「そしてジャネットはスクイブでした。」と、金色のふちの帽子をした、小柄な若い女性の肖像画が言った。
ドラコはそれを書きとめた。まだ二十八件目だが、もうハリーとおちあう時間になっている。
彼はほかの肖像画に翻訳を助けてもらっていた。 英語はその時代からだいぶ変化していたが、最古の肖像画が説明した一年次の呪文の文言は、いまのそれととてもよく似た呼びかただった。 うち半数はドラコにもわかる程度の呪文で、のこりの半数もそれ以上に強力ではなさそうだった。
ひとつ回答をもらうたびに、腹のなかのいやな感覚が大きくなっていき、もう我慢できなくなると、ドラコはそこで打ちきってほかの肖像画のところに行き、スクイブの結婚についてのハリー・ポッターの奇妙な質問をしはじめることにした。 最初の肖像画五人はそういった夫婦を知らなかった。その肖像画たちに、知り合いの肖像画の知り合いの肖像画まできくよう頼んでやっと、スクイブの友だちだったと告白する人たちが見つかった。
(ドラコは、自分はスリザリン一年生だが、あるレイヴンクロー生といっしょに重要なプロジェクトをしていて、そのレイヴンクロー生はこういう情報が必要なんだとだけ言って、なぜ必要なのかは説明せずいなくなってしまった、と説明するようにしていた。すると何人もが同情する表情をした。)
ホグウォーツの廊下を歩いていくドラコの足どりが重くなる。 走るべきだが、その気力がでてこない。 こんなことを知りたかったわけじゃない、こんなことにはちっとも関係したくない、こんなことをまかされたくない、などということばかりが思いうかぶ。ハリー・ポッターにやらせればいい。仮に魔法力が世界から消えていくとして、ハリー・ポッターになんとかさせればいい……
だが、それではいけないということは、わかっている。
スリザリンの地下洞の寒さ、灰色の石壁。ドラコはふだんはこの雰囲気が好きだったが、いまは、消えていく感じに似すぎている。
ハリー・ポッターはすでに内がわにいて、ドアノブに手をのせて、マントをかぶって待っていた。
「大昔の一年次の呪文について、なにがわかった?」
「いま使われる呪文より強力ではなかった、ということ。」
ハリー・ポッターのこぶしが机を強く殴った。 「くそっ。そうか。 ぼくのほうの実験も失敗だったよ。 〈マーリンの禁令〉と呼ばれているものがあって——」
ドラコはそのことを思いだして、自分のひたいをたたいた。
「——強力な呪文についての知識は本から学ぼうとしても止められてしまう。強力な魔法使いの書いたものをみつけて読んでも、意味がわからないようになっている。生きているひとが生きているひとに伝えなければならないんだ。 手順がわかっているけれどかけられない強力な呪文というのは見つからなかった。 でももし古い本から得られないのなら、その呪文が使えなくなったあとでわざわざ口頭で伝えようとしたりする人もいないんじゃないか? スクイブの夫婦についてのデータは集まった?」
ドラコは羊皮紙をわたそうとした——
が、ハリー・ポッターが片手を立ててそれを止めた。 「科学の法律を説明しよう。 まず、ぼくが理論と予測をきみに言う。 そのあとで、きみがぼくにデータをみせる。 こうすれば、ぼくがデータにあわせて理論をでっちあげているのでないことがわかる。 理論が
ハリー・ポッターは紙きれが何枚もならべられた机のまえに座った。 ドラコはかばんからマントをとりだし、それを着て、ハリー・ポッターのむかいがわに座り、困惑した視線を紙きれにおくった。 二列にならんでいて、それぞれの列には紙きれが二十枚ほどある。
「血統の秘密というのは……」と言ってハリー・ポッターははりつめた表情をした。「デオキシリボ核酸と呼ばれているものだ。 科学者でない人のまえでこの名前を言ってはいけない。 デオキシリボ核酸は、人のからだがどういう風に成長するか、つまり、足が二本できるか、腕が二本できるか、背がひくいかたかいか、目の色が茶色か緑色か、といったことを決めるレシピだ。 これは物質的なもので、顕微鏡で
話しながらハリーの指が二対の紙きれをなぞり、「母親から」と言ったところで片方を指し、「父親から」と言ったところでもう片方を指す。 そして紙きれを無作為にえらぶと言ったところで、片手でローブからクヌートを一枚とりだして、投げる。 そちらに視線をむけて、上のほうの紙きれを指さす。 ここまでの動作をしながら、話す声はとまっていない。
「背がひくいかたかいか、みたいなことに関しては、レシピのなかで
ドラコは口をぽかんとあけてこれを聞いていた。
「じゃあ、背のたかさとおなじように、レシピのなかに『魔法あり』か『魔法なし』が書かれる位置がたくさんあると思ってほしい。 『魔法』と言っているものが十分あれば、魔法使いになるし、それが
ドラコはゆっくりとうなづいた。 こういう説明法はきいたことがなかった。 おどろくほど美しいし、ぴったりくる説明だ。
「
ハリーは三組の紙きれをとなりあわせにならべた。 ある組には『魔法あり』と『魔法あり』、 別の組には上の紙きれにだけ『魔法あり』と書いた。 三つめの組は空白のままにした。
「そうだったとしたら、石を二つもらうか、もらわないかの二とおりしかない。 つまり、魔法使いか、そうでないか。 魔法使いが強くなるのは、がんばって勉強したか練習したかだということ。 もし魔法族が
ハリーはもう二組の紙きれを隣あわせにならべ、羽ペンをとりだした。 どちらの組も、一枚が『魔法あり』でもう一枚が空欄になった。
「そこでぼくの予測を言おう。 スクイブ同士が結婚するとき起きるのは、コインを二回なげることだ。 結果はおもてとおもて、おもてとうら、うらとおもて、うらとうらのどれかになる。 つまり、四分の一の確率でおもて二枚、四分の一の確率でうら二枚、二分の一の確率でおもて一枚、うら一枚になる。 おなじことがスクイブ二人の結婚にもいえる。 子どもたちのうち四分の一は魔法ありと魔法ありで、魔法族になる。 四分の一は魔法なしと魔法なしで、マグルになる。 のこった二分の一はスクイブだ。 これはとても古い、古典的なパターンで、発見者のグレゴール・メンデルという人は現代にも名前が伝わっている。レシピの仕組み全体を解明する第一歩となる発見だった。 血統の科学を知っている人ならかならず、ひと目でこのパターンに気づく。 厳密に一致はしない。というのは、コイン投げを二回やるのを四十回くりかえしても、かならずおもてとおもてが十回出てくるわけじゃないのとおなじだ。 でも四十人の子どものうち、七人や十三人が魔法族だったとしたら、強く示唆する証拠になる。 これがきみにしてもらっていたテストだ。 さあ、データをみてみようか。」
ドラコが考えるよりはやく、ハリー・ポッターはドラコの手から羊皮紙をうばった。
ドラコはのどのかわきを感じた。
二十八人の子ども。
厳密な数には自信がないが、たしか、四分の一くらいが魔法族だった。
「魔法族は二十八人中、六人。」としばらくしてハリー・ポッターが言った。 「じゃあ、そういうことだ。 それに、八百年まえも、一年生はおなじ強さの呪文をつかっていた。 きみのテストとぼくのテストの結果は一致したね。」
教室のなかで沈黙がながびいた。
「それで?」と小声でドラコが言う。
彼はこれほどなにかを恐れたことはなかった。
「まだ決定的とはいえない。ぼくの実験は失敗した、って言っただろ? きみに、別のテストを設計してほしい。」
「ぼ、ぼくは……」 ドラコの声が切れぎれになる。「できないよ。ぼくには無理だ。」
ハリーは熱いまなざしをしていた。 「できるさ。きみにはそうする必要がある。 ぼくも〈マーリンの禁令〉について知ったあとに考えてみた。 魔法の強さを直接はかる方法はないんだろうか? その人の血統とも、どういう呪文が使えるようになるかとも、関係ない方法で?」
ドラコはなにも思いつかなかった。
「魔法に影響するものはすべて魔法族に影響する。」とハリーが言う。「でも、そうすると原因が魔法族なのか魔法なのかがわからない。 魔法族でないものに魔法が影響することはある?」
「魔法生物だろうな。」とドラコはなにも考えずに言った。
ハリー・ポッターはゆっくりと笑顔になった。 「それだよ、ドラコ。」
マグルにそだてられたのでなければそもそも口にしようとしないような、バカな問いだ。
魔法生物が実際に弱くなっているとしたら、それがなにを意味するのかに気づいて、不吉な予感がさらに悪化した。 もしそうなら、魔法力が消えていっているというのが確実だということだ。そしてこれからまさにそれを発見することになるんだと、こころのなかのどこかでドラコは確信していた。 そんなことを確認したくない、知りたくない……
ハリー・ポッターはすでにドアに行きかけていた。 「はやく、ドラコ! わりと近くに肖像画が一人いる。その人に頼んで、昔の人をつれてきてもらえば、すぐにわかる! マントをかぶって、だれかに見られたらすぐに逃げよう! さあ、いこう!」
長くはかからなかった。
横長の肖像画だったが、三人がはいると窮屈そうに見えた。 黒い帯をまとった十二世紀の中年の男性が一人。 その男性が話しているのは、悲しそうな十四世紀の若い女性で、縮れ毛があたまの上に呪文で固定されているに見える。 その女性が話しているのは、しわだらけの威厳のある十七世紀の老人で、厚みのある金色の蝶ネクタイをしている。 この老人のことばは、二人にも理解できる。
二人はディメンターについて質問した。
二人は
二人はドラゴンやトロルや
ハリーは眉をひそめて、もっとも多くの魔法力を必要とする生物は全滅してしまっていてもおかしくないと指摘して、もっとも強い魔法生物を知ろうとした。
できたリストに、見おぼえのないものはなかった。例外として、マインド・フレイヤーという〈闇〉の生物の種族があったが、翻訳者によれば結果的にはハロルド・シェイによって根絶されたというし、そのほかの生物はディメンターの半分もおそろしくはなかったようだ。
魔法生物はどうやら、いまもむかしも、おなじくらい強いようだった。
ドラコの不吉な予感はおさまってきた。のこったのは、とまどいだけだ。
「ハリー……」とドラコは、老人がビホルダーの目の十一の能力のリストを翻訳してくれている最中に、言った。「これはどういうことなんだ?」
ハリーは指を一本たて、老人はリストを言いおえた。
そしてハリーは肖像画たちに感謝して——ドラコもほとんど無意識に、ハリーよりも優雅に礼をした——二人は教室にもどっていった。
そしてハリーは仮説を書いてあった羊皮紙をとりだし、字を書きはじめた。
観察:
現代の魔術はホグウォーツ創設時の魔術ほど強力ではない。
仮説:
1. 世界から魔法力そのものが消えていった。
2. 魔法族がマグルやスクイブと交雑していった。
3. 強力な呪文をかけるのに必要な知識が忘れられていった。
4. 魔法族が幼少期に食べる食べものがよくない。そのほか、血統以外のなにかが影響して、弱くしか成長できなくなった。
5. マグル技術が魔法に干渉している。(八百年まえから?)
6. 強い魔法使いがだんだん子どもをつくらなくなった。(ドラコ=ひとりっ子? クィレル、ダンブルドア、〈闇の王〉の三人に子どもがいるかどうかを調べる)
検証:
A. 方法を知っているがかけられない呪文があるのか(一もしくは二)、それともうしなわれた呪文というのは方法がわからないということか(三)。 結果:マーリンの禁令のせいではっきりしない。かけられない呪文として知られているものはないが、あっても伝承されなくなっただけかもしれない。
B. 大昔の一年生はいまとおなじ種類の呪文を、おなじ強さで使ったか?(二より一を優勢にする弱い証拠だが、強力な魔法使いの血統だけが薄まった可能性もある) 結果:一年次の呪文の強度はいまとかわらない。
C. 血統についての科学的知識を使った追加のテストで一と二を区別する。あとで説明する。 結果:魔法族かどうかを決める位置はレシピのなかにひとつだけあり、『魔法あり』の紙きれが二枚あるかどうかで決まる。
D. 魔法生物はちからをうしなったか? これで(二または三)と一とが区別できる。 結果:魔法生物の強さはまったくかわっていないようだ。
「Aは失敗。」とハリー・ポッターが言う。 「Bは二より一を優勢にする弱い証拠。 Cは二の反証。 Dは一の反証。 四は見こみが薄いし、Bにあわない。 五は見こみが薄いし、Dにあわない。 六は二といっしょに反証された。 のこるのは三だ。 〈マーリンの禁令〉があってもなくても、となえられない呪文が知られている例をみつけることはできなかった。 ぜんぶ総合すると、知識が忘れられていっている、ということらしい。」
そこで、罠が閉じた。
ドラコのパニックがいったん終わり、魔法力が消えていくのではないと理解すると、そうと気づくのに五秒とかからなかった。
ドラコが机から自分のからだをおして離し、思いきり強く席を立つと、椅子がひっかくような音をだしてすべっていって倒れた。
「じゃあ、これはぜんぶ、くだらないトリックだったのか。」
ハリー・ポッターは座ったまま、彼をしばらくじっと見た。 話しはじめると、声はしずかだった。 「テストは公平だったよ、ドラコ。 もしこういう結果でなかったとしても、ぼくは受けいれていた。 こういうことでずるをしたりはしない。ぜったいに。 予測をするまえにきみのデータを見てもいなかったよね。 〈マーリンの禁令〉のせいで最初の実験が無効になったことは正直に言ったし——」
「へえ……」 怒りがドラコの声にあらわれはじめる。「どういう結果になるのか知らなかった、だって?」
「きみもぼくも知らなかったのはおなじだ。」と、やはりしずかにハリーが言う。 「そうじゃないかと思ってはいたけれど。 ぎりぎり魔法力があるかどうかにしてはハーマイオニー・グレンジャーは強すぎる。マグル生まれがホグウォーツで一番優秀な呪文使いになったりするはずがある? レポートの成績も最高点で、ある女の子が魔法でも学業でも一番になるのは単一の原因からきているのでないかぎり、偶然とは思えない。 ハーマイオニー・グレンジャーの存在が、魔法族かどうかを決めるものは一つしかない、それを持っているかいないかなんだと指ししめしている。強いかどうかはその人の知識と練習しだいだと。 それに、マグル生まれと純血とのあいだで授業にちがいはないし。 きみのほうがただしかったとしたら世界がこうなってはいないはずだ、という点はたくさんありすぎる。 でもドラコ、ぼくはきみに教えていないテストはひとつもしていない。 ずるはしていない。 いっしょに答えを見つけようとしていた。 魔法力が世界から消えていくということは、言われるまでまったく考えたことがなかった。 ぼくにとってもこわい発想だったんだよ。」
「もういい。」 ドラコは必死に声をコントロールして、どならないようにつとめた。 「このことはほかのだれにも言いふらさないという約束だったな。」
「きみに相談しないうちには、しない。」 ハリーは両手をひらいてお願いをするしぐさをした。 「ドラコ、ぼくはできるだけ親切にしようとしてる。ただ、
「ああ。じゃあ、きみとぼくはここまでだ。 ぼくはもう手を引く。今回のことは忘れさせてもらう。」
ドラコは身をひるがえし、のどに熱いものを感じた。裏切られたという感覚。そして、その瞬間、自分がハリー・ポッターを本心から気にいっていたことに気づいたが、それでも一顧だにせず、彼は教室のドアにむけて歩みをすすめた。
すると、ハリー・ポッターのすこし大きく、心配そうな声がきこえてきた。
「ドラコ……きみは
ドラコは足をふりあげた途中でとまり、ふりむいた。 「いったいなんのことだ?」
そのときすでに、ドラコの背すじには凍りつくようなつめたさがあった。
ハリー・ポッターに言われるまでもなく、わかった。
「科学者になるということ。 きみは自分の信念をうたがった。どうでもいい信念じゃなく、自分にとって重要な信念を。 実験をして、データをあつめて、その結果、自分の信念がまちがっていたことが証明された。 きみは結果をみて、その意味を理解した。」 ハリー・ポッターの声がゆらいだ。 「
「
ハリー・ポッターはくびをふった。 その声はささやき声になった。 「ドラコ……悪いけど、きみはもう、信じていない。」 ハリーの声がまた強くなった。 「証明してあげよう。 だれかが、自分の家でドラゴンを飼っているときみに言ったとする。 見せてみろ、ときみは言う。見えないドラゴンなんだ、と相手はこたえる。 それなら動いている音をきかせてもらう、と言う。相手は、音をださないドラゴンだとこたえる。 それなら、小麦粉を空中にふりかけてそのドラゴンの輪郭を見てみる、と言う。相手は、このドラゴンには粉が透過するとこたえる。 タネは、この人が
「その場合、親戚にあずけられたりもする。」と震える声でドラコが言う。「だとすれば、似ていてもいい。」
「ほら。きみはどういう実験結果について言い訳をしないといけないかがわかっている。 もしまだ純血主義を信じていたなら、こう言っているはずだ。もちろん見にいく、似ていないに決まっている、ほんもののマグル生まれにしては能力がありすぎる——」
「親戚にあずけられたんだって言ってるだろう!」
「だれかがある人を父親としているかどうかを調べるための科学的なテストがある。 家族に十分なおかねをわたしてやれば、グレンジャーはおそらくそれを受けてくれる。 彼女は結果をおそれてないだろうから。 そのテストの結果はどうなると思う? きみがよければ、すぐやってもいい。 でもきみはすでに、そのテストがどうなるかを知っている。 これからもいつも、知っている。 いつまでも、忘れることはできない。 きみは純血主義を信じていられたらよかったと思うかもしれないが、これからずっと、魔法族かどうかを決めるものがひとつだけある場合に起きることが、起きると予想してしまう。 科学者になるためにきみが犠牲にしたのはこれなんだ。」
ドラコの呼吸がみだれた。 「なんてことをしてくれたんだよ?」 ドラコはハリーにせまり、ローブのえりをつかんだ。声が悲鳴のようになり、閉鎖された教室と静寂のなかでは耐えがたいほど大きくひびいた。 「
ハリーの声が震えた。 「きみはあることを信じていた。 その信念は真ではなかった、ということをきみはぼくに助けられて知った。 真実はすでに真なのだから、そうだと認めても、ことは悪化しない——」
ドラコの右手がこぶしの形をつくり、下がってから上むきに飛んでハリー・ポッターのあごを殴った。体はその衝撃でたおれて机にぶつかり、床にしずんだ。
「このバカ!」とドラコがさけんだ。「バカ! バカ!」
「ドラコ……」と床からハリーが小声で言う。「ごめん。こうなるのは何カ月も先のことだと思ってた。科学者としてきみがめざめるのがこんなにはやいとは思わなかった。もっと準備する時間があると思ってた。自分がまちがっていたと認めるつらさをやわらげる技術を教えてあげる時間が——」
「父上はどうする?」 ドラコの声が怒りで震えた。 「父上にも準備をさせるのか? それともここまできたらどうなっても知らないというのか?」
「お父さんには教えられない!」 ハリーは警告するように声をあげた。 「あのひとは科学者じゃないんだから! 約束しただろう!」
父上が知ることはないんだと思い、一瞬、ドラコはほっとした。
そして真の怒りがこみあげてきた。
「ぼくが父上にうそをつくようにしむけたんだな。まだ信じている、といううそを。」 ドラコの声がゆらぐ。 「父上には、これからずっとうそを言わないといけない。大人になってもぼくは〈死食い人〉になれない。なぜなれないのかを言うこともできない。」
「もしお父さんがきみをほんとうに愛してくれていれば……」と小声で床のハリーが言う。「〈死食い人〉にならなくてもきみを愛してくれるだろう。それにきみの話では、ほんとうに愛してくれているようだったじゃないか——」
「
ハリーはびくりとし、『ごめん』と言うかのように口をあけ、思いとどまったらしく、口を閉じた。すぐれた洞察か幸運のどちらだったにせよ、正解だ。そうしていなければ、ドラコは彼を殺そうとしたかもしれない。
「警告してくれるべきだった。」 ドラコの声が大きくなった。 「
「し……したよ……このちからの話をするときは毎回、対価のことを言った。 自分がまちがったということを認めなければならなくなる、って。 きみにとって一番つらい道かもしれない、って。 これは科学者になろうとする全員が犠牲にするものなんだって。 実験が言っていることと、きみの家族や友だちが言っていることがちがったらどうする、って——」
「
「そ……それは……」と床にいる少年が息をのんだ。 「たしかに分かりにくかったかもしれない。 ごめん。 でも、真実でこわされうるものは、こわされるべきだよ。」
殴るだけではたりない。
「きみは一つ勘違いしていることがある。」とおそろしげな声でドラコが言う。 「グレンジャーはホグウォーツで一番強い生徒じゃない。 クラスで一番成績がいいだけだ。 その差がなにかは、これからわかる。」
ハリーは突然のショックの表情をして、すばやくかがんで身を丸めようとした——
だが遅すぎた。
「エクスペリアームス!」
ハリーの杖が教室の奥へ飛んでいった。
「ゴム・ジャバール!」
ねばりけのある黒いかたまりがハリーの左手にあたった。
「拷問の呪文だ。 人から情報を吐かせるときに使う。 これからきみをそのままにして、ドアから出て鍵をかけてやる。 施錠呪文は何時間かで切れるようにしようか。きみがここで死ぬまで切れないようにしようか。じゃあ、ごゆっくり。」
ドラコは杖をハリーにむけたまま、なめらかに後退する。 照準をそらさないまま、片手を落として、かばんをつかむ。
ハリー・ポッターの顔にはすでに痛みがあらわれていた。 「マルフォイ家の人間は未成年魔法の法律が通用しない、ということか? 血統が強いからじゃない。練習していたからなんだな。 きみももともとは、ほかのだれともおなじように弱かったんだ。 ぼくの予測はまちがってた?」
ドラコは指の骨が浮きでるほど強く杖をにぎったが、照準はゆらがない。
「言っておくけれど……」と歯をくいしばりながらハリーが言う。「まちがっている、と言われたとしたら、ぼくはきみの話をきいていた。 自分がまちがったと証明されても、ぼくなら相手を拷問しなかった。 きみもそうなる。 いつか。 きみはもう科学者としてめざめた。そのちからの使いかたを学ばなかったとしても、きみはこれからいつも、」 ハリーが息をあえがせた。「自分の、信念を、検証しようと——」
ドラコの後退があまりなめらかでなくなり、すこしはやまった。ドアまでたどりつき、なんとか杖をハリーから離さないまま開いて通りぬけ、教室を出た。
そしてドラコはドアを閉めた。
自分が知っているかぎりで最強の施錠
ハリーの最初の悲鳴がきこえるのを待ってから、〈
そして立ち去った。
「あ゙あ゙あ゙ッ! フィニート・インカンターテム! あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」
左手が、沸騰する油の鍋につっこんだまま引きぬけないかのようだ。 ハリーは全力で
ある種の呪文には専用の対抗呪文が必要なのかもしれない。解除ができない呪文なのかもしれない。それとも、ドラコがそれだけ能力が高いということか。
「あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」
手の痛みがかなりひどくなり、そのせいで、ハリーはいろいろな発想をしようにもなかなかうまくいかない。
けれどもう何回か悲鳴をあげたところで、ハリーはなにをしなければならないか気づいた。
ポーチは運悪く、からだの反対側にあり、からだを何度かひねってやっと、手がとどいた。痛みのもとをふりはらおうとして反射的にびくつくもう片方の手がいるせいで、余計に大変だった。 片方の手でやっとそれができたところで、もう片方の手はまた杖をほうりなげてしまっていた。
「治療あ゙あ゙あ゙キット! 治療キット!」
床のうえにいると、あの緑色の光では暗すぎてなにも見えない。
ハリーは立つことができなかった。はうこともできなかった。 杖が落ちたと思う場所にまで転がっていくと、そこに杖はなく、杖が見える高さまで片手で自分をもちあげて、そこまで回転していき、杖を手にいれ、治療キットを開いたもとの場所にもどった。 その過程でかなり悲鳴をあげ、多少吐きもした。
八回やって、ようやく〈
そしてなんと、キットは片手であけられない設計だった。魔法族は全員バカだからだ。そうにちがいない。 しかたなく歯を使って、かなり時間をかけて、なんとか〈麻痺布〉を左手にまくことができた。
あの左手の感覚がなくなって、やっとハリーは気を動転させ、しばらく床にちからなく横たわり、泣くことができた。
それで——と、ことばを使える程度に回復したハリーのこころが、声なく自問する。
ゆっくりと、ハリーは機能するほうの手を机に上面にのばした。
そして立ちあがった。
深く息をすう。
はく。
ほほえむ。
たいした笑みではないが、一応は笑みだ。
ありがとう、クィレル先生。先生がいなければ、負けることはできなかった。
これでドラコを改心させられたわけではない。まだまだだ。 本人が思っているのとはおそらく反対に、ドラコはまだ、根っからの〈死食い人〉の子だ。 『強姦』はかっこいい先輩がやることだと思ってそだってきた少年だ。 でも、第一歩ではある。
すべてハリーの計画どおりだったとは言えない。 すべてその場の即興だったと言ったほうがいい。 計画ではこうなるのは十二月くらい、つまり、自分が見た証拠を無視しないための技法をドラコに教えたあとになってからのはずだった。
だが、今日のドラコの恐怖の表情を見て、ドラコが
ふりかえってみると、自分は何時間かをかけて、魔法の歴史上最大の発見をしようとしていた。 そして、何カ月かをかけて、十一歳の少年の未発達な精神的障壁をくずそうとしていた。 作業完了時間をみつもる自分の能力には、なんらかの深刻な認知的欠陥があるということかもしれない。
今回のことで自分は〈科学の地獄〉に落とされるだろうか? なんともいえない。 魔法が世界から消えていくという可能性をドラコに忘れさせない作戦をたて、最初その方向を示唆する証拠となる部分の実験をドラコが担当するようにした。 遺伝を説明してあげて、ドラコに魔法生物のことを気づかせた(ハリーが考えていたのは、〈組わけ帽子〉のような、まだ機能しているがだれにもつくることができなくなった古い
ただ、そのあとの部分は……
でも、ドラコに言ったことは
たのしい結末にならなかったことは、認めざるをえない。
ハリーはふりむいて、よろめきながらドアへとむかった。
ドラコの施錠呪文のお手なみ拝見だ。
一手目として、単にドアノブをまわしてみる。 はったりという可能性もある。
はったりではなかった。
「フィニート・インカンターテム」 と言って出た声はだいぶかすれていて、ハリーは呪文がかからなかったのを感じた。
だからハリーはもう一度ためしてみた。今回はできた感じがした。 だが、ドアノブをまわしてみても、効き目はなかったようだ。 おどろきではない。
今度は本格的な手段をつかってみよう。 ハリーは深く息をすった。 これはいままで学んだなかで一番強力な呪文だ。
「アロホモーラ!」
そう言ってから、ハリーはすこしよろめいた。
教室のドアはまだあかない。
ハリーはショックをうけた。 ダンブルドアの禁断の通廊にはもちろん近づくつもりもなかったが、 いずれにしろ魔法の鍵を解錠する呪文は便利そうだったから、学んでおいた。 ダンブルドアの禁断の通廊は、ドラコ・マルフォイにできる程度のセキュリティも見やぶれないような愚か者を引きよせるようになっているのか?
ハリーのからだのすみずみに恐怖がしみこんでくる。 治療キットのはり紙には、〈麻痺布〉は三十分までしか安全につかうことはできないと書いてあった。 三十分後にそれは自動的にはがれ、二十四時間たたないと再利用できない。 いまは午後六時五十一分。 〈麻痺布〉をまいたのは五分まえだ。
ハリーは一歩さがって、ドアをながめた。 オーク材の頑丈な板で、くいこんでいるのは真鍮のドアノブだけだ。
ハリーは爆発や切断や粉砕の呪文を知らない。爆発物を〈転成〉することは、燃やすものを〈転成〉するなというルールに違反する。 酸は液体だし煙がでる……
といっても、
ハリーは杖をドアの真鍮の蝶つがいにあてて、材料としての綿をはなれた純粋に抽象的な綿のかたちをイメージすることに集中し、さらに真鍮の蝶つがいを構成する模様をとりのぞいて純粋な素材としてのそれをイメージし、二つの概念をあわせてできる物質にかたちをあたえた。 毎日一時間の〈転成術〉の練習を一カ月間つづけた結果、ハリーは五立方センチの対象物を〈転成〉するのに一分かからなくなっていた。
二分たって、蝶つがいはなにも変化しなかった。
ドラコの施錠呪文を設計した人がだれかは知らないが、これも織りこみずみらしい。 それとも、ホグウォーツ城には耐性があって、このドアは城の一部なのか。
壁は一見して、かたい石でできていることがわかる。 床も、天井も。 かたまりをなすなにかの一部分をとりだして〈転成〉することはできない。 やりたければ壁全体を〈転成〉する必要があり、何時間か、ことによると何日もつづけて取り組まなければならない。それもうまくいくと仮定してのことだし、そもそも壁が城全体とつながっていたとしたら……
〈逆転時計〉は午後九時までひらかない。 そのあと、まだドアがあいていた午後六時にもどることはできる。
あの拷問の呪文はいつ切れる?
ハリーは息をごくりとのんだ。 涙が目にもどってきつつある。
ハリーの精神が実に巧妙なアイデアをはじきだした。ポーチのなかにある道具箱から弓のこを取りだし、それで自分の手を切断すればいい。当然痛いが、神経がなくなるのだから、ドラコの呪文の苦痛よりはましかもしれない。 治癒キットのなかには止血帯もある。
というのはどうみてもおそろしく愚かなアイデアで、ハリーは死ぬまで後悔することになるだろう。
だが、自分が拷問をもう二時間耐えられるかどうかわからない。
この教室から出たい。この教室から
スリザリンのドミトリーはほとんどからだった。 みんな夕食だ。 ドラコはなぜか、あまり食欲がない。
ドラコは個室のドアをとじ、鍵をかけ、閉鎖の〈
不公平だ。
不公平だ。
ドラコはこれまで、ほんとうに
地下洞のどこかで、ドラコが好意をもっていた少年が、苦痛に泣き叫んでいる。 好意をもった相手を傷つけたことはこれまでなかった。 当然のむくいとして罰をあたえることはたのしいはずだが、これはただ、気持ちが悪いだけだ。 父上は警告してくれなかったが、これはだれもが大人になるまでに学ぶつらい教訓なのだろうか。それとも、自分が弱いだけなのだろうか。
泣き叫ぶのがパンジーであればよかったのに。それならまだよかった。
最悪なのは、ハリー・ポッターを傷つけるのがまちがいだったかもしれないということだ。
このさき自分の味方になってくれるのはだれだ? ダンブルドアか? こんなことをしてしまったあとで? ドラコはいずれ生きたまま焼かれるだろう。
ほかの行き場がない以上、ハリー・ポッターのもとにもどらなければならないだろう。 もしハリー・ポッターが受けいれてくれなかったら、ドラコの将来はない。〈死食い人〉にもなれず、ダンブルドアの派閥にもはいれず、科学もまなべないあわれな少年だ。
あの罠はしかけも実行も完璧だった。 〈闇〉の儀式でささげた犠牲はけっして取りかえせないと、父上はドラコに何度も警告した。 だが、いまわしいマグルたちが、杖を必要としない儀式を発明していたことを、父上は知らなかった。自覚なしに参加させられてしまう儀式だ。そしてそれは、科学者が知るおそろしい秘密のうちで、ハリー・ポッターが教えてくれたひとつにすぎない。
ドラコはそれから大声で泣いた。
こんなつもりではなかった。こんなつもりではなかったが、もうもどれない。 手遅れだ。自分はもう科学者になってしまった。
ハリー・ポッターを解放して謝罪すべきだということはわかっている。 そうするのがかしこい。
だがドラコはベッドから動かず、すすり泣いた。
ドラコはすでにハリー・ポッターを傷つけた。 それができる機会は二度とないかもしれない。 これから死ぬまでこの思い出にしがみつくしかないかもしれない。
せいぜい泣き叫べ。
ハリーは糸のこの残骸を地面に落とした。 蝶つがいは頑丈で、傷ひとつつかなかった。酸や爆発物を〈転成〉してこのドアをあけようと必死にこころみたとしても、失敗していたような気がしてきた。 いい面としては、これで糸のこは破壊された。
腕時計によると、いまは午後七時二分。のこり十五分もない。ハリーは、破壊しておくべき鋭利なものがポーチのなかにまだのこっていないか、思いだそうとした。そして、また涙がたまっていくのを感じた。 〈逆転時計〉がひらいたとき、時間をさかのぼって、あれを
その瞬間、ハリーは自分がバカだったことに気づいた。
部屋にとじこめられたのはこれがはじめてじゃない。
この場合どういうやりかたがただしいかは、マクゴナガル先生からすでに言われている。
……〈逆転時計〉をこういうことに使わないように、とも言われているが。
マクゴナガル先生は今回は特殊な例外にあたいすると思ってくれるだろうか? それとも、単に〈逆転時計〉を没収するだろうか?
ハリーは持ちものと、証拠となるものをすべてあつめ、ポーチに入れた。 吐いたものはスコージファイで掃除できたが、ローブをびしょびしょにした汗には効果がなかった。 ひっくりかえった机はひっくりかえったままにした。片手でやらなければらないほど重要なことではない。
それが終わると、ハリーは腕時計を見た。午後七時四分。
ハリーは待った。一秒一秒が一年のように感じる。
午後七時七分、ドアがひらいた。
ひげもじゃのフリトウィック先生の顔はずいぶん心配そうだった。 「大丈夫かい、ハリー?」とレイヴンクロー寮監は甲高い声で言った。 「ここにきみが閉じこめられている、というメモがとどいて——」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
今回の非ハリポタ用語:「英語」
数百年まえの英語というとおそらく、中英語 (Middle English) 。その間、英語は「大母音推移」をへたりしてるので、つづりのうえで似ていても当時と今で発音がちがう単語がたくさんあるそうです。