少年はもう副でなくなった現総長の旧居室に近い部屋のなかで座っている。 涙は数時間まえに乾いている。 あとはこのさきの自分の行くすえを知らされるのを待つばかり。ホグウォーツの孤児院の子として、自分の生命と幸福は一族の敵の手にゆだねられるということを。少年は呼ばれるままこの部屋に来たが、それはほかにすべきこと、行くべき場所がなかったからである。 ヴィンセントとグレゴリーはそれぞれの父親の葬儀を急ぐために母親に呼び出され、少年のそばを去った。 彼もそちらに同行すべきだったかもしれないが、それだけの気力がなかった。 自分がその場でマルフォイらしいふるまいをできるように思えず、 表面上の礼儀作法をつくろうこともできないほど、自分のなかが強く空虚な感覚に満たされている。
みんな死んでいる。
父が死に、その場合に後見人になるはずだったミスター・マクネアも死に、予備の後見人のミスター・エイヴァリーも死んだ。 母のいとこにあたり、ブラック家の最後の生きのこりで、もともとマルフォイ一族と反りがあわなかったシリウス・ブラックまでもが死んでしまった。
みんな死んでいる。
部屋の扉にノックの音があった。少年が返事をしないでいると、扉がひらき、そこから——
「帰れ。」とドラコ・マルフォイはあらわれた〈死ななかった男の子〉に言った。語気を強めようにも、そうすることができない。
「用件はすぐに終わる。」と言ってハリー・ポッターが部屋に足をふみいれる。 「ある決断をしてもらいたい。きみにしかできない決断を。」
ドラコはハリー・ポッターを見ているだけの気力ものこっていなかったので、壁に顔をそむけた。
「きみにこれからのドラコ・マルフォイの運命を決めてもらう。 これを不吉な意味に受けとらないでほしい。 どんなことがあっても、きみが〈元老貴族〉家の裕福なあとつぎであることに変わりはない。 ただ……」 ハリーはそこでためらった。 「ただ、きみがまだ知らない悲惨な事実がひとつある。きみがそれを知れば、きみはぼくと絶交すると言うように思えてならない。 ぼくはきみと友だちでいたい。 けれど——それを秘密にして——きみと友だちでいつづけるために、その嘘を言いつづけるのは——いやだ。 そうするのは正しくもない。 もう……もうそういうのはやめたい。もうきみを
それなら友だちになろうとするのをやめればいい、どうせきみは向いていない—— ドラコの意識にその一言がのぼったが、口が拒否した。 ハリーが自分との友情をだしにしてやったこと、数かずの嘘と誘導のことを思うと、ドラコはほとんどハリーとの仲は終わったような気がしていた。 それでもこのまま一人でスリザリンに戻るのは……ヴィンセントとグレゴリーの母親が契約を終わらせていてあの二人もいなくなっているかもしれないと思うと……いやだと思う。このままスリザリンに戻り、スリザリン寮に〈組わけ〉されることに同意した人たちとだけ付きあって一生を終えるのは、いやだと思う。 ドラコにはかろうじて、自分と真に親しい人たちのうち何人もがハリーとも親しいのだということを思いだすだけの理解力がのこっていた。パドマはレイヴンクローであり、セオドアですらカオス軍の士官だ。 マルフォイ家にのこされたものはもはや伝統しかない。そしてその伝統によれば、戦争の勝者に対して、こちらに近づくな、友好的であろうとするのをやめろ、と言うのは賢明ではない。
「わかった。」と無感動に答える。 「言ってくれ。」
「そうするつもりだ。 そして話が終わってぼくが退室すれば、総長が来て、きみの直近三十分の記憶を封印する。 けれどそのまえに、掛け値のない真実を知った状態で、きみはぼくと付きあっていたいかどうかを判断することができる。」 ハリーの声が震える。 「それじゃ。 ここに来るまえに読んできた記録によると、話は一九二六年にトム・モーフィン・リドルという名前の半純血の魔法使いが生まれたときからはじまる。 彼の母親は産褥死し、彼はマグルの孤児院で育ち、やがてダンブルドア教授がホグウォーツからの手紙をたずさえてそこを訪ね……」
〈死ななかった男の子〉は話しつづける。その声は、かろうじて残っているドラコの精神に倒壊する家並みのように襲いかかる。
〈闇の王〉は半純血だった。純血主義を一瞬たりとも信じたことがなかった。
トム・リドルは悪い冗談としてヴォルデモート卿という存在を思いついた。
〈死食い人〉はデイヴィッド・モンローに敗れ、モンローが君臨するはずだった。
トム・リドルはその路線をやめて、勝とうという気もなくヴォルデモートを演じつづけることにした。それは〈死食い人〉をあごで使える立ち場が気にいったからでしかなかった。
ヴォルデモートはドラコを利用し、
そして最後の凶報。
「きみが——」とドラコ・マルフォイが小声で言う。「きみが——」
「昨夜、きみのお父さんと〈死食い人〉たち全員を殺したのはぼくだ。 〈死食い人〉たちはぼくがなにをしてもすぐに撃つようにと命令されていた。だからぼくは世界全体にとって危険なヴォルデモートをどうにかしようするなら、まず彼らを殺さなければならなかった。」 ハリー・ポッターの声は緊張している。 「ぼくはそのとき、きみとセオドアとヴィンセントとグレゴリーのことを考えていなかった。けれど考えていたとしても、おなじことをしていたと思う。 〈ミスター・ホワイト〉がルシウスだったということには当時気づかなかったけれど、気づいていたとしても、彼が無杖魔法をつかえる可能性を考えれば、生かしておく気にはなれなかったと思う。 〈死食い人〉全員が急死すれば政治面でとても都合がいい状況になるということには、かなり早い時点で気づいていた。 ぼくはずっと〈死食い人〉を悪人だと思っていた。きみと最初にあった日以来、その部分の本心をきみにはかなり控えめにしか表現しないようにしていた。 仮にきみのお父さんがあそこにいなかったとして、その場にいないお父さんを殺すボタンが手元にあったなら、ぼくはそのボタンを政治的な理由のためだけに押すことはしなかっただろうと思う。 ぼくがいま自分のしたことをどう思っているか、後悔はあるのかと言えば…… 一般論としてだれを殺すことについても強い拒否感がある自分がいる。いっぽうで、倫理的に言えば、〈死食い人〉はヴォルデモートと手をくんだ時点で自分の命への権利をなくしていたと言っている自分もいる。 最初にこちらに杖をむけてきたのは向こうだとか言うこともできる。 でもいまはただ、きみに対して自分がしてしまったことについて吐き気がする。前回とおなじように。多分……」 ハリー・ポッターの声がやや揺らいだ。 「
次期マルフォイ家当主は泣いている。敵をまえに隠しもせず泣いている。みなが死んだいま、だれのために作法や余裕をたもつこともなくなったから。
嘘。
嘘。
すべては嘘だった。あれもこれも、嘘に嘘を塗りかさねた嘘——
「死んでくれ。」 ドラコは無理をして声をだす。 「父上を殺したきみも死ぬべきだ。」 その発言で自分のなかがいっそうの空虚さに満ちたが、それでも言う必要があった。
ハリー・ポッターはただ首をふった。 「もしそれがかなわなければ?」
「
ハリーはまた首をふるだけ。
〈死ななかった男の子〉はマルフォイ家当主に決断を求める。
マルフォイ家当主は拒否する。どちらの答えも言うに言えない。この戦争の勝者に、そしておたがいの共通の友人に、自分と手を切らせることにつながる答えは言えない。いっぽうでハリーが求める許しをハリーにあたえたくもない。
なのでドラコ・マルフォイは答えることを拒否した。そのため、この自我の記憶はそこで途切れている。
少年はもう副でなくなった現総長の旧居室に近い部屋のなかで座っている。 涙は数時間まえに乾いている。 あとはこのさきの自分の行くすえを知らされるのを待つばかり。ホグウォーツの孤児院の子として、自分の生命と幸福は一族の敵の手にゆだねられるということを。少年は呼ばれるままこの部屋に来たが、それはほかにすべきこと、行くべき場所がなかったからである。 ヴィンセントとグレゴリーはそれぞれの父親の葬儀を急ぐために母親に呼び出され、少年のそばを去った。 彼もそちらに同行すべきだったかもしれないが、それだけの気力がなかった。 自分がその場でマルフォイらしいふるまいをできるように思えず、 嘘をつくろうこともできないほど、自分のなかが強く空虚な感覚に満たされている。
みんな死んでいる。
みんな死んでいる。すべては最初から無意味だった。
部屋の扉にノックの音があった。作法どおりにしばらく待つと、やがてマクゴナガル総長があらわれた。服装は一教員であったときとほとんど変わらない。 「ミスター・マルフォイ?」と一家の敵であり勝者であるその人が話しかける。 「わたしについてきなさい。」
けだるい気持ちでドラコは立ちあがり、彼女について部屋をでた。 でてすぐの場所にハリー・ポッターがひかえていたのに目がとまったが、ドラコの精神はそれをただ遮断した。
「最後にこれを。」とハリー・ポッターが言う。 「ぼくはこれを羊皮紙の封筒にはいっている状態で見つけた。封筒には、これはマルフォイ家に対する最終兵器だと書かれていた。戦争の勝敗が究極的に危うくなるまでそのつづきを読んではならないとも書かれていた。 きみが決断するまえにこれのことを知らせると、決断が不公正にゆがんでしまうおそれがあると思って、知らせないでおいた。 きみがよい人で、殺したことも嘘をついたこともないとして、そのどちらかをこれからしなければならないとしたら、どちらがましだと思う?」
ドラコはそれを無視し、マクゴナガル総長に付いて歩きつづけ、悲しげな表情のハリーをあとにした。
二人は総長の元居室までやってきた。総長は杖をひとふりして〈
ほかにどうしようもなかったので、ドラコ・マルフォイはそのあとを追った。
彼女はこの朝、いつも以上に気だるさを感じてベッドに横たわっていた。太陽がまだ顔をだしかけたばかりの時間に目がさめてしまった——といっても、周囲に摩天楼があるせいで、この家に日光が直接あたることはないのだが。 こめかみの痛みに二日酔いの気配があり、口が乾いている。酒は(なんのためにひかえるのだろうかと思いつつも)ひかえるようにしているが、昨日は……ふだん以上に気分が落ちこんでいた。まるでなにかをなぜかなくしてしまったような感じがしていた。 考えるのは何度目だろうかと思いながら、引っ越すことをまた考える——アデレードか、パースか、いっそのことパースアンボイにでも、と思う。 ずっと以前から、自分の居場所はどこかほかにある、という感覚があった。しかし、いくら保険会社からの支払いで不自由なく暮らせているとはいえ、贅沢をする余裕はない。 自分の行き場のなさを解消したいがために世界を放浪するような資金はない。 いくら延々とテレビを見ても、旅行記のレンタルビデオをいくつ借りても、このシドニーよりすこしでもしっくりくる土地が映像のなかに現れることはなかった。
彼女は交通事故で記憶を失って以来ずっと、時間が止まって身動きがとれなくなっているように感じていた——いまは家族であったように思えもしない死んだ家族についての記憶もそうだが、たとえばストーブの仕組みについての記憶までもがなくなっていたのである。 自分はなにを待ち望んでいるのか。どんな鍵があれば自分の人生をまた動かしはじめることができるのか。それがなんであるにせよ、そのなにかもまた、あの暴走するミニバン車に奪われたのかもしれない、いや、そうだという確信がある。 彼女はそのことを毎朝といっていいほど考えつづけ、自分の人生と心から失われたなにかを言いあてようとしていた。
だれかがドアの呼び鈴を鳴らした。
ああもう、と言って、ベッド脇においてあるLEDの目覚まし時計が見える程度に首をまわす。 6:31。AMという部分も光っている。勘弁してほしい。まあ、あのだれかをいくら待たせてもばちは当たらない。好きなだけよたよたと歩かせてもらうことにしよう。
そう思って、また呼び鈴が鳴るのもかまわず、彼女はベッドから迷い出ると、洗面所に引きこもり身じたくをした。
こういう訪問者への応対は別のだれかの仕事のはずだ、という拭いがたい感覚を無視して、よたよたと階段をおり、閉じたままのドアにむけて言う。 「どなた?」 ドアにはのぞき穴があるが、
「ナンシー・マンソンさんですか?」と女性の声がした。きっちりとしたスコットランドなまりだった。
「そうですが。」とナンシーは警戒しつつ答えた。
「『ユーノエ』」とまたおなじ声が言うと、光線がドアから飛んできた。ナンシーはおどろいて飛びのいたが、それでも
ナンシーはよろめいて、ひたいをさすった。光線がドアを通過し、人間に着弾する。そんな……そんなことがあって……あっても、おどろきではないような気がする……
「このドアをあけていただけませんか?」とスコットランド風の声がする。 「戦争は終わりました。あなたはまもなく記憶を回復します。 ぜひあなたに会っていただきたい人がここにいます。」
記憶を——
思考がよどみ、あたまのなかからなにかが飛びだしてきそうな感じがする。それでもなんとか、ナンシーはドアを引いてあけた。
ドアのむこうにいた女性は(
——その横には、白金色の髪の毛を短く切りそろえた少年がいる。緑色のふちどりがついた暗色の(
緑色のふちどりのローブ、白金色の髪……
なにか温かく感じられるものが記憶のなかでぐらりと動き、 思いがこみあげてくる。この十年間ずっと探しもとめていたなにかに、いまやっと出会えたのかもしれないと感じられる。 心の奥底で氷が音をたてて解けだし、自分のなかであまりにも長く止まっていた部分がもう一度動きだそうとする。
少年はこちらを見つめ、口を動かしている。しかし声は出ていない。
謎めいた名前が彼女の心のなかに浮かびあがり、口をつく。
「ルシウス?」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky