魔が巻き起こした災害に乗じて、手纏ちゃんはいわゆる"血の酩酊"でも引き起こしたのか、目につく人間すべてに攻撃をしかけていった。

 

 賢しいことに、彼女は真っ先に、逃亡者が殺到するであろう出口に、火炎の柵を敷いていた。

 無慈悲にも、焼き窯に蓋をしていたのだ。

 

 もともと引火性の物質に溢れていた実験室は、さながらモルモットたちを焼き上げるグリルへと変貌した。

 おかげで的(まと)にはこと欠かず、手当たりしだいに彼女は"殺傷"できた。

 酸素を操る能力者は、いとも簡単に逃げ惑う白衣の従事者を火焔でくるみ、爆風で吹き倒していったのだ。

 

 

 

 たとえ耳元でジリジリと髪が燃えていようとも。

 煩わしそうに少女はかぶりを振って小火を掻き消し、そしてまた、次の獲物を探した。

 己が身の安全確保など一考だにしていない。

 ただなにものにも優先して、他者への加害を図るばかりだった。

 

 

 景朗には、彼女の精神状態に察しがついた。

 きっと、ああなってしまっては自力では止まれない。

 まさしく"タガ"が外れている状態なのだから。

 

 恐らくは、手纏ちゃんは生まれて初めて"炸裂"させたのだ。

 今の今まで、それまでの人生で、ずっとずっと抑え忍んで来た、"嗜虐心"。

 

 反撃がくることの無い、一方的な加虐の開放感。

 きっと逃れがたい快感だろう。

 その快楽はまるで悪酒のごとく、酔い潰されてしまっている。

 

 

 精神か、体力か。そのどちらかが尽き果てるまで。

 快楽が押しつぶされるほどの、圧倒的な疲労(エキゾースト)にたどり着くまで。

 

 手纏ちゃんの理性は戻ってこないかもしれない。

 

 最後の最後まで、疲労困憊に陥るほどに人を傷つけ尽くし、できあがった無数の焼死体の匂いに彼女がようやく怖気づくのは、全てが終わったあとなのだ。

 

 

 冗談じゃない。

 

 

 そんな事態にさせるものか。

 そうなってしまう前に、一刻も早く彼女を止めるのだ。

 消せない呪いを背負ってしまう前に!

 

 

 ……いや、現実を受け止めよう。

 

 既に、手遅れなのかもしれない。

 だとしても。

 もはや遅すぎるのだとしても。

 それでも全霊を尽くせ。

 止めろ。

 動かなければ。

 だから早く動かなくてはいけないんだ。

 

 いい加減にしろ。

 

 邪魔をするな。還れ。還れ。

 用は済んだ。躰を自分に返せ。

 

 ピギィ、と肉のヒトデはうめき声をあげた。

 

 気を抜けば激痛でぼうっとしてしまう。

 頭痛なのか、身体中が痛むのか、その両方か、確信がもてない。

 それでもなぜか感覚は鋭く、今なら思いのままになんとでも物事を成し遂げられる気ような万能感もたしかに感じられるのだ。

 誰だって殺せる。何だって実現できる。そのはずなのに。

 

 

 いまだ景朗は自分の意思で肉体をコントロールできずにいた。

 自分の身体を支配した何者かは、悪魔の似姿のままに、欲望を叶えろと扇動しつづけてくる。

 

 気を抜けば、その甘言に唆されそうになる。

 悪魔と一体化した今の自分には、狂おしいほどの全能感しかなかった。

 

 声も聞こえる。悲鳴のような声だ。それも無数の老若男女の。

 この街の声が、拡大化された悪魔の超聴覚で拾われているのだろうか。

 

 意識をそちらにもっていかれないように、必死に集中しつづける。

 

 今の自分に叶えられない願いはただひとつだけ。

 簡単なことだ。

 悪魔に【さようなら】ということだけ。

 "コイツ"は、なんだって願いを叶えてやるぞと囁くくせに、今すぐ帰れと叩き返そうとすると腹を立てる。

 

 この悪魔を元の世界に返そうと、ただそう念じるだけで、景朗の意識は奪われ、身体から離されていく。

 

(あの時はどうした? 垣根をたおしたときは、悪魔はすぐに還った。あいつなら言う事をきいてくれるのか?)

 

 手をこまねいている時間は無い。

 

(だったら。もう一度。あの"狼"を呼び出すつもりで……)

 

 べしゃり、と音を立てて、人肉の海星はフラスコの底に落下した。

 ぶくぶくと表面は泡立ち、徐々に人の形を帯びていく。

 

 そうして、悪魔に魂を蝕まれ、身動きが取れずにいた景朗が自由を取り戻したのは。

 

 身を引き裂く思いで"悪魔憑き"の解除に成功したときには。

 

 研究室内を走り回る者がひとりもいなくなってしまった後だった。

 

 全ての感覚を取り戻した躰には、どっと苦痛が満ちている。

 

 

 

 だが、今は動け。とにかく行動にでなければ。

 

 木原一族に陥れられた窮地から、起死回生の一手を打ったつもりだったのだ。それだけだったのに。

 たしかに、悪魔はやってきてくれたけれど。

 

 

 室内を見渡せば、立っているものはもういない。かわりに充満するのは肉と薬品の焦げた匂いだけだった。

 

 

 一筋の光明だったあの喜びは、ほんの数分で、これほどの悲しみに変わり果ててしまった。

 

 

 

 

 手纏深咲は既に、人間からターゲットを変えて、施設中の機器や薬品類に衝撃と火を放っている。

 次から次へ。止まることなく……。

 

 

 彼女は背を向けていた。

 その露出したままの、白い肌へと向けて景朗はつまずきながらもバランスをとって駆けた。

 

 見たところ、研究者はだれもかれも意識を失い倒れていて、木原加硫に至っては今すぐに処置をしなければ命を失うだろう。悔しいけれど、正直、手遅れなのかもわからない。

 

 木原無水は魂を抜かれた様に惚けたままで、崩れ落ち、壊れた"炉"を見つめ続けている。

 景朗が居なくなってしまったにもかかわらず、空っぽのフラスコを、ずっとそのままに。

 

 景朗が手纏深咲に半ば飛びかかって抱き着き、動きを抑えると、とたんに体力切れを起こしたのか少女は体重を預けるようにその場にへたり込んだ。

 

 彼女の顔面をひっつかんで、正気かどうかをたしかめる。

 

「かへぇゃろうさん?」

 

 少女とはロクに視線も交わさずに、その疲れきった表情だけを盗み見て、景朗は放りなげるように解放した。

 ひとまずそれ以上、暴れる気はなさそうだった。

 

 

 景朗はエマージェンシー用のボタンをガラスごと突き破って打ち鳴らし、閉じ始めたシャッター下にデスクを投げ込んでつっかえさせた。

 続けざまにものすごい早業で、部屋中の人間を最後のリソースを振り絞ってなんとかかき集め、室外にひきずり出した。

 

 非常階段の踊り場は今や倒れた人間で埋め尽くされている。

 階段に座り込んでいた手纏深咲が小さく声を上げていたが、景朗はそれを無視して、一番最初に回収しておいた木原加硫のもとへと向かった。

 倒れたままの肉体からはまったく呼吸音が聴こえず、近づくことすらゾっとさせてくる。

 心を凍らせて、加硫の容態をみる。

 抱え運ぶ途中で気づいてはいたが、彼女の息は既になく、心臓も止まっていた。

 それどころか、頭部で放たれた、あの至近距離の爆発の威力は、この女の……。

 

 

 ああ。こうなってしまうのか。

 

 いくらなんでも、生き返らせることなんてできやしない。

 

 

 どうすべきか。

 俺に、この惨状を解決できるのか?

 今。今この瞬間。何をすれば。

 加硫の頭の中身は、もう元に戻らない。

 爆発の衝撃でシェイクされて、まるで弾力を失ったゼリーのよう。

 蘇生は絶望的で。

 どのように、加硫の遺体を。

 どこに、どうやって…。

 いや、死体なんてどうにかなる。そうじゃない。

 どうやって、どうやって、解決を……。

 

 

「かげろうさぁんっ」

 

 

 わざわざ声を張り上げなくとも気づいているとも。

 手纏ちゃんの視線は、さきほどからずっと背中に突き刺さっている。

 

 

「いきてまずよね?」

 

 そんな質問しなければいいのに。

 

「そのひといきてますよね?」

 

 

 景朗は預言者を気取れるほど賢くはない。

 それでも、この時ばかりはそれができた。

 

 目の前の事実を伝えたらおしまいだ。

 手纏ちゃんに、永遠に解けない呪いが降りかかる。

 

 

 自分がこれから彼女に向けて放つ言葉は、永久に彼女を変質させてしまう……。

 

(なあ、肩代わりさせてくれ。俺が巻き込まなければ手纏ちゃんはこんなことに一生関わらなかったはずだろ。俺が肩代わりする。それで解決ってことでいいじゃないか。なあ!)

 

 

 木原幻生の悪意ある罠から抜け出せたかと思ったらこれだ。運命なんてものを決めてる意地悪な悪魔がいるんだとしたら、せめて自分だけを狙ってくれないものだろうか。

 

 

「はやく救急車をっ。すみません、いそいで病院につれていってくださいませんか。お願いします。救急車、はやくかげろうさん、すみません、はやく!」

 

 手纏ちゃんの心音は荒れ狂っていた。

 彼女の苦悩の念や、おそらくは絶望や後悔といったもの。

 ばくんばくんと止まぬ彼女の脈動が、鼓膜をとおして痛いほど景朗にも伝わってくる。

 

 彼女はきょろきょろと首をふる。すぐさま目に飛び込む。

 おびただしい火傷で肌を炭色にした人たちが床に転がっている。

 

 当然だが、充満する肉の焼けた臭いは彼女の不安をさらに悪い方向へと向かわせるだけだ。

 

「あっあっ――っあ! どうしようほかのひと、かげろうさんおねがいします、ほかのひとも、ぎゅッ、あああっ!」

 

 手纏ちゃんは自力で何かを為そうと立ち上がろうとしたが、腰でも抜けているのかそれもできず、階段からこけて踊り場で尻を打った。

 そのあとは床の上でじたばた暴れるものの、大した距離をすすめられずにいる。

 

 

 

 悩んでいられない。どのみち景朗に、十分に考え抜く時間なんて無い。

 

 手纏ちゃんに、これ以上加硫の遺体を見せたくない。見せない。

 

 自分の判断が正しいのか、景朗の脳みそでは最後の最後までつきとめられやしなかった。

 

 ただ、もう起きてしまった。取り返せない。挽回などできない。

 

 真実を語っても。嘘を語っても。手纏ちゃんの心に永遠に残る傷がつくのなら。

 

 彼女がこの一件でトラウマを抱え、一生逃れられない業を背負うのだとしても。

 

 俺もここにいる。彼女と一緒に、ここにいたんじゃないか。

 

 自分にしてあげられることが、たとえどんなに些細な違いか生みださないのだとしても。

 できうるかぎり背負ってあげたい。

 今更、ひとりやふたり、自分ならどうってことないのもあるけれど。

 

 

「安心して。まだ生きてるよ、生きてるって。でもあまり関係ないけどね」

 

 景朗は加硫の焦げた白衣を剥ぎ取り、彼女の遺体に頭から噛ぶりついた。

 

「はァ?」

 

 手纏ちゃんは、それからの一部始終を眺めていた。

 

「ぁぁあああっげぇあっ! なにしてるんですッ!? やめッごほっ。やめなさいッ、やめなさいッ!!」

 

 景朗は加硫の頭部を噛み千切って丸呑みにした。

 その"ひと口"でわずかながら生気を取り戻すと、こんどはさらに躰を膨らませ、ケダモノの姿もあらわに残った遺体を巨大化した口であまさず平らげた。

 胸部まで噛み千切った後は、残り全てをひと呑みにして、速やかに終わらせてしまった。

 

 

「バッ、あなたは! あなたはァッ! 何をしてるんですかッ!」

 

 きゅるるっ、と能力で引き起こされた風が頬をかすめて、すぐに立ち消えた。

 手纏ちゃんは能力で、咄嗟に景朗を攻撃するか迷ったらしい。

 極限の心理状態で能力発動がうまくいかなかっただけなのか、自分の意志でやめたのか。

 それはわからない。

 

「ひとっ! ……ぅ」

 

 人殺し? 果たしてそれはどっちが?

 そんな心の声が聞こえてくるかのように、会話を恐れた少女は最後まで言えずに押し黙った。

 

 息遣いだけが聴こえている。

 手纏深咲はしぼりだす言葉すら失い、呆然と時を止めている。

 

 今まで雨月景朗という人間に抱いていた信頼を、どう再計算すべきか。

 そんなことを考えているのだろうか。

 

 ぽたぽたと水滴が彼女の瞳からつぎつぎと流れ出した。

 

 

 景朗としては、大いに同情するとも。

 

 突如誘拐され、味わった恐怖と孤独。

 なんの手加減もなくさらに襲いかかってくる、暴力的な学園都市の闇。

 

 

 散々に現実感を失った、その後で。

 今度は自分が誰かを手にかけたかもしれない、という疑惑。

 それを打ち消す、友人の食人行為。

 

 手纏ちゃんはそれまで以上の更なる"日常"を喪失させたにちがいない。

 今、自分が立ち尽くす場所がどこなのか。

 "そこ"が地獄にほどなく近い場所だと、しっかりと頭に刻み込めただろうか。

 

 

 彼女に認識しなおしてほしい。

 地獄から脱せるのは、手纏ちゃんただ一人なのだ。

 もとから景朗は"ここ(地獄)"の住人だったのだと。

 

 

 食事を終え、歩きだし、近づく景朗に、うまく立ち上がれない手纏ちゃんはお尻を引きずって後ろに下がろうとするも。

 

「ひ」

 

「まだやる事があるのに、食べ物が無いんだよ。この女にはせめて栄養になってもらうっての。何か文句あるカヒッ、グ、ゥゥエェァ?!」

 

 景朗は血にまみれた吐瀉物を口からこぼした。

 躰中にノイズが走って、思い通りに動かなかった。

 理由は分からない。神経や筋肉、そういった末端の機能は正常な、はずだ。

 判断力の大元の、その中枢が壊れてしまっているのだろうか。

 命令を発する指揮所がエラー信号を送り出すので、手足は正常に"誤作動"を反映させてしまうような、そんな感覚だった。

 

「お、おへぇほ、おれをひゃっかいは殺した女だぜ?! 当然の報いだ」

 

 

 場違いな裸体を晒したままへたり込んでいた手纏ちゃんは、景朗から距離を取りたくて後ずさろうとしつづけている。

 けれども床が液体でつるつるなので手尻を滑らせ、その場から進まず、体力を無駄に消耗しているだけで。

 失禁という言葉はこの惨状に当てはまるのだろうか? もうずっとまえから、手纏ちゃんは垂れ流しっぱなしだったように思う。

 

 彼女の表情には、ありありとただ一つの願望が書いてある。

 家に帰りたい。このまま、安全な場所に一刻も早く逃げ帰りたい、と。

 現実を受け入れる辛さ。いっそ卒倒でもしてしまえば、楽だっただろう。

 だが、大能力を扱える人間の精神力は、それほどヤワではないらしい。

 

 しかし、帰りたいというのなら。

 景朗とて、彼女の願いをかなえてあげたい。

 意を決して景朗は距離を詰めた。

 

 彼が手に持っている焦げ焦げの白衣は、今では加硫の"遺品"に変わり果てた一品だ。

 何も着せないよりはマシだと、白衣を手に近づくも、それを身に付けることへの手纏ちゃんの抵抗感はすさまじそうだった。

 

「あんまり手を焼かせないで。こんなのただ実験が失敗しただけじゃん。この街ではありふれて起こっていることなんだし」

 

 この状況でよくもそれほどに乾いた笑みを浮かべられるものだ。

 凍りついた手纏ちゃんのひきつった顔は、ひとつの関係の終わりを予感させずにはいられなかった。

 

 仕方がないか、と景朗は演技ですくめてみせて、狂った平常心で周りを見回し、ぼうっと宙を見つめて座り込んでいた無水の白衣をはぎ取って、少女を無理矢理くるみこんだ。

 

 非常階段の踊り場に並べられた人たちを見る。

 手当が必要な人たちばかりだが、それはじきに届くだろう。

 監視カメラで状況を察したのか、続々とこの場所へと救助隊の喧騒が近づいている。

 

 ややこしいことになる前に、自分達は消え去ろう。

 

 

 それから景朗は、ただ登った。

 彼女を片腕で抱えたまま、太陽の元に出るまでそのまま避難通路の階段を上がりつづけた。

 会話はなかった。

 あったのは、弱弱しい手つきで景朗の腕をほどこうとあがきつづけた、手纏ちゃんの力のない抵抗だけだった。

 

 

 

 

 

 外気に触れると同時に、ただならぬ熱量を肌で感じとった。

 遠景を望めば、異質さを絵に描いたような雷雲が見て取れる。

 

 怪物の棲家のようなその雷雲が秘めたエネルギーは、景朗の第六感に直射し、たかが雲だというのに彼の肌を指すように焼いてくる。

 そんな気すらするほどだった。

 

 

 幻生の脅しは、はっきりと信憑性を増していく。

 あのジジイはもとより実験に関わることでは絶対に嘘をつかない。

 異質な空。他の原因は考えられない。

 ああ、きっと幻生は本当の事を喋ったのだ。

 

 たった今、"非日常"がビルの中で手纏ちゃんただ一人だけを襲ったわけだが、ビルの外では、そいつが都市の住人すべてに降りかかろうとしている。

 

 文字通りに己の肌身で感じとって、景朗は決断を下さねばならなかった。

 手纏ちゃんを降ろし、立たせる。

 

「あの剥げた爺さんが言ってたこと覚えてる?」

 

 少女は自信なさげにうなづいた。

 何かを言っていたことだけは覚えているのだろうが、会話の中身にまでは理解が及ばなかったのだろう。

 

「もう戻って来れないかもしれないから……まぁつまり、もう謝る機会が無いかもしれないから、謝っとくね。といっても本当に時間が無くて、いますぐ"あそこ"に行かなきゃならないから中途半端になるけど。そこは――ごほっ」

 

 ふらりと体をグラつかせた景朗を反射的に支えようとしたが、手纏ちゃんが差し出したその手は間にあわず。

 だが、景朗は倒れはしなかった。

 

 星型の人間達磨を"辞めて"から、何度も何度も体中に痛みがぶり返す。

 ひと時の間を置いて、その軋みは神経の中を這いずり、襲いだす。その繰り返しだ。

 加硫の遺体を喰らって肉体的な損耗はある程度回復できているはずなのに。

 

 今は能力を使えている。脳は万全の状態だ。

 意識の欠落など起こってたまるか。

 脳細胞は正常に"精神"の演算を成し遂げているはずなのだ。

 

 ではこの歪みは精神ではなく、別の"何か"だとでもいうのか?

 

 明確な答えなどない。

 それでも、ときおり思考にクラックが入り、幻想痛は消えずにいつまでも耐え難い頭痛となって脳みそにこびりついている。

 間に合わせの自作ホルモンでは正常化できない状況にある。

 

 

「オカルトじみてる……」

 

 景朗が思わずこぼした悪態は、小さすぎて誰にも聞こえなかった。

 

 

「"みさかさん"って常盤台の御坂さんですか? "街が吹っ飛ぶ"っていってましたけど、どうして御坂さんの名前がでてくるんですか?」

 

 一部始終を聞いていたはずなのに、さっぱり理解が及ばなかった。

 そんな自分自身を自嘲するかのごとく、うつむく手纏ちゃんは、はしっと両手で白衣の襟を掴んで裸体を隠すように力を張った。

 

 ちらほら見えていた恥部を気にするようになってくれたのは、彼女が正気にもどりつつある兆項だと思いたい。

 太陽の日差しは濁っているが、それでも夏の暖かさと遠くにある人の喧騒は日常感を呼び覚ますのに役立ってくれたのではないか。

 

 わずかでも元気を取り戻してくれると、今後のことを話しやすい。

 

「あいつらの目的は俺。俺に言う事を利かせたくて手纏ちゃんを人質にしたんだ。ホントに狂った奴らでさ、ついでに手纏ちゃんにもちょっかいをかけやがった。申し訳なくてなんて謝ったらいいか。ほんとうに、迷惑をかけてしまってごめんなさい」

 

「景朗さんにいったい何を? 私を攫ってまで何をさせようと?」

 

「それは後で話す。手纏ちゃん、いい、大事なことだから」「今さっきこれが最後になるかもしれないって言ったばかりじゃないですかッ!! 今、話してくださいッ!」

 

「ごめん。だけどこれは手纏ちゃんの安全に関わることなんだ。お願い、先にこの話だけはさせてほしい」

 

「ふう。……わかりました」

 

「あのハゲ爺、幻生ってんだけど、あいつが言ってたよね。手纏ちゃんは"幻想御手"という曲を聴かせられて、脳波パターンを無理矢理"調整されて"しまってるって」

 

「……はい、そうみたいです」

 

「前回"幻想御手(レベルアッパー)"が使われたときは大規模だったから、"ソレ"を聴いた人間は全員が意識を失った」

 

「意識を?」

 

「意識を失って倒れる。完全な昏睡状態になるんだ、誰かの介護がいるレベルで」

 

 真剣なまなざしで詰める景朗の様子から、手纏ちゃんも徐々に青ざめだす。

 

「でもね、今回は規模が小さそうだから、あわよくば意識を失わないかもしれないし、もうちょっと時間が経った後で意識を失いだすのかも。どうなるかは俺にもわからなくて、だから今は一刻も早く丹生たちに合流して。いつ意識を失っても大丈夫なように信頼できるヤツの側にいかなきゃ」

 

 アイコンタクトで、気分はどうかと尋ねる。

 

「今は、今はそれほど、気分は悪くないです」

 

「よかった。けど油断せずにいこう。ああ、それともちろん親御さんのところに行ってもいいけどねッ、あ、ヤヴァゥううえぁッ!」

 

 話の途中だったが、不覚にもさきほどから続く、制御不能な"平衡感覚のノイズ"が走って、景朗はよろけてえづいた。

 血のような嘔吐を道端にぶちまけて、凶悪な"幻肢痛のようなもの"に体を震わせた。

 

 

「景朗さんッホントに、大丈夫なんですか?!」

 

「ぇぅぅアッ!」

 

(これは何なんだ??)

 

 この痛みの正体に、全く理解が及ばない。

 そもそもこれは"痛み"なのか? 痛みを感じる神経は失活させているのにか?

 脳みそは痛みなど決して演算していないはずなのに、この謎の苦痛はどこからきてるっていうんだ?

 

(あの"存在"に、なにか壊されたのか? 肉体は元通り修復したはずなんだ。 だったら……"何"を壊されたってんだ? それって、それって……)

 

 物理的な肉体はもっていないはずのくせに、"意識あるもの"として実在して我が身に降り懸かった"存在"。

 そんなものがあるというのならば、ありえてしまうのならば。

 物質というものを離れて――人の念、意識、精神や……まさか"魂"だなんてものがあるとでも?

 

 

 顔を上げれば、遠目に見える異界じみた雷雲。胸騒ぎは止まらない。

 景朗の第六感は猛烈に"行くな"と告げている。

 行ってはならない。あの雷雲に関わってはいけない。

 

 "あれ"の正体は知らない。だけど漠然と悪寒がする。予感がする。

 この幻肢痛の先へ、先へと突き抜け、たどり着いた闇の広がる果てに。

 

 "あれ"は"その果て"に、似ている気がするんだ。

 どうしてかはわからない。

 直感にすぎないこの根拠なき恐怖感は、とどまることなく増大しつづけている。

 

 

 逝きたくない。まだ此処に居たい。

 だって、届くのかもわからない。

 脳みそを書き換えて、先の見えない真っ暗闇(高次元知的生命)へと一方通行の梯子を登る。

 

 その果てへ辿り着かなければ勝てないのか? 

 勝利と引き換えに全てを差し出して。

 人間から羽化して。自分は一体どこへ逝く?

 たった一度の脱皮。されど、もう二度と元には戻れない。人間には戻れない。

 羽化したあとで人間に変身しなおす?

 残念だが、それは人間に戻る行為にはならない。ただの人間への"擬態"だ。

 人を超えた何かが、人間のフリをするだけだ。

 宇宙人が人間に擬態して、何食わぬ顔で生活するようなものだ。

 

 

 そんな彼の弱気な心根が行動に表れたのか、ひとえに精神的な抵抗感からか。

 

 遠く怪しく輝く雷雲から目線を外して下に向け、景朗はついにその場に座り込んでしまった。

 

 誰にも顔を見られたくなかったのか、そのまま膝の間に頭を落とし込んで、動かなくなった。

 

 

 やっぱり。幻生を黙らせておくべきだった。

 手纏ちゃんにまで知られてしまった。

 

 

 

 いらなかった。

 こんなこと、考えてはいけないのに。

 自分で選んだ道だと、どんなに言い聞かせようとしても。

 ああ、やっぱりどうして。

 いらなかったのに。

 こんな能力いらなかったのに!

 こんな能力が無ければ、俺は哀れなアレイスターの奴隷で居られたのに。

 "人間"を気取っていられたのに。

 

 たとえ火澄に見向きにされなくとも。蔑まれようとも。しょうもない矮小なレベル1のままでいればよかった!

 

 

 あそこにはいきたくない。もう戦いたくない。

 

 募る後悔が、自分を女々しくする。こんな考えは今すぐ捨て去ってしまえ。

 

 行動に移ろう。移るんだ。行くんだ。行かなくてはッ!

 

 

 

 

 ……ああ。ああ、幻生の口を封じておく時間なんていくらでもあったのに。

 

 

 

 こんなことなら幻生を殺しときゃよかった。

 バラしやがった。 あの野郎バラしやがった!

 

 こんな日が来るかもしれないと思っていたくせに、なんで殺しておかなかった!!

 どう考えても殺しておくべきだっただろう! 殺しとくべきだった!!!

 憎い、憎い、憎い、憎い、にくい!

 許さない。許すもんか。許さない、許す必要なんてないさ。

 絶対、殺そう。

 この後、殺そう。とにかく殺そう。

 この先どうなろうともあいつは殺しとこう。

 たとえこの先すぐアタマが"イカれちまって(悪魔になって)"なにもかもがどうにでもよくなっちまうんだとしても、アイツを殺すのだけは覚えておくんだ。

 

 そうしよう。そうしよう。

 うんと苦しめて、後悔させてから殺さなきゃ。

 苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、苦しめて苦しめて、あの頭を握り潰してやる。

 思う存分、苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて、その後で殺そう。

 ジジイはヘラヘラ笑って死んでいきそうか?

 そうかそうか。だったらそうしてみせろよ。やってみせろよ。

 こっちだって笑えなくなるまで痛ぶってやるぜ。

 ドロドロに崩れた苦悶のツラに「笑ってみろ」と叫びつけるまで殺してなんかやらないからさ。

 

「――ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」

 

「帰りましょう、早く。私のことはいいですから、はやく、安静に」 

 

 至近距離まで近づいて顔を覗き込んできた手纏ちゃんは疲労も不安も、心細さもなにもかもを抱え込んでいて、救いを必要としている表情だった。

 それでも、景朗を気遣かってくれている。

 

 だというのに、景朗はあからさまに彼女から顔をそらしてしまった。

 

 本当にかすかな、身じろぎする音が聞こえた。景朗の態度は、やはり少女を一瞬で傷つけたのだ。

 

 しかしたとえ、それがわかってしまっても、景朗はしばらくそのままだった。

 

 

 臓腑で煮えたぎる殺意を隠したくて、ただそれを見せたくなくて、彼女にはバレたくなくて、それは手纏ちゃんを思いやる事より優先してしまうほどに嫌なことだった。

 

 しかし。最後まで残っていた冷静な部分は一方で、悠長に座り込んでいる時間の無さを告げてもいて。

 

 見上げれば、このわずかな間にあの異様な"暗雲"はまたひとまわり大きくなっている。

 

 

「……ごめん、待たせてごめん、もう大丈夫。ここから離れよう」

 

 立ち上がって改めて顔を合わせた景朗に、手纏ちゃんも手纏ちゃんとて、それまでに溜め込んでいた感情を解き放つように、今度は自分の番だとばかりに大声をあげた。

 

「何言ってるんですか? 行かなくていいですよッ! 行かないでくださいッ!」

 

「いや、まずい」

 

「まずいって、誰の立場からですか? いつからあなたの立場はそれほどえらくなったんですか? 赤の他人を、自分の身を犠牲にしてまで救いに行かなくてはならない立場に、一体いつから? 行きたくないなら行かなくていいんです」

 

「立場のハナシじゃないって」

 

「だって、よくわからないですけど、景朗さんだけに責任があるようには見えませんでしたよ? 行く必要なんてないんですよ!? 今の景朗さんには、景朗さんだからって、何もできるような状態じゃありません、どこにも行かないでくださいッ! 一緒に居てくださいッ! 私とッ!」

 

 街の人間すべてが吹っ飛びかねない、ということをやはり理解してくれていない。

 いやしかし、それは無理もないことかと、改めて思い直した。景朗にだって実感はないのだから。

 

 手纏ちゃんは完璧に感情が昂ぶり、白衣を抑える手にまで意識が行っていない。

 気をつかってみないようにしているが、それでも白いおなかが見えるたびに、ちゃんと服を抑えていろ、と言いかけそうになる。

 白衣の襟を戻してあげようと、手に取ろうとした。だが今はそんなことはどうでもいいとばかりに、手纏ちゃんは自ら両手で景朗の手を力強く引っ張って、それを制した。

 

「今は私のことをほうっておかないでくださいッ!」

 

 こんな風に攻撃性を見せる手纏ちゃんは初めてで、しかしこっちだって余裕はないんだよ、とやや投げやりな態度を返しそうになる景朗は、ここにきて紳士的な態度をし続ける意味があるのか? と自問自答して、その答えがNoだということに、たどり着いた。

 

「悪いけど、怒鳴る元気があるならまた担いで運んで――」

 

 怒りを込めて言い放った景朗に、唐突に手纏ちゃんが抱き着いた。

 言葉で言い争うのに疲れたのか、焦れたのかはわからない。

 

 あまり力を入れずに引き剥がそうとしたが、手纏ちゃんは強く抵抗した。

 何度か繰り返すが、手纏ちゃんは駄々っ子のようにイヤイヤと抵抗しつづけた。

 ここまでくればどこからどう見ても、抱き着いているのではなくしがみついている。

 

 手纏ちゃんはまた泣いている。今回は苛立ちも交じっている。

 わかるけれども。イライラするのはわかるけれども。

 時間としては短いものだった。しばらくそのままにしたあとで、景朗から切り出した。

 

「……ごめん、最後になるかもしれないとか言って。なるべく、じゃなくて。絶対、あとから絶対に、説明しなおすから。説明しにまた戻ってくるから。約束するから」

 

「いい加減、ホントウですね?」

「そう言われると説得力ないけど、いい加減、ここから動こう」

「それは賛成です」

 

 完璧な鼻声だった。

 素肌同士が触れ合ってもいる。

 

 

 繰り返すが手纏ちゃんは素肌に白衣だけ。はだけた胸元は、その先の膨らみまで露わだった。

 だが景朗にも手纏ちゃんにも、それを今さら恥じるような余裕はなく。隔たりもなく。

 

「なんにせよ先に安全なとこに届けるよ」

「はい、お願いします」

 

 

 眼を交差させて、2人とも同時に気がついた。それまであったわだかまりがすっかり霧散してしまっていることに。

 互いに、本気で怒ってなどいなかった。それが理解しあえている。

 

 ならば。ここに在るのは、もはやお互いがお互いを心配しあう、そんな露わになった親愛さだけであって。

 

 そんな気がするのは景朗の一方的な勘違いだろうか?

 

 はっきりとは言い表せなかった。

 けれど、ここではもう彼女に対して、必要以上に遠慮をする必要がなくなった気がして。

 いや、今このときだけではない。

 もしかしたらこれから先も遠慮はずっと無用なのかもしれないな、と。なぜか唐突に、そう思い至ったところで。

 

 考えを立ち切るように、景朗は強引に歩き出した。

 

「ふわぁっ」

 

 驚く手纏ちゃんの手を奪い取って、おんぶして、有無を言わせずに歩き出す。

 

 これから丹生とダーリヤを呼び出し、彼女を預けてすぐにでもあの雷雲の下へ直行するつもりだ。

 

 今度は手纏ちゃんも抵抗らしい抵抗をせず、素直なものだった。

 

 

 

 そこからは、まるで中学生の頃に戻ったかのように、二人とも妙におしゃべりになった。

 

 これはIFのハナシだけれども、もしたとえ、会話などなくても。

 仮に、お互いに無言のままで時が過ぎていたのだとしても、きっとどちらにせよ心地よい空間だっただろう。

 

 

 手纏ちゃんの質問に答えるがままに、景朗はぽつりぽつりと幻生と初めて会った日から、これまでの想い出を話し続けた。

 

 

 

 秘密にするのもいい。

 ただ、景朗には自信がなかった。

 

 幻生は"羽化昇天"しなければどうにもならない、と言った。

 もしそれが避けられない現実となるのならば、手纏ちゃんと話をするのはこれできっと人生最後になるのだろう。

 それは決して手纏ちゃんだけではなく、他の奴らとも、だ。

 

 ここで必死に秘密を守って、何になる?

 明日、皆がそろって生きているかもわからないのに。

 

 幻生のヤツは街が吹っ飛ぶといった。ならば、誰にでも真実を知る権利があるような気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、ここでこんな風に説明を終えてしまえば、この両名はその後の帰路をまるで始終よい雰囲気で語りあって帰ったかのような印象を受けるだろう。

 

 だが実際には、2人はまたも途中で、揉めた。

 

 当初、景朗はダーリヤと丹生に手纏を預ける予定だった。それを急遽変更し、最終的には火澄を追加で呼び出し、手纏を引き剥がして無理矢理3人に押し付けて預けなければならないハメになったのである。

 

 

 中学時代の転落を語り、機密を避けて現在の不自由さをおおまかに説明すれば、手纏ちゃんは今回の誘拐までいたった経緯をなんとなく理解できたようだった。

 

 そこからだった。

 

 2人の会話はもつれだしていた。

 

 

「かげろうさん……責任をとってください」

 

 何やら意気込んで名前を呼ばれたので、何が待っているかと待ち構えていた。

 

「……心配しなくても木原加硫は生きてたよ。俺がとどめを刺すまでは」

 

 手纏ちゃんは単に友人を助けようとした。そこになんの咎があろうか。

 その結果、木原加硫を手にかけることになろうとも、緊急事態ゆえに情状酌量の余地はあるに決まっている。

 友人が目の前で何度も殺される目に遇わされていたのだ。どちらが先に殺すか殺されるか、そんな極限状況であったことは疑いようがない。

 

 それに、景朗が確認したときに木原加硫がすでに死んでいたとはいっても、学園都市の深部の技術ならばあの状態から蘇生させられた可能性は、ゼロではなかったのかもしれない。

 

 自分が"とどめを刺した"という表現で、間違ってはいないと信じている。

 

 ゆえにその"責任"とやらは、言われずとも景朗が背負うつもりである。

 ただ、その"責任"の行方をきちんと言葉で追及しあう行為は、つつかなくていい藪をつついてしまうような、なにやらタブーのように感じてお互いに言い出さずにいたのだと。そう思っていた。

 話し合わずにうやむやに済ませてこのまま去ってもよかったのだ。

 しかし相手がそれを白黒はっきりさせたいというのであれば仕方がない。

 

 

「だとしても、私は無罪ではありません。私たちが犯した罪を償い、この一件を必ずや教訓として今後を戒めるために、私は私の償いをしていかねばなりませんし、景朗さんだって更生を目指すべきです。もちろんお嫌だとは言いませんよね?」

 

 

 素晴らしい。かつてここまで強気で言い返す手纏ちゃんは見たことがない。

 景朗が繰り出すいかような言い逃れも正面から看破してやらんと、首を絞めつけてくるチカラもさっきからゆるぎない。

 

 

「更生……」

 

「ですから責任を取るとは、更生することなんです。わた、私は、私も、これから景朗さんのおそばで、そのためのお手伝いをします」

 

 『今すぐ更生なんてできません。する気がないのではなく、ゆくゆくはそうしようと誓っていますが、状況が許さないのです』

 

 なんて馬鹿正直にも言えず、何を言い出すのやらと景朗はとまどった。

 その間にも、ずけずけと手纏ちゃんは宣言した。

 

「景朗さんはたくさん物件をお持ちなんですよね。一番セキュリティのしっかりした物件をご用意おねがいします。私が住み込みでお世話をしますから」

 

「はあ? 待って。待ったなにそれ」

 

 おんぶ状態で手纏ちゃんの顔は頭の後ろにある。

 正気か確かめようと振り返るが、手纏ちゃんも負けじとぐぐっと顔を逆サイドに伸ばして顔を隠してしまう。

 

「どんなところでも文句はいいませんよ、バスルームさえついていれば私は」

 

「嫌だよ」

 

「おいやなんですか?! どうして! わたしはッ誰かを殺めてまであなたにッ!」

 

 背中で発せられたキンキン声は、とにかく一瞬でものすごい圧を景朗の精神にうちつけた。

 今にもヒステリーを引き起こされる。そんな不安が巻き起こる。

 

「まっ、違う、嫌というより無理、無理だろう?!」

 

「どの辺がムリなんですかッ」

 

「キミのお義父さんに殺されるでしょ!」

 

「大丈夫です、その前に私がお父様を無力化します!」

 

「そこまでするんだ? あんなに仲良さそうだったのに?」

 

「やります。だって景朗さんは放っておいたら絶対にお父……お父様の誤解を解くために、かげろうさんを矯せ……だから景朗さんが更生してくださればすべて解決します」

 

「無理ッス!」

 

「私からは逃げられても、景朗さんはご自身の償いからは逃れられませんよ!?」

 

「んぐ」

 

「ほぉら。であれば、私が、毎日、おそばでお手伝いします! 何の不都合があるんですかッ!」

 

 

 なおも言い逃れをして全力で拒否しようと考える景朗の様子をみてとって、ついに手纏ちゃんは泣きわめくように、怒り以外の感情も上乗せして責め立てる。

 

 

「わたし、かげろうさんのために人まで殺しました。なのに、責任すら……御側においてすら、もらえないんですか?」

 

「だからキミは誰も殺してないってば、俺がとどめを刺したんだよ」

 

「残酷な嘘をつかないでください。あの研究者の方がもし生存されていたのでしたら、景朗さんは間違いなく救助されたはずです。私の為に犯してもいない罪を背負っていただかなくて結構ですッ!」

 

「何と言おうと、証拠は俺が呑み込んだんだからグレーのままだよ。永遠に。白にも黒にも結論はつかない。むしろ俺が殺した。俺が黒ってことで処理されるはずだよ」

 

「私にそれで納得しろと? あの体験を、あの過ちを、私がそんな陳腐な言い訳で受け流してしまえるとでも?!」

 

「これ以上はどうしようもないよ。なんなら勝手に自分が殺したと思っていればいい。そこまでいうなら止めない」

 

「そうさせてもらいます。そうしますとも。だからあなたも! あなただって罪を償うために行動を起こさねばならないと主張しているんですッ!」

 

「俺は付き合わないよ。勝手にやってくれ」

 

「……わかりました。でしたらせめて、あの女性を殺したのはご自分だと、吹聴するのはやめていただけますか? あれは私の責任ですので」

 

「……ああもう。どうやったらこの一件を引きずらずにいてくれるんだよ? キミは巻き込まれただけだろ。目の前の友人を助けようと、正当防衛した結果だろ? 加害者の生死はこの際問題じゃない。きっとほかの国なら称賛される行為だよ! 考えてもみなよ!」

 

「何をですか?」

 

「たとえば街中に銃の乱射魔が突然あらわれて、無辜の犠牲者がたくさんでている最中で! キミはたまたま居合わせて、たまたま持っていた"能力"でそれを終わらせた! だったらどうだ? 結果的に犯人が死のうと、誰だってキミを英雄扱いするはずさ! 銃社会の米国だったら通行人だって銃を持ってたりするだろうから、キミと同じように決死の覚悟で犯人を止める人がいっぱいでてくるはずだ! 彼らが罪に問われるわけないだろ? 今回だって同じだとは思えないのかい?」

 

 ぐぐ、と景朗の首に回されていた手纏ちゃんの腕に力が入った。

 

「俺を助けようとしてくれただけだろ!? 手纏ちゃんは何も行動を起こせないような偽善者じゃなかっただけなんだッ。みてみぬふりをしなかっただけなんだよ! なぜそれが」

 

「そうだったらどれだけ幸せでしょうか。そうやって今日あったことを全部忘れられたらどんなにいいでしょうが。ですがあなたもご覧になっていたとおり、私は、わたしは、愉しんでいました……っ。なかったことにはできません!」

 

 

(時間が解決してくれるんだろうか……。

 木原加硫は脳みそまでぐちゃぐちゃになっていた。

 確かにキミは殺してしまっていたよ……。

 

 でも、それは。俺がやってきたことに比べたら。

 許されるべきことなんじゃないのか。

 

 今ここで手纏ちゃんの主張を認めちゃだめだ。

 殺人を犯しただなんて引きずってほしくない。

 

 元はと言えば俺が原因だ。責任を感じてほしくない。

 

 今、説得を諦めちゃダメな気がする。

 じゃないとこの先もずっと手纏ちゃんは引きずっていく気がする。

 

 でもこの態度じゃあ、言葉で変えるのは無理かもしれない。

 どうする。どうしよう)

 

 

 

「……とにかく。木原加硫にキミが攻撃をしかけた時点では、正当防衛だった。俺はそう信じてる。

だから、手纏ちゃんに……おれは感謝をするのを忘れてた。助けてくれてありがとうって。まだ言ってなかっただろ? 

おれはさぁ……手纏ちゃんが俺を見捨てて、何もしなかったほうがよかっただなんて、そんな風には絶対に思えない。

ほら、今日起こったことは、ただそれだけのことなんだよ」

 

 手纏ちゃんはその言葉を聞いた後、しばらく黙り、小さく嗚咽を漏らし始めた。

 

「だったら。どうして、"食べた"んですか?」

 

「それは。――そうさ、憎かったからだよ。加硫はへらへら笑って俺に劇薬を浴びせかけてきてただろ? 何回も何回も楽しそうに!」

 

「おっしゃるとおり、私が乱射魔を止めた英雄なのだと、そうあなたがお考えになったのであれば。あのとき、加硫さんを、食べて、…まるで誰かから隠すみたいに。そんなことをする必要はなかったはずでしょう?」

 

「実質的に何度も俺を殺したようなもんだ! 殺し返して何が悪い!? だからこれは俺と加硫の問題さ!」

 

 小さかった手纏ちゃんの嗚咽は、しだいに大きくなりつつある。

 

「かげろうさん……ほんとは、もうどうにもならないくらい……ほんとうは、ておくれだったんでしょう……だから」

 

「違うって。とどめを刺したのは俺だって。もう、蒸し返しても無駄だよ」

 

「ぅう、ひ、ふぅ。でも、かげろうさんは、少しでも、すこしでも蘇生のめどがあれば、あなたは、そうしてくれていたはずです。ほかならぬわたしのために。わたしが罪を背負わずにすむよおに……何が、なぁう、んでも……わたしのために、加硫さんを助けようとしてくれたはずでしょう……」

 

「……」

 

「だけどすでに……手遅れだったから………」

 

 どうにか、彼女の追及を逃れる言い訳がないか。脳内で必死にぐるぐると探している。

 

「もう……病院に運んでも……だから……」

 

 どんな言い訳を並べても、もはや手纏ちゃんを誤魔化せるとは思えなかった。

 

「……あの方を。"食べた"んでしょう……?」

 

 何かを言わなくてはならない。でも、思いつかない。

 

「ぅうっ、ぐすっ……ひっ、ぐ、ああっ、わ、たしのためにっ、食べたくもなかったのに、たべてくださったんでしょう?! う、ひぐ」

 

 息も荒く背中で泣いている。彼女が両手でしがみつき、肉を掴むその力はとても強くて痛いほどだったが、そんなことを注意する気力すら残っていない。

 

「ちがうって……生きてたよ、あの時はまだ生きてたから……」

 

 ちがう。ちがう、と。口から稚拙な否定の言葉を吐きつづけた。

 しかし、この状況で、それは。なんの説得力も発揮していないのは明白だった。

 

 

「なにが、さぜでぐださい……。わだしにも、かげろおさんのために、なにかさぜでぐださいっ」

 

 

 

 

(なんだか……このまま、言う通りにしてあげなきゃ自分がクズ野郎なのかと思えてくる)

 

 手纏ちゃんを背負いつつ歩いているが、真上を見上げればあいも変わらず異質な空模様のままだ。

 

(でも……俺は今、学園都市の人々を助けるために"羽化昇天"するかしないかって案件が、瀬戸際なんだよ。

 というかあれ、さっきまで俺、『オストラる』か『オストラない』か悩んでなかったっけ。

 ああ……次から次に……)

 

 ここにきて、どんよりした天気に染められるように、景朗の目も若干のにごりを見せていた。

 

(まずい。無性に火澄に会いたくなってきた。

 あいつならこの状況(手纏ちゃん関連)を何とかしてくれるかも……。

 あーあ、でもその前に、そもそもこんな惨事に巻き込んだって説明した時点でとんでもなくキレられるの確定してるよな。

 でもそれでも、火澄に来てもらって解決してもらったほうがいいって。そう考えてしまうのは都合良すぎか……。

 告白っぽいことしてくれたのにも気づかずスルーしてきて、そんなやつがこんな面倒押し付けてくるとか……。

 ううう、マジギレされて当然じゃんか。

 マジでエロゲーで刺されるクズのチャラ男みてーじゃん。

 なんてこったい。二股かけるどころか、俺は誰にも手なんか出してないのに、なんでこんな状況が出来上がるんだよ……)

 

 

 

 

 待ち合わせ場所は目と鼻の先となり、ダーリヤ、丹生、火澄の姿が見え始めた。

 散々待たされたせいか、もはやこれ以上は辛抱ならぬ、と3人は駆け寄ってきた。

 

 

 もしかして? と期待することすらできずに予想は的中した。

 さも敵陣に突撃する武者のような様で走ってくる火澄の背後には、たぎる蒼い炎の幻覚がみえるようだった。

 瞳にはもっと熱い炎が灯っていて、景朗はついさきほど小一時間前に感じた恐怖がぶり返すかのような思いだった。

 

 

「景朗! この子は! 何!? そして今までのッ、説ェ明ィ!」

 

「あとで説明」「『あとで』はもう売り切れなのよ! ふざッけんじゃないわよどんな神経してりゃこのごに及んでそんなセリフ吐けんのよ! ぅああッ殺してでも今すぐッ! 説明させッからねぇぇッ!」

 

 

 火澄の怒りとともに肥大化した蒼い炎がぶわりと景朗の足元をなでて、両足のスネ毛を根こそぎチリチリにした。

 普通の人間なら2~3日やけど用軟膏をヌリヌリしなければならないくらいの脅威である。

 たじろがずにはいられなかった。

 これはマジ切れ度が98%を超えている。怖い。

 

 

 とてつもなく心配かけまくっておいて『後で説明する』と約束しておきながらの2度目の"説明は後"でブチ切れた火澄さんのあまりの迫力に、考えていた言い訳の全てが通用しないのでは、と景朗は秒で弱気になった。

 

「ごめんなさい! ほんとそう言われて当然なんだけど! ホントに今、人命救助で俺、いかなきゃいけない場所があるんだって!」

 

 彼の口からでたのは全力の謝罪だった。

 どうあがいても、幼いころからの刷り込みは咄嗟にでてしまうということなのだろうか。

 

 ひとまず手纏ちゃんを背中から降ろそうと試みるが、ミチミチと聞こえそうなほど全力で手纏ちゃんはまたぞろ景朗の首をホールドし始めた。

 何が何でも離れる気はない、という強烈な決意を感じる力強さだった。そして通常の人間なら呼吸が止まるくらいの力強さでもあった。

 

(いかんぞこれは、暴力に対するハードルが下がっとるゥ!)

 

 手纏ちゃんは先程、『人を殺傷する』という日常から振り切れた破壊行為を経験してきたばかりである。

 いまさら人の首をちょいと絞め落とそうがどうってことねえべ、という常盤台出身のお嬢様がけっして"慣れ"てはいけない『暴力に対する"抵抗感"の欠如』を今の彼女からは感じられる。

 

「ちょ、ほら、行ってほらッ。手纏ちゃん何してんのッ」

 

「ミサキちゃん、ふざけてる場合じゃなさそうだから、お願いッ」

 

 丹生さんだけが手纏ちゃんを引きはがそうと手助けしてくれている。

 やっぱ丹生さんだけが最後の最後まで景朗の味方をしてくれる安心感。

 

「お約束いただけるまで離れません!」

 

「何の話よッ? 少しくらい状況を説明してくれてもいいんじゃないの?!」

 

 手纏ちゃんと丹生のどちらにも絡んでる火澄の腕は力強くてとても恐ろしい。

 思わず景朗も嫌がって、火澄の手をガードしようとするがそうすると今度は脚に蹴りが飛んできた。

 

「ちょ、おいっ。蹴らないでくださいよぉっ」

 

 卒業した後だって、どんな時も片時も常盤台生の優雅さを失わないでほしい。

 

「ウルフマンから離れろ!」

 

 小さいダーシャも頑張ってくれているが力不足はいなめない。カァーッと効果音がでてそうな怒り顔だが、キレてないでもっと俺と火澄の間に割って入ってきてよホラ。

 

「んぎっ! ぎいいっ!」「クビ閉まってる! ウルフマンの首しまってる!」

「ごまかさないでとっととハナしてどこにでも行けばいいでしょホラ!」「息ができなくて話せマセン」

「きゅぃぃぃはらたつ~!」「カスミちゃん話したでしょ! 今は景朗の言う事きくって! 行かせてあげてってば!」「ヒンニュウオンナ! ウルフマンを離せ!」「ぐぎぐぅーっ!」「あイタ! うるふまんこの女たたいた! たたいてくるわ!」「ミサキちゃんもいい加減にしてッてば! 今はふざけてる場合じゃないつってんだろォ!」

 

 息づかいを間近に感じる丹生の、その胸元(なぜ胸元を見ていたのかはツッコまないでほしい)にはプレゼントしたガリウム合金製ロザリオがぶら下がっていたのだが、ソレが徐々に溶け出して明らかに警棒のような打撃武器に変化し始めている。

 

(マズイ。丹生さんまでキレだしてきてるっ)

 

 気が付けばきゅるきゅると周囲の風の音も大きくなっていて、ときたま感じるその風圧には一瞬だけガスコンロに顔を突っ込んだときのような熱気も交じっている。

 

(ちげぇ! 殺る気だしてきてるの全員じゃん!)

 

「おちつい、おちつけ、落ち着いてくれぇ!」

 

 なんで自分以外全員がブチきれてるんだろう。

 しかし大能力(レベル4)相当の能力者3人がこの怒気で能力アリの喧嘩をするとなると怪我まったなしである。

 

 

「わかったぁああああっ! 説明してやるっっ! また帰ってくるって言ってるだろッ逃げも隠れもしねえよオラァァァァー!!」

 

 景朗は正面から火澄の胸に手を伸ばし、むんずと双丘を掴んだまま思いっきりプッシュアップ(引き離)した。

 

「ぁぅにゃっ、ボヴぁああああああああッ!!」

「「「あーっ!」」」

 

 バチン、バチン、バチィッ! ドゴッ! と頬とスネに打撃を食らったが、結果的に火澄は見事に景朗から飛び退った。

 あ、蹴ったのは丹生さんでしたか。

 すたっ、と手纏ちゃんは自分から降りてくれました。

 

「なにすんのヘンタイッ! おらおらおら炙られろ!」

「ちょ、おわあばばばっ!」

 

 景朗は地面を転がって炎をはたきつつも逃げ出した。

 視界がパチパチと明るさで満ちて、体毛が燃える凶悪な悪臭で鼻腔も満たされる。

 身体中でチリチリと毛が焦げて縮み上がる音がしている。

 散発的に炎の勢いがヤバい領域にあがっているのは、手纏ちゃんまで能力を使っているから?

 

 結局、火澄たちの視界から完全に消え去るまで、少女たちはしつこく彼をあぶりつづけた。

 

 安全なところまで逃げ出して、景朗は一度座り込んだ。

 

「へ、へへ……やっちまったぜ……やってやんよ……さあいくぜオラっ!」

 

 彼のメンタルは幻生の指定した座標地点へと向かう、その前から疲弊しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 4人と別れた景朗は、幻生が指定していたポイントへとただちに直行した。

 その場所へ近づくにつれ、明らかになったことがある。

 目指す地点は、あの"異様な雷雲"の真下だった。

 

 

 

 

 進むにつれて、大覇星祭でいつもより衆人に溢れているはずの道路やストリートから、不思議と人の波が引いていく。

 

 

 "街(上層部)"はこの事態を把握しているようだ。

 ニュースなり放送なり、何らかの情報操作で人払いをしてくれていたらしい。

 ならば、景朗なんぞに頼らなくとも、もっと確実な手法で事態を解決してはくれればいいのに。

 

 なぜ"羽化昇天(アセンション)"などという未使用のLevel5能力に、その命運を預けようという判断になるのか?!

 

 静かな街並みは、考え事をするのに抜群で。

 今までにないスケールの責任もあって、彼の弱気は、ぐるぐると頭の中を巡ってしまう。

 

 そして。

 

 とうとう人っ子ひとり見かけなくなったところで、反対に騒音は激しさを増した。

 

 

 たどりついた景朗は、そこで予想外の光景を見た。

 だがなぜだろう。

 予想外であるはずのその光景は、どこか見慣れたものでもあったのだ。

 

 

 

 まさかまさかの、体操服すがたの上条当麻が、そこにいて。

 

 爆撃でも受けたかのような崩壊したフィールドで、御坂美琴と闘っていた。

 

 なぜか削板軍覇と一緒に、だ。

 

 

 

 

 御坂美琴が纏っている紫電は、もはや物理法則に従っているのかすら怪しい挙動で2人の少年を襲っている。

 

 

 なんとかしろ。解決しろ、とだけあの男は言っていた。

 木原幻生は、"羽化昇天"をしなければどうにもならない、と説明しただけである。

 この場に到着した景朗に、あれをしろこれをしろ、といった具体的な指示をしてくれたわけではない。

 

 

 

 何が起きているのか。どうすべきなのか。まったくわからない。

 

 

 

 じっと観察して、3人の命のやりとりをいくばくか呑みこもうと試みる。

 

 

 上条は、御坂美琴を助けようとしている。

 ……決して、うまくいっている様子ではないが。

 

 

 迷う景朗は、しばし立ち尽くすしかなかった。

 

 もちろん彼とて、いくつかの選択肢を考えた。

 

 

 

 この隙を逃さずに、御坂美琴を抹殺すべきか?

 あの異様ないでたちの"超電磁砲"に、己の攻撃手段が通じるかわからない。

 通じなければ、"羽化昇天"なるギャンブルをぶちかますしかない。

 

 このまま上条の助太刀をするか? 彼らと一緒なら、奇跡とやらを起こせるか?

 青髪とは異なる自分の本性を名乗って、今すぐ飛び込むか?

 上条なら平然と受け入れてくれそうではあるが。

 

 それで解決するならばもちろん嬉しい。

 

 だがしかし、手をこまねいて手遅れになれば、大勢の命が犠牲になる。

 

 今も、街に住む多くの生命が危険に晒される状況にはちがいない。

 

 

 

 あの"超電磁砲"が何かをしでかすのであれば、処理してしまえば解決するのだろうか。

 そう思いたいが、それでうまくいく確証もない。

 殺した途端に爆発するだなんて、そんなオチでは意味がない。

 アドバイスをねだりたくとも、幻生とは連絡も取れない。

 

 

 ……しかしだ。

 目に見えて正常な意識を失っているであろう御坂美琴は、あっという間に上条を殺してしまうかと思われた彼女は、なぜかアイツを始末しそこねつづけている。

 

 

 

 上条と御坂。あの二人がとても仲良さそうにしていたのを覚えている。

 

 いつにも増して死にそうな惨状に身を置くヤツは、いつも以上に真剣極まる形相で立ち向かっている。

 

 

 

 上条当麻なら、なんとかするかもしれない。その予感はたしかにある。

 だが、自分の大切な人たちの安全を賭けてまで、ヤツに期待するほどなのか。

 

 

 『御坂美琴が学園都市そのものを吹っ飛ばす』

 

 木原幻生の、あの極限まで嬉しそうな愉悦顔が嘘をついているようにはどうしても思えなかった。。

 ならば御坂美琴を処理してしまうのが、もっとも確実な解決策なんじゃないか。

 

 しかしそうなると。

 今日は一人殺したから、彼女で二人目になる。

 

 口の中には、まだ木原加硫の血の味が残っている。

 

 

 冷徹に固まり切っていた景朗の心に、狼狽していた手纏ちゃんの姿が浮かぶ。

 

 口の中の血の味を反芻する。

 

 ぐっと唇をかみしめて、景朗はその場に腰を下ろした。

 

 戦闘現場から離れたビルの屋上で、風に当たりながら。

 

 あいつらの負けが決まりそうになれば、飛び込むつもりで。

 まるで順番を待つ死刑囚のように、ただ、見届けつづけた。

 

 

 

 こんな風に、上条の戦う様を眺めていたことがあったな、と。

 ふと思い出していた。

 

 

 一方通行が上条を弄っていたのを、ただ眺めていたあの日のようだと。

 

 

 あの時も。上条は奇跡を起こしてみせた。

 

 

 今度も、起こしてみせろよ。

 

 

 

 ――――その後の結果を、景朗はなんの感慨もなく受け止めた。

 

 笑いも、悪態も、これで自分が犠牲になる必要がなくなったと、安堵のため息さえつくことはなかった。

 

 上条はいつものごとく、流石だった。

 御坂美琴を助け出した。

 

 

 アイツは、何事もなくつぎの競技へと戻っていった。

 己が、学園都市すべての命を救っていたことも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 景朗は、"羽化昇天"とやらを望まれていたはずだった。

 暴走した"超電磁砲"の崩壊をそれで防ぐはずだった。

 

 

 自分としての自我が、霧散するはずだったこと。

 この街が消え去る直前だったこと。

 そんなスケールの大きな事態を、またしても上条は右手一本で変えてしまった。

 

 あの"木原幻生"が、"街が吹き飛ぶ"と言った一大事が、である。

 

 

 上条の右手から、異質な"あの感覚"に似た何かを目撃したかに思えた。

 景朗には理解できない"何か"が、確かにあの時起こって。

 

 いつのまにか御坂美琴は自我を取り戻していた。

 

 これで、なぜか事態は収束してしまったのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 あまりのあっけなさに、考えずにはいられなかった。

 

 自分が犠牲になっていれば街を救えていたのか? それほどの力が自分にあったのだろうか、と。

 

 いくら超能力者といえども、人間としては1個体の存在にすぎない自分が、この世界にそこまで影響力を持つものなのだろうか、と。

 

 さりとて、同じく1個体にすぎない、自分よりできることが遥かに限られているあのウニ頭(上条当麻)があの場にいなければ、一体、今日という日はどうなっていたんだろう。

 

 これまで色々と突拍子もない事態を景朗は目にしてきたし、自分自身の身体で体験してきた。

 

 それでも、その日あったことは、どこか現実味がなかったように感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 火澄からはひっきりなしにメッセージが来ていたが、その中に埋もれた土御門からの『任務にもどれ』との催促を見つけてしまっては、じっくりと説明するために彼女たちの元へ帰るわけにもいかない。

 

 とにかく、色々と気になる事が山積みだったが、 しかしてアレイスター直々の命令に逆らうわけにはいかない。

 色々と行動に移したかったところを我慢して、景朗は"青髪ピアス"として大覇星祭へと、いつもの高校の"日常"へと戻らざるをえなかった。

 

 

 なので現在は。

 喋れることは喋っていい、とダーシャに言付け、そのチビっこには一時的に火澄・手纏・丹生の長点上機トリオに同行してもらっている。

 

 食蜂操祈と木原幻生、どちらにも干渉を受けうる景朗一派は、長点上機学園のセキュリティに頼らざるをえないほど窮地に陥っている。

 

 火澄や手纏ちゃんとダーシャは初対面だが、仲良くやれているか心配だ。

 ダーシャは対人関係を良好に済ませようという観点をそもそも持っていない。

 丹生とは少しの間、一緒に働いていたためか若干の仲間意識はあるようだが、基本的に"ウルフマン"以外には興味がないのだ。

 

 とはいえ超が五つ付くほど頭の良い子なので、火澄や手纏ちゃんに与えていい情報だけをうまく供述して納得させてくれるだろう。

 あの子がその気になってさえくれれば、だが……。

 

 

 ダーシャや火澄たちの安全も気になるが、とにもかくにも一番の問題は、幻生だ。

 

 木原幻生は、『学園都市を崩壊の危機に晒す』という明確な反逆行為を今回は犯している。

 それも堂々と、誰の目にも、上層部にも言い逃れできないほど派手に、だ。

 確実に幻生は何らかの処罰を受けるだろう。

 

 知らなかったとはいえ、その片棒を担がされた猟犬部隊や景朗にも責が及ぶかもわからない。

 

 

 木原幻生に敵対する。

 そういっていた食蜂には、当初は勝ち目があるとは到底思えなかったが、こうなれば彼女にも急場をしのげばチャンスはでてくる。

 

 幻生は直にアレイスターに粛清されるだろう。

 況や、その実行役に"三頭猟犬"を指名するかもしれない。

 

 

 アレイスターは、学園都市そのものを消し炭にしようとしていた幻生を許すのだろうか?

 景朗の推察では、それはどう考えてもあり得ないことだった。

 

 食蜂は生き伸びたのだろうか。

 生きていれば、景朗に報復を考えるかもしれない。

 そのターゲットの第一候補は、火澄や手纏ちゃんだろうか。

 

 "心理掌握"の能力は強力だ。直接的にも、間接的にも。

 仮に食蜂と直接対峙したとして、無事ですむのは景朗だけだ。

 絡め手を使われては、手も足もでない。おしまいだ。

 

 だから、そうさせてはいけない。

 その場合は彼女と交渉するほかない。

 ダーシャには食蜂とは敵対せず、交渉するつもりだと念を押してある。

 

 

 

 くどくどと考え事をしていたが、小萌先生のカン高いロリボイスが聞こえてきた。

 諦めたのか、火澄からの連絡は止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幻生を返り討ちにした?!」

 

 太陽が真っ赤に染まった夕暮れどきだった。

 それが良かろうと悪かろうと、この一連の騒動に関わるニュースを待ちわびていた景朗は、その第一報に絶句した。

 食蜂からの衝撃的な勝利報告だった。

 

 

『その通りよ。二度は聞き返さないでちょうだい』

 

「なッ。あ、どう、どうやって? 今、あのジジイは」

 

『自分で確認したら。私の要件が先よ』

 

「がッ」

 

『初めに尋ねておきたいのだけど。あなた個人が私と敵対していない、というのならば、手伝ってほしいことがあるの。手を貸してくれるわよね?』

 

 青髪として自分が出場すべき競技は全て終わっている。

 そういえば昨日は忙しそうにしていた土御門も、今日は随分とゆとりがある様子だった。

 というか土御門は土御門で初日に謎の怪我を負っている。都合のいいことに上条も、である。

 なぜかと尋問してもいつものようにはぐらかされた。

 

 昼の間、当然の如く質問攻めを開始した青髪を土御門は散々と煙たがっていたので、これにかこつけて上条を押し付けてしまえるだろう。

 

「……そうくるかもしれないと思ってた。なるべく力になる。だけど俺だけだ。手伝えるのは俺だけだ。他のヤツは一切関わらせないぞ」

 

『あなた1人で十分よ。とはいえ今は立て込んでるから、また後日連絡するわ』

 

「わかった。俺ひとりだからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰路に就く景朗の足は重かった。

 

 ダーリヤと丹生に頼んで、火澄にも第六学区の基地で待機してもらっている。

 手纏ちゃんには、一度、彼女の父親が滞在するホテルに戻るようにお願いしている。

 

 そもそも今回の騒動を説明するだけでも難事であるというのに、別れ際に特大のセクハラ(よくよく考えればもはや性犯罪)をかましてしまっているのである。

 

(なんであんなことしちゃったんだろ……。最悪、これから死ぬかもて思ってたから気が大きくなってたんだろな……やめときゃよかったああああああああああああああ)

 

 

 頭を抱えつつも歩いているうちに、たどりついてしまった改造秘密基地。

 今のところこのビルには改装中の札を永遠に下げておくつもりである。

 雀の涙のほどの時間稼ぎにもならないのだが、シャッターをあげて正面ルートからビルに入っていく気が景朗には起きなかった。

 わざと回り道をして屋上まで壁を蹴って飛び移り、排気ダクトからセキュリティの点検も兼ねつつ内部に侵入することにした。

 

 まごうごとなき現実逃避だった。

 やりたくないことを差し迫ってやらねばならなくなると、途端に別のことに気を取られる現象である。

 

 彼も例にもれず、テスト前に部屋のちょっとした後片付けをするつもりが気づいたら年に1回クラスの大掃除をぶちカマして時間を浪費し、後悔するタイプだった。

 

 

 外敵を察知するセンサー類に堂々と身を晒して、建物の中に入り、最上階の床に足をつけた。

 ほとんど同時だった。

 

「ウルフマン!」

 

 多足類にも似たシルエットのカギムシ型ファイブオーバー・フェニックス(F.O.Phonix)の背中に跨って、ダーリヤが景朗を出迎えた。

 

 F.O.Phoenixは景朗に向けていくばくかの光の筋を放射し、ピーピーとサインを鳴らした後で本人確認を終えたのか、警戒色で発光するのをやめて通常動作に戻っていく。

 

「どうしてこんなとこからくるのよ?」

 

「いいじゃんいいじゃん。検知器の動作チェック替わりにもなったろ? で、2人は?」

 

「3人」

 

「え?」

 

「あのフワフワアタマのペッタンコもまた来たわ。ついさっきだけど」

 

「マァジ? ……まぁそうか」

 

 よくあの御父上が、手纏ちゃんが帰還したその場でまた自由行動を許可したものだ。

 いやいや正直なところ、逃げ出して無許可でココに来てしまった可能性のほうが高そうである。

 

 

 すっかり会議室のように使い込んでいる喫茶スペースにダーリヤとともに顔を出すと、2人から質問攻めでゲッソリとした丹生がほっとしたように、まっさきに声を上げた。

 3人はカウンター席で並ぶように座っていた。

 

「景朗! ダイジョウブなの?」

 

 彼女の一言は、今回の騒動の後始末を意味しているのだろう。暗部組織どうしのイザコザの後処理という意味でも。

 

「ひとまず大丈夫そう」

 

「景朗さんのお身体のほうは?」

 

 ひとりだけ立ち上がって近づいてきたのは手纏ちゃんだった。

 

「それはもちろん無問題」

 

 手纏ちゃんには昼間に、景朗の体調不良の一部始終を見られている。

 彼女の口からでてきた発言に、腕を組んでカウンターに突っ伏したままジトーっとした目線を送るだけで無言だった火澄から、ほんの少しトゲトゲしさが取れたように感じた、気がした。

 

 火澄にも話したいことがたくさんあるが、真っ先に尋ねておかねばならないことがある。

 

「お父さんは?」

「帰りました」

「ええっ?!」

 

 あの手纏ちゃんのお父さんが、もう一度景朗に会わせる許可を出すとは思えなかった。

 それに、この状況で手纏ちゃんを置いて帰ったというのも信じられない。

 娘を守り切る意志を持った、良い父親にしか見えなかった。

 

「お父様は猛反対していたんですが、ボディガードの皆さんが、みんなして次に襲撃があったとしても守り切れる自信がない、と申し訳なさそうにされてました。SPの皆さん全員に泣きつかれて、お父様もやむなく……」

 

「そ、そうなんだ。みんなクビになっちゃうのかな?」

 

 "学園都市有数の殺人能力者"を相手に怯えを隠しつつも、手纏親子の命を守らんとプロ意識を発揮しておられたすごい人たちだった、それが彼らへの景朗の印象である。

 

「いえ、契約内容を超える状況になってしまいましたので、そこまでの事態には至らないと聞きました。理事会の一派と事を構えられる装備もその想定もしていないから、お役に立てません、と土下座されるくらいの勢いで謝られてしまいまして……」

 

「たし、かに……」

 

 SPさんたちは、手纏氏と景朗の会談でもしもがあれば、つまりは有事の際に暴れだした景朗ひとりを体を張って止めるつもりできたのに、フタを開ければ学園都市の理事クラスが動かす暗部特殊部隊を相手にしろ、ではハナシが違ってくる。

 まさしくそれを成し遂げようとするならば、各国が保有する特殊部隊の精鋭クラスが出張ってくる案件である。

 

 

「でも、俺、二度と関わらないって約束したのに」

 

「そんな約束、とっくに破ってしまってるじゃないですか」

 

「そうだけど……」

 

「景朗さんは紳士的でした。私を助け出してすぐにお父様のところに送り届けてくださいました。あっさりと手放すことができる人物なのだから、それなりに安全だろう。もうしばらく預かってもらうことにする、って。勘違いしないように、後で必ずお礼はする、と言ってました」

 

(お礼参り的な意味でのお礼じゃないよね、ソレって)

 

「そっか。許可をもらってきてるのならよかったよ」

 

「ゆっくり"あの時のお話"の続きができますね?」

 

 ニコッとほほ笑まれたが、獲物が射程圏内に収まったのであとはゆっくり料理するだけだ、という肉食獣の余裕じみた威圧感を少々感じてしまう。

 笑み(smile)の起源は威嚇するときの表情からきている、とかなんとかそういう説を景朗は思い出した。

 

「そう、なんだけど。今は真っ先に状況を説明してあげないといけない人を優先してもいいかな……」

 

 景朗がそう言いつつ向き直ると、火澄はビクッと身を縮こませつつも、攻めるような訴えかけるような視線だけはなおいっそう強くして睨む。

 

「いやその、説明の前に、その……セクハラしてすいませんでしたっ!!」

 

 先手をうって軽く土下座をする。

 青髪ピアスのときに吹寄たちに何度かやっているので、もはや慣れたもの。

 その動作はきわめてスムーズでありナチュラルすぎるウェイトシフトで、瞬きする間に床に頭が接着している。

 

「はぁーっ。もういいからカオあげてよ。ある程度は深咲と丹生さんにハナシを聞いたけどさ、」

 

 いくらかあの時から時間は経っている。

 自分から土下座してきた男に追撃を加えるほど火澄も鬼ではなかったらしく、究極に呆れたようなため息一つで、謝罪を受け入れてくれそうだった。のだが。

 

「……そういえば景朗さん、私には?」

 

「え?」

 

わけがわからず、といった彼の反応に、ムっと頬をしかめつつも照れて頬を赤らめるという二つの動きを同時進行させた手纏ちゃんは、爆弾発言をほうった。

 

「私の裸だってご覧になったじゃないですか?」

「「「!?」」」

 

 まずい。ゴクリ、と景朗は息を飲み込んだ。

 

「それに裸のままずっとくっつかされましたし。私にだって。何もおっしゃってくれないのは少々、無責任、かと」

 

(俺がここに来る前にだいぶ3人で話し込んでたみたいだけど、その辺の説明をしてなかったのはきっとワザとなんでしょうねえ?!)

 

 長い長い一日の最後に、さてようやく腹を割って事の成り行きを語ろうか、という空気感が出ていたはずだったのに。

 

 手纏ちゃんの話をスルーして先に進む方法はなさそうである。

 

「ねえ『逃げも隠れもしない』っていってなかったっけ?」

 

 言い訳や言い逃れを口にする前に、目を細めた火澄は逃げ道を絶った。

 

「大したことじゃないっていうか」「たいしたことないんですか、そうですか」

 

 『アレ』でたいしたことがないとおっしゃるのなら、またやってみせても平気ですよね? と手纏ちゃんの目は雄弁に語っていた。

 

「いやいやいや、仕方が無かったってヤツだよ。だって、助けに行った時には既に手纏ちゃん脱がされてて、つーか裸にひん剥いたのは俺じゃないっての!」

 

「でも帰るときに無理やり私を背負いましたよね。抵抗したのに……」

 

 丹生さんに援護射撃を求めようとしたが、どっちかわからなくなっていた。

 

「カゲロウ、ずっと大変そうだったけどそうでもなかったりしたんだねぇ……?」

 

「ずっと大変だったっての!」

 

「わかったわかった。景朗、深咲にも謝って」

 

「なぁっ。あぁ、その、手纏ちゃん、遅れちゃったけど、いろいろと不躾なことしてごめん……ね」

 

 もういちど頭を床にくっつけようとした景朗だったが、焦った手纏ちゃんに止められてしまった。

 

「やめてください! その、あの、ひとこと、言ってくれればそれでよかったんです。さあ立ってくださいっ」

 

 照れもなく、緊張もなく、遠慮もなく、しっかりと景朗の手を掴みあげた手纏ちゃんに、景朗もそれが当たり前だというように平然と応えていた。

 

 既に違和感をバリバリに感じていた火澄・丹生・ダーリヤの3人は、そこで確信に至った。

 二人の距離感が不自然なほどに近い。近くなっている。

 

 手纏ちゃんの所作は、百の説明よりも劇的に二人の関係性の変化を第三者に伝えたのである。

 行動は言葉よりも雄弁に語る、というやつだ。

 

 『いまさら手を繋ぐことくらいどうってことなよね。だってあんなことがあったんだから……』

 そんな風な親密さが、景朗と手纏のやりとりをここにきて初めて観察したダーリヤにすら露見してしまったのである。

 

 

「……はい、おしまいおしまい。もう、ハナシもどすからね。いや戻すっていうより、ていうか戻さない。状況の説明はいらないから、景朗、アンタがこれからどうするのか聞きたいのよ、今は」

 

「どうするってなにさ?」

 

「これからどうやってアンタの置かれている立場を改善してくか、ってハナシにきまってるでしょ!」

 

「えーっと、だからさ、カスミちゃん、その話は」

 

「丹生さんぜんっぜん教えてくれないんだもの。まあ、景朗に直接聞いてってのは最もだから、そうさせてもらいます。てこと。景朗、わかった?」

 

「説明は。ことに至った経緯は話すっていったけどさ。それ以外の事情は話す気はない」

 

「はぁ?」

 

「ていうか、"話せない"」

 

「あのね。アンタのせいでわたしや深咲も、これからも危ない目にあわされるかもしれないんでしょう? それはよぉぉ~っくわかったし、今回だってひょっとしたらターゲットがわたしであってもぜんぜんおかしくなかった、てのは丹生さんに聞いたから。今はそうなる理由もよく理解できてる」

 

「ほんとうにごめん」

 

「だから、迷惑かけてごめんなさい、だなんて言葉を毎回ことが終わってから聞く前に、解決できるならあんたのほうから能動的に動いて解決してほしいってワケ。わたし間違ったこと言ってる?」

 

 仄暗火澄は同調するように手纏深咲にアイコンタクトを送った。

 が、返ってきた反応は予想の反対だった。

 

「いいんです。わたしは景朗さんにことさら追及したりしません」

 

「どうして?!」

 

「景朗さんも被害者だったんだ、って、襲われてはっきり分かったんです。嵐の海で揺れる木の葉のように、景朗さんだって沈まないように必死にしがみついているだけ、なんだと思ったんです」

 

「それって、こいつ(景朗)が悪い状況から抜け出そうとしないのを許す理由にはならないとおもうんだけど?」

 

「抜け出そうとしてないわけじゃない」

 

「じゃあ、なんでそれを教えてくれないの? いってくれてもいいんじゃないの? わたしたち、関係あるんだよね? あなたのせいで。いつも『自分のせいでごめん』って言ってくれるけど、それが本心なら、少しは『こうこうこうやって対応してます』って説得くらいしてコッチを安心させてよ?」

 

「……話せない、てのはつまり……そんなもの、はっきりとは無いってのもあるんだよ」

 

「きっとそれは真実だと思います。火澄ちゃん、それで納得するしかないんです」

 

「アタシからもそれは本当だって言いたい。それに、知れば知るほどカスミちゃんに悪い影響を与えることはあっても、決していいことは、なんにもないよ」

 

「本気? じゃあいったい深咲は何のためにココに来たのよ?」

 

「わたしは景朗さんのお手伝いをしに来たんです」

 

「深咲もコイツに厄介者扱いされてるじゃない。手伝いなんてさせてもらえそうにないけど?」

 

「厄介者扱いなんてしてない!」「そうだよ、カスミちゃんそんなことないよ!」

 

「丹生さんと違ってワタシ達は状況がわかってないのに、納得だけして帰れなんて無理じゃない?」

 

「わかった。納得してくれないのも無理ないって、よくわかった。それなら納得してくれなくていい。それでも俺は"話さない"。話せないじゃなくて話さない」

 

「この期に及んでまだそう言えるんだ。私たちは。被害を受けるかもしれない。今回はこうして実際に被害がでた。けれども部外者扱いされ続けて、あなたの問題ってやつの解決方法、どころか、いつ終わるのかすら知る権利もないってコトなんだ?」

 

「そのとおり、火澄たちは一方的に被害を受けるだけ受けつづける、迷惑きわまりない立ち位置にいつづける」

 

「それで平気ってワケ?」

 

 パチッ、パチッ、と静電気の火花が散るような音がする。火澄は武力行使も辞さない覚悟をキメ始めている。

 

「でもそれはもっともマシな選択肢だと思ってる」

 

「はい?」

 

「丹生のように、丹生のように裏社会に染まって一生抜け出せなくなるよりずっといい。一度でも"こっち"の仕事に関われば、ずっと平穏に暮らせなくなる!」

 

「そうだよ、アタシだってまだ完全には抜け出せてないんだよ?」

 

 とうとう丹生も我慢ができず、景朗に助太刀するように同意する。

 

「あのねぇ実際、今でも平穏に暮らせてないんだけど?!」

 

「平穏の意味が違うよっ!」

 

 丹生に続いた景朗はきっぱりと言い切った。

 

「でもいつか必ず終わりは来るよ。終わりがくるというより"終わらせる"つもりだから。今は言葉でしか保証できないけど。絶対に」

 

「"終わらせる"ってなに? どうせまともな方法じゃないから胸張って私に言い返せないんでしょう?! 犯罪に犯罪で返して強引に片付けて『ハイ解決!』っていうつもりじゃないでしょうね?!」

 

 景朗は火澄の切れ味の良い問答に、無言で肯定の意を返した。

 そこでついに沸騰した彼女の怒りは凶悪だった。

 バチン! という頬を張る音はあまりに大きく、そのあとは静けさがやってきた。

 

「あのね、そうじゃないでしょ?! 違う、違うわよ! わたしは、危ないことするなっていってんの。言い方が悪かったわよ、もう迷惑かけるななんて言わないから。かけてもいいのよ、もうあなたを責めないから、危ないことしないでっていってんのよっ」

 

 火澄の長いセリフの、その終わり際には明確に泣き声が混じっていた。

 誰もがいたたまれなくなって、静けさが訪れて。しかしその静寂を破ったのも火澄からだった。

 

「悪かったわよ。ごめん、ここで話さなきゃならないのは、アンタの今後をどうするか、よ」

 

 

 景朗は丹生を見て、その後でPCとにらめっこしながら勤しんでくれているダーリヤの姿を眺めた。

 

 チラチラと目が合うたびに、ダーリヤは口をはさみたそうにしている。 

 それでも仕事を優先して、今回の猟犬部隊を動かした事後処理や助太刀してくれた迎電部隊への連絡などの雑処理をこなしてくれている。

 

(俺はダーシャに守るって約束した)

 

 危ないから、危険だからって理由で身を引くわけにはいかない。

 身を引けない、じゃない。俺は、引かないんだ。

 悪いことをしすぎてしまった。もう後戻りできないところにいる。

 

 

「正気か? って疑うだろうけど、それでも言うけど、まともな方法じゃあなんとかならないんだよ」

 

「何言ってんの? 警備員(アンチスキル)や、教育委員会、この街のPTAだってそうとうな規模よ? やってもムダだなんてあきらめる前に使えるものはすべて使って助けを求めなきゃ!」

 

 

 火澄の言い分は間違っていない。すくなくとも、表の世界の常識では。

 

 前回、火澄が目撃したのはあくまで[第二位という学生が率いた集団が襲ってきた事件]である。

 今回のように一流の権力者(木原幻生)が企て、学園都市の純正機関が襲撃をしかけてくるような事態は景朗にもお手上げだろう、とのその意見は最もである。

 そう、もっとも一般的な意見だ。暗部のことを知らない一般人が持つものとしては。

 

 

 

 しかし。学園都市の暗部を取り巻く問題は、根が深い。どこの国にだってマフィアや暴力団は存在し、そういった組織と公的機関との癒着の問題は耳にするので、この街にも裏社会(暗部)が存在すること自体は不思議ではないのかもしれない。

 

 だがこの街のソレは、癒着だなんてレベルではないのだ。

 

 表向きには、この街は独立国家だし選挙も行われている。

 だが裏をよく知る人間にとっては自明である。

 実際は、統括理事会、とくに統括理事長の独裁状態といって差し支えない。

 

 政府も警察機構も裁判所も、学校も研究機関も、そして問題の"暗部組織"すらも、すべてを統括理事会が掌握している。

 

 クレア先生に景朗が泣きついたとしても、聖マリア園ごとたやすく消し潰されるのは火を見るより明らかだ。

 だからこそアレイスターは、それをよくよく理解している景朗を、高級な首輪もつけずに人質を取るだけで奴隷に堕とせるのである。

 

 

 彼はもういちど、幼いダーリヤを見た。

 

 こんなに頭のいいダーシャですら、ロシアの諜報機関に狙われて暗部を頼った。

 この街のおめでたい福祉施設や警察機構には頼らなかった。

 暗部に落ちた子供を救助するようなシステムは、この街にはないのだ。

 あたりまえだ。

 ガキんちょどもを裏社会に陥れて使いつぶす現在の仕組みを作ったのは、そもそも"この街"なのだから。

 

 権力者の中には、暗部で消費されていく能力者の児童たち。そのサイクルすら学園都市が用意した"実験"だと考えている者すらいるのである。

 

 

 光が届かない深海のような暗部の絶望の中で、ダーシャはずっとずっと、ウルフマンを探していた。

 

 すがりつく場所がどこにもなくて、この子でさえ、"ウルフマン"という小さな小さな在って無いような可能性に希望をつまんでのせるので精いっぱいだったのだ。

 

 ダーリヤ以外の、暗部で孤独に生きるチビっこたちは何にすがっているんだろうか。

 

 政府機関。警察組織。そういった表の陽の当たる場所に、自分たちを助けられるチカラがないと"彼ら"は知っている。

 暗部の子供はみんなその絶望を抱えて、少しでも自分より弱いヤツを陥れて生き延びようと必死になっている。

 

 

 垣根はそれを是正したくて戦った。しかし現在第二位の地位を得るほどのポテンシャルをもっていた当時の超能力者でさえ、凄惨に敗北して理事会の飼い殺しとなった。

 

 

 それを変えようとしているのが反アレイスター同盟だ。

 これだって果たして成功するのかわからない危うい賭けである。

 でも、組むしかなかった。組まざるを得なかった。

 この街には、いやこの世界には、アレイスターの忠犬として活動してきた景朗を信用してくれる仲間など、どうやら他にいないらしいのだから。

 

 

 

「やっても無駄だし、おいそれと火澄がそんなマネできないように何一つ証拠品なんて渡さない。その上で余計なまねをしようとすれば全力で止める」

 

「偉そうに『とめる』って、何するつもり?」

 

「金を払えば記憶を消してくれる専門の人たちもいるから」

 

「信じられない……」

「私だってそんな下劣な真似には精いっぱい抵抗させてもらいます」

 

 火澄には、景朗の姿が自ら炎に飛び込む分からず屋のように見えているのだろう。

 彼女は自分を助けたくて仕方がなくて、気が狂わんばかりの熱心さで説得を試みてくる。

 それが喜ばしくないわけがなかった。

 

 

 だというのに。

 とうとう彼女を相手にあんな台詞を吐きかける事態にまで陥らせてしまった。

 これまで何度も想像してきた。

 火澄に敵対的な物言いをすること。

 それは想像するだけでもいやなことだった。

 

 実際に口にすれば、ことさら喪失感が滲んでいた。

 景朗の平常心はもうこれ以上ひとことだって言葉にしたくない、と叫んでいた。

 

 涙の粒が目じりに光る火澄の表情に、景朗と敵対してしまう怯えや不安、哀しみの色が大きくなっていく。

 

 それを目の当たりにして、こっちだって頭がおかしくなってしまいそうだったけれど。

 

 

 

(どうする?

 俺は今日、死にかけた。

 死ぬはずだった、らしい。

 

 で?

 明日、死ぬとしたら? 

 明日死ぬとしたら火澄に話すか?

 

 話したいことを。

 話すか?)

 

 

 子供の頃、火澄が大能力者になってしまって。

 それは嬉しかったけど、寂しくもあった。

 けれど、遥かな未来に、躍進する火澄の姿を思い描くと。

 遠くにいってしまう事実すら呑み込めて、俺は喜んでいた。

 

 やっぱり。

 明日死ぬんだとしてもなおさら、あの光景を穢したくはない。

 

 話さない。このまま墓まで持って行くべきだ。

 

 

 火澄のことは、家族のように思ってる。

 でもここで、俺たちの住む世界はやっぱり別にした方がいい。

 

 俺は馬鹿をした。その償いはしなきゃ。

 その結果に家族との別れが来るんだとしても、やらなきゃダメなんだ)

 

 

 

 このどうしようもない状況を火澄に伝える必要なんてない。

 人知れず、幼馴染が馬鹿をやって消えていったのだと。

 自業自得で消えていったのだと思ってほしい。

 

 そうすれば、彼女は誰も恨むことなく、前へ進めるはずだ。

 自分が居なくなった後でも。

 

 

 

 景朗は突拍子もなく、ダーリヤに呼びかけた。

 

「ダーシャ、ぜんぶ終わった?」

 

「まだよ」

 

 あまりに突飛なタイミングだったが、チビッコは打てば響くように答えてくれた。

 

「ごめん、いまから手伝う。てなわけでだいぶ時間も経ったし、こっちにも実はやることあるんで、これで話は終わりね」

 

「何言ってんの! ここで自分勝手に終わりにするなら、私だって勝手にやらせてもらうからね!」

 

 初めてだった。景朗は爪を刃物のようにするどく伸ばして、火澄につきつけた。

 能力で彼女を脅したのは、生まれて初めてだった。

 

「やめろ!」

 

 有無を言わせず、敵対者を睨みつける。

 これまでの人生で、そんな表情を彼女に向けたことなど一度もなかった。

 

 火澄は強ばり、現実味のない裏切りを反芻するかのようにしばし立ち尽くした。

 

 少女は怯えていた。

 昔から一緒に育ってきた少年は、数百人を殺してきたその冷たい敵意を、威圧するように露わにした。

 

 "不滅火焔(インシネレート)"をあやつる大能力者の少女は、そこで思い知った。

 

 "超能力者"の殺人の間合いに自分が立っていることを。

 

 

 子供の頃はいくどか喧嘩もした。ぜんぶ、少女が少年に勝ってきた。言葉で、げんこつで。

 今日だって、わからず屋の少年を喧嘩をしてでも説得するつもりでやってきた。

 でも、これは"違う"。悟ってしまった。目の前の相手が本気になれば、"喧嘩"になど成りえない。 

 

 

 いじめられっこにおびえていた少年は、あの当時と似たような強がりを顔に張り付けてはいるけれど。

 もうその中身には、簡単には吹き消せない意志が詰まっていた。

 時には投げ出し、逃げ出していた少年はもはやいなくなっていて。

 怯えた顔はそのままに、闘い抜く覚悟を持った青年へと成長を遂げていた。

 

 

「知らせちゃダメなことは知らせられない。これが結論。悪いけど、もう帰ってくれ」

 

 搾り出すように、景朗はできるかぎり優しい口調で語りかけた。

 

 暴力をチラつかせて、相手を脅す。

 とうとうそれを火澄相手にやってしまった。

 間違った。間違いだった。やらなきゃよかった。やるべきではなかった。

 そんな後悔だけが、彼の胸中で吹き荒れていた。

 

 それでも表情には決して出さない。

 

 

 頬に涙が流れた跡を残した火澄は、すがるように友達の二人をみた。

 二人からは微かな嫉妬が向けられていた。

 冷静ではなかった火澄にはその理由がわからなかった。

 

 

 

 雨月景朗は、責任感から手纏深咲には話した。

 

 しかし、仄暗火澄には彼自身のエゴで話さなかった。

 

 その差が生じた要因は明白だ。

 

 

 丹生多気美は『これが終わったらアタシからも話すことがあるから』と目つきだけで景朗に伝えてきた。

 それに気づきながらも、残念ながら彼にその瞬間にその場で弁明することはできなかったが。

 

 

 孤立を感じた火澄は怯えを断ち切るためか、己を奮い立たせて叫んだ。

 

「家族だと思ってたのに!」

 

「結局は赤の他人だろ」

 

「なによ! 昔は私のこと好きだったくせに!」

 

「別に今でも好きだけどな」

 

「はぁ?! なに!? なにっ?!」

 

「つってもそれはもうどうでもいいことなんだよ俺にとっては。そっちはそっちで元気にやれよって、それだけが言いたかっただけさ。さぁもう帰れよ」

 

 

 

 負けん気を振り絞ったのであろう火澄はもう一度、景朗を強い視線で見つめた。

 それからは何かを告げる暇もなかった。

 

 

「深咲、帰りましょ」

 

「まだお話することが残っていますので、私はあとで帰ります」

 

 いえもう残ってないです、と景朗はその場で言いたかったがもちろん言えなかった。

 

「そっか!」

 

 もはや一言の憎まれ口すら叩かずに、きびすを返して少女は出口へとぐんぐん向かっていった。

 彼女が外へ出てから、景朗はいそいそとそのあとに続こうとした。

 

「景朗? どこいくの?」

 

 まてまてまて、と言わんばかりに詰問したのは丹生だった。

 

「いや、火澄あぶねえし。送ってかないと」

 

「無理でしょ」

 

「わかってる」

 

 今の火澄に『家まで送ってくよ』なんて声をかけても無言の火炎放射が飛んできて、走って逃げられるに決まっている。

 あるいは『暴漢が追いかけてくる』と叫ばれて警備員を呼ばれるやも。

 

「だからバレないようにこっそりあとをついてく」

 

「……あのさ、カゲロウさん」

 

「なん、スか?」

 

 丹生さんってば最近、笑いながら怒るのがすっかり上手になりましたね。コワイっす。

 

「蹴っとばしていい?」

 

 蹴っ飛ばしたくなる理由、か。山ほどありそうですね。

 

 景朗は大人しく一発蹴られてから火澄を追いかけた。

 手纏ちゃんは『よくやった!』という顔で丹生を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さっきはゴメン。脅してゴメン。あれは完全に俺が間違ってた」

 

 早歩きで駆けるように道路を蹴っていたその背中に、ダメ元で景朗は呼びかけた。

 

 一度はこちらを見てくれたが、すたすたと彼女は無視して歩き出した。

 ひとまず警備員(アンチスキル)は呼ばれなさそうだったので、そのままあとを付いていく。

 

 2人はしばらく歩いた。そして歩きながらに、唐突に火澄はポツリと言った。

 

「何?」

 

「昨日の今日だろ。危ないから家まで送る」

 

 予想外にも彼女はピタリとその場で立ち止まった。

 

「じゃあ、ちゃんと送って」

 

 許しを得たので、距離を詰めた。

 それでもまだ若干の空間をあけて立ち止まった景朗に、不服そうな声がかかった。

 

「送るんでしょ?」

 

 がしっと手を掴まれた。ぐいぐいと火澄は引っ張って歩き出した。

 

「さっきのハナシだけど」

「あ、ダメだぞ。外ではダメだぞ誰に聞かれてるかわからない」

 

「じゃあ口をふさげば?」

 

 火澄はぶしつけに先ほどの内容を繰り返し始めた。

 しかたなく景朗は彼女の真後ろに回って、まるで背後から抱え込むように、もう片方の手を当てた。

 いったん離れ離れになってしまった手を、火澄はもう一度自分から繋ぎなおした。

 

 二人一列となった歩きづらさから、歩みは自然と遅くなった。

 

 

「わわ、噛むなよ」

 

 最初のひと噛みはなかなかに強かった。

 けれどそのあとは手加減がやってきた。

 ガジガジ、と手の平を猫のように甘噛みされている感覚。

 攻撃的な意思を感じなかったので、そのままに道を進む。

 

 駅への向かう途中で、深夜徘徊するスキルアウト2人組とすれ違った。

 『爆発しろ』と言ってそうな剣呑な顔で、中指を立てられてしまった。

 気まずさと気恥ずかしさから、景朗の忍耐もそこで尽きる。

 火澄のクチからついに手を離した。

 

 

「あぶな。二人組でよかった。3人組なら絡まれてたかもだぜ」

 

「ふうん、そういうもんなの?」

 

 会話が途切れるが、手をつないでいるせいか居心地は悪くない。

 

「わたし諦めないからね」

 

「何をだよ。あのな、俺はお前の邪魔をしたくないんだよ」

 

「深咲ならいいのに?」

 

「良くない。あとでかならず説得して諦めてもらう」

 

「丹生さんは?」

 

「あいつは最初から巻き込まれてたじゃんか。だって親がそう(暗部)だったんだからな……」

 

「……あ~! 私だって暗部にもがッ」

 

「だからやめろって、なんだよもうっ」

 

 バラされたくなければ再びクチを塞げといわんばかりのわざとらしさだったので、お望み通り景朗はもういちどそのクチに手を当てた。

 とたんにガジガジと甘えてくるような二度目の、火澄の、口内の感触。

 あたたかい歯の硬さと熱い舌の柔らかさ。

 そのコントラストは景朗の感情にストレートに響いていた。

 

「これ気に入ったの……?」

 

「ふん(うん)」

 

「あ、今ナメただろ? 小学生かよ……」

 

「ふぁふぁひのほほふひふぁっふぇひほへははふぇ? (わたしのことすきだってみとめたわね?)」

 

「なんて言ってるかわかんないッス。ごまかそうとしてる?」

 

 

 甘噛み遊びは電車の中ではさすがに遠慮させてもらったが、ずっと手は繋いだままだった。

 エリート校が集う第十八学区は、第六学区のほとんどとなりのような近さだ。

 それほど時間はかからなかった。それ故に、意味のある会話もさほどできなかったけれども。

 ついさっき幼馴染史上最大級のひどい喧嘩を繰り広げたというのに、なぜだか小学生のころに帰ったような雰囲気で、心は落ち着いていた。

 

 

 火澄の住むマンションの前までやってきて、正面ゲートで別れる間際に、彼女はむすっとした顔で手を振ってくれた。

 手を振り返すと、ニヤリ、と不敵な笑みを一瞬だけ見せて。

 彼女は、ちょいちょい、と小さく手招きしている。

 

(家に寄ってっていいの?!)

 

 その誘惑は筆舌なほど凶悪で、景朗としてもうなずくギリギリの瀬戸際だった。

 

 とはいえ先ほど『このあと手纏ちゃんを説得する』と大見得を切ってしまっている。

 その舌の根の乾かぬうちに情けないところは見せられない。

 

 殺し合いでもするかのような喧嘩をしたあとに、こうやって一気に和やかなムードになるのは不思議だが、男女のあいだではそんなに珍しいことではないと世間話で耳にしたことがあったけれど。

 本当だったとは。

 

 心の声は『行きてぇ!』とダンスを踊っていた。

 しかし、ぎこちなくとも景朗がもういちど手を振ってさよならをすると。

 スンっ、と表情を変えた火澄はあっさり帰っていった。

 

(え、なにこれ、この残念で血涙でそうな悔しさと後悔……俺、ダメだろこんなんじゃ。優柔不断ってやつだぞコレは。何やってんだよしっかりしろ……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 手纏ちゃんと丹生は泊まっていった。一晩中説得した成果と言えるのか、ひとまず翌朝、手纏ちゃんは丹生と一緒に火澄のマンションに帰っていった。

 

 ダーリヤは人見知り全開で手纏ちゃんとはほとんど会話をしなかったし、手纏ちゃんもそれを気にするどころではなかったので若干寂しそうだったが、仕方がなかった。

 

 

 その後すぐに、ゆっくりする暇もなく蒼月(くさつき)から連絡がきた。

 手纏ちゃんが誘拐されたとき、"迎電部隊"にはいち早く幻生の情報の裏をとってもらっている。

 手早い手助けの礼をしなければと思っていたが、謝礼の代わりは『とある場所に来てくれるだけでいい』と返されてしまったのである。

 

 そんな言い方をされれば、逆にお金を渡してありがとう、と言うよりもよほど厄介な案件が待っているのではと思わずにいられなかったが、景朗は断わなれなかった。

 

 

 第十九学区には、はたから見れば閑古鳥が嘶く古風な釣り堀がある。

 人がいなければ破棄された空間ではないかと勘違いしそうな外観はそれはもう、どうやって採算を取っているのか不思議な佇まいだ。

 そこが蒼月との密会場所のひとつであり、明日、赴く場所である。

 

 

 『君に万が一があったとき、その後を引き継ぐ人物も一緒に連れて来てくれ』と念押しをされていたので、安全な案件かどうかを再三確認してから、嫌々ながらもダーリヤを一緒に連れていく。

 

 たしかに、いよいよもって景朗とて、いつこの世から消え去るかわからない状況になってきた。

 突然アレイスターに裏切られでもすれば、刺客を送り込まれて消されるかもしれないし、ヤツに直接始末されでもすれば、ダーリヤや丹生の行く先が心配だ。

 丹生のために調整した血液(体晶入り)のストックなど、いろいろと準備はしているが、物質的なものの準備だけでは当然ながら万全ではない。

 肝心の、行動の指針を示す具体的な計画策定やリーダーシップをとる者の取りまとめなどは、お世辞にも進んでいるとは言い難い。

 

 蒼月の口ぶりから、そういった至らぬ点を解決する光明にでもなるかもしれない、と自分を無理やり納得させての、ダーリヤの同伴だった。

 

 一方で当のダーリヤは『明日、釣り堀にでもいくかい?』といえば二つ返事でOKをだした。

 夜中にゴソゴソとやっているなぁと思いつつ迎えた翌朝、景朗を出迎えたのは子供用の軍用潜水装備といういささか矛盾した代物で体中をガッチガチに固めたゴキゲンなプラチナブロンド童女だった。

 

「だれがSEALsのブートキャンプに行くっていったよッ!?」

 

 ぺしん、と軽くアタマをはたくも、ダーリヤが装備した幽鬼のごとく恐ろしげなデザインの潜水用フェイスベールの分厚さに阻まれ、想定通りに彼女には毛ほどもダメージは入っていない。

 

「つかコレあれでしょ? フロッグマン(水中工作部隊)ってやつの装備でしょ?」

 

「キッズ用のXSサイズもあるのよ」

 

「だからなんでだよ……どこのどいつがそんな物騒なもん造ってんだよ。余計なモンこさえやがって!」

 

 あーだこーだと愚痴をバラマキつつ、せめてダーリヤの顔だけでも見えるようにとカチャカチャと装備を外そうとするも、思いのほか複雑で景朗は苦戦した。

 なされるがままのダーリヤはいつのまにか小ぶりのコールドスチール製ダイバーナイフを手にしており、『ひゅひひ……』と魚を釣り上げる前からご満悦そうにトリップしている。

 きっと無抵抗の哀れなる小魚のハラワタをかっさばく妄想でもしているのだろう。

 

「おいこれどこから外すんだよ? ちょっとダーシャさん? お前さんも協力しろよ髪の毛挟んだままひっぱったら大変だぞコレ」

 

 ゴツいマリンゴーグルで表情は覗えないが、おそらく嗜虐の笑みを浮かべたままであろうチビガキは、まったく聞く耳をもってくれなかった。

 

 

 

 

 

「ウルフマン、水族館があるわよ」

「どうみてもやってないんじゃないアレ」

「……やっぱりこの学区つまらないわね」

 

 第十九学区は寂れまくっているエリアなので、目的の釣り堀のおとなりに併設されていた小さな水族館もあたりまえのように閉館してしまっていた。というか水族館のついでに釣り堀もつくったら先に水族館が潰れてしまったんじゃないだろうか。

 後続の第十三学区の博覧百科(ラーニングコア)や第十五学区の天体水球(セレストアクアリウム)なんていう実力派ライバル相手に太刀打ちできるわけがなかったのだろうが、だとしたら作られた時期は大昔なのかもしれない。

 

「ふるい。きたない。くさい」

 

 なんかこうフェンスや手すりが全体的に赤錆まみれな巨大いけすの、そのほとんど深緑色の水面をみて、ダーリヤはさらにがっかりしたようだった。

 

「なんか建物の造りが学外っぽいよな」

 

 聖マリア園の視聴覚室に保管してある大昔の映画では、だいたいこんな風に打ち出されたコンクリート造りの建物がでてくるものだった。

 

 屋内にも屋外にも魚がうようよ泳いでいるいけすがあるが、どこにでもぽつぽつとお客さんがいて、ほとんどが無気力そうに竿を握っている。

 中にはもはや釣竿すら持たずに、ひたすら魚に撒き餌をやって時間を潰しているヤツらもちらほらと。

 

(撒き餌は禁止って張り紙してあったけどな……)

 

 学園都市の施設にしてはたいそう珍しく、大学生やおっさんオジサンばかりで客層の平均年齢が著しく高い。

 

 

「"ネモ(蒼月)"は?」

 

「こっちから声をかけるからテキトーに遊んでろ、ってさ」

 

「じゃあ、やるわ!」

 

 二人そろってカウンターでひととおりの釣り具を貸出してもらっている。

 ダーリヤはタックルケースの中身をぶちまけて興味深そうにツールをイジっている。

 もともとそういう作業が好きなのだろう。こちらから声をかけなければいつまでもそうしていそうな、のめり込み具合だ。

 

 景朗といえば本音をいうと釣りそのものには興味がなかったので、予習してきたダーリヤにあれやこれやと糸の結び方などを教えてもらって、とりあえず釣り糸を水槽に垂らす塩梅だった。

 

 キラキラ輝く水面からの反射光が煩わしかった。

 景朗が能力で眼球の中身をちょいとイジくって光にフィルターをかけると、水中で蠢く魚群はすんなりまるみえになった。

 ダーリヤにはそれが見えていないらしく、おまけにドタバタと水槽のフチで騒ぐので魚が逃げているのに気づけていない。

 

「釣れない。釣れないわ。これつまんないわ」

 

「落ち着きなよ。というか静かにしな、静かに。音たてまくってるから魚が反応して逃げてる逃げてる」

 

「Shit. Bullcrap...」

 

「おいクチ悪いぞ」

 

 ギラギラした眼で魚を睨み続けるダーリヤは、はやく魚をいたぶりたくて仕方がないらしい。

 はぁーっ、とため息をついた景朗は、とっくの昔に餌を食われ尽してむき出しになっていた三又フック状の釣り針を、水槽の底に漂わせたまましばし息を潜め、ややして剛力で引っ張った。

 

 猛スピードで浮上した釣り針は、その途中で狙い通りに1匹の魚のエラに引っかかる。

 

 バシャバシャと泡立つ水面にピラニアのごとく反応したダーリヤは自らの釣竿をほっぽり、駆けつけてきた。

 

「あっ! 釣れた? 釣れたの?!」

 

「釣れたってより、引っ掛けたぜ」

 

 地面に揚げられた魚くんは猛烈な跳ねっぷりだったが、がしっと無造作に掴んだ景朗の手で抑えられると、その隔絶したパワー差であっという間にみじろぎできなくなった。

 

「わたしによこしなっ、ごほん。わたしがサバくわ! まかせてちょうだい! ハァハァ」

 

「いいけどできんの?」

 

「知ってるわ」

 

 ぷるぷるとダーリヤの手先のナイフは震えている。興奮で震えているのかどこを刺すのか迷っているのか、どちらなのか全くわからない。もしかしたら両方だろうか。たぶんそうだ。

 

「魚をさばいたことあるんだよな?」

 

 今はもういないダーリヤのマーマとやらと、一緒に料理したことでもあったんだろうか。

 

「ない」

 

「ちょ、それは知ってるってカウントしちゃダメなやつだろぉ?」

 

「ひゅわあ!」

 

「おーザクっといったな。おい、血はでてるけど全然身に刃先が入ってねえじゃん」

 

「はぁ、血が、生命(いのち)が……生命がこぼれていってるわ」

 

 ダーリヤにとってはまさしく法悦のひと時のようだ。

 

「なあコレ、はやくトドメをさしてあげないと可哀想じゃないか?」

 

「わかったわよ、ウル、ガローほど殺すのは上手じゃないのよ、仕方ないでしょう」

 

 ウソつけトリップするためだろ。

 

「はいはい……というか最初にシメてからとかじゃないんだっけ」

 

「おーい、みてらんねえよ兄ちゃんたち」

 

 わりとちかくで釣りに興じていたオッサンがみかねたのか、近寄って話しかけてきた。

 ノーネクタイ、シワの寄ったワイシャツは肘まで腕まくりしていて、くたびれた雰囲気がみごとに釣り堀の客層にマッチしている。

 

「こんくらいでけえなら脳天締め……はっはっは、これボラじゃねえか。アタマが硬ぇからサバ折りだな」

 

「プロレス技?」「なにソレ?」

 

 妙にひとなつっこいおじさんだった。人見知りするかと思っていたダーリヤまで話しかけている。

 

「まず止めを刺すんだよ。いつまでも暴れられちゃあ危なくて刃も入れられねえだろ?」

 

 おじさんはエラの下に両指をいれて、グキッと曲げて魚の背骨を折るようなポーズをした。

 

「やる! 私が! やる!」

 

「おう嬢ちゃん、やるならおもいっきりな! ボラはけっこう硬いぞ。でもまあ何ごともチャレンジだ」

 

「ふっ! ぬっ!」

 

 ダーリヤはボラのエラに指を突っ込んでひん曲げようとしているが、あきらかに角度が足りていないように見えた。

 

「できた?」

 

「ぜんぜんダメだ、もっとくの字に折り曲げるんだよ」

 

「くぬっ。ぬっ!」

 

 ダーリヤが何度か挑戦しているが無理そうである。

 おじさんは次の行動を促すように景朗をじっと見つめてきた。

 俺がやんのかよと表情に出すと、さらに見咎められてしまった。

 

「ったく。こういうのは釣った本人がやんなくちゃダメだろうそりゃあ」

 

「ダーシャ、ほら、俺がやるよ」「ええー」

 

 文句を言われたが、ともかくこのままではボラくんが可哀想なのは確かだ。

 景朗は気の進まない顔を浮かべたままでも、さくっとサバ折りを済ませてしまった。

 

「締めたら血抜きだ。バケツ用意してあるからホレ、ここに入れちまえ」

 

 結局、そのおじさんには頭が上がらなかった。準備も知識も不足し、何も用意ができてなかった景朗たちを咎めもせず、それからもいろいろと教えてくれた。

 

 締めたボラを自前の道具で刺身にしてくれたり、生き物系の知識には目がないダーリヤを相手にいけすのなかの魚の説明をしたり、釣り堀でのルールを教えてくれたり、等々。

 

「脳天締め……神経締め……」

 

 釣り上げた魚をどうやって仕留めるか、という講義に入るとダーリヤは際立って熱心に聞き入った。熱意ある生徒がいれば先生役にも気合いが入るのか、おじさんは自分が釣り上げた魚をお手本にしてまで手ほどきしてくれている。

 

「チッ。あいつこねーじゃねーか」

 

 ほのぼのとしたやりとりを続ける二人を尻目に、景朗は誰にも気取られぬようゆっくりと周囲に気を配っていた。

 この場所に呼び出したのは蒼月のヤツだが、一向に現れない。

 

 ダーリヤは生き物と触れられて(殺傷できて)最高潮のテンションであり、文句の一つもなさそうだが、景朗は不満たらたらである。

 

「兄ちゃん、鯛の刺身も食うか?」「あ、ありがとうございます」

 

 ダーリヤを見れば、今までロクに食べようともしなかった刺身にモシャついている。

 無理やり食わせたことはあったけれども、自発的に食べようとはしてくれなかったのに。

 

「むぐむぐ、ガロー! これ美味しいわよ」

 

「兄ちゃんと嬢ちゃんは仲良さそうだけど、兄妹にはみえねえよな」

「もちろん、まあ仲がいい友達っすよ」

 

 『んーっ!』とチビッコは不満そうに声を上げたが、食事中だったのでそれ以上行儀の悪いことはしなかった。

 

「つうことは、"うんどーかい"はサボりか?」

 

「まあ、いいじゃないっすか」

 

「ダハハ。まあ一週間近くあるもんな。子供だってずっと騒がしい奴らとワイワイやってられるほどみんながみんな元気じゃないよな」

 

「おじさんこそ、外の人でしょ? 子供さんに会わずにここで遊んでて大丈夫なんスか?」

 

 ツールボックスに掛けてある高級そうな彼のスーツの上着からは、これまた高級な葉巻の匂いがした。

 景朗はタバコを吸ったりはしないが、身分の高いターゲットをいくつか襲っているので、そういった場で嗅ぐタバコの匂いと安物との違いに気づけるだけの経験はある。

 

 何者なんだろう? とうっすら思ったりもしたが、そこに大した疑問は抱かなかった。

 すくなくとも暗部と関係していそうな危うい独特の気配を、この人は持っていない。

 人をひきつけるカリスマ性のなかにも、こういうのが普通の家庭の働く父親、ってやつなのかな、と。

 そう思わせるだけの懐の広さと人間的な温かさがあった。

 

「急な仕事でココ(学園都市)に立ち寄っただけでなぁ。競技の合間に娘とはちらっと顔みせしたんだが、それで追い払われちまった。残りの空き時間はせっかく学園都市に来たってんだから独り寂しく此処でリフレッシュってワケよ」

 

 ダーリヤはいけすのフチに立っている。

 握っているのは渡されたおじさんの竿で、今度は大物を狙うと意気込んでいた。

 

 『ビール飲みてえ』と愚痴をこぼしつつ、おじさんは日陰にいた景朗の隣に座ってきた。

 

「嬢ちゃん楽しそうじゃねえか。兄ちゃんも一緒に楽しんできたらどうだい?」

 

「いやぁおれは正直、釣りはそこまで。あいつが落ちないように見張ってます」

 

「はっは。もったいねえぞ? この街の子供はロクに外(学園都市外)に出ずに育つ子も多い。色んな施設で学外がどんなところか勉強できるようになっているが……こうして自然の生き物と実際に触れ合うことができる場所なんてのは限られてるんじゃないか?」

 

「ここは特段寂れてますけど、ほかのところはすごいっすよ。博覧百科(ラーニングコア)や天体水球(セレストアクアリウム)とか」

 

「他には?」

 

「えーっと……いや、他には……」

 

「兄ちゃんがそこで悩むってことは、ほかの子も似たり寄ったりなんだろう。この世界のことを知るのに、"博覧百科"とやらだけで十分だと、そう本心から思えるかい、兄ちゃんは?」

 

「そりゃあ、外からきたおじさんにそういわれると、てなりますけど」

 

「ま、この街の子はそもそもあまり"世界"ってもんに興味がないってところもあるんだろうな。俺はそう感じてならないんだ、みなが"内側"にばかり目を向けている」

 

「それじゃダメなんですかね?」

 

「もちろんダメじゃないさ。だが、大人が子供に、外の世界にも面白いことがたくさんあるんだぞ、って教えてあげられていない状況が"そいつ"を招いているんだとしたら。大人としてなんとかしてあげなくちゃな、って気にはなっちまう。"外"も"内"も十全に知り尽くして、そのあとでやっぱり内側にしか見るべきものがないな、って判断を下すなら、そいつは結構。俺はそう思っちまうんだが……間違ってるかな?」

 

「いや、間違ってないと思いますよ」

 

 からからと笑うおじさんは、景朗の皿にさらに刺身を追加して、醤油を注ぎ込んできた。

 

「で、兄ちゃんよ、ずっと聞きたかったんだが、夢はなんだ? 夢は?」

 

「いきなりっすね」

 

「俺の趣味みたいなもんさ。さっきの話は、もろに子供たちの将来の夢ってやつに影響が現れてくるもんでな。俺ってば仕事で世界中を回ってるんだが、あちこちでキッズの夢ってのを聞いて回るのが面白くて大好きなのよ」

 

「夢とか……ないっすよ」

 

「んだよ、照れるなよ。うまい刺身くわしてやってるだろ?」

 

「いやホント刺身は美味しいです、あざっす。ただもう、ホントに夢とかないんですよ、マジに」

 

「ふぅむ。じゃあ、将来は何がしたいこれがしたい、はないわけか。じゃあ……行ってみたい場所ってのはどこかあったりしないのか? 将来、自分が住んでいたい場所、と置き換えてもいい」

 

「行ってみたい、場所……」

 

 今度はぴくり、と景朗の琴線に触れるものがあった。

 その反応はおじさんにも見抜かれてしまったようだ。

 

「よく聞く話しさ。宗教・仕事・住処。こいつは結局、本人の意志でしか曲げられねえ。自分で選ぶ権利があるし、自分で選ばなきゃ人生うまくいかないもんだってことでもある。大人はな、住む場所は自分で選べるもんなんだ」

 

 大きな竿のせいでよたよたと歩くダーリヤの後ろ姿を見ながら、景朗はぼんやり考えた。

 以前、無理だと諦めてたちどころに消えた思いつきがあった。

 

 ロシア。ダーリヤはそこから来た。

 本人いわく、大した思い入れはないらしい。物心着く前に、すでに学園都市に渡っていたというのもあり、ダーリヤは咄嗟にロシア語ではなく英語がでてくるくらいである。もちろんロシア語がわからないわけではないらしいが。

 

 彼女の母親は、蒸発した。

 ダーリヤはもちろんプラチナバーグの暗部組織"デザイン"所属時にもその行方を探したらしいが、消息不明、しかし死体は確認されてはいなかったという。

 

 

 なんというか

 ダーリヤの母親をロシアに探しにいけないだろうか。

 母親でなくてもいい。親族はみつからないだろうか。

 そう思ったりもした。だが、その旅路がいかに実現不可能か。

 景朗はあっというまに、その思い付きを捨て去っていた。

 

 

「行ってみたい場所てわけじゃないけど……誰かを連れていきたい場所ってのは、ないわけじゃないっすね」

 

 それが今、ふわりと脳内に蘇ってきたのだった。

 

 景朗の歯切れの悪さから、おじさんはそれがどこかとは聞いてこなかった。

 

「じゃあ、それが兄ちゃんの"まだ見ぬ夢"への手がかりだ。失くすなよ?」

 

 景朗が返事をする前だった。どぼん! と音がはねた。

 

「おちた!」

 

 ダーリヤが重さを持て余し、ついに支えきれず、いけすのなかに竿を解き放っていた。

 

「あちゃー、係員さんを呼んでこなきゃな」

 

「すみません! 自分でとりますから!」

 

「んな無茶な」

 

 景朗が腕を伸ばして水底から竿を取り上げると、今度はおじさんのほうが『能力者ってすげえな!』とはしゃいでいた。

 

 

 

 蒼月の野郎がようやく現れたのは、釣りのおじさんが仕事だといって釣り堀から去っていったのと、ほとんど入れ替わりだった。

 

「釣れてますか?」

 

「見てたんじゃないんですか、どうせ」

 

「わたしは今来たところですよ」

 

 スンスン、とわざとらしく匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす景朗に目もくれず、サングラスをかけた蒼月は景朗が借りた釣り具のタックルケースのすぐ真横に、自分が借りてきたケースを並べて置いた。

 

「ここは楽しかったですか?」

 

「さっきまで相棒はめちゃくちゃ楽しんでましたからね、まあ、来てよかったといえばよかったかも」

 

 疲れたダーリヤは景朗とは背中合わせに腰を下ろし、ウトウトと眠りについている。

 

「こちらも成果があるといいんですが」

 

 蒼月は置いたばかりのケースに一瞬だけ目配せした。わかった、とばかりに景朗はわざとらしく咳払いをやってみせた。

 

「それではごきげんよう」

 

 今しがた置いたタックルケースとは別の方、つまりは景朗が借りていたケースを手に取って、蒼月は別のいけすへと向かっていった。

 

「ダーシャ、帰ろう」

 

「……あふ」

 

 ダーリヤをおぶって景朗も帰宅の途につく。カウンターで釣り具を返却する前にケースの中を探ると、そこには数枚のインディアン・ポーカーが入っていた。これが蒼月からの連絡手段であるようだ。

 

 

 

 

 

 第六学区の基地に帰り、なお眠りこけたままのダーリヤの顔をみて、都合がよいかとばかりに景朗は蒼月から受け取ったインディアン・ポーカーをその額に置いた。つづけて自らも1枚とって、少女を寝かせたソファの近くで横になった。

 

 

 小一時間経って目が覚めたダーリヤと、情報を確認しあう。

 結論からいうと、蒼月からの頼みごとは3つほどあった。

 

 ひとつ。"能力主義(メリトクラート)"の紫雲一派の構成員はおおよそ掴んでいるが、"学舎の園"にも彼女の飼い犬が潜んでいないか調査してほしい。

 ふたつ。"メンバー"の査楽という男がインディアン・ポーカー市場でよく目撃されている。"悪魔憑き"の能力で彼が好みそうなインディアン・ポーカーを製作し、接触してほしい。有事の際は彼に瞬時に成り代わってもらうためである。他の暗部組織の構成員と接触した場合も同様の仕込みを頼みたい。

 みっつ。例の作戦(Homecoming作戦)への返答は早めに欲しいが、その是非にかかわらず、陽比谷少年にも接触し、交友関係を築いておいてほしい。有事の際は彼を使い、統括理事の軍事担当の潮岸を牽制する。(陽比谷は潮岸の又甥である)

 

 

 念の為に、"滞空回線"を排除できるよう設備を整えていたパニック・ルームでダーリヤと話し合う。

 

「"学舎の園"の調査の件は、まず"第五位"に頼んでみる。近々あいつに呼び出されるっぽいからな」

 

「"メンタル・アウト"……わかった。ウルフマンがそれでいいなら、それでいいわ」

 

「インディアン・ポーカーで調査しろ、って件は……ターゲット以外にも"ブロック"だの"アイテム"だの"グループ"だの……なんで俺に? 自分らでもやればいいと思うんだが?」

 

「あのね、たぶんウルフマンじゃないと"面白いインディアン・ポーカー"は作れないと思うわ」

「ふむ。それはどういう意味?」

 

「クサツキたちのツールでも情報伝達ができるインディアン・ポーカーは作れる。でも、インディアン・ポーカーの醍醐味である[夢の中の五感で感じる体験]を"面白く"するには、実際に誰かの夢の中の体験をとりだすのが一番手っ取り早いのよ」

 

「ほう?」

 

「クサツキのインディアン・ポーカーには"視覚情報"である文字しか封入されていなかったでしょう。情報伝達のツールとして使うならそのわずかなデータ量を入力すればこと足りるけど……娯楽として人気がでて、赤の他人が群がってくるような"極めて複雑に五感がリンクした体験"を0から設定して製作するのは、とてもとても割に合わない作業になるわ」

 

 

 誰かの夢からその体験をゴッソリ取り出すのではなく、インディアン・ポーカー製作機器によって"夢"を何もないところから組み上げるとなると、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感すべてのデータを加味し、カードを使った人間が快楽を得るような塩梅に整えなければならない。

 

 ダーシャに言わせれば、その作業は1から大作ゲームを作り上げるような極めて膨大な作業量になるのだという。

 

「でも、ウルフマンみたいに自由に"明晰夢"をみて、夢の中の体験を自在にコントロールして創造できる人がいれば、あっというまに"人間が快楽を得る程度に調整された体験"を作り出せる。ウルフマンが"面白い"と感じた夢を複写するだけで、"別人でも面白さが味わえる体験"がつくれるんだもの」

 

 それはそうかもしれない。要するに、頭の中で思い描いているアイデアをそっくりそのまま"ゲーム"として現実世界にアウトプットできれば、これほどお手軽なことはない。

 現実では、CGを作ったり、音楽を作ったり、テキストを作ったり、など膨大な作業の積み重ねが必要である。

 バラバラのデータを集めてようやく一つの作品にできたところで、思ってたものと違う、予想より面白くなかった、結局売れそうにない、というオチに突き当たったりする。

 

 しかし、"実際にある人間が見た面白い夢"というデータは、その嗜好の方向性さえ間違っていなければ、ほとんどの他人にとっても"面白い体験"になることは疑いようがない。

 

 だれかが気持ちよくなった体験は、ほかの誰かも気持ちよく感じるはずであり。

 だれかが怖かった体験は、ほかの誰かも怖がる体験になるはずである。

 

 実際に自分が体験することなく数字だけイジって装った"体験"など、いっさい味見をしていない料理みたいなものだろう。

 適度に塩を振ったつもりが、しょっぱ過ぎてまともに食べられなくなった。

 イチから"夢体験"を形作ろうとすれば、そういった事態が制作過程で山ほど発生するに違いない。

 

 

「余計なことアイツ(蒼月)に言うんじゃなかった……こんな仕事まで回ってくるとは……」

 

「恩を売れるなら売ってたほうがいいわ! ウルフマンでも無理だったら仕方ないけど」

 

「あ、そうだ。陽比谷の件はめんどくせーけど、俺がそのうち会って話でもしとくよ」

 

「クサツキのヤツ、ヒビヤってヤツがウルフマンに関心を持ってたことを最大限に利用したいみたいね……」

 

「ダーシャに手伝ってもらうとしたら、インディアン・ポーカーの件だな……メンバーのソイツ(査楽)、どんなカードを集めてるんだって?」

 

 ふたつめの頼みごとは、ダーリヤが夢見たので詳細を尋ねてみる。

 

「えろいカードよ」

 

「はぁ?」

 

「えろいカード」

 

「……」

 

「えろカード。えろむぐっ」

 

 あけすけにえろ、えろ、と連発するチビッコがいたたまれなくなって、思わず手を伸ばしてクチをふさいでいた。

 

「むみむぶもぼっ」

 

 蒼月のヤツは言っていた。インディアン・ポーカーの人気は火の勢い、みたいなことを。でもそれって。そういうことでもあるのか。

 

 夢を見ている時に、その中で体験する出来事は現実とは区別がつかない。夢から覚めるまで夢だったと殆どの人間は気づかない。ある意味リアルそのもの。

 

 となれば。

 誰かが夢の中で得た"性的快感"は、現実世界で行うソレと遜色ないリアリティを持つのである。

 

 この街の半分は"ホルモン過多の思春期男子"である。

 女子をのけものにするなって? ならばそうしよう。

 この街の9割は"ホルモン過多のティーンエイジャー"である。

 

 お手軽に、しかも安全に、性体験ができるツール。しかも当局に規制されていない!

 そんなものがあれば、爆発的に広がるのも容易に納得できるではないか。

 

 

 

「あのなぁ。えろって意味わかってんの、ダーシャさんは?」

 

「ぷは。わかってるもん。ウルフマンのSSDのなかにはいってた"えろげー"みたいなヤツでしょ?」「ナニナニどういうこと? はい!? なんのハナシ?」

 

「ニウがこどもは絶対にひとりで見ちゃダメってしつこかったから仕方なく一緒にこのあいだ」「うあああああああああああああああああああああああ!!!」

 

(うそだろ……)

 

「ウルフマンどうし」「アッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……」

 

(なんで?! クラッシュさせて証拠隠滅してたはず!)

 

「ハッ。おまえ"欠損記録(ファントムメモリー)"で復活させたな……っ?!」

 

 日常生活でさほど使える能力ではないので忘れそうになるが、このガキはこれでもLv3の念写(ソートグラフィー)能力者である。

 

「壊れてたからデータを復元してあげたのに」

 

「やめたまえ! 今後二度とやめたまえよそういうことは……ッ! 全人類(男性のみ)への敵対行為だぞ! ねえていうかなんで丹生さんがでてくるのねえなんで」

 

「元はといえばニマニマした丹生が壊れたSSDもってきて」「あッハイそういうことですか」

 

 かつてないほどにうなだれ、床に手をついて伏した景朗のよこに、ダーリヤはちょこんと座った。

 

「とにかく、ウルフマンは起きながらユメがみれるって言ってたわよね? それなら、どんな夢でも自分で作れるわよね?」

 

「あい……」

 

「えろいのつくって配れば、あっという間に拡散すると思うわ! だからむぶぅっ」

 

 えろ発言禁止、とばかりに景朗はまたぞろそのクチを塞ぐ。

 

 ダーリヤが無言でタブレットをつきつけてくる。

 表示画面をみる。

 

 とある掲示板に貼られたコピペ文章だった。

 

 『インディアン・ポーカーの可能性 ~至高のアダルト媒体~ 

  夢は五感を最大限に引き出す。昔から夢は自閉症や鬱病のセラピー用途としても研究されてきました――』

 

(ガ、ガチの研究者さんたちも目をつけていらっしゃる……)

 

 

 もう一度、ダーリヤがタブレットを突きつけてくる。

 表示画面をみる。

 

 今度のは、インディアン・ポーカー製作者の裏のランキングだった。

 

 『"天賦夢路(ドリームランカー)"番付 R-18版』

 

 なんということだ。R-18版の閲覧数は全年齢版よりも3,4桁も規模がでかい。

 しかも1日単位でランキングは激しく変動している。

 いったい、日々どれだけの参入者が現れているというのか。

 が、しかし。ここに載ることができれば、ほぼ確実に"査楽"っていうスケベ野郎の目にも届くだろう。

 

「はは……あはははは……いいぜ。いいだろう!」

 

 すでにダーリヤはおろか丹生にまでバレているのだ。これ以上怖いことなんてもう残っていない。

 

「テッペンとってやろうじゃねえか……ッ!」

 

 "査楽"ってやつがイッパツで釣れるくらいの、ドギツイやつを作ってやんよ!

 

「ウルフマン、かっこいい!」「それって皮肉?」

 

 これがのちの"BLAU"伝説の始まりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。大量の"例のカード"の試作品が完成し、誰ぞに試供品として配ろうかと思案する最中にピッタリで都合の良い人物を思いついた。

 

 その人物に連絡を取ったところ、すいすいあっさりと都合がついてしまった。

 

 つまり突然だが、今日の昼休みは陽比谷青年と回転寿司で飯でも食うぞ、ということになったのである。

 

 当初、ダーリヤにはお留守番をしてもらおうと思っていたのだが、連日迷惑をかけ続けた丹生がこの日は一日中忙しいらしく、誰もそばについていてやれない事態となっていた。

 さらにはチビッコ当人から、どうしても自分の目で陽比谷を見定めておきたい、と意欲的に説得され、陽比谷自体は特に怪しいところがないが彼のボディガードには一応気をつけろ、と蒼月からアドバイスをもらっていたこともあって、友人っぽくメシを食うだけなら大丈夫だろう、という結論に辿りついたのだ。

 

 

 経緯はこうである。

 

 

 連日いろいろとそれどころじゃない事件が多発していて忘れそうになるが、世間は、今なお学園都市は大覇星祭という長期間に渡っての大イベント中なのである。

 この大覇星祭のお昼休みは、とにかく長い。我が子の観覧のためにやってきた親御さんたちとゆっくりコミュニケーションを取りながらお食事休憩してね、というそもそもの目的を阻害しないために必要不可欠な措置であるといえよう。

 

 ところがこれは"置き去り(チャイルドエラー)"や両親と一緒に学園都市で暮らしている学生たちにとっては、ムダに暇を持て余す巨大な空白時間と化す。

 

 この例に漏れず、親族が学園都市のお偉いさんばかりの陽比谷くんも、わざわざ混雑するこのタイミングであえて母親とランチをするはずもなく、いきつけのダーツバーなるところでクダを巻いていたようだ。

 

 『いつぞやの謝罪とかお礼とかもろもろ兼ねてメシでも食うか?』とメッセージを送ってみれば、送った瞬間にノータイムで『イく!!!』と反応してきやがった。

 

 暇すぎて脳を腐らせていたらしく返事がすでに下品になっていて危うかったので、ダーリヤを連れていくか迷ったじゃねえかこの野郎、とウルフマンのコメカミはピクピクしていたらしい。(ダーシャ談)

 

 

 

 

 

『おや? だれかな?』と女児童を見た陽比谷青年の発言を無視して、さっそくとばかりに回転寿司屋のテーブル席に3人は座った。

 

「あのさぁ、紹介したくないのはよくわかったから、せめて名前くらい教えてくれないか? その子のこと、なんて呼べばいいんだよ……」

 

「理解しろ。呼ぶ必要がないことを」

 

「レベルファイブのお考えはわかりませんがね、いわせてもらいますよ。じゃあなんで連れてきてんねん!」

 

「チッ。じゃあほらダーシャ、偽名を名乗れ偽名を」

 

「ヒップスター・キラーです」

 

「ダーシャちゃんね、はいよろしく……クッソ大げさに心配してくれてるけど安心してくれ。僕はお宅みたいなロリコンじゃないんで」

 

「誰がロリコンじゃい! その発言は取り消さないと戦争案件ゾ!」

 

「いい加減もうそれもアリかなって思い始めてるよ……っていうかそもそも君が僕の姿で大食いテロ起こして記者にスッパぬかれた謝罪をするうんぬんで呼び出したんじゃなかったっけ?! なあ?! なにこの仕打ち?!」

 

 陽比谷の言い分は最もである。ひと月ともうちょっと前の夏休みでのこと。

 当時の景朗は回転寿司なら思う存分オカワリしても店員に不審な目で見られず済むことに味を占めていた。 さらなるタンパク質の大量接種を目論んだ彼は陽比谷になりすまし、とある寿司屋で暴食を貪ったのである。

 が、その姿がしっかりと目撃されており、プチ芸能活動をしている陽比谷のイメージに余計な尾ひれをつけるハメになったのである。

 

 やらかしてゴメンネ、の体裁で今回は昼ご飯を奢ることになったのであるが、呼び出してそうそうの舌戦は、いささか景朗の分が悪いのは否めない。

 相も変わらずのイケメンフェイスを見てると、つい身に着けた青髪の演技が景朗の行動にわいてでてしまうのだ。

 

「こほん。まあまあまあ。今日は全部オゴリだから。食べようじゃないか。ほら、お茶を注いだよホラ」

 

 ブルジョワ陽比谷くんは市井の回転寿司屋は初体験なのだそうだ。

 右も左もわかっていないので、率先してレクチャーを織り交ぜて試しにオーダーを取る。

 

「ウルfッ、ガロー、わたしがやるっ、やるわっ」

 

「あい。手始めにサーモン1ダース、鯛も1ダース、エビも1ダース……陽比谷も好きなネタ言っとくれ」

 

「最初はあっさりとしたやつから……コハダとかヒラメとかあれば」

 

「あったわ。こはだ1ダース……ひらめ1ダース」

 

 お寿司屋さんのテーブルに設置してあったタブレットの、その注文画面にズラリと並んでいく"12皿"の文字。

 現時点で60皿のご注文になっております。

 陽比谷くんもさすがに違和感を感じ始めております。

 

「ちょ、あの、気になってたんだけどこういうところってダース単位で頼むもんなの?」

 

「そうだぞ」

 

 心から信頼するウルフマンの指示なので、ダーリヤのポチリ具合には迷いがない。

 しかし、ダーリヤも初めての回転寿司であるので、勝手は知らない。それを陽比谷は知らない。

 

 これが多数決の魔力というやつなのだろうか。

 どうにもオカシイ事態なのだが、そもそも彼にとってはレベル5と一緒にゴハンという時点でちょっと非日常だった。

 最後までモゴモゴしていたが、結局ダーリヤの注文確定ボタンの猛プッシュを止めるには至らなかった。

 

 60皿の注文だが、学園都市製の寿司ロボット(お寿司を握ってくれる機械)は極めて高性能である。

 

「さあ食うか!」

「わーい、おスシいっぱい!」

「もうヤダ……ッ」

 

 十分後。

 表面がすべてお皿で埋め尽くされてコップを置くスペースすら無くなったテーブル。

 何事かとチラチラのぞき込んでくる余所の席のお客さんたち。

 集まった注目のせいで、陽比谷青年は恥ずかしさから真っ赤な顔を両手で覆い隠してしまいましたとさ。

 

 

 

 

 

 ちょっとからかい過ぎただろうか。

 

 わりと放心したようなカンジでチマチマお寿司をつついた陽比谷くんは、今でもかわらずチマチマとつまんでいる。つまみっぱなしである。

 ガリを。

 なぜかガリだけ。

 

 流れいくレーン上の皿をぼけーっとただひたすら見送り続けている。

 

 

 気まずい。もう少しばかり機嫌をとったってバチは当たらないだろう。

 「お前、何が好きなんだよ?」「ぇぁ? おっぱいかな」

 おそらく『ポカンと口を開ける』という慣用表現は今まさに使うべきフレーズだろう。

 寿司のレーンに伸ばしかけていた手を、景朗はのっそりと引っ込めた。

 

「そう、でしょうね……」

 

 おもわず敬語がでた。

 景朗の国語力が乏しかったせいだろうか。

 こちらとしては、あくまで好きな寿司ネタを尋ねたつもりだったのだが。

 

 あまりにも平然と自然な所作で答えられたものだから、ダーリヤは『あれ……? めにゅーに"オッパイ"てサカナがのってるのかしら?』ときょとんとテーブル横のスタンドを探っていた。

 

「ぅごほん! ぇホン! ちょっとボーっとしてたよ。ハハ、あんまり期待してた味じゃなかったからさ、ココ」

「うん、あのねダーシャ、このヒトってこういうビョウキのヒトだから。説明する手間が省けてよかったわ」

「めずらしいビョウキなの?」

 

 ダーリヤは新種のウミウシでも見つけたかのような、見様によっては純真無垢な視線を目の前の変態にぶつけている。

 

「まあまあ珍しいね。ごビョウキ、いつか治るといいね」

 

「不治の病なの?」「かもしれない……心のビョウキだから手術では治せないんだ」

「God bless you...」

 

 心底気の毒そうな幼女の追撃で、ついに陽比谷の心は折れた。

 

「ごめん。少し泣く」

 

 忘れていた。こいつは、男所帯ではつい下ネタを連発してしまう病気(自称)の持ち主だった。

 長年の男子校生活が原因だと言って責任逃れしているのだ、とダーリヤに説明すると、ウソ泣きの声がちょっと大きくなった。

 

「まあでも、ある意味、幼女は女だと認識する対象外ってことだから、これはこれで健全なことの証明なんじゃないッスか」

 

「ふふ……ははは」

 

「まあまあ。そんなキミにぴったりのアイテムを差し上げよう。詫びも兼ねて」

 

「んあ?」

 

 景朗がポケットから取り出したのは、完成したばかりの"スキーマー・ポーカー(えろポーカー)"だった。

 

「インディアン・ポーカーか? ってことはアレか! レベルファイブ独自の能力向上訓練法のエッセンスでも入ってるってことなのかい?!」

 

「あ、いや、そういうんじゃないッス……」

 

「えr」

 

 途中まで言いかけたダーリヤの口を塞いで、景朗は続けた。

 

「そういうんじゃないんだけど、コレはコレで極上のブツだぜ。全部ひとり占めするもよし。シェアして恩を売るもよし。俺としてはお前さんはインフルエンサーの知り合いとか多そうだからソッチ系の人たちにも多少は融通してくれると助かるけどね」

 

「……あっそう。"能力開発"関連の中身じゃないのか……」

 

 陽比谷は露骨に興味をなくし、またまたガリをぴりっとつまむ作業に戻った。

 

 

「別に深くツッコんで掘り出そうとは思わないんだけどさ、えらく"レベルアップ"にこだわってるよな」

 

「なんだい急に。理由を話せば助けてくれるとでも?」

 

「まあ、話した分くらいは。俺に手伝えることがあれば多少は。そう思ってはいる」

 

 夏休みのことである。陽比谷はその体を食蜂操祈に乗っ取られて、メッセンジャーとして景朗の前に現れた。

 その時、食鋒は陽比谷を信頼できるだのどうだのとちょろっと口にしていたが……。

 

「……ふぅー。よくよく考えれば、こんなこと聞いてくれた超能力者は君だけだ。素直に助力を求めてみるってのもアリか」

 

 ぐびっ、と湯呑のお茶で喉を潤し、そこから陽比谷は姿勢を正して話し出した。

 

「すっごい簡単にいうと"妹のため"ってことになるのかな」

 

「……あー、あの常盤台の前で見かけた、日傘の妹さん?」

 

「そう。"南天(なんてん)"って名前」

 

「教育熱心な親とか親族のためじゃなくて、あの子のために"超能力者"に? なんだそれ?」

 

「"南天(なんてん)"とは血がつながってないんだ。義理の妹ってやつ」

 

「へ、え」

 

「これを言えばうっすらドロドロとしたものを察してくれるだろ? 僕がまだ乳児だか幼児だかそのくらいのころ、親父が連れてきたらしい。まるで実験動物みたいに、どこからともなく、ね。必死に調べたけど南天がどこから来たのか僕じゃ付きとめられずじまいで。そんで、我が家の恥を晒すことになるけど、このまま僕が"大能力者"どまりじゃあ、ゆくゆくは。南天と結婚させられてしまう」

 

「はあ?!」

 

「今はただの養子縁組ってやつだけど、いずれ嫁養子ってやつに切り替わる」

 

「なんでそこまで?」

 

「当然の疑問だよな。なんでそんなことするんだって。僕だって何度親父を問い詰めたか覚えてないくらいさ」

 

 ブズズズズ、とダーリヤは空気も読まずにジュースをストローで啜った。だがかえってソレは父親への怒りを再燃しつつあった陽比谷を和ませ、気を楽にさせたようだった。

 

「そりゃ結婚は本人同士の気持ちだって重要だからさ。親父は少なからず説明してくれたよ。ようするに、その……"原石"って知ってるか?」

 

 

「まあ知ってる」

 

 

 "原石"。

 "開発"を受けずとも、それまでの生育環境の刺激により独力で"能力"を開花させた者たちをそう呼ぶ。

 かれらは科学的に解釈できる存在でもあるらしく、別勢力の能力者である"魔術師"よりも学園都市の"能力者"に近い存在であるという。

 

 

「南天は"原石"なんだ」

 

 景朗は思い出していた。

 過去、陽比谷天鼓という少年にストリートで追い回され、彼が何者なのか徹底的に調べたことがある。

 そのとき、付随して彼の妹の能力もリサーチに引っかかっていた。

 

 "旱乾照り(ブレイズダウナー)"。太陽光のみを増強させる、トリッキーな能力だ。

 

「しかも"大能力(レベル4)"相当だから、"原石"としてはピカイチのね」

 

「じゃあ、もしかして」

 

「そう。なんのひねりもなく、その"能力者"としての優秀な血統を一族に取り込みたいのが主要目的なんだとさ」

 

「しかしそれ、意味あるのか? "原石"の子供が原石になるってわけでもないんじゃ?」

 

 遺伝情報がよく似た兄弟でさえ、全く異なる能力を発現し得る。

 当人が持っている資質と当人に適した開発をうけること、この二つは欠かせない。

 原石が誕生するメカニズムに詳しいわけではないが、原石の子が原石になる、という発想は安直だ。

 

「主要目的、っていったろ? あの子はただの"原石"ってわけじゃあないらしい。聞き出せなかったから自分で調べているんだけど、わかってることは少なくて。昔、南天のゲノムマップをこっそり調査してもらったんだけど、片親がアジアで、もう片方の親も色んな人種の混血で……でもたどっていくと最終的に北アフリカの血にたどり着いたんだ。"太陽"だけに強力に作用するチカラ。宗教的には権威を持ちそうだし、どこぞのシャーマンの末裔だったりするのか、なんて考えもしたけど」

 

「はぁー。その……歴史で習う欧州の貴族みたいなんだな。この街でもそんなことあるんだ」

 

「結局、権力が絡めば人間集団のやることなんて似たり寄ったりってことなんじゃないか……親父も入り婿で苦労して、いろいろあって一番いい方法がコレなんだ、って母親にはそう説得されたが……」

 

「納得できない、と」

「あたりまえだろ?」

 

 ボキッ、と陽比谷は持っていた割り箸を握りつぶして割っていた。

 

「"超能力者(レベルファイブ)"になって"頂点の才能"を示して、正面から親父をメタメタにブチのめして婚約を破棄させる。物心つくまえから妹とは一緒に育って、血がつながっていないだなんて気づきもしなかった」

 

「いつ気づいたんだ?」

 

「小学6年のとき、家庭教師の態度が妹と僕とで違いすぎてね。以前から違和感はあったんだけど、その時本気で調べて突き止めた。アイツは将来、僕と結婚するつもりでいる。そういう風に脅され、締め付けられ、針の筵で育てられてきたせいで。『家の役に立たないなら捨ててしまうぞ』ってプレッシャーの中でアイツは精神を捻じ曲げられて生きてこなきゃならなかった」

 

「ごめん、想像してたよりヘビーな話だった」

 

「はは、気にしないでくれ。普段はそんな事情おくびにもださないからな、僕だって。ま、そうさ……僕だって"兄貴"の端くれだし。妹には"幸せになってほしい"んだよ。でもあくまで兄妹愛っていうか、なんていうか。それは"自分の手で幸せにする"ってことじゃない。わかるだろ? 妹には最後の最後にはただただ"幸せになってほしい"だけなんだけど、それは"旦那"としてじゃなく"兄貴"として見届けてやりたいんだ。僕にとってコレはどうしても譲れないコトで、シンプルに家族愛だって認識してもらってもまあいいのかもな」

 

「家族、か」

 

「自慢だと受け取らないでほしいんだけど、母さんは"潮岸"の一族の出だし、親父だってこの街のお偉い官僚をやってる。だから僕ひとりが駄々をこねて結婚しない、だなんてひとりで突っぱねても、オトナのチカラで無理やり将来の道を決められてしまう。だから正々堂々"超能力者"になって、すでに一族には十分な"頂点の才能"が在るんだと示さなきゃならない。そうすればきっと南天との婚姻も考え直してもらえるし、僕にだって十分な発言力が手に入っているはず……なんだがそのタイムリミットが迫ってるワケで。焦らざるをえない現状なワケさ」

 

「そうだったのか。どうりで、今まであった中で一番"超能力(レベルファイブ)"に固執してる人間だな、って思ったワケだ」

 

「いっそ無能力者だったり低能力者だったりしたら、諦めがついたかもね。でも残念なことに、"大能力者"の中でも有力な"超能力者"候補にたどり着いてしまった。もはや多少のことじゃ諦められない。命を削ってでもこのまま突き進むつもりだし。その覚悟だってある、と誰にでも宣言してきたつもりさ」

 

 かつてない真剣な眼で陽比谷がこちらをみていた。

 

「これでも"わりかし"努力してるんだけどね、もうずーっと。"わりかし"寝る間を惜しんで勉強したり体を鍛えたり、いろんな会合には全部顔を出して、"能力主義(メリトクラート)"にはいってストリートで戦ってケガしても収穫はあるのかないのかわからない。僕に興味を持ってくれる研究機関にはすべて協力を申し出て時間が吸い取られていく……それでも、ここから先は何の手がかりも見つけてもらえていない。最後の壁を超える手段が見当もつかなくて、見つからないんだ」

 

「たとえ何を犠牲にしても? 悪事に手を染めてでも成し遂げたいか?」

 

「そこまで強がりは言えないけど……確実な"能力向上(レベルアップ)"への道を示してくれるなら、たとえ"法を破る"ような行為だって今は必要なのかもって思ってる。結果が手に入るなら手を汚すことも辞さないさ。もちろん、破ったならその償いはするつもりだけどね。僕は一族の誇りやらそんなものに興味はない。身近な家族の幸せだけだよ、求めるのは。途中で道を踏み外しても、誠心誠意償いをすれば、修復できない関係なんてないはずだから」

 

 

 景朗には、"不死鳥の血"を使って丹生を"強能力者"から"大能力者"相当の実力に引き上げた実績がある。

 陽比谷にも、彼専用に調整した"不死鳥の血"(というよりは[体晶]とその副作用を抑える機能を添加した血液成分)を開発すればその逆転の目はある、かもしれない。

 

 しかし、ここで即答して、彼にその餌をぶら下げるのは軽挙だろう。

 

「悪いけど、あんたの開発を担当してるエキスパートは相当な腕だろ? 彼らにわからないんなら、俺の手にも負えないんじゃないかって思うよ……」

 

 デザートのプリンに手を付けていたダーリヤの方を確認する。

 『ひとまずはそう答えたほうがいいわ』と彼女もうなずいていた。

 

「……そうかぁ。ま、何かいいアイデアや役立ちそうな情報を見つけたら教えてくれよ。頼む、礼は必ずするぜ」

 

「わかった。覚えとくよ」

 

 真摯な口調で陽比谷に返事をすると、彼も納得してくれたように息をついた。

 

 ポンポン、とダーリヤが景朗のわきばらをつっつく。

 ニマニマした少女は笑いをこらえて、アレを見ろ、と指さししている。

 

「おい、やめろよ」と小声で景朗は諌めた。しかし少女のニヤつきは収まらない。

 『笑ってやるなよ陽比谷のハナシはイイ話だったじゃん』と注意しようとしたが、少女の示した先をみて思考が停止した。

 

 

「ん? どうかした?」

 

 そう首をかしげる陽比谷のもう片方の手には、先ほど景朗が手渡した"えろポーカー"が強く握られている。

 

(まずいわ、真剣な話をされるほど握りしめられて湾曲したえろカードが笑わせてくるわ)

(おい、よせよ! かわいそうだろ)

(でもあんな大量のえろカードの束をもって力説されても身に入ってこないの)

(やめろ、おれをまきこむな。やめろっ)

 

 あかん。一度気づいてしまうとその光景のシュールさに景朗だってニヤつきそうになってきた。

 

 『えろカード何十枚も握ったままどんだけシリアスなハナシされますねん!』

 

 心の中の青髪が頼んでもいないのに追加攻撃をしてきやがる。

 

 

「ぅぅん、ごほん!」

 

「まあ、いいんだけどさ、いいんだけどさっ。そのチビッコそこはかとなく感じ悪くない? そんな笑える話しましたかね?」

 

「そんなことないって! こいつ空気読めないバカガキなんだよ、悪い、カンベンしてやってほしい、すまん」

 

 ペシッ、と景朗がツッコミを入れるも、ダーリヤは笑いをこらえようと変顔をつくるので精一杯な様子である。

 

「ふん! ま、いいけどさ!」

 

「まぁまぁ、怒るなよ陽比谷。家に帰ってそのカード使ったら機嫌も治るって! 保証する!」

 

「そういや、このカード結局なに?」

 

「"BLAU"ってドリームランカーが作ったヤツよ!」

 

 ダーリヤが威勢よく吠えた。なんでお前が胸を張るんだよ。

 

「ほ~ん」

 

 後日。もっとくれ、と陽比谷から連絡がきた。景朗は追加投資しておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽比谷と寿司を食べた日の夜半。

 

 予期していた一報がついにやってきた。

 木原幻生の陣営からの呼び出しだ。

 

 

 幻生が起こした事件が解決した直後、景朗サイドからは人質を取られた旨と、学園都市に造反する計画だとは知らなかったと弁明を木原数多に送っている。

 "猟犬部隊"の人員は傭兵でもある。別の機関から外部協力者としてサイドジョブを貰うことは部隊内では珍しいことではないので、それ自体は叱責を食らうことではないはずだ。

 木原数多からはそれから音沙汰がないので、ひとまずこの件で景朗は責を追わなくて済んだようである。

 

 その一方で今回、幻生は特大の虎の尾を踏んだ。アレイスターのプランの崩壊を意味する、学園都市そのものの破壊未遂である。

 彼の立場は非常に重いので、ペナルティを執行されるのは理事会レベルでの議事や取調が済んでからとなるだろうと予想できる。

 とにかく、いずれにせよ最終的には間違いなく何らかのツケを払わされるだろう。

 

 しかし、現在はまだ事件から数日しか経過していない。

 その気になればまだ幻生は自由に動けるので、もしかしたら最後の悪あがきを企むかもしれない。

 『とことんアレイスター君に敵対するので君も仲間になれ』と提案されるかもしれない。

 

 返事はもちろんNOだ。幻生は完全に泥船に乗っている。

 景朗も今回で幻生一派とは袂を分かつ決断をしている。

 

 まだ手纏ちゃんの御父上は街に滞在していて、火澄もちょうど側にいる。

 丹生とともにダーシャは第六学区の基地に立てこもってもらっている。

 

 聖マリア園の知人は数が多すぎて守り切れないので、人質に取られていたら従うフリをしてアレイスターに救援を乞うしかない。

 

 

 "猟犬部隊"で扱っている端末でアレイスターに指示を乞う。通常は直接的にアレイスターと連絡を取れるわけではない。原則として、こちらから連絡しても返信がくることはない。

 だが、折よくこのときばかりは、たまたまヤツの気を引いたに違いない。

 

 送った文面は『幻生を始末してもいいのか』と暗に尋ねていたも同然だった。

 返ってきたのは『許可しよう』との一言だった。

 

 最悪の場合、幻生とその場にいる人員を皆殺しにしてもいい。

 少なくともそうした冷え冷えとした決意をもって、景朗は呼び出し地点へと出向いたのだった。

 

 

 

 

 結論からいうと、覚悟はまったくのムダになった。

 食鋒に敗北したときいていたが、幻生はピンピンしていた。

 彼は決して怪我を負っていたわけではない。

 まだ長生きしそうだったし、まだまだいくらだって戦えそうだった。

 

 ただし、その中身はすっかり変わり果てていた。

 

 

 

「やあ、久しぶりだね景朗クン。ボクを殺しにきてくれたのかい?」

 

「違いますよ。先生はいつも出会い頭に突飛なことを言われますね」

 

「それは残念だ。キミなら殺してくれると思ったのに。どうだい? この際、私に"キミとアレイスタークンの例の実験"を見せてくれないかね?」

 

「丹生を治すって約束はどうなるんです? 忘れてませんか?」

 

「忘れてたよ」

 

(忘れてんじゃねえよマジでぶっ殺すゾ! ってああもうそれじゃジジイの思うつぼだし。あいかわらずだなコイツ!)

 

「困ったなぁ、今のボクは色んなことを忘れてしまう。食蜂クンに"集中力"を奪われてしまったんだ。"幻想殺し"の使用許可もアレイスタークンに目をつけられていては降りそうもない」

 

「それだけは絶対にやめたほうがいいですね。先生が"幻想殺し"に近づこうとすればただでは済まないかと」

 

「忌々しい理事長殿だよ」

 

「何にせよ、あなたの願いをきくのはそれがどんなものであれ、丹生の一件を解決してくれた後です」

 

「そうかぁ。ところで景朗クン、ボクはキミに何をお願いしていたんだっけ?」

 

「『貴方を殺せ』とたった今言われたところですよ」

 

「そうだったか。それはいい。このカラダは煩わしいことこの上ない」

 

「丹生を救う研究を完成させてくれたら、貴方を殺してあげてもいいですよ」

 

「悪いね。こうなった今、それは不可能だよ。おや? それではキミは何をしにきたのだね? キミに殺されるのが叶わない状況で、ボクはなんのためにキミを呼んだんだい?」

 

「それはこちらが聞きたいですよ。ただ貴方に呼ばれて来ただけですし。俺に貴方を殺すよう、貴方は俺に頼み込むつもりだったのかもしれませんがね」

 

「なるほど。で、どうだい? ボクを殺してくれないかい? キミとアレイスタークンの"例の実験"に興味があってね。実際に自分の眼で観察してみたい」

 

 景朗は理解した。食蜂はずいぶんとえげつない呪いを幻生に吹っ掛けたらしい。

 かの老人の頭脳明晰っぷりは見る影もない。

 

 どうやっても、会話は堂々巡りとなってしまう。

 

 

「先生、丹生の治療法は今の貴方では研究できないんですね?」

 

「キミにはそれが可能だと思えるかね?」

 

「では……先生との"契約"はこれで終わりですね。違いますか?」

 

「おやおや……キミの言う通りだね。キミとの"契約"はこれで終わる。終わりだね。仕方ない、途中までの研究データは好きにしたまえ」

 

「では許可をください」

 

「そうしよう」

 

「先生、丹生の研究データだけでなく、俺に関わる研究全部のデータもくれませんか?」

 

 本当は"プラン"に関わるデータだってほしい。だが幻生が持っている確証はないし、それを堂々と要求する行為は危うい。

 幻生は理事会の監視下にあるはずだ。ここでのやり取りはすべて筒抜けだと思って行動すべきだ。

 自分に関わる研究データを要求するくらいは、不自然ではないはず。それで手を打とう。

 

「なぜだい?」

 

「俺のお願いを聞いてくれたら、先生のお願いをきいてあげてもいいからです」

 

「ボクがキミに? 何を頼んでいたのかね?」

 

「俺が貴方を殺してその状態から解放する、というハナシですよ。その時は"例の実験"を先生に披露できるかと」

 

「それは素晴らしい」

 

「で、俺に関わる研究データを渡してくれたら、と言ってるんです」

 

「全てはダメだ。キミに渡す気はない」

 

「わかりました。じゃあさっき約束してくれたとおり、丹生の研究データだけでも譲渡する許可を出してください」

 

「そのことなんだが。なぜキミに研究データを渡すことになっているんだね?」

 

「……貴方が食蜂との闘いで負傷し、企ては失敗して立場を追われ、もはや研究を続けられないからです。俺と貴方の協力関係は終わり、貴方は丹生と俺の研究データを渡す。でなければもう俺は貴方のお願いはきかない。そんな内容の会話をもう幾度も続けています。いい加減きめてほしいんですが」

 

「ボクはキミに何を要求していた?」

 

(このジジイ、俺の"悪魔憑き"を見たがるわりに何度も忘れてくれますね)

 

「貴方が俺と丹生の研究データを渡せば、俺は貴方を殺すという貴方の頼みをきく。先生が好きな方を選んでください。先生が決めてくださいよ」

 

 期待を裏切らずまた会話の内容を忘れたらしい幻生は、自分が操作したモニターの画面をみて状況を察したらしい。

 

「……フ、フフ。仕方ないね。こればかりは報酬を先払いで受けるわけにはいかない。殺された後では報酬を渡せない。どうせなら大好きなキミに殺されるチャンスを逃したくないなぁ」

 

 おや? と景朗は首を傾げた。幻生は意外にも、景朗の研究データまで渡す寸前で悩んでいたらしい。

 『キミに渡す気はない』などといいつつ、操作画面では許可を出すか出さないかの直前で迷っていた、ということなのだろうか。

 景朗の言葉は信じずとも、自分が操作した画面から、一度は自らがその許可を出しかけたのだと推察したのだろうか。

 

「では忘れる前に早く許可をだしてください。もうこのやり取りは勘弁ですよ」

 

「ほら、許可は出したよ。では約束は守ってくれたまえよ、景朗くん」

 

「では後日」

 

「許可はだしただろう?」

 

「内容くらい確認させてくださいよ」

 

「景朗クン、帰るのかね? 用事は済んだのかね?」

 

「終わりました。ところで先生は、理事長とは仲が悪かったんですか?」

 

「ああ。ボクはあの"犬"とは違う。"彼"の同志ではない」

 

(犬?)

 

 "猟犬"である景朗のことを差しているのだろうか? しかし、今の幻生が相手ではまともな答えすら期待できそうにない。

 

「景朗クン、なぜ帰るのかね?」

 

「助手の人に全部伝えておきます。後で聞いてください」

 

「おや、悪いねえ。迷惑をかけたようだ。それではさようなら……ああ、そうか。自分のこの眼で、君の"羽化昇天(アセンション)"が見たかったなぁ」

 

 

 景朗は幻生の書斎から去る前に、見納めるつもりで老人へと振り返った。

 こんな終わりになるとは思わなかった。

 

 無論、約束を守るつもりなんてない。そうしてもこの男相手に罪悪感など抱きようがない。

 放っておいても、いずれ理事会から沙汰が下る。

 

 案外、"三頭猟犬(ケルベロス)"にその役目が回ってくるのかもしれないけれど。

 

 いつのまにか、そうならないことを祈っていた。彼を殺したいとは思っていなかった。

 つい数日前には、あれほど幻生を憎んでいたはずなのに。

 

 弱り切った老人の姿に騙されてしまったのかな、と景朗は複雑な感情を切り替え、その足で研究データを回収しにラボへと向かった。

 

 

 

「雨月景朗」

 

「あんたかよ」

 

 ラボで景朗の対応をしたのは、なんとあの現場から無傷で生還した木原無水だった。

 

「何しに……来た」

 

 ぶつぎりでボソボソと喋る。身構えていた景朗は拍子抜けすることになる。

 この男はサングラスをかけていないと極端にテンションが低いらしい。

 

「先生からの許可は貰ってきた。とっとと確認してデータを譲渡してくれ」

 

 "迎電部隊(スパークシグナル)"から援助してもらった、セキュリティの高い端末型デバイスを預けつつ、景朗は無水の様子を窺った。

 

「……どれ……だ?」

 

 テンションが低いという表現は大間違いだった。

 うつろな瞳で、覇気そのものが欠落している。

 景朗をみているようで見ていない。

 少なくとも景朗の顔面にはピントがあっていない。

 まるで、景朗の背後の幻影をみているかのような。

 

「水銀武装(クイックシルバー)と俺に関わる研究全てだよ」

 

「……ほかは?」

 

「他?」

 

「すべての研究が……許可の対象…だが」

 

(なにしてんだあのジジイ)

 

 機転を利かせるべきか。この咄嗟の判断で大きく今後の展開が変わるかもしれない。

 しかし、"滞空回線"はこの空間にも漂っているはず。

 それでも、ただならぬ無水の様子はチャンスであると思えてならない。

 

(いけるか?)

 

 できる、と直感があった。

 景朗は無水の耳に片手を当てた。手から細い神経を伸ばし、細心の注意を払って鼓膜の裏側の、3つの耳小骨につなげてしまった。

 

 予感は裏切らなかった。

 無水は無反応のまま、それが当然であるかのように景朗の行為を受け止めていた。

 

 無水はいまだ"悪魔"に魅入られたままなのかもしれない。

 

 まさしく景朗の命令を待つように、無水はじっと待っている。

 

 機密データを投げ渡すような、幻生のミス。罠かもしれないと疑いもした。

 しかし木原無水の自失状態は、景朗が訪れたことによって生じたイレギュラーである。

 

 誰かが狙ってこの状況を作れたとは思えない。

 

 

「いや、いい。十分だ」

 

 そう景朗は口に出したが、もちろん無水の耳に直接伝えた内容とは別だ。

 この場ですぐに渡せる機密情報を寄こせ。実際はそう命令している。

 

 例えば素養格付(パラメータリスト)などを。

 幻生ほどの大物が所持しているそれらは大いに役立つはずだ。

 

 

「耳に糸くずがついてたぜ」

 

 最後にデータのやり取りをした記録自体を消しておけ、とも命じて無水から離れる。

 

「わかっ、た」

 

 そのあとも無水はぼーっとこちらをみていた。

 

 景朗は一度として振り向かず、ダーリヤと一緒に中身を改めるために先を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 景朗とダーリヤは第六学区の秘密基地で研究データを読み解く作業に没頭した。

 機密情報となるので、あいにくと時間が惜しいが2人っきりで地道に続けるしかない。

 

 

 

 真っ先に確認したのは[景朗に為された研究から"プラン"の正体を察する手掛かり]がないかどうかだ。

 

 今のところそれは見つかっていない。すべてのデータを確認するまで希望は捨てずにいたいが、無駄に終わる可能性も大きそうである。

 

 それはそれでいい。仕方がない。

 頭を悩ませたのは、続いてさらに別の問題が浮上してきたことだった。

 

 

 パラメータリストの食い違い、である。

 

 幻生が所持していた"雨月景朗のパラメータリスト"には、彼が"低能力者"相当のポテンシャルでしかないと表記してあったのである。

 

「俺のパラメータ情報とほかの"7人の超能力者"のモノを比較すれば、"プラン"の正体の予測に役立つと思ったけど……」

 

 景朗のパラメータリストの情報は"低能力者"どまりである。"低能力者"のポテンシャルと"超能力者"のソレを比べても、大した情報が浮かび上がってきそうにない。

 

「幻生が言ってのはマジだったっぽい」

 

「どういうこと?」

 

「俺が"超能力者(レベル5)"になれたのはジイさんにとっても想定外だったみたいなんだ」

 

 幻生は最初の予定では、景朗を"超能力者"にするつもりで引き込んだわけではなかったのだ。

 もともとは"プロデュース"や"学習装置(テスタメント)"製作のための研究材料だった。

 その過程で続々と能力強度(レベル)を上げた景朗への考察から、幻生はその秘められた"素養"に気づいたのだと。記憶の中の幻生はいつもそうした口ぶりだった。

 

 

「クソ、なんで"低能力者"なんだ? それなら一体Type:GDの一件は誰がやった? 誰が俺にちょっかいをかけてきたんだ?! パラメータリスト上では無価値の俺をどこの誰が学園都市最先端兵器を持ち出してまで調査しに来てたってんだ? "ヤツ"本人か? でも俺は"プラン"には関係ないんじゃないのか……」

 

 昨年の秋。"パーティ"との交戦時に、"電子憑依(リモートマニピュレート)"が使っていたType:GDはプロトタイプであり、傭兵まがいの暗部組織には入手できるはずもない。

 景朗のパラメータリストが"超能力者"であれば、利用価値を見出した理事会やそこにちかいポストにある研究者かとの予測も立つが、そうではない。

 あの当時、景朗の本当の価値を知っていたのは、180万人分のパラメータリストを作成したものか、研究データからソレを予測した木原幻生だけである。

 しかし景朗はもとより当時は幻生の部下であったのだから、幻生は隠れて"人狼症候"のデータを取る必要などない。どのみち彼の手にはすべての交戦データが渡されるのだから。

 

 

「ごめんなさいウルフマン。何も予測できないわ」

 

「こっちこそすまん愚痴って。謝らないでくれよ」

 

 ダーリヤはグレネード(エナジードリンク)をグビリと呷った。

 景朗もマネしてアイスコーヒーを飲み干した。

 

「そうだ。他にも幻生が行った研究のなかで、パラメータリストと開発結果が食い違っている事例はある?」

「調べてみる……あら、見つかったわ。その"発達齟齬"だけ別にしてファイルがまとめてある……」

 

「まじ? もうまとめてあったの?」

 

 木原幻生。彼はこの街では"能力開発"の権威と呼ばれている。

 つまりは、この世界トップクラスの能力開発の腕を持つ彼にかかれば、"素養(パラメータ)"を超える開発が可能だったということか?

 "レベル"の垣根を超えることは、そんなにも容易なことなのだろうか?

 

「幻生ですらパラメータリストの食い違い事例をリストアップしてたってことは……」

 

「疑問に思ってたのね」

 

 木原幻生にとっても謎だったのだ。

 

「ねえ、ウルフマン。このデータ郡の集められ方や比較のされ方からわかってきたわ……ゲンセイもきっと、パラメータリストがそもそも意図的に"本来の素養"より低く抑えられて作成されている可能性を疑ってたみたい」

 

 

 ゾクゾクと背筋が蠢くような、直感やひらめきが働いたときの感覚があった。

 景朗には、これが幻生からの何らかのメッセージであると思えてならなかった。

 

 幻生が所持していたパラメータリストの全データを試しに参照する。

 しかし、でてきたデータ数が極めて少なかったので、当然の疑問がそこに発生した。

 

「悪い、ダーシャ、リストのデータが全部参照できない。なにか操作ミスってる?」

 

「うーん? ううん、ミスってないわ。これでゼンブよ」

 

「はぁ? え、おかしくないか。これで全部?」

 

 数千人規模のデータだったので、一部のフィルターで選り分けられたリストなのかと勘違いするほどだった。

 

 学園都市の学生は180万人もいる。これは幻生個人の所持しているリストではない。

 文字通り、幻生一派の研究者が研究に利用しているリストなのである。

 リストの人数は一万人に足りていない。

 幻生ほどの研究者がこれだけしかもっていないのはあまりにも不自然ではないか。

 

 学園都市はこの街にいる180万人の全学生の"素養"をすでに測定し終わっているはずだ。

 景朗は"猟犬部隊"の任務でそうである証拠を実際に目にしてきた。

 処分される学生たちは、その潜在能力の差によって処遇が明確に分かたれる。

 高位の能力者になれる素養があるものは闇の研究機関へ。

 そうでない利用性が欠ける者は、想像もしたくない処分がなされることもある。

 

 彼らは"素養"をチェックされて選り分けられるわけでもない。

 開発が行われる前の幼い子供たちにすら、その場で選別が行われるのを目にした。

 

 学園都市の上層部はまちがいなく"あらゆる学生"の"素養"をすでに知っているはずなのだ

 

 

「ウルフマンの言う通りね。"レベル0"や"レベル1"のデータ数が少なすぎるわ。これではたしかに研究の効率が悪いはずなのに……」

 

 研究者は高位能力者のパラメータリストだけ持っていれば十分か?

 そんなはずはない。

 研究者の立場から言えば、最初からある程度当たり外れをつけられる大量の"見込み無しリスト"だって無ければ困るはずだ。

 なにより"持つ者"と"持たざる者"の"素養"を比較できずして、どうやって新しい発見を効率的に行えというのか。

 すでに180万人分のリストが完成しているというのに、それを現場で有効利用しないだなんて馬鹿げている。

 

 馬鹿げているのに、木原幻生一派ですら大量のリストは所持していない。

 おそらくは、どこの研究機関も一部の欠落したリストしか所有していないのではないか?

 

 なぜそのような状態になっているのだろう?

 

 ここは学園都市である。研究者のための街だ。研究のために作られた街だ。

 そこでこんな有様がまかりとおっている理由は?

 

 "プラン"。その正体について、蒼月と議論をしたことがある。

 あの男はAIM拡散力場の造成が"プラン"に必要な要素だと推測していた。

 つまり、高位能力者の数は選定されている、との疑念である。

 

 

「ダーシャ。蒼月はこう予想してるんだ。高位能力者のバリエーションや数はコントロールされている。AIM拡散力場の環境をなんらかの目的に適した状態にするために。それをガチで街のトップが主導している。いや、主導してきたんだとしたら……?」

 

「それなら。……たしかにリストはおいそれとは配れなくなるわね。理由としておかしくないわ」

 

「街の高位能力者の"構成"、あー、compositionを常にコントロールするために、レベルを上げたいヤツとレベルを上げてはいけないヤツのリストは研究者に渡して開発をさせなきゃならないから、そのリストは表に出るだろ?」

 

「将来的に高位能力者になる素養がある人間に対してはそうするわね。"リスト"に"レベル0"だと記載されている能力者をわざわざ研究するほど暇な研究者はいない。そこで諦めて次に行くわ。よほどの希少な能力でもないかぎり……」

 

「そうか。俺の能力系統、"肉体変化(メタモルフォーゼ)"は"書庫(バンク)"にも片方の指で数えられる程度しか載ってない希少っちゃ希少能力。だから……」

 

「ゲンセイはウルフマンにたどり着いたのかも」

 

「あ、丹生の情報はあった?」

 

 丹生の両親は幻生の部下として研究していたし、丹生本人もその実験に参加していたのだからリストに情報があってもおかしくない。

 

「ヒンニウはレベル3」

 

「それ絶対見せちゃダメなやつだからね。んでも、てことは丹生はレベル3まで開発すべき人材ではあるが、リストが偽物ならもっと上のレベルになってもおかしくない……?」

 

「たぶんふつーにレベル3どまりよ」

 

「なんでそんな辛辣なの?」

 

「わたしより上だなんてありえないわ」

 

 ダーリヤは謎の自信で胸を張ってふんぞり返った。

 

(そっか。キミ(ダーシャ)もレベル3だものね。マウントの取り合いで不利になるもんね)

 

「きっと余計な人間のリストを公開しないのは、ゲンセイが突き止めたような特異事例が増えてしまうからね。数が集まれば証拠としてチカラを持つし、そうなると大変なことになる」

 

「だよな。リストを有効利用しない理由が思いつかない」

 

「ちっとやそっとの理由じゃあ納得できないわ。どう考えても180万人分のリストを裏で使い回さないと研究が非効率的すぎるもの。そのコストは天文学的なものになるはず。……それに、リストが万が一露見しても、その"素養"が事実ならば訴える側もぐうの音も出ないけど……」

 

「改竄されたリストなら『どういうことだ?』って追及される」

 

 

 もし本物のリストが完成しているというのに、この改竄されたリストのほうが出回っているという状況なら。

 

 

「もちろん街全員分の"素養格付(パラメータリスト)"が存在すること自体が問題だけど、それが作為的に偽造されて出回っていると表沙汰になったらオゥチニ大問題よ。この街の180万人の能力者は、上層部の意図によって人生を操られてきたのだと理解する。実質的に、奴隷制にも匹敵する人権の侵害行為だわ。誰かの都合でレベル5になったものがいて、大多数は誰かにレベル0の烙印を押されたまま、そのことに気づきもせず歪められた一生を過ごしていく」

 

 学園都市では、学生期間中もその後の人生においても、"能力強度(レベル)"がなによりもモノを言う。

 レベルによって奨学金の金額が変わったり、受けられる教育レベルすなはち得られる教育費が天と地ほども違ってくる。

 その人生の屋台骨たる"レベル"が、よその誰かの都合で勝手に決められたものだと知らされれば暴動すら起きるだろう。

 

「まぁそうなったら、この街の存続も危ういよな」

 

「生徒も、その親も、大多数の研究者も、誰もかれも、この街を信用しなくなるわね」

 

「もし180万人分の、そうだな。"実測の素養格付(プライマル・パラメータリスト)"としようか。そいつを手に入れて世間に公表したら?」

 

「大暴動がおきるし、なんとかそれを抑えられても、能力を不当に低く調整した行政に状況を改善するように圧力がかかる。それはゼッタイにさけられない」

 

「けれども理事会はその要求を受け入れられない。要求をのんだふりをして拒否でもするしかない。場合によってはチカラで抑えつける選択もとるだろうな。

 そもそも、能力者の母数や種類のコントロールを行うことこそが、この街を作った目的の一部なんだ」

 

「統括理事会の?」

 

「大多数の無能力者は"どこかの誰かの都合で無能力者としての一生を身勝手にも押し付けられた者たち"。

 誰もかれもにレベル3やレベル4にでもなられたら、とてつもなく都合が悪いんだ。

 そんな状態の学園都市には……利用価値がなくなっちまう。

 だから"ヤツ"もそれだけは受け入れられない。どれだけ苦渋の選択を受け入れても、それをやっては全てが水泡に帰す。

 だが、民衆の要求を受け入れなければ街から人間はいなくなる。

 "ヤツ"は終わりだ」

 

「ねえ、ヤツって?」

 

「きっと"ヤツ"だよ……」

 

 逆さまに浮かぶ"もやし野郎"の顔が、ついに歪むのか?

 

 パキン、と景朗が握りこんだガラスのタンブラーが音を立てて割れた。

 

 お気に入りのタンブラーだったが、景朗の表情は愉悦で歪んでいた。

 

「だったら、一度でも世間にバレたらおしまいね」

 

「そうなる……。それじゃあ、真のリストを手に入れたヤツの要求を、理事会も理事長でさえも、聞き入れるしかないってことだよな?」

 

「だけど現実的な話じゃあないわ。脅迫者には、それこそ街が総力をあげてツブしにくるから。それをはねのけられる武力…いえ、もはや軍事力が必要なレベルになるわ」

 

「そう、だな。……なあ、それはそれとしてさ。"リスト"はどこにあるとおもう?」

 

「必ずどこかには存在するはず。危険だからといって破棄できるものでもないし、何かの計画に利用しているのならば現在進行形でリストは活用されているはずよ。この街の能力開発は途切れることなく続いている」

 

「よほど安全な場所に保管してあるか、それとも。この街で一番強いヤツのところにあるか、かな?」

 

「少なくとも、この街でもっともセキュリティの高い場所にあるはず」

 

 場所。だが、探しているのは情報だ。物理的な場所でなくとも。

 たとえば、誰にも立ち入りできない"ネットワーク"ではダメだろうか。

 垣根帝督曰く"アンダーライン"はそれひとつのエンタングル(ひもづけ)されたデータ群だ。

 故に、盗み見るといった行為はできない。

 誰かがそのデータを観測した時点で、データ群そのものに確定的に少ないながらも変化を与えてしまう。

 

「"リスト"なんだから要するに情報だろ? 物理的に存在しなくてもいい。"アンダーライン"は?」

 

「超期待できるわね」

 

「垣根が躍起になるワケか」

 

 "パラメータリスト"だなんてケチなものではなく。

 "アンダーライン"が織り成すデータ群には、ヤツの目的("プラン")そのものがまるごと入っている可能性すらあるのだ。

 

 もしその秘密を盗み出すことができたのなら。

 学園都市理事長を脅すことも不可能ではなくなる。

 

 

 木原幻生。あなたもついにアレイスターを敵だとみなしたのか?

 あんたもこの"発達齟齬(パラメータ・エラー)"に目をつけていた。

 その事実が、こんなにも心強い。

 

 景朗は、ついに対等に交渉を持ちかけられる"アレイスターの弱み"にたどり着いたのかもしれない。

 "実測素養格付"を探せ。

 

「何をすべきか、ようやくいっこ見つかったな」

 

 感慨深くつぶやく景朗には目もくれず。

 ぐびび、とダーリヤはグレネードを飲み干した。

 それがおかしくて、彼は今度は素直に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。大覇星祭6日目。つつがなくその日の競技も終わり、景朗は秘密基地でダーリヤと合流した。彼女は連日、幻生から入手した研究データの解析に費やしている。

 

 

「すまん。連絡が来た。ちょっと出てくる」

 

 食蜂からの呼び出しだった。

 思い出さねばならない。木原幻生が食蜂に負けた日。

 その日に彼女から頼まれごとを引き受けたが、ずっと連絡待ちの状態だった。

 呼び出しの名目は救援要請。依頼はとうとう現実となった。

 

「ほんとに何もしなくていいの?」

「何もしなくていい。俺ひとりで十分。休んでていいよ」

 

 頼みごとには自分以外の誰も関わらせない。もとからそういう約束だった。

 

 指定されたコンビニの前で待機していると1台のタクシーが目の前に止まった。

 

 開いたドアはタクシーの助手席側だった。

 乗り込む前に、車の中に注意を払う。

 

 後部座席に、食蜂の金髪頭と初めて会う黒髪の誰か。

 

 運転手は一見どこにでもいる普通のおじさんにしか見えなかったが、景朗にも、誰に対しても無反応で、食蜂の能力でトリップ状態にあるのがあからさまだった。

 

 

 謎の少女がどんな危険人物であろうと、ここには景朗ひとりである。

 いざとなれども傷つくのは自分だけで済む。

 まったく恐れる風もなく、彼は助手席に腰を下ろした。

 

 

「ここで会話しても安全か?」

 

「当然じゃない」

 

「わかった。で、そちらさんは?」

 

「ドモドモ、"コウザク"ですよん」

 

「"コウザク"。それじゃあ、あの時の。ホントに生きて会えましたね」

 

「悪いけど、ナゴやかに話す気分にはなれないんだよネェ。キミが寄こした"猟犬部隊"、ぜんっぜん尻ぬぐいしてくれなかったんだよね。終わったこととはいえ、文句のひとつも出てくるよ」

 

「……もうしわけない。当てにはできませんよ、って十分忠告したつもりだったんですけど」

 

「あのザマで猟犬だなんて、ほんっとただのコケ脅しっすわ。"駄犬部隊"に名前変えたら?」

 

「ぷは。ふはははッ、大賛成だなぁソレ。上司に伝えておきますよ」

 

「ちッ」

 

 コウザクと景朗のやりとりでうっすらと笑っていた食蜂は、そこで口をはさんできた。

 

「安心して警策さん。こっちのワンちゃんは暴力のウデッぷしだけはピカイチの、"アマゾーン"にも劣らない"サーベラス"くんよ。劣ると言えばワンちゃんだから決断力がどうしようもないヘタレだけど、命令を聞くだけならそれも関係ないしぃ☆」

 

「……はぁ」

 

「はァ? サーベラス。ケルベロス。じゃあコイツが"理事長の執行人"? "猟犬部隊"の"猟犬"本人が、幻生と組んでいた、なんて……」

 

 短い期間だったとはいえ警策とて暗部組織で活動していたのだから、当然ウワサは耳にしていたのだろう。

 食蜂のヘタレ発言で黙らされた景朗とはまた別の理由で、考えこむように口を閉じてしまった。

 学園都市の裏世界でもTOP3にヤバいとウワサされる危険人物が、目と鼻の先にいたのだ。

 

「大丈夫、安心して。信じてちょうだい。ワンちゃんの弱みは完璧に握っているから大丈夫。意外に思うかもだけど、彼とは、彼が名前を売る前からの付き合いなのよ」

 

 食蜂になだめられても、それでも警策から完全に硬さは抜けなかった。

 僅かながらも油断を残していた己を悔いるように、ピリピリとした緊迫感をまとっている。

 

「あのー、すいませんが、そろそろワンちゃん呼びは勘弁してもらえませんかね?」

 

 高校生が、年下の女子中学生を相手にこの腰の低さでは、ヘタレ呼ばわりもいたしかたないかもしれないが。

 

「それじゃあ☆かっこよく理事長の刺客さんって呼ばせてもらいましょうか。アナタの通り名ってどれも物騒で困っちゃうわね☆」

 

「となりの方がいつまでも警戒されそうなんでやめたげてください」

 

「"犬"要素は外せないわよねぇ~?」

 

「どっかのBBA(薬味久子)みてえにしつけえなイヌイヌって……」

 

「あのさ、一般論的にヒトって真実をぶしつけに告げられると怒っちゃうもんだよ?」

 

 コウザクさんも絶妙にフォローできてないセリフである。

 

「カワイイの思いついちゃった☆まさに"犬の殺し屋さん"とか? 困ってしまってワンワン☆ワワーン♪」

 

 ついに歌われる始末。景朗にはこの言い合いで勝てるヴィジョンが見いだせなかった。

 

「アッハハ! おっ可笑しい~☆ そういえばアナタってば本当に『いっつも困ってる』わよね☆」

 

(てめえも原因のひとつだろ!)

 

「もうワンちゃんでいいです……」

 

 からからと笑う食蜂に対して『よく笑ってられんね』と警策の笑みは引きつっていた。

 彼女には憎き"アレイスター"の、直属の部下が目の前にいるという事実が重すぎるのだろう。

 

 猟犬部隊の猟犬とは。その辺に転がっている逸話をお粗末にかき集めても、相当な無敵で無差別で無体な殺しっぷりの実態が透けて見えてくる化け物である。

 そんなやつがよりにもよって街の権力の頂点に居座る男の比類なき忠犬でもあるのだから。

 然るにアレイスターへの報復を企てていた警策にとって、特大の警戒を設けていた存在である。 

 

「てぇことは……あのハゲッ」

 

 まさかソイツ相手に学園都市への反乱のつかいっぱしりを手配していたとは。

 あのつるっぱげカルマじじいが裏でニヤついていたと思うと、今でも警策の怒りは沸きたった。

 

「ところで、俺は何をさせられるんだ?」

 

「そうねぇ、簡単に言えばぁ、これからぁ……"とある研究施設"に乗り込むから、私たちの露払いをしてチョーだいナ☆ ってこと。静かに迅速に制圧したいのよね。ドンパチは厳禁だゾ☆」

 

「アンタの能力でも足がでそうな警備なのか?」

 

「念のため、よ。ビリビリさんと共闘したときに思ったのよねぇ。彼女の能力ってフィジカルが必要な場面では相当マルチな性能を発揮してくれるものだとタカをくくってたのだけれど、思いのほかガサツで脳筋アルゴリズムだったっていうかぁ☆」

 

「あのぉ、説明する気あります?」

 

「んふ。要するに貴方の方が、かゆいところに手が届きそうってコ☆ト。褒めてるのよぉ?」

 

「……」

 

「ちょっとぉ、返事くらいしなさいよぉ?」

 

「……わおーん。ハァ」

 

「可愛げないわねサイアクー」

 

 GGGGROOOOWWWWL!!!

 

 食蜂の愚痴をかき消すように、突如として景朗の喉奥から肉食獣じみた咆哮が鳴り響いた。

 それは気高き獅子さながらの、生理的な恐怖感を本能に差し込んでくるような、巨大な猛獣を思わせる重低音だった。

 和太鼓をすぐそばで力いっぱい叩かれたときのような、胸の芯から響く爆音。

 その振動は車を物理的に揺らし、2人の少女は反射的に身をすくめずにはいられなかった。

 

「うるっさいわねー! シャラップ!」

 

 無言の警策はというと、"液体人影(リキッドシャドウ)"の媒体を入れているアンプルに無意識に手が伸ばしていた。

 食蜂は安心しろというが、警策の能力は遠隔操作が主体であり、頼りのレベル5たる食蜂だって肉弾戦はからっきしだ。

 タクシーの車内という超近距離かつ逃げ場のない密閉空間で、噂に聞く"猟犬"がヘンな気を起こしたらと思うと。こちらには何も対抗策がない。

 

 弱みを握った、とて。この男が真にアレイスター側に寝返りでもしたら、一巻の終わりだ。

 

「ヒトツ確認なんだけど。ねぇ、コイツにも効くんでしょ? 食蜂さんの能力」

 

「それがねぇ、脳みそまでワンちゃんレベルだからか、効かないのよねぇ」

「絶対言うと思ったソレ。絶対いうと思いましたぁー。何度も同じこと言ってっけどホントはちょっと悔しいんだろ? 人間相手には無敵っていう看板に傷がつくもんね、認めたくないもんね、仕方ないね」

 

「悔しい? いいえこれは哀れみよ。アナタが人間辞めちゃった☆ってエビデンスを突き付けてしまう我がチカラ……なんて現実は残酷なのかしら」

 

「ジョーダンでしょ?! じゃあコイツがッ! もしものときどうやってコイツとめんだよ?!」

 

「ダァーイジョウブだってぇ。このワンちゃんってばホンット見かけ倒しで、幼馴染が意を決して告白したことにもぽけーっとして気づかずに」「おいストップ! ヤメロよ! こんなとこでやめろよ! 吠えるぞ、また吠えるぞ! 力の限り吠えるぞ!」「はいはいわかりましたぁ」「なんで知ってんだよ」

 

「オイ。握ってる弱みってまさかそんな……惚れた腫れたの恥ずかしい秘密とかそんなレベルじゃないよな? ちがうんですよね?」

 

「もっちろん☆ ……あっ、うーん……ええ、もちろんよ」

 

 パチパチ、と食蜂が怪物にウィンクしているのが丸見えだった。

 

「はぁ。もちろん。これでも結構な弱点を握られてるんすよ、そこの年齢詐称中学生には」

 

 景朗と食蜂の両方の顔を見比べて『やっぱレベル5ってイカレてんのね』って表情を浮かべつつ、警策さんはそこで諦めるように深い深いため息をついた。

 

 いたたまれなくなった空気がトリガーとなったのか定かではないが、景朗はそこで唐突に、ある記憶を思い出していた。

 コウザクさんのニオイをどこかで嗅いだことがある気がしていたのだが、それをやっと思い出したのだ。

 

「って、この髪のニオイ、あの時のクッサイッ! ……あ」

 

「は? クッサイ? な、なに、なに?!」

 

 幻生と最後に会ったのは、ツリーダイアグラムが破壊された7月。

 その時に、この黒髪の少女ともすれ違っている。

 拘束服を着ていた黒髪の少女だ。

 外見は見違えているが、匂いは一緒だ。

 少なくとも幻生は、当時からあの反乱を計画していたことになる。

 

 

「あ、申し訳ない。何でもない、なんでもないっす!」

 

「なによぉ突然。ホントにワンちゃんじゃない……」

 

 再三訪れる、沈黙。

 それを破ったのは、今度は警策からだった。

 

「ひとつ、いい?」

 

「なにかしら?」

 

「"ドリー"をコイツに合わせるのゼッタイ嫌だ」

 

「ワタシとしてはむしろ会わせておきたいのよ」

 

「ナゼ?! 断固反対だよッ。会わせておくメリットがわからない!」

 

「このヒト、これでも"妹達"とは浅からぬ縁があるの」

 

 景朗にとっても寝耳に水だった。

 以前会った時もそうだったが、なにゆえ食蜂のクチから"シスターズ"の名前が何度も飛びだしてくる?

 

 どうやらおふざけはここまでのようだ。

 食蜂はすでに笑みを浮かべてはいなかった。

 真剣な目つきを帯び始めた景朗に応えるように、声のトーンを下げて話始めた。

 

「心して。今回の依頼は"量産型能力者(シスターズ)"計画でも最初期に造られたイニシャルサンプルの奪還なの。シスターズの中で最も環境の変化にデリケートなはずだから、相手側に侵入の事実すら気取られずに、完璧に制圧し、磐石な安全を確保してから回収作業を行いたいの。ゆっくりと舐めるように、見分する時間だって必要になるはず。アナタの全力のサポートが必要だわ」

 

 景朗は思考の海に沈みこむ。

 "絶対能力進化(レベル6シフト)計画"からアレイスターの関心は離れているように思う。

 "量産能力者計画"にはまだ末端の使い道がどうにもあるような気配を感じるが、そちらにすら漏れるイニシャルサンプルのクローンとやらには、大した利用価値は残っていないはずだ、と。

 ならば食蜂らの企てに加担したとて、さほどアレイスターの怒りを買わずに済むだろう。

 

「……了解した。たっぷり救助時間を確保できるよう、全力を尽くすよ」

 

「アナタならそう言ってくれると思ってたわ」

 

 

 

 

 幻生と一緒にいたあのときの、ささくれだった警策の面影はまるでなくなっていた。

 

 "ドリー"と呼ばれたクローン少女は、予想を裏切らず御坂さんにソックリだった。

 

 意外だったのはあの食蜂が、3人で輪となってなって仲睦まじく涙を流していたことだった。

 

 能力以外はひ弱なあの少女が、あの木原幻生と真っ向から闘い、この光景をつかみ取った。

 

 なぜだか景朗は、己には彼女たちを見ている資格が無いような気がして。気が付けば少女たちから目を背けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大覇星祭が終わっての、翌々日。

 

 上条はなぜかイタリアへ飛んでいった。

 あの銀髪シスターちゃんも一緒に観光しているんだろうか。

 

 とはいえあのウニ頭さんが不在となれば、昼間から思い切り自由行動ができる。

 

 本当は土御門を捕まえて最近の出来事を根掘り葉掘り聞き出したかったが、ヤツはそんな青髪ピアスの思惑を知ってか知らずか学校を当然のごとくサボりやがった。

 

 これでは任務もないのに学校に顔を出した自分が馬鹿みたいではないか。

 先にウニ頭がイタリア旅行中だと説明すればいいものをと憤慨しつつも、小萌先生の授業は泣かれそうでサボれなかった。

 

 

 放課後。しかしまっすぐダーリヤの元へは帰らない。

 向かった先は同じく第七学区のとある喫茶店である。

 

 中学の頃、火澄や手纏ちゃんたちと何度もお茶をした、お馴染みのお店だ。

 

 フランスはパリ風の優雅な街並みを望める、"学舎の園"から最も最寄りのスポットでもある。

 

 

 勝手知ったる店内を進む。片手にはお気に入りの珈琲。ほぼほぼ特等席と化したテラス席へ。

 そんな己の行動をふと改めて省みる。

 この店に来たら毎回、このお決まりのルーティンをぶちカマしているかもしれない。

 

 しかし実はこの日ばかりは、ココで迎える"初めての行動"があった。

 

 

 そう。

 

 さも当然のようにテラスの一席で珈琲を啜るのは、景朗ではなく『青い髪の高校生』だった。

 

 そうなのである。今日はなんと、"青髪ピアス"としてやってきた。

 

 なぜ"青髪ピアス"なのか?

 

 周囲を見渡して、客の様子を観察しよう。

 理由なら簡単にわかるはずだ。

 

 

 その場での"彼"は、ただものではなかった。

 

 いつもは"お嬢様"のご尊顔目当てに一般の男子生徒もちらほら客として混じっているのだが、なんと彼らの注目は、彼女たちではなく、とある異端者に注がれている―――。

 

 

 珈琲の味をしたため、満足げにカップを置き。ニッ、と糸目の青年は不敵に微笑んだ。

 

「またせたね」

 

 今か今かと待ちわびていた少年たちは"青髪ピアス"に駆け寄った。いや、ちがう。ココでは彼はこう呼ばれている―――。

 

「「「"BLAU(ブラウ)"!」」」

 

 もはや学園都市中の男子中高生からリスペクトを集めるに至った"BLAU"としての、堂々とした佇まいがそこにはあった。。

 

 

 

 

 

 注釈を加えておこう。

 ここにきたのはスパイ活動のためである。

 前置きしておくが、決してアダルトグッズ配布のためではない。

 無論"えろポーカー"は懐にある。ブツは大量に持ち込んではいる、けれども。

 

 いやホントに決してそのような下衆の勘ぐりはしないでほしい。

 

 

 今朝、ダーリヤが景朗に報告してくれたのである。

 仕込んでおいた"BLAU"の無料配布会の事前登録者に、ついに"ホシ"らしきものが現れたと。

 (ちなみに『女子児童にアダルトグッズまがいの配布の手伝いをさせるな』というツッコミは景朗の心の中でもみ消されている)

 

 そう、事態はまちがいなく深刻だった。

 ついに"メンバー"の"査楽"が釣れたのかもしれないのだ。

 

 今回は実際に会ってみて"ホシ"が本物かどうか確認する。

 もちろん"クロ"であれば遺伝情報やらナニやらを回収しておく必要がある。

 

 

 ある、のだが……。

 青髪ピアスが横を向けば、目の前にあの"学舎の園"がある。

 

 

 そうだ。配布会はあえてここで行うのだ。

 

 "BLAU"とはそういう決断ができる漢なのである。

 

 あくまでこれは景朗の頭の中で想像する"BLAU"の行動原理なのであり、彼自身の欲求ではないので勘違いをしてはいけない、としつこく言っておこう。

 

 

「お会いするのは初めてですが、貴方の作品はすべて追いかけております! 光栄です!」

 

 

 "査楽"くんは普通に年上の可能性すらあるのだが、鍛え上げられた軍人のように丁重な慇懃さで、景朗はちょっと引きそうだった。

 

「そうかしこまらんでほしい。ボクらは"同志"や」

 

「BLAU...」

 

 そういいつつ手を差し出すと、感激も露わに査楽くんはあっさりと握り返して握手をした。

 

(バカなのコイツは)

 

 これで査楽くんの遺伝情報はガッチリ確保である。

 チョロすぎて逆トラップにかかっているのではないかといっそ不安になってくる。

 

(う、うぅーん。コイツが"メンバー"ってガセじゃないのかぁ?)

 

 むしろガセネタであってほしい気すらするのはどうしてだろう。

 

 ニヤニヤした口元にかすかな嘲笑を混じらせていた景朗だったが、自分も同類だということにはさっぱり気づいていないようだ。

 この場に丹生がいれば『"すけべポーカー"を大量に配り歩いてるヘンタイが"三頭猟犬"だなんてそっちのほうがやってられないんですけど』みたいな言葉のナイフで彼の心臓をズタズタにしていたに違いない。

 

 

 

 

 "査楽"の確認が取れたので、その後はつつがなく集まってきた同志たちに"BLAU"としてエールを渡していく。

 思ったよりノリがいい連中だったので、だらだらと毒にも薬にもならない会話を続けているのも、そりゃあ気分は悪くはなかった。

 

 

 

 これはその最中の、ふとした思い付きにすぎなかった。

 

 『もしかしたらいるかなー?』くらいの考えだった。

 突然始まりだす"BLAU"コールに調子づく己を自覚するとともに。

 店内の匂いや声に意識をトガらせる。

 

 その時の奇跡的な偶然に、景朗は衝撃を受けることになった。

 

 

 

『なんで御坂さんがいるのかしらぁ?』

『こっちの科白よ』

『この機会にお二人に親睦を深めていただこうかと……』

『『無理!』』

 

 

(あ、いる!)

 

 むすーっ、と景朗は荒くひとつの鼻息をついた。

 

(いるじゃん! "ふたり"とも!)

 

 "学舎の園"でのあの"ふたり"といえば、至極当然、彼女たちを差し置くわけにはいかない。

 

 食蜂操祈と御坂美琴がほとんど隣の席で中も悪くお茶を嗜んでいる!

 

 隣の席といってもあちらは隣接するティーハウスの敷地内なのだが、互いの会話が丸聞こえの超至近距離である。

 

 我らと彼女たちを遮るものは敷居替わりのガーデンツリーのみ。

 

 なんというタイムリー。なんという偶然だろうか。

 

 正確には、彼女らのティータイムは3人で行われている。

 食蜂と御坂の間に挟まるように、3人目の少女もいた。

 今時ちっとやそっとじゃ信じられないくらい古風なクルクル縦ロールのツインというエレガンスさだった。

 

 

(なんということだ。こんなチャンスが転がり込んでくるとは……)

 

 

 なにせ今回"BLAU"が持ち込んだ"インディアン・ポーカー"の中身は……あの二人の。

 

 考える間もなく、カリスマSランカーのもとにまた一人、信者…もとい同志が馳せ参じてくる。

 

「"BLAU"! お会いできて光栄ッス!!」

 

 まるで人生初の面接でド緊張のさなかぶっぱなしたダミ声のような大声だった。

 

「もー声大きいなぁ」

 

 しかしこんなにも感謝や尊敬といった肯定的な感情の念を直接的に照射される経験など、景朗の人生でかつてなかったことである。

 自然と"BLAU"の演技にも熱が籠ってしまう。

 

「たッ足りないかもですがッ。これで自分にも譲ってもらえないでしょうか!!」

 

「ええよ…そんなものださんでも」

 

(カードにはトラップ仕掛けてあるし……こっちが気の毒に思うぐらいやで)

 

「自分の夢で幸せを皆に分け与えられる。それだけでボクぁ嬉しいんや」

 

「「"BLAU"…」」

 

「でもほんとたまんなかったッス! 女神っ子クラブ曖璃栖ちゃんのメイドカフェ!」

 

「"BLAU"の夢ならスーパーモデルからバーチャルアイドルまで」

 

「常人には想像することすら不可能な異次元のコミュニケーションが自由自在!」

 

「おお~」

 

「お天気お姉さんの雨月アナとスタジオで結婚発表したり!」

 

「ぽっちゃり系グラドルの富愚射華ちゃんと好みの衣装で濃厚なグラビア撮影!」

 

「あのようなカードを生み出してしまう"BLAU"はまさに神…!」

 

「今晩の事を思うと今から動機が止まりませんッ!!」

 

「学園都市中を"BLAU"の夢が席巻するのも時間の問題かと…ッ!」

 

 

(お前ら……お前らの"BLAU"はそんなもんじゃないんだぜ)

 

 懐にしまったとっておきの"ポーカー"。

 こいつをここで出さずしていつ出すというのだ。

 出し惜しみ? "BLAU"はそんな小さな器じゃないはずだぜ。

 

 景朗を責めないでやってほしい。彼は少々"BLAU"の演技にのめりこみ過ぎていた。

 

(やるんだな、今…ここで?!)

 

 景朗のためらいに勢いよく吠えたのは、心の中の小さな"BLAU"だった。

 

(ああ。勝負は今、ここで決める!)

 

 

「フッフッフ。芸能人だけじゃないんやでぇ。常盤台中学の超能力者二人――――広報CMで顔くらい見たことないか? 二人ともアイドル顔負けのごっつい美少女や」

 

 新たに"BLAU"が取り出した"カード"に、同志たちの視線は釘付けになる。

 

(ああ、これが……与えし者の優越感ってやつか)

 

「"BLAU"まさか…ッ」

 

「第三位の御坂美琴ちゃんは気ぃ強そうやけどな。

 逆にそれを従順に洗脳してネコミミと尻尾付けてからは飼い主としてナデ回し放題!

 食蜂操祈ちゃんはスク水に透明処理してな。

 中学生離れしたすごいスタイルがシースルーなってもうて桃源郷や!」

 

「な…なんという神をも畏れぬ所業……」

 

「怖しい人だ……」

 

「フッ、超能力者もボクにかかれば丸裸や。文字通りな!」

 

「「「うおおおおおーッ! "BLAU"! "BLAU"! "BLAU"! "BLAU"!」」」

 

 歓声を上げる同志たち。鳴りやまない"BLAU"コール。がさがさとガーデンツリーも盛大に揺れている?

 

「乙女の花園で堂々とサバトを繰り広げるなぁッ!」

 

 メキメキャァッ! と制服に葉っぱをくっつけた御坂美琴が庭木の間から飛び出した。

 直後。男子学生たちの目の前は発光で白く染まった。

 

「どあああぁっ!」「「「ぎょわあひぃーっ!」」」

 

 その場に残されたのは、電撃で焼かれたカードの焦げ臭さだけだった。

 

 

 

 

 

 

 しばらく待つと、予想通りに彼女はやってきた。

 

「……で、なんの用だったのかしら?」

 

 気絶して倒れている青髪でピアスの男子高校生に、食蜂操祈は無遠慮に言葉を放った。

 痺れたフリを続ける気の景朗はチカラなく手を振った。

 

「ほらぁ、さっさと立ちなさいよぉ。今日の貴方には本心から近寄りたくなかったのだけど、我慢力全開でこうして出向いてあげてんだからねぇ?」

 

「頼んでたアレは?」

 

「ああ、アレね。このワタシにかかれば朝飯前だったけどぉ、それでも約束通り貸しヒトツだゾ?☆」

 

「了解」

 

 調査結果を受け取ろうと青髪ピアスが差し出した手は空を切った。

 ただ背を向けて、淡々と少女は語った。

 

「答えは"ゼロ"よ」

 

 

 地面にへたりこんだままの景朗は、去っていく食蜂の背を眺めつづけた。

 見返り美人姿を期待する男子高校生にしか見えないようでいて、彼の思考はぐるぐると回っている。

 

 食蜂が答えた"ゼロ"とは、"学舎の園"に紛れ込む"能力主義の冷凍庫(フリッジ)"所属生徒の数である。

 さすがに"能力主義"と兼任できるほどお嬢様たちの派閥争いはヤワな務めではないらしい。

 

 "心理掌握(メンタルアウト)"の調査結果ともなれば、"迎電部隊"の蒼月も納得する報告ができそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9月30日。10月から学園都市は一斉に夏服から冬服に切り替わる。その準備のためか、ほぼ全ての学校は午前中で終わる日だった。

 

 計画的に衣替えの用意をしているものばかりではないので、午後からは平時より人の行き来が増えて通りは賑やかになる。

 

 上条のアホが率直に肩を揉みたいといえばいいのに紛らわしい言葉使いをして吹寄さんにボコられ、なぜかそれに巻き込まれたりもしたが、わりといつものことなので特に印象に残らない日になるはずだった。

 

 しかし、夕方から事態は急変した。

 

 後から振り返れば。

 その日は、あらゆる人物の運命に激変を及ぼした切り替わりの特異点だったのかもしれない。

 

 

 

 

 正午すぎから放課となったのだが、景朗は下校中の土御門を捕まえて尋問に取り掛かった。

 しつこく食い下がったが土御門ははぐらかし続け、結果的に第七学区の街中を2人してブラつくような形になってしまっている。

 

「というかさ、あいつなんでイタリアでも怪我してんだよ?」

 

「あっちは治安が悪いからにゃー。観光客だからって容赦されるわけじゃないんだぜい」

 

「うそつけ、そんなんであいつが怪我までするタマかよ」

 

 悲しいことに学園都市だって治安は悪い。喧嘩沙汰への対処なら上条は心得ているし、そもそも絡んだの絡まれただのの小競り合いではあいつだって流石に怪我をするほどのムチャはしない。景朗とてそれくらいはウニ頭のことを信頼しているのである。

 

「あっちでも外の能力者とやらとやりあったってことでいいんだな?」

 

「船から落ちたらしいにゃー」

 

「前回のテロ騒ぎもなんだろ? というか、お前もそうなんじゃないのか?」

 

「何の話かさっぱりわからんな」

 

「オイ、いくらなんでもそれはないだろ。シラは切れねーぞ、ある程度はこっちもわかってんだからな。テキトーな嘘じゃいい加減、騙されねえぞ」

 

 

 まさに突然だった。

 景朗のポケットから、人間には聞こえない波長の音が鳴り響いた。

 それは暗部の仕事開始の合図である。

 

「くそ、お前といると任務の呼び出しばっかりだな」

 

「それはこっちのセリフですたい!」

 

 当然だが呼び出しに気づいたのは景朗ひとりだけだったが、いつもと同じ反応をした彼のその様子から土御門も察して理解したらしい。

 遅れて土御門のポケットからも振動音が続き、2人は互いに端末を取り出した。

 

「ほらな。やれやれ俺もか。これは来やがったか?」

 

 土御門にも招集がかかったらしいが、なぜ呼ばれたのか予想がついていそうな含みのある言い方だった。

 

「なんだよその反応はよ。何だよ何が来るんだよ? "知ってる"ならちょっとくらい説明しろよ」

 

 

 景朗は"猟犬部隊"の任務で扱っているものを。土御門のモノはおそらく"グループ"とやらのだろう。

 市販の携帯端末などセキュリティが恐ろしくて使えたものではない。

 

 

 <<作戦目標 標的の都市内への侵入を阻止せよ。

    標的 William Orwell(壮年のゲルマン系男性の画像が添付)

   作戦地 MGRS:54SUC78900975(伊豆諸島沖合約25km)

    支援 "剣魚部隊(ソードフィッシュ)"が迎撃地点まで護送する。

    詳細 外壁(カーテンウォール)より外部での迎撃を完了せよ

       兵装および能力の使用自由

       スライスを除く"猟犬部隊"の実働班には別の作戦指示が有り。支援不可。

 

(なんだコレは?)

 

 標的である"ウィリアム・オルウェル"なる恐らくは人間を迎撃するその場所は、アプリが示す地図上では海のど真ん中になる。

 伊豆諸島八丈島から離れた海上。まさしく何もないだだっぴろい海の上。

 謎のロケーションであるばかりか、驚きはそこだけではない。

 

 景朗にとってこれは、学園都市の外で行う初めての任務活動だ。

 

 学園都市の外。外部。外部の敵。一瞬でそこまでは理解する。

 

 

「聞いてもいいか?」

 

「聞くだけ聞いてやる」

 

「"ウィリアム・オルウェル"ってどなたかご存じ? 魔術師ってやつなの?」

 

 サングラスの奥底の瞳が、ぎょっとしたように収縮するのが見えた。

 

「……仕方ない、か。アドバイスくらいくれてやる。今回の任務は過去イチ心してかかれ」

 

「な、おい。もっと具体的にないのかよ。アドバイスになってねえよ」

 

「ふぅー……。強敵だと思え。"超能力者"よりも強敵だと想定して戦え。言っておくが、これは冷やかしなんかじゃないぞ」

 

「それって"第一位"サマよりもか?」

 

「ああ。"第一位"よりもだ」

 

「……」

 

「おい、返事はどうした?」

 

 突如として景朗は表情を豹変させた。青髪ピアスのようにヘタレた笑みを浮かべて、土御門の体に手をまわして肩を組む。

 

「いきなり何だッてんだ気持ち悪い」

 

「あいつが来た。ベストタイミング。なぁおい、どうせ今回も"ケガ"させちまうんじゃないだろうな?」

 

「……NO、とはいえないかもな」

 

 景朗の指さす先から、特徴的なツンツンウニ頭がやってくる。

 第七学区の地下街を真正面から、こちらへと、背中に幼女をのっけた上条当麻が真正面からやってくる。

 いつものシスターちゃんではない。あのウニ頭はまたしても別の女を引っ掛けている。

 

 

 任務の刻限は迫っているが、わずかな猶予はある。

 その前にウニ頭に今夜の予定を聞いておこう。

 

 どうせあの男は、なにか"とんでもないこと"をやらかすにちがいない。

 

 そんな予感が土御門にもあったのだろう。

 

 二人は何気ない態度を装って、上条の方へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 "剣魚部隊(ソードフィッシュ)"なる外洋で活動する暗部部隊と初めて接触したのち、そのまま景朗はUUV(無人潜水機)母艦たるHsSSNV-01「サイレントケープ」に搭乗させられていた。

 

『米国SOSUS(音響監視システム)から得られた情報では、ターゲットは伊豆諸島を経由して学園都市に向かうルートを取っています』

 

 ブリーフィング資料には、オーストラリア辺りから北上する小さな物体の影の進行ルートが地図上にカラーリングされている。

 

『DownWaverは使用許可が下りません。標的の質量が小さすぎるため効果が見込めません』

 

 どうにも信じられないことだが、標的は生身で海上か海中を高速で移動していることになる。

 もう絶対これは魔術師だ、と確信が得られた。

 景朗は持参した食料をガツガツとかきこみ、最後の栄養補給に神経を注いでいる。

 

『展開したHsUUV-02の重力波レーダー探知システムとデータリンク共有完了。"スライス"、発艦の準備をしてください』

 

 潜水艦の指定された区画に到着する。

 HsUUV-02が1機、減圧チャンバー内に用意されていた。

 SDV(潜水兵員輸送潜水艇)モデルにマイナーチェンジしてあるらしく、人間が捕まりやすいフォルムだ。がしっと取っ手のひとつを掴む。

 

「注水どうぞ」

 

 あっけらかんと言い切ると、最後の点検にやってきた"剣魚部隊"の隊員はやや戸惑っていた。

 景朗が本気で普段着のまま暗い海に飛び込んでいくのだと理解すると、彼は戦慄の眼で見送ってくれた。

 

 

 

 

 HsUUV-02はぐんぐんと水中を加速していく。

 景朗はエラを作り、水を吸い込み、"躰"をすこし大きくした。

 海はいい。

 ここは躰をデカくする材料で満ちている。

 

 燃料切れになることはない。

 

 己を鼓舞するためだった。

 誰もいない孤独な海の中で、景朗はわざとらしく不敵に笑った。

 

(外部の能力者め、海で俺に勝てると思うなよ! ここには生き物に必要な"全て"があるッ。ここでならいくらでも本気が出せる――――俺の独壇場になるかもな!!)

 

 

 

 

 海の中は時間の感覚に乏しかった。

 通りすぎていく美味しそうな魚を時たまつまみ食いをして、質量を稼ぐ。

 

 そんな退屈な時間は唐突に終わった。

 UUVがふわりと浮上を開始した。

 やっと敵とのご対面だ。

 

 

 

 

 水面下から海面を通してようやく見え始めたシルエットは、何かを振りかぶっていた。

 

 景朗はUUVを蹴って身を翻した。

 

 自動車サイズの金属塊と金属塊が猛スピードでぶつかったような、空気の軋み。

 猛烈な水しぶき。

 

 景朗が完璧に破壊されたUUVの上に着地する一挙手一投足を、どこぞの聖書でうたわれる救世主のように、"水面に直立する大男"はただ黙って観察していた。

 

 

「ウィリアム・オルウェル?」

 

「如何にも」

 

 どこか興味深そうに嗤う大男にもこれまた不敵な笑みが見受けられた。

 すくなくともそれは景朗のように、己を勇気づけるための空元気ではなさそうだ。

 

「あっそう。ところで俺は"猟犬"。あんたの敵だ。相手をしろ」

 

「……」

 

 今度はしっかりと景朗にも理解できた。男は楽しそうに笑っている。

 そこに殺伐とした緊張などどこにもない。

 なにか面白いおもちゃをみつけたかのような、純粋な発見と知的探究心だけがそこにあった。

 

 明確に舐められている。

 

「なんだよポロシャツ。怖気づいたなら白旗揚げろ。あんたにとってはラッキーなことに、殺せとは言われてないんでね」

 

「ふふ。大海を知らんとはこのことだな、小僧」

 

「大海は俺の味方だ。ここには何一つ不足がない。俺の言ってる意味があんたにゃわからないだろうけどな、ははッ! 今にわかるぜ、海では俺に勝てないってな」

 

「ふ、ふふははッ。貴様の飼い主は貴様に何を狩れと言ったのだ? 全く持って興味はないが、哀れを誘うのである」

 

(……確かに、こいつを殺せ、とは言われていない。……なぜ、だ?)

 

 直感ではっきりと悟る。目の前の男は一等級の危険人物だ。

 今となっては『殺せ』と命令されなかったのが不思議でしかたがなくなってくるくらいの。

 

「その身に宿る魔力、俺に匹敵するかもしれん。"天使の力(テレズマ)"ではなくとも、"聖人"に匹敵する魔力の持ち主がまさか学園都市に居ようとはな」

 

「わけのわからんこと言ってんなよ。警告はしたぞ。死にたくなきゃちゃんと命乞いしろよオッサン」

 

「坊主、私の"通り名"くらい教えられなかったのか?」

 

「そんな必要あるのかよ」

 

「教えてやろう。"後方の水(アックア)"である」

 

「水?」

 

 突如、不自然に大波が爆ぜた。遥か真下の海面から迫るが、たかが波だ。

 そんなものにいちいち構う必要はないとばかりに、景朗はUUVを蹴って反動をつけ空中を滑った。

 着水するわずかな間に能力を使ってヒレや水かきを生み出し、波の上を駆ける。

 

 まずは小手調べに大男に一撃をくれてやるつもりだった。

 

 だがそこで、ありえないことがおきた。

 "超能力者"となった景朗にとって、それまで水場はホームグラウンドも同然だった。

 やもすれば地上を疾駆するよりも居心地の良い空間たりえた。

 

 それほどのアドバンテージのはずだった。

 しかし次の瞬間。

 

 "悪魔憑き"は生まれて初めて、溺れるという体験を知ることになった。

 

 

 景朗は知る由もなかった。

 "アックア"はその名のごとく、直径2キロの範囲で質量5000トンの水を小手先で操る。

 海をホームグラウンドとするのは、"悪魔憑き(キマイラ)"だけではなかったのだ。

 

 

 大海に、途方もない"穴"が空いていた。

 暗い暗い深海へと真っ逆さまに流されていく。

 

 なにもワープやテレポートなどという魔法を使われたわけではない。

 アックアはただ"水"を操るだけで、瞬きをする間に景朗を、深海数千メートルの絶界へと叩き込んだのだ。

 

 

 

 

 

 

 "剣魚部隊"と連絡がつかなくなっている。

 

 さきほど"アックア"が生み出した数キロ四方の超巨大渦流は、周囲のUUVを根こそぎ破壊してしまったらしい。

 

 もしかしたら母艦のほうすらも。

 

(くそ! 追いつけない!)

 

 信じられない。奴は人間の形をしたその身一つで、航空戦闘機にも迫りそうな亜音速で海上を滑っていったのである。

 

(ふざけやがって、魔法かよ! ちがう、"マジュツ"か?!)

 

 海の中で大王イカやクジラを捕食して海面にあがる。

 いつまでも海水が景朗にまとわりつく。

 空を飛んで追いかけようとするが不可能だった。

 

 大きなシャチになってアックアを追跡する。

 超能力者のプライドにかけて、筋肉を動かす。

 取り込んだ水をジェット機のエンジンのように噴き出してスピードを上げる。

 

 気が付けば、肉体と海水の激しいぶつかりによって周りに気泡と衝撃が絶えず発生し始めている。

 キャビテーションが発生し、水との摩擦による抵抗力は薄れていくが、同時に生じる壊食で肌が壊れていく。

 すぐさま再生させているが、これではまだ効率よく水中を進めていない。

 

『鱗を纏え』

 

 それは突然頭の中に現れた発想だった。そう、すぐ隣で誰かが教えてくれたような。

 

 自力で思いついたアイデアなのかどうかもわからない。

 そこに意識を割く余裕などなかった。

 

 このままでは任務に失敗する。そうなれば大切な人が見せしめにあう。

 その恐れが、"囁き声"を受け入れる抵抗感を失わせていた。

 

 "囁き"に従った。

 壊れない鎧のような鱗を、躰中にまとわせる。

 

 背びれ、尾びれ、胸びれ、口先、動きを阻害させることなく、しかし体表の全てを覆わせていく。

 

『泡を纏え』

 

 囁き声が、だんだんはっきりと大きくなる……。

 水中で高速移動する。そのために、スーパーキャビテーションを、利用する。

 

 暗闇の中でも、その異音だけは響き渡った。

 

 "竜鱗を持った大鯨"は爆発さながらの気泡に包まれながらも、深海を切り裂いた。

 

 空を席巻するミサイルにも負けぬ轟音で、水中を自由に潜行している。

 

 

 "悪魔憑き(インヴォケーション)"が呼び出すは、海の怪物たる地獄の大侯爵。

 

 アレイスター・クロウリーが名づけたるは"甲鱗の鯨(フォルネウス)"。

 

 招いたものに、知恵の大海を垣間見せる。

 

 そもそも[キャビテーション]という言葉も知識も、景朗は最初から知らなかったのだ。

 

 実際に、スーパーキャビテーション魚雷というものがある。

 従来の魚雷より数倍の速さで水中を進む兵器だ。

 

 キャビテーションというのは、水中で高速移動する物体の周りでみられる、圧力変化によって気泡が生じる現象だ。水の摩擦よりも空気の摩擦のほうが弱いので、うまく利用できれば、水中でより高速に移動できる可能性がある。

 だが、デメリットも当然ある。激しい気泡の動きは極めて破壊的であり、それに晒された箇所は、たとえ金属の装甲でもボロボロに壊れる場合がある。

 

 このデメリットを克服し、活用する技術はスーパーキャビテーションと呼ばれている。

 

 

 "アックア"が水上を飛ぶのであれば、"フォルネウス"は彼を打ち落とすミサイルになればいい。

 

 直に近づく。近づいている。あの男の背に、到達する。

 

(そうだ……)

 

 近い。いつになく、悪魔のささやきは近くで感じられる……。

 

 "使う"たびに、"降ろ"すたびに、"憑く"たびに。

 

 "彼ら"の"息づかい"が、背中から距離を詰めて忍び寄ってくる……。

 

 この恐怖は、気のせいなんかじゃない。

 

 悪魔を降ろすと、集中を維持するのが困難になる。

 気を抜けば"乗っ取られる"。

 本質的に、奴らのほうが存在が巨大なのだ。

 

 

 だめだ。集中しろ。任務を達成しろ。

 

 まだ奴に見限られるわけにはいかない。

 血も涙もないアレイスターの猟犬に成り下がってしまったのだと、もはや自分は認めている。

 そこから脱するために。今、あのもやし野郎に切り捨てらるわけにはいかないんだ。

 

 そのために、あの男を、アックアを、殺せ。殺せ。殺せ。

 殺すのは好きなんだろう? 悪魔!

 

「Vmoooooooooooooooooooooooooooooooooooooo....!!!!」

 

 

 水中から急浮上し、"甲鱗の鯨"は文字通り魚雷となって"アックア"の背に突撃した。

 海獣の額には、怪しく輝く一角獣のごとき鋭い角がそそり立っていた。

 

 

 直後。巨大な"爆発"が闇夜に響き渡った。

 

 はるかな重さを持つ物体同士が、真っ向からぶつかったのだと誰しも一瞬で悟れるような。

 まるで空をゆく2台の旅客機が、正面衝突して爆散したかのような、身のすくむ轟音。

 

 火花こそ散ったが、その"爆発"には炎がなかった。

 しかし爆音と衝撃波だけは、その質量と質量のせめぎあい、運動エネルギーのぶつかりあいの大きさを周囲に知らしめている。

 

 "アックア"はまったくもって無事そのものの姿で、海面に足をつけた。

 機敏に反応し、どこからともなく取り出した巨大なメイスで"甲鱗の鯨"を薙ぎ払っていたのである。

 

 ブゥゥゥゥゥゥゥン、と今なおたわみと振動を残し、にぶい音を立てるソレを大男は構えなおした。

 金属の塊でできたメイスは、彼自身の体躯よりもよほど巨大だった。

 そいつが軽々と振り回されるその構図は、大真面目に説明するほうがいっそばかばかしくなるほどのアンバランスさだった。

 

 

「第二ラウンドだな、小僧」

 

 返事などなかった。

 人間を相手に投げかけたつもりの言葉だったが、それを言い切らぬうちに海獣の咢が"アックア"の目前に迫っていた。

 大型ナイフほどもある乱杭歯でフチどられ、しかしてぽっかりと空いた口腔は、"神の右席"随一の偉躯を誇る"アックア"ですら小さくみえるほどだった。

 

 

 

 

 

 景朗は"悪魔の力"を過信していたのかもしれない。

 "魔術師"の男はこれまで戦ったものの中でも、アレイスターを除いて随一の戦闘能力と戦闘経験を兼ね備えた傑物だった。

 

 おまけに、海上での戦闘が得意なのは相手も同じだったらしい。

 

 いくつかの衝突で、男はメイスを攻撃に使うのをやめた。

 純粋な力比べでは劣っていることを把握し、メイスの堅牢さを頼りに景朗の牙や角を防ぐだけにとどめていた。

 そのかわりに男は巧みに水を操って時間を稼ぎ、何かしらの"細工"をした魔術で、悪魔の能力を得ているはずの景朗を痺れさせてきた。

 

 その事実に驚愕して焦燥を募らせる景朗に対し、一方で男のほうも幾度"光の輪"を受けても未曾有のタフネスを見せて追従する海獣に、歯がゆさを感じてはいたようだった。

 

 

「マ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛デエ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!」

 

 であるものの、奴が何よりも優先したのは"学園都市"へ向かい続けることだった。

 わずかばかりに稼いだ時間で、"アックア"はその度に学園都市へと距離を詰める。

 どうやら景朗との戦いの決着よりも、時間を気にしているようだった。

 

 

 大男は"甲鱗の鯨"から受ける攻撃をときおりメイスで、ときに変幻自在に形を変える水で防ぎ続けた。

 

 遠くにちらちらと灯台の明かりが見えだしたことから焦っていたが、今ではすでに都市の細やかな光が視界に入っている。

 

 "悪魔"に意識を半分ほど占有されてしまった脳ミソでは、どれほどの時間を追跡に費やしたのかおぼろげだ。だが陸地までの近さは、すなはち学園都市までの近さだ。

 景朗の任務はアックアを街へ入れないこと。任務失敗の文字が浮かびつつある。

 

 

(水を操る。水流操作に似た能力。今まですべて水しか操っていない。それなら、水じゃなくてコレなら!)

 

 景朗は水中移動する間にも、小さなプランクトンなどを捕食し続けていた。

 ある物を体内で生成するために、もっともっと栄養が必要だったのだ。

 その成果が、ついに結実した瞬間に。

 

 Vmoooooooooooooooooooooooo!

 

 "甲鱗の鯨"は潮を吹くように、無色透明の油液を射出した。

 それは海水でもなく、彼の血潮でもなかった。

 

 びらん剤(化学兵器)として有名なものにマスタード・ガスがある。

 炭化水素は微生物から取り出し、硫黄も塩素も海中から必要量は確保できる。

 

 景朗はこれを体内で精製した。

 

 必要な知識はどこからともなく湧いてきた。

 存在すら知らなかったものを、まるで歴史ごと頭に刻み込んだかのように。

 

 毒ガス史上1番多くの命を奪ったことから化学兵器の王様とも呼ばれているこの殺傷兵器は、水中で分解される。

 今なら、まだ、周囲にあの男ただ一人。

 

 "アックア"の生死などかまうものか。

 任務を達成できなければ、景朗の知人はおぞましいペナルティを受ける。

 

 

 

 噴出されたマスタードガスを、"アックア"は無数の水の分身を作り出して回避した。

 

 景朗が奥の手を使ってきたのだと、その鋭すぎる戦闘経験から理解したのかもしれない。

 だからこそ、あの男にとっても奥の手である水の分身で対応してきたのだろう。

 

 大男の形をした水の塊は、目の前に数百を超える。

 

 その時、まさしく。"甲鱗の鯨"の眼の色が変わった。

 

 赤外線をたどれ。可視できる光の波長域を拡大し、サーモグラフィーに変える。

 

 

 数えるのもばからしい数百の分身は、しかし海水の温度と対して変わらない。

 そのなかに唯一、人肌の温度で映る立体があった。

 

(オマエカ)

 

 

 Voooooooooooooooooooooooooooooooooooo!

 

 

 

 吠えた鯨は、額の噴出孔だけでなく喉奥からも大量のマスタードガスの油弾を放った。

 上空で爆発したそれは大量のしぶきをバラマキ、一部が確実に"アックア"に命中した。

 

 

 仕留めた、と思った。しかし、たったひとつの"本命"かに思えたそれすらもデコイだった。

 "アックア"は景朗の能力など知らないはずである。

 温度をエサに罠をはったその読みの鋭さはいったいいかなる術をつかったのだろう。

 この相手の戦闘勘の良さは、今まで戦った中で随一だ。

 

 

 不意をつくように、真上に位置どっていた"ただの水塊"が突如として色づき、男の姿を取った。

 振り上げられたヤツのメイスの先からは、不自然なほどに虹色の火花が散っている。

 

(カウンター!)

 

 "鯨"は反射的に迎撃した。それはすばらしい反応速度であり、アックアの攻撃よりわずかに先んじて、全身の筋肉を使って曲げられた尾ビレは圧倒的な破壊力で迎え撃った。

 

 "アックア"の口元にゆがんだ笑みがあったきがしたのは、気のせいではないだろう。

 

(舐めるなッ死ね!)

 

 

 これほど"アックア"と接近できたチャンスを逃すわけにはいかない。

 もうひとつ用意していた罠を炸裂させる。鯨の岩肌のような鱗には棘が無数にあるが、これは飾りではない。

 パァンパァンパァン、と。

 鯨の体表のあらゆる箇所から、拳銃の発砲音にも似た小さな爆発が無数に生じた。

 それらは毒液が滴る鱗の棘が全方位に射出された音だった。

 

「ちッ!」

 

 "アックア"は苛立ったようだ。おそらくはいくつかがヤツの体に刺さったはず。

 しかし男は驚異のタフネスさを見せた。

 倒れない。一般人なら一瞬で昏倒していなければおかしい。そういう毒を使ったのに。

 

 針衾を抜けた"アックア"は器用に体を動かした。

 ぶつかる直前でメイスは横に倒され、男はそこに足を乗せた。

 

 轟音。さりとてそれは、残念ながら男を討ち取った音ではない。

 

 打ち上げられたホームランボールのように、人影は勢いよく空中を飛んで行く。

 無数の明かりの方へ。すなはち陸地へ。

 

 

(逃げられた)

 

 VGaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!!! Moooooooooooooooooooooohhh...

 

 いらだちまぎれに鯨は吠えた。

 "追いつくころには、ヤツは陸地にたどり着く。

 

 

 ヤツは何者!? ヤツは何者だ!? ヤツは何者なんだ?!

 

 そのあまりの移動スピードに、"悪魔憑き"を成したままでなければ景朗の能力だけではきっと追いつけなかった。

 

 外部勢力にもあれほどの能力者がいたのか。

 その事実に景朗は混乱する。

 そんなやつらが学園都市に何をしに向かう?!

 

 口惜しい。もっとこの"鯨"のチカラを使いこなせていたら。

 

 

 景朗も"アックア"に続き、全速力で陸地に身を乗り上げた。

 

 遠くなる意識と軋む躰を無視して、"甲鱗の鯨(フォルネウス)"を"羽狼蛇尾(マルコシアス)"に無理やり切り替える。

 

 街に近づいたせいだろうか。うっすらとどこか遠くから、人の叫び声がいくつもいくつも聞こえてくる。小さな悲鳴は数えきれないほど多様にあって、なぜだかそのどれもが景朗を無性に惹きつけた。

 

 かぶりを振った。

 ここで一息ついてしまったら。

 そこで自分は動けなくなる。

 

 無理がたたっていることを自覚しつつも、それでも景朗は押し通した。

 

 さきほどアックアに食らわせた毒の棘には、追跡用のトレーサーになるニオイ分子がたっぷり付着している。

 ヤツがそのことに気づいても、適切に処理できなければどれだけ逃げようとも無駄だ。

 かならず追いついてみせる。

 

 祈りが通じたのか、海岸で"アックア"の臭いをつかむことはできた。しかし、男の姿はどこにもない。逃走した形跡が海岸には残されていた。

 

(毒が効かない。治した? 魔術はこんなにも簡単に、初見の毒にすら対処できんのか?!)

 

 手がかりとなるニオイは繁華街へと向かっている。

 繁華街にでも逃げ込まれていたら、短時間での追跡は困難である。

 

(街で俺を巻くつもりか? だがそれは遠回りだぜ)

 

 ヤツの目的地はとうにわかっている。

 

 学園都市で待ち伏せてやる。

 

 先回りすべく、背中の羽をはばたかせた。

 大地と中空を駆けて、"悪魔"は亜音の速さで故郷へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音速に並ぶ。

 羽ばたく音すら置き去りとなる。

 

 aaaaaahhhh...

 

 だというのに、なぜか聞こえる声があった

 気のせいではない。はっきりと聞こえるのだから。

 

 必死で否定したくとも、やはり難しかった。

 

 学園都市に近づくほど、つまりは景朗が殺人を犯した場所へと近づくほどに。

 

 かすかな悲鳴たちははっきりと存在感を増して、景朗の脳に届いてくる。

 

 聞き覚えはあるか? そう自問自答したのが間違いだった。

 

 聞き覚えはあった。

 

 ああ。悲鳴はどれも、かつて、1度は自分が耳にした声なのだ。

 

 

 死者の悲鳴だ。

 

 すでにこの世にいない人たち。

 自分が手にかけた人たち。

 

 だからこそ、"分かる"。

 

 直観はもはや確信に変わりつつある。

 

 

 しかるに事実として受け止めたあとには、"なぜ?"がやってくる。

 

 

 なぜ、悪魔と一体化したときにだけ、悲鳴が聞こえるのか?

 なぜ、悪魔と一体化するたびに、悲鳴は鮮明になっていくのか?

 

 

 脳内で創り出した幻聴か? 

 音をつかむ神経を失活させても、世界は無音になってはくれない。

 これは現実の音ではない。

 

 

 悪魔はどこからやってくる?

 悪魔はどこにすんでいる?

 

 

 悲鳴の正体に気付いたからこそ、その疑問の行先に見当がつく。

 

 

 "悪魔"の住処は、この無数の"悲鳴"と同じ"場所"なのではないのか?

 だから悪魔を降ろしたときにだけ、悲鳴がきこえるんじゃないのか?

 

 

 

 

 だとすれば。

 だとすれば、このチカラ(悪魔憑き)はもう使っちゃだめだ。

 

 俺は近づいている。

 あの"場所"に近づいている。

 

 使い続けて、使い続けて、もし、もし。

 

 悪魔と一体化していないときにも、あの声が聞こえるようになってしまったら……。

 

 

 

 

 

 

 

 学園都市が眼下に迫る。帰ってきた故郷は異様な空気が立ち込めている。

 街の中心からだろうか? 街はいつもとはちがう光を帯びている。

 

 その正体は知らない。魔術師がしでかした攻撃なのかもしれない。

 

 わからなくとも、飛び込んで、守らなくちゃ。

 街にはあいつらがいるんだから!

 

 声など気にするな! 今は気にかけなくていい!

 

 危機に陥っているあいつらを助けるほうが先決だろう?!

 

 

 

 

 "羽狼蛇尾"は空を走りぬき、外壁を超える。

 

 "アックア"はすでに中に侵入してしまったのだろうか?

 

 自分は間に合ったのだろうか?

 

 この眼で確認しなくては。

 

 そう思ったからだ。

 

 

 

 だが"街に入ろう"とした。

 

 その景朗の判断は、結果的に重大なあやまちとなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 木原数多はすでに打ち止めにウィルスを注射しおえており。

 

 学園都市では、前方のヴェントと上条当麻の戦いが佳境を迎えていた。

 

 風斬氷華は天使の羽を生やしていて。

 

 むしろこの状況の説明ではヒューズ・カザキリと呼ぶべきか。

 

 

 ヒューズ・カザキリ。人工天使。これが景朗にとって最悪をもたらした。

 

 顕現した人工の天使は、存在そのものが"界"全体に術的圧迫を加えており、魔術師は魔力の循環不全を引き起こす。

 

 この"界"の影響により、学園都市周辺に展開していたローマ正教の魔術師たちのほとんどは昏倒しており、魔術師の最高峰たる"神の右席"ですら思うように魔術行使ができなくなっている。

 

 

 "界"は景朗にももちろん影響した。むしろ凶悪に作用した。

 

 景朗は"悪魔憑き(インヴォケーション)"という魔術を行使しているが、魔術師ではない。

 魔術を使っているという意識もなければ、魔術体系の知識すらもっていない。

 

 されど、アックアが述べたように、彼にはその隔絶した生命力から生み出され、聖人すら凌駕しうる大量の魔力があった。

 

 "悪魔"はこの大量の魔力を活用している。それが空想の力の原動力だ。

 

 しかし、ここに来て景朗はなんのプロテクトも持たずしてヒューズ・カザキリの"界"に被爆してしまったのである。

 

 

 "悪魔"が利用していた魔力。体に充満していた魔力。瞬間的にその全てが循環不全を起こした。

 

 景朗の躰は膨大なエネルギーの開放を抑えきれず、無様に爆散した。

 

「ぷごぁッ!」

 

 

 いくつかの肉片へとバラバラに分解して、それまでの勢いのままに。

 第二十三区の高層ビルに衝突して、血まみれの染みをつくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ、ぅああッ!」

 

 がばりと飛び起きた。かつて忘れていた感覚だった。

 意識を失うなど、"超能力者"になってからは無縁の感覚だったのだから。

 

「おわっ、大丈夫かスライス」

 

 身体はすでに再生されている。

 猟犬部隊の同僚ヘンリーが近づいてきたので、無意識に覚醒しただけらしい。

 

「どう、なった? どうなった、どうなってる!」

 

「おちつけ。全部終わった。事態は一段落ついてる」

 

「おわった? おわった? おわっちまったのか……」

 

 任務に失敗した。

 アレイスターの指令に、応えられなかった。

 

 最悪の状況だ。

 

 

「ヘンリー、貸してくれ、お前の端末、俺が渡したやつ、貸してくれっ」

 

「あぁもう、ほらよ」

 

 

 ダーリヤに急ぎ連絡を取る。みんな無事か。それが知りたい。

 メッセージは、なぜか丹生から返ってきた。

 

『ダーリヤが気絶しちゃったんだけど、ひとまずみんな無事だよ!』

 

 丹生はなんの事を言っているんだ? ダーリヤが気絶? 襲われたのか?

 

『街で暴れてたテロリストのことだけど、ほんとに知らないの? 警備員が無力化されてて大パニックになってるでしょ?!』

 

「なんだそりゃ、ヘンリー、教えてくれ! 何が起きてる!」

 

「だから落ち着けって! その前にお前は今すぐいかなきゃならない。"呼び出し"だよ! "上"からのな! 急いだほうがいいんじゃないか?」

 

 

 ヘンリーが持つ"猟犬部隊"の方の端末には、"猟犬"を回収して連れてくるように指示が下っている。

 すなはち、"アレイスター"のもとへ。

 

「……わかった。今すぐ行こう」

 

「車に乗れ」

 

 "猟犬部隊"の車両で、第七学区、窓のないビルの近くまで急行する。

 道すがら、ヘンリーは状況の説明をしてくれた。

 

「"猟犬部隊"のウェットチームは壊滅。木原数多も"第一位"と交戦して死亡……なんじゃそりゃ……」

 

「オレはこないだのお前のまきぞいでついに裏方に降格しちまってたから、逆に命拾いしたんだよ」

 

 しかし、ヘンリーの会話は頭に入ってこなかった。

 

 結局のところ、"アックア"ことウィリアム・オルウェルは学園都市に侵入してしまっていたようである。

 

 アレイスターは、任務に失敗した景朗をすぐさま呼び出した。

 どんなペナルティが待ち受けているのだろうか。

 

 ことによっては、命掛けの交渉になる。

 

 第七学区、窓のないビル。指定のポイントには座標移動(ムーブポント)の結標淡希が先に待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありませんでした」

 

 土下座などこの男に意味があるとは思えなかった。それでも景朗は頭を垂れて、深い謝罪を口にした。

 

「もういちどチャンスを与えよう」

 

 水槽の中で逆さに浮かぶ男は、表情もなく淡々と告げた。

 

「ありがとうございます」

 

「"猟犬部隊"は解体する。だが君には継続して作戦についてもらう」

 

「了解、しました」

 

「第一級の秘密作戦だ。君をわざわざここへ呼んだのはその説明のためにほかならない」

 

「秘密作戦ですか?」

 

「今回のテロで宗教サイドとの戦争が確定的になった。君には戦争開始時に、極秘裡の作戦を遂行してもらう。君に拒否権はない」

 

 

 景朗の眼前にホログラムが浮かび上がった。

 外部に持ち出すことすら禁じる汚れ仕事(BlackOps)だということだ。

 

 

 表示された資料をみて、景朗はこぶしを静かに握り締めた。

 

 

 作戦内容は、ロシア国内への潜入工作。

 ロシア各地の原子炉の破壊。

 ロシアの内政を崩壊させ、戦争の中止を助長する。

 宗教サイドとの戦争が勃発すれば、直ちに実行される。

 

 

 民間人の推定被爆者数および被害者数は、数万を余裕で超えていた。

 

 

 

「任務の委細、承知したかね?」

 

 

 アレイスターは静かに尋ねた。さも、景朗がYESかNOか、どちらを答えても興味など向けていないかのように。

 

 

「はい。承知しました」

 

 ペナルティを受けずに済んでホッとした。

 景朗はそう見えるように、うっすらと微笑んでみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六学区の遊園地区画。ダーリヤと丹生の待つ秘密基地にやっと帰り着いた景朗は、すでに目を覚ましたダーリヤの姿をみて、安堵のため息をついた。

 

「丹生は?」

 

「おフロ入ってる」

 

「そっか」

 

 ダーリヤはまだ本調子ではなく、ソファに座ってぐったりとしている。

 

「ウルフマンは何があったの?」

 

「あー、まあ、長くなっちまうぜ。体は大丈夫か? 明日にしようぜ?」

 

「いまきく」

 

「わかったわかった。じゃあまず、なにか飲みものでももってくるよ」

 

「こーらがいい」

 

「あいよ」

 

 

 改造した喫茶スペースへ。

 バーカウンターへと移動して自分用に珈琲を淹れつつ、ダーリヤのものも用意する。

 

 ビーカーに入れた水。沸騰させると浮かぶ泡が、さきほどのアレイスターの水槽と重なった。

 

(俺が喜んでYESと答えると思ったのか?)

 

 屈辱だった。

 理不尽の積み重なりが、もはや怒りを通り越して思い出すたびに躰を震わせてくる。

 

 原子炉を破壊したら、周辺の民間人は被爆する。

 数万という規模で。死人だって、生き延びた人だって永劫に苦しむ。

 ダーリヤのような親のいない子供だって沢山できる。

 

(馬鹿だった。馬鹿すぎる。どうやって償えばいい)

 

 今まで数百人を殺してきた。

 それでもこうしてのうのうと生きている。

 だけど数万人を殺すのは良心が痛むからやりたくない?

 

 その差はなんだったんだ。

 

 数万人の命は惜しむけれど、数百人の命は虫けらのように扱っていいのか?

 

 間違いだったんだ。

 

 もうこれ以上間違いは犯せない。

 

 何があっても。

 

 何があっても。

 

 

 珈琲を入れるために、ずらりとならんだコーヒーサイフォンの一つに手を伸ばす。

 

 ガラスの容器は、何度だってあの時の屈辱を景朗に思い出させてくる。

 

(俺はへらへらと笑って、あいつにYESと言ったんだ……)

 

 

 

 

 

 

 ガラス類が大量に割れる、すさまじい破壊音が吹き荒れた。

 

 近くにいたダーリヤは驚きで飛び跳ねて、すぐさま駆けつけてきた。

 

 ウルフマンが好き好んで集めていた、コーヒーを淹れるための道具が軒並み壊れて散らばっていた。

 

「どうしたのウルフマン!?」

 

「あ、いや、その。飽きたから全部新しいのに買い換えちゃおうかなって」

 

「そんなことのために? まったくもう、うるさいわよ!」

 

「ごめんごめん……」

 

 じーっと、疑うようにダーリヤは見つめてきた。

 さすがに不自然さは隠しきれていなかった。

 

「なぁ、ダーシャ、あれ、やってもいいぜ」

 

 ごまかすように、そして明暗を思いついたかのように、景朗は表情をコロコロかえて言った。

 

「アレって、何?」

 

 景朗は何かを持って、すいっすいっと動かすジェスチャーをする。

 

「ぶらっしんぐ!? いいの?」

 

「なんか気分がのってな。特別に許可する!」

 

「わーいわーい!」

 

 大覇星祭のときにダーリヤは大型犬用のブラシを購入していたのだが、景朗は動物扱いがイヤで、頑として少女にブラッシングをさせたりはしなかった。のだが。

 

「どう? ウルフマン、どう?」

 

「まあ、悪くないかな」

 

 今ではマスティフ犬にも似た大型犬に変身した景朗は、少女の気の向くままに躰を預けて、なされるがままである。

 

「むふふ。ウルフマンのお世話……」

 

 うっとりと毛並みを整え続ける少女の手つきは、景朗の心を落ち着かせてくれる。

 

 

「ダーシャ。俺、決めたよ」

 

「え? 何を?」

 

 

 それから先は、犬となった景朗はほとんど口を開かなかった。

 目をつぶって、ゆらゆらと尻尾を揺らして。

 ダーリヤのブラッシングを心から楽しんでいた。

 

 少女にとっても一日千秋の願いだったのか、飽きもせずにウトウトするまで景朗の躰をなでてくれた。

 ぽつり、とその終わり際に、彼は静かに呟いた。

 

「いい思い出になるな」

 

 すぅすぅと眠りこけていたダーリヤから、返事はなかった。

 

 その優しい息遣いを、記憶に刻み込むように。

 大型犬はいつまでも聴き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 あくる日。

 

 景朗は朝一番に、"迎電部隊(スパークシグナル)"の蒼月に連絡を入れた。

 

 内容は簡潔だった。

 

 ただ一言。

 『俺を使え』と。

 

 憎しみの炎で、彼の両眼は熾火のように輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




感想へのお返事を随分と待たせてしまっております。

返信していきますので、気が向いたらご覧下さい。



次の投稿は一週間後くらいに考えてます。
とはいえやれるかわからないので、一週間たって投稿してなかったら
ああいつものか、って思ってください・・・(土下座)

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