ヴァルハラ星域に隣接するヴィーンゴールヴ星域で、ジークフリード帝は三万五千隻を率いてフォーク艦隊を待ち受けた。
一万五千隻をジークフリード帝が率い、ルッツ、ビッテンフェルトが残りの一万隻ずつを率いている。ジークフリード帝の直下でベルゲングリューン大将が参謀長、ザウケン大将、ジンツァー大将、ブラウヒッチ中将らがそれぞれ分艦隊司令官を担当した。
また、この戦いにはヒルデガルド・フォン・マリーンドルフもジークフリード帝の首席秘書官として中佐待遇で同行している。
ジークフリード帝は、安全のため彼女をオーディンに待機させておきたがったが、本人の希望とアンネローゼからの願いで、最終的には承諾した。
未だに残るマリーンドルフ伯への疑念を払拭し、人心を安定させるためにヒルダの同行が有効であったのだ。
さらにヴァルハラ星域ではワーレンが未だ負傷の癒えぬミッターマイヤーと共に一万隻を率いて待機しており、不測の事態に対応することになっていた。
宇宙暦801年 12月15日、フォーク艦隊接近の報が入った。
艦数は、事前の情報通り一万五千隻ほどと推測された。
ジークフリード帝は、全軍で一万五千隻に当たろうと、三個艦隊でフォーク艦隊に接近した。
しかし、接近するとともにフォーク艦隊の実態がわかり、困惑を深めることになった。
その艦隊は一千五百隻ほどの艦艇以外は牽引する小惑星、欺瞞装置などからなっていたのだ。
困惑しながらも、攻撃を仕掛けると、フォーク艦隊は牽引してきた小惑星群を投棄して、蜘蛛の子を散らすように逃走を開始した。追撃しようとした帝国軍だったが、小惑星群に邪魔をされているうちに距離を取られてしまった。
後に残されたのは牽引されて来た小惑星群のみであった。
ビッテンフェルトは憤慨した。
「戦わずに逃げるとはどういうことか。まさか本当にただの陽動だったのか?」
ルッツは自身腑に落ちないながらもビッテンフェルトに反論した。
「逃げたと思って油断したところを今度こそ一個艦隊で襲う算段かもしれぬ。それに、この小惑星群にも警戒が必要だろう。ファルスター星域で痛い目にあったのを忘れたのか?」
各艦隊でも幕僚達が議論をしていた。
だが、敵のあっさりとした逃げっぷりに、罠だと考える意見が大勢を占めた。
とある士官は「敵が戦意もなく、ただ逃げているように思われます」と発言したが、賛同は得られなかった。
ベルゲングリューンがジークフリード帝に尋ねた。
「どうなされますか?」
「別に一個艦隊がいる可能性があります。警戒を怠らぬよう全艦艇に連絡してください」
「陛下」
ヒルダが呼びかけた。
「なんでしょうか?フロイライン・マリーンドルフ?」
「連合のヤン提督からも連絡があったように、これは陽動である可能性が高いと考えます。一個艦隊などどこにもおらず、いるとすれば連合艦隊に向かっている最中ではないでしょうか?オーディンには一万隻が待機していることも考えれば、我々は一刻も早く連合艦隊と合流すべきかと」
「しかし、そうでない可能性もある。斥候を放ち、一個艦隊の不在を確認してからでなければ動けません」
「陛下!」
「我々が優先するのは、連合艦隊よりもオーディンです」
ヒルダはなおも言いかけたが、今は何を言っても無駄だと思い直した。
……ジークフリード帝の頭には、一人の女性のことしかないのだから。
ヒルダにはそれが悲しかった。だが、何を悲しく思っているかについては、彼女自身よくわかっていなかった。
新銀河帝国軍は貴重な時間を浪費することになった。
フォーク艦隊の副司令官、アーサー・リンチ少将は、呑んだくれながらも、無事に新帝国軍から逃げ出せたことにほっとしていた。
司令官のフォークは徹底抗戦を叫んだが、ルドルフ2世からの撤退命令書をユリアンがリンチに預けていたことで、全艦速やかに逃走に移ることができたのだった。
今、フォークは司令官室に閉じ込められていた。
フォークとリンチは、事前にユリアンから指示を受けていた。
戦力を偽装しつつオーディンに向かい、帝国軍と接触したらすぐに逃げろ、と。
ユリアンから笑顔でチョコ・ボンボンの包みを渡されたフォークがその場で卒倒したため、指示を聞くのはリンチの役回りとなった。
酒瓶を片手に酒気を漂わせながらリンチは尋ねた。
「戦わないでいいのか?」
ユリアンは笑った。
「一千五百隻で戦えなんて無茶は言いませんよ。しかし、絶対に捕まらないでください。お願いしたいことはそれだけです」
「それだけか?」
「ええ、それだけで敵は勝手に自縄自縛に陥ります」
リンチは自嘲した。
「それだけのことすらできないかもしれんぞ。エルランゲンで民間人を見捨ててまで逃げ出したのに結局帝国軍に捕まった男だぞ?」
ユリアンは笑みを引っ込めて、少し真面目な顔になった。
「エルランゲンであなたがあっさり捕まったのは、ヤン提督の策略があったからでしょう」
「何だって?」
「あなただって逃げられる算段を立てた上で逃げたはずだ。ヤン提督としては、帝国軍にあなたが逃げたことを気づいてもらわなければいけなかった。だから、確実に気づくように仕向けたんです。帝国軍に密告するとかしてね」
証拠のある話ではなかった。自分がヤン提督の立場ならそうしただろうというだけの話だった。
だが、リンチ少将には思い当たる節があったようだ。
「ヤン・ウェンリー、あの男……」
酒で濁り切っていたリンチ少将の目に少しだけ生気が戻ったようだった。恨みという名の生気が。
ユリアンは心の中で少しだけヤンに謝った。
「民間人を置き去りにしたあなたの行為は到底褒められるものではない。ですが、ぼくはあなたの能力自体は疑っていません。同盟軍でも将来を嘱望されていたあなたの能力は。だから、お願いします」
「わかった……」
リンチはなおも考え込みつつも、返事だけはしっかりとユリアンに返した。
そして今に至るのだった。
「さて、これからどうしたもんかねえ」
リンチは酒瓶片手に一人艦橋で呟いた。
ユリアンは、逃げた後は好きにしていいと言っていた。ルドルフ2世にはうまく言っておくから雲隠れするつもりならそれでもいい、とも。
根拠地の場所は教えられていないのでそこに行くことはできない。
神聖銀河帝国軍のどこかの部隊と合流するか、逃げてほとぼりの冷めた頃に同盟に帰還するか。いや、帰っても家族が迷惑するだけだろうから、いっそ海賊になるか。
フォーク艦隊の構成員は、エルランゲンでリンチと共に捕虜になった者、同様に帝国軍捕虜となった同盟軍人で、何らかの理由で同盟に帰れず、それでいて軍隊にしがみついて生きざるを得ない、そんな者たちだった。
彼らはまともな司令官の元ではやっていけない。司令官がフォークやリンチのような人間だったから、ついてこられた者たち。
リンチとしては彼らのことも考える必要があった。歪んだ形ではあったが、リンチに責任感というものが戻ってきていた。
「まあフォークの大将にも意見を聞いてみるか……いちおう」
人生の負債が清算できたわけではない。それはリンチにもわかっていた。
それでも今回は逃走に成功したせいか、心なし軽くなった足でリンチは司令官室に向かった。