強力無比な魔法具も、それ専用の低級な魔法具で打ち負かせることがある。
〈防衛術〉教授がそう言ってハリーの足もと近くに〈真の不可視のマント〉をはらりと落とし、煤色のそれが地面の上にまとまった。
〈完全反射の鏡〉はそこに映しだされたものに作用する。その作用にはなにものも抵抗できないとされている。 しかし〈真の不可視のマント〉は〈鏡〉に一切の映像を生じさせない。そのため〈鏡〉の法則に抵抗することなく回避することができるはずだ。
そのあと〈ヘビ語〉による問答が何度かくりかえされ、ハリーはこれからばかなことをするつもりがなく逃げようともしない、ということが確認された。また、クィレル先生はハリーの居場所を検知する能力と〈マント〉を検知する呪文と数百人の人間ならびにハーマイオニーという人質を有しているということがあらためて念押しされた。
そのうえでハリーは、〈マント〉を着用して弱められた炎のむこうにある扉をあけて、最後の部屋に入室しろ、と命じられた。そのあいだにクィレル先生は、扉から見られない位置まで距離をとってさがった。
最後の部屋は弱い黄金色の光につつまれている。周囲の石壁は乳白色で、大理石でおおわれている。
部屋の中央にはなんのかざりもない黄金の枠があり、枠のなかにはまた別の黄金色の光の部屋への
〈鏡〉は床面に接していない。黄金の枠には台がない。 かといって浮いているようでもなく、固定されているように見える。壁よりも揺るぎなく静止しているような、地球基準座標系に対して釘づけされているような印象がある。
「〈鏡〉はそこにあるか? 動いていないか?」 〈薬学〉の部屋からクィレル先生が命令調で言った。
「アル。動イテイナイ。」とハリーは返事した。
また命令調の声。 「〈鏡〉の裏がわへまわりこめ。」
裏がわに行って見ると、黄金の枠はじっと立っていて、なかに鏡像は見えなかった。ハリーはそのように〈ヘビ語〉で報告した。
「では〈マント〉をぬげ。」 やはり〈薬学〉の部屋から命令するクィレル先生の声。 「〈鏡〉がそちらを向いたらすぐに報告しろ。」
ハリーは〈マント〉をぬいだ。
〈鏡〉は地球基準座標系に釘づけされた位置を変えていない。ハリーはそのとおりに報告した。
そのすぐあとにシュッと声がして、炎のかたまりのような不死鳥がハリーの背後の大理石の壁を溶かして突入してきた。それと同時に部屋のなかの光にうっすらと赤色が混じった。 クィレル先生はそのあとから、できたての通路をとおって歩いてきた。黒い礼装の靴は足もとの赤く光る溶解面に触れても傷ひとつついていない。 「さて……これで罠だったかもしれないものをひとつ回避できた。 つぎは……。」 クィレル先生は息をはいた。 「〈鏡〉から〈石〉をとりだす方策を考えよう。試すのはおまえだ。わたしは自分の映像を反射させたくないと思っている。 あらかじめ警告しておくと、ここからの作業は案外手間がかかるかもしれない。」
「とすると、これは〈
「ハッ。」と言ってからクィレル先生が手ぶりをした。
不死鳥がおそろしい勢いで突進し、同時に無事な部分の大理石の壁の赤色に光る影が走った。 ハリーは考えるより速く飛びのいた。
黒炎はクィレル先生の横を飛びぬけて、〈鏡〉の背面の黄金に突っこみ、その瞬間にすがたを消した。
炎は消え、室内の光に混じっていた赤色もなくなった。
黄金の表面には傷ひとつなく、赤熱した形跡もない。 〈鏡〉はただおなじ場所で、手つかずのまま立っている。
ハリーは背すじに冷たいものを感じた。 もし『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』のセッションでダンジョンマスターからこの結果を聞かされたとしたら、幻術攻撃があったのではないかと思って『疑念』のダイスを振るところだ。
背面の黄金の中央部に、未知の文字の列があらわれているのに気づく。線状の暗黒で書かれた文字が水平にならべられている。 〈鏡〉とは別にかけられていたずっと低級な、子どもの目から隠すためだけの隠蔽呪文が、〈
「この〈鏡〉はいつの時代のものですか?」とハリーは小さめの声で言った。
「だれも知らない。」 〈防衛術〉教授の表情には畏敬の念があらわれているようでもある。のばされた手が文字にむかうが、触れずに終わる。 「しかしわたしはおそらくきみとおなじ推測をしている。 捏造かもしれない一部の伝承によれば、この〈鏡〉は
これだけの事態の最中とはいえ、その話が事実ならと思うと、ハリーも畏敬の念を覚える。 秘密があかされるとともに黄金の枠が一段と強く輝いた、ということはなかったが、古い古い消失した文明に由来するかもしれないだけの風格はある……。 「それでこの〈鏡〉は——
「いい質問だ。 答えは黄金の枠の上の文字に書かれている。読みあげてみてくれ。」
「ぼくが知っている種類の文字ではないので。トールキンのエルフが書く、適当に回転させたニワトリの足のようにしか見えません。」
「とにかく読むんだ。危険ハ ナイ。」
「では読みますが、スツウヲ シイ ウ ソイガ ンカッ イ ノチタタ ナアク ナハデオ カノタ ナア ハシタワ——」 背すじがまたチクチクと痛み、ハリーは読むのをやめた。
シイの
「文ノ 意味ハ ワカッタカ?」
「ワカラナイト 思ウ。」
クィレル先生は黄金の枠に目をむけたまま、フッと息をはいた。 「マグル科学の学び手ならこの〈偽理解の言語〉の文の意味がわかるのではと思ったが、 無理だったようだな。」
「もしかすると——」とハリーが言いかける。
おい、レイヴンクロー……この状況でもそれか?——とスリザリンが言った。
「もしかすると、この〈鏡〉のことをもっと教えてもらえれば、うまくいくかもしれませんが?」と操縦権限をにぎったレイヴンクローが言った。
クィレル先生のくちびるの端が持ちあがった。 「遠い時代のものがしばしばそうであるように、これについても学者たちが書きつらねた嘘は多く、いまではなにも確実なことが言えない。 この〈鏡〉はマーリンが道具としてつかっていたことが知られているから、すくなくともマーリンの時代にまでさかのぼるものであることはまちがいない。 マーリンが死後のこした指示には、この〈鏡〉は通常なら放置してはおけないような作用を起こしうるものだが、封印して隠すにはおよばない、とあった。 この〈鏡〉は世界を壊滅させないように注意ぶかく作りあげられているから、世界を壊滅させる道具としてはひとかけのチーズにも劣る、と書かれていた。」
あまり安心していい形容のしかたには聞こえない。
「〈鏡〉についてはほかにもいくつか情報がある。それなりに懐疑的で、ほかのことについては信頼できることがわかっている、著名な複数の魔法使いからの情報だ。 〈鏡〉のもっとも特徴的な能力は別世界をつくりだすこと。ただしつくりだされる世界は〈鏡〉のなかに見える範囲の広さにかぎられている。 そのなかに人間や物体を保管できることが知られている。 あらゆる魔術のなかで唯一この〈鏡〉だけが真の道徳性をそなえていると複数の権威が言っている。それが実際的になにを意味するのか、わたしにはよくわからないが。 〈
〈鏡〉の黄金の背面を見つめるハリーの脳内に、『マジかよ』など両親が聞けばたしなめるであろう種類の語句になりかけたものが駆けめぐる。
「わたしは世界を放浪して、あまり語られることのない物語に多く出会った。 そのほとんどは作り話のように思えたが、歴史と言ってよさそうなものも少数あった。 何百年も立ち寄る人のなかった場所の巨大な金属板の碑文に、アトランティス人の一部が世界の終わりを予見し、確実に到来するその災厄を回避するための強力な装置を精製しようとした、ということが書かれていた。 完成すればその装置は絶対的に安定した存在となり、無限の魔法力を流しても壊れることなく、ひとの願いをかなえるはずのものだったという。 そして——こちらのほうがはるかに達成しがたいことだとされたが——常識的に考えればそこから生じるであろうと予想されるどんな災厄をも、なんらかの方法で回避するともされていた。 おもしろいのは、その金属板に書かれていた物語が事実なら、その他のアトランティス人はこの事業を等閑視したということだ。 立派な事業だと賞賛されたこともありはしたが、ほとんどすべてのアトランティス人はそれに手を貸すほど暇ではなかったらしい。 アトランティスの貴族層でさえ、自分たち以外のだれかが無敵の能力を手にするかもしれないという可能性を無視した。 貴族はそういうことにもっと目ざといはずだと二流の冷笑家なら思ってしまうかもしれない。 この装置を開発しようとしていた極少数のアトランティス人は、大した支援もなく、過酷というよりは無意味に不愉快な状況下で作業した。 最終的に開発は間にあわず、アトランティスとともに装置も完成にほどとおい状態で崩壊した。 こういった部分には、わたし自身の経験を思いおこさせるものがある。そういうことは、たんなる作り話ではあまり起きない。」 クィレル先生はにやりと乾いた笑いをする。 「何百とあるほかの伝承のなかでたまたまこの一つがわたしの好みだったというだけのことかもしれない。 とはいえ、これは〈鏡〉はこの世界を破壊しないように作られているというマーリンのことばにも合致する。 そしてわれわれの目的にとってさらに重要なのは、〈鏡〉の前に立った人は自分の願望がかなえられた世界の幻影を見せられるという、かつて知られていなかった機能を〈鏡〉が有していて、ダンブルドアもしくはペレネルがそれを起動したらしいことを説明してもいるということ。 願望充足の装置を作るなら、そういう種類の安全策を組みこんでおいてほしいところではある。」
「すごい。」 ハリーは本心からそうつぶやいた。 これはただの魔法ではなく〈魔法〉……杖をふれば物理法則を無視したことができてしまうという種類の魔法ではなく、『
クィレル先生は黄金の背面を手で指した。 「そしてもうひとつ、ほとんどの伝承が、〈鏡〉に命令するための手段は未解明であるとしながら——その〈鍵〉についてはどこにも信憑性のある情報がない——個人に反応するような命令は不可能だと言っている点では一致している。 つまり、ペレネルは『ペレネルに対してだけ〈石〉を渡せ』と〈鏡〉に命令することができない。 ダンブルドアは『ニコラス・フラメルに〈石〉を渡すことを望む者にだけ〈石〉を渡せ』と命令することができない。 この〈鏡〉には哲学者が理想的正義と呼んでいるたぐいの盲目性がある。 それがどんな規則であっても、〈鏡〉はあらゆる人に同じ規則を適用しなければならない。 したがって、〈石〉の隠し場所に到達するための、だれもが起動しえる規則がかならずあるはずだ。 これで、これからわれわれが考案する戦略を実行することになるのがおまえである理由がわかるだろう。 この〈鏡〉は道徳性を有していると言われている。命令にもそれが反映されていておかしくない。 慣習的にはおまえが〈善〉でわたしが〈悪〉だと言われるであろうことは、わたしもよく認識している。」 クィレル先生は暗い笑いかたをした。 「では最初に——もちろん最後ではないから心配なく——これを試そう。おまえがハーマイオニー・グレンジャーと生徒数百人の命を救うために〈石〉をとりだそうとしたら、〈鏡〉はどう反応するだろうか。」
「その計画の
「言うまでもない。」
詩的な種類の謀略であるようにも思えるが、状況が状況なのでハリーの審美眼はうまく働いていない。
そこでもうひとつ思いついたことがあった。
「あの……この〈鏡〉があなたに対する罠だということは——」
「罠でない可能性は皆無だ。」
「つまり、これはヴォルデモート卿に対する罠である一方、ヴォルデモート卿個人に対する罠ではありえない。 そこにはなにか一般的な規則……ヴォルデモート卿が該当する、なんらかの一般性ある特質がなければならない。」 意識せずにハリーは〈鏡〉の黄金の背面をにらみはじめた。
「そのとおりだが。」 クィレル先生はにらむハリーをにらみはじめた。
「実は、この学年で最初の木曜日、狂ったダンブルドア総長が、ニワトリを燃やした直後にこう言ったんです。『アロホモラ』の呪文も知らない以上、ぼくが禁断の通廊にはいりこめる可能性はまったくない、と。」
「ああ……。そんなことがあったとは。 もっとずっと早い時点で話していてくれればよかったものを。」
自明なことなので二人ともわざわざ言わないが、ダンブルドアは
ハリーは考えつづける。 「ダンブルドアはぼくが……あの人の言いかたにあわせるなら、ヴォルデモート卿のホークラックスであるとか、あるいはもっと一般的に、ぼくの人格の一部がヴォルデモート卿から写し取られているという可能性に気づいていたと思いますか?」 そうくちにすると同時に、ハリーはそれがあまりにも愚かな質問で、自分自身あからさまと言えるほどの証拠を目撃していたことに気づく——
「気づかなかったわけがない。 別段わかりにくいことでもないのだから。 ダンブルドアはおまえのことをそれ以外にどう考えるというのだ。現実の十一歳の子どもとかかわったこともないバカな作家が書いた芝居を演じさせられている役者だとか? そんなことを考える愚劣な人間がどこに——いや、そうだったな。」
二人は無言でじっと〈鏡〉を見る。
やがてクィレル先生がためいきをついた。 「わたしは深読みをしすぎたのかもしれない。 われわれのどちらもこの〈鏡〉に映るのはよすとしよう。 ミスター・ノットとミス・グリーングラスにわたしがかけた
大人のトム・リドルと子どものトム・リドルはまた無言でじっと〈鏡〉を見つめる。
しばらくしてハリーが言う。 「先生、善意や善行のために〈石〉を手にしようとするだれかが必要だという種類の仮説だけを想定するのがまちがいではないかと思います。 総長ならそんな規則はえらびませんよ。」
「なぜそう言える?」
「人間は自分が正しいことをしていないのにしていると信じてしまいがちだということをダンブルドアは知っている。 だからその可能性はまっさきに考えるはずです。」
「ソレハ 真実カ、詐術カ。」
「正直ニ 言ッテイル。」とハリーはこたえた。
クィレル先生はうなづいた。「それなら、指摘は受けいれる。」
「解けるパズルだと思うのがまちがいなんじゃないでしょうか。 たとえば、左手に青色の小さなピラミッドひとつと赤色の大きなピラミッドふたつを持って、右手でマヨネーズをハムスターにたらさなければならない、みたいな規則なら——」
「いや、そうは思わない。 どんな規則を設定できるかという点について伝承からはなんとも言えないが、規則はおそらく〈鏡〉の本来の用途に関係するもの——その人の心の奥から生じる欲求と願望に関係するものにちがいない。 マヨネーズをハムスターにたらすというのは、たいていの人にとってそれに当たらない。」
「そうですか。なら、〈石〉をつかう気がまったくない人でなければならないとか——いや、それは簡単すぎるか。あなたがミスター・ノットにあたえた設定でうまくいくことになる。」
「ある面ではわたしよりおまえのほうがダンブルドアをよく理解しているのかもしれない。 そこで聞こう。死を受けいれるという考えをつかってダンブルドアがこの〈石〉を守るとしたら、ダンブルドアはどんな手をとるか。 ダンブルドアはそれがわたしに理解できないものの筆頭だと考えている。そしてそう考えるのは、あながちまちがいでもない。」
ハリーはしばらく考えて、いくつか案を検討しては棄却した。 そしてあることを思いつき、それを黙っていようかとも考えた……が、そうしたとして、『なにか思いつたかどうかを〈ヘビ語〉で言え』とクィレル先生が言う場面がやってくることは明らかだ。
やむをえず、話すことにする。 「ダンブルドアはこの〈鏡〉なら死後の世界と交信できると思うのでは? 死後の世界だと
「ふむ……。 その可能性はありえるな。 その人がこころから願うものを見せるという〈鏡〉の設定でいくと…… アルバス・ダンブルドアならきっと、
ハリーは自分のほおを指でたたき、その仕草をだれから学んだかに気づいてあわててやめた。 「ここに〈石〉をいれた人がペレネルだったとしたら? ここに〈石〉をいれた人にだけ〈石〉を返していい、という条件にしたのかも。」
「ペレネルは自分の限界を知っているからこそ、これまで生きのびてきた。 ペレネルは自分の知性を過信していないし、傲慢でもない。そうでなければずっと昔に〈石〉をうしなっている。 ペレネルなら、適切な〈鏡〉の規則を自分で考案しようとはしない。その問題はマスター・フラメルからダンブルドアの手にゆだねさせればいいと思って……。しかし、〈石〉を置いたことを記憶している人だけが〈石〉を取りだせる、という規則なら、ダンブルドアが置いた場合でも有効なはずだ。 それなら抜け道もなかなかありそうにない。だれかにただ『コンファンド』をかけて自分が〈石〉を置いたように信じさせるという手も通じない……となると、偽の〈石〉と偽の〈鏡〉を用意して、一芝居うつ必要があることになる……。」 クィレル先生は眉をひそめた。 「それでも、ダンブルドアはヴォルデモートなら時間さえあればそこまでやると想像するにちがいない。 ダンブルドアはきっと、できることならわたしがわたしの身がわりにあたえることが
そこでハリーは思いついた。
いい考えである自信はない。
……とはいえ、あまり選択肢のある状況でもない。
「けっきょくのところ、〈石〉を取りだすために必要なものがなんであるかは分からない。 けれどそのときの
「もっともだが、それで?」
「その場合すべきことは、そのときのダンブルドアの精神状態をできるかぎり細かい部分まで模倣して鏡のまえに立つことです。 そしてその精神状態を生じさせる原動力は外的なものでなく、内的なものである必要がある。」
「しかし、〈
「アナタガ ボクニ 策ヲ 考エロト 言ッタ。ソノヨウナ 意図ガ ボクノ 頭脳ニ 影響シテ イナイ トハ 言イ切レナイ。 疑ワレルダロウ トハ 思ッタ。尋ネラレルダロウ トハ 思ッタ。 決断ハ アナタ次第。 コレガ 罠デアル 可能性ニ ツイテ、ボクハ アナタヨリ 多クヲ 知ラナイ。 コレヲ 選択シテ 失敗シタトキ、裏切リト 考エナイデ ホシイ。」 ハリーは笑みをうかべる衝動に駆られたが抑えた。
「いい答えだ。」 いっぽうのクィレル先生は笑顔になった。 「一定の発想力がある人間には、〈ヘビ語〉で言質をとるという手段では対処しきれないようだ。」
ハリーはクィレル先生に命じられて〈不可視のマント〉を着た。『自分ヲ 校長ダト 思イコンデイル 男ニ オマエヲ 見サセナイタメ』とクィレル先生は〈ヘビ語〉で言った。
「〈マント〉を着ていようがいまいが、〈鏡〉に映る範囲から離れるな。 ここから溶岩が吹きだしでもしたときには、おまえも燃やされるべきだ。 そのくらいの対称性はあってほしい。」
そう言ってクィレル先生は来た道の扉の右手の、〈鏡〉のずっと手前の場所を指さした。 ハリーは反論せず、〈マント〉を着て、クィレル先生の指示どおりの場所に行った。 ハリーはだんだんと、人質にされた数百人の生徒の命がかかっているとしても、ここでリドルが二人とも死ぬことは悪いことではないのではないかという気がしてきた。 ハリー自身は善意ではあれ、多くの場合結果的には愚かなことをしてきた。そして復活したヴォルデモート卿は世界全体にとっての脅威だ。
(いずれにしても、ダンブルドアがそういう溶岩の罠をしかけていることはありそうにない。 ダンブルドアがヴォルデモートに対してはふだんの抑制をうしなって怒っているということはそれなりにありえるが、ヴォルデモートのことを肉体を離れた魂だと思っているなら、溶岩でそれを恒久的に止められるとは思わないだろう。)
ハリーの立っている床にクィレル先生が杖を向けると、光る円があらわれた。 クィレル先生はそれはすぐに〈遮蔽の外円〉になり、円の内部の音や映像を外部に漏れなくする効果があるのだと言った。 これでハリーが〈マント〉をぬいだり大声をだしたりしても、偽のダンブルドアがハリーに気づくことはない。
「おまえは有効になった円を越えて動いてはならない。 越えようとすれば、おまえはわたしの魔法力に触れ、それで共鳴が起きてわれわれは重傷をおう。〈
ハリーはそれを復唱した。
するとクィレル先生のローブの色が、ダンブルドアが礼服としてつかうような黄金まじりの黒色に変じた。クィレル先生は自分の頭部に杖をむけた。
クィレル先生は杖をそのままにして動きを止め、集中するように目をとじた。
そしてしばらくして「コンファンド」と言った。
するとすぐにその男の表情が変わり、困惑げに二、三度、目をしばたたかせて、杖をおろした。
クィレル先生の顔に、ものうげな表情がひろがっていく。 表面上なにもかわっていないのに目が年老いて見え、多少あった
男のくちびるが悲しげな笑みのかたちになる。
男はゆったりとした足どりで、静かに〈鏡〉にちかづく。時間の心配は皆無というように見える。
そして〈鏡〉の鏡像の範囲に足を踏みいれるが、なにも起きない。男は鏡面に見いる。
そこになにが見えているのか、ハリーには分からない。ハリーの目には、いままでどおり平坦で完璧な鏡面がいままでどおり背後の部屋を映しているように見える。境界に立つ
「アリアナ。」と男がひっそりと言う。 「母上、父上。そして弟よ。ことは済んだ。」
男はじっと、相手の話を聞いているように立っている。
「ああ、終わった。 ヴォルデモートはこの鏡のまえに立って、マーリンの方法でとらえられた。 いまや彼はここに封印された怪物のひとつでしかない。」
またおなじ静聴の時間。
「弟よ、そのとおりにしてやりたいのはやまやまだが。結果的にはこれがいいのだ。」 男はこうべをたれた。 「ヴォルデモートは二度と死ぬことが許されない。報いとしてはそれで十分ではないか。」
その光景にハリーはうずきを感じた。ダンブルドアはこんなことを言わない。これはむしろダンブルドアの藁人形、浅いステレオタイプに見える……かといって、相手もほんもののアバフォースの霊ではなく、クィレル先生が想像するダンブルドアが想像するアバフォースでしかない。二重の虚像であるアバフォースはきっとそこになんの異変も感じないだろう……。
「そろそろ〈賢者の石〉を返しにいかねば。」と自分はダンブルドアだと思いこんでいる男が言う。 「マスター・フラメルのもとに返さねばならん。」
静聴の時間。
「いいや、マスター・フラメルは長年、不老不死をもとめる者の手から〈賢者の石〉を守りきってきたではないか。この石は彼のもとにあってこそ安全だと思う。……いや、マスター・フラメルに下ごころはないと思うよ、アバフォース。」
ハリーは自分のなかを駆けめぐる緊張をおさえることができず、息が苦しくなる。 不完全……クィレル先生の〈
「破壊する?」と男が言う。 「ふむ。 しかし、はたして破壊
ハリーの呼吸がとまった。
男は
「ありがとう。」
〈石〉の外見はこれであっているのか? クィレル先生は実物がどんな外見だか知っているのか? この条件下で〈鏡〉は実物を返すだろうか? それとも模造品をつくって返すだろうか?
そして——
「いや、アリアナ……」と言って男はほほえむ。 「申し訳ないが、わしはもう出ていかねばならん。 しかしわしが真の意味でおまえたちといっしょにいられるようになる日は遠くない。だから待っていておくれ……。 なぜか? なぜわしは出ていかねばならないのだったか……〈石〉を手にすればすぐに〈鏡〉のまえを離れて、マスター・フラメルが連絡してくるのを待つということになっている。しかし、なぜ待つために〈鏡〉のまえを離れねばならないのかは分からない……。」 男はためいきをつく。 「ああ、これも年のせいか。 このおそろしい戦争がいま終わってくれたのはよかった。 おまえがそう言うなら、しばらく二人で話をすることにしても、なにも害はないだろうと思う。」
ハリーの目の裏で頭痛がはじまった。 ハリーのなかの一部分は自分がしばらく息をしていないということを報告しようとしているが、聞き手はどこにもいない。
そしてハリーは自分が冷静になったのを感じた。 呼吸も再開した。
いずれにしろ、いま自分にできることはあまりない。 そもそもこちらが介入できないようにしたのはクィレル先生だし、その結果クィレル先生がどんな目にあおうとも自業自得でしかない。 こちらがその巻き添えにされてしまうかもしれないが、それもしかたない。
自分はダンブルドアだと思いこんでいる男は、大切な妹の話を聞いて、何度もおおらかにうなづいては、ときおり返事をしている。 そしてときおり申し訳なさげに、ここから立ち去りたいという強い衝動を感じているかのように、ちらりと視線をはずす。しかしその衝動があるたびに、アルバス・ダンブルドアが妹に対してもつであろうとクィレル先生が想像する忍耐力と気づかいによって押しかえす。
やがて『コンファンド』が切れ、その瞬間に男の表情が変わり、クィレル先生の顔にもどった。
そしておなじその瞬間に〈鏡〉が変化した。そこの映っていた室内の映像はなくなり、かわりにほんもののアルバス・ダンブルドアのすがたが映しだされた。本人が〈鏡〉のなかに立っているのがそのまま見えているかのようだった。
ほんもののダンブルドアの表情はかたく、暗い。
「こんにちは、トム。」とアルバス・ダンブルドアは言った。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky