とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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episode06:人狼症候(ライカンスロウピィ)

 

師走。今年の暮、降誕祭の期間中。例年と変わりなく、皆が一同に集合して祝いの場を盛り上げた。火澄との一端覧祭の約束をすっぽかしたオレは、彼女に拗ねられ、無視された。いわゆるJCのシカトってやつでせうか。チビどもを味方に付けようとしたものの、奴らはみな火澄"お姉ちゃん"の味方だった。

てな訳で、そこそこに居心地の悪いクリスマスだった。

 

…いや、クリスマスなんてどうでもいいか。心配していた真泥に関してだが、幻生のヤツ、きちんと約束を守ってくれたみたいだ。相手が相手だからとても不安だったが、約束通り真泥は暗部の厄介事から完全に開放された。

そのせいで、真泥は一時期落ち込んだが、今ではわりと元気を取り戻しつつある。これで良しとしよう。

 

 

年が明ければ、いよいよ、"自分だけの現実(パーソナルリアリティ)"の直接的な"拡張"や"強制"を行う、と幻生は宣言していた。現状のプランでは、オレは一方通行(アクセラレータ)とか言う最強の超能力者(レベル5)固有演算式(アルゴリズム)をぶち込まれることになる。

 

相変わらず小学5年から能力強度(レベル)強能力(レベル3)のままだが、これがヤツが言う様に突然、超能力(レベル5)にレベルアップするもんかね。期待してないわけじゃないが、やはり想像しがたい。

 

ただ、まあ、あの黒夜海鳥とやらに再び絡まれた時に、大能力(レベル4)くらいになっていれば、自分の身を自分で守れるかもしれないか。

 

 

 

 

 

年が明けてしまった。長期休暇明けから間も無く、いつぞやの"学習装置(テスタメント)"の開発と同様に、午後から丸々、お馴染みの先進教育局へと駆り出される日々であった。

 

幻生が口にした、絹旗最愛というショートヘアーの小学生にも遭遇した。一目でわかったよ。なにせ、通路の真ん中で、黒夜と口喧嘩を繰り広げていたからな。

今にも暴れだしそうな黒夜と鉄面皮で毒を吐き出す絹旗、彼女らの周囲に張り巡らされた空気の壁に、職員さんたちは迷惑そうにしていた。

 

君子危うきに近寄らず、だ。もちろんオレは彼女たちに見つからないよう、そっとその場を離れた。

 

 

 

"自分だけの現実"の領域(クリアランス)の拡大が試行されている被験者たち。つまりは、何処からか招集された"置き去り(チャイルドエラー)"の"能力者"である。彼らの能力の改善はやはり一朝一夕で成果を得られるものではなかった。今現在、頻繁に実験のやり直しが行われている。

 

なぜオレがそれを知っているのか。答えは簡単だ。その実験のやり直しにオレの脳みそが使われるからな。

 

失敗すると、その場ですぐさま、入植用の"一方通行"の特性値の再演算が行われる。その都度、オレはあの拷問器具に繋がれる羽目になっていた。

当然、その時には、去年の年の暮に苦しんでいた時と同様の頭痛が生じる訳で。以前と変わらない待遇に、俺は怒りを覚えていた。

 

 

 

 

中学二年生でいられるのも残りわずか。桜の開花はまだもう少し待たねばならないだろうか。確か二月の半ばだったはず。その週末は最悪の一言に尽きた。

朝から晩まで一日中強制偏頭痛の重労働が課せられるわ、黒夜海鳥に絡まれるわで。

 

 

実験と実験の合間の、つかのまの憩いの時間。昼食をとろうと休憩所に立ち寄ろうとした時に、不運にも黒夜に出くわした。いや、正しくは待ち伏せされていた、と推察すべきか。

彼女は一見、気だるそうに壁に依りかかっていたが、オレを目にするとこちらに近づいてきた。

 

「アンタ、相変わらずふぬけた顔してんなあ。所長にさんざん聞かされたが、どう見てもそんな大した奴だとは思えないんだよね。ここのイカれた研究者どもが後生大事にするほどの価値があるとは、とてもじゃないが思えないなあ。」

 

全く。なぜこの娘はこうもオレに敵意を向けるんだろう。それほどまでに、変な噂とやらが広がっているんだろうか。是非とも拝聴させてくれ。誰か教えてよ。

 

…しかし、困ったな。彼女に掛ける台詞を考え付けない。面倒臭くなって、ひたすら黙っていた。その日のオレは疲れていた。きっと相手をするのが面倒くさい、そういう態度を前面に押し出していたのだと思う。

 

「…舐めたツラしやがって。やっぱりさ、この間の続き、ここでやらしてくんないかな?心配しなくとも、命までは取らないからさ。アンタの価値。私にも確かめさせろよ。」

 

そう言って、掌をこちらに向けた。即時に、強烈な空気の壁がオレに衝突した。彼女に攻撃される予感をひしひしと感じていたので、構えて防御する。

壁の圧力は強く、疑い無く一般人が食らえば危険なエネルギー量だったろう。しかし、この程度であれば、オレは何ともない。

 

「あらら。どうしちゃったのかにゃーん?私の力に、耐えるので精いっぱいなのかな?」

 

そちらこそ、窒素でオレの動きを阻害しているだけで満足なんですか、と言わせて貰いたい。そもそも彼女がオレに攻撃する動機は何だろうか。やはり、オレの能力がこの下らない実験の引き金になったから?

 

…そうかもしれないな。"原因"に目の前で飄々とのさばられては、平静を保てなくても仕方がないか。オレの”価値”がどうこういってたしな。

 

「安心してくれ。これ位の風じゃなんのダメージもないよ。」

 

彼女の頬がぴくりと釣り上った。その後、オレの言葉が真実であると悟った黒夜は、ひとまず風の壁を生み出すのを止めた。そして油断なくこちらを睨みつける。この様子だと、またすぐ次の手に打って出てきそうだな。

 

「キミの恨みは当然の感情だろうさ。でもな、こっちだってキミの置かれた状況と大差ないはずだ。恐らくね。学園都市の暗部にずぶずぶと沈み込んで、気がついたらもう、自分ではどうしようもなくなっていた。あいつらには逆らえない。ここにいる誰もが。…そういう訳で、キミには悪いが、これ以上危害を加えようってんなら、こちらも精一杯抵抗させてもらう。」

 

彼女にオレの想いが伝わればと願い、一息で言い切った。供に、実験に巻き込んですまなかったと、申し訳なく思いつつ、黒夜と視線を合わせる。

 

ところが、彼女は掌を治めてくれるどころか、壮絶に顔を歪め、こちらに対して凶悪な憎悪の念を爆発させた。

 

「ああ?オマエ、なんなんだその眼は。まさか、私を憐れんでるのか?…冗談じゃない。オマエみてーな、キンタマ抜き取られた犬が私に同情かよ。やれやれ。本当に殺したくなっちゃうじゃないか。」

 

そう告げ終えるか否や、再び掌をこちらに向けてきた。だが、先ほどのような風塊は襲ってこない。黒夜から溢れ出す殺気は依然として膨れ上がったままだ。彼女への警戒を一層強めるため、能力を本気で発動させた。

 

一瞬の空白の後。かすかな風の流れを察知した。一体何をしているんだ?

 

「さ・て・と。準備完了。あとは首をシメるだけって訳さ。」

 

不穏なセリフとともに、黒夜の口元が愉快そうに釣り上った。すでに何かを仕掛けられたのか?そんな気配は全くなかったぞ。彼女に張り付いた自身はハッタリなのだろうか。わからない。

 

このまままんじりと相手の出方を伺いつづけるのが不安になってくる。痺れを切らしたオレは、自分も動きを見せようと考えた。深く息を吸い込んで、黒夜に飛びかかろうとした。その瞬間。

 

 

いきなりだった。意識の断絶。視界が暗転し、狭まる。あれ…どうし…て……

 

 

体から力が抜けていた。気がつけば、オレは地面に倒れ、伏したまま黒夜を見上げていた。何が起こった?いや、何かされたのか?!

 

ぼうっとする頭に、黒夜の笑い声が響いた。

 

「ひっはははははははは。アンタ、大口叩いたワリにザマないな。もしかして、実戦経験全然ないんじゃない?こいつはとんだ期待外れだったかにゃーん。どうだい、酸素欠乏症(Anoxia)の味は?」

 

思考回路がヒドく単純になっていた。随分と気持ち良さそうに笑っているな。黒夜の子供離れした醜悪な表情を眺めつつ、オレはそんなことを考えていた。起き上がろうともがいてみたが、体に力が入らない。

 

同時に、こんな状況、今までの実験にもあったな、と思い出していた。"プロデュース"の日々を。あの時みたいに、能力の発動だけは持続させてみたら…。

 

そうやって無意識のうちに、能力による身体の活性化だけはなんとか続けていた。これも実験で培った技術さ。真面目に実験材料として頑張っていた、その努力が実ったとでもと言えばいいのか。悲しい話だな。

 

黒夜は完全に勝利を確信し、油断していたんだと思う。徐々に、正常な意識を取り戻しつつあるオレの様子に気づかなかった。

 

そう、オレは、未だに罵り続ける彼女の言葉を、だんだんとはっきり聞き取れるようになってきていた。ついに、意識の覚醒がある準位を超えた。そして一気に、体に力が戻った。

 

そうか。酸素か。オレは上手い具合に、無酸素状態にある空気を吸わされたのか。不覚にも、思いきり深く吸い込んでしまったから、一気に意識をやられてしまったという訳だ。

 

畜生。自分で自分を罵倒せずにはいられなかった。黒夜と喧嘩になったら、今のような攻撃を受けるかもしれないと、前々から想定できていたじゃないか。彼女の言うとおり、これが実戦経験の差ってやつだろうか。完全にオレの注意不足だった。

 

彼女曰く、オレは今無酸素環境下にいるらしい。だが、どうしてかはわからないが、体にはある程度の力が戻っていた。

しかし、この状態も何時まで続くか分からない。女に手を上げるのは気が咎めるが、彼女が油断している今なら、不意を突いて反撃できるだろう。

 

先程は、相手に明らかにわかるほどに、堂々と深く息を吐いてしまっていた。同じような間違いは犯すまい。オレは伏したままの状態で、彼女に飛び掛るべく、タメをつくる。そして、いざ仕掛けんとして。

 

 

吹き飛んだ。オレが。

 

 

油断していた。起き上がろうとしたまさにその時。黒夜とは違う方角から突風が吹きぬけて、倒れていたオレを数メートルほど転がした。

 

「その辺にして置きなさい。彼がこれ以上傷つくと、後が超面倒です。もう既に手遅れみたいですが。」

 

廊下の角から、いつぞや、黒夜と口喧嘩を繰り広げていた少女が姿を現した。オレを助けてくれたんだろうか。

少々手荒だったが、感謝するよ。彼女が空気ごと吹き飛ばしてくれたおかげで、酸素が吸える。

 

気になる黒夜の反応だったが、意外なことに、続投の意思は無い様子であった。ついさっきまで最高潮だったご機嫌を、今度は最低限に不快に塗れたものに変え、新たに現れた少女、絹旗最愛に嫌悪の視線を向けている。

 

「チッ。こっちの方が面倒くせぇって話さ。絹旗ちゃんよ。心配しなくとも、アンタとは実験で白黒着くまでヤらねえよ。」

 

「それには超同意です。あなたとは何回引き分けたか覚えてませんからね。不毛な争いは超ゴメンです。あくまで"今"の状態では。」

 

少女2人の会話中に十分に酸素を吸入したオレは、黒夜の注意がそちらに向いている隙に、音もなく立ち上がった。

絹旗最愛の登場により、黒夜の後ろから殴りかかるのが憚られる空気になっている。そのまま何もせず突っ立っていた。

 

「話が早くて結構。そんじゃ、お優しい絹旗さま、そこに転がってる雑魚の回収、よろしくたの…ッ」

 

既に立ち上がり構えていたオレにようやく気づいて、黒夜は驚いた。そして3人が黙したまま制止する。沈黙の空間。

 

それは、黒夜の舌打ちによって破壊された。興が削がれたのだろうか。最後に忌々しそうに絹旗とオレを見やると、踵を返し足早に立ち去っていった。

 

 

絹旗に目線を移した。助けて貰っておいてなんだが、オレ、この少女にも好かれてる気がしないんだよね。案の定、絹旗最愛は不機嫌そうであった。オレに向ける視線は、その殆どが無関心、そして僅かな侮蔑。

 

「ありがとう。絹旗さん。助かりました。」

 

彼女はオレと目を合わせることすら嫌がった。それでも一応返事は返してくれた。

 

「黒夜海鳥には気をつけろ、と所長さんに警告されていたでしょう。あなたに何かあると、あらゆる人に超迷惑がかかるんで。次は助けません。今後は超気を付けやがってください。」

 

それだけ言い残して、彼女も直ぐにオレから離れていった。どうしてだろう。あんなんでも、黒夜海鳥と比べるとだいぶマシ、むしろ良い子だなって思えてくるんだが。わりと本気で。ちょっと可愛いし。絹旗イイ子だよ絹旗。

 

はぁーあ。踏んだり蹴ったりだったな。オレにドM趣味があれば、最高の一日だったんだろうか。

 

 

 

 

雛祭が終わり、しばらく過ぎた。ぼちぼち、"自分だけの現実"の改良後発組にも出番が廻ってくる頃合いになった。もう少し経てば、復活祭(イースター)の準備で聖マリア園も忙しくなるだろう。

どうやらオレの番はその時期と重なりそうだった。また気分が落ち込む。最近は楽しいことがほとんど無い。

 

 

光陰矢の如し。とうとう、オレ自身の"パーソナルリアリティ"にも手が加えられる。先進教育局の一室。窓のない部屋。白塗りの壁。とことん無機質な空間に、複数立ち並ぶ"洗脳装置(テスタメント)"。

自分の生み出した装置(デバイス)に、自ら実験台になるとは。その光景に、まったくもって、墓穴を掘っている気分にさせられた。

 

幻生のニタニタ笑いを背景に、滞りなく実験開始の算段が付く。幾つか設置された他の"洗脳装置"にも、被験者達が拘束され、頭部をイカついヘッドセットで覆われていた。

 

この頃知ったのだが、彼等はどうやら実際にその度の実験ごとに、簡易的な身体検査(システムスキャン)の真似事をさせられ、綿密に進捗の評価が下されているらしかった。

 

被験者たちはそれを『成績』と呼び、多くのものはより成果を得ようと実験に必死になっている。余りにその『成績』とやらが悪ければ、ペナルティが課せられるという話だ。

 

彼らの真剣に取り組む姿を見て、それぞれ個々人に、やはり"このクソッたれな場所"に踏み留まらねばならない事情が会ったのだな、と心が締め付けられる想いだった。

 

どうやら、オレよりもっと早くに本番の始まった黒夜、絹旗の両名も例外ではなかったようで、彼女たちも『成績』の向上に追われているらしい。

近頃はなお一層黒夜の機嫌が悪かった。窒息させられかけたあの時以外、彼女に絡まれてはいない。

余談だが、話しかけても存在を無視されて、絹旗ともあれ以降絡みはない。

 

 

余計なことを考えている間に、ついに実験開始の合図が聞こえてきた。なんにせよ、超能力者、それも学園都市最強の第一位"一方通行"の演算特性をぶち込まれる訳である。賭けてもいい。ロクなことにはならないはずさ。そして。

 

予想通り、いやそれ以上の凄まじい負荷。激しい疼痛。思考の渦中、ど真ん中で、例え様の無い概念がオレの脳細胞を手当たり次第に引き剥がし、分解しているみたいだ。驚いたな、体中の穴から血が噴き出そうだよコレ。あっという間に意識が朦朧とする。耐えきれず暗転(ブラックアウト)

 

後から聞けば、オレが目覚めるのに小一時間必要だったらしい。記憶が完全に覚醒したのは、その日の実験の終了間際であった。明日からは直ぐに修正が為され、また限界に挑戦していくらしい。

 

限界に挑戦するってなんだよ。オレそんなこと望んでないんだけど。本人の意思を無視して勝手に限界に挑戦されてもなあ。

 

 

 

その後の張付用演算パターンの修正とやらは、これまた都合の良いことに非常に上手く調節されていた。そのため次の日からは延々と、自我崩壊一歩手前、断崖絶壁の淵で敢えてコサックダンスを踊るが如し、謎のドM専用強化訓練合宿が開催される事態となってしまった。

 

今まで幾多の鮮烈なる試練(という名の違法人体実験)を乗り越えてきたオレにも、今回の実験はマゾヒスト養成プログラムとしか思えないものだった。

かような艱難辛苦を繰り返してなお、『成績』が低ければペナルティを負わされるのか。

オレにも『成績』の判定自体は為されていたものの、ペナルティがどうという話は全く無かった。今一度特別扱いと言われた意味を理解したよ。

 

 

オレ以外の他の被験者はもっと過酷なはずだ。噂によると、黒夜は絹旗と比して、『成績』があまり芳しくないという話。

だが、そもそも彼女たち2人の『成績』判定は、彼女たち2人の能力の性能(スペック)向上を相対的に対照比較して行われると聞いている。

それは、例えば戦闘形式の試合の勝敗であったりね。詳細を聞けば、彼女が新たに手に入れた力は、掌から噴出される窒素の槍。人体を容易く貫く出力だとか。それに打ち勝つ絹旗も化け物だな。

 

それに加えて、今挙げた2人は、一週間前に大能力(レベル4)に達したという。大した成果だと思うが、それでも良い評価を得られないのか。

よくもまあ、黒夜はオレに八つ当たりしなかったものだ。そう考えるほど、この実験のストレスは半端ではなかった。誇張なく小学生でも禿げる強度(レベル)だったろう。

 

等のオレ自身は、あまり大した成果を挙げられずにいた。日に日に一方通行の演算パターンに耐えきれる時間が増えていっているのだが。辛いことに、そのままずるずると時は過ぎ、オレは中学三年生になっていた。

 

 

 

 

 

木々が芽吹き、花が咲く季節。新たな出会いの時節、であるはずなのに、ここ数年の俺は毎年煩雑な実験に付き合わされている。小学六年生の春からこれまで、この初春のシーズンは何時だって、薬品臭い地下室に篭りきりさ。

 

 

うちの園は例年と何一つ変わらない。今朝もガキどもが楽しそうに炊事やら掃除やらの当番を話し合っていた。この一年で、オレはこの施設を出ていく。そのことは皆既に知っている。だいぶ前から話していたからな。

 

花華は最近、あからさまにオレに絡んで来るようになって、なんだか可笑しかった。一昨日の晩にも、指を切ったと言って、夕飯の準備中にオレのもとにやってきた。久し振りに「痛いの痛いの飛んで行け」なんていう懐かしいフレーズを聞いたよ。

 

花華も、もう小学五年生へと昇級している。背の伸び具合が著しい年頃だし、精神的にはとっくに第二次性徴を迎えていた。

そんな花華が、顔を真っ赤にして、照れながら「かげにい。指切っちゃった。結構深くやっちゃって、痛くて。だからね…その…久しぶりに、"あれ"やってよ。」なんて言って来たもんだからさ。盛大に笑ってしまったよ。話し方も大分変ったんだ。

皆、体だけじゃなくて心も成長していたんだな。当り前か。

 

 

 

大切な、施設の皆と過ごす日常の中でも、ふと、自身が身を置くアンダーグラウンドな世界を思い出す。

オレが時々、そうやって身の置き所が無くなっていたこと、皆気づいて居たろうな。クレア先生、花華、真泥、火澄、そして一緒に過ごす施設のメンバー達はきっと。家族も同然だったから。

 

四六時中、常に能力を使用して、いつだってフラットな精神状態にしていたら、違っただろうけど。そんなの、こちらからゴメンだった。あそこは、オレの家だからね。勝手な我儘だけど、そう決めているんだ。

 

 

 

 

 

オレの能力が価値を失うか、もしくは、実験の中で命を落とすその時まで。永遠に幻生たちの玩具のままだろうと。そう思っていた。だが、この年の五月。"俺"を取り巻く環境は再び一変した。

 

小学六年の春に味わった、今まで足を付けていた大地が、音を立てて崩れる感覚。人生を狂わす、巨大な運命の奔流。それは、これから幾度となく味わう死闘、闇の中で藻掻く陰惨な暗闘への確かな幕開けだった。

 

 

 

 

 

 

五月の初週だったろうか。その日は実験が始まる前に、幻生に少々発破を掛けられる羽目となった。

 

「この計画も、概ね順調に進展してきたが。やはり景朗クン。私としては、キミにはもっと明確な、実験の成果。もとい、能力の発達を期待したいんだがね。安易に結論を下すことはできないが、現状の首尾から言えば。最も"一方通行"の"自分だけの現実"を模造せしめたのは、恐らく絹旗クンであろうな。」

 

絹旗最愛か。彼女が挙げられたのに、驚きはないな。所員さんたちの間でも話題になっていた。絹旗の活躍に比例して血の気が多くなっていく黒夜の話と合わせてね。

 

「かねてから話していただろう。私はキミの能力に、超能力級の潜在能力(ポテンシャル)を見い出しているとね。もう少し、日々の試みに入念に励んで貰いたいものだよ。」

 

「すみません。おっしゃる通りに、もっと精進して行きますよ。ですが、レベル5級だなんて…やっぱり、持ち上げ過ぎな気がするんですが。」

 

彼は今では、事あるごとに鼻息を荒くしては、オレには超能力(レベル5)級の潜在的資質があるはずだと誇張してくるのだ。

オレは完全に、彼が謀ろうとしているものだと思っていた。いつも通り、相手のことなど微塵も慮っていない様子のまま、幻生は話を続ける。

 

「現状ではな、確かにキミはその器ではないよ。だが、キミには他の能力者にはない、特別な力がある。キミの力の本質は、細胞を自由に創り変える力、そういう類の能力であるはずだ。まだ断定は出来ないがね。

なぜなら、純粋に細胞を遺伝的に造り変えるだけではない、もっと超常的な力もキミからは確認できているからね。いわば、"進化する力"とでも言おうか。その表現がより正解に近い気がするよ。」

 

本当に"そう"だったらどんなに素晴らしいか。生憎と、そんな力の使い方はできそうにない。できるならとっくにやれてるはずだろう?

たしかに、身長に比して、体重が異常なくらい重くなっているけれど。なんと今では、120kg近くあるんだ。身長も平均よりわりと高いほうであるが、異常なことに変わりはない。

 

「最初の"切っ掛け"さえ掴めば、な。自らの殻を造り変える、最初の一歩を。

 

キミの目指す所は、"超能力(レベル5)を発現させる"ことではない。"超能力(レベル5)級の能力を発動する素養を、自ら鍛え上げること"なのだ。いいかね?」

 

無茶苦茶だな。大真面目に言わないでくださいよ…。だが、この人には何を言っても変わるまい。

 

「はい。わかりました。覚えておきます。」

 

「うむ。良い心がけだ。」

 

幻生はオレの返答に首肯すると、他の被験者の様子を確認しに行った。その途中で、常人より遥かに良く聞こえるオレの耳に彼の呟きが入ってきた。

 

「…やはり、"切っ掛け"をこちらで用意すべきだな。"アレ"の投入には、ちょうど良い頃合いだろう。」

 

 

 

 

 

運命が再び変わった日。五月の半ば。土曜日だった。お誂え向きに、その日の天気は最悪だった。薄暗い雨雲が空一面を覆い、雷鳴が鳴り響いていた。豪雨と風雷にまみれ、立ち行く人たちの話し声も阻害される。

 

 

午前中に、所内で黒夜を目撃した。一触即発の棘棘しい殺気を辺りかまわず撒き散らしていた。この頃では、所員も彼女と絹旗の確執を慮り、彼女たちが直面して能力を測定する必要が無い時は、研究室どころか実験日時すらズラしていると聞く。

 

彼女の姿を見たということは、今日は絹旗は居ないんだろうな。どうやら"ハズレの日"だ。この"ハズレの日"には、いらぬ騒動を起こさぬために、能力を使って聴覚と嗅覚を励起させてまで、黒夜との接触を避ける必要がある。面倒だなあ。

 

 

午後からの実験は、普段と所員さんたちの雰囲気が異なっていたように感じた。あくまで個人的な感想であり、推測の域を出ていなかった。そのため、浮かんだ疑問について、誰かにわざわざ訪ねたりもしなかった。

 

"洗脳装置"に座り、所定の拘束具を絞める。頭部全体を覆うデカさを持つ、SF風にケーブルが付随したヘッドセットを着用すれば、後はそばに控える研究員さんに任せるだけである。点滴や電極を幾つも付けられ、毎度の如く注射を受ける。

 

"一方通行"の演算特性、その高負荷に耐え切る時間だけは順調に長くなっている。現状では、調子がいい時でおおよそ20分は持ちこたえられるだろう。

反対に、肝心の能力の性能(スペック)の開花具合はイマイチであり、実験開始以前よりは、僅かながら能力の出力が上っている気がするのだが、検出される数値としては捗々しくないものだった。

 

 

実験開始の合図とともに、能力を程々に発動させつつ身構えた。直後、何度やっても決して慣れない、この実験特有の忌々しい頭痛が襲ってくる。

今日も今日とて、オレの精神と意識とのチキンレースの始まりか、と思いきや。今日の実験は、これまでに無い操作が加えられていたようだ。

 

心臓が大きく跳ねた。それと同時に、まるで初めて能力に目覚めた時のように、能力を安定して使用できなくなってくる。体中が脈動する。脳みそにかつてないほどの疝痛が生じた。

とても耐えきれない。この痛みは危険だと、本能で悟り、躊躇いもなく全ての痛覚を遮断し、同時に脳細胞に対する刺激をシャットアウトしようと試みた。しかし、それも出来なかった。

 

何しろ、能力をコントロールできない。痛みは時間の経過とともに増していた。キリキリと痛む頭脳を駆使して、1つの解決策を思く。能力が安定して使用できないとは言ったが、これは出力が大きすぎて上手く手綱を握れないためである。

 

オレの能力は幸いにも、発動すれば自動で自身の身体の快復・賦活に働く傾向がある。必死に能力を抑えつけて上手くいかないのなら、いっそ、完全に暴走させてしまおう。

 

咄嗟に思いついた試みだったが、なんとか成功した。心拍数や血圧、体温などは、明らかに異常な様相を呈しているものの、意識を支配していた疝痛は徐々に消えていった。

恐らく今のオレは、頭脳に生じる能力の異常を、その異常によって出力の上がった力で押さえつけ、良い塩梅に平衡状態にできているのだろう。

 

 

 

 

 

 

随分と頭痛に煩わされていた気がする。容態がだいぶ落ち着いた頃合に、ふと辺りを見回した。そして驚く。

警報が大音量で鳴り響いている。赤いランプの点滅が目障りだ。第一級警戒態勢(アラート)。既に所員達は皆部屋から絶ち失せ、残った洗脳装置(テスタメント)には拘束されたままの被験者たちが未だに呻き声をあげている。

 

何が起きたんだろう?俺は随分と長い間、意識を朦朧とさせていたようだ。

 

拘束具は一度繋げると、自分では解除できなくなっている。能力はさっきから全開状態である。身体能力も当然活性化していた。

力をこめて、拘束具を弾き飛ばす。直ぐにでもここから脱出したかったが、他の被験者を放っておけなかった。彼らを解放しようとした、その時。

 

 

凶悪な金属の破砕音とともに実験室の頑丈な扉が吹き飛んだ。…いや、よく見れば、扉の中央に大きな穴が空いている。

 

爆発したのか?

 

扉の向こうから足音が聞こえる。嫌な予感がした。そちらを油断なく注視する。ぱらぱらと埃が舞い散り、それに続いて、空洞越しに少女のシルエットが映った。

 

「hがぽうぱおfkj;lじゃgは、がぱおいうfsdjzz」

 

カンに障る、飛び切り不快な笑い声が聞こえてきた。それと同時に、今度はピンクの患者衣を纏った少女が侵入してきた。

黒夜海鳥だ。彼女が笑っている理由がよく分からい。不安だったが、彼女から今のこの状況を聞き出すしかないだろう。いや、その前にとにかくここから脱出したい。

 

「扉、開けてくれたのか?悪いな。すまないが、ここで寝ている他のガキどもを助けてスグに――ッ!」

 

風を切る音が聞こえた。反射的に、真横に飛び退った。

計り知れなく重量感のある物体が、顔のすぐ横を、唸りを上げて通過していった。

耳たぶに亀裂が入り、血が流れ出る。

 

「黒夜。どういうつもりだ、今の。当たってたら、冗談じゃすまなかったぞ。」

 

返事は返ってこなかった。警戒態勢(アラート)だったため、やはりテンパっていたようだ。落ち着いて黒夜の状態を見れば、一目で分かったのに。

彼女は体中、べっとりと血で濡れていた。並々ならぬ殺気を放ち、狂気の視線でオレを貫く。

 

あの攻撃は、彼女の能力だろう。かろうじて音は聞こえたが、姿は全く見えなかった。つまりは、あれが噂に聞く空気の槍か。…非常に拙い状況だ。距離が離れていたから、さっきの一発は奇跡的に避けれたけど。

もしまた撃たれたら、避けられるだろうか…。あの槍は出が早すぎる。唯一の出入り口を彼女が背にしている。

至近距離で狙われたら、どうなるッ…。ただの空気、いや窒素の塊だというのに、あの質量感。直撃すれば致命傷となるだろう。

 

 

黒夜はキミの悪い声を上げながら、ゆっくりと近づいてくる。能力をフル回転させ、彼女の動きに極限まで集中した。数メートル進んだところで、彼女は無造作に歩みを止めた。

止めたように見えたのだ。次に、右手を素早く揚げると、掌を近くにある洗脳装置(テスタメント)に向け―――

 

「待て!やめろッ!」

 

オレの叫び声と同時に窒素の槍が、被験者ごと洗脳装置(テスタメント)を吹き飛ばした。

人体がマネキンのように、錐揉み回転しながら壁に激突し鮮血を噴き上げる。どうみても即死だった。

 

「畜生!ざけんなよッ…!」

 

この部屋に残された人間は全部で4人だった。オレと黒夜と、たった今死んだ子供。そして、最後の1人は、あと1つ残された洗脳装置で意識を失っている。黒夜は生き残ったもう1人に向かって歩き出した。

 

オレは彼女へと、足元に転がっていた瓦礫を投げつけた。しかし、簡単に窒素の槍で撃ち落とされてしまった。黒夜は歩きながら、奇声を上げて無作為に窒素の槍をこちらにバラまいてくる。今見る限りでは、どうやら彼女は掌からしか槍を射出できない様子だった。

 

この時。完全に、黒夜の意識はオレと生きているもう1人に分断されていた。故に、そいつを見殺しにすれば。黒夜が、そいつを殺す瞬間を狙えば。彼女が背にした扉の穴へと無事逃げおおせられるかもしれない。

選択の場面だった。彼女と戦うか、被験者を見捨てて逃げ出すか。猶予はあと数秒。

 

 

 

オレのせいで、本来苦しむはずの無かった人が辛い目に遭っている。そう罪悪感を感じていたくせに。後悔していたくせに。逃げていいのか。

 

彼女が、洗脳装置(テスタメント)で横になっている被験者に向けて手を翳したその瞬間、オレは駆け出した。彼女の背後の脱出口へと。

 

苦し紛れに投げつけた瓦礫を、黒夜は槍で吹き飛ばしつつ、彼女は素早く両の掌をオレに向けてきた。彼女がそのように反応することを、オレは見抜いていた。

先程から、気が狂った様子を見せていたが、オレが少しでも身じろぎして音を立てると、彼女の体がピクリと反応するのを洞察していたのだ。

 

洗脳装置(テスタメント)に乗った生き残りを助け出したくとも、黒夜が近くにいては無理難題だ。助けたければ、彼女を倒すしかない。だが、黒夜の窒素の槍は、余りに出が早すぎる上に、槍自体も目視できない。

しかも、この部屋の中だと動き回れるスペースが限られている。広い空間へ場所を移さなければ、黒夜の窒素の槍を回避できそうにない。

この部屋の中では、絶対に黒夜の相手はできなかった。

 

一途の賭けだった。黒夜がオレを追ってきてくれるように、台の上で寝転がっているヤツに興味を示さないでいてくれるようにと祈りながら。ただひたすらに彼女の掌へ意識を集中させながら、その背後を駆ける。だが。

 

どうやら彼女は、最初からオレのこの行動を予測していたようだった。淀みなく、掌を扉に空いた空洞へと向け、そしてもう片方をオレの足元に向けていた。オレは咄嗟に飛び退って窒素の槍を避けたものの、瞬時に己の失策を悟った。

 

黒夜の狂気の笑顔が目の端に映った直後、飛び上がったオレの腹部を強烈な衝撃が襲った。

 

地に倒れ伏すほんの幾ばくかの間に、オレの頭を過ったのは後悔の二文字だった。

 

彼女の能力は強大だった。俺の能力では、そもそも一体一で逃げ出すのがやっとではなかったのか。他の人間を助けようとせずに、最初から、なりふり構わず生存のための、逃亡の一手を打つべきではなかったのかと。

 

黒夜の奇声と、"洗脳装置"の破砕音が同時に響き渡った。うつ伏せに倒れていたオレには、その瞬間は全く見えなかったが、視界の端に、飛び散る血痕の紅が映り込んだ。

最後の1人も殺されてしまった。たった今、見捨てていたらと考えていたくせに、それでも、涙が溢れてきた。

どうして。黒夜も被害者のはずなのに。苦しみを共有し合う、同志だろうが。

 

「ヒィャハハハハハアアアッハアハッキャッハッハァァァハハハハハアハアハハハアh」

 

ぺたぺたという音が近づく。止めを差すために、黒夜が近づいてきている。さっきからずっと笑っているが、何がそんなに楽しいんだよ。

必死に抵抗しようとして、体を動かそうとしたが、どうにもならなかった。俺の体は頑丈だし、傷の治癒も並外れて早いものの、さすがに腹に大穴が空いている、この重体じゃ動けないか。

 

床に流れている、自分の血を眺めた。今度はオレの番か。もうすぐ死ぬ。当然、死の恐怖が湧き上がる。怯えて死ぬのはごめんだ、とオレは能力を全開にしてその恐怖心を押し込めようとした。

 

だが、できなかった。想定外だ。なぜ恐怖心を消去できない。実験のおかげで、能力の出力は今までにないくらい、最高潮に上昇しているはずなのに。

 

脳にかかる負荷を無視し、能力の出力を上げに上げて、全身全霊で必死に恐怖を押さえ込もうとした。思考速度は加速され、黒夜の地を踏みしめる音が、かつてないほどスローに聞こえている。

それでも、できなかった。恐怖心は無くならなかった。軽くパニック状態になり、考えまいとしていた、火澄やクレア先生たちのことを思い浮かべてしまった。

 

もうあいつらと会えないなんて…ぅぁぁ…ッ…死にたくない…死にたくない!いやだ、最後の最後に、こんな惨めな気持ちのまま死ななきゃならないなんて。

 

クソがァッなんでこんなヤツにビビらなきゃならないんだぁ。消えろ消えろ消えろ無心に…考えるな考えるな考えるな…ッ!ちっくしょおが!怖くて…

 

生きたかったけど。アイツの槍はあまりに速くて、空気だから見えないんだ。どうやったら勝てたってんだ。畜生…!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見えなくとも、音は聞こえた。もっと聴覚が良ければ。

 

空気には色はないが匂いはあった。もっと嗅覚が良ければ。

 

今以上に素早く動ければ避けれた。もっと筋力があれば。

 

でも、それでも、アイツからは逃げるしかない。オレにも、あの槍みたいな武器があれば。

 

ダメだ。オレの肉体は、人間として最高の性能(スペック)を実現していた。

人間じゃこれ以上は無理だったんだ。

だったら…。

人間をやめれば…。

 

 

 

 

 

 

 

迷いなんて無い。火澄、クレア先生、オレは、人間をやめてでも、もう一度あなた達に会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

意識の何処かで、後戻りできない一線を、踏み越えた音がした。脳内で光が弾けた。

同時に、腹に空いた大穴の治癒が止んだ。そう、"治癒"ではない。もはやその必要がなくなったのだ。肉体が、修復するのではなく、その代わりに新たな器官を生み出そうとしている、と直感で理解した。

 

 

新たな神経が、体中を一瞬で駆け巡った感覚。無理矢理に体を動かして、俺は跳躍した。黒夜から大きく距離を撮り、手足をついて着地する。息を吹き返した俺の様子に、流石に驚いたのか、黒夜は対応できずにいた。

 

 

「GWROOOOOOOOOOOOOOOOG!!!」

 

手足を地につけた状態で、俺は力の限り咆哮した。肉体は発熱し、じゅわじゅわと蒸気を吹き出していた。同時に、俺の肉体に、大きな変化が生じた。

体中の体毛が長く、太く伸び、筋肉がバキバキと肥大した。体躯も延びたが、同時に姿勢も老婆のように歪曲した。

耳は犬のように形状を変えて巨大化し、口が裂け、鼻梁は数倍に伸び、顎とともに前に嫌な音を立てて突き出した。

裂けた口には大きな牙が生え揃い、両手両足の爪は虎のように鋭く尖った。

体格の増大に伴い、身につけていた患者衣は千切れ飛んでいた。

 

 

 

 

一匹の黒い獣人(マンビースト)が誕生した。その姿は、西洋の伝説に謳われる、人狼そのものだった。

 

 

 

 

その獣を前にして、黒夜は嗤いを止めた。先ほどの奇妙な雰囲気は微塵も吹き出ず、室内を静謐な緊張が包んだ。

黒い獣は、その野蛮で粗野な外見からは想像がつかぬほど、ピタリと静止し、身じろぎ一つせず、目の前の少女にだけ視線を集めていた。

 

 

俺の頭の中は、ただひたすらに、目の前の黒夜に対する殺人衝動で埋め尽くされていた。憎しみがとどまることを知らずに溢れ出る。

俺はそれを遮ることなく、それどころか自ら増幅させ、心臓の鼓動を早鐘のように白熱させた。

新たに作り替えられた肉体は、その馬鹿げた心拍数に耐え、思考速度を数倍に引き上げさせた。

油断なく彼女を見やる。もはや、能力を使わずとも、黒夜に対する恐怖は湧いてこなかった。

 

「GYWOOOOOOOOOOOOOOOOOHHH!!」

 

もう一度吠えた。これは、黒夜に対する威嚇であり、最後通牒でもあった。

俺は暴力に染まった脳みそで考えていた。

少しでも黒夜が攻撃する素振りを見せたら、その両腕を食いちぎってやる、と。

 

 

 

互いに睨み合う。獣の眼差しに、僅かな憐憫の情を感じ取ったのか、黒夜は表情を憎しみに染め、両手を前に突き出した。

 

その刹那、獣は身を屈め、地を滑るように、しなやかな動きで、無色透明の槍をくぐり抜けた。瞬きひとつの間に彼女の正面に立ち、彼女の両腕を毛むくじゃらの腕で掴むと、一息に折り曲げた。時を等しく、生木が曲げ割れるような、鈍い音が響いた。

 

黒夜は、声にならない悲鳴を上げ、膝をついた。壮絶に顔を歪め、地べたに頬を押し付けたままでも、俺を睨み続けた。彼女らしい反応だった。

彼女を殺せば、俺はこいつ以下の存在になってしまう。そう考えたのか、気がつけば殺さずに手加減していた。彼女はその意向がお気に召さなかったらしい。

 

 

両腕の痛みが、彼女の能力の使用を妨げているらしく、何一つ反撃もせずに、黒夜はその場にうずくまり動かなくなった。俺は直ぐに、"洗脳装置"から投げ出された被験者の安否を確認したが、2人とも既に事切れていた。

 

 

ふと呻き声が止んだ。黒夜の方を見やれば、やはり失神していた。いつの間にか、警戒態勢警報(アラート)が治まっていた。不審に思う間も無く、何処からともなく耳障りな声が聞こえてきた。

 

『……素晴らしい、の一言に尽きるよ、景朗クン。…キミの活躍、先程から拝見させて貰っていた。ついに…ついに成し遂げたな、景朗クン。私は今、感動に打ち震えているよ……』

 

スピーカー越しに、幻生が語りかけてきた。

 

 

「コレ、オレノコエ、キコエテマスカ?ゲンセイ、センセイ。」

 

とりあえず、部屋の隅に設置されていた監視カメラらしきものに話しかけた。が、思うように喋れなくて驚いた。そうだ、今の俺は、まっとうな人間じゃなかったんだ。口元が、まるで…狼のように裂けているからな。これでは今までどおりに話せない。

 

『聞こえているとも。キミの猛々しい咆哮も余さず記録できているよ。』

 

俺は近くに落ちていた白衣を手に取った。

 

「ゲンセイ、センセイ。アナタハ、マエニイイマシタ。オレニハ、ケンキュウ、ヲ、キョウセイ、デキナイ。オレノ、ドウイ、ガ、ナケレバ、ジッケン、ハ、キョカサレナイ、ト。」

 

『…キミの言う通りだよ、景朗クン。突然どうしたんだい?』

 

「ナゼ、アナタハ、ソレニ、スナオニ、シタガウ、ノ、デスカ?」

 

幻生の声色が不穏なものに変わりつつあった。

 

『…それは、キミにも教えられないな。だが、我々のような研究機関であろうとも、キミを研究対象にする許可を得るのは容易くない。何故なら、統括理事会が一枚噛んでいるからな。…フフ、それも無理はない。』

 

幻生はそこで一息区切った。スピーカーから漏れ出る息遣いからは隠しきれない興奮が感じられた。だが、必要なことは聞けた。俺はそれっきり幻生の呼びかけを無視して、黒夜と争った部屋を後にした。

 

『実際に、今のキミの姿をこうして目にすればな。…完全なる肉体変化(メタモルフォーゼ)

 

伝承の狼男さながらの出で立ちだ。その有様からして、大能力(レベル4)以上の現象であることは確実だろうな。

 

我々が意図してきたその成果が、今のキミの姿に在る。キミはついに、己が細胞を自由に創り変える力に目覚めたのだ。

 

キミは理解できるかね?その力に秘められた可能性を!人類が長らく求めてきた、不老不死への術が、すべて、今、そこに存在している!』

 

廊下に出ても、幻生の声は鳴り止まなかった。

 

『待ちたまえ!景朗クン!その姿で、どこに行こうというのかね?』

 

 

部屋から一歩飛び出して、辺りを見渡せば。其処ら中に飛び散る血痕と、壊れた施設。先進教育局は壊滅状態になっていた。薬物拡散防止のための、防壁がすべて降下しており、逃げ遅れた研究員や、被験者は軒並み物言わぬ屍となり、あちこちに転がっている。

皆、体に穴が空き、腕、足といった部位のいずれかが欠損していた。五体満足の死体はひとつもない。どれも黒夜海鳥の仕業だろう。

 

防壁一つ一つを無理やりこじ開けながら、俺は出口を目指していた。スピーカーからは絶えず幻生の静止の命令が響くが、気にも止めない。

 

 

俺は覚悟を決めていた。幻生と決別する。あちこちに転がる死体が、俺の決意を後押しさせた。奴は、すぐにでもうちの園への援助を打ち切り、真泥に使ったような手口でまた俺を脅してくるはずだ。

 

正直、こういう悪巧みで幻生に勝てるとは思えないが…それでも、一応の考えはある。

俺自身はどうなろうと構わない。ただただ、聖マリア園の皆が無事ならそれでいい。だから…。

 

 

 

先進教育局を出る直前に、能力を完全に解除した。とたんに、気が狂いそうな激痛で脳が一杯になった。

体中の毛が抜け落ちる。声を張り上げて、歯と爪を無理やり引っこ抜いた。体中の骨がミシミシと音を立てて折曲がり、その痛みに地べたを転がりまわった。

 

だが、痛みに耐え抜いたそのあと。俺の体は、もとの人間の姿に戻っていた。安心して嗚咽が漏れそうだった。これで、またみんなに会える。

 

 

 

 

俺は幻生と決別した。五月の暮れの、黒夜と戦ったあの日から、奴と一切連絡を取っていない。ひと月して、予想通りに、鎚原病院からの、俺たちの孤児院、聖マリア園への援助は打ち切られた。

だが、俺が招いてしまった混乱のツケは、必ず払ってみせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『unexpectedly 久しぶりね、雨月君。まさか、あなたから連絡が来るとは思わなかったわ。』

 

「ええ、お久しぶりです、布束さん。」

 

『strange それで、今日は何のご用かしら?どうせ嬉しくなるような要件ではないのでしょうけど。』

 

ほぼ1年ぶりだろうか。電話越しに会話する布束さんのつっけどんな態度は、以前と全く変わっていなかった。彼女はいつも鉄面皮だったが、なんだかんだで、俺の能力の測定結果に一喜一憂していたな。そのことを思い出して、自然と口元に笑みが浮かんだ。

 

「…そうですね。布束さんにとっては、何の価値も見いだせない頼みであることは、明白ですね。」

 

『そう。それじゃあ、ここで通話を切らせてもらうわ。これでも忙しいの。』

 

焦った。ちょおっとまて。いくらなんでもそりゃないだろう。

 

「ちょ、待ってください。お願いします。あなたの助けが必要なんです!」

 

『half in joke 冗談よ。それじゃ、聞かせてくれるかしら。』

 

心臓に悪いぜ。おいおい、あんた、そんな悪ふざけをするキャラだったっけ?1年越しのデレだとでもいうのか。だとしたら、なぜもっと早くデレてくれなかったんだよお。

 

「冗談ですか。はぁ…。残念ながら、俺が今から話すことは、冗談ではなく、真剣で真面目な内容になります。ご迷惑をお掛けすることになるでしょう。」

 

 

俺の布束さんへの頼みごととは、簡単に言えば、暗部の傭兵組織への紹介をお願いすることであった。以前、彼女とともに実験をしていたとき、彼女の口から、大金を得るために命をドブに捨てる、無頼の輩の存在を耳にしていた。

彼女のスポンサーであるところの、巨大な製薬会社にも、単なる一企業のセキュリティを越えた、日の目を見ることが決して無い、忌避される暗躍部隊が存在していたそうである。

 

黒夜海鳥にも、そのような暗部組織に身を置いていたと匂わせる節があった。彼女からは、人を殺すことに対して、一切、躊躇や忌避感を感じられなかった。

 

俺は、訝しむ布束さんに、必死で頼み込んだ。手段や経緯は問わない。俺をどうにかして、その傭兵組織で働かせてくれ、と。

 

 

『no way 胡乱な考えね。貴方、それで木原幻生から逃れられると、本気で思っているのかしら?

いいえ、少なくとも、私の知っている雨月景朗は、そのくらいの分別は理解できていると思っていたのだけれど。』

 

俺の頼みを聞いた布束さんの反応は芳しくなかった。だが、ここで諦めるわけにはいかない。

彼女は、俺が暗部組織と関わるのを辞めさせたい様子だった。彼女には、俺が幻生のもとで実験を受けていた理由や経緯を話していたからな。それでも、俺は彼女を説得しつづけた。

 

「ああ、こっちだって、本気で幻生から逃げられるとは思っていない。…だけど、このまま何もせず、手をこまねいて幻生の犬であり続けるのは、もう御免なんだ。大金が必要だ。幻生の息がかかりにくい手段で。

うちの孤児院の経営は破綻寸前だ。それに…仮に、貧困を受け入れようとも、その状態だと、いつぞやの真泥みたいに、幻生に手玉に取られる子が出てきてしまうだろう。

 

ずっとうまくいくとは思っていない。いつかまた、幻生の元に囚われる羽目になるかもしれない。だけど、そのツケを払うのは、俺1人であるべきだ。

 

…頼みます。どうか、力を貸してください。少なからず俺にだって、あなたに貸しがあるんじゃないか…?」

 

『no wander わかった。貴方の意志は固いようね。止められそうもないわ。…覚悟して。暗部の世界はあなたが思っている以上に、凄惨な所よ。』

 

「それは、今更な話ですよ。俺も、あなたも。とっくに闇の世界の住人なんじゃないか?」

 

『indeed …そうかもしれないわね。』

 

結局、布束さんは俺に力を借してくれた。彼女の伝を使い、樋口製薬という巨大な製薬企業の傘下に属する、とある私兵部隊へと俺は転がり込むこととなった。

 

 

 

 

 

もうすぐ、俺は堅気ではなくなってしまう。しっぺ返しを受ける時、被害を受けるのは自分1人だけでなければ。そのため、直ぐにでも、今までずっと過ごしてきた棲家、聖マリア園を出ていかなければならない。

 

最初に、クレア先生にその旨を伝えた。既にクレア先生は、そのことを伝える前の俺の顔を見て、唯ならぬ雰囲気だと察し、構えていたようだ。だが、俺が聖マリア園を出て行くと言い出した途端に、血相を変えた。

 

「か、かげろう君、冗談ですよね?!急にそんなこと言い出すなんて……。」

 

「いいえ、本気です。クレア先生、寂しいけど、ずっと前から、15歳になったら、聖マリア園(ここ)を出ていこうと決めていましたから。中学校の卒業と同時に出て行く予定だったんですど、今出て行くほうが都合が良くなったんです。」

 

クレア先生は、必死に涙をこらえて、俺の肩を抱き寄せた。

 

「……やっぱり、最近の、うちに対して資金援助が大幅に削減されたことが理由なんでしょうか?かげろう君、そのことは、心配しなくていいんです。先生たちが絶対に、何とかしますから。」

 

そう言うものの、クレア先生の表情には諦観が張り付いていた。わかっているのだ。いくら中学生でも、それが一朝一夕でどうこうできる問題じゃないと、理解できることを。

 

クレア先生が俺を抱きしめながら、小さく震えているのを感じながら、俺は先生の匂いを吸い込んだ。この異様に落ち着く匂いとも、決別の時が来たんだな。

 

「違います、クレア先生。自分の意思ですよ。俺も男です。自分の道は自分で決める。今が、船出の時だと思っただけです。誰も、何も関係ないんですよ。」

 

クレア先生は無言になった。俺の背中に回した彼女の手に、力が入った。その直ぐあとに、今度はくぐもった泣き声が聞こえてきた。

 

能力を強く発動させ、悲しい気持ちをすべて消し去った。でなければこの時、俺は相当な醜態を晒していた自信がある。

 

「先生、そんなに泣かないでくださいよ。俺、自分の家って呼べるところは、ここだけだと思ってます。火澄みたいに、ちょくちょく会いに来ますから。」

 

クレア先生は、一向に泣き止んでくれなかった。火澄の時とは違う反応だった。ここまで悲しそうにはしていなかった。どうしてそんなに辛そうなのか、疑問に思って訪ねてみた。

 

 

「だって、かげろう君。ぜんぜん、寂しそうじゃないんだもの。」

 

そう答えた、クレア先生の寂しそうな笑顔は、ぐさりと俺の心に突き刺さった。

しばらくして、クレア先生は未だ辛そうに、俺の退園を祝うと答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

3ヶ月後。俺はとある暗部の傭兵部隊に転がり込んでいた。これからは、学園都市の裏舞台で大金を稼がなきゃならない。

 

配属された部隊のリーダーが、俺に尋ねた。

 

雨月景朗(うげつかげろう)。コールサインは狼男(ウルフマン)、か。おいおい、格好良いじゃないか。能力のレベルも大能力相当。頼もしいな。一体どんな能力なんだ?」

 

「…やっぱり、言わなきゃダメですか?……ああ、はい。そりゃまあ、当たり前ですよね…。能力名は"人狼症候(ライカンスロウピィ)"。どんな能力かは、一目見たら解りますよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 




とりあえず前章が終わりました。次からいよいよ暗部組織同士の殺し合いのシーンになります。プロット自体は終わりの方までできてますが、想像していたより量が多くなってしまいました。プロットがほぼ出来上がっているので、時間はかかるかもしれませんが、投稿続けていこうと思います。感想とか頂ければめっちゃ励みになるかも。

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