時の女神が見た夢   作:染色体

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第四部 27話 還るべきその場所へ

大要塞「(ルナ)」は、地球統一政府時代の月面都市と宇宙軍月面基地の遺構を再生・拡張する形で構築された。

 

黒旗軍の侵攻によってそれら月面施設はことごとく破壊されたが、大深部区画までは完全には破壊しきれなかった。

 

大深部において黒旗軍による地球大虐殺を傍観せざるを得なかった者たち。

彼らが地球教団の主要母体となった。

 

彼らは月に潜みつつ、黒旗軍撤退後の地球に起こった戦乱に介入し、ついには統一に成功して地球教団を作り上げた。

 

名目上の総本部は地球に置かれたが、その根拠地は月のままであった。

しかしそのことは地球の総本部の一部メンバーにしか知らされることはなかった。

いつ何時地球が再び侵攻に晒されるかわかったものではなかったからだ。

 

彼らは地球防衛のため、捲土重来のため、月面地下の開発に力を入れた。そのために地球の復興が遅れるのも承知の上で。

 

その青写真は地球統一政府時代に作り上げられていた。シリウス戦役における地球圏防衛の最終ラインとして月を要塞化する計画が立てられていたのだ。

予算も、資源も、時間も、何もかもが足りず、黒旗軍の攻撃を受けるまでに実現はされなかった。しかし、いまや時間だけはいくらでもあった。

九百年の時と、地球教徒達の献身によって、月の要塞化は完成した。

 

それは史上空前規模の工事となった。

月の地下、合計で百万立方キロメートルを超える空間が開発された。

 

完成した月要塞は恐るべきものとなった。

最大収容人員一億人、最大収容艦艇十万隻。

その人員を賄うだけの食糧生産プラントと、艦艇整備のための物資を賄い得る工業プラントを兼ね備え、大規模艦艇の新造能力まで保有していた。

さらに、そのために必要な資源も、エネルギーも、その殆どを月内で自給することが可能だった。

単独で、半永久的に、戦争を続けることが可能な真の恒久要塞がそこに実現していたのだ。

 

 

ガイエスブルク要塞の三倍以上の射程の攻撃は、ガイエス・ハーケン同様の、硬X線レーザー砲群によるものだった。

 

月要塞の硬X線レーザー砲は、月面の八箇所にそれぞれ十二門ずつ設置されていた。

各レーザー砲はそれぞれガイエス・ハーケンのそれを凌駕する出力を持っていた。その実現には、溶融した月コアと月面の温度差による無尽蔵のエネルギーが利用されていた。

 

それぞれ固定砲台であるため、射角は制限されるが、神聖銀河帝国はこれを月軌道上の鏡面装甲を持った反射衛星で反射させて死角をカバーしていた。

 

単独の硬X線レーザーでは流石に射程距離20光秒を超える攻撃は実現できなかった。

しかし彼らは、多数のレーザーを対象の位置で重ね合わせて強めることで、通常では実現し得ない遠距離をも有効攻撃範囲に収めたのだった。

彼らはこのシステムを「アルテミスの弓」と呼んだ。

 

 

 

月の周囲をいまや百二十個の衛星群が取り巻いていた。

六十個の反射衛星と、六十個の防衛衛星。

防衛衛星は「アルテミスの首飾り」のそれと同等のものだったし、反射衛星にもアルテミスの首飾りの装甲技術が使われていた。

 

多数の衛星から成る防衛システムの基本構想は、元々地球統一政府の月要塞構想にまで遡るものだった。

あくまで構想のみで終わっていたそれを実現させたのは、フェザーンの支援を受けた同盟であった。

過去の知識はあっても、それを構築する技術力、運用ノウハウを持たなかった地球教団は、フェザーンを介して同盟から技術を盗み、バウンスゴールら技術士官を拉致して運用ノウハウを手に入れることで、アルテミスの首飾りの真の姿、原構想時の姿を実現したのだった。

 

反射衛星「アルテミスの弓」と、防衛衛星「アルテミスの首飾り」を備えた月要塞支援衛星システム「アルテミス」、それが九百年の時を越えて顕現していた。

 

 

 

ヤンは艦隊に指示を出した。

「後退しつつ、散開。さらに作戦Dを実施」

 

後退を始めたヤン艦隊を眺めながらルドルフ2世は呟いた。

「無駄なことを。我々はお前達を十分に引きつけてから攻撃したのだぞ。早う降伏するがよい」

アルテミスの弓による攻撃は最大で35光秒まで有効だった。

これは艦砲の有効射程のはるか外から攻撃が可能であることを意味するし、ヤン艦隊がその範囲を抜ける時には艦隊の殆どが失われているものと思われた。

 

だが、ユリアンはさらに進言した。

「ヤン・ウェンリーの旗艦パトロクロスを狙い撃ちしてください。そうしなければこの戦いは終わらないでしょう」

 

ルドルフ2世はその進言を容れた。

アルテミスの弓がパトロクロスに向けられていくのを見ながら、ルドルフ2世はユリアンに尋ねた。

「本当によかったのか?」

ユリアンは少年皇帝の問いの意味がわからなかった。

「どういう意味でしょう?」

 

ルドルフ2世は言い淀んだ。

「ヤン・ウェンリーについて卿が話すところを見ていると、その、まるで師匠について誇らしげに語っているように思えてな。余にとってのメルカッツのような……」

 

ユリアンは自問した。

そうなのだろうか?そうかもしれない。

「そうかもしれません。ですが、同時に仇敵でもあります。小官はこの戦いに私情を挟むつもりはありません。旗艦を狙うよう進言しましたのは、ヤン・ウェンリーを倒すまでは、安心できないからです」

 

「安心?」

 

「はい。ヤン・ウェンリーという男は勝算のない戦いはしない男です。そして、我々が何も用意していないなどとは思っていなかったでしょう。であるならば、何らかの策を用意していたはずです。それが実行に移される前に彼を倒すべきです」

 

「ふむ、やはり信頼しているのだな」

 

「……敵手としては尊敬しています」

 

「ふむ、では余はその男を打倒して卿から君主としての尊敬を得ようか」

 

ユリアンは返事に困って黙って一礼をした。そうしつつも、思った。

ヤン・ウェンリーがこの程度でやられるようなお人好しだったなら、ぼくもこんな苦労はしていないのだけど、と。

 

彼らが話をしている間にも、パトロクロスは追い詰められていった。アルテミスの弓の照準の甘さと、パトロクロス自体の回避行動によって、二度までは砲撃を避けることができた。しかし、三度目の砲撃を避けることはできなかった。

パトロクロスは旗艦としての意地か、一瞬だけ耐えた後、跡形もなく消滅した。

 

 

「やっぱり旗艦を変えていてよかった」

ヤンは息を吐いた。

パトロクロスは、同盟軍連合領駐留艦隊司令官をパエッタの代わりにヤンが務めるようになって以来、ヤンの乗艦であり続けた。しかしそろそろ全面改修の時期を迎えており、それに伴って艦隊旗艦が変更されるはずだったのだ。

慣れている同盟製がよいというヤンの希望によって、同盟から新造の旗艦級戦艦が輸入され、ヤン艦隊に既に配備されていた。

しかし、ヤンが持ち前の怠け癖を発揮して引っ越し時期が遅れてしまっていたのだ。

……このような時に囮として使うための深慮遠謀だったと考えるのは贔屓目が入り過ぎだろう。

いまや旗艦機能は新鋭戦艦ヒューベリオンに移管されていた。

この艦は、軍縮を進めていた同盟において廃艦となった旗艦級戦艦の名を引き継いでいた。

旗艦級としては小型の船体に、従来の旗艦級と同等の攻撃力、同等以上の機動力を備えた最新鋭艦である。

月の父親とされる神の名を冠した艦で月と戦う羽目になったことに、ヤンは皮肉を感じていた。

 

 

「しかし、これは勝てるのですか!?」

ラオ大佐がヤンに尋ねた。

 

ヤンは頭をかいた。

「予想より少しばかり強烈だったけど、まあなんとかなるさ」

いつも通りの気の抜けたその返答に古参の幕僚は安心し、一部の新参は不安を新たにしたようだった。

 

ヤンは隣の副官を見た。

「貴官も不安かい?」

 

マルガレータの返答はいつも通り真っ直ぐだった。

「いいえ。ヤン提督は勝算のない戦いをなさいません」

「……ありがとう」

マルガレータの信頼に満ちた目を眩しく感じて、ヤンはスクリーンに目を移した。

 

ヤン艦隊は、アルテミスの弓の猛威に晒されつつも後退を続ける一方、一千隻ほどの部隊を前進させていた。

前進した部隊はアルテミスの首飾りの攻撃を受け、月面に到達するまでにすべてが失われた。

だが、その部隊が消滅した後には、一定の靄のようなものが出現していた。

それは鏡面装甲材の小片群だった。

 

それはヤン艦隊と月面の間に広がった。

レーザーはその靄を通過する間に散乱し、威力を減じた。

レーダーにも、光学照準にも障害が生じた。

 

ルドルフ2世は舌打ちした。

「ヤンめ、最後の最後に小細工を残しおって」

 

ユリアンが冷静に指摘した。

「ヤン・ウェンリーがやられたにしては艦隊の混乱が少ない。おそらく予め旗艦を変えており、パトロクロスを囮に使ったものと思われます。申し訳ありません。してやられました」

「いや、よい。アルテミスの弓が完全に無効化されたわけでもないしな」

 

事実、ヤン艦隊はいまだにその数を減らし続けていた。

アルテミスの弓の有効射程から外れた時には残存艦艇は一千隻程になっていた。

 

月に近づいた艦艇のうち8割以上が既に失われていた。

しかし、彼らはなおもそこに留まっていた。

 

 

「あそこまで数を減らして一体何が出来るというのか?今頃になって援軍を待っているのか?数を頼めば陥せるほど月要塞は容易くないぞ」

 

ルドルフ2世の言葉から、ユリアン自身も疑問を生じた。

 

たしかに、強大な月要塞を前に戦力が二万隻でも三万隻でも結果に違いはないだろう。

ヤンは集めようと思えばジークフリード帝に掛け合って、そのぐらいの戦力は事前に集められたはずだ。それを集めなかったということは、艦隊の規模によらずに、我々を降伏させる手段をヤンが持っているということではないか?勿論、ヤンがただ油断していたという可能性も完全には否定はできないが……

 

その時オペレーターが警告を発した。

「亜光速で月に接近する物体あり!巨大な氷塊です!」

 

ヤン艦隊の散布した鏡面装甲材によって撹乱を受けつつも、月面から発進して宙域を監視していた無人偵察機がその姿を捉えていた。

アルテミスの首飾りがミサイルやレーザーで迎撃を行なったが破壊には至らなかった。

 

数十秒後、それは月面に衝突した。その振動は大深部の管制室にまで届くものだった。

アンスバッハが被害状況の確認を急がせた。

 

月面には新たに巨大なクレーターが出現していた。

 

それだけでは終わらなかった。

オペレーターがさらに警告を発した。

「同様の氷塊が多数接近中!」

 

 

この時ヤン艦隊の人員の殆どは木星にとどまっていた。

旗艦ヒューベリオン以下少数の艦のみが有人艦で、それ以外は無人で運用していた。だからこそ気前よく神聖銀河帝国に破壊させたのだった。

 

アッテンボロー率いる部隊とジンツァー率いる新帝国の部隊は木星の衛星から一個あたり10億トンの氷塊を切り出し、それにバサード・ラム・ジェット・エンジンを取り付けて加速させた。

氷塊は亜光速まで加速して、月に衝突したのだった。

 

ヤンはこのような氷塊を百個以上用意し、木星系から月に向かって次々に加速させたのだった。

木星ではさらに同様の氷塊を準備中であった。

 

事態を把握したルドルフ2世は、驚いたものの、特段慌てはしなかった。

「この程度の攻撃で、月を陥とすことは叶わぬ」

実際その通りだった。

月表面に近い区画には流石に損傷が見られたものの、その主要区画は、大規模な攻撃や、小惑星の衝突も想定して、より深部に設けられており無傷のままだった。

 

フレーゲル男爵が尋ねた。

「アルテミスの弓や首飾り、X線レーザー設備は無事か?」

技術少将に昇進したシュムーデがこれに答えた。

「一部破壊されたものの、殆どが無事です。攻撃の来る方向が木星方面に限定されていますから、元々破壊可能な目標は限られています」

 

シュトライトが別の懸念を表明した。

「氷塊から溶け出た大量の水が施設内に浸入してくる恐れはありませんか?かつての地球侵攻においてジョリオ・フランクールが行なった水攻めの再現を狙っているのでは?」

 

その指摘には動揺する者も出たが、シュムーデはこれにも冷静に答えた。

「その教訓は月要塞に既に活かされています。水が深部に浸入しにくい構造になっている上に何重もの防壁を設けてありますし、貯水槽も2000億トンを超える十分な余裕があります。実際上問題は生じないと言っていいでしょう」

 

ド・ヴィリエも同意して薄く笑った。

「これはいよいよヤン・ウェンリーの智略の泉も尽きましたかな」

 

ルドルフ2世が管制室を見渡して言った。

「どうやらこの戦いは我々の勝ちだな。ヤン・ウェンリーを捕らえるなり、殺すなりできなかったのは残念だが」

 

グリルパルツァーがすかさずルドルフ2世に進言した。

「今からでも遅くはありません。シリウスで殆どの艦艇を使い潰したとはいえ、この月要塞にはまだ戦闘艦艇が二千隻ほど残っております。命じて頂ければヤン・ウェンリーを捕えてご覧にいれましょう」

 

「うむ。だが、ひとまずはこの攻撃が一段落してからだな。現状では港を開くこともできぬ。この攻撃、嫌がらせとしては効果的かもしれんな」

 

管制室には安堵の空気が漂っていた。

やはり、この月要塞は無敵である。

 

だが、ユリアンだけは厳しい表情を崩さず、しきりに何かを調べていた。

 

 

 

 

同じ頃、ヤンはヒューベリオンの指揮卓に胡座をかいて、ブランデー入りの紅茶を飲んでいた。

「どうやら成功したみたいだ」

 

マルガレータが懸念を表明した。

「ですが、神聖銀河帝国が気付かなければ少し困ったことになりはしませんか?」

 

「大丈夫さ。向こうにはユリアン・ミンツがいる。きっと気づくさ」

 

「……」

マルガレータとしては、ヤンがユリアンに向ける妙な信頼が気にくわなかった。ユリアンなど、人の心に取り入るのが上手いだけの詐欺師ではないか。

 

マルガレータの心の動きには気付かずヤンは続けた。

「気付かない時はこちらから知らせてやるだけさ。手品を自ら解説する羽目になったマジシャンみたいな状況は、なるべく避けたいけどね」

 

 

そうしている間も氷塊攻撃は続いていた。

 

 

ヤンの期待どおり、ついにユリアンが恐るべき事態に気づき、ルドルフ2世に警告を発した。

「このままでは月が破壊されます!」

 

ルドルフ2世は最初ユリアンが下手な冗談でも言ったのかと思った。

しかしその深刻な表情を見て、詳しく話を聞くことにした。

「ミンツ元帥。氷塊程度では月は破壊はできぬぞ」

 

「直接の攻撃としてはその通りです。しかし、陛下。陛下が、質量兵器のみで、惑星の軌道上にある天体を排除することを考えた場合、直接破壊すること以外にどのような手段を思いつきますか?」

 

ルドルフ2世はその問いにしばし考え、思いついた回答に驚愕した。

「まさか、ヤン・ウェンリーは!?」

 

ユリアンは頷いて、成り行きを見守っていた者達に説明を始めた。

「ヤン・ウェンリーは亜光速まで加速した氷塊を月に一定の向きからぶつけ続けることでその角運動量を失わせようとしています。月の角運動量が低下すれば、月と地球の距離が近づきます。つまり……」

 

ユリアンは一旦言葉を切って唾を飲み込み、続けた。

 

「ヤン・ウェンリーは月を、地球に落とそうとしています」

 

 

 


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