ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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18章「集団内の序列」

「ちょうどわしがやりそうなことにきこえるじゃろう?」

 

◆ ◆ ◆

 

金曜日の朝食の時間。 ハリーはトーストに大口でがぶりと食いつきながら、いくら急いで朝食をかきこんでも地下洞(ダンジョン)に早くいけるわけではないと自分に言いきかせようとしていた。 なにせ朝食と〈薬学(ポーションズ)〉の開始時刻のあいだには、まる一時間の自習時間がある。

 

でも地下洞(ダンジョン)が! ホグウォーツのなかにあるなんて! ハリーはすでに、細い橋やら蝋燭(ろうそく)のともった燭台やら光るコケやらを思いえがいていた。 ネズミもいるかな? ()()()()も?

 

「ハリー・ポッター。」と小さな声がうしろからした。

 

肩ごしに見えたのはアーニー・マクミランだ。黄色のえりのローブをこぎれいにまとって、すこし心配そうな顔をしている。

 

「ネヴィルからきみに忠告しておいたほうがいいと言われてね。」とアーニーは声を小さくして言う。 「たしかにそうだと思うから言っておく。 きょう授業する〈薬学教授(ポーションズ・マスター)〉には注意しろ。 ハッフルパフの上級生によると、スネイプ先生はきらいな生徒には相当意地がわるくて、スリザリンでない生徒のほとんどをきらっている。 きいたかぎりじゃ、この先生にひとことでも生意気なことを言った生徒は、かなりひどい目にあう。 とにかくめだたないようにして、目をつけられる口実をあたえるな。」

 

ハリーはしばらく沈黙してこの内容を検討し、両眉をあげた。 (スポックのように片眉をあげることができたらと思うが、うまくできたことがない。) 「ありがとう。おかげでうまく立ちまわれそうな気がする。」

 

アーニーはうなづき、ひるがえってハッフルパフのテーブルにもどった。

 

ハリーはまたトーストを口にした。

 

四口目くらいのところで、だれかが「ちょっとごめん。」と言い、ハリーがふりむくとレイヴンクローの上級生が、やや心配そうにしてそこにいて……

 

すこしあとのこと。ハリーが肉の薄ぎりの三皿目を食べおえるころ。 (ハリーは朝食をたっぷりとるのが得策だということを学んでいた。そのあとで結果的に〈逆転時計〉をつかう必要がなければ、昼食を軽めにすればいいだけのことだから。) そこでまたうしろから「ハリー?」と別の声がかかった。

 

「うん。」とハリーはうんざりして言う。「スネイプ先生には目をつけられないようにするから——」

 

「いや、まず無理だね。」とフレッド。

 

「どうみても無理。」とジョージ。

 

家事妖精(ハウスエルフ)たちにケーキを焼いてもらってるんだ。」とフレッド。

 

「きみがレイヴンクローの点を一点とられるたびに、ろうそくをひとつ増やす。」とジョージ。

 

「そして昼食になったら、グリフィンドールのテーブルできみのためにパーティーをひらく。」とフレッド。

 

「元気づけになればと思ってね。」とジョージがしめくくった。

 

ハリーは肉の薄ぎりの最後の一口をのみこんで、そちらを向いた。 「なるほど、正直、ビンズ先生を見たあとでこんなことを言うとは思わなかったんだけど、もしスネイプ先生が()()()()ひどい人なら、どうしてくびにされてないの?」

 

「くび?」とフレッド。

 

「つまり、やめさせるって?」とジョージ。

 

「そう、悪い教師がいるなら、やることはきまっている。 くびにするんだ。 そしてかわりに、ましな教師をやとう。 ここには組合とか在職権(テニュア)とかはないんだろう?」

 

フレッドとジョージは、あたかも狩猟採集民の長老が微分積分の話をされたときのようにして、眉をひそめた。

 

「どうだろう。」としばらくしてからフレッドが言う。「そういう発想はなかった。」

 

「おれも。」とジョージ。

 

「うん、よくそう言われる。じゃあ昼食のときにまた。ろうそくをひとつもケーキにのせられなくても文句言わないでね。」

 

フレッドとジョージは冗談を聞かされたかのように笑い、会釈してグリフィンドールのほうへもどっていった。

 

ハリーは朝食のテーブルのほうにもどってカップケーキを手にとった。 おなかはもういっぱいだが、きょうの午前中はかなりのカロリーを消費しそうな気がしている。

 

カップケーキをたべながら、ハリーはこれまでに出あったなかで最悪の教師、〈史学〉教授のビンズ先生のことを考えた。 ビンズ先生は幽霊(ゴースト)だ。 ハーマイオニーからきいた話からすると、幽霊には完全には自我があるとは言えなさそうだ。 生前どんな人であったかによらず、幽霊が有名な発見をしたことはないし、そもそも新しい作品をつくったことすらない。 幽霊は現世紀のできごとを記憶するのが苦手なことが多い。 ハーマイオニーは、幽霊は偶然つくられた肖像画のようなものだという。魔法使いが急死したときに放出される心霊エネルギーのかたまりが周囲の物質に刻印されてできたものだという。

 

標準的なマグル教育にのりこもうとして失敗した時期に、ハリーも愚かな教師にであってはいる——もちろんお父さんは大学院生を家庭教師にえらぶときには、ずっとよりごのみをしてくれた——が、文字どおり意識のない教師に出会うのは〈史学〉の授業がはじめてだった。

 

そのことは見ればわかった。 ハリーは開始五分間であきらめ、教科書を読みはじめた。 そして『ビンズ先生』が文句を言わないことがわかると、ポーチに手をのばし、耳栓をつけた。

 

幽霊は給料を要求しないのだろうか? だからか? それともホグウォーツでは教師をくびにするのが文字どおり不可能で、その教師が()()()()無理なのか?

 

そして、スネイプ先生がスリザリン以外の全員に対して最悪の態度をとっているのに、だれにも契約をうちきるという()()()()()()()とくる。

 

そして総長はニワトリを燃やした。

 

「ちょっといい?」とうしろから心配そうな声がした。

 

「ほんとに、」とハリーはふりむかずに言う。「この場所はパパの言うオクスフォードの八.五パーセントくらいひどい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは石敷の廊下を踏みならして歩いた。むかむかして、いらいらすると同時に憤慨している風だった。

 

地下洞(ダンジョン)!」とハリーは声をひそめて言う。「地下洞(ダンジョン)! こんなのダンジョンじゃない! これじゃ地下室だ! ()()()!」

 

レイヴンクローの女子何人かが怪訝そうな目でそれを見た。 男子は全員もう慣れっこだった。

 

〈薬学〉教室のおかれた階が『地下洞(ダンジョン)』と呼ばれるのには、単に地面より下にあって城本体よりもすこし寒いから、という以上の理由はないらしい。

 

()()()()()()に! ()()()()()()にも! ハリーはうまれてからずっと待ってきたというのに()()待つのか。()()()()()()()()にまともなダンジョンがあるとしたらホグウォーツしかない! ちょっとした底なしの奈落を見たいと思ったら自分で城をたてるしかないのだろうか?

 

まもなく全員が〈薬学〉教室につき、ハリーはかなり気をとりなおした。

 

〈薬学〉教室のクローゼットとクローゼットのあいだはすきまなく、巨大なビンがならぶ棚でうめられていて、どのビンにもそれぞれ奇妙な生物がおさめられている。 だいぶ読書をすすめていたおかげで、ハリーはザブリスカン・フォンテマなどいくつかの生物を同定することができた。 五十センチあるクモはアクロマンチュラの()()()()()()が、それにしては小さすぎる。 ハーマイオニーにきいてみようと、ハリーはそちらを指さして話そうとしたが、彼女はそちらに目をむける気分ではないようだった。

 

ハリーが目と足のついたほこりのかたまりを見ていたところで、暗殺者がするりと入室した。

 

それがセヴルス・スネイプ教授を見たときにハリーのあたまのなかにうかんだ最初のイメージだった。 子どもたちの机のあいだをしずしずと歩くその男にはどこか静かで、殺気だった感じがあった。 ローブは着くずれ、髪はよごれて、てかりがある。 どこかルシウスを思わせる雰囲気があったが、両者の見ためにはなんら共通点がない。ルシウスは完全無欠で優美な殺人をするという印象だったが、この男はただ殺すという印象だ。

 

「着席しなさい。」とセヴルス・スネイプ教授が言う。「さあ、はやく。」

 

立って話をしていたハリーとそのほか数人があわてて机にむかった。 ハリーはハーマイオニーのとなりに座るつもりでいたが、一番ちかくで空席だった、ジャスティン・フィンチ゠フレチリー(これはレイヴンクローとハッフルパフの合同授業だった)のとなりの席についてしまい、ハーマイオニーからは二席ぶん左側になった。

 

セヴルスは教卓のうしろの席に座り、つなぎや導入のことばなしに、こう言った。「ハンナ・アボット。」

 

「います。」とハンナは多少ふるえる声で言った。

 

「スーザン・ボーンズ。」

 

「はい。」

 

そうやって点呼がつづき、だれも無駄口をたたこうとはしないまま、ある生徒の番がきた:

 

「ああ、そうか。ハリー・ポッター。われらがあたらしい……()()()ではないか。」

 

「はい、スターはここです。」

 

教室にいる生徒の半分がびくりとし、かしこいほうの生徒数人は急に、まだ教室がのこっているうちにドアから逃げだしたい、というような表情になった。

 

セヴルスは予想どおりと言いたげな感じの笑みをうかべ、リストにあるつぎの名前を呼んだ。

 

ハリーはこころのなかでためいきをついた。 あまりに展開がはやすぎて、なにもできなかった。 しかたないか。 理由はわからないが、この人はすでにぼくを嫌っている。 ただ考えてみれば、()()()〈薬学〉教授の標的になるほうが、ネヴィルやハーマイオニーがそうなるよりはるかにましだ。 あの二人よりもぼくのほうがずっとうまく自衛できる。 そう、これでいいんだ。

 

全員の出席を確認すると、セヴルスは教室全体を見わたした。 その両目は星のない夜空のように空虚だった。

 

「ここで諸君は……」とセヴルスは教室のうしろの生徒からやっと聞きとれる程度の静かな声で言う。「魔法薬調合の精妙な科学と正確な技法をまなぶ。 愚かしく杖をふりまわすこともないのではとても魔法とは思えない、という者も多かろう。 たおやかにけむりをはきつつ、ゆるやかに沸騰する大釜(コルドロン)の美しさや、人間の血管にながれこみ」……というところで、やけに声に愛撫と愉悦がまじっていく。「精神を魅了し感覚を幻惑する液体の繊細なちからを」……どんどん気味がわるくなっていく。「諸君が真に理解するとは期待しない。 わたしは諸君に、名声をビンづめし、栄誉を醸成し、さらには死にふたをする方法さえも教えることができる——諸君が、例年わたしに押しつけられるような愚か者ばかりでなければだがね。」

 

セヴルスはどうやら、ハリーの顔にうかんだ懐疑の表情に気づいたようだった。すくなくとも、その視線が突然ハリーの席のあたりにおそいかかった。

 

「ポッター!」と〈薬学〉教授が声をあげた。 「アスフォデルの根の粉末をニガヨモギの抽出液にくわえてできるものはなんだ?」

 

ハリーは目をしばたたかせた。 「それは『魔法薬調合法』に書いてありましたか? あの本なら読みおえたばかりですが、ニガヨモギを材料とするものをみた記憶が——」

 

ハーマイオニーの片手があがり、ハリーはそれをにらみつけ、彼女はそれに応じてさらに手をたかくあげた。

 

「おやおや。」とセヴルスがなめらかに言う。「どうやらこの世は名声がすべてとはいかないようだ。」

 

「へえ? たったいま名声をビンづめする方法を教える、とおっしゃったのに。 ところで()()()()具体的にどうやるんですか? 飲むとスターになれる薬があるとか?」

 

教室の生徒の四分の三がびくりとした。

 

ハーマイオニーの手がゆっくりとおりていく。 まあ、おどろくことではない。 彼女はハリーの競争相手ではあっても、教師が意図的にハリーに恥をかかせようとしていることがわかったあとでそれにのるような子ではない。

 

ハリーは冷静さをたもとうと努力していた。 最初にあたまをよぎった反撃の一言は『アブラカダブラ』だった。

 

「ではもう一問。 ベゾアルを入手せよと言われたとき、さがすべき場所は?」

 

「それも教科書にありませんでしたが、ぼくの読んだマグルの本によれば、毛髪胃石(トリコベゾアル)は髪の毛が固体となったもので、人間の腹のなかでみつかります。かつてマグルは、これであらゆる毒を解毒できると信じていました——」

 

「不正解。 胃石(ベゾアル)はヤギの腹のなかでみつかる。髪の毛でできてはいない。ほとんどの毒を解毒できるが、すべてではない。」

 

「できるとは言っていません。マグルの本にそう書かれていると言っただけで——」

 

「ここにいるだれひとり、その()()()()()()マグル本とやらに興味はない。 最後の質問だ、ポッター。モンクスフードとウルフスベインの違いはなにか?」

 

もう限界だ。

 

ハリーは冷たくこう言った。「ぼくが読んだ()()()()マグル本のなかには、自分しかこたえを知らないどうでもいい質問をして自分をかしこく見せようとする人たちについての研究が書かれていましたよ。 聴衆は、質問者に知識があり回答者に知識がないということにしか気づかず、背後にあるゲームの不公平さを考慮にいれることができないそうです。 ところで、先生、炭素原子の最外殻電子数はいくつかわかりますか?」

 

セヴルスはいっそうにやりとした。 「四。 だれも書き取る必要はない無用な知識だが。 ポッター、参考までに言っておく。アスフォデルとニガヨモギからつくられるのは〈生ける屍の水薬〉と呼ばれるほど強力な睡眠薬だ。 モンクスフードとウルフスベインはおなじ植物で、別名トリカブトともいう。これは『魔法薬草菌類千種』を読んでいればわかっていたはずだ。 あの本は授業まえにひらくまでもないと思ったわけかね? ほかの諸君はこれを書きとめておくように。ポッターのように無知になりたくなければな。」 セヴルスはことばを切り、満足感にひたっているようだった。 「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

ハーマイオニーとほか数人が息をのんだ。

 

「セヴルス・スネイプ教授。」とハリーが声をあげる。 「あなたの敵意を買うようなことをしたおぼえは、いっさいありません。 もしぼくが自覚していない問題がなにかあるとおっしゃるなら、一度二人で——」

 

「だまれ、ポッター。レイヴンクローはもう十点減点する。ほかの諸君は教科書の三ページをひらきなさい。」

 

ハリーののどの奥には、わずかに、ほんのかすかにだけなにかが燃える感覚があったが、目にはなんのしめりけもでなかった。 泣くという戦術がこの〈薬学〉教授を粉砕するのに有効でないなら、泣く意味はない。

 

ゆっくりと、ハリーは背すじをのばした。 血がすべて流れだし、液体窒素でおきかえられたような気がする。 冷静さをたもとうとしていたのはおぼえているが、なんのためだったのか思いだせないような気がする。

 

「ハリー、」とハーマイオニーが二席むこうから必死にささやく。「やめて。もういい。これは数にいれないから——」

 

「私語かね、グレンジャー? 三点——」

 

「ところで、」と絶対零度より冷たい声が言う。「虐待をする教師に対して正式に抗議を提出するにはどうやればいいのでしょうか? 副総長に面会するのか、理事会に書面で送るのか…… その方法を教えていただけますか?」

 

教室が完全に凍りついた。

 

「一カ月の居残り作業を命ずる、ポッター。」とセヴルスが、さらに笑みを顔にひろげて言った。

 

「ぼくはあなたの教師としての権威を承認しない。あなたから命じられた処分はうけない。」

 

全員が息をとめた。

 

セヴルスの笑みが消えた。 「ならば、おまえは——」と、その声が途中でとぎれた。

 

「退学、ですか?」 ハリーのほうは薄ら笑いをうかべていた。 「でもあなたは、自分にその脅迫を実行する権限がないかもしれないと疑っている、あるいは、できたとして、どういう報いをうけることになるか恐れているようだ。 ぼくのほうは、こんな虐待をする教師のいない学校がみつかるみこみを疑ってもいないし恐れてもいない。 いや、ぼくがいつもそうしていたように、個人的に教師をやとって、目いっぱいの学習速度で教えてもらってもいい。 それにたりるだけのおかねが金庫にある。 〈闇の王〉をたおした賞金かなにかで。 でもホグウォーツには好ましい教師もいるから、あなたを追いだす方法をみつけるほうがよさそうだ。」

 

「わたしを追いだす?」と言ってセヴルスも薄ら笑いをしはじめた。 「愉快なうぬぼれだ。どうやってそんなことをするつもりだね?」

 

「ぼくの理解では、あなたについては複数の生徒と保護者から抗議がでている。」……というのは勘だが、まずまちがいないだろう。 「となるとなぜあなたがまだここにいるのかが不思議でならない。 ホグウォーツはまともな〈薬学〉教授をやとえないほど金銭的に困窮しているのか? そうなら、ぼくがカンパしてもいい。 二倍の給料をだせば、きっとあなたよりはましな水準の教師をみつけられると思う。」

 

二本の氷の柱が冬の寒さを教室全体に放射している。

 

「やってみれば、理事会がその提案にいっさい賛同しないことがわかるだろう。」とセヴルスが小声で言った。

 

「そうか、ルシウスが……。()()()あなたはまだここにいるんだ。 ぼくはルシウスと一度話をしたほうがいいかもしれない。 彼はぼくに会いたいと思っているようだった。 ぼくは彼がほしがるものをなにかもっていたりするだろうか?」

 

ハーマイオニーが必死にくびをふった。 ハリーは視界のかたすみにそれをみとめたが、ハリーの注意力はすべてセヴルスにそそがれている。

 

「なんと愚かな少年だ。」 セヴルスはもう笑みをやめている。 「ルシウスにとってわたしとの友情をこえる価値のあるものはおまえにはない。 仮にあったとして、わたしにはほかの協力者もいる。」 そこで声がかたくなった。 「おまえがスリザリンに〈組わけ〉されなかったなどということはありそうにない気がしてきた。 どうやってわたしの寮を回避したりした? ああ、そうだな、〈組わけ帽子〉が()()だと言ったからだ。 歴史上はじめて。 おまえは〈組わけ帽子〉となにを()()()()()? おまえは〈帽子〉がほしがるなにをもっていた?」

 

ハリーはセヴルスの冷たい視線を見つめて、あのことを考えているあいだはだれとも目をあわせるなという〈組わけ帽子〉の警告を思いだし——セヴルスの机に視線をおとした。

 

「不自然にわたしから目をそらすんじゃない!」

 

突然の理解がハリーを襲う——「そうか、あなたが〈組わけ帽子〉の警告していた人物なんだ!」

 

「は?」と純粋におどろいたようなセヴルスの声がしたが、ハリーはもちろんその顔に目をむけなかった。

 

ハリーは机を立った。

 

「席につけ、ポッター。」とハリーの見ていない方向から怒りの声がした。

 

ハリーはそれを無視し、教室を見わたした。 「教師失格の人物にぼくのホグウォーツ生活を台無しにされるつもりはありません。」とハリーはおそろしい冷静さで言った。 「この授業は欠席させてもらいます。 かわりにぼくはこの学校にいるあいだ個人的な〈薬学〉教師をやとうか、理事会がそこまで身うごきをとれなくなっているなら、夏休みに自習します。 この男にいじめられたくない人がいれば、ぼくの授業に合流してくれてかまわない。」

 

「席につけ!」

 

ハリーは部屋をのしのしと部屋の反対側にいき、ドアノブをつかんだ。

 

まわらない。

 

ハリーはゆっくりとふりむいて、セヴルスのいやみな笑みをちらりとみたが、目をそらすことを思いだした。

 

「このドアをあけてください。」

 

「ことわる。」

 

「あなたはぼくに身の危険を感じさせた。」と言う氷のような声はハリーとは別人のようだ。「これは悪手ですよ。」

 

セヴルスの声が笑った。 「それでどうしようというのかね?」

 

ハリーは大股でドアから六歩はなれ、最後列の机のちかくに立った。

 

そしてハリーは背をのばし、右手をあげ、ぞっとするような動作で指をならすかたちをとった。

 

ネヴィルが悲鳴をあげ、机の下にとびこんだ。 ほかの子どもたちは身をかがめるか、本能的に両手を自分にかぶせるかして、自分を守ろうとした。

 

()()()()()()()()」とハーマイオニーが甲高い声をあげた。 「先生になにをするつもりか知らないけど、やめて!」

 

「全員気でも狂ったか?」とセヴルスの声がどなった。

 

ゆっくりと、ハリーは手をさげた。 「彼に危害をくわえるつもりはなかったよ、ハーマイオニー。」とハリーはすこし声をおさえて言った。 「ドアをふきとばそうとしていただけだ。」

 

だがよく思いかえしてみると、燃やすものを〈転成〉することは禁じられている、ということは、あとで時間をさかのぼってフレッドとジョージに頼んで慎重に計量した爆発物を〈転成〉してもらうというのは、あまりいい考えではなさそうだ……

 

「シレンシオ」とセヴルスの声が言った。

 

ハリーは「え?」と言おうとしたが、声がでてこないのに気づいた。

 

「ずいぶんばかばかしいことになった。 もうたっぷり一日分の面倒ごとはおこしただろう。 おまえのような無法者はみたことがない。レイヴンクローがいま何点だったにせよ、根こそぎとりあげることはできよう。 レイヴンクローは十点減点、レイヴンクローは十点減点、レイヴンクローは十点減点! レイヴンクローは五十点減点! さあ着席して、ほかの生徒が授業をうけるのを見ていろ!」

 

ハリーは手をポーチにいれて、「マーカー」と言おうとしたがもちろん声がでなかった。 そこで一瞬とまったが、M・A・R・K・E・R(マーカー)という文字を指で書いてみることを思いついてやってみると、うまくいった。 P・A・D(パッド)と書くとメモ帳(パッド)がでてきた。 彼はもともといた机とはちがう空席に机まで歩いていき、みじかいメッセージを走り書きした。 その一枚をちぎり、マーカーとメモ帳を簡単にとりだせるようにローブのポケットにいれ、スネイプではなくほかの生徒にむけて、そのメッセージをかかげた。

 

ぼくはここを出る

ほかにだれか

出ていく人は?

 

「おまえは狂っている。」と冷たくさげすむような声でセヴルスが言った。

 

ほかのだれも、ことばを発しなかった。

 

ハリーは教卓にむけて皮肉っぽい会釈をし、壁のほうに歩き、なめらかなうごきでクローゼットの扉を引っぱり、そのなかにはいると、バタンと扉をしめた。

 

うちがわでだれかが指をならす音が一度してから、無音になった。

 

教室では、生徒たちが困惑と恐怖の表情でおたがいを見あった。

 

薬学教授(ポーションズ・マスター)〉はいまや完全に激怒の表情をしている。 彼はおそろしげな歩調で教室のむこうがわにいき、クローゼットの扉を引っぱった。

 

クローゼットは、からっぽだった。

 

◆ ◆ ◆

 

一時間前、ハリーはとじたクローゼットのなかから、あたりの音をきいていた。 そとから音はしてこなかったが、危険をおかす意味もない。

 

ハリーの指がC・L・O・A・K(マ ン ト)という文字を書いた。

 

自分を見えなくすると、ハリーは慎重に、ゆっくりとクローゼットの扉をあけて、そとをのぞいた。 教室にはだれもいないようだ。

 

扉に鍵はかかっていない。

 

この危険な場所をぬけて、見えないままのすがたで廊下にはいってはじめて、いくらか怒りが流れおち、ハリーは自分がなにをやってしまったかに気づいた。

 

自分がなにをやってしまったか。

 

透明なハリーの顔が純粋な恐怖で凍りついた。

 

いままでのどの経験よりも三段階うえの反感を教師から買ってしまった。 ホグウォーツを自主退学するという脅迫をしてしまい、それを実行せざるをえなくなるかもしれない。 レイヴンクローの点をすべてうしなわせてしまった。それに〈逆転時計〉も使ってしまった。

 

退学になったあとで両親からどなられる自分のイメージ、失望するマクゴナガル先生のイメージがうかんできた。耐えられない。でも()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

ハリーはこういう考えをしてみた。もし怒りが一連の問題すべてを引きおこしたのなら、怒りで解決法を思いつくのではないか。怒っているときはなぜか考えがよくまとまるのではないか。

 

ハリーが考えようとしなかったのは、怒らないままでこの未来に直面するのは無理だということだった。

 

だからハリーは記憶をふりかえり、燃えるような屈辱を思いだした——

 

おやおや、どうやらこの世は名声がすべてとはいかないようだ。

 

十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。

 

防波堤で反射してもどっていく波のように、冷静な冷たさが血管を逆流してきて、ハリーは息をはきだした。

 

よし。これで正気がもどった。

 

ハリーは怒っていないときの自分がくじけて困難を回避しようとばかりしていたことにすこし失望した。 セヴルス・スネイプは()()()問題だ。 平時のハリーはそのことを忘れて、()()()()()まもろうとしていた。 そしてほかの犠牲者は放置していいのか? 問題はどうやって自分をまもるかではなく、どうやってあの〈薬学〉教授を粉砕するかだ。

 

つまりこれがぼくの暗黒面(ダークサイド)なんだな?—— それは偏見のある表現だ。(ライト)サイドのほうは自己中心的で臆病だし、そもそもおろおろしてパニックになっているじゃないか

 

考えがよくまとまるようになって、つぎにすべきこともはっきりした。 準備につかえる時間がもう一時間できたし、必要ならもう五時間つけたすこともできる……

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは総長室で待っていた。

 

ダンブルドアは机のうしろのクッションつきの玉座に座り、ラヴェンダー色の四重のローブで正装していた。 ミネルヴァはそのうしろの席につき、セヴルスは向かいがわの席についていた。 三人に対面していたのは空席の木製椅子だった。

 

三人はハリー・ポッターを待っていた。

 

ハリー——とミネルヴァは絶望的になって考える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

どう返事してくるかはあたまのなかではっきりと思いうかべることができる。 ハリーは憤慨した顔でこう返答する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ドアにノックがあった。

 

「はいりなさい!」とダンブルドア。

 

ドアがひらき、ハリー・ポッターがはいった。 ミネルヴァは音をだして息をのみそうになった。 この子は冷静で、落ち着いていて、完全に自分をコントロールしているように見える。

 

「おはようござ——」とハリーの声が途中で切れた。 彼はぽかんと口をあけた。

 

ミネルヴァはハリーの視線を追った。ハリーはフォークスが金色の台座にとまっているのを見ている。 フォークスは赤と黄金色の羽をゆらめく炎のようにはためかせ、ハリーにむけて堂々とうなづくようにあたまを下げた。

 

ハリーはダンブルドアのほうをじっと見た。

 

ダンブルドアはハリーに目くばせをした。

 

ミネルヴァはなにか自分の知らないことがあるように感じた。

 

一瞬ハリーは確信をうしなったような顔をした。 その冷静さがゆらいだ。 恐怖が、そして怒りが目にあらわれ、そしてまた落ち着きをとりもどした。

 

寒けがミネルヴァの背すじをかけぬけた。 なにかおかしなことがおこっている。

 

「座りなさい。」 ダンブルドアの顔はまた真剣になっていた。

 

ハリーは座った。

 

「さて、ハリー、今日のできごとについてスネイプ先生からは報告をうけた。なにがおきたのか、きみのことばで教えてくれるかな?」

 

ハリーは否定的な視線をちらりとセヴルスのほうにおくった。 「ややこしいことではありません。」と言って、少年は薄ら笑いをした。 「この人はぼくをいじめようとしました。この人がルシウスによってねじこまれて以来ずっと、この学校のスリザリンでない全生徒をいじめてきたのとおなじやりかたで。 それ以上の詳細については、あなたとの個人的な面談を要求します。 生徒が教師からうけた虐待行為を通報するとき、その教師に同席されていては、率直に話せるものではありませんので。」

 

今度はミネルヴァは音をだして息をのむのをとめることができなかった。

 

セヴルスはただ笑った。

 

総長は深刻そうな表情になった。 「ミスター・ポッター、それはホグウォーツ教授に対してふさわしいことばづかいではない。 なにかひどい誤解があるのではないかと思う。 わしはセヴルス・スネイプ教授に全幅の信頼をおいておる。ホグウォーツではたらいてもらっているのは、ルシウス・マルフォイではなくわしの要請じゃ。」

 

何秒か沈黙があった。

 

少年がまた話しはじめたとき、その声は冷淡だった。 「ぼくはなにか見おとしているでしょうか?」

 

「見おとしていることはいくつもあるとも。 まず理解してもらいたいのは、この会議の目的はなにか。それは今朝のできごとをふまえて、きみに態度をあらためさせる方法を議論することじゃ。」

 

「この男はあなたの学校を何年も恐怖におとしいれてきたんですよ。 何人かの生徒にきいて経験談をあつめておきましたから、ぼくは保護者たちにはたらきかけてこの人を追いやるための新聞キャンペーンをする用意があります。 低学年の生徒の何人かは、泣きながら話してくれました。 ぼくもききながら泣きそうになりましたよ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ミネルヴァはのどのつかえを飲みこんだ。 そのことを——考えたことはあったが、なぜもっとちゃんと——

 

「ミスター・ポッター、」と総長が厳格そうな声で言う。「これはスネイプ先生についての会議ではない。 きみについて、きみがいかに学校の規律を無視しているかについての会議じゃ。 スネイプ先生の提案では、わしもそれに同意するが、罰として三カ月間の居残り作業がふさわしい——」

 

「拒否します。」とハリーは冷淡に言った。

 

ミネルヴァはことばをうしなった。

 

「これは依頼ではない、ミスター・ポッター。」 総長の視線からくるちからすべてが少年にそそがれる。 「これは懲罰——」

 

「あなたのもとにあずけられた子どもたちがこの男に傷つけられるのを看過したのはなぜか説明してもらいましょう。 もしその説明が不十分だったら、()()()()標的にした新聞キャンペーンをはじめます。」

 

この一打——なんたる不遜——の衝撃でミネルヴァのからだがふらついた。

 

セヴルスさえもショックをうけたようだった。

 

「それは極めてあさはかなやりかたじゃ。」とダンブルドアがゆっくりと言う。 「わしはゲーム盤上でルシウスに対抗する主要な駒。 きみがそのようなことをすれば、彼を大きく利することになる。きみはあちらの陣営をえらんだのではなかったと思うが。」

 

少年は長いあいだ動かなかった。

 

「この会話は私的な部分にはいりつつあります。」 ハリーの手がセヴルスの方向をぴしゃりとさす。 「この人を退出させてください。」

 

ダンブルドアはくびをふった。 「ハリー、わしはセヴルス・スネイプに全幅の信頼をおいている、と言ったはずじゃが?」

 

少年の顔はショックをあらわにした。 「この男のいじめはあなたを危険にさらしているんですよ! あなたを標的にして新聞キャンペーンをはれるのはぼくだけじゃない! 狂っている! なぜこんなことをしているんですか?」

 

ダンブルドアはためいきをついた。 「すまん、ハリー。 これは現段階ではまだきみにうけとめる用意のないことに関係しておる。」

 

少年はダンブルドアをみつめた。 そしてセヴルスに視線をむけた。 そしてまたダンブルドアに視線をもどした。

 

()()()狂気だ。」と少年はゆっくりと言う。 「あなたはそれが()()()()()()()だと思っているから、この人をとめようとしなかった。 ホグウォーツがちゃんとした魔法学校になるためには邪悪な〈薬学教授(ポーションズ・マスター)〉が必要だから。〈史学〉を教える幽霊(ゴースト)が必要なのとおなじように。」

 

「ちょうどわしがやりそうなことにきこえるじゃろう?」とダンブルドアが笑顔で言った。

 

「ぼくは受けいれません。」とハリーは平坦に言う。 そのひとみは冷たく暗かった。 「いじめや虐待は許せません。 この問題に対処する方法はいろいろ考えましたが、シンプルにしましょう。 この人が出ていくか、ぼくが出ていくか。えらんでください。」

 

ミネルヴァはまた息をのんだ。 セヴルスの目になにか奇妙なものが光った。

 

ダンブルドアのひとみも冷たくなった。 「ミスター・ポッター、退学は生徒に対してつかわれうる最後通牒じゃ。 一般に、生徒が総長に対してつかうものではない。 この学校は世界でもっともすぐれた魔法学校で、ここでの教育はだれにでもあたえられる機会ではない。 ホグウォーツはきみなしでは立ちゆかないとでも思っているのかね?」

 

そしてハリーは座り、薄ら笑いをした。

 

ミネルヴァは突然おそろしいことに気づいた。まさかハリーは——

 

「お忘れのようですが、パターンを読めるのはあなただけではありません。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()退()()()()()——」 ハリーはまたセヴルスに手をむけたが、ことばと手ぶりを途中でやめた。

 

その瞬間のハリーの表情で、ハリーも思いだしたのだと、ミネルヴァにはわかった。

 

そもそも、彼女が話したのだから。

 

「ミスター・ポッター、くりかえすが、わしはセヴルス・スネイプに全幅の信頼をおいておる。」

 

「この人に話したんですね。なんて愚かな。」と少年が小声で言った。

 

ダンブルドアはこの侮辱には反応しなかった。 「なにを話したと?」

 

「〈闇の王〉が生きているということを。」

 

マーリンの名にかけて(いったい)なんのつもりでそんなたわごとを?」とセヴルスが激しい驚嘆と憤慨の声で言った。

 

ハリーはちらりとそちらを見て、にやりと笑った。 「ああ、やはりぼくらはおたがいスリザリンのようですね。 すこしうたがいはじめていたところでした。」

 

そして沈黙がおりた。

 

ダンブルドアがついに口をひらいた。 その声は温和だった。 「ハリー、いっこうに話が見えないのじゃが?」

 

「すみません、アルバス。」とミネルヴァがささやいた。

 

セヴルスとダンブルドアが彼女のほうを見た。

 

「マクゴナガル先生が話したんじゃありません。」とさきほどよりは落ちつきをうしなったハリーの声がすばやく言う。 「ぼくがかまをかけたんです。さっき言ったとおり、ぼくにもパターンが読めるんです。 ぼくはかまをかけた。そして彼女は、ちょうどセヴルスがやったのとおなじように、自分の反応をコントロールした。でもそのコントロールは、ほんのすこしだけ完璧ではなかった。だからそれがコントロールされたもので、自然な反応でないことがわかったんです。」

 

「それに……」とミネルヴァが、すこし震える声で言う。「あなたとわたしとセヴルスだけがそのことを知っている、ということも話しました。」

 

「そうしてくれたのは、譲歩でしたね。教えてもらえなければぼくが質問してまわると脅迫したから、それを防ごうとして。」 少年はくっくっと笑った。 「あなたたちのどちらかひとりを引きはなして、彼女がすべてを話してくれたと言ってみるべきだったな、そうすればなにか情報をもらしてくれたかもしれない。たぶんだめだっただろうけど、やってみる価値はあった。」 少年はまた笑顔になった。 「脅迫はまだ有効です。いつか()()()()話してもらうつもりですよ。」

 

セヴルスは彼女に軽蔑の視線をおくった。 ミネルヴァはあごをあげてそれを甘受した。 彼女は軽蔑されて当然だとわかっていた。

 

ダンブルドアはクッションのある玉座に背をもたれさせた。 その目の冷たさは、彼の弟が死んだ日以来、ミネルヴァに見せたことのないほどの冷たさだった。 「そして、そののぞみに応じなければ、わしらをヴォルデモートに引きわたすと脅迫するのか?」

 

ハリーは切れ味のするどい声をだした。 「遺憾ながら、あなたは宇宙の中心じゃない。 これはブリテン魔法界をみすてるという脅迫じゃない。 ()()()()みすてるという脅迫です。 ぼくはおとなしいフロドじゃない。 これは()()()冒険(クエスト)なので、参加したい人には()()()ルールにしたがってもらいます。」

 

ダンブルドアの表情はまだ冷たい。 「きみの英雄(ヒーロー)としての適格性がうたがわしく思えてきたよ、ミスター・ポッター。」

 

ハリーは同等に冷淡な視線をかえした。 「あなたのガンダルフとしての適格性がうたがわしく思えてきましたよ、()()()()()()()()()()()。 ボロミアはまだ理解できる失敗でした。 この〈仲間〉でこの()()()()はなにをしているんですか?」〔訳注:それぞれ『指輪物語』の登場人物〕

 

ミネルヴァは話についていけなくなった。 セヴルスがついていってるのかたしかめようと目をやる、セヴルスはハリーの視界から顔をそむけて、笑みをうかべていた。

 

「なるほど。」とゆっくりとダンブルドアが言う。「きみの立ち場からすれば、そう聞きたくなるのも無理もない。 では、ミスター・ポッター、もしスネイプ先生が今後きみを放任したとしたら、これ以上おなじ問題をおこさないでくれるか? それともきみはこれから週ごとに新しい要求をとどけに来るのか?」

 

()()()放任する?」と言うハリーの声は怒っていた。 「被害者はぼくだけじゃないし、一番傷つきやすいのもぼくじゃない! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 選択肢は、今後セヴルスがホグウォーツの()()()()()()()適切かつ教師らしくふるまうか、あなたが別の〈薬学教授〉をみつけるか、別の英雄(ヒーロー)をみつけるか、です!」

 

ダンブルドアは笑いはじめた。 大声で、あたたかく、おどけた笑い声で、まるでハリーが自分の目のまえでこっけいなダンスを披露したかのようだった。

 

ミネルヴァはうごこうとしなかった。 目をおよがせると、セヴルスも同様に不動の姿勢なのが見えた。

 

ハリーの表情はさらに冷淡になった。 「もしこれがジョークだとお思いなら、あなたはまだわかっていない。 これは依頼ではない。懲罰です。」

 

「ミスター・ポッター——」 ミネルヴァは自分でもなにを言おうとしたのかわからないでいた。 ただこの発言は看過することができなかった。

 

ハリーはシッという手ぶりを彼女にして、ダンブルドアにむかって話をつづけた。 「もしこれが無礼だとお思いなら。」とハリーはすこしゆるめた声で言う。「あなたがおなじことをぼくに言ったのも同様に無礼です。 相手を自分に従属する子どもとしてでなく、ほんものの人間としてあつかうなら、そんなことは言わないはずです。あなたがぼくにするのとおなじあつかいを、あなたにさせてもらいます——」

 

「ああ、まさに、これほど罰らしい罰があろうか! ()()()()きみが脅迫していたのは学友たちを救うためであって、自分を救うためではない! わしはなぜそのように考えてしまっていたのじゃろう!」 ダンブルドアはさらに大声で笑い、机を手で三度たたいた。

 

ハリーのひとみが確信をうしなった。 顔をミネルヴァにむけて、はじめて話しかけてきた。 「すみません。」 ハリーの声はゆらいでいるようだ。 「この人は薬でも必要なんじゃないでしょうか?」

 

「あ……」 ミネルヴァはなにを言えばいいのかわからなかった。

 

「さて。」  ダンブルドアは目にたまったなみだをぬぐった。 「失礼。割りこんですまなかった。脅迫をつづけてくれたまえ。」

 

ハリーは口をひらいて、またとじた。 彼はすこしぐらついてきているように見えた。 「あ……それと生徒のこころを読むのもやめてもらいます。」

 

「ミネルヴァ……」とセヴルスが殺気だった声で言う。「これも——」

 

「〈組わけ帽子〉から警告されたことです。」とハリー。

 

()?」

 

「それ以上は言えません。ともかくこれで全部だと思います。」

 

沈黙。

 

「それで?」とミネルヴァが、だれも口をひらこうとしないのをみて言った。

 

「それで?」とダンブルドアがくりかえした。 「いやもちろん、勝ったのは英雄(ヒーロー)じゃ。」

 

()?」とセヴルスとミネルヴァとハリーが言った。

 

「みごとにわれわれを窮地においこんでくれたものじゃ。」とダンブルドアがうれしそうな笑顔で言った。 「けれどもホグウォーツに〈薬学教授〉が必要なのはたしかで、そうでなればちゃんとした魔法学校ではない、じゃろう? そこでスネイプ先生は今後五年次以上の生徒にだけ嫌がらせをする、というのはどうかな?」

 

()?」とまた三人が声をそろえた。

 

「もしきみにとって気がかりなのが、もっとも傷つきやすい被害者ならば。 ハリー、きみの言うとおりかもしれん。 何十年もたってわしは子どもがどういうものかを忘れてしまったのかもしれん。 そこで、譲歩しようではないか。 セヴルスはこれからも自分の寮であるスリザリンにだけ不公平に加点し、規律もあまく適用する。スリザリンでない五年次以上の生徒には嫌がらせをする。 そのほかの生徒に対しては、こわい先生ではあるが虐待はしない。 また、生徒の身の安全にかかわるときにしかこころを読まないと約束する。 さすればホグウォーツは邪悪な〈薬学教授〉をもて、きみの言うもっとも傷つきやすい被害者の安全はまもられる。」

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは人生でこれほどショックをうけたことはなかった。 確信なさげにしてセヴルスのほうをちらりと見ると、その顔は完全に中立的で、まるで、どのような表情をするべきかわからないかのようだった。

 

「それなら受けいれられます。」  声がすこし変になっている。

 

「ふざけないでいただきたい。」とセヴルスは表情とおなじくらい感情のない声で言った。

 

「わたしは賛成ですが……」とミネルヴァがゆっくりと言う。 ローブの下で心臓がどきどきするほど心底賛成だった。 「でも、生徒たちにはなんと言えばいいのでしょう? セヴルスが全員に……嫌がらせをするかぎりは疑いをもたれなかったかもしれませんが……」

 

「ほかの生徒には、ハリーはセヴルスの重大な秘密をみつけてちょっとした脅迫をした、と言えばよい。」とダンブルドア。 「うそではないのだから。たしかにハリーはセヴルスがこころを読んでいることをみつけたし、脅迫もした。」

 

「狂っている!」とセヴルスが爆発した。

 

「ブワッハッハッハ!」とダンブルドア。

 

「あ……」とハリーが確信なさげに言う。 「じゃあ、もし五年次以上の生徒がどうして自分たちだけ割をくってるんだと言いだしたらどうしますか? 怒るのも無理はないと思いますよ。それにその部分ははっきり言ってぼくのアイデアじゃないし——」

 

「この譲歩案をだしたのはきみではなかった、きみが引きだせたのはそこまでだった、と言いなさい。 それ以上は話せないとことわりなさい。 これも、うそではない。 こういうことにも技術があるのじゃよ。練習すればだんだん身についていく。」

 

ハリーはゆっくりとうなづいた。「レイヴンクローの減点については?」

 

「それは取り消してはなりません。」

 

そう言ったのはミネルヴァだった。

 

ハリーは彼女を見た。

 

「残念ですが、ミスター・ポッター……」 残念なのは本心だが、こうする以外、道はない。 「あの素行に対してなんらかの報いがあたえられなければ、この学校が崩壊します。」

 

ハリーは肩をすくめた。 「受けいれます。」とハリーは平坦に言う。 「ただし今後セヴルスは、ぼくから点を減点して寮内の人間関係を悪化させたり、ぼくの貴重な時間を居残り作業に割かせたりしないこと。 ぼくのしていることが懲罰に相当すると思ったときは、問題点をマクゴナガル先生につたえること。」

 

「ハリー、あなたはこれからも校内の規律に服しますか、それともセヴルスがそうだったように自分は法を無視していいと思うのですか?」

 

ハリーが彼女にむけたひとみに一縷のあたたかさが見えたが、すぐに消えた。 「狂人や悪人でない教員に対しては、ぼくはこれからもふつうの生徒でありつづけます。その人がほかの狂人や悪人からのプレッシャーをうけていないかぎりは。」 ハリーはセヴルスをちらりと見て、ダンブルドアに視線をもどした。 「ミネルヴァには干渉しないでください。彼女がいるまえではぼくは特権も免責もない通常のホグウォーツ生になります。」

 

「よくぞ言った。」とダンブルドアがこころをこめて言う。「それでこそ真の英雄(ヒーロー)じゃ。」

 

「そして、」とミネルヴァが言う。「ミスター・ポッターは今日の行為について公式に謝罪しなければなりません。」

 

ハリーは彼女をもう一度みた。今度の視線はすこし懐疑的だった。

 

「あなたの行為により校内の規律は深くそこなわれました。 それを回復させなければなりません。」

 

「マクゴナガル先生、あなたはその校内の規律というものを、〈史学〉の教師を生きた教師にするとか生徒を拷問させないとかいうこととくらべて、かなり過大評価していると思います。 現状の位階を維持しルールを執行することは、自分がその頂点にいるときは、賢明で倫理的で重要に思えるものです。必要であればそういう効果を研究した論文を引用できます。 やろうと思えば何時間もつづけられますが、いまのところはそう指摘するだけにしておきます。」

 

ミネルヴァはくびをふった。 「ミスター・ポッター、あなたは規律の重要性を過小評価しています。あなた自身には規律の必要がないからでしょうが——」とそこでことばを切った。 変な言いかたになってしまった。セヴルスとダンブルドア、そしてハリーさえもが、彼女に奇妙な視線をおくっている。 「勉学に関しては、です。 権威不在の環境で勉学をすすめられる子どもばかりではありません。 もしあなたを模範にしたとしたら、わりを食うのはほかの子どもたちなのですよ。」

 

ハリーのくちびるが歪んだ笑みをつくった。 「なにをおいても重要なのは真実です。 ぼくが怒るべきでなかったというのは真実です。 授業を妨害するべきではなかった。 すべきでないことをして、全員に対して悪い見本を示してしまった。 セヴルス・スネイプがホグウォーツ教授にふさわしくないふるまいをしたというのも真実です。そしてこれからは四年次以下の生徒の気持ちを傷つけないように注意するというのも真実です。 ぼくたち二人でいっしょになってこの真実を発表することもできるでしょう。 ぼくはそれでかまいません。」

 

「できるわけがない!」とセヴルスがぴしゃりと言った。

 

「そうして……」とハリーはにやりとしながら言う。「規則は()()()……制度(システム)から苦しみばかりうけてきた無力な生徒だけでなく教師にも……適用されるものだと生徒たちに知れわたれば、校内の規律へのよい影響は()()()()()()()()()はずです。」

 

みじかい沈黙のあと、ダンブルドアがくすりと笑った。 「ミネルヴァは、きみにそれほどの正論を言う権利はないと思っておる。」

 

ハリーの視線がダンブルドアからぱっと離れ、床におりた。 「()()()()()()()こころを読んでいたんですか?」

 

「常識は〈開心術〉と混同されることがままある。 ……この件についてはセヴルスと話しあっておく。セヴルスが謝罪しないかぎり、きみも謝罪する必要はない。 そこでこの件はおひらきとしたい。すくなくとも昼食までは。」 彼はそこでことばを切った。 「といっても、ハリー、ミネルヴァはきみとほかのことについて話しあいたいようじゃが。 それはわしからのプレッシャーにもとづくものではない。 ミネルヴァ、準備は?」

 

ミネルヴァは椅子から立ちあがると、ころびそうになった。 アドレナリンが血にあふれている。心臓の鼓動がはげしすぎる。

 

「フォークス、彼女についていきなさい。」

 

「わたしは——」

 

ダンブルドアはちらりと彼女を見て、それで彼女は沈黙した。

 

不死鳥は炎がなめらかになめるようにして飛びたち、部屋を横断して彼女の肩にとまった。 ローブをとおして、あたたかさが彼女の全身につたわってきた。

 

「こちらへ、ミスター・ポッター。」と今度はきっぱりと言って、ミネルヴァら二人はドアを出た。

 

◆ ◆ ◆

 

二人は回転する階段に立ち、無言でくだった。

 

ミネルヴァはなにを言えばいいのかわからない。 となりにいるのが何者なのかわからない。

 

そのときフォークスが歌いはじめた。

 

それはやさしく、やわらかな声で、歌をかなでられるものなら暖炉がだしそうな声だった。それはミネルヴァのこころを洗い、ふれるものをすべて楽にし、落ちつかせ、しずめさせた……

 

()()はなんですか?」とハリーがとなりでささやいた。 その声は不安定で、震え、音程が変化している。

 

「不死鳥の歌です。」とミネルヴァは、自分がなにを言っているのか意識せずに言った。注意はすべてこの奇妙にしずかな音楽にそそがれている。 「これにも治癒力があります。」

 

ハリーは顔を彼女からそむけたが、苦悩のようなものが垣間みえた。

 

階段はなかなかおりていかなかった。あるいは、この音楽がなかなか終わらなかっただけかもしれない。二人がガーゴイルのいた場所を通過して外に出ると、ミネルヴァはハリーの手をかたくにぎっていた。

 

ガーゴイルがもとの場所にもどると、フォークスは彼女の肩を去り、ハリーのまえの空中に舞いおりた。

 

ハリーはゆらめく炎の光に幻惑された人のようになってフォークスを見た。

 

「ぼくはどうすればよかったんだろう?」とハリーはささやく。 「怒らなかったとすれば、ぼくはみんなをまもることができなかった。」

 

不死鳥はつばさをはためかせつづけ、空中のおなじ位置をたもった。 つばさの打つ音はしなかった。 そして炎がもえあがって消えるときのようなきらりとした光があり、フォークスはすがたを消した。

 

二人は目からさめたときのように、あるいはまた眠るときのように、目をしばたたかせた。

 

ミネルヴァは下を見た。

 

ハリー・ポッターのあかるく、おさない顔が彼女を見あげた。

 

不死鳥(フェニックス)は人格がありますか? つまり、人といっていいくらい、かしこいですか? 方法さえわかれば、フォークスと話をすることはできますか?」

 

ミネルヴァは強く目をしばたたかせた。そしてまたしばたたかせた。 「できません。」とミネルヴァは震える声で言う。 「不死鳥は強力な魔法力のある生きものです。 その魔法力から、単純な動物にはない存在の重みがうまれます。 不死鳥は炎であり、光であり、癒しであり、再誕です。 それでも、できません。」

 

「不死鳥はどこにいけば手にはいりますか?」

 

ミネルヴァは腰をかがめてハリーを抱擁した。 そうするつもりはなかったが、ほかの選択肢はないかのようだった。

 

立ちあがってみても、ことばがなかなかでない。 けれども、これはきいておかなければならない。 「今日なにがありました、ハリー?」

 

「重要な疑問についてはどれも、ぼくにもこたえがみつかりません。 それ以上は、できればしばらく考えたくありません。」

 

ミネルヴァはまた彼の手をとり、二人はのこりの道のりを無言で歩いた。

 

短い道のりだった。そうあるべきとおり、副総長室は総長室のちかくにあるのだ。

 

ミネルヴァは自分の机にうしろの席に座った。

 

ハリーは机のまえに座った。

 

「では、」とミネルヴァはささやき声で言う。 もしこれをやらなくていいのなら、やるのが自分でなくていいのなら、いまやるのでなくていいのなら、ほかのなにを犠牲にしてもいいくらいだ。 「これは校内の規律にかかわる問題です。 あなたを例外にはできません。」

 

「というと?」

 

彼は気づいていない。 まだわかっていないのだ。 彼女はのどがしめつけられる感じをおぼえた。 だが、ここにはしなければならない仕事があり、彼女は逃げるつもりはない。

 

「ミスター・ポッター。」とマクゴナガル先生が言う。「〈逆転時計〉をここにだしてもらえますか。」

 

不死鳥にもらったやすらぎのすべてが一瞬で彼の表情から消え、ミネルヴァは自分が彼を突き刺したように感じた。

 

()()()()!」 ハリーはパニックになった声をしている。 「ぼくにはこれが必要です。これがなければ授業に出席できません。眠ることもできません!」

 

「眠ることはできます。 〈魔法省〉があなたの〈逆転時計〉用の保護ケースをとどけてくれました。 その保護ケースが午後九時と深夜零時のあいだにだけひらくように、魔法をかけさせてもらいます。」

 

ハリーの顔がゆがんだ。 「でも——でも、それじゃ——」

 

「ミスター・ポッター、月曜日から今日までに何度〈逆転時計〉をつかいましたか? 何時間分ですか?」

 

「それは……ちょっと待ってください。合計すると——」 ハリーは腕時計に視線をおろした。

 

ミネルヴァは悲しみにおそわれた。やはりそうか。 「つまり一日二時間ではなかったということですね。 同室生にきけば、あなたはふつうの就寝時間まで起きていることができず、朝起きる時間がどんどんはやくなっている、と言われるでしょうね。ちがいますか?」

 

ハリーの表情を見るだけでこたえはわかった。

 

「ミスター・ポッター、」と彼女はやさしく言う。「〈逆転時計〉をもたせるとそれに依存してしまうため、もたせられない生徒もいます。 必要なだけ睡眠周期をのばす(ポーション)をあたえても、そうした生徒は授業に出席するため以外の目的で〈逆転時計〉をつかいだすようになります。 そうなった場合、〈逆転時計〉をとりあげることになります。 ミスター・ポッター、あなたは〈逆転時計〉をあらゆることの解決手段として、しばしば愚かしいやりかたでつかうようになりました。 〈思いだし玉〉をとりかえした件もそうです。 それに、ほかの生徒にわかってしまうやりかたでクローゼットからすがたを消した件もそうです。一度でてからもどって、わたしかだれかに扉をあけてもらうという手もあったでしょうに。」

 

表情からして、ハリーはこのことに思いあたっていなかったらしい。

 

「そしてもっと重要な点ですが、あなたはスネイプ先生の授業にただ出席して、 観察して、 授業が終わってから外にでるべきでした。 〈逆転時計〉をもっていなかったらそうしたでしょう。 ある種の生徒には安心して〈逆転時計〉をつかわせることができません。 あなたはそのひとりです。 残念ですが。」

 

「でも()()なんです!」とハリーが声をあげる。 「スリザリン生におそわれて逃げる必要ができたらどうしますか? これがあれば()()に——」

 

「この城のほかの全生徒はおなじリスクを負っていますし、みな生きのびられるとわたしが保証します。 この五十年間、ここで死んだ生徒はひとりもいません。 ミスター・ポッター、〈逆転時計〉を、いまこの場でわたしなさい。」

 

ハリーは苦悩に顔をゆがませたが、〈逆転時計〉をローブの下からとりだし、彼女にわたした。

 

ミネルヴァは机から、ホグウォーツにおくられてきた保護ケースをひとつとりだした。 それを〈逆転時計〉の回転する砂時計の周囲にとりつけ、杖をあて、のこりの魔法をかけた。

 

()()()()()!」とハリーが悲鳴をあげる。 「ぼくは今日スネイプ先生からホグウォーツをすくった。それで罰をうけるなんておかしいでしょう? 顔を見ればわかりました。あなたはあの人のしていたことを()()()()()()でしょう!」

 

ミネルヴァはしばらく無言で、魔法をかけつづけた。

 

それが終わって見あげたとき、彼女は自分が厳しい表情をしているのをわかっていた。 これはまちがったことかもしれない。 しかし、ただしいことかもしれない。 自分の目のまえには意地っぱりな子どもが一人いる。だからといって、宇宙が壊れているわけではない。

 

()()、ですか?」と彼女はぴしゃりと言う。 「わたしは()()()()()、〈逆転時計〉の公然使用に関する()()()()()()〈魔法省〉に提出しなければなりませんでした。 制限つきとはいえ〈逆転時計〉をもちつづけることを許されたのを()()感謝しなさい! 総長が〈煙送(フルー)〉通話で個人的に請願してくださったのです。あなたが〈死ななかった男の子〉でなければそれでも足りなかったかもしれません!」

 

ハリーは呆然として彼女を見た。

 

マクゴナガル先生の怒りの顔がハリーに見えていることを、ミネルヴァは知っていた。

 

ハリーの目になみだがたまった。

 

「すみません、でした。」と彼は息をつまらせながら、とぎれとぎれのささやき声で言う。 「すみません……でした……失望させてしまって……」

 

「わたしも残念です、ミスター・ポッター。」と彼女は厳格に言い、あたらしく制限がかかった〈逆転時計〉を手わたした。 「下がりなさい。」

 

ハリーはふりむいて、すすり泣きをしながらこの部屋から走りさった。 彼女はぱたぱたという足音がとおざかるのをきき、その音はドアがしまるのと同時にとぎれた。

 

「残念です、ハリー。」としずまった部屋にむけて彼女はささやいた。「残念です。」

 

◆ ◆ ◆

 

昼食時間にはいって十五分が経過した。

 

だれもハリーにはなしかけようとしなかった。 レイヴンクロー生の一部はハリーに怒りの表情をむけている。ほかは同情の表情、少数ながら低学年の生徒には賞賛の表情をむける者もいるが、だれもはなしかけてはこない。 ハーマイオニーでさえ、ちかづこうとしない。

 

フレッドとジョージがおずおずとちかくに歩いてきた。 無言のまま。 なにをしてくれようとしているのかはあきらかだった。選択をゆだねてくれていることも。 ハリーはデザートがはじまる時間になってからいくと言い、 二人はうなづいて足ばやに去った。

 

これはおそらく、完全に無表情なハリーの顔のせいだ。

 

ほかの生徒はおそらく、ハリーが怒りか落胆をおさえていると思っている。 フリトウィックがハリーをつかまえようとしていたのを見ていて、ハリーが総長室によばれていたことを知っている。

 

ハリーは笑顔にならないように努力した。もし笑顔になれば、笑いだしてしまい、笑いだせば、白衣のお兄さんたちに搬送されるまで笑いやめられないだろうから。

 

限界だ。 もう限界だ。 ハリーは暗黒面(ダークサイド)にいってしまいかけたし、ふりかえってみれば狂気じみたことをダークサイドがしたし、不可能に見えつつもダークサイドが達成した勝利は本物かもしれないし狂った総長のただの気まぐれかもしれないし、ダークサイドは友だちをまもってもくれた。 これ以上はもう限界だ。 もう一度フォークスにうたってもらう必要がある。 〈逆転時計〉をつかって一時間しずかな場所で回復する必要があるがもうそれはできないし、この喪失感はまるで自分の存在に穴があいたようだけれども、そのことについては考えてしまうと笑いだしてしまうかもしれない。

 

二十分が経過した。 昼食をとろうとする生徒はすべて到着していて、出ていった生徒はまだほとんどいない。

 

スプーンをならす音が大広間にひびきわたった。

 

「諸君、こちらに注目してもらいたい。」とダンブルドア。 「ハリー・ポッターから、みなに一言あるそうじゃ。」

 

ハリーは深呼吸をして立った。 全員注視のなか〈主テーブル〉まで歩いた。

 

ハリーはふりむいて、四つのテーブルを見わたした。

 

笑顔をおさえるのがどんどんむずかしくなっていくが、暗記した短いスピーチをするあいだ、ハリーは無表情を維持した。

 

「真実は神聖です。」とハリーは単調に言う。 「ぼくがこのうえなく大切にしているボタンには、『真実を語れ、声が震えようとも』と書かれています。 これから言うのは真実です。 それを忘れないでください。 ぼくは強制されて言うのではありません。真実だから言うのです。 スネイプ先生の授業でぼくがしたことが、愚かで、ばかげていて、子どもじみていて、ホグウォーツの校則に違反していたことに弁解の余地はありません。 教室の雰囲気をみだし、生徒のみんなからかけがえのない学習時間をうばってしまいました。 すべての原因はぼくが冷静さをうしなったことです。 どの生徒もこれを見本としないようにしてもらいたいと思います。 ぼくも二度とおなじことはしません。」

 

ハリーに注目していた生徒に、厳粛そうな、不満そうな表情が多くあらわれ、戦いにたおれた戦士を悼む儀式の出席者のように見えた。 グリフィンドールの低学年の一群ではほとんど全員がその表情だった。

 

ハリーが片手をあげるまでは。

 

あまり高くではない。 高すぎれば、なにかをふせごうとするように見えるかもしれない。 セヴルスにむけてあげたのでもない。 ハリーはただ胸の高さまで手をあげ、軽く指をならした。聞かせるというより見せるしぐさだ。 〈主テーブル〉の大半からはまったく見えなかったのではないだろうか。

 

この抵抗のしぐさらしきものを目にして、低学年の生徒とグリフィンドール生は突然笑みをうかべ、スリザリン生は冷淡かつ傲慢そうに嘲笑し、そのほかの生徒は眉をひそめ心配そうな顔をした。

 

ハリーは無表情を維持した。 「以上です。」

 

「ありがとう、ミスター・ポッター。 つぎにスネイプ先生からも一言あるそうじゃ。」

 

セヴルスは〈主テーブル〉の自席で立ちあがった。 「ミスター・ポッターの癇癪(かんしゃく)に弁解の余地がないことはあきらかだが、わたし自身の行為も一部挑発的な部分があったとの指摘をうけた。その後の議論をへて、わたしはおさなく未熟な者の感情がいかにたやすく傷つくかを失念していたことに気づいた——」

 

のどをつまらせるのを我慢する音があちこちから同時にきこえた。

 

セヴルスはそれがきこえなかったかのようにしてつづけた。 「〈薬学〉教室は危険な場所であり、厳格な規律がかかせないとの認識にかわりはない。しかし、わたしも今後は四年次以下の生徒諸君の……傷つきやすい感性に……注意をはらうことにしよう。 レイヴンクローの減点はいまも有効だが、ミスター・ポッターへの居残り作業処分は取り消す。 以上。」

 

グリフィンドールの方向からひとつ拍手があったが、電撃よりはやくセヴルスが杖を手にして「クワイエタス!」と言って犯人を沈黙させた。

 

「規律と敬意はこれからもわたしの()授業で要求する。」とセヴルスは冷ややかに言う。「そしてつまらぬ邪魔をした者は後悔することになるだろう。」

 

彼は着席した。

 

「ありがとう!」とダンブルドア総長が愉快そうに言った。「では昼食再開!」

 

そしてハリーは無表情のまま、レイヴンクローの自分の席へと歩いてもどった。

 

会話が爆発した。まず、ふたつのことばがはっきりとききとれた。 ひとつ目は「何」で、「何が起きて——」や「何でこんな——」など、さまざまな文章がつづいた。ふたつ目は「スコージファイ!」という、生徒たちが自分自身やテーブルクロスやほかの生徒にこぼした食べものや飲みものを掃除するためのことばだった。

 

公然となみだする生徒もいた。スプラウト先生もそうしていた。

 

火のついていない五十一本のろうそくの乗ったケーキが待つグリフィンドールのテーブルでは、フレッドがささやき声で、「あれはおれたちより一枚うわてかもしれないな、ジョージ。」と言った。

 

その日以降、ハーマイオニーがいくら説明しようとしても、ハリー・ポッターが指をならすことでなんでも起こせるということは、ホグウォーツの伝説として定着した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 






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