織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
飛翔、飛翔。
エネルギーの許す限り飛び続ける。行き先など何処でもよかった。帰るべき場所など何処にもなかった。
ただ、ここではない何処かへ逃げ去りたかった。
ともかく学園を出る。ここには今一瞬たりと身を置きたくない。絶望が、深海の重圧めいて我が身を掴み潰そうとする。
早く、一刻も早く。
『量子反応。武装展開を確認。敵性IS接近』
「!?」
地上からの上昇攻勢。センサーが敵機の方角を示した。
上空を仰ぐ。ハイパーセンサーおよび肉眼が対象を捕捉する。
肥大した肩部装甲、スパイクアーマー……あれこそは空間歪曲式衝撃砲の生成装置に他ならない。空間へ直接作用することで機能を発揮する特殊兵装、それを搭載した数少ないISの内の一機。
中国産第三世代型IS『甲龍』。そして、その操縦者は。
「凰鈴音だと……!? 貴様、なんのつもりだ!?」
返答はなく、代わりに投げ寄越されたのは肉厚の刃だった。
高速回転しながら迫る青龍刀を
「馬鹿め――――」
眼前に敵機が現れた。
「な!?」
無論のこと、瞬間移動などという単一仕様能力が敵機に発現した訳ではない。
投擲した武器を隠れ蓑に接近して来たのだ。
言葉にすれば如何にも容易い。だが実態は、巨大なISのボディを半欠けの刃程度で完全に覆い隠すことなど不可能。
つまり敵は、こちらの死角と油断を的確に読み切っていた。
両腕にプラズマ刀を生成、振り下ろされた青龍刀を両腕で受け止める。
「ぐぅっ!」
「っ……」
攻撃を阻まれた敵機、凰鈴音は舌打ちしてさらに刀身を押し込んだ。
問題ない。単純なパワーならこのシュバルツェア・レーゲンのスペックは第三世代の中でも群を抜く――――
「ごふっ……!?」
『腹部装甲に被撃』
衝撃と共に、無感情な機体ダメージ報告を聞く。
蹴られたのだ。この近距離で肉弾戦に移行するのは至極自然な戦闘風景だろう。
だが、現機体状況、とりわけ肉体状況において、腹は重篤だ。腹は不味い。先の戦闘で、提陀羅の頭突きを諸に喰らい表皮から内臓、背骨にまで損傷を負っている。
そこを、的確に蹴り抜かれた。
あまりの痛みに視界が惑乱し揺動する。意識が白光して飛び、ほんの刹那であるが姿勢制御すら叶わなくなった。
その一刹那の隙、致命的な無力を晒す。
「ぎぃっ!!?」
肩から胸、頭部、脇腹、手足、連撃に次ぐ斬撃。切り刻まれ、袋叩きにされる。
わずか数秒の内に数十度。機体ダメージが危険域に突入した。具現維持限界のさらに先……操縦者の生命維持限界へ。
右翼推進器大破、腕部装甲中破、シールドバリア出力低下。
(こんな、この程度の相手にぃ!!)
提陀羅との戦闘による機体ダメージは己が想像する以上に甚大だった。運動性、機体および肉体の同調、パワーアシスト、推進器出力、PIC出力、どれ一つ本来の性能に届かない。
そして相手も悪い。よりによって近接格闘能力に秀でた甲龍と、こんな状態で。
……それが負け惜しみ以上の意味を持ち得ないことは理解している。
しかし。
「図に乗るな! 素人がぁ!」
大上段から青龍刀の打ち下ろし。頭蓋骨ごと叩き割るという想念すら感じられた。
だが、敵機の全容が視界に収まる。その瞬間、一気呵成だったその攻勢が停まる。刃も機体も肉体も、慣性を無視した空間固定。
停止結界に、その身を捕らえた。
調子付き、近接戦闘に固執したのが仇だ。こうなってしまえばもはやこいつに打つ手はない。
「墜ちろ!」
手刀を振り上げ、急所を狙う。手始めに絶対防御を連続発動させ、ISを剥ぎ取ってや――――
『警告』
「なに!?」
センサーが警報と、危険物体の位置情報を神経伝達する。
反射的に後方へ退いた。同時に、鼻先ぎりぎりを掠め過ぎる、それは。
半欠けの青龍刀。
まさか、最初に、接近の隠れ蓑として投擲した刃が。
狙っていたというのか。己がAICを使うと予測して。
いや。それよりも。
視界が途切れた。文字通り、肉厚の刃は自機と敵機の間を断ち切るようにして飛び込んできた。
一瞬でも視線を外せば、停止結界は――――
「バーカ」
紅き龍、甲龍の斬撃が頭頂部を割った。
「が、ぁ……!!!」
実際に、頭蓋が断ち割られることはなかった。
絶対防御が最後の牙城となって我が身を守った。しかし、発動によるエネルギーの大幅な損耗が。
これ以上はもうISを維持できない。生身で空中に放り出され、海面へ落下する。この高度から落ちれば無事では済むまい。肉体的にも社会的にも死は約束されたようなものだろう。
「まだだ!! まだ!!」
もう一度、敵機を停止結界に捕らえれば!
まだ。まだ私は、何も。何一つ為し遂げられていない。たった一つの想いすら。
どんなに否定されても。どんなに無価値だと断じられようと。
それでも、私は……。
「停まれぇ!」
今一度AICを発動。眼前で佇む敵機を容易くその能力下に掌握した。
夜空の只中に、
??? 何故。
何故、敵機は突然動きを止めた?
紅き機影、その背後で。
――――光が瞬いた
夜空に散華する、光。幾条もの光の花弁。
レーザー光。
それが、ぐにゃりと。
静止する甲龍を避けるかのように曲がる。蛇の蛇行めいて、偏向し、泳ぎ、しかして目指すはただ一点。
蒼き熱線の雨が
「――――」
最後の絶対防御。具現維持限界。消え去る装甲。夜空へと投げ出される肉体。
そして光。
一条のレーザーが横合いを通り過ぎた。
ふと見れば、右腕がなかった
「……ぁ……ぇ……」
不思議と血は出ていない。熱線に焼き潰されたのだろう。
声すら出ない。痛みが感覚器の許容量を超えていた。
何も感じない。ああ、でも、ひどく寒い。
心が、寒い。
誰か。お願いだ。誰か暖めてくれ。
誰か。誰か。
(教官)
貴女さえ居てくれればそれでよかった……ううん、貴女が、存在するというだけで私は、私の心はこんなにも暖かかった。それだけで、よかったのに。
どこで間違えてしまったのかな。日野仁に敗北した時? 織斑一夏を傷付けた時? 教官と再会した時? いやきっと、最初からだろう。
最初から思い違いをしていた。貴女からの愛を欲しいなどと思ってしまった。
欲しがる必要などなかったのだ。欲張って、要らない
そうだ。私は、ただ。
――――貴女を
暗く黒い、冷たい海。
それが私を包み込んだ。
沈み、堕ちて。
「ここまで、ですわね」
「まだ生きてる」
高高度からの海面落下。まず間違いなく重傷を負うだろう。
しかし、確実じゃない。運が良ければ生きて、学園か、近くの陸地へ流れ着く可能性もある。
ハイパーセンサーで周辺を探査。
首を落とせば、その心配もない。牙月の柄の握りを改める。
「いいえ、
それに静かな待ったが掛かる。
「間もなく学園の監視網が復旧するそうです。これ以上のジャミングも、発覚して咎められれば今後の活動に支障を来します」
「誰の所為で仕損じたか勿論分かって言ってるんでしょうね?」
「ええ、それはもう。どこぞの狂犬が勢い余って敵に近付き過ぎた御蔭ですわ」
視線と、次いで機体を手繰ってそれと向き合う。
夜の中でさえ蒼が冴える。目にも鬱陶しい鮮やかさ。セシリア・オルコットのブルー・ティアーズ。
「自分の
「あら、無様に敵に拘束された御方を、その無いテクニックで助けて差し上げたのですが。他力本願は一体どちらでしょうねぇ」
「あんたがここまでヘボだって知ってれば止めなんて任せなかった。うん、その一点に関しては私の落ち度でいいわ」
「わたくしも、狂犬に
熱した鉄の針で、向こうは凍て付いた氷柱で。
鋭利な視線を突き刺し合う。このまま殺し合いに発展したところで何の問題があろうか。
「……時間の無駄ですわ」
「同意。私らは
「あら、よくお解りですのね」
打って変わって上機嫌に、蒼い少女は笑みを浮かべた。
「今宵の主役は仁様と一夏様。そして
少女の頬が紅く染まる。喜びと悦び、高揚を隠そうともせず。ただただ感情のまま打ち震える。
「あの怒りが、一夏様への愛を証明するのです。そも疑いようもありませんわ。全てを壊し、理性すら熔かすほどの、あの愛……あぁっ、あぁ! 素敵です
少女の歌劇的な、大仰な台詞回しに嘲笑と鼻を鳴らす。
が、しかし。
悦びを覚えているのは自分とて同じだった。
日野仁は、巌のような男である。それは外見的な武骨さであり、精神の剛堅さという二重の意味合いを含む。
他者に怒りを発し、感情の赴くまま暴力を振るうなど、仁は断じて許さない。誰よりも自分自身を許さない。
利己心、と呼ばれるものを何処かに置き忘れてしまったような、利他と自戒の権化。それが日野仁。
けれど、ただ一つ、その戒律を破るものがあった。
「ふふ、当然よね」
織斑一夏。日野仁を糧として生存する少年。
その生命を脅かす者、その安息を踏み荒らさんとする者をあの男が許す筈がない。
そして顕現した。絶対禁戒として封印された男の暴威。神威が。
愛の証明? 下らない。セシリア・オルコットの言葉を嗤う。
そんな
織斑一夏と日野仁は一心同体。不可分の絆そのものなのだ。
織斑一夏を傷付ける、それ即ち日野仁を損壊させることと同義。否、同一だ。
一夏の為に仁は怒る。一夏の為に仁は殺す。何者であろうとも。
それが全て。
「……だから、アレはあんたが殺さなきゃダメじゃない」
「ええまったくに。ほとほと余計なことをしてくれますわ、あの淫売がぁ……」
一夏を傷付けた女、仁が手ずから殺すべき敵をみすみす逃した。
あの女、織斑千冬が。
「邪魔ね」
「邪魔ですわ」
完成された絆に、墨の一滴の如く瞭然と現れた不純物。
「殺してやる」
「消し去って差し上げる」
敵の強大さは筆舌に難く、極大の実感で思い知っている。
自分一人ではどう足掻こうと不可能。夢のまた夢の夢。
協力者……使い潰しの利く戦力が要る。だから、この女と手を組んだ。否応は無い。あの不純物を取り除く為ならこの程度のことは許容する。
そう、この程度なら。
(あの女を除いたら)
(あの女を焼き払ったら)
視線が衝突する。
何も不思議はなかった。自分達は利害を同じくする者同士。
ならば最後には殺し合う。
((次はお前だ))
それはとてもとても、自然なこと。
緑地公園の小高い丘。東屋の中で一人の少女がベンチに腰掛けている。
視線は前方、丘の向こうのさらに向こう。
ハイパーセンサーの部分展開により、彼女の視力は長距離望遠カメラを凌ぐ。
「……はい、じゃあ回収よろしく。大事な大事な彼の腕なんだから、傷一つでも付けたら君ら全員の首が飛ぶよ……うん、わかってるならいいよ」
少女は笑みを刻んだ。幼さの残る美しい顔に、冷たく酷薄な色を塗り込めて。
「あ、それと、一応海の方も浚っておいて。もしかしたらあの娘も回収できるかもしれないし。生体反応はまだ拾えてるからまー、生きてるでしょ。再利用できそうならウチのラボで引き取るからさ」
その後、二三事務的なやりとりを繰り返して通信を終了する。
一仕事終えた達成感か、それとも疲労感か、自然に吐息が零れていた。
「だから言ったじゃないか、ラウラ。欲張っちゃダメだって。織斑一夏だけ殺していれば、少なくとも君の復讐は完遂できたのに……うふふふ、仁にまで手を出そうとするから、なーんにも為し遂げられなかったね」
くすくすと、小鳥の囀りのように笑う。けれどそこに呆れはあっても、嘲りの色は微塵と含まれていない。
「ありがとう、ラウラ。心から感謝してる。本当だよ? だって」
優しく少女は笑みを深める。慈愛すら込もった瞳で微笑を湛える。
網膜投影ディスプレイには先程からずっと同じ画像だけが映し出されていた。
獣の如く怒り吼える、男の顔が。
「僕の知らない彼の
夜の静かな帳の下で、少女の笑い声だけが響いた。