ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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26章「困惑を自覚する」

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生の面談受け付け時間(オフィスアワー)は、木曜日の午前十一時四十分から五十五分までだ。 それが全学年の全生徒分である。 まずドアをノックするだけでクィレル点が一点かかり、時間をさく価値のない用件だと判断されれば、さらに五十点とられる。

 

ハリーはドアをノックした。

 

しばらく沈黙があり、かみつくような声がこう言った。「はいりたまえ、ミスター・ポッター。」

 

ドアノブに手がふれるまえに、ドアがバタンとひらき、するどい音をたてて壁にあたり、木の部分か、石の部分か、その両方が壊れたかのようにきこえた。

 

クィレル先生は椅子に背をもたれさせて、本を読んでいる。紺色の革で製本され、背表紙に銀色のルーン文字がある、妙に古そうな本だ。彼はページから目をはなさずにこう言った。 「わたしはいま、あまり気分がよくない。 気分がよくないときのわたしとつきあうのは楽しいことではない。 きみのために言っておくが、さっさと用件をすませて、出ていきなさい。」

 

冷たい寒けが部屋からしみだしてきている。まるで部屋のなかに光をだすかわりに闇をだすランプのようななにかがあって、その傘が一部欠けているかのようだった。

 

ハリーはすこしひるんだ。 これは()()()()()()()どころではなさそうだ。 なにがクィレル先生をこれほどなやませているのか……?

 

友だちだったら、落ちこんでいるのを見てほっておくわけにはいかない。 ハリーは慎重に部屋のなかへ進んだ。 「なにかお困りのことがあれば——」

 

「ない。」と言いながら、クィレル先生は本から目をはなさなかった。

 

「でも、たとえば、バカな人たちに対応させられていたりしたのなら、まともな相手と会話してみるのはどうかと……」

 

思いのほか長い沈黙があった。

 

クィレル先生がバタンと本を閉じると、それは小さな音をたてて消えた。 先生は見上げ、ハリーはびくりとした。

 

「たしかにいまのわたしにとっては、知的な会話をすると気ばらしになるかもしれない。」とハリーを招きいれたときとおなじ調子でクィレル先生が言う。 「きみにとってはおそらく、そうならない。警告しておく。」

 

ハリーは深呼吸をした。「あたられても気にしないと約束します。 なにがあったんですか?」

 

部屋の冷気がさらに冷たくなったような気がした。 「あるグリフィンドール六年生が、ある前途あるスリザリン六年生に呪いをかけた。」

 

ハリーは息をのんだ。「どんな……呪いですか?」

 

クィレル先生の表情にはもう憤懣があふれてきていた。 「なぜそのようなどうでもいいことを聞きたがる? あのグリフィンドール六年生くんが言うには、どうでもいいのだそうだ!」

 

「本気で言ってますか?」と思わずハリーは言ってしまった。

 

「いや、わたしは大した理由もなく、最低の気分になっている。 ()()()()()()()()()() 彼は知らなかった。ほんとうに知らなかった。 〈闇ばらい〉が〈真実薬〉を飲ませて確認をとるまで、わたしは信じなかった。 ホグウォーツ六年生にもなって、高度な〈闇〉の呪いをかけておきながら、()()()()()()()()()()()()()と言うのだ。」

 

「というと、別の呪文の説明を読んだりして、効果を()()()()()()()とかではなく——」

 

「敵にむけて使う呪文だということしか知らなかった。 自分がそこまでしか知らないということも、わかっていた。」

 

それだけで呪文をかけてしまえるということだ。 「そんな小さな脳しかなくて、どうやって直立歩行できているのか理解できませんね。」

 

「まったく同感だ。」

 

会話がとぎれた。 クィレル先生は机のうえの銀のインク入れを手にとり、それを手のなかで回転させて、見つめた。インク入れにはどのような拷問をすれば殺せるかと思案しているかのようだった。

 

「そのスリザリン六年生は重傷でしたか?」

 

「そうだ。」

 

「そのグリフィンドール六年生はマグルにそだてられていましたか?」

 

「そうだ。」

 

「ダンブルドアは、知らずにやったことならしかたないと言って、退学させたがらなかったのでは?」

 

インク入れをにぎるクィレル先生の両手の指の骨が浮き出た。 「なにか言いたいことがあるのかね、ミスター・ポッター。それともただ自明なことを言いたいだけなのか?」

 

「クィレル先生、」とハリーは厳粛そうに言う。「マグルそだちのホグウォーツ生は全員、安全講習をうけて、魔法族うまれの人が自明すぎてわざわざ言うまでもないと思うようなことを教わるべきです。 効果がわからない呪いをかけてはいけないとか、危険なものごとを発見したとき言いふらしてはいけないとか、高度な魔法薬(ポーション)を監督者不在のトイレで調合してはいけないとか、なぜ未成年の魔法が規制されているのかとか、基本の部分を。」

 

「なぜそんなことを? 愚かものは繁殖するまえに死ねばよい。」

 

「そこでスリザリン六年生が何人かいっしょに連れていかれてしまってもいいと言うんですか。」

 

金属製のインク入れが、クィレル先生の両手のなかでおそろしくゆっくりと燃えだした。いまわしい黒みをおびた炎がインク入れにかみつき、引きちぎろうとする。とけてねじれた銀は、逃げようとしながら逃げられないでいるように見えた。まるで悲鳴をあげているような、甲高い金属音がきこえた。

 

「まあ、たしかに。」と言って、クィレル先生はあきらめたような笑みをした。 「生きるに値しないたぐいの愚かなマグル生まれに、貴重な生徒を道づれにしていってもらっては困る。そうさせないための講義を準備しておこう。」

 

クィレル先生の両手のなかのインク入れは悲鳴をあげて燃えつづけ、火がついたまま金属の粒となって、机からこぼれおちた。インク入れは泣いているかのようだった。

 

「逃げないのか。」

 

ハリーは口をあけて——

 

「わたしのことは怖くない、と言おうしているのなら、やめろ。」

 

「あなたほど怖い人をぼくはほかに知りません。その最大の理由は自制力です。 意図的に傷つけたいと決めた以外の相手をあなたが傷つける様子を想像できません。」

 

クィレル先生の両手のなかで火がたちまち消え、先生はインク入れの残骸を慎重に机のうえに置いた。 「ずいぶんほめてくれるじゃないか、ミスター・ポッター。お世辞の方法でも教わったか? ミスター・マルフォイからかね?」

 

ハリーは無表情を維持した。が、それはすすんで自白するようなものだということに気づくのが一秒遅すぎた。 クィレル先生は相手の表情を気にしない。どういう精神状態からその表情が生まれそうかを気にする。

 

「なるほど。ミスター・マルフォイは便利な友だちで、教わるべきことも多いことだろう。だが、きみには彼をうっかり信用しすぎてしまわないでほしいものだ。」

 

「人に知られて困ることは一切あかしていません。」

 

「よろしい。」と言ってクィレル先生はわずかに笑みをうかべた。 「では、ここに来たそもそもの用件は?」

 

「〈閉心術〉の予備練習がすんだので、個人指導をうける準備ができたと思います。」

 

クィレル先生はうなづいた。 「日曜に、グリンゴッツへ同行させてもらう。」と言って、ハリーのほうを見て一瞬ことばを切り、笑顔になった。 「よければ、軽いお出かけにしてもいい。 ちょっとしたお楽しみを思いついた。」

 

ハリーはうなづいて、笑みをかえした。

 

部屋を出るとき、クィレル先生が小さく鼻歌を口ずさむのがきこえた。

 

ハリーは先生の気分をよくすることができてうれしかった。

 

◆ ◆ ◆

 

その日曜日、ささやきあう人たちがやけに廊下に多いように見えた。少なくともハリー・ポッターとすれちがうときにはそうだった。

 

指をさすしぐさをする人もたくさんいた。

 

女性のくすくす笑いもたくさん。

 

朝食のときからこうだった。あのニュースはもう知っているかとだれかにきかれて、ハリーは割りこんで、リタ・スキーターの書いたニュースのことなら聞きたくない、自分で読みたいから、と言った。

 

予言者日報(デイリー・プロフェット)』を受けとっている生徒はあまり多くなく、もとの持ち主から買い取られていなかったぶんはもう、なにかややこしい順序で回覧されていって、現時点ではだれの手にあるのかわからなくなっていた……

 

ハリーは〈音消しの魔法(チャーム)〉をかけてから朝食を食べにいき、続々とくる質問者たちをとなりの生徒にまかせて追いはらってもらった。そして、朝食に新しい人たちがやってくるたびにおこる懐疑の声や、笑いや、おめでとうと言うような笑みや、あわれみの視線や、ちらりと怖がる視線や、落ちていく皿をつとめて無視した。

 

ハリーはかなり気になってきてはいたが、人づてに聞いてしまって職人芸を台無しにしてしまえるほどではなかった。

 

新聞の現物がみつかったら呼びにきてと同室生のみんなにたのんでおき、そのあと数時間、トランクのなかの安全な場所で宿題をした。

 

クィレル先生と車にのってホグウォーツから出発する午前十時になってもまだ、ハリーはそのニュースを知らなかった。クィレル先生は前部右がわの座席で、ゾンビ状態になってくずれおちている。 ハリーは車のなかでできるかぎりそこから距離をおいて後部左がわの座席にすわった。 それでも、禁じられていない森を横切る小みちを車がガタガタとすすむあいだずっと、ハリーは破滅の感覚をおぼえていた。 そのせいで読書もすこしやりづらかった。むずかしい本なので余計にそうだ。急に、子どものころのサイエンスフィクションにすればよかった気がしたー—

 

「ここはもう結界のそとだ。」と前の席からクィレル先生の声がした。「行くぞ。」

 

クィレル先生は慎重に車をでて、一息ずつ階段をおりた。 ハリーは横むきに飛びでた。

 

どうやって行くのだろうとハリーが思っていると、クィレル先生が「とれ!」と言って、クヌート青銅貨を一枚なげてきた。ハリーはなにも考えずにそれを受けた。

 

実体のない巨大なフックがハリーの腹あたりにかかり、からだを後ろむきに強く引いた。だが加速の感覚はなく、一瞬あとにはハリーはダイアゴン小路の真んなかに立っていた。

 

ちょっと、いまのは何だよ?——とハリーの頭脳が言った。)

 

瞬間移動だよ——とハリーが説明した。)

 

祖先の環境ではそういうことは起きなかったぞ——とハリーの頭脳が文句を言い、ハリーの方向感覚をうしなわせた。)

 

ハリーはよろめきながら、さきほどまでの森の小みちの土から、道路の煉瓦へと足もとを慣らそうとした。 背をのばしてもまだくらくらして、脳が位置感覚をつかもうとするあいだ、いきかう魔女や魔法使いたちがすこしゆれているように見え、各店の店主たちの呼び声の発信源がぐるぐる動くようにきこえた。

 

すこしすると、数歩うしろでポンと吸いこむような音がして、ふりむくとそこにクィレル先生がいた。

 

「できればぼくは——」とハリーが言いかけるのと同時にクィレル先生が、「悪いがわたしは——」と言いかけた。

 

ハリーは言いやめ、クィレル先生はつづけた。

 

「——わたしは一旦わかれて、ちょっとしたものをしかけにいかなくてはならない。 きみの身に起きるあらゆることがわたしの責任だと厳重に注意されている以上、悪いがしばらく——」

 

「新聞スタンドがいいです。」

 

「なんと言った?」

 

「でなくても、『デイリー・プロフェット』を一部買える場所なら、どこでもかまいません。」

 

しばらくすると、ハリーは本屋へと送られ、小さな声で何点か曖昧な脅迫をうけた。 本屋の店主のほうはあまり曖昧でない脅迫をうけたらしく、身をひるませて、ハリーと入り口のあいだをちらちらとチェックしつづけていた。

 

この本屋が火事になったとしても、ハリーはクィレル先生がもどるまで出てはならない。炎につつまれたまま待たなければならない。

 

一方で——

 

ハリーはすばやく店内を見わたした。

 

そこは小さくみすぼらしい本屋で、書棚は四列しかなく、ハリーの目にとびこんできたとなりの棚には、製本がいいかげんで厚みのない、『十五世紀アルバニアの虐殺』といったおそろしげなタイトルがならんでいる。

 

まずやるべきことがある。 ハリーはカウンターまで歩いていった。

 

「すみません。『デイリー・プロフェット』一部ください。」

 

「五シックル。」と店主が言う。「悪いねえ。もう三部しかないんでね。」

 

五シックルがカウンターにおかれた。 多少値引きさせることもできるような気がしたが、それもどうでもいい気分だった。

 

店主は目をみひらいた。やっとハリーに気づいたようだ。「きみは!」

 

「ぼくは!」

 

「あれはほんとうなのか? ほんとうにきみは——」

 

「言わないで! すみませんけど、人からきくかわりにこれを実際の新聞で読みたくて、一日じゅう待ってたんです。だから、それをこっちにください。ね?」

 

店主はハリーを一瞬みつめ、無言でカウンターの下に手をのばし、『デイリー・プロフェット』をたたんで一部、手わたした。

 

大見出しにはこうあった:

 

ハリー・ポッターと

ジニヴラ・ウィーズリーが

いいなづけと判明

 

ハリーはじっと見た。

 

まるでそれがエッシャーの作品の現物であるかのように、ハリーはゆっくりとうやうやしくカウンターから新聞を持ちあげた。そしてそれを開いて読みはじめると……

 

……リタ・スキーターを納得させた証拠が書かれていた。

 

……興味ぶかい詳細もあった。

 

……もういくつか証拠もあった。

 

自分たちの妹のことだ。フレッドとジョージはきっと、本人の了解をとってからやったはずだよな? きっとそうだ。 ジニヴラ・ウィーズリーがなにかをあこがれるようにして、ためいきをついている写真がある。よく見ると、その視線のさきにあるのはハリーの写真。 やらせとしか思えない。

 

でもいったいどうやって……?

 

ハリーが安っぽい折りたたみ椅子に座って四度目の読みなおしをしていると、ドアの小さな音がして、クィレル先生が店内にもどってきた。

 

「待たせて悪か——待て、マーリンの名にかけて(いったい)きみはなにを読んでいるのだ?」

 

「どうやら、」とハリーはおどろいた声で言う。「アーサー・ウィーズリー氏に〈服従の呪い〉をかけていた〈死食い人〉をぼくの父親が殺したそうで、それによってウィーズリー氏はポッター家への債務をおったそうです。そこでぼくの父親は、生まれたばかりだったジニヴラ・ウィーズリーとの婚約権をもって返済するようせまった。 この世界ではほんとにそういうことをするんですか?」

 

「いくらなんでも、ミス・スキーターがそれを信じるほど愚かなはずはあるまい——」

 

そこでクィレル先生の声がとぎれた。

 

ハリーは新聞を縦にもち、たたまずに読んでいた。だからクィレル先生もその場から、見出しの下の本文を読めるのだ。

 

クィレル先生の顔にあらわれたショックは芸術的で、この新聞自身といい勝負だった。

 

「心配いりません。」とハリーはほがらかに言う。「ガセですから。」

 

店のなかのどこかで、店主が息をのむ音がした。 そして本の山がくずれたのがきこえた。

 

「ミスター・ポッター……それはたしかか?」

 

「たしかです。もう出ましょうか?」

 

クィレル先生はうなづいたがやけに考えにふけっている様子だった。ハリーは新聞をもとのようにたたみ、そのあとを追ってドアを出た。

 

なぜか雑踏の音がきこえてこない。

 

二人が無言で三十秒ほど歩いたところで、クィレル先生が口をひらいた。 「ミス・スキーターはウィゼンガモートの非公開議事録の現物を閲覧した。」

 

「はい。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、だ。」

 

「はい。」

 

「わたしですら、そうたやすくできることではない。」

 

「ほんとうですか? ぼくの予想が正しければ、これをやったのはホグウォーツの生徒なんですが。」

 

「それはありえなさすぎる。ミスター・ポッター……遺憾ながら、このお嬢さんはきみと結婚するつもりになっているぞ。」

 

「ありそうにない、と言うべきでしょう。ダグラス・アダムズの言いかたでは、ありえないものごとには、ただありそうにないだけのものごととは別の、ある種の品格がある。」

 

「その点は認めよう。だが……やはり無理がある。 実際には不可能かもしれないが、わたしもウィゼンガモートの議事録に改竄をかけることを()()()()ことならできる。 しかし、偽の婚約証書にグリンゴッツの頭取が代表印をおして認証し、ミス・スキーターがみずから印影を確認した、というのは()()()()()()。」

 

「たしかに、それだけの額の取り引きであれば、グリンゴッツの頭取がかかわってきそうですね。 ミスター・ウィーズリーは巨額の借金をかかえていて、追加で一万ガリオンの支払いを要求したのだということがここに——」

 

「一万ガリオンはたいて、ウィーズリーたった一人だと? 〈貴族〉の令嬢を買うこともできる金額だぞ!」

 

「すみませんが、そろそろ聞かせてくれませんか。この世界ではほんとにそういうことを——」

 

「滅多にない。」と言ってクィレル先生は眉をひそめた。「それに、〈闇の王〉がいなくなってからは皆無ではないかと思う。 この新聞によると、きみの父親は言い値で支払ったらしいな?」

 

「選択肢がなかったんでしょう。予言の条件を満たすつもりなら。」

 

「それをよこせ。」とクィレル先生が言うと、新聞がハリーの手を飛びでていった。あまりの速度に、ハリーの手に切り傷ができた。

 

ハリーは無意識に傷のできた指を口にあてて吸おうとし、だいぶショックをうけながら、クィレル先生のほうを向いて抗議しようとした——

 

クィレル先生は道のまんなか近くで立ちどまり、目のまえに見えないちからで固定させた新聞のうえで、高速に目をいったりきたりさせた。

 

ハリーはぽかんと口をあけてそれをながめた。新聞は二ページ目、三ページ目へとすすみ、さほど時間がたたないうちに、四ページ目、五ページ目までめくられる。それはまるで人間のふりをするのをやめたかのようだった。

 

不安になるほどみじかい時間をへて、新聞は自動的にきれいにたたまれた。 クィレル先生は空中でそれをつかみ、ハリーに投げ、ハリーは完全に反射的に受けとめた。 そしてクィレル先生はまた歩きだし、ハリーは無意識にとぼとぼとあとを追った。

 

「いや、あの予言はわたしにも、ほんものらしく聞こえなかった。」

 

ハリーは呆然としたまま、うなづいた。

 

クィレル先生は眉をひそめた。「ケンタウロスには〈服従〉(インペリウス)がかけられていたのかもしれない。それなら理解できる。 魔法で作れるものは、魔法で改竄できる。グリンゴッツ代表印がだれかにうばわれたという可能性も考えられなくはない。 この〈無言者〉(アンスピーカブル)もバイエルンの予見者も、〈変身薬〉(ポリジュース)でなりすましたにせものかもしれない。 十分な労力をつぎこめば、ウィゼンガモートの議事録を改竄することも可能かもしれない。 どういう方法だったか、きみは当たりがついているのか?」

 

「もっともらしい仮説は一切思いつきませんでした。予算総額が四十ガリオンだったということは知っていますが。」

 

クィレル先生は立ちどまって、急にハリーのほうを向いた。 心底信じられないという表情をしていた。 「四十ガリオンというのは、有能な結界やぶりを雇って、どこかの住宅に押しいる経路をつくらせるときの報酬だ! 四万ガリオンあってやっと、世界有数の職業的犯罪者を数人あつめて、ウィゼンガモートの議事録を改竄させられる()()()がでてくる!」

 

ハリーはしかたなさそうに肩をすくめた。 「また適切な請負者をえらんで三万九千九百六十ガリオン節約したくなったときのために、おぼえておきますね。」

 

「わたしはこういうことは滅多に言わないのだが、感心した。」

 

「ぼくもです。」

 

「それで、このとんでもないホグウォーツ生はだれだ?」

 

「申し訳ありませんが、言えません。」

 

クィレル先生が異議をとなえないことに、ハリーはちょっとおどろいた。

 

二人はグリンゴッツの建て物のある方向へと歩きながら、考えつづけた。二人とも、すくなくとも五分間考えてからでなければ問題をあきらめないタイプである。

 

だいぶたって、ハリーがこう言った。「まちがった角度から問題を見てしまっていたよう気がしてきました。 ある物理の授業の話を思いだします。火の近くにおかれた大きな金属板を先生が学生たちに見せる。先生は金属板をさわれと言う。学生がさわると、火に近いほうが冷たく、火に遠いほうが熱い。 そこで先生は、なぜこうなるのかあてて見ろ、と言う。 ある学生は『金属による熱伝導の性質』と書き、別の学生は『空気の移動のしかたのせい』と書く。だれも『こんなことはありえない』とは書かない。ほんとうは、学生たちがくるまえに先生が板をひっくりかえした、というのが答えだった。」

 

「おもしろい。たしかに今回の件と似ているようだ。その話の教訓は?」

 

「現実よりも虚構(フィクション)に困惑させられる度合いが大きいというのが、合理主義者の強みだということです。 どんな結果もおなじようによく説明できる人は、なにも知識がない人です。 学生たちは『熱の伝導』といったような用語をつかえば、火に近いほうが冷たい金属板でもなんでも説明できると思ってしまった。 自分がどれくらい困惑しているのかを自覚できていなかった。つまり、真実からうける困惑よりも、うそからうける困惑のほうが大きくなかった。 ケンタウロスに〈服従〉(インペリウス)がかかっていたのだと言われても、ぼくはまだなにかおかしいという気がします。 その説明をきいても、自分がまだ困惑している気がします。」

 

「ふむ。」とクィレル先生が言った。

 

二人は歩きつづけた。

 

「もしかして、人間を別の並行宇宙に飛ばすことができたりはしませんよね? これがこの世界のリタ・スキーターではない、とか、ほんものは一時的に別の場所に飛ばされたとか。」

 

「そんなことが可能だったとしたら、」とやけにかわいた声でクィレル先生が言う。「わたしがまだここにいると思うか?」

 

そして二人がグリンゴッツの巨大な玄関のまえにきたところで、クィレル先生はこう言った。

 

「ああ。そういえばそうか。 ……あててみよう。ウィーズリー兄弟では?」

 

()?」とハリーは一オクターヴ上の高さの声をだした。「()()()()()?」

 

「申し訳ないが、言えない。」

 

「……不公平ですよ。」

 

「きわめて公平だと思うぞ。」

 

二人は青銅の扉を通って、なかにはいった。

 

◆ ◆ ◆

 

時刻は正午のすこしまえ。ハリーとクィレル先生は豪華な特別室で、はばのある、たいらな長いテーブルの両端に座っている。壁にそって、しっかりとクッションのはいった長椅子と肘かけ椅子がならび、やわらかいカーテンがいろいろな場所にかかっている。

 

これから二人は〈メアリーの店〉で昼食をとる。クィレル先生が知るかぎり、ダイアゴン小路で一番のレストランだという。先生はそこで意味ありげに声をひそめてこう言った——とりわけ、()()()()()のためには。

 

ハリーにとっては、人生で一番上等なレストランだった。クィレル先生にごちそうをしてもらうということの意味が身にしみてきた。

 

今回の任務(ミッション)の半分は〈閉心術〉教師をみつけることだったが、これは成功した。 クィレル先生は邪悪な笑顔をして、ダンブルドアが支払うから費用は心配するなと言って、グリプークに最高の教師を推薦させた。グリプークは笑みをかえした。 ハリーのほうもそれなりに笑みをうかべていたりした。

 

もう半分は完全な失敗だった。

 

ダンブルドア総長かほかの学校代表者が同行していないかぎり、ハリーは自分の金庫からおかねをとりだすことは許されない。クィレル先生は金庫の鍵をあずかっていなかった。 ハリーのマグルがわの両親は、マグルだから許可する権限がない。マグルの法的な立ち場は子どもや子ネコと大差がない。かわいいし、人目につく場所で虐待してしまえば逮捕につながることはある。だが、()()()()()()。 しぶしぶながらマグル生まれの子の親だけは限定的な意味で人間として認められるという法律上の規定はあるものの、ハリーの養父母はそこに分類されない。

 

魔法界からみると、ハリーは事実上の孤児であるらしい。 だから、ホグウォーツ総長もしくはホグウォーツ運営機構に属するその代理人が、卒業までハリーの後見人となる。 ダンブルドアの許可がなくても息をするくらいはできるが、それも明示的に禁じられていなければの話だ。

 

それからハリーはグリプークに、投資を多様化するために金庫に金貨をためる以外の方法を指示させてもらえないか、と訊いた。

 

グリプークはきょとんとした顔をして、『多様化』とはどういうことか、と訊きかえした。

 

つまり、銀行は投資をしない、ということらしい。銀行というのは、金貨を安全な金庫に保管して保管料をとるものと思われているらしい。

 

魔法界には株という概念がない。債券もないし、会社もない。事業は家族経営で、個人の金庫をつかう。

 

金貸しは銀行ではなく金持ちがやる。 ただし、グリンゴッツは料金をとって契約の証人をつとめるし、はるかに高い手数料で集金もやる。

 

いい金持ちは友だちに貸して、返すのはいつでもいいと言う。 ()()金持ちは()()をとる。

 

融資(ローン)の二次市場はないという。

 

邪悪な金持ちは年二割以上の金利をとるという。

 

ハリーは立ちあがって、後ろをむいて、あたまを壁におしつけた。

 

そして、銀行を開業するのに総長の許可はいるか、とたずねた。

 

クィレル先生がそこで割ってはいって、昼食の時間だと言い、ぷんぷんするハリーをグリンゴッツの青銅の扉をとおって連れだし、ダイアゴン小路をぬけて、〈メアリーの店〉という立派なレストランに案内した。 部屋は予約ずみで、店主はクィレル先生がハリー・ポッターを連れてきたのを見てびっくりしていたが、なにも言わずに部屋へと案内してくれた。

 

クィレル先生はわざとらしく勘定はまかせろと言い、そのあいだハリーが見せた表情を楽しんでいるようだった。

 

「いや、」とクィレル先生が給仕に言う。「メニューはけっこう。 わたしは今日のおすすめと、キャンティをボトルでいただこう。ミスター・ポッターにはまずディリコールのスープ、メインにルーポのつみれ、デザートにはトリークル・プディングを。」

 

形式ばってはいるが通常より短めのローブを着た女性給仕は、丁寧にお辞儀をして部屋を出て、ドアを閉めた。

 

クィレル先生がドアの方向に手をふると、かんぬきが動いて閉まった。 「かんぬきはこのとおり、内がわにある。 この部屋は〈メアリーの部屋〉といって、どんな盗聴盗撮も通用しない。これは誇張ではない。 ダンブルドアでさえ、このなかのできごとは検知できない。 〈メアリーの部屋〉を使う人間には二種類いる。 いかがわしい情事をする人間と、おもしろい人生を送る人間だ。」

 

「そうなんですか。」

 

クィレル先生はうなづいた。

 

ハリーのくちびるが待ちきれずに開いた。 「それなら、ただここにいて食事だけして、特別なことをしないのはもったいないですね。」

 

クィレル先生はにやりとして、杖をとりだし、ドアの方向に振った。 「もちろん、おもしろい人生を送る人たちは、情事の人たちよりも()()()()()。 この部屋はたったいま封印しておいた。 これでこの部屋にはなにも出入りできない——たとえばあのドアのすきまなどもふくめて。 そして……」

 

クィレル先生は四種類以上の〈魔法(チャーム)〉を唱えたが、どれもハリーの知らない呪文だった。

 

「実はこれでも不十分だ。 もし真に重要なことをしようとしているなら、もう二十三種の検査をしておかなければならない。 たとえばもし、われわれがここに来ることがリタ・スキーターに知られていたか予想されたなら、彼女が真の〈不可視のマント〉を着て、ここにはいりこんでいることも考えられる。 あるいは、小さなからだの〈動物師(アニメイガス)〉だったりするかもしれない。 そういうまれな可能性を排除するための検査もあるが、すべてをやるには労力がかかる。 それでも、悪い習慣をきみに教えてしまわないように、やっておいたほうがいいだろうか。」  そう言ってクィレル先生は指をほおにあてて、考えこむようにした。

 

「いいです。理解はできましたし、おぼえておきます。」 だが自分たちが真に重要なことをしようとしているのではない、とわかって、ハリーはすこしがっかりした。

 

「よろしい。」と言ってクィレル先生は椅子に背をもたれさせ、にこりとした。 「今日のはみごとな仕事だった、ミスター・ポッター。 実行をだれかにまかせたとしても、基本的にはきみの考えだったのだろう。 これからはリタ・スキーターにわずらわされることはまずなくなると思う。 ルシウス・マルフォイは彼女の失敗をこころよく思わないだろうし、彼女もバカでなければ、だまされたと気づいた瞬間に国外に逃亡するはずだ。」

 

ハリーの腹のなかにいやな感覚がうまれた。 「リタ・スキーターの背後にルシウスが……?」

 

「おや、わかっていたんじゃなかったのか?」

 

事件のあとでリタ・スキーターがどうなるかについては、考えていなかった。

 

全然。

 

ほんのすこしも。

 

でも、解雇されはするだろう。解雇されるにきまっている。ハリーが知らないだけで、ホグウォーツに通っている子どもがいたりするかもしれない。それだけではなく、はるかに悪いことに——

 

「ルシウスは彼女を殺させるでしょうか?」  ほとんど聞こえないくらいの声でハリーはそう言った。 あたまのなかのどこかで、〈組わけ帽子〉がどなってきていた。

 

クィレル先生はかわいた笑いをした。 「きみは記者を相手にした経験がなかったようだが、記者が一人死ぬたびに世界はすこしあかるくなる、ということは保証するよ。」

 

ハリーは反射的に椅子から飛びだした。手おくれにならないうちにリタ・スキーターをみつけて、警告しないと——

 

「座りなさい。」とするどい声でクィレル先生が言う。「ルシウスは彼女を殺さない。 だがルシウスは、使いでのない者たちをきわめてみじめな状況におく。 ミス・スキーターは逃亡して、名前をかえて新しい人生をはじめるだろう。 座りなさい。現時点できみにできることはなにもない。だが学ぶべき教訓はある。」

 

ハリーはゆっくりと座った。 クィレル先生は失望させられ、いらだった表情をしている。ことば以上にその様子が、ハリーを引きとめさせた。

 

クィレル先生は痛烈な声でこう言った。「ときどき、きみのスリザリン的知性が無駄になってしまっているのではないかと思うことがある。 わたしのことばを復唱しなさい。リタ・スキーターは卑劣でさもしい女だった。」

 

「リタ・スキーターは卑劣でさもしい女だった。」  ハリーはそう言うのに気がすすまなかったが、行動の選択肢はほかにまったくないようだった。

 

『リタ・スキーターはぼくの名誉を台無しにしようとしたが、ぼくは巧妙な計画を実行して、彼女の名誉を台無しにしてやった。』

 

『リタ・スキーターのほうが戦いを申しこんできた。彼女は負け、ぼくは勝った。』

 

『リタ・スキーターはぼくの今後の計画の邪魔になった。 計画を成功させるため、ぼくはやむをえず彼女に対処した。』

 

『リタ・スキーターは敵だった。』

 

『敵をたおす気がなければ、人生でなにもなすことができない。』

 

『今日ぼくは敵をひとりたおした。』

 

『ぼくはいい子だ。』

 

『だから特別なご褒美をもらう資格がある。』

 

最後の数文をききながら、クィレル先生は優しそうににこりとしていた。 「ああ、きみの気をひこうとしていたのだが、うまくいったようだな。」

 

そのとおりだった。 なにかに無理矢理ひきずりこまれたような感じがする——いや、感じだけじゃなく、実際引きずりこまれている——のだが、あの文句を言わせられ、クィレル先生の笑顔を目にすると、たしかに気分がよくなったのは認めざるをえない。

 

クィレル先生はわざとらしく大げさにローブのなかに手をいれた。とりだした手のなかには……

 

……()があった。

 

それはハリーがこれまでに見たどんな本ともちがっていた。枠も背もゆがんでいて、()()()ということばがあたまにうかんだ。まるで、本の鉱脈からきりだされてきたかのように。

 

「これはなんですか。」とハリーがささやく。

 

「日記帳だ。」

 

「だれの?」

 

「ある有名な人物の。」と言ってクィレル先生はにこりとした。

 

「はあ……」

 

クィレル先生は真剣な表情になった。 「ミスター・ポッター、有能な魔法使いの条件のひとつは、記憶力にすぐれることだ。 難問をとく鍵はしばしば、二十年まえに読んだ古い巻き物や、一度しかあったことのない男の指にはまっていた奇妙な指輪にひそんでいる。 そういう風にして、わたしはこれのことを思いだした。昔この品とそのとなりにあった説明書きとを見てから、きみにあうまでには、かなりの年月を要した。 いままで生きてきたなかでわたしはいくつもの個人蔵のコレクションを見てきたが、明らかに資格のなさそうな人物が所有者であることも——」

 

「盗んだんですか?」 信じられずにハリーはそう言った。

 

「そのとおり。ごく最近のことだ。 これはきみのように価値を理解できる人が持つべきだと思う。これを持っていたさもしい小男は、おなじくらいさもしい友人たちに、貴重なものであると言って見せびらかす以外の用途を知らなかった。」

 

ハリーはただ愕然とした。

 

「とっておきの贈りものではあるが、もしただしくないことだと思うのなら、受けとってもらわなくてもかまわないよ。 当然ながらその場合、これを()()ためにわざわざまた忍びこむつもりはないが。 さあ、どうする?」

 

クィレル先生はその本を片手から片手へと投げた。それを見てハリーは思わず、狼狽して手をのばした。

 

「ああ、手あらな取りあつかいをしているが心配いらない。 暖炉にほうりこんでも、傷ひとつつかないしろものだ。 ともかく、きみの答えを待っているぞ。」

 

クィレル先生はなにげなく本を空中にほうりなげ、受けとめて、にやりとした。

 

ことわれ——とグリフィンドールとハッフルパフが言う。

 

もらっておけ、『本』という単語のどこが理解できないんだ?——とレイヴンクローが言う。

 

盗んだっていう部分——とハッフルパフが言う。

 

おいおい、まさかここでことわって、これからの人生ずっと、あれはなんの本だったんだろうと悩んで過ごしたいわけじゃないだろう——とレイヴンクロー。

 

功利主義的にいえば、差し引きプラスなんじゃないか——とスリザリンが言う。 取り引きすることで利得をうむ経済行為なんだと思えばいい。取り引きの部分がないだけだ。 しかも盗んだのは()()()()()()()し、このままクィレル先生にもたせておいても、だれの得にもならない。

 

おまえを〈(ダーク)〉にするための手ぐちに決まってる!、とグリフィンドールが叫び、ハッフルパフが深くうなづいた。

 

うぶなことを言うなよ、彼はスリザリンの道を教えてくれようとしてるだけだ——とスリザリンが言う。

 

本来の所有者はどうせ〈死食い人〉かなにかだ。ぼくらがもっているべきだ——とレイヴンクローが言う。

 

ハリーが口をひらき、苦悶の表情をして、そのまま止まった。

 

クィレル先生はずいぶん愉快そうにしていた。 本のかどに指を一本たててバランスをとり、なにか鼻歌をふきながら、たおれないようにしていた。

 

そのとき、ドアにノックの音がした。

 

本はクィレル先生のローブのなかへ消え去り、先生は椅子から立ちあがった。 そしてドアのほうへ歩きはじめ——

 

——よろめいて、急に壁にたおれかけた。

 

「大丈夫だ。」と言うクィレル先生の声は急にいつもより弱よわしくきこえた。 「すわりたまえ、ミスター・ポッター。ただの目まいだ。さあ。」

 

ハリーの指が椅子のへりをつかんだ。自分がなにをすべきか、なにができるのか、わからない。 クィレル先生にあまり近づくこともできない。近づけば、あの〈破滅〉の感覚にやられる——

 

クィレル先生は背をのばし、そしてすこしつらそうに息をついてから、ドアをあけた。

 

給仕が食べものをのせた盆をもって、はいってきた。 給仕は皿をならべていき、クィレル先生はゆっくりとテーブルにもどった。

 

給仕がお辞儀をして出るころには、クィレル先生はまっすぐに座って、笑みがもどっていた。

 

それでも、たったいま起きたなにごとかで、ハリーは決心させられた。 ことわることなんかできない。クィレル先生がこれほど苦労して手にいれたものなら。

 

「もらいます。」

 

クィレル先生は警告するように指を一本たて、また杖をとりだして、ドアを施錠しなおし、さきほどかけたうちの三種の〈魔法(チャーム)〉をかけなおした。

 

そして本をローブからとりだして、ハリーのほうに投げ、ハリーはあやうくそれをスープに落としかけた。

 

ハリーはクィレル先生に、あきれて憤慨する視線を送った。魔法がかかっていてもいなくても、こういうことを本にするべきではない。

 

ハリーは自分にしみついた本能的な慎重さで、その本をひらいた。 ページはやけに厚みがあり、マグルの紙とも魔法界の羊皮紙とも似ていない材質だった。 そのなかに書かれているのは……

 

……白紙?

 

「見たところ、ぼくにはなにも——」

 

「巻頭のほうを見ろ。」とクィレル先生に言われて、ハリーは(また、どうしようもなく自分にしみついた慎重さで)たくさんのページをまとめてめくった。

 

そこにある文字はあきらかに手書きで、読みとるのがむずかしいが、おそらくラテン語ではないかと思えた。

 

「これはなんなんですか?」

 

「その本は、とあるマグル生まれがホグウォーツに通うことなく魔法を研究した記録だ。 その人物は入学許可を拒否し、自力ですこしずつ研究をすすめた。だが、杖がない以上たいした成果にはむすびつかなかった。 説明書きを読んだかぎりでは、その人物の名前はわたしよりもきみにとってこそ重みがあることと思う。 ハリー・ポッター、それはロジャー・ベイコンの日誌だ。」

 

ハリーは卒倒しかけた。

 

クィレル先生がよろめいたあたりの壁に、きれいな青いコガネムシが一匹、つぶれた死骸となって輝いていた。

 

◆ ◆ ◆

 

〔原註:ロジャー・ベイコンは十三世紀の人物で、科学的方法の最初期の信奉者と見なされている。ベイコンの実験日誌を科学者に贈るというのは、言ってみれば、シェイクスピアの筆記具どころか文字の発明にかかわった人物の筆記具を作家に贈るようなものである。〕

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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