ハリーは森のまんなかにできた小さな丸い空き地に立ち、息を切らしている。一年生が独力で行えるはずのない量の破壊行為だった。 〈切断の魔法〉は木を切り倒すような魔法ではないので、木の内部を平面的に部分〈転成〉していくことにしたのだが、 それだけで自分のなかにあるものを放出しきることはできなかった。小さな半径内にある木を切り倒しても気分は晴れず、 どの感情もかわらずそこにある。とはいえ、すくなくとも破壊しているあいだは行き場のない感情のことを考えずにすんだ。
魔法力がなくなると、素手で枝をつかんでは折っていった。 手から血がでたが、その程度のことなら翌朝にマダム・ポンフリーが容易になおすことができる。魔法族にとって治癒できない傷は〈闇〉の魔法によるものだけである。
なにかが森のなかを動く音がした。ウマのひづめの音に似ていた。ハリーはまた杖を手にとって、そちらをふりむいた。 手であばれているうちに多少の魔法力は回復していた。 自分が単独で〈禁断の森〉のなかにいて、音をたてていたのだということに、いまさらながら気づいた。
月光のもとにやってきたのは、予想に反してユニコーンではなく、下半身は白茶色に光って見えるウマに似ていて、胸から上は白い長髪の裸の人間の男に見える生きものだった。 顔に月光が差して、目の色が分かるようになった。ダンブルドアとおなじくらい
ケンタウロスの片手には長い木の槍がある。先端についた巨大な金属の刃は月光を受けても光っていない。 ものの本によれば、刃が光るのはなまくらな証拠だという。
ケンタウロスは低く太く男性的な声で言う。 「おまえはそうして破壊のただなかにいる。 ここにはユニコーンの血のにおいがする。生きながらえようとする者に殺された、無辜の者の血のにおいがする。」
突然の恐怖を感じてハリーはわれにかえり、あわてて言った。 「そう見えるかもしれませんが、それはぼくじゃありません。」
「わかっている。 皮肉にも、おまえは無辜であると星が告げている。」 ケンタウロスは槍をかまえたまま、狭い空間のなかで一歩まえにでてハリーに近づいた。 「
槍の切っ先に目がいく。そして自分はケンタウロスを目にしたその瞬間に〈逆転時計〉を手にしているべきだったと気づく。 いまローブのなかに手をいれようとしても、このケンタウロスの速度によっては、とりだし終えるまえに槍をあてられかねない。 「以前読んだ本に……」 多少うわずった声になってしまっているが、相手の重みのある口ぶりにみあうだけの重みをこめようとする。 「……知らないことは選択しないことと同じではない。だから、子どもを罪がない存在だと見なすべきではない、と書いてありました。 子どもが学校の敷地でけんかをしても大きな害をなすことはないが、それは子どもにそれだけの能力がないからだとも。 一部の大人はその能力がありながらそうしない。ということは、子どもよりもそういう大人のほうが、罪がすくないと言えるのでは?」
「魔法人の知恵か。」
「いえ、マグルの知恵です。」
「魔法なき者。彼らについて、わたしは多くを知らない。 火星の光はしばらくのあいだ弱まっていたが、いまは回復している。」 ケンタウロスはまた一歩まえにでて、ハリーを攻撃できるくらいまで距離を詰めた。
ここで空を見あげてはいけない。 「それは火星が太陽のまわりを公転しているうちに、おなじように公転している地球に近づいたということですね。 火星はかわらずずっとおなじだけの太陽の光を反射している。ただ、ぼくたちとの距離がせばまったから、そういうふうに見える。 ぼくは無辜だと星が告げている、というのはどういうことです?」
「夜空がケンタウロスに話しかける。それがわれわれの知識の源泉だ。 もしや星は魔法人にそのくらいのことも話さなくなったのか?」 ケンタウロスの顔に一度軽蔑の表情が浮かんだ。
「以前、〈占術〉のことを調べるついでにケンタウロスについて書かれているもの探してみたことがあるんですが、 どの本もたいてい、ケンタウロスの〈占術〉をばかにしてはいるけれど、ばかにする理由を書いていない。魔法族は議論の規範を知らないから、ある説をばかにすることと、証拠をもって反論することとの差がわかっていない……。ぼくは、ケンタウロスが天文学を利用しているという説明のほうがむしろばかげていると思いましたがね……。」
「なぜそう思う?」と言ってケンタウロスがくびをかしげた。
「惑星がどう運行するかは、数千年さきまで分かっているから。 それを専門にしているマグルなら、この場所から見える十年後の惑星の配置図を正確にかいて見せることができますよ。 それがあれば未来も予測できるというんですか?」
ケンタウロスはくびを横にふった。 「配置図からでは、できない。 配置図には惑星の明るさ、彗星の明るさ、星そのものの微小なうつろい……そういったものが含まれていない。」
「彗星の軌道も数千年さきまで事前に決まっているから、現在のできごとに大きな影響はないはず。 それに、恒星の光が地球にとどくまでには何年もかかるし、恒星の位置は目に見えるほどには変化しない。 つまり、まず検討すべき仮説は、ケンタウロスには生まれつき魔法的な〈占術〉の才能があってそれを……夜空に
「そうも考えられる。」と思案げに言ってケンタウロスは下をむいた。 「同胞ならおまえがそう言っただけで攻撃しているだろうが、わたしは自分が知らないことを知りたがる性分だ。 夜空はなぜ未来を予言できるのか——たしかにわたしはその理由を知らない。 予言の技能をものにするだけでも十分むずかしい。 リリーの子よ、おまえがいま話したことについてわたしから言えるのは、それは仮に真実であったとしても無用な知識に思えるということだけだ。」
ハリーは多少緊張をゆるめることを自分に許した。『リリーの子』という呼びかけをしてくるくらいだから、このケンタウロスはこちらをただの雑多な侵入者の一人と考えてはいない。 それに、おそらくホグウォーツ生を攻撃すれば森に住むケンタウロス全体がなんらかの報復を受けることになるだろうし、このケンタウロスもそのことを知っているはずだから……。 「マグルの知恵というのは、真実にはちからがあるということ。それは小さな真実ひとつひとつの相互作用で生じているから、そのためにできるだけ多くの真実を見つけるべきだということ。 そうするためには、仮に偽の信念が有用だったとしても偽の信念を擁護してはならない。 自分たちの予言が星からきているのか、それとも生まれつきの才能を星に投影しているのか。どちらでもいいように思えるかもしれないけれど、 〈占術〉を……あるいは星を……真に理解したければ、ケンタウロス族の予言についての真実も、ほかの部分の真実に影響するものだと思わなければ。」
ケンタウロスはゆっくりと首肯した。 「つまり、いまや杖なき者のほうが魔法人よりかしこいと。 それはおもしろい! ではリリーの子よ、かしこいマグルはもうすぐ
「なくなる? それは……考えていませんが?」
「わたしをのぞいて、この森にいるケンタウロスはだれもおまえに近づかない。われわれは天のさだめに逆らわないと誓っているからだ。 われわれがおまえの運命とむすびつけば、われわれもこれからのできごとに対して罪を負うかもしれないと心配してのことだ。 おまえに近づこうとしたのはわたし一人だけだった。」
「話が……よくわかりません。」
「そのとおり。おまえは無辜であると星も言っている。 自分が生きながらえるために無辜の者を殺すことは、非道な所業だ。 以後、呪われた生、なかば死んだ生を生きることしかできなくなることはまちがいない。 ケンタウロスとて、仔馬を殺せば、以後群れを追いだされることはまちがいない。」
槍が目にもとまらぬ速度で動き、ハリーの手にあった杖を突きとばした。
もう一撃がハリーのみぞおちに当たり、ハリーはくずれおちて地面に嘔吐した。
片手を上にのばしてローブのなかの〈逆転時計〉を手にとろうとするが、槍の柄尻でその手を指が折れるほど強くはじかれる。かわりに反対の手をのばそうとするが、それもはじかれて——
「ハリー・ポッター……気の毒だが。」 そう言ってからケンタウロスは目を見ひらいた。槍をくるりと回転させ上にむけて、やってくる赤い呪文を受け止める。 それから槍を落とし、必死に地面を蹴って避けようとする。そこを緑色の閃光がかすめ、避けたところへまた緑色の閃光が飛び、三発目が命中した。
ケンタウロスは倒れて動かなくなった。
ハリーはしばらくかかってやっと息をつぐことができ、よろめきながら立ちあがり、杖を手にしマントを着ようとしながら、「え?」と言った。
そのときにはもう近くにあの破滅の感覚が、手で触れられそうなくらいのエネルギーが空気中に感じられた。
「ク……クィレル先生? あなたがなぜここに?」
「それは……」と黒い外套の男が思案げに言う。 「きみが真夜中の〈禁断の森〉で
ハリーは倒れたケンタウロスをじっと見た。
息がない。
「あなたは——あなたは彼を
「たしかにわたしはときに自分以外の人間が倫理をどういうものだと考えているのか理解できない。 だがそのわたしでさえ、伝統的な倫理観では
〈防衛術〉教授はそこで言いやめて、ハリーを見た。ハリーは震える片手をくちにあてたところだった。
「これがわたしの言いぶんだ。しばらく考えてみるがいい。 ケンタウロスの槍はいろいろな呪文を防ぐことができるが、ある種の緑色の呪文が飛んでくるのを見て防ごうとする者はいない。 だからこそ、緑色の失神呪文をいくつか知っていると使い勝手がいい。 ミスター・ポッター、きみもそろそろわたしの戦法が分かってきていいころだと思うが。」
〈防衛術〉教授はケンタウロスのそばに行き、ハリーは思わず一歩さがった。そこでまた徐々にだめだ、よせという感覚がつのり——
〈防衛術〉教授は地面にひざをつき、ケンタウロスの頭部に杖をあてた。
杖はしばらくその位置におかれた。
そしてケンタウロスはうつろな目で立ちあがり、息をしはじめた。
「ここで起きたことはすべて忘れろ。歩きまわってここから離れろ。今夜のことは一切記憶にのこすな。」と〈防衛術〉教授が命じた。
ケンタウロスは奇妙に四本の足を同期させた歩きかたで去っていった。
「満足かね?」と〈防衛術〉教授は皮肉げに言った。
ハリーの脳はまだまともに動いていないようだった。 「彼はぼくを
「まだそんなことを——そのとおり、彼はきみを殺そうとしていた。 きみも慣れることだな。 殺されかける経験をしないのは凡庸な人間だけだ。」
ハリーはまた話そうとするが、声がかすれている。 「どうして……どうしてぼくが彼に——」
「理由などいくらでもある。 わたしとて、一度もきみを殺そうとしたことがないと言えばうそになる。」
ハリーはケンタウロスが去っていった方向の木々を見つめた。
ハリーの脳はまだなおりきっていないようで、点火しないエンジンのように感じられたが、それでもこれがよい前兆であるとは到底思えなかった。
ドラコ・マルフォイがあやうく怪物に食べられそうになったという知らせには、どこだかに外出中だったダンブルドアを呼びもどし、マルフォイ卿とグリーングラス卿を眠りから起こし、アメリア・ボーンズを動かすだけの重大性があった。 そのような怪物がいるという話にはダンブルドアですら不審をいだき、〈偽記憶の魔法〉がつかわれた可能性がもちあがった。 ハリーは(怪物があたりを徘徊しているとほかの人たちに信じさせることから生じる問題について自分のなかでいくらか論争したのち)今回は自分が以前ディメンターをおどかしたときほどの努力をしていた記憶はなく、黒い怪物は退却しただけだと証言した。 それはハリーがどうやってディメンターをおどかしたのかを知らない何者かが〈偽記憶〉をつくったとすればそうなるだろう、というような記憶だった。 現場にいた全員を制圧し〈偽記憶の魔法〉をかけるだけの能力のある魔法使いとして、ベラトリクス・ブラック、セヴルス・スネイプ、クィリナス・クィレルの名前があがった。(ハリーの考えでは)ルシウスはダンブルドアのしわざだろうと考えた。 〈闇ばらい〉たちの証言、堂々巡りの議論、視線や発言を通じた攻撃の応酬が午前二時までつづいた。 複数の動議と投票がおこなわれ、処分が決まった。
「ほんとうにきみは……」とそれまでの話し合いが二人をのぞいて解散したところで、ダンブルドア総長が静かにハリーに話しかける。 「一連の件でこの学校によい変化をもたらしたと思っているか?」
ハリーは両ひざに両ひじをのせ、両手に顔をのせている。会議室にいたほかの人たちは全員もういなくなっている。 この二人ほど日常的に〈逆転時計〉をつかおうとしないマクゴナガル先生は、眠りをとるためすみやかに自室へもどった。
ハリーは長くためらいすぎてから返事した。「……はい。 ぼくに言わせれば、ホグウォーツはようやくまともな状態になりました。 四人の子どもが夜中に〈禁断の森〉に行かされたとなれば、大問題になって、警察当局がでてきて、責任をとるべき人物がくびになる。そういうことが起きてしかるべきです。」
「責任をとるべきだときみが言う人物は、くびになった。きみはそれでよかったと思うのか。」
「思いますね。」
「アーガス・フィルチは何十年もまえからここに勤務している。」
「アーガス・フィルチは〈真実薬〉を処方されたうえで……」とハリーは疲れた声で言う。 「自分は十一歳の男の子をあわよくば不幸な目にあわせようとして〈禁断の森〉に行かせたのだと告白していましたね。その男の子の父親のせいでフィルチのネコが殺されたのだという考えのもとに、 ドラコだけでなくもう三人の生徒が巻きぞえになってもいいと思って、そうしたのだと。 ぼくとしては懲役刑を主張したいところでしたが、あいにくあなたがたの考える懲役刑はアズカバンですからね。 フィルチはどの生徒に対してもとても態度がわるかったということ、フィルチがいなくなったことで学校の快楽指数は上昇するであろうということも指摘しておきます。あなたにはどうでもいいことのようですがね。」
半月眼鏡の奥の総長の目は読みとりがたい。 「アーガス・フィルチはスクイブじゃ。 この学校の仕事をなくしてしまえば、彼にはなにも残らない。 いや残らなかった、というべきか。」
「学校の存在意義は職員に仕事を提供することではありません。 あなたにとっては、きっとどの生徒一人よりもフィルチと過ごした時間のほうが長いんでしょうが、だからといってあなたがフィルチの内面的経験のことを重く考えるべきだとはいえません。 生徒にも内面はあるんですから。」
「きみは……自分が傷つけた相手の気持ちをまったく考えていないのでは?」
「ぼくは罪のない人たちの気持ちを考えますね。 たとえばミスター・ハグリッド。さきほども言いましたが、あの人に悪意はなかった、ただ注意力がたりていない、というのがぼくの意見です。 ミスター・ハグリッドがこれ以上だれかを〈禁断の森〉に連れていかないのであれば、彼がここではたらきつづけることに異存はありません。」
「ルビウスには、罪を晴らした段階でシルヴァヌスの後任として〈魔法生物飼育術〉をまかせようかと思っていた。 しかしあの授業は〈禁断の森〉でおこなう実習がほとんど。 きみの条件によれば、ルビウスにそれを担当させることもかなわない。」
ハリーは即答しない。 「でも——あなたも言っていたじゃありませんか。ミスター・ハグリッドは魔法族にとって危険な魔法生物のことになると
「いや。」
「だったらミスター・ハグリッドは〈魔法生物〉の教師として完全に不適格ですよね?」
老魔法使いは半月眼鏡のむこうからハリーを見おろし、 しわがれた声で話す。 「ミスター・マルフォイ自身が、責めようとしなかったではないか。 今回はアーガスにつけいられてのことだったと十分考えられる。 ルビウスも教師になれば、教師らしく成長するとも考えられる。 魔法生物を仕事にすることはルビウスの一生の夢でもあった——」
「そのようにあやまって考えてしまうことは……」と言ってハリーは自分がこれまでに経験した最大の疲労を十パーセント以上うわまわる疲労を感じて、自分のひざに視線をおとす。「
「なるほど、そうかもしれない。しかしきみのあやまちは、そのかけ算をした結果、自分が他人に課した傷の痛みを感じられなくなっていることにある。」
「そうかもしれません。」 ハリーは自分のひざを見つづける。 「もっと悪いのかもしれません。 あるケンタウロスがぼくをきらっているということには、どういう意味がありますか?」 〈占術〉を得意するとされる魔法生物の種族の一員から、おまえは自分の行動がなにをもたらすか分かっていないと言われ、謝罪され、槍で突き刺そうとされたということには、どういう意味がありますか?
「ケンタウロスが? ……それはいつ——ああ、〈逆転時計〉か。 わしが事件以前の時間に逆行することができなくなっていたのは、きみとの干渉のせいだったか。」
「そうでしたか? そうなんでしょうね。」 ハリーは遠くを見る目をしてくびをふった。 「すみません。」
「ケンタウロスはごく少数の例外をのぞいて、魔法使いをことごとくきらっている。」
「今回はそれよりもう少し具体的でしたがね。」
「そのケンタウロスはきみになんと言った?」
ハリーは返事をしない。
「ああ……。ケンタウロスの言ったことがはずれた例は何度もある。そして世界で一人でも星を混乱させることができる人がいるとすれば、それはきみにちがいない。」
見あげると、半月眼鏡の奥に見える青い目はひさしぶりにやさしげだった。
「深く考えすぎないことじゃ。」とアルバス・ダンブルドアが言った。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky