宇宙の深淵、忘れられた世界の地下、忘れられたその場所で、地球教大主教ド・ヴィリエは地球の立体映像を見上げていた。
それは、在りし日の地球の姿と現在の地球の姿を映すための儀式用の祭具であった。
数年の忍耐の時を経て、ようやくド・ヴィリエの望んだ機会が来たのだ。
もうすぐだ。もうすぐ皇帝ラインハルトが死ぬ。
ラインハルトの容態については逐一情報を入手していた。ド・ヴィリエが手を下す必要もない状態だった。
だからこそ、彼はここまで時期を待ったのだ。
若干のイレギュラーもないではなかったが、ここまでの展開は概ねド・ヴィリエの想定通りであった。
……ルビンスキーの死には驚いたが、それでも奴は地球教の経済基盤を確立して、俺の役に立ってから死んだのだ。
そして、ラインハルトが死んだその時こそ、宇宙は地球教の、否、このド・ヴィリエのものになるのだ。
「地球は我が故郷。地球を我が手に」
ド・ヴィリエは自らが信じてもいない聖句を唱えながら、片手を上げ、立体映像の中の地球を掴み取った。
宇宙暦801年/新帝国歴5年7月 地球教根拠地
青い空の下、花々が彩る庭園が広がっている。だが、よく見るとその空が映像であることがわかる。
サビーネ、クリスティーネ、エリザベート、アマーリエがそこにいた。
閉じた地下世界に構築された、人工の庭園。それが現在の彼女らの暮らす世界であった。
アンスバッハが彼女達に報告を行いに来た。
「帝位簒奪者ラインハルトが危篤です。この数日というところかと」
アマーリエは、感慨深げに呟いた。
「報いというものじゃな。リヒテンラーデは死に、ラインハルトも死んだ。オットーの願いはこれで果たされるが、おぬしはこれからどうする気じゃ?」
「無論、これからもアマーリエ様をはじめ、ゴールデンバウムの血を引かれる方々にお仕え申し上げます」
「そうか。頼むぞ」
「はっ!」
「でも、わたしあのエルウィン・ヨーゼフは嫌いよ」
サビーネが口を挟んだ。
「あの子、私やお母様をいつも睨んでくるもの。いつか私たち、お父様のように殺されるのではないかしら」
「これ、サビーネ!」
クリスティーネが咎めたが、サビーネはやめなかった。
「アンスバッハ、私たちがあの子に殺されそうになったら助けてくれる?」
サビーネもクリスティーネもアンスバッハがリッテンハイム大公をその手で殺したことなど知らないのだ。
「まずそのようなことは起こりません。このアンスバッハが保証しますのでご安心を」
とは言ったもののアンスバッハもエルウィン・ヨーゼフの行動に確信は持てなかった。
正当な理由がないでもないとはいえ、既に何人かの貴族が粛清されていたのだから。
サビーネが遠くから、近づいて来る人影を見つけた。地球教の主教服を来たあの人影は。
「ユリアン!」
サビーネの顔に、十代の乙女のような笑顔が咲いた。
「アンスバッハ、私、エルウィン・ヨーゼフなんかよりユリアンが好きよ。彼が皇帝になったらいいのに。そのためには、私、結婚してあげてもよくてよ」
アンスバッハは少し強い調子で否定した。
「サビーネ様、お戯れもほどほどに。ゴールデンバウムの血を引かぬ者が皇帝など、あり得ぬことです」
「わかっているわ。冗談よ」
でも、私が女帝で、彼が女帝夫君ならよいのかしら、などとまだ呟き続けるサビーネを嘆かわしく思いながら、アンスバッハは近づいて来るその青年のことを考えていた。
ユリアン・ミンツ。
いつの間にか、我々の中に入り込んで来た青年。
その端整な容姿、柔和な笑みと優しい態度で、たちまちのうちにゴールデンバウムの血を引く女性達を虜にし、ルドルフ2世の覚えも目出度い、その青年。
彼が何を考えているのか、アンスバッハはいまだはかりかねていたのだ。
「皆様、こんにちは」
ユリアンは、彼女達に会釈をした。
「遅いわ、ユリアン。シロン産の紅茶、持って来てくれた?」
「ごめんなさい。あいにく調達が上手くいっていないようです。代わりにアルーシャ産の紅茶を手に入れました。味は私が保証します。私が淹れますから、少しお待ちください」
少し不自由な片手も器用に使って、ユリアンは紅茶を淹れていった。
「皆様、どうぞ」
「ありがとう。飲む前に聖句を唱えないといけないのですわよね?」
サビーネの問いにユリアンは首を振った。
「構いませんよ。紅茶のひと時に集中できるよう、私が皆様の分も唱えましょう。地球に恩寵のあらんことを」
「おいしいわ、ユリアン」
「本当、おいしい」
寡黙なエリザベートもユリアンの紅茶を飲むその時だけは表情を緩めた。
口々に褒める、女性達に、ユリアンはその爽やかな笑顔を向けた。
「お褒めに預かり光栄です」
その笑顔を見て、アマーリエやクリスティーネまでもが顔を赤らめていた。
アンスバッハもユリアンの勧めに応じて紅茶を頂いていた。
ユリアンは彼にすら笑顔を向けるのだ。
アンスバッハはその笑顔を見ると何故か不安になるのだった。
紅茶の腕は本物だ。
ストレスの溜まるこの環境で彼女達に笑顔が見られるのも彼のおかげだ。
だが、簡単に人の心に入り込む人好きのするこの青年の本心は一体どこにあるのか?
ヤン・ウェンリーがユリアンのその笑顔を見たら、きっと嘆くようにこう言っただろう。
彼の保護者であったあの男の笑顔によく似ている、と。
ゴールデンバウムの女性達の元を辞したユリアンに声をかけてきた少女がいた。
「相変わらず気持ち悪い笑顔ね」
「クロイツェルさん、アマーリエ様達のお側にいなくていいの?」
彼女はアマーリエ達の侍女を務めているはずだった。
「あなたがいたから近づけなかったのよ。サビーネには、あなたに近づくなと言われたわ。本当に女を誑かすのがうまいのね。まるで……」
「まるで?」
「何でもない。それより、いつまでそんな笑顔を貼り付けているのよ」
「別に貼り付けているつもりはないのだけど」
「あなた、いつか本心をどこかに置き忘れるわよ」
ユリアンは返答に窮した。一瞬その笑顔にもひびが入ったようだった。
「ありがとう。心配してくれて」
カーテローゼはユリアンをその青紫色の瞳で睨みつけた。
「なに言ってるの、心配なんかしてないわよ。歯がゆいだけよ」
立ち去っていく薄く淹れた紅茶色の髪の少女を見送り、ユリアンは自らも歩き出した。
カーテローゼ・フォン・クロイツェル、メルカッツ提督の家族と共に地球教徒に誘拐された少女。
病身となり、途方に暮れた彼女の母親は、頼ってはならぬ相手に頼ってしまった。親切顔をして近づいて来た地球教徒を頼ったのだ。母親と彼女が不審を覚えた時には手遅れだった。母親が死んだ後、彼女は正式に地球教に勧誘された。否、男を籠絡し、地球教の信者を増やすように強要されたのだ。
カーテローゼは、母親が旧知の間柄だったメルカッツの娘に相談した。
ここから、運命はさらに転回した。
カーテローゼが相談したことで地球教を刺激したのだ。
元々企まれていた話ではあったが、メルカッツ提督誘拐計画が前倒しで実施され、カーテローゼも巻き添えとなった。
カーテローゼは自責の念を覚えた。意地を張らずに自らの父に助けを求めるべきだったのではないかと。メルカッツ元帥が、カーテローゼに危害が加わらぬよう強く要求してくれたことには胸が痛んだ。
地球に連行されたカーテローゼは、その瞳の色と器量のよさから、総大主教の侍女見習いとされた。総大主教は、地球の空の色をした瞳を好んでいたのだ。
侍女見習いの生活は決して楽ではなかったが、そうなっていなければカーテローゼに待っていたのは、きっとより過酷な運命だっただろう。
カーテローゼのことに思いを致していたユリアンの顔からは、自然と笑みが消えていた。
カーテローゼと会話している時、ユリアンは素の自分に戻れる気がしていた。
だが彼にはやるべきことがあった。
そのためにここまで来たのだった。
笑顔は彼の鎧であった。
彼は敬愛するかつての保護者の笑顔を思い出し、模倣して、再び歩き出した。
永遠ならざる平和の成立から5年、
ユリアンやカーテローゼが何故ここにいるのか、
まずはそこから物語を始めたい。