人は、心に理想を抱く。
決して叶うことのない夢を、現実離れした空虚な希望を抱く。
故に、人は愚かだ。
だが、心に理想を抱く者は、そうではない者に比べて、実に人間だ。
人間は愚かな生き物だ。
でも、いやだからこそ、過ちを改めて前に進むことができる。
過ちのない人生など、それこそ空虚でつまらない幻想である。
「…あの後俺はあいつに言われた通りに西へと向かった。そこには本当に妖怪たちの楽園があってな、暫くはそこで厄介になってたんだが…。どうも最期のあいつの顔が頭ん中に張り付いて消えねぇ」
妖狐は再度宇歌に質問する。
「なあ、死ぬってのは怖えよな。誰かに恨まれて死ぬってのは恐ろしいよな。しかもあいつの場合小っちぇ子供まで残してよ…、他人の代わりに死んだんだ………。」
妖狐の瞳が少し潤む。
「なのになんであいつはっ、最期あんなにも笑顔だったんだ?…今日はそれを聞きに来た。」
こうして妖狐の話が終わると、一時の静寂をもって刻は動き出した。
大地を揺らさんとばかりに騒めく人々。その妖怪が言ったことは本当なのか?だとしたら大問題だぞ!稲禾様は、稲禾様は!ただ妖怪に無残にも嬲り殺されたんじゃなかったのか!!
彼らの動揺はもっともである。彼の言を是とするならば、十二年前に稲禾が殺された遠因は、彼女に妖怪退治を依頼した人間たちにあるということになる。しかしながら、今までそのようなことを証言した者はいなかった。よって、彼女が妖怪に虐殺されたということを民たち一様、諏訪子ですら信じて疑わなかったのである。
…だが、所詮はいち妖怪の言葉。その内容の衝撃性ゆえに爆発的な混乱を生んだが、直ぐにそれらはその妖怪を罵倒する言葉に変わっていった。確かに稲禾が亡くなってから、諏訪国は
皆、心に一抹の、現状に対する不自然さがよぎる。もしかしたら…、そう思う者も決して少なくない。…だが皆が皆、自分たちに非があるとは思いたくないのである。故に、罵詈雑言を浴びせる。
(成程…)
そして、そんな中で唯のひとりだけ、この状況を冷静に分析している者がいた。諏訪の社居候の狗剱ハクである。
その妖狐が言うことが正しいとすれば、これまでの彼の不可解な行動にも納得がいく。ここで彼が噓をついていると仮定しても、その噓にはほぼ何の益もない。…確定とまではいかないが、少なくとも暫定するだけの証言の辻褄は合っていると思う。前にも言ったが、オレは過去のそのやり取りを直接見てるわけではない。…よってこの混乱を収め、その妖怪の証言の是非を判断できるのは、今彼に馬乗りになっている宇歌ちゃんしかいない。遠くからでも、彼らのやり取りを見ていた彼女しか…。
主「ん…?」
ハクは不意に門付近にごった返す人込みから、そそくさと隠れるようにして抜け出す一人の人間を見つける。宇歌の方をちらりと確認し、あまり猶予がないことを理解すると、彼はその場から消えた。
宇歌「………ふざけるな」
今まで沈黙して彼の話を聞いていた宇歌は、そう一言だけ呟くと、その胸倉を掴んで倒れてる妖狐の身体を無理やりに引き起こした。
宇歌「貴様が母様の為に涙を流すなッ!!!」
宇歌の拳が振り抜かれる。
「ぐッ…!?」
宇歌「母様を殺した貴様が…ッ」
もう一発殴る。
宇歌「今更何を言う…ッ!」
殴る。
宇歌「…十二年だ!!あれから十二年間、私は貴様を殺すことだけを理由に生きてきたッ!!」
殴る拳伝いに生温かい液体が流れ出てくるのを感じる。しかし、そんなものお構いなしとばかりに宇歌は殴り続ける。
宇歌「やっとだ…!やっとッ、これで終わる……この短刀一本で終わらせられるっ!!そしたら楽になれる…よねえ?私もうむりだよつらいよくるしいよお…。おまえをころしたらすべてがおわる、おまえをころしたらかあさまがむくわれるラクになるラクに、こころガ…スッとっラク…に…ッ」
宇歌は自身の髪の毛をぐちゃぐちゃにして呂律も回らない。その過程で妖狐の胸倉を掴んでいた手は緩み、彼はどさりと後ろの地面に倒れた。
「………そうか、それがお前の
宇歌の目からは色が抜け落ち、どす黒い
「でも…本当にいいのか…?あの日、お前の母ちゃんが残した言葉は、これを望んでいたか?」
宇歌「………」
「………はははっ、冗談だ。“お前が言うな”、だよな…」
宇歌「……っ」
「殺すなら殺せ…。俺を殺せえッ!諏訪の巫女ォッ!!」
宇歌「ああああああッッ!!!」
宇歌はその眼をぎらつかせて手に握った小刀をその妖怪の首へ目掛けて振り下ろす。
瞬間、鮮血が飛び散った。
………しかし、それが真っ赤に染めたのは倒れている妖怪でも、小刀を握った人間でもない。
「はあッ…はあッ…!?」
宇歌「………えっ?」
血で染まったのは、真っ白な狼であった。
主「待って宇歌ちゃん」
振り下ろされた刀の刃を素手で受け止めたハクは、その掌からドバドバと血液を流しながらも話を続ける。
主「お母さんのかたき討ち…の前に一人だけ、話を聞いてもらいたい人がいるんだ。」
そう言うとハクは後ろを向く。それに合図されたかのように、一人の初老の男性が宇歌の方へと歩み寄って来た。彼は彼女の近くまで来ると膝から崩れ落ちるようにして座り込み、地面の土を握りしめ目線は下向きに語り始めた。
「…その妖怪が言っていることはすべて本当だ、宇歌様…ッ!」
宇歌の瞳にか細い光が灯る。
「私たちはっ彼女…稲禾様に噓を吐いたんだッ!!あの妖怪たちが悪さをしていると、私たちの命が危ないと!!……すべてはあの山の資源に目がくらみ、それを独占したいがための意地汚い私利私欲のためだったんだ…!……稲禾様が亡くなって私は己の過ちに気づいた、でも自らの罪を告白できなかったんだぁ…恐ろしくてッ!!」
宇歌の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「その後、宇歌様と諏訪子様…そして国中の皆が妖怪を憎み始めた…!私も自分の罪の意識を押し隠してその流れにこの身を投じることで、…私は悪くない悪くないとッ…!そう思いながら今日まで生きてきた。でもッ!!それじゃダメなんだって今気づいた!!ちゃんと本当のことを言わなきゃ、真実を話さなきゃって!!!……そこの少年に言われてハッとしたよ」
男性の瞳からも涙が流れ始める。そして、己の額を地面にこすりつけた。
「だからよお!!殺すなら私にしてくれッ!!その妖怪じゃなくてッ。殺して、それで宇歌ちゃんの気持ちが少しでも晴れるなら私は喜んで死ぬよッ!!それが私の罪滅ぼしだ!!!」
遂には額を地面に打ち付けながら激しく慟哭した。彼の懺悔を聞いて、やっと周りの人々も察し始める。…私たちはずっと勘違いをしていた。
宇歌の手から小刀が滑り落ちる。彼女はその妖怪とハクの返り血で濡れた自分の掌で目頭を押さえて、流れて止まらない涙を止めようとする。そして小さく叫喚し始めた。
宇歌「じゃあ…ッ!私はどうすればいいのッ!!ほんとは殺したぐない……誰も殺したくないのに…!ずっと心はやるせなくて!!こんなっ…、こんなことっ、てぇ…!」
主「宇歌ちゃん」
宇歌「ハク…さん……っ」
ハクはしゃがみ込み、血で汚れてない方の手で彼女の肩に触れる。
主「…実はオレも宇歌ちゃんと同じなんだ。オレも、オレの仲間を殺した奴を死ぬほど殺したい…!………でも、そんな恨みつらみの気持ちだけじゃあ…オレたちってきっと何も為せないんだ。…オレたちは過去を生きてるんじゃない、
宇歌はハクに言われた通りに周りを見渡す。そこには、皆一様に地面に膝を付いた民たちがいた。そして、彼らも静かに泣いていた。
宇歌「……ー-っ!!」
主「ここには、キミのために泣いてくれる人たちがいる。キミと一緒に苦しんで悲しんでくれる人たちがいる。…それに、キミのためなら命すら惜しくないって人もね。」
ハクは先ほどの男性にも目をやる。
そして宇歌は先日町の鍛冶屋で掛けられた言葉を思い出していた。
『宇歌様、我ら諏訪の民は皆、貴女様のお味方です』
宇歌「あぁ…っ!!」
主「彼らを導けるのはキミしかいないよ、宇歌ちゃん。」
宇歌「……はい」
主「彼らが前へと進むために必要な言葉を。」
宇歌「…はいっ」
自分の手で擦りすぎて血だらけになった顔で、彼女は少しだけはにかんで見せた。彼女は妖狐に馬乗りになっている状態からすくりと立ち上がり、諏訪の民たちと向き合う。
宇歌「みなさんっ!!!」
彼女の声に合わせて、民たちは総じて悲哀の顔を上げる。宇歌は胸の前でぎゅっと拳を握りこんで言葉を発する。
宇歌「…私たちは許されざる間違いを犯しました。過去…私たちは妖怪のお二方を殺し、山の自然を殺して、東風谷稲禾をもッ
民たちはハッと息を吞む。…彼女の言葉は続く。
宇歌「しかし私たちは、私たち全員の罪を許しましょう。私たちが、私たちの罪を許し合いましょうっ!」
民たちは互いに互いを見合う。…彼女は後ろを振り返って、倒れている妖怪とその隣の初老の男性とを見やる。
宇歌「そして共に前へと進みましょう!…人と人が、否、
宇歌の言葉に感化されて人々は立ち上がる。彼らの前にいたのは眩いばかりの太陽であった。私たちを照らし導いてくれる……それは正に女神。
宇歌「諏訪国はこれより新たに始まりますっ!!!」
「「「…うおおおおおおおッッ!!!!」」」
蒼穹に向かって希望、理想の夢が弾ける。涙は大地に染み込み、秋風に吹かれて次第に乾いていく。
…そして人々の歓声に紛れて吼噦がひとつ。
「“誰かを憎んじゃいけないよ”…か。………やっぱりあいつの娘なんだな、諏訪の巫女。…あいつが笑った理由、ちょっとだけわかった気がするよ。」
『宇歌!!!』
宇歌「…っ!?」
少女は空を見上げる。
『“ ”ッッッ!!!』
宇歌「………うん。ありがとう、母様」
色づく秋も深し。黄金波打つ、稲の国。
【予告】
次回、第三章 諏訪大戦篇 最終回。