「時間はきっとどこかでみつかると思う。」
「フリジデイロ!」
ハリーは机のうえのグラスの水に指をいれた。冷たくなっているはずだが、なまぬるい。なまぬるいまま、変わっていない。またしても。
ハリーはとても、うらぎられたような感じがしていた。
ヴェレス家のなかには何百ものファンタジー小説がちらばっていて、 ハリーはそのうちのかなりを読んだことがある。 そして自分には謎の
そして怒りが血にながれこんだとき、ハリーは憎悪に震える手で杖をもち、冷たい調子で「〈
「フリジデイロ!」ととなりの席のハーマイオニーがもう一度言った。水はかたい氷になり、グラスのふちに白い結晶が形成された。彼女は自分の作業にすっかり没頭していて、ほかの生徒全員から憎悪の視線でにらまれていることをまったく意に介していないようだった。ということは、(一)危険なまでにまわりが見えていない、(二)芸術的なまでに完璧にとぎすまされた演技をしている、のどちらかだ。
「おお、おみごとです、ミス・グレンジャー!」と〈
ハリーは最悪の場合として、ハーマイオニーの次点にあまんじる可能性を予期していた。 もちろん
月曜日時点で、ハリーはクラスの最下位群にはいりつつあった。つまり、ハーマイオニー以外のマグル育ちの全生徒となかよく一緒に競いあう地位である。かわいそうにひとりぼっちで首位を独走する、ハーマイオニー以外の。
フリトウィック先生は別のマグル生まれの生徒の机のうえに立って、無言でその子の杖の手つきをなおしている。
ハリーはハーマイオニーのほうを見て、ごくりとつばを飲んだ。 大局的見地からみれば当然、彼女がはたすべき役割ではあるが…… 「ハーマイオニー?」とハリーはおずおずと言った。「ぼくのやりかたはどこか間違っていると思う?」
ハーマイオニーの目におそるべき親切の光がともった。ハリーの脳のかたすみのなにかが、必死に屈辱感をさけんだ。
五分後、ハリーの水は室温よりもはっきりと冷たくなったようだった。ハーマイオニーは彼のあたまをポンとたたくかわりに一言ほめ、つぎはもっと発音に気をつけるように、と言いのこしてから、ほかのだれかを助けに去っていった。
ハリーを助けたことでハーマイオニーはフリトウィック先生から寮点を一点もらった。
ハリーはあごが痛むほど歯ぎしりをした。余計に発音がわるくなりそうだった。
競争が不公平になろうがかまうもんか。これから毎日の追加二時間ですることは決まったぞ。ハーマイオニー・グレンジャーに追いつくまで、トランクのなかにこもって自習だ。
「
彼女の杖が机をたたき、机はなめらかにブタのかたちへと変じた。 マグル生まれの生徒が数人ちいさな悲鳴をあげた。 ブタはあたりをみまわして、困惑したように鼻をならし、また机になった。
〈転成術〉教授は教室をみまわし、ある生徒のところで視線を止めた。
「ミスター・ポッター。あなたは数日まえに教科書をうけとったばかりですね。〈転成術〉の教科書は読みはじめましたか?」
「まだです。すみません。」
「謝罪はけっこうですよ。予習が必要であればそのように指示します。」 マクゴナガルの指が机をたたいた。 「ミスター・ポッター、予想してみてください。これは机でわたしがそれをブタに〈転成〉させたのでしょうか、それとももともとブタで一時的に〈転成〉を解除したのでしょうか? 教科書の第一章を読んでいたらわかっていたはずです。」
ハリーはわずかに眉をひそめた。 「ブタからはじめるほうが簡単ではないかと思います。もともと机だったとしたら、それは立ちあがる方法を知らないかもしれません。」
マクゴナガル先生はくびをふった。「あなたが悪いのではありませんが、ミスター・ポッター、〈転成術〉におけるただしい解答は予想
「正解です。〈転成術〉は、六年生になるまで教わらない〈
何人かの生徒がごくりとした。
マクゴナガル先生は立ちあがり、机のうしろの壁にある、みがかれた木の板のところへいった。「〈転成術〉が危険な理由はいくつもありますが、ほかとくらべて特にきわだつのはこの一点です。」彼女は持ち手の太い短い羽ペンをだし、それをつかって赤い文字を書き、そしておなじペンで青色の下線をひいた:
〈転成術〉は永続しない!
「〈転成術〉は永続しない! 〈転成術〉は永続しない! 〈転成術〉は永続しない! ミスター・ポッター、ある生徒が木のブロックを水に〈転成〉させ、あなたがそれを飲んだとします。〈転成〉がとけたら、あなたはどうなってしまうでしょう?」 沈黙。 「すみません、あなたにすべき質問ではありませんでしたね。あなたがなみはずれて悲観的な想像力にめぐまれていることを忘れていました——」
「大丈夫です。」とごくりと唾を飲んでハリーが言う。 「『分からない』というのが最初のこたえですが、」 先生は満足げにうなづいた。 「ぼくの
マクゴナガルの表情がかたくなった。「ミスター・ポッターがただしく推論してくれたとおり、彼は非常に具合が悪くなり、ただちに〈聖マンゴ病院〉へ〈
その動く写真には音がなかったが、それでもそのなかの血色をおそろしくうしなった女性が悲鳴をあげているのはわかった。
「この犯罪者は、『債務の支払い』と称して、
「質問ですが、そういった最悪の事態で、〈転成〉を
「ありません。」とマクゴナガル先生があっさり言う。「〈転成〉を維持するには、目標物のおおきさにみあった量の魔法力を恒常的に消費します。そして数時間おきに目標物に接触しなおす必要があります。それはこの例のような場合には不可能です。このような災厄は
マクゴナガル先生はまえのめりになり、表情を緊張させた。「液体や気体を〈転成〉させることはどんな状況でも決してしてはなりません。水も、空気も、水のようなものも、空気のようなものもいけません。飲むためのものでなくともいけません。液体は
「はい。」と言ったのはハリーとハーマイオニー、そのほか数名。のこりはことばをうしなったようだ。
「
「はい。」と全員が言ったか、つぶやいたか、ささやいた。
「いま言った規則をひとつでもやぶった人は、以後ホグウォーツにいるあいだ〈転成術〉をまなぶことが許されません。わたしにつづいて復唱しなさい。わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」
「わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」とガタガタの合唱で生徒たちが言った。
「もう一度! もっとおおきな声で! わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」
「わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」
「わたしは食べものにみえるものや人体にはいるようなものを〈転成〉させません。」
「燃やすためのものは煙をだしうるので〈転成〉させません。」
「マグルのおかねも含めて、おかねのようにみえるものを〈転成〉させることはなりません。」とマクゴナガル先生が言う。 「ゴブリンはそれをだれがやったかあばく方法をもっています。 法律的観点からは、ゴブリン族は魔法界のあらゆる通貨偽造者と恒久的な
「わたしはおかねのようにみえるものを〈転成〉させません。」と生徒たちが復唱した。
「なによりも、生命のある対象物、特に
マクゴナガル先生はポケットから小さな木材をとりだした。杖でたたくとそれはガラスの玉になった。そして「〈
マクゴナガル先生は生徒たちをするどい視線で見た。「
「そしてミスター・ポッターの質問へのこたえですが、生命のある対象物にかけてはいけないのは
これでふとった男の子や、完璧な美人でない女の子の存在が説明できる。それをいうなら老人の存在も。自分を毎朝〈転成〉させられるならそうはなっていない……。ハリーは手をあげ、目でマクゴナガル先生に信号をおくろうとした。
「
「生命のある対象物を静的な目標物——たとえばコイン——いや、すみません、申し訳ありません……鉄の玉に、〈転成〉させることはできますか。」
マクゴナガル先生はくびをふった。「ミスター・ポッター、無生物も時間とともに内部がすこしずつ変化します。最初数分間は目にみえるからだの変調はなく、なにもおかしなことあるように見えないかもしれません。ですが一時間あとには具合が悪くなり、一日後には死にます。」
「ええと、すみません。するともしぼくが第一章を読んでいたら、その机はもともと机であってブタではないと
「ミスター・ポッター、あなたのテストの採点はわたしにとってつきることのない喜びをあたえてくれそうですが、もしそれ以上質問があるなら、授業が終わるまで待っていただけますか。」
「もう質問はありません。」
「では復唱を。」とマクゴナガル先生。「特定の目的の〈
「〈転成術〉が安全かどうかわからない場合は、ホグウォーツにおける〈転成術〉の唯一の権威であるマクゴナガル先生かフリトウィック先生かスネイプ先生か総長先生にたずねるまで自分で試しません。ほかの生徒にたずねることは、同じ質問をした覚えがあるとその生徒に言われたとしても、
「現在のホグウォーツの〈防衛術〉教授から、ある〈転成術〉は安全だと言われても、〈防衛術〉教授がそれをかけてなにも悪いことが起きていないように見えても、それを自分では試しません。」
「わたしにはほんのすこしでも不安な場合には〈転成術〉をつかうことを断固拒否する権利があります。ホグウォーツ総長であってもそう命令はできませんし、〈防衛術〉教授から寮点を百点減点し退学させるとおどされても、〈防衛術〉教授からのそういう命令にはしたがいません。」
「これら規則のひとつでもやぶった場合、わたしはホグウォーツにいるあいだ〈転成術〉をまなびません。」
「最初一カ月はこの授業の開始時に毎回この規則すべてを復唱してもらいます。」とマクゴナガル先生が言う。「今回はマッチを対象物、針を目標物としてはじめましょう……杖から手をはなしなさい。よろしい。『はじめる』と言ったのは、メモをとりはじめなさいということです。」
授業の終わる三十分まえに、マクゴナガル先生はマッチを配布した。
授業が終わるときハーマイオニーは銀色のマッチを手にし、マグル生まれもそうでないのもふくめてのこりの生徒全員は、なにも変化のないままのマッチを手にしていた。
マクゴナガル先生はハーマイオニーにもう一点レイヴンクローの点を進呈した。
〈転成術〉の授業が終わると、ハーマイオニーはハリーの机のところにきた。ハリーは教科書をポーチにしまっているところだった。
「ねえ……」と純粋無垢な表情をしてハーマイオニーが言う。「わたしはきょうレイヴンクローの点を二点もらったでしょう。」
「もらったね。」
「でもあなたの
ハリーはポーチに宿題を食わせおわり、怪訝そうな目でハーマイオニーのほうをむいた。実のところ、そのことはすっかり忘れてしまっていた。
ハーマイオニーはまばたきで
二人はたがいの目を、まばたきひとつしようとせずに見あった。
ハリーがさきに口をひらいた。「これはもう戦争だってわかってるよね。」
「和平をむすんでいたなんて、初耳。」
二人以外の全生徒が、夢中になってそれを見ていた。二人以外の全生徒だけでなく、残念ながら、マクゴガナガル先生も。
「そうだわ、ミスター・ポッター。」と部屋の奥からマクゴナガル先生が言う。「いい知らせがあります。あなたの提案する〈スピンスター・ウィケット〉の防護方法をマダム・ポンフリーが承認してくれました。来週末までには処置が終わる予定です。これだけのお手柄ですから……そうですね、レイヴンクローに十点としましょう。」
ハーマイオニーの顔がうらぎりとショックで呆然となった。ハリーは自分の表情もあまりちがわないだろうと思った。
「
「この十点は当然のみかえりで、
「先生!」とハリーは声をあげた。「これは
「これで
ハリーの口がぱたりととじた。ハリーはできるかぎりの〈殺人視線〉をマクゴナガルにおくったが、彼女は愉快そうにしていただけだった。
「夕食での表彰は決まりですね。」マクゴナガル先生は熟考した。「でもスリザリン生を不機嫌にしても意味がありませんから、簡単な表彰ですませなければ。点数の量とそれが新記録であることにだけ触れて……。そうだ、もしだれかから宿題を助けてほしいと言われて、あなたがまだ教科書を読みはじめていないことに失望されたら、ミス・グレンジャーにまわしてあげてくださいね。」
「
マクゴナガル先生は彼女を無視した。「ふむ。ミス・グレンジャーが夕食時の発表にふさわしいことをしてくれるのはいつになるでしょうか? それがなんであれ、期待していますよ。」
ハリーとハーマイオニーはたがいに無言のまま合意して、向きをかえて教室を飛びだした。レイヴンクロー生たちが夢中になって二人を追った。
「あの……」とハリーが言う。「夕食のあとの約束はまだ有効?」
「もちろん。あなたにこれ以上勉強でおちこぼれてもらいたくないから。」
「そりゃどうも。ところできみがすでに優秀なのはわかったけど、合理主義の基本的な訓練をうけさせてあげたらどうなるか興味があるな。」
「それがほんとにそんなに役に立つの? いまのところあなたの〈
短い沈黙があった。
「だって、ぼくはまだ教科書をもらってから四日目だから。おかげで杖をつかわずに十七点獲得するしかなくてね。」
「四日目? 四日で八冊は無理にしても、
「ぼくはもう授業がある。きみのときはなかった。でも週末なら時間があるから……八かける四をイプシロンでわって、イプシロンを正の方向からゼロにちかづける極限をとって……日曜日の午前十時四十七分だ。」
「わたしは
「じゃあ土曜日の午後二時四十七分にする。時間はきっとどこかでみつかると思う。」
そして夕となり、また朝となった。これが第一日である。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
今回の非ハリポタ用語:「ゼロでわる」
この回ではあっさり流されましたが、ゼロ除算をどう評価(定義)するかは数学でもいろいろ。ところで、SF短編の名手テッド・チャンに「ゼロで割る」という題の小説(浅倉久志翻訳、短編集『あなたの人生の物語』収録)があり、おすすめです。