ハーマイオニー・グレンジャーは、自分が〈悪〉になりかけてしまっている気がしていた。
〈善〉と〈悪〉を区別するのはたいてい簡単だ。ほかの人たちがなぜあんなにむずかしくとらえるのか、まったく理解できない。 ホグウォーツでは、『善』はフリトウィック先生とマクゴナガル先生とスプラウト先生で、 『悪』はスネイプ先生とクィレル先生とドラコ・マルフォイだ。 ハリー・ポッターは……例外的にひとめ見ても分からないたぐいで、 どちらに属するのか、ハーマイオニーはまだ決めかねている。
なのに、そういう自分自身はどうかといえば……
ハーマイオニーはハリー・ポッターを負かすことを
二人がうけている授業のうちどれひとつをとっても、彼女はハリーより成績がいい。(ホウキのりはちがうが、あれは体育みたいなものだからどうでもいい。) この第一週でハーマイオニーはほぼ毎日、
〈善〉だったら、勝つことをこれほどたのしんでいてはいけない。
それはあの列車に乗った日からはじまっていた。いろいろふりまわされていてしばらく実感できずにいたが、ハーマイオニーはあの日の夜になってはじめて、自分があの少年にどれほど傍若無人なふるまいを許していたか、気づいたのだった。
ハリー・ポッターに出会うまで、ハーマイオニーには負かしたい相手がいたことがなかった。 おなじクラスに落ちこぼれそうな子がいれば、助けるのが自分の役目だった。思いしらせるのではなく。 〈善〉とはそういうことだ。
それがいまや……
……いまやハーマイオニーは、
なにかに成功したときに教師の笑顔が見られるのは、これまでも好きだった。 試験で完璧な解答をして正解の印がずらりとならぶのを見るのは、これまでも好きだった。 でもいまは、授業でなにかに成功したら、かるくまわりを見わたして、ハリー・ポッターが歯ぎしりする瞬間をとらえる。すると、ハーマイオニーはディズニーの映画のように歌をうたいだしたくなる。
これは〈悪〉なのでは?
ハーマイオニーは、自分が〈悪〉になりかけてしまっている気がしていた。
だがあることに思いあたり、そういった恐れはすべてぬぐいさられた。
二人は〈
この学校一有名な生徒、本
もしそうなら〈悪〉だから。
ちがう。 これは〈
ハーマイオニーは今日の約束の時間までにこれを解決しておけてよかったと思った。今日、ハリーがこの読書試合に敗北する。そしてそのことを
土曜日の午後二時四十五分、ハリー・ポッターはバティルダ・バグショットの『魔法史』の半分を読みのこしていた。ハーマイオニーは懐中時計がおそるべき遅さで午後二時四十七分にむけてすすんでいくのを見つめていた。
そしてそれをレイヴンクロー談話室にいる全員が見ていた。
一年生だけではない。この情報はこぼれた牛乳のようにしてひろがり、レイヴンクローのゆうに半分がこの部屋におしよせ、ソファにむりやりはいったり、書棚にもたれたり、椅子の肘かけに座ったりしていた。 ホグウォーツの首席女子をふくむ監督生六人も全員いる。 酸素をいきわたらせるためにだれかが〈空気清浄
午後二時四十六分。
耐えられないほど空気がはりつめている。 これがほかのだれかのことだったら、
でもこれはハリー・ポッターだ。だからあと数秒のあいだに、手をあげて指をならしたりするという可能性は排除できない。
ハーマイオニーはぞっとして、気づいた。ハリー・ポッターはまさにそのとおりのことをやれるのではないか。 のこり半分を
ハーマイオニーの視界がぶれた。 息をつごうとしても、できなくなってしまっていた。
のこり十秒になったが、彼はまだ手をあげない。
のこり五秒。
午後二時四十七分。
ハリー・ポッターはしおりをきっちりとはさんでから本をとじ、脇によけた。
「後世のひとびとの参考までに言っておくと……」とよく通る声で〈死ななかった男の子〉が言う。「さまざまな予期しがたい障害で時間をとらされながらも、ぼくが読みのこしたのはわずか半冊分であり——」
「
一同が呼吸を再開して息をはきだす音がした。
ハリー・ポッターは〈燃える炎の視線〉を発したが、ハーマイオニーは純白のしあわせの後光をつけて空中に浮いていて、なにものも彼女に触れることができなかった。
「
「自分で制限時間をきめたくせに。」
ハリーの〈燃える炎の視線〉はさらにあつくなった。 「スネイプ先生から学校全体を救って、それから〈防衛術〉の授業でなぐられることになるなんて事前にわかりようがないし、木曜日の午後五時から夕食までのあいだの時間を何につかわされたかを教えてあげたら、きみはぼくのことを狂っていると思うだろう——」
「あらあら、だれかさんは
むきだしのショックがハリー・ポッターの顔にあらわれた。
「あ、そういえば、このあいだ貸してもらった本はもうぜんぶ読んじゃった。」とハーマイオニーはとっておきの純真無垢な表情で言った。 あのなかには何冊か、
「いつの日か……」と〈死ななかった男の子〉が言う。「ホモ・サピエンスの遠い子孫たちが銀河の歴史をふりかえり、自分たちはどこでこれほどまちがってしまったのだろうと自問するとき、そもそものまちがいはだれかがハーマイオニー・グレンジャーに読書を教えたことだったと結論するだろう。」
「でも負けは負け。」 ハーマイオニーはあごに片手をあてて思案顔になった。 「それじゃあ、具体的になにを手ばなしてもらおうかな?」
「は?」
「あなたは賭けに負けた。だから代償をしはらってもらう。」
「そんなことに同意したおぼえはない!」
「ふうん、そう?」 ハーマイオニー・グレンジャーは思案顔になった。 そして、まるでたったいま思いついたかのようにして、こう言った。「じゃあ投票で決めましょう。ハリー・ポッターが代償をしはらうべきだと思うレイヴンクロー生は全員挙手!」
「はあ?」とまたハリー・ポッターが声をあげた。
ふりむけば、彼のまわりには見わたすかぎり手があがっている。
ハリー・ポッターが
「やめてよ!」とハリー・ポッターがわめいた。 「なにを要求されるのかまだわからないのに! 彼女がなにをしようとしてるのかわからないの? きみたちは事前の
「心配いらない。」と監督生ペネロピ・クリアウォーターが言った。 「彼女の要求が不合理だったら、わたしたちはただ考えを変えればいい。だよね、みんな?」
ペネロピ・クリアウォーターを通じてハーマイオニーの計画を知らされていた全女子が熱心にうなづいた。
ホグウォーツの
だがドアノブを手でまわしてドアをあけて、暗い、静かな、使用されていない教室にはいると、ほこりをかぶった机の列のあいだに、すでにシルエットがひとつ立っていた。 シルエットは小さな緑色の光る棒をもち、白い明かりをともしている。周囲の部屋はおろか本人すらほとんど照らしだされてはいない。
ドアを後ろ手にしめると廊下の明かりは消え、ドラコの両目がとぼしい光に慣れる手順にはいった。
シルエットはゆっくりと彼のほうをむき、影のある顔をみせた。その顔は不気味な緑色の明かりで部分的にだけ照らしだされていた。
ドラコはさっそく、この会合が気にいった。 寒ざむしい緑色の明かりはそのままに、二人の背をたかくし、フードと仮面をあたえ、場所を教室から墓場に移してやれば、父親の友人たちが教えてくれた〈死食い人〉の話のうち半分のはじまりかたと、よく似た感じになる。
「ドラコ・マルフォイ、このことは知っていてほしい。」とシルエットがひどく落ちついた口調で言う。「今回のぼくの敗北をきみのせいにするつもりはない。」
ドラコは無意識に抗議しようとして口をあけた。そもそもどうやればこちらのせいになるというのか——
「原因はなによりもぼく自身の愚かさだった。」と影法師がつづけて言った。 「どの段階においても、ちがったことができたはずだった。 きみはただ助けをもとめただけだった。 愚かにもあの方法をえらんだのはぼくだった。 でも事実としてぼくは半冊の差で試合に負けた。 きみの愚劣な従者のした行為、きみの頼み、そしてそれを引きうけたぼく自身の愚かさのせいで、ぼくは
ドラコはすでにハリーの敗北と、グレンジャーが彼に要求した代償のことを知っていた。 このニュースはフクロウよりが運ぶよりもはやく広まっていた。
「わかるよ。残念だ。」 もしハリー・ポッターを友だちにしたいのなら、これ以外にドラコに言えることは一切ない。
「理解してほしいとも同情してほしいとも言わない。」と暗いシルエットがやはりひどく落ちついた様子で言う。 「ただ、ぼくはついさっきまで、ハーマイオニー・グレンジャーといっしょにまるまる二時間をすごしてきた。言われるまま衣装をきせられて、つきそいの女子たちが〈転成〉したバラの花びらをかいがいしくまきちらす花道を通らされて、どうみても鼻水をたらしているようにしかみえない滝やそのほかホグウォーツの名所をめぐったりして。 デートだったんだよ、これは。 ぼくの
ドラコは厳粛そうにうなづいた。 賢明にも、彼はここにくるまえに念のためハリーのデートの一部始終を調べ、会合の時間になるまえにひとしきりヒステリックに笑いすませておいた。おかげで意識不明になるまで笑いつづけるという失態は回避できた。
「あのグレンジャーに……」とドラコが言う。「なにか悲しいできごとが起きるべきじゃないかと——」
「スリザリン寮の人たちには、こうつたえておいてほしい。あのグレンジャーは
「あるいはきみたちが二回目のデートをするのを目撃されても?」と言って、ドラコはわずかに猜疑心を声にこめた。
「
もちろん、実際にはまだ声がわりしていないおさない少年の声だし、言った内容がこれでは、まあ、だめだ。 もしハリー・ポッターがいつか次代の〈闇の王〉になったとしたら、ドラコは今回の記憶をペンシーヴをつかってどこか安全な場所に保管しておけばいい。そうすれば、ハリー・ポッターに裏切られる心配はなくなる。
「たのしい話をしようじゃないか。 知識とちからの話をしよう。ドラコ・マルフォイ、〈科学〉の話をしよう。」
「ああ。そうしようじゃないか。」
ドラコはこの不気味な緑色の光のもとで自分の顔がどれくらい見えているのか、どれくらい影にはいっているのかと考えた。
ドラコは表情を真剣なままにしたが、こころのなかでは笑みをうかべた。
「ぼくはきみにちからを与えよう。」と人影が言う。「そしてちからとその対価について話そう。 そのちからは現実のかたちを知りそれを支配できるようになることからくる。 理解できたものには、命令することもできる。そのちからが月面をあるくことを可能にする。 そのちからの対価は、〈自然〉に質問をする方法をまなばなければならないこと、そしてはるかに難しいのは、〈自然〉からの回答をうけいれることだ。 実験をして、試験をして、なにが起きるかをみる。 きみがまちがえたとその結果がつげたときは、その意味をうけいれなければならない。 きみは
ドラコは深く息をついた。 すでにこのことについては考えていた。 ほかのこたえをすることは考えられなかった。 ハリー・ポッターと親交をふかめるあらゆる手だてをとれ、とすでに指示されてもいる。 これはただ
たしかに罠のように感じさせる点はこの状況のなかにいくつもあるが、正直に言って、これは悪くころびようがない話に思える。
それにドラコは多少、世界征服をしたい気もしている。
「思う。」とドラコ。
「すばらしい。 今週はいろいろとたてこんでいて、きみの学習計画を用意するのには、もうすこし時間がかかる——」
「ぼくもスリザリン内で権力をかためるためにやっておくことがたくさんある。もちろん宿題も。 十月からにするというのはどうだ?」
「それが無難そうだけど、ぼくが言おうとしていたのはきみの学習計画のこと、つまりきみになにを教えていくかをはっきりさせる必要があるということ。 案は三つある。 人間のこころと脳について教えるというのが一つ目。 物理的な宇宙に関して、月へいたる道の途中にあるさまざまな技法を教えるというのが二つ目。 これにはかなりたくさんの数字が関係するけれど、ある種の人たちにはこういった数字は〈科学〉がくれるなによりも美しく感じられる。 ドラコ、数は好き?」
ドラコはくびをふった。
「じゃ、これはなしにしよう。 数学はいずれ学ぶことになるけど、すぐでなくてもいいと思う。 三つ目は遺伝と進化と継承、つまりきみのいう血統について——」
「それだ。」
人影がうなづく。 「そう言うだろうと思っていた。 けれどこれはきみにとって一番つらい道かもしれないよ。 きみの家族、友人たち、純血主義者たちが言っているのと反対のことを実験が示している、とわかったらどうする?」
「そのときは、実験に
会話がとぎれ、人影はその場でとまって、口をあけたまましばらく立っていた。
「あの……そういう仕組みじゃないんだよ。 まさにそのことをぼくは警告しようとしていたんだ。 自分の好きなようにこたえを出させる、なんてことはできないんだ。」
「好きなこたえを出させることはいつでもできるさ。」 家庭教師は一番はじめに、これをおなじことをドラコにおしえてくれた。 「適切な説得方法をみつければいいだけだ。」
「ちがう。」と言って、人影がいらだちから声をあげる。「ちがう、ちがうんだ! そんなことをしたら
「
「ぼくはなにも思っていない。 ぼくはなにも知らない。 ぼくはなにも信じていない。 ぼくの結論はまだ書かれていない。 マグル生まれの魔法族の魔法力、純血の魔法力の強さをテストする方法はこれからみつけよう。 そのテストでマグル生まれのほうが弱いと示されたら、ぼくはそう信じる。 そのテストでマグル生まれのほうが強いと示されたら、ぼくはそう信じる。 いろいろな真理を知ることで、ぼくはある種のちからを——」
「それで、
「きみ
ドラコはきつい目をして、人影をしばらく見つめた。 「いまのはいい罠だな。おぼえておこう。はじめてみたよ。」
人影がくびをふる。 「いまのは罠じゃないよ。 だって——なにがみつかるかを、ぼくは
「もしそうだと言ったら……」とドラコは声をかたくする。「きみはぼくが事実を知るのをこわがっていたと言いふらすんじゃないのか。」
「いや、そんなことはしない。」
「でもきみはおなじ種類のテストを自分でやるかもしれない。そしたら、まちがったこたえがでたとき、きみがそれをだれかに見せにいくまえに、ぼくもそこにいることができない。」 ドラコはやはり納得していない声で言った。
「そのときも、まずきみにききにいくよ。」と人影はしずかに言った。
ドラコは沈黙した。 これは予想外だ。てっきり罠だと思っていたが…… 「ぼくに?」
「もちろん。 そうしないと、ぼくはだれを脅迫すればいいのか、なにを要求すればいいのか、わからないだろ? もう一度言う。これはぼくがきみにしかけた罠なんかじゃない。 すくなくともきみ個人にじゃない。 もしきみが逆の方向の主張をしていたら、ぼくは純血のほうが強かったらどうする、ときいていたはずだ。」
「そうなのか。」
「
ドラコは片手をあげた。 考える必要がある。
影の、緑色にてらされた人物は待った。
といっても考えるのに長くはかからなかった。 理解しにくい部分をすべて無視すれば……ハリー・ポッターは巨大な政治的爆発をひきおこしうるなにかに手をだそうとしている。ここで手をひいて、彼一人でそれをやらせてしまうというのは狂気だ。 「血統の研究でいこう。」
「
「ありがとう。」と言いながらドラコは皮肉をうまく声から追いだすことができなかった。
「あれ? 月にいくのは簡単だとでも思ってたの? ときどき自分の考えを変えるだけですむんだよ。人間の生けにえとかじゃなくて!」
「人間を生けにえにするほうが
すこしだけ間をおいてから、人影がうなづいた。「たしかに。」
「考えてみてほしいんだが。」と言いながらドラコはあまり希望をもてなかった。「ぼくはてっきり、マグルが知っていることをすべて手にいれて、それを魔法族が知っていることと組みあわせて、両方の世界の支配者になるっていう話だと思っていたんだ。 もっとずっと簡単にできないか。月のあれや、マグルが
「
ドラコの背すじを寒けがはしり、思わず身ぶるいした。 この暗がりでも見られたことだろう。 「わかった。しかたない。」 こういうことは父上から何度もきかされている。 自分より強い魔法使いから、おまえはまだきく準備ができていない、と言われたとき、死にたくなければそれ以上詮索すべきではない。
人影が軽くうなづいた。 「それでいい。でももうひとつ理解してもらいたいことがある。 初期の科学者はマグルだったから、きみたちのような伝統がなかった。 はじめのころは危険な知識という概念が理解できずに、なんでも自由に話すべきだと思ってしまった。 研究が危険な方向にむかったとき、彼らは秘密にすべきだったことを政治家たちに話してしまった——そういう目をしないでよ、彼らは単にバカだったわけじゃない。 そもそもその秘密を発見する程度にはかしこかったんだ。 でも彼らはマグルだから
「そうだな。」とドラコがとてもしっかりした声で言う。「
「きみの言うとおり……」と緑色に照らされた人影が言う。「ぼくたちは
「うけいれる。」とドラコ。 ノーと言うとでも?
「よし。 そしてきみが自分で発見したことは、ほかの科学者が知る準備をできていると思えるまでは、自分のなかだけにとどめておくこと。 ぼくたちのあいだで共有する内容は、世界が知っても安全だとぼくたちが合意するまでは世界に知らせないこと。 そして、危険な魔法や危険な武器の秘密をもらす仲間がいれば、政治的かけひきや同盟相手とは無関係に、どんな戦争の最中だろうと、ぼくたちは
「同意する。」 なかなか魅力的な話になってきた気がする。 〈死食い人〉はほかのだれよりもおそろしくなることで権力をえようとしたが、まだそこまでは到達していない。 そろそろ秘密をつかって支配することをためすのもいいかもしれない。 「それに、このグループはできるかぎり長く秘密のままにする。内部にはいりたい人は、かならずぼくたちのルールに同意する。」
「もちろん、そうする。」
非常にみじかい沈黙があった。
「もっといいローブも必要だね。」と人影が言う。「フードとかがついているような——」
「ぼくも
「その子には
「それくらいわかっている!」
「仮面もなし、いまのところは。きみとぼくしかいないんだから——」
「たしかに! でもあとで、手下全員につけさせるなにか特別な紋章をつくったほうがいい。〈科学の紋章〉だな。たとえば、月をたべているヘビの模様を右腕につけさせるとか——」
「博士号と呼ばれてるものがある。 それにそんなことをしたら、正体を調べられやすくなるんじゃない?」
「へ?」
「つまり、ぼくたちの仲間がつかまって『よし、全員ローブをまくって右腕をだせ』と言われたりしたら、『弱ったな、おれスパイだったわ』とか言って間抜けなことになる——」
「
「いや……」と人影がゆっくりと言う。「それは語呂がよくない……」
ドラコはローブをまとった腕でひたいをぬぐい、粒になった汗をぬぐいとった。 〈闇の王〉はいったいなにを考えていたんだ? 〈闇の王〉は
「思いついた!」と人影が突然言う。「きみは多分まだ理解できないだろうけど、信じてほしい。ぴったりなんだ。」
いまならドラコは、話題をかえることができさえすれば、『マルフォイ食い』でも受けいれただろう。 「それは何だ?」
ホグウォーツの地下洞の空き教室で、ほこりをかぶった机と机のあいだに立ちながら、緑色に照らされたハリー・ポッターの人影が両手をドラマティックにひろげてこう言った。「今日をもってここに……〈ベイジアン陰謀団〉を結成する。」
無言の人影が一人、疲れたようすでホグウォーツの広間をぬけてレイヴンクローの方向に歩いていく。
ハリーはドラコとの会合のあと夕食に直行し、あわてて数回食べ物を口にほおばって飲みこむと、ベッドにむかったのだった。
まだ午後七時にもなっていないが、ハリーにとってはとうに就寝時間をすぎていた。 昨夜、ハリーは土曜日には読書試合が終わるまえに〈逆転時計〉をつかうことができないのに気づいた。 だが
ドアの肖像画が十一歳むけのくだらない謎かけをして、ハリーはそのこたえを意識上にのぼらせることすらせずに回答した。そして階段をかけのぼって自分のドミトリーにはいり、パジャマに着がえてベッドにたおれこんだ。
そして枕に妙なでっぱりがあるのに気づいた。
ハリーはうめいた。 しぶしぶとベッドのなかで体をひねっておこし、枕をもちあげた。
そこにはメモと、ガリオン金貨二枚と、『閉心術——秘密の技法』という本があった。
ハリーはそのメモを手にとり、読んだ:
面倒を起こすのが早いのにもほどがある。 きみのお父さんも顔まけだぞ。
きみは強力な敵をつくってしまった。 スネイプは全スリザリン寮から忠誠と人望と恐怖を確保している。 親しげなふりをされてもおそろしげなふりをされても、もうあの寮からくるだれも信用してはならない。
これからはスネイプと目をあわせてはならない。 彼は〈開心術師〉だから、あわせればきみはこころを読まれる。 自衛のため役だつ本をここに同封してあるが、教師なしでできることはたかが知れている。 それでも侵入されたことを見ぬける程度は目ざしたほうがいい。
きみが〈閉心術〉をまなぶ時間がとれるよう、二ガリオンを同封しておく。これは一年次の〈魔法史学〉の宿題の模範回答の価格だ(ビンズ先生は死んでから毎年おなじ試験とおなじ宿題を課している)。 きみのあたらしい友人であるウィーズリー兄弟の双子が一組売ってくれるはずだ。 言うまでもないが、それを持っているのがバレないよう、注意しなさい。
クィレル先生についてはわたしはほとんど知らない。スリザリンの出で〈防衛術〉を教えている。この二点だけでも要注意だ。 彼からアドヴァイスをもらったときは慎重にその意味を考えること。他人に知られて困るような秘密はいっさい彼に教えてはならない。
ダンブルドアは狂人のふりをしているだけだ。 彼は非常にあたまがいい。きみがクローゼットにはいって消えることをくりかえしたりしたら、まちがいなく不可視のマントをもっていると推理される(まだ知られていなければだが)。 できるかぎりつねに接近を回避し、回避できないときは〈不可視のマント〉を安全な場所(ポーチはだめだ)に隠し、彼がいる場では用心して行動しろ。
今後はもっと慎重になれ、ハリー・ポッター。
——サンタクロースより
ハリーはそのメモを見つめた。
たしかにいいアドヴァイスのようにみえる。 もちろんハリーは、たとえ死んだサルを教師にされようが、〈魔法史学〉の授業でずるをするつもりはない。 でもセヴルスの〈開心術〉の話は……このメモを送ってきたのがだれであれ、その人は重要な秘密をたくさん知っていて、教えてくれるつもりがあるようだ。 このメモはいまだにダンブルドアに〈マント〉を盗まれないようにと警告しているが、ハリーは正直に言ってそれが悪い兆候なのか、理解できる範囲のミスにすぎないのかわからなかった。
ホグウォーツのなかではなにかおもしろいことが起こっているらしい。 もしハリーが、ダンブルドアとメモの送り主の
……なんでもいいか……
ハリーはすべてをポーチにつめて、〈音消器〉を有効にし、ベッドカヴァーをあたまからかぶって眠りに落ちた。
日曜日、ハリーは大広間でパンケーキを食べていた。すばやくかぶりつくことをくりかえしながら、数秒ごとに神経質に腕時計に目をやっていた。
午前八時二分。あと二時間一分で、九と四分の三乗り場でウィーズリー家を見てから
そしてこういう考えにハリーは思いあたった……。宇宙のことをこういうふうに考えるのが正当かどうかはわからない。もうなにもわからない。だけど
……
朝食をたべおわると、ハリーは自室にまっすぐいって、トランクの最下層に隠れ、十時三分になるまでだれとも話さないことにしようと思っていた。
ちょうどそのとき、ウィーズリー兄弟のふたりがハリーのほうにあるいてくるのが見えた。 一人はなにかを背中に隠しもっている。
悲鳴をあげて逃げたほうがいい。
悲鳴をあげて逃げたほうがいい。
これがなんであれ……もしかすると……
……最後の見せ場であってもおかしくない……
ほんとうに、悲鳴をあげて逃げたほうがいい。
ウィーズリー兄弟が近づいてくる。
さらに近づいてくる。
ハリーはパンケーキをもう一口食べた。
ウィーズリー兄弟がにこやかに笑って到着した。
「おはようフレッド。」とハリーがぼんやりと言う。 双子のうちのひとりがうなづく。 「おはようジョージ。」 もうひとりがうなづく。
「疲れた声だな。」とジョージ。
「元気だせよ。」とフレッド。
「ほら、
そしてジョージがフレッドの背中から——
十二本の火がついたろうそくつきのケーキをとりだした。
会話がとぎれ、レイヴンクローのテーブルの一同がそちらを見つめた。
「それは変だよ。」とだれかが言う。「ハリー・ポッターは七月三十一日に生まれ——」
「彼がやってくる」とうつろで大きな声が、あらゆる会話を氷の剣のように切りわけて届いた。 「彼が引きさくのは——」
ダンブルドアは玉座から飛びでて〈主テーブル〉をまたいで、おそろしげなことばを発したその女性をわしづかみにした。フォークスが閃光とともにあらわれ、二人をつれて、火花をのこして消えた。
全員がショックをうけてしばらく沈黙し……
……何人かがハリー・ポッターの方向に視線をむけた。
「ぼくはやってない。」とハリーは疲れた声で言った。
「いまのは
ハリーはためいきをついた。
そして席から立ちあがり、周囲にきこえはじめた会話をのりこえられるよう、声をおおきくしてこう言った。「
ハリーはまた腰をおろした。
彼のほうを見ていた人たちが、視線を離した。
テーブルのだれかが「じゃあだれのことなんだ?」と言った。
ぼんやりとした、鈍い感覚ととともにハリーは、ホグウォーツにだれがまだ
当てずっぽうと言われてもしかたないが、死んでいなかった〈闇の王〉が、ちかいうちにやってくるのではないかという気がする。
周囲の会話はつづいた。
「そもそも、引きさくって、
「総長につかまる直前にトレロウニーが言いかけたのは、『S』ではじまるなにかだったような。」
「たとえば……
「だれかが太陽を引きさくんだとしたら、
そんなことはなかなかありそうにない、とハリーは思った。
「それで……」とハリーは疲れた口調で言う。「日曜日の朝食は毎週こういうことが起きるんだよね?」
「いや。起きない。」と言って、七年生かもしれない生徒が顔をしかめた。
ハリーは肩をすくめた。 「まあいいや。だれか誕生日ケーキほしい?」
「でも今日はきみの誕生日じゃないだろ!」とさっき抗議したのとおなじ生徒が言った。
もちろん、これを合図にしてフレッドとジョージが笑いだした。
ハリーも疲れた笑みをうかべることができた。
最初の一切れをわたされて、ハリーはこう言った。「
ハリーはトランクをぴっちりと閉じてだれもはいれないようにして、地下一層目にはいって座りこみ、毛布をあたまからかぶり、この週が終わるのを待った。
十時一分。
十時二分。
十時三分。でも念をいれて……
十時四分。これで第一週が終わった。
ハリーは安堵のためいきをつき、おそるおそる毛布をあたまからはがした。
そしてしばらくして、あかるく太陽に照らされた
そしてまもなく、レイヴンクロー談話室についた。 数人が目をむけてきたが、だれもなにも言わず、話しかけてこようともしない。
ハリーはちょうどいい書きもの机をみつけ、快適な椅子を引いてそこに座った。 そしてポーチから一枚の紙と鉛筆をとりだす。
ママとパパからハリーは、このうえなく明確に、自分の家をでて両親から離れることにうかれるのはわかるけれども
ハリーはその白い紙を見つめた。 さて……
駅で両親とわかれてからのできごとといえば……
……ダース・ヴェイダーにそだてられた少年と知りあいになって、ホグウォーツでもっとも悪評たかい三人のいたずら者となかよくなって、ハーマイオニーに会って、〈組わけ帽子事件〉があって…… 月曜日は、睡眠障害に対処するためにタイムマシンをもらって、どこかの親切な人から伝説の不可視のマントをもらって、指を折るとおどしてきたこわい年上の少年五人をにらみたおしてハッフルパフ生七人を救って、自分に謎の
材料をあたまのなかで整理すると、ハリーは書きはじめた。
ママとパパへ
ホグウォーツはとってもたのしいです。 チャームズの授業では熱力学の第二法則をやぶる方法を教わりました。 ハーマイオニー・グレンジャーという、ぼくよりも本を読むのが速い子に会いました。
書くのはそこまでにしておきます。
愛する息子、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスより
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
今回の非ハリポタ用語:「ベイジアン (Bayesian)」
ここでは、イエス・ノーではなく確率による意思決定(確率的な証拠・確率的な推論)をする立場、そのための数学の分野を指す。多分。18世紀の数学者、ベイズ (Bayes) の名前が形容詞になったもの。