ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと賢者の石」編
100章「予防的措置(その1)」


一九九二年五月十三日。

 

揺れる油灯の明かりにアーガス・フィルチの渋面が浮かびあがっては消える。一行があとにしたホグウォーツ城の扉はもう遠くなり、野外の暗がりが近づいてくる。 足もとの道はぬかるんでいて、道としての輪郭がない。

 

冬のあいだはだかであった木々は、まだ完全には春を迎えていない。かぼそい指のように空にむかって伸びる枝々に着せられた葉はまだまばらで、節ばったすがたを晒している。 月はあかるいが、流れる雲もあり、一行はくりかえしその影にはいる。そのたびに、フィルチの油灯の弱い光だけを頼りとして歩くことになる。

 

そのあいだドラコは杖をにぎる手を離さない。

 

「これからどこに行くっていうの?」とトレイシー・デイヴィスが言った。 彼女とドラコは、門限をすぎてから〈白銀のスリザリン〉団の会合に行く途中でフィルチにつかまり、そろって居残り作業の罰を課されたのだった。

 

「いいからついてこい。」とアーガス・フィルチが言った。

 

ドラコはこの状況をはなはだ不満に感じている。 〈白銀のスリザリン団〉は学校の正式な活動と見なされるべきであり、 それがホグウォーツ全体のためになる活動なら、秘密組織とはいえ門限をすぎて会合をひらくことを許可されない理由はない。 もしまた一度でもこういうことが起きたなら、ダフネ・グリーングラスと話をつけてグリーングラス卿に話をとおしてもらおう。フィルチはマルフォイ家のやることに口をはさむものではないと思い知ることだろう。

 

ホグウォーツ城のあかりが見えなくなるところまで来ると、フィルチが話しはじめた。 「そろそろ、校則をやぶったりするんじゃなかった、って思いはじめたんじゃないか? え?」  手さげ灯のほうを向いていたフィルチの顔が、四人の生徒たちをふりかえって、にたりとする。 「それでいい……労働と苦痛こそ最良の教師というもの…… 惜しいことに、最近じゃもう、手首を縛って数日間天井につるす罰はやらなくなってしまったが…… その鎖はまだ部屋にとってあるぞ……また出番がくるときのために、念入りに油をさしてある……」

 

「あの!」とトレイシーがわずかにむっとしたような声で言う。 「あたしはまだ——そういう話を——聞いちゃいけない年齢なんですけど! とくに念入りに油をさした鎖の話なんかは!」

 

ドラコはフィルチの話を意に介していない。 アミカス・カロウなどとくらべればフィルチは恐れるに足りない。

 

背後にいるスリザリンの上級生二人のうちの女子が、無言でただ含み笑いをした。 そのとなりには、若干スラヴ系の顔立ちで、発音にもまだなまりがある長身の男子がいる。 この二人は三年生か四年生らしく、ドラコたちとは無関係な、ちょうどトレイシーがいま話しているような種類の校則違反をしてここに来ているのだという。 「フン。ダームストラングでは、足の指をくくりつけて逆さ吊りにするよ。 態度が悪いやつは、一本指で。 昔のホグウォーツは厳しかったっていうけど、まだまだだね。」

 

アーガス・フィルチは三十秒ほど無言になり、反撃のひとことを考えているようだったが、やがてくっくっと笑った。 「今夜の罰の内容を知っても、そんなくちをきいていられるかな!」

 

「あのね、だから、そういう話はあたしにはまだ早いんだって!」とトレイシー・デイヴィスが言う。 「もう何年かしてからじゃないと!」

 

道のさきには、明かりのともった一軒家があった。どこか寸法がおかしく見える家だった。

 

フィルチがピィっと口笛をふくと、イヌが吠えはじめた。

 

そして家のなかから、周囲の木々がやけに小さく見えるほどの人影があらわれた。 そのつぎに出てきたイヌは相対的に幼犬のようにに小さく見えたが、人影を別にして単体で見ればオオカミと見まがう大きなイヌだった。

 

ドラコは思わず視線をするどくしかけたが、自重した。 〈白銀のスリザリン〉団員たるもの、意識ある存在すべてに〈偏見〉なく接しなければならない。とくに他人の目がある場ではそうだ。

 

「なんだ?」と言うその半巨人の粗野な声。 手にもつ傘の表面が白く光っていて、フィルチの手さげ灯より明るいくらいだ。 もう片手には(クロスボウ)を持ち、上腕から矢筒をさげている。

 

「居残り作業の生徒たちだ。」とフィルチが大きな声で言う。 「〈森〉のあれを……食いものにしとるなにかを捜索する手つだいとして連れてきた。」

 

「〈()〉? あそこに夜行くなんてありえない!」とトレイシー。

 

「行くんだよ。」と言ってフィルチは視線をハグリッドからドラコたちへとうつし、にらみつける。 「〈森〉へな。これでおまえたちが傷ひとつなく帰ってきたなら、とんだ期待はずれだ。」

 

「でも—— そこは人狼がいるんでしょ、たしか。それにヴァンパイアも。人狼とヴァンパイアと女の子がおなじ場所にいたりなんかしたら、どうなることか!」

 

半巨人は眉間にしわをよせた。 「おりゃあ、てっきりあんたもいっしょに、七年生が何人か来とくれるんだろうと思っとたんだがな。 手つだいをさせるにしても、おれがずっと付きそうことになるんじゃなあ。」

 

アーガスは嗜虐的な顔つきで、さもうれしげにこう言う。 「それは自業自得だろう? こいつらも、悪さをしてつかまったら人狼が待っているということくらい、分かっていなくちゃな? こいつらだけで行かせるんだ。 そう面倒見よくしてはいられんのだよ、ハグリッド。罰なんだからな、これは。」

 

半巨人はやたらと深いためいきをついた(ふつうの男が〈棍棒打ちの呪文〉で肺の空気をすべてはきださせられたときのような音だった)。 「話ゃあ、わかった。あとはまかしとくれ。」

 

「夜明けにまた来る。生き残ったぶんはそのとき引き取る。」  フィルチはそう嫌味たらしく言ってからさっさと城のほうへ、手さげ灯を揺らしながら帰っていった。

 

「さあて。言っとくがな、今夜の仕事は危険だからな、余計なこたあするんじゃねえぞ。 こっちだ。ついてこい。」とハグリッドが言った。

 

一行は〈森〉のきわまで歩いていく。 大男は手さげ灯を高くかかげ、暗い木々のあいだへ消えていく曲がった獣道を指さす。 ドラコがそちらに目をやると、〈森〉からの風が軽く顔にあたった。

 

「この森で、なにかがユニコーンを食っとるようでな。」

 

ドラコはそれを聞いてうなづいた。たしかそんなような話を数週間まえに……四月のおわりごろに聞いたおぼえがある。

 

「つまり傷ついたユニコーンの銀色の血痕をたどる仕事?」とトレイシーが興奮した。

 

「それはない。」  ドラコはついでに反射的に嘲笑しそうになるのを思いとどまった。 「フィルチが居残り作業の通知をしてきたのは昼食中、今日の正午だった。 そのとき傷ついたユニコーンがいたのだったら、ミスター・ハグリッドはこの時間まで待ちはしない。それに、もしそういうものがいたとして、探すなら日中の明るい時間にする。 つまり……」  芝居に登場するレオン警部のしぐさをまねて、指を一本たてる。 「ぼくの推理では、これから探しにいくのは夜行性のなにかだと思う。」

 

「うむ。 ……あんたがそういう子だとは思わなんだなあ、ドラコ・マルフォイ。 そっちは……トレイシー・デイヴィスか。 たしか、生前のミス・グレンジャーのお仲間さんの。」  ルビウス・ハグリッドはもう二人の上級生スリザリン生のほうを向き、傘の光をあてた。 「そっちの二人はなんという名前だったかな? 見ない顔だ。」

 

「わたしはコーネリア・ウォルト。こっちはユーリ・ユーリィ。」と言ってスラヴ系の顔だちの、ダームストラングの話をしていた男子を指さす。 「彼の家族はウクライナのほうから短期滞在で来てるだけだから、ホグウォーツにいるのは今年だけ。」  男子はうなづいて、ごくわずかに軽蔑するような表情をした。

 

「こいつはファングだ。」と言ってハグリッドはイヌを指さした。

 

五人は森のなかに歩みをすすめた。

 

「ユニコーンを殺すものがいるとしたら、なんだろう?」としばらく歩いてからドラコはそう口にした。 ドラコも〈闇〉の生物について多少知ってはいるが、ユニコーンを捕食するとされる生物は思いあたらない。 「そういうことをする生きものというと……だれかこころあたりは?」

 

「人狼!」とトレイシーが言った。

 

「ミス・デイヴィス?」とドラコが呼びかけると、トレイシーがふりむく。ドラコは無言で頭上の月を指さした。 だいぶふくらんではいるが、まだ満月ではない。

 

「あー……そうだった。」とトレイシー。

 

「この〈森〉に人狼はいねえよ。」とハグリッドが言う。 「だいたい、あれはふだんはただの魔法使い(にんげん)だからな。 といって、オオカミでもねえ。オオカミだったら、ユニコーンは走れば十分逃げ切れる。 ユニコーンっちゅうのは強い魔法生物(いきもの)でな。おれも手負いのユニコーンははじめて見た。」

 

ドラコはそれを聞きながら、自分でも謎解きをやろうとしかけてしまった。 「ユニコーンの足でも逃げ切れない相手がいるとすれば、それは?」

 

「足のはやさじゃあ決まらん。」と言ってハグリッドは読みとりがたい目でドラコをちらりと見る。 「動物には狩りの武器がいろいろとある。毒やら闇やら罠やら。 夜魔(インプ)は目に見えず、耳にも聞こえず、記憶にものこらない。獲物に気づかれないまま顔をかじりとれるくらい隠れるのがうまい。 いくら調べてもそういう新しい工夫が見つかるのが、生きもののおもしろいところだ。」

 

月に雲がかかり、森が影にはいった。ハグリッドの傘の光だけがのこった。

 

「おれはな、パリの多頭蛇(ヒュドラ)じゃあないかと思っとる。 こいつは魔法使いにとっちゃたいした敵にゃあならん。手をゆるめなきゃあ、負けっこないんだ。 いいか、あきらめさえしなけりゃいいんだ。 それが実際このヒュドラを相手にすると、あっさりあきらめちまう動物が多い。 ヒュドラの首をぜんぶ切り落とすのにゃあ時間がかかるんでな。」

 

「ふん。」とダームストラング生が言う。 「うちじゃ、ブーフホルツのヒュドラと対戦させられるよ。 これのほうがもっと、考えられないくらいやっかいだ。 実際、一年生は自分が勝てるところを考えられなくて、 いくら勝てるんだと言ってやっても通じない! 一年生が理解するまで教師は命令しつづけるしかない。」

 

三十分ほど森の奥へむけてどんどん歩きつづけると、木々が密になり獣道をたどることが事実上できないほどになった。

 

そこでドラコの目にはいったものがあった。木の根にどろりと、月光を受けて光る液体があった。 「あれは——」

 

「うむ。ユニコーンの血だ。」  ハグリッドは残念そうにそう言った。

 

太いオークの枝どうしの重なりのむこうに、ひらけた空間が見える。そこにユニコーンの遺体が美しく悲しげによこたわっている。周囲の土は血をふくんで月光色に光っている。 毛色は白色ではなく淡い水色(ペールブルー)……すくなくとも月のあかりのもとではそう見える。 細い足が奇妙な角度に曲がって突き出て、折れていることがひとめでわかる。黒い葉の上に投げだされたたてがみは濃緑色だが真珠のような艶がある。 (ひばら)には、小さな白いギザギザの円と、そこから八方向にのびる線がある。 半分もぎとられた腹部の断面はなめらかでなく、歯型のようなものがあり、そこから骨と内臓が露出している。

 

ドラコはなぜかのどの奥がしめつけられるように感じた。

 

「この子はな……」  ハグリッドの場合、残念そうなその小声は通常の男性の声の大きさとかわらない。 「けさこの場所で見たときにはもう、このとおり死んでいて、ぴくりともしなんだ。 この子は——生きているときに——おれがこの森で会ったはじめてのユニコーンでな。 『アリコーン』という名前をつけてやった。もう名前もなにもなくなっちまったがなあ。」

 

「ユニコーンに、『アリコーン』なんて名前をつけるんだ。」と上級生女子が言った。すこし乾いた声だった。

 

「その子、つばさはないみたいだけど。」とトレイシーが言った。

 

「アリコーンってのはユニコーンの角のことだよ。」とハグリッドがいくらか大きな声で言う。 「つばさのあるユニコーンのことをそう呼ぶという話があるそうだが、どこから出てきたのやら。だいたいそんな生きものなんぞ聞いたこともない。 これはただ、イヌに(ファング)って名前をつけるようなもんでしかない。」と言って、自分のひざにもとどいていないオオカミのような大犬を指さす。 「ほかに、どんな名前がある? 『ハンナ』とかかい? それより()()()()()()意味がある名前がいいと思ってこうしたんだ。そうするのが礼儀ってもんだよ。」

 

返事がないのを見て、もう一呼吸おいてから、ハグリッドは首肯した。 「この場所から捜索をはじめる。ここが最後の襲撃場所だからな。 二手にわかれて、別々の道をいくんだ。 そっちの——ウォルトとユーリィは、ファングを連れて、むこうの方向にいけ。 ファングがいりゃあ、この〈森〉のどんな生きものも手だしはしてこねえ。 なにか見つけたら緑色の閃光を打ち上げろ。困ったときは赤色の閃光を打ち上げろ。 もう二人——デイヴィスとマルフォイは、おれについてこい。」

 

〈森〉は暗く静かだ。 捜索をはじめるとルビウス・ハグリッドが傘のあかりを弱めたので、ドラコとトレイシーは月あかりだけをたよりに動かなければならくなり、足をとられることもあった。 (こけ)のむした切り株や、音でだけ聞こえる川のそばを通りすぎる。 ときどき枝と枝のあいだから月光がさして、落ち葉にたれた青灰色の血が光る。その血のあとをたどって、一行は問題の生物がユニコーンを最初に襲撃したであろう場所へと向かう。

 

「おまえさんについては、いろいろうわさがある。」  しばらく歩いてからハグリッドが小声でそう言った。

 

「まちがったことは言ってないよ。」とトレイシーが言う。「どのうわさもね。」

 

「いや、あんたじゃない。……〈真実薬〉を、たしか三滴処方されて、ミス・グレンジャーを助けようとしていたんだと証言したという話だったが。これはまちがいないか?」

 

ドラコは一度言うべきことを吟味してから言った。 「ああ。」  あまり功績として誇りすぎているように思われてもいいことはない。

 

その返事を聞いて、ハグリッドはくびを横にふった。そのあいだにも巨大な足は音をたてずに動きつづけていた。 「おどろいたなあ。 デイヴィス、あんたも廊下の暴力をなくそうとしていたんだったな。 〈組わけ帽子〉が組わけをしそこなっちまったんじゃないか? 悪の道にいった者は一人のこらずスリザリン出身だ、とよく言うだろう。」

 

「そんなことはないよ。」とトレイシーが言う。 「〈黒鴉〉シャオナン・トンも、〈山〉のスペンサーも、ミスター・ケイヴォンもいるんだから。」

 

「そりゃだれだ?」

 

「過去二百年の高名な〈闇の魔法使い〉にはそういう人がいるの。 スリザリン生以外で、彼らほど優秀なホグウォーツ卒業生はいなかったかもしれない。」  そこでトレイシーの声が勢いをうしなった。 「思いこみでなにかを言うまえに本でよく調べなさいって、いつもミス・グレンジャーが——」

 

「ともかく……」  ドラコはそこにさっと割りこんで言う。 「そこは気にしてもしかたないんだ、ミスター・ハグリッド。 仮に——」  『〈闇〉の魔法使いである者がスリザリン生であるという条件つき確率』や『スリザリン生である者が〈闇〉の魔法使いであるという条件つき確率』をどうやって科学的でない言いかたに翻訳すればいいかと、あたまをひねる。 「仮に〈闇の魔法使い〉の大半がスリザリン出身だったとしても、スリザリン生の大半は〈闇の魔法使い〉ではない。 〈闇の魔法使い〉はそもそも数がとてもすくない。だからスリザリン生全員が〈闇の魔法使い〉になっていては、計算があわないから。」  あるいは、父上の言いかたでは、マルフォイ家の者も秘術を多く身につけておくべきではあるが、そのなかでもとりわけ……()()()()儀式は、アミカス・カロウのような便利な愚か者にまかせたほうがよい。

 

「つまり……〈闇の魔法使い〉の大半がスリザリン生だとは言えるが……」とハグリッドが言いかけた。

 

「……スリザリン生の大半は、〈闇の魔法使い〉ではない。」  なかなか話がすすまないので、ドラコはうんざりしてきた。しかしヒュドラと戦う場合とおなじく、要はあきらめなければいい。

 

「そういうふうには、思ってもみなんだ。」  ハグリッドは感銘をうけたように言う。 「しかし、スリザリンがヘビの巣窟でなかったと言うんなら、どうして—— ()()()()()()()()()()

 

ハグリッドはドラコとトレイシーをつかみ、二人を道の脇のオークの大木の影にほうりなげてから、 クロスボウに矢をつぎ、高くかまえていつでも発射できるようにした。 三人は耳をそばだてた。 すぐそこの落ち葉の上でなにかが動く音がする。マントを地面にひきずるような音。 ハグリッドが目をこらして暗い道を見ていたが、すぐに音は消えた。

 

「やっぱりな。」とハグリッドがつぶやく。「なにかおかしなもんがいる。」

 

ハグリッドを先頭に、トレイシーとドラコは杖を手にしっかり持ち、音がしていた場所へ三人でのりこむ。しかし、ごく小さな音も聞きのがさないよう耳をすませて徐々に捜索の範囲をひろげてみても、なにも見つからない。

 

一行はさらに密集する木々をかきわけて歩いた。 ドラコはなにかに見られているような感覚がして、幾度も肩越しにふりかえった。 道が一度曲がる部分にきたところで、トレイシーが声をあげて指さした。

 

遠くに赤い閃光が舞っている。

 

「ここで待ってな!」とハグリッドがさけぶ。 「動いちゃならんぞ。あとでむかえにくるから!」

 

ドラコがくちをはさむ間もないうちに、ハグリッドは二人に背をむけ、茂みを突っ切っていった。

 

ドラコとトレイシーはしばらくたがいを見あった。周囲はしんとして、葉ずれの音しか聞こえない。 トレイシーは自分がおびえているのを悟られまいとしているようだった。 ドラコはまず第一に、不快感を感じていた。 どうやらルビウス・ハグリッドは今夜の作業を計画するとき、途中でなにかがすこしでも悪い方向にすすんだらどんなことになるかを五秒間想像してみる手間すら惜しんだらしい。

 

「これからどうする?」とトレイシーが言った。声が多少うわずっているようでもあった。

 

「ミスター・ハグリッドがもどってくるのを待つ。」

 

一分一分が長く感じられる。 ドラコの耳はふだんより敏感になったらしく、風の吹く音や枝の折れる音がするたびにいちいち反応する。 トレイシーは幾度も月を見あげ、まだ満月じゃない、と自分に言い聞かせるかのようにしていた。

 

「あの——ほんとにだいじょうぶなのかな、これ。」とトレイシーがぼそりと言った。

 

ドラコはすこし検討してみた。 たしかに、これは少々…… ドラコはこわがりではないし、現にこわいと感じてもない。 ただ、ホグウォーツで殺人が起きたあとで、半巨人に〈禁断の森〉に連れだされて置き去りにされるというのは……もしこれが芝居だったら、観客席から舞台上の役者に声をかけてせっつきたくもなるところだ。

 

ドラコは自分のローブのなかに手をいれ、鏡をとりだした。 鏡の表面をたたくと、そこに赤色のローブの男が映り、映るなり顔をしかめた。

 

「こちらは〈闇ばらい〉イニアス・ブロードスキー隊長。」とよく通る声でその男が言い、声の大きさにトレイシーがびくりとする。 「……用件をどうぞ、ドラコ・マルフォイ。」

 

「十分間あいだをおいてから声をかけてくれ。」  ドラコは居残り作業を課されたら無闇に言いたてないようにしようと決めていた。 わがままな子どもだと思われたくはないから。 「こちらが返事しなかったら、来てくれ。場所は〈禁断の森〉。」

 

鏡のなかの〈闇ばらい〉が両眉をあげた。 「なんの用があって〈禁断の森〉に?」

 

「ユニコーンを食べているものを探すために、ミスター・ハグリッドに連れられて来た。」  そう言ってドラコは鏡をたたいて接続を切ってローブのなかにしまい、『それは居残り作業なのか』という質問や『罰はだまって受け入れるべきだ』などという話をされる隙をつくらなかった。

 

トレイシーの顔がドラコのほうを向いたが、暗くて表情はわからない。 「あ……ありがと。」

 

また冷たい風が吹き、まだまばらな新緑の葉がかさかさと音をたてた。

 

「もし無理してるんだったら——」  トレイシーの声はこんどはすこしだけ大きくなっていたが、恥ずかしげでもあった。

 

「たいしたことじゃないよ、ミス・デイヴィス。」

 

黒いトレイシーの影がほおに手をあて、ほおの赤みを隠そうとするようなしぐさをした。どうせ見えないのだが。 「その……わたしはいいんだけど、ほら——」

 

「いや。ほんとに、たいしたことじゃないんだよ。」  鏡をとりだしてブロードスキー隊長に『もう一人は助けなくていい』と命じておきたくなるくらいだが、トレイシー(こいつ)の場合、それすら誘いのシグナルのように受けとりかねないから困る。

 

トレイシーの影が顔をそむけた。そして一段と小さな声で、こう言った。 「ほら、まだ早いんじゃないかって——」

 

そこで甲高い声が森に鳴りひびいた。それは人間の声のようでそうでなく、馬の声のようでもあった。 そしてトレイシーが短く悲鳴をあげて走りだした。

 

()()()()()()!」  そう言って、急いでトレイシーを追うドラコ。 あの不気味な声はどこから聞こえてきたのかすらドラコには分からない。ただ——不気味な声がするその方向へまっすぐ走っていってしまったりするのがトレイシー・デイヴィスではないかという気がした。

 

目に(つた)があたりそうになるのを片手でとめながら、トレイシーを見うしなわないように走る。これが芝居だったなら、ばらばらになったうちの一人は死ぬものと決まっている。 ドラコはローブのなかにしまってある鏡のことを考えたが、走りながら片手でとりだそうとすれば、落ちて見つからなくなってしまうような気がしてならない——

 

行く手でトレイシーが立ちどまっているのを見てドラコは一瞬ほっとしたが、そのさきにあったのは……

 

また一頭のユニコーンが地面に倒れ、そこを中心にして銀色の血がひろがっている。血は周縁部では水銀のようにどろりと動いている。 毛色は夜空の色と似た紫色で、角は肌とおなじ夜明けの空の色。(ひばら)には桃色の星型の印がひとつあり、そのまわりに白い点々がある。 その光景を見てドラコは胸が引きさかれそうになった。もう一頭のユニコーンを見たとき以上にこれが苦しく感じるのは、生気のない目がまっすぐにこちらを見ているだけでなく、となりに——

 

——ぼんやりとした、ねじれたかたちのなにかが——

 

——ユニコーンの腹の生なましい傷ぐちに、ちょうどそこから液をすするようなかっこうでいて——

 

——自分がなにを目にしているものか、ドラコはなぜか理解できない——

 

——それはドラコたちを見ている。

 

ぼやけてうごめく得体の知れないそのなにかが、こちらを向くように見えた。 シャーという音がした。世界じゅうのどんなヘビよりも、どんなアマガサヘビよりも、獰猛なヘビのような声だった。

 

そしてそれはまたユニコーンの傷ぐちに向かい、すすりはじめた。

 

ドラコは手のなかにある鏡をたたくが、反応する様子はない。指はそれでもおなじ動きをしつづける。

 

トレイシーは杖をにぎって『プリズマティス』や『ステューピファイ』などと言っているが、なにも起きない。

 

うごめくものの輪郭が起きあがった。それはかがんでいた男が立つところを思わせたが、やはりそうではなく、 なかば跳びはねるような奇妙な動きで、死にかけたユニコーンの足を越え、二人に迫ってくる。

 

トレイシーがドラコの(そで)をつかみ、反対方向……ユニコーンを狩るそれのいない方向へ走ろうとした。 しかしトレイシーが二歩すすんだところで、またひどく耳にのこるシャーという声がして、トレイシーは地面に倒れ、動かなくなった。

 

こころの奥のどこかでドラコは自分はここで死ぬのだと思った。 仮にいまこの瞬間に〈闇ばらい〉が連絡してきていたとして、どんなに急いでも助けに来ることはできない。もう()()()()()

 

逃げようとしてもだめだった。

 

魔法をつかおうとしてもだめだった。

 

うごめく輪郭が近づいてくるが、死の直前までドラコは謎かけをとこうとする。

 

そのとき銀色の光球が夜空から飛びでて、空中にとどまり、森を白昼のように明るくした。うごめく輪郭は光をおそれるかのように飛びのいた。

 

四機のホウキが空にあらわれた。玉虫色の防壁をたてた〈闇ばらい〉が三人と、より大きな防壁をたてたホウキに乗るマクゴナガル先生と、その後部で杖を高くもっているハリー・ポッター。

 

「さがりなさい!」とマクゴナガル先生の声がして——

 

——その一瞬後、うごめくものがまたシャーと声をだし、防壁呪文が消えた。 〈闇ばらい〉三人とマクゴナガル先生がホウキから地面に落ち、そのまま動かなくなる。

 

ドラコは息ができなくなり、いままで感じたことのないほどの恐怖で胸がしめつけられ、腹の底から動揺する。

 

無事であったハリー・ポッターが無言で自分のホウキを着陸させ——

 

——うごめくものとドラコのあいだに飛びこみ、防壁がわりになろうとする。

 

「逃げろ!」とハリー・ポッターがドラコのほうに半分だけふりかえって言う。 その顔は銀色の月光に照らされている。 「逃げろ、ドラコ! ここはぼくが食いとめる!」

 

「あれを一人で相手にする気か!」とドラコはさけんだ。 胃からこみあげてくるような吐き気がした。それはあとでふりかえってみると罪悪感と似ているようで、そうでないようで、感覚としては近しいものの、感情がともなっていなかった。

 

「するしかないんだ……いいから逃げろ!」とハリー・ポッターは険しい表情で言った。

 

「ハリー、あ……あんなことをして悪かった——ぼくは……」  ドラコはあとでこの場面をふりかえるとき、自分がなにについて謝ろうとしていたのか、よく思いだすことができなかった。多分はるか昔にハリーの陰謀団を瓦解させようとしていたことについてだったのかもしれない。

 

うごめくものがいっそう黒く凶悪になったように見え、空中にのびあがり、地面を離れた。

 

逃げるんだ!」とハリーが言った。

 

ドラコは身をひるがえし、顔に枝があたるのをかまわず森のなかに飛びこんでいった。 背後ではまたシャーと鳴く声がして、それからハリーが大きな声でなにかをさけんだ。なにをさけんだのか、この距離では聞きとれない。 ドラコはちらりとだけ後ろにふりむき、その一瞬でなにかにつまづき、あたまを強く打って昏倒した。

 

◆ ◆ ◆

 

〈虹色の球体〉のなかで杖をかたく手にしたハリーは、 眼前の、ぼやけたうごめくものに向けて、「あなたがどうしてここに?」と言った。

 

うごめくものは一度どろどろになってから、フード服のすがたに落ちついた。 どんな隠蔽手段がつかわれていたにせよ——ハリーにも効果があったということからして、呪文ではなく道具だろうが——その効果で、ハリーはそれのかたちを認識できなくなっていた。それが人間のかたちであることすら認識できなくなっていた。 しかしあの破滅の感覚は、妨害されずに明瞭につたわってきていた。

 

全身をつつむ黒い外套の前半分に銀色の血が染みたすがたで立つクィレル先生はためいきをつき、〈闇ばらい〉三人、トレイシー・デイヴィス、ドラコ・マルフォイ、マクゴナガル先生が倒れているところを一瞥してつぶやいた。 「あの鏡の通信については、あやしまれないように妨害できたと思っていたが。 一年生二人が付き添いなしに〈禁断の森〉にいるとは、どういうことだろうな。 ミスター・マルフォイはもっと常識人のはずだが……。面倒をかけさせられたものだ。」

 

ハリーは返事をしない。これほど強い破滅の感覚ははじめてのことで、空気中に満ちたエネルギーに手で触れられそうなくらいだった。 〈闇ばらい〉の防壁があれほど速く解体されてしまったことにいまだ本能的におののいている自分がいる。 多色の鞭が矢継ぎ早に防壁におそいかかったかと思うと、防壁はあっけなく消えていた。 アズカバンでのクィレル先生と〈闇ばらい〉の戦いが児戯に見えるほどだった——とはいえ、そのときクィレル先生が本気でやっていれば〈闇ばらい〉は数秒で死んでいたと本人は言っていた。いまならそれが事実だと分かる。

 

実力の階梯の頂上はどこにあるのだろう?

 

「あなたがそうやってユニコーンを食べていることと、あなたが〈防衛術〉教授の職をうしなう理由とには、なにかつながりがあるようですが、 その点を詳しく説明していただくわけにはいきませんか?」

 

クィレル先生はハリーのほうを見た。 手で触れられそうなくらいだったエネルギーの感覚は薄れ、〈防衛術〉教授のなかにおさまっていくように感じられた。 「説明することになんら不都合はないが…… そのまえに少々〈記憶の魔法〉をかけねばならないし、話すなら場所を移しておきたいところだ。わたしがこの場にとどまるのは賢明ではない。 きみもあとでこの時間にもどってくるのだろう。」

 

ハリーは自分が征服した〈マント〉の隠蔽が自分に対して無効になるよう念じた。するととなりにもう一人のハリーがいて〈マント〉に隠れていることが分かった。そこで〈マント〉にまた自分から自分を隠すように命じ、〈マント〉はそれに応じた。こうやって未来の自分を認識できているということは、あとでその記憶どおりに行動しなければならないということを意味する。

 

ハリー自身の(現在のハリーにとっては奇妙に聞こえる)声が耳もとでささやいた。 「クィレル先生には意外なほどちゃんとした理由がある。」

 

現在のハリーはその一文をできるかぎり記憶した。 両者のあいだでかわされたのはその一言だけだった。

 

クィレル先生がドラコが倒れているところまで歩き、〈偽記憶の魔法〉の詠唱をした。 そしておそらく一分ほどその場で、自分だけの世界にいるような様子で立っていた。

 

ハリーはこの数週間のあいだ〈忘消術〉の分野の学習をしていた——といってもクィレル先生の手助けをできはしない。すくなくとも、ハリーがこれ以上ないほど極度に消耗して、〈闇ばらい〉のうちの一人の精神から青という色に関する記憶をことごとく消去したいのでもないかぎり。 しかし学習の過程でハリーは、さらに難度の高い〈偽記憶の魔法〉にどの程度の集中が必要とされるのかをある程度知ることができた。 十六トラックの〈偽記憶〉を個別につくるには十六倍の時間がかかる。それより速くやりたければ、相手の人生全体を自分のあたまのなかでたどってみようとしなければならない。 外から見るかぎりなんの動きもないように見えはするが、ハリーはその作業の困難さを多少なりとも知ったため、感銘を受けることができた。

 

クィレル先生はドラコの処置を終えて、トレイシー・デイヴィス、〈闇ばらい〉の三人、最後にマクゴナガル先生を処置した。 ハリーは待ち、未来のハリーも抗議しようとしない。 マクゴナガル先生も意識がある状態だったなら抗議しないだろう。 五月の十五日(イデス)はまだ来ていないし、これには意外なほどちゃんとした理由があるというのだから。

 

クィレル先生の手のひとふりでドラコのからだが持ちあがり、森のすこし奥に送られ、丁重に着陸させられた。 そしてもうひとふりで、ユニコーンの横腹から肉が大きくちぎりとられた。断面はずたずただった。肉は空中を飛び、一度ふらりとしてから〈消滅〉させられた。

 

「終わった。」とクィレル先生が言う。「わたしはこれ以上ここにはいられない。きみもついてきなさい。そしてここに残りなさい。」

 

クィレル先生は去り、ハリーはハリーをその場に残してそのあとについていった。

 

二人はしばらく無言で森のなかを歩いていった。やがて遠くからかろうじて聞こえるいくつかの声があった。 おそらくは、第一陣の応答がなくなったので送られてきた第二陣の〈闇ばらい〉。 未来の自分はなんと言って対応しているのだろうか。

 

「彼らはわれわれを検知できず、声を聞くこともできない。」  クィレル先生の周囲にはまだ強力なエネルギーと破滅の感覚があり、 切り株に腰をおろしたところで、満ちかけた月の光がその全身にあたる。 「まずひとつ言っておく。このあとできみは〈闇ばらい〉に対して、きみがあのうごめく闇の生きものを——以前ディメンターを撃退したときのように——撃退したという説明をしなければならない。 そのとおりのことをミスター・マルフォイは記憶している。」  クィレル先生は軽くためいきをつく。 「このやりかたでは、〈闇ばらい〉の防壁を破壊するほど強力な、ディメンターと似た怪物が〈禁断の森〉を徘徊している、と判断されるかもしれないし、それが多少の警戒を招くことは考えられる。 しかしわたしとしては、ほかにやりようがなかった。 この森の警備が強化されることになれば——これまでに摂取したぶんで足りていることを願うばかりだ。 きみからも、どうやってあれほど早くあの場に到着できたのか、どうやってミスター・マルフォイの危機を察知したのか、説明してもらいたいのだが。」

 

ブロードスキー隊長はドラコ・マルフォイが〈禁断の森〉にいること、ルビウス・ハグリッドが同行しているらしいことを知った時点で、だれがその許可をだしたのか調べはじめた。しかし、ドラコ・マルフォイの応答がとだえた時点で、それは判明していなかった。 ブロードスキーは職務上〈逆転時計〉のことを知る立ち場にあったが、ハリーが抗議してもなお、〈時間〉が関係することには所定の手続きを通さねばならないと言い、ドラコ・マルフォイの応答がとだえる以前の時点に隊を派遣することを拒否した。 しかしブロードスキーは、時間をさかのぼったハリーが〈闇ばらい〉三人を動かし、応答がとだえてから一秒後に現場に到着させられるよう、出動を命じる書面を用意することはした。 ハリーはドラコの位置を知るために〈守護霊の魔法〉をつかい、それを銀色の光の玉のかたちにすることに成功し、〈闇ばらい〉は計画どおりの時刻に現場に到着した。

 

「すみませんが言えません。」  ハリーはあっさりとことわる。 クィレル先生はいまも有力な被疑者の一人なので、詳細を知ることは本人のためにならない。 「では、ユニコーンを食べていたのはなぜですか。」

 

「ああ……それは……」  クィレル先生は言いよどんだ。 「わたしはユニコーンを食べていたのではなく、血を飲んでいたのだ。 肉が取り去られていること、断面の凹凸——これはわたし以外の捕食者のしわざであるように見せる偽装だ。 ユニコーンの血の用途は知られすぎているのでね。」

 

「ぼくは知りません。」

 

「知らないだろうな。知っていれば、きみはそうやって食いさがっていまい。 では言うが、ユニコーンの血には一定期間ひとを生きながらえさせる効果がある。そのひとが死の淵にいたとしても。」

 

しばらくの時間ハリーの脳は聞こえてきたことの意味を処理することを拒否すると言ってきた。しかしそれは無論事実ではなく、その意味を処理することが許されないと知った時点ですでに処理は終わっている。

 

奇妙に空虚な感覚、反応の欠如がハリーを支配した。多分それはほかの人たちにとって、だれかが台本にないことを言いはじめて、それに対してなにをすればいいと言うことも考えることもできない、というときの感覚なのかもしれない。

 

そう、クィレル先生はたんにときどき具合がわるくなるのではなく、死にかけている。

 

クィレル先生自身は以前から自分が死にかけていることを知っていた。 ホグウォーツ〈防衛術〉教授の職にすすんでついたくらいだから当然だ。

 

もちろんそれはこの一年がはじまって以来ずっと悪化しつづけていた。 そして悪化しつづける症状にはもちろん、容易に予想しえる結末がある。

 

そうだということをハリーの脳は以前から、きっとどこかこころの奥の安全な場所で処理しておきながら、処理することをこばんでいた。

 

もちろんクィレル先生が来年〈戦闘魔術〉を教えられないのもこのせいだ。 クィレル先生はマクゴナガル先生に解雇されるまでもなく、そのときにはもう——

 

——死んでいる。

 

「なにか、きっとそれを止める方法があるはず——」とハリーはやや震える声で言いかけた。

 

「わたしは愚かではないし、とくにすすんで死のうという気もない。 だから調べはした。 これだけのことをしなければ、計画していた授業を無事終えることさえできないのだ。のこされた時間は思いのほか少ない。そして——」  月光に照らされた黒い人影が顔をそむける。 「わたしはその話をやめてほしいと思っている。」

 

ハリーは息をあえがせた。 あまりにも多くの感情が同時に芽生えた。 まず否認が、そして怒りが——。そういう反応はだれかが勝手にでっちあげた儀式にすぎないのに、 意外なほど適切な儀式のように思えた。

 

「それならなぜ——」  またハリーの息があえぐ。 「なぜ一般的な治癒キットにユニコーンの血がはいっていないんです? それでたとえば、両足を食いちぎられて死にかけているひとを生きながらえさせることができるのなら。」

 

「恒久的な副作用があるのだ。」とクィレル先生が小声で言った。

 

「副作用? ()()()ですって? どんな副作用があれば死ぬこと以上に状態を悪化させられるというんですか?」  ハリーは声をからしてそう叫んだ。

 

「世の中はわれわれのような考えかたをする人間ばかりではないからな。 とはいえ、その血は生きたユニコーンから飲まなければならず、飲んでいるあいだにユニコーンが死ななければならない、という条件がありはする。 そうでもなければ、わたしがこんなところに来ていると思うか?」

 

ハリーは顔をそむけて、周囲の木々に目をやった。 「だったら聖マンゴ病院にユニコーンを集めておいて、 患者をそこに〈煙送(フルー)〉かポートキーで送ればいいでしょう。」

 

「ああ、その手はある。」

 

ハリーの表情がかたくなった。それ以外の外見上の変化は手の震えだけだったが、内面にはさまざまなものが渦巻いていた。 絶叫する必要があった。なんらかの捌けぐちが——とらえがたい()()()が必要だった。やがてハリーは木に杖をつきつけ、「『ディフィンド』!」とさけんだ。

 

ピシッと音がして、木に裂け目があらわれた。

 

「ディフィンド!」

 

別の裂け目があらわれた。 これはハリーが十日まえになって、真剣に自衛法を身につけようとして学んだばかりの呪文だった。 二年次の呪文ということになってはいるものの、ハリーのなかを駆けめぐる怒りはとどまるところを知らず、エネルギーを消耗しつくさないよう注意していてなお、余力があった。

 

「ディフィンド!」  三度目には枝の一本をねらった。枝は地面に落ち、小枝や葉にあたって音をたてた。

 

ハリーの内面に裂け目はなく、捌けぐちのない圧だけがあるようだった。

 

「好きにするがいい。」と小声で言ってから、クィレル先生は切り株から腰をあげ、ユニコーンの血が月光にきらめく黒い外套すがたのまま、フードをかぶった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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