ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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27章「共感」

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターがなにかを懇願する様子を見られる機会は、なかなかない。

 

「たのむよおおお。」

 

フレッドとジョージは笑顔で、もう一度くびをふった。

 

ハリー・ポッターは苦悩の表情をしている。 「ケヴィン・エントウィスルのネコと、ハーマイオニーと、消えるソーダのタネはもう話してあげたし、〈組わけ帽子〉と〈思いだし玉〉とスネイプ先生のことは教えられないんだって……」

 

フレッドとジョージは肩をすくめて、去るそぶりをした。

 

「万一わかったら、教えてくれよ。」

 

「ひどい! 二人ともひどい!」

 

フレッドとジョージはだれもいない教室を出て、しっかりとドアをしめて、にやりとした表情をしばらくは維持するようつとめた。ハリー・ポッターがドアを透視できる場合にそなえて、である。

 

そして交差点をまがると、しょんぼりとした表情になった。

 

「もしかして、ハリーの推測をきいて——」

 

「——なにか思いついたりした?」  おたがい同時にそう言って、ふたりはさらに肩をおとした。

 

このことに関係する最後の記憶は、フルームに協力をことわられた場面だが、自分たちがそのとき()()()頼もうとしていたのかも思いだせない……

 

……だが、協力してくれる他のだれかを見つけて、いっしょに非合法なことをやったに違いない。でもなければ、自分たちをあとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)してもらうようにはしなかっただろう。

 

いったいどうやって、たった四十ガリオンでこのすべてをやれたんだ?

 

最初は、にせの証拠のできがよすぎて、ハリーがジニーと結婚することになるんじゃないかと心配した…… が、それも想定の範囲内だったらしい。 ウィゼンガモートの議事録は()()()()改竄されて本来の内容にもどり、にせの婚約証書もドラゴンに護衛されたグリンゴッツの金庫から消えさったのだ。 ちょっとこわくもある。 一般にはこの件はすでに、『デイリー・プロフェット』が不可解な理由で行った完全なでっちあげだと思われている。ダメ押しとして翌日の号の『ザ・クィブラー』が、ハリー・ポッターとルナ・ラヴグッドがいいなづけと判明、という見出しをつけてくれた。

 

二人が雇ったなにものかが、時効になったあとですべて教えてくれるのだと、二人は必死で願った。 でもいまは、最低の気分だ。もしかするといたずら史上最高のいたずらをやってやったのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 こんなのはおかしい。一度目には思いつくことができたのに、結果がわかったあとではやりかたがわからない、というのはどういうことだ?

 

唯一のなぐさめは、二人が知らないということをハリーが知らないということだ。

 

明らかにウィーズリー関係の事件なのに、ママでさえ二人をうたがってはいない。 どういう方法だったにしろ、ホグウォーツ生にできる範囲をはるかにこえてしまっている……例外があるとすれば、とあるうわさを信じるなら、指をならすことでそれができたかもしれない一生徒だけだ。 ハリーは〈真実薬〉を飲まされて証言させられた、と言っているし……同席したダンブルドアは〈闇ばらい〉たちをぎろりとにらんでいたという。 ハリーがこのいたずらをしかけたのではなく誘拐などもしていないと判断できるだけの質問をしおえると、〈闇ばらい〉はさっさとホグウォーツから退散した。

 

フレッドとジョージは自分たちのいたずらについてハリー・ポッターが訊問されたということを侮辱とみなすべきかどうか、決めかねた。だが、おそらくまったくおなじ理由で、ハリーの顔にうかんだ表情を見れただけでも、価値はあったと納得した。

 

意外なことではないが、リタ・スキーターと『デイリー・プロフェット』編集長は忽然とすがたを消した。おそらく、もう国外にいることだろう。 この部分だけでも、家族に教えてやりたかった。 パパはほめてくれただろうと思う。そのまえにまずママがフレッドとジョージを殺して、ジニーが死骸を燃やしてくれただろうが。

 

それでも、なにも問題はない。パパにはいつか話せるだろうし。ところで……

 

……ところで、すこしまえにダンブルドアがたまたま二人とすれちがったときにくしゃみをして、小さな小包をポケットからうっかり落とした。そのなかには、()()()()()高品質な結界やぶりの単眼鏡がふたつ、おそろいではいっていた。 ウィーズリー兄弟はこれを試すため、三階の『禁断』の通廊に行って、あの魔法の鏡までひとっぱしりしてきた。この単眼鏡を使うと、検知用の網がぜんぶ見えたわけではないが、一度目に行ったときよりはずっといろいろなものが見えた。

 

もちろん、この単眼鏡をもっていることがバレないようにとても気をつける必要がある。バレれば総長室にいかされて、手きびしい説教と、退学の警告までくらったりするかもしれない。

 

グリフィンドールに〈組わけ〉されたからといって、全員がマクゴナガル先生みたいな大人になるのではない、というのはありがたい。

 

◆ ◆ ◆

 

窓のない殺風景な白い部屋で、ハリーは机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面している。

 

この部屋は検知がおよばないように遮蔽されている。男はきっちり二十七の呪文をかけてから、はじめて「こんにちは、ミスター・ポッター。」と言った。

 

この黒づくめの男がこころを読もうとしてくるというのは、妙にぴったりくる感じがした。

 

「こころの準備を。」と男は単調に言った。

 

ハリーの〈閉心術〉(オクルメンシー)の本によれば、人間の精神のうち〈開心術師〉(レジリメンス)が触れることができるのは、ある()()()だけだという。 その境界面の防衛がくずれれば、〈開心術師〉は()()()はいりこむ。そして、〈開心術師〉自身の精神で理解できるかぎりのすべてに到達されてしまう……

 

……というのは、さほど深くではない。 人間の精神のうち人間が理解できるのは、ごく浅い部分までだけらしい。 認知科学をよく知っている人なら強力な〈開心術師〉になれるのでは、とハリーは思った。だが、一連の経験から、そういうことについて興奮しすぎてはいけないという教訓をハリーはようやく学んでいた。 認知科学者だって、人間をつくれるほど人間をよく理解しているわけではないのだから。

 

〈閉心術〉という対抗手段をまなぶにあたって最初の一歩は、自分が別のだれかだと想像し、できるかぎり徹底して自分を別のペルソナにしたてることだ。 いつもそうしている必要はないが、この練習により自分の境界面がどこにあるかを知ることができる。 〈開心術師〉がこころを読もうとしてきたとき、よく注意すればその活動を感知することができるようになる。 そのとき、実物のかわりに想像上のペルソナを触れさせるようにすればいいのだ。

 

それがうまくできるようになると、とても()()な種類の人間として自分を想像し、岩のふりをすることができるようになる。そして習慣的にその偽装を境界面全体にほどこすことができるようになる。 これが標準的な〈閉心術〉の障壁である。 岩のふりをするのは最初はむずかしいが一度できれば楽になるし、相手に触れさせる精神の境界面は内部よりもずっと表層的だから、十分訓練をすれば意識せずとも習慣として維持できるようになる。

 

そして()()()()()()()()()なら、さぐりをいれられたときに()()()()し、問われたことに即座に答えることができる。こうなると、境界面を通過してはいってきた〈開心術師〉にも、内部の精神が演技であるかどうか、見分けがつかない。

 

最高の〈開心術師〉であっても、そうやってだまされることがある。 完璧な〈閉心術師〉が自分の〈閉心術〉の障壁を解除したと主張したとして、それがうそでないという確証はない。 そればかりか、相手が完璧な〈閉心術師〉であるかどうかさえ、わからないかもしれない。 完璧な〈閉心術師〉は希少だが皆無ではない。その事実があるから、だからだれに〈開心術〉をかけるときも、確実なことは言えないのだ。

 

悲しいことに、人間はおたがいをほとんど理解できないということがここからわかる。 最高の読心術が使える人間でさえ、精神の境界面より奥にあるものをほとんどなにも理解できず、別人のふりをしている相手を見やぶることができないのだ。

 

といっても、そもそも人間は、相手を理解しているふりをすることによってしか、おたがいを理解することができない。 三百兆本のシナプスを個別にモデリングして相手の行動を予測する人はいない。 世界最高の心理操作者に〈人工知能〉を設計させようとしても、ぽかんとされるだけだろう。 相手の行動を予測するとき、人は自分の脳に相手の脳のまねをさせるのだ。 つまり、()()()()()()()()()()()()()ということ。 怒っている人がどういう行動をするかを知りたければ、自分の怒りの回路を発火させて、その回路がだすなにかが、とにかく予測になる。 怒りの神経回路のなかみはどうなっているのかは、だれも知らない。 世界最高の扇動者は神経細胞がなんであるかも知らないかもしれない。世界最高の〈開心術師〉もおなじだ。

 

〈開心術師〉が()()できることはすべて、〈閉心術師〉がかならず()()できる。 どちらも仕組みは同じ——両者はおそらく、他人のモデルを脳に演じさせるための制御をする、同一の神経回路で実現されているのだろう。

 

ということで、テレパシー攻撃とテレパシー防御の競争では、防御がわが圧勝する。 そうでなければ、魔法界そのもの、いや地球そのものが、こういうすがたをしてはいないだろう……

 

ハリーは深呼吸し、集中した。 わずかに笑みをうかべた。

 

やっとついに、謎のパワー方面で、期待どおりのものがでてきたようだ。

 

一カ月以上練習しつづけてから、本気でというよりちょっとした思いつきで、ハリーは冷たい怒りを感じてから〈閉心術〉の練習をしてみた。 このやりかたにはもうほとんど期待しなくなっていたのだが、軽く試してみるくらいはいいだろうと——

 

それから二時間、ハリーは本にのっているむずかしい練習をぜんぶやりとおして、つぎの日にクィレル先生の部屋に行って準備ができたと言ったのだった。

 

この暗黒面(ダークサイド)はどうやら、他人になりすますのが()()()じょうずらしい。

 

自分がはじめて完全にダークサイドに行ってしまったときからお決まりになった、あのトリガーを思いうかべてみる……

 

セヴルスはことばを切り、満足感にひたっているようだった。 「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

ハリーは冷たい笑みをした。そして自分に読心をしかけようとしてきている黒ローブの男を見つめた。

 

そして、まったくの別人になった。この状況に適していそうな別人に。

 

……窓のない殺風景な白い部屋で、机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面するという、この状況に適していそうな人物に。

 

〈銀河警察〉の〈第二段階レンズマン〉を務めるキムボール・キニスンは自分に読心をしかけようとしてきている黒ローブの男を見つめた。

 

キムボール・キニスンは、この対決に自信があるどころではなかった。 彼の師はあらゆる宇宙で最強の精神力をもつアリシア人の〈導師〉(メンター)だ。たかが魔法使いに見られるのは、こちらからすすんで見せていいと思った部分までにすぎない……

 

……すなわち、彼がなりすましている純真な少年、ハリー・ポッターの精神だ。

 

「準備できました。」と十一歳の少年にふさわしい不安げな調子でキムボール・キニスンが言った。

 

〈開心〉(レジリメンス)」と黒ローブの男が言った。

 

沈黙。

 

黒ローブの男が目をしばたたかせた。衝撃的だったので自分のまぶたを動かさせられてしまった、と言うかのように。口をひらいて出た声も完全に単調ではなくなっていた。「〈死ななかった男の子〉に謎の暗黒面(ダークサイド)があるのか?」

 

ゆっくりと、熱いなにかがハリーのほおにのぼってきた。

 

「ああ……」と言って男は完璧に平静な表情にもどった。 「ひとこと言っておこう。ミスター・ポッター、自分の長所を理解するのはいいことではあるが、過信しすぎることと混同してはいけない。 〈閉心術〉をほんとうに十一歳のわかさで身につけられるのかもしれないというのは、おどろきだ。 わたしはミスター・ダンブルドアがまた狂人のふりをしているのかと思ってしまっていた。 これだけ精神解離の才能がありながら、あれ以外に児童虐待の形跡がないのにはおどろきだし、いずれきみは完全な〈閉心術師〉になれるかもしれない。 だが一度目にして〈閉心術〉のバリアを成功させようというのは、たんにバカげている。それとこれとは話がちがう。 わたしがこころを読もうとしているのをきみは感じとることができたか?」

 

ハリーは顔を真っ赤にして、くびをふった。

 

「つぎはよく注意していなさい。一日目に完全な虚像をつくりだすのが目標ではない。 自分の境界面を知ることが目標だ。 ではこころの準備を。」

 

ハリーはまたキムボール・キニスンのふりをしようとした。もっと注意しようとした。だが、さきほどより考えがうまくまとまらず、思いうかべてはならないことがいくつもあるということを急に意識してしまう……

 

ああ、これはひどいことになる。

 

ハリーは歯ぎしりした。すくなくとも、この教師はあとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)される。

 

「レジリメンス」

 

沈黙——

 

◆ ◆ ◆

 

……窓のない殺風景な白い部屋で、机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面する。

 

日曜日の午後、個人指導の第四日である。 これだけの料金を支払えば、週末かどうかを気にすることなく、好きな期日をえらぶことができるのだ。

 

読心術師は一式のプライヴァシー強化呪文をかけてから、「こんにちは、ミスター・ポッター。」と単調に言う。

 

「こんにちは、ミスター・ベスター。」と疲れた声でハリーが言う。 「まず最初のショックの部分をすませましょうか。」

 

「前回はわたしをおどろかせることができたのか?」と男はすこしだけ興味をもったようにして言う。 「では。」と言って、ハリーの目をのぞきこむ。「レジリメンス」

 

沈黙。そして黒ローブの男は、牛追い棒でつつかれたかのようにして身をひるませた。

 

「〈闇の王〉は()()()()()?」と言って男が息をのむ。急に興奮した目になる。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハリーはためいきをついて、腕時計を見た。 あと三秒もすれば……

 

「すると、」と男は単調な声をもどせないまま言う。「きみは隠れた魔法の法則をみつけだして、全能になれると本気で信じているのか。」

 

「はい、そうです。ぼくはそこまで自信過剰です。」とハリーは腕時計のほうを見たまま、そっけなく言う。

 

「〈組わけ帽子〉はきみが次代の〈闇の王〉になると思っているらしい。」

 

「そうならないためにぼくが努力しているということもおわかりでしょう。それに、あなたがぼくに〈閉心術〉を教える気になれるかどうかについては前回までに長く議論をしたということ、結果としてやると決めたんだということも、見えたはずです。だからもうそれはやめておきませんか?」

 

「わかった。」とちょうど六秒後に男が言った。前回とおなじだ。 「では、こころの準備を。」と言ってから彼は沈黙し、やけに残念そうにこうつけくわえた。 「あの金と銀のトリックはおぼえていられたらと思うがね。」

 

同一の初期条件下にもどしてやってから同一の刺激をあたえれば、人間の思考はこれほどよく再現されるのだ。そう知ってハリーのこころは乱れた。 還元主義者たる者、そもそもこういう虚像にまどわされるべきではない。

 

◆ ◆ ◆

 

そのつぎの月曜日午前の〈薬草学〉の授業からでてきたとき、ハリーはずいぶん機嫌がわるかった。

 

そのとなりでハーマイオニーも憤懣をあらわにしていた。

 

ほかの子どもたちはまだなかにいて、なかなか荷物をかたづけない。今年二回目のクィディッチの試合にレイヴンクローが勝ったことで、興奮しておしゃべりしつづけているのだ。

 

昨晩の夕食後、ある女の子がホウキにのって三十分間飛びまわり、巨大な蚊のようなものをつかまえたという。 試合中のできごとはほかにもあったが、どれも重要ではない。

 

ハリーはこのエキサイティングな試合を観戦できなかった。〈閉心術〉のレッスンもあったし、謳歌すべき人生もあったから。

 

レイヴンクローの共同寝室(ドミトリー)内でのその後の会話はすべて回避した。〈音消しの魔法(チャーム)〉と魔法のトランクは便利なものだ。 朝食はグリフィンドールのテーブルで食べた。

 

だが〈薬草学〉は回避できなかった。レイヴンクロー生たちは授業のまえにもあとにも、()()()()()話しつづけた。それをとめるため、ハリーはファーコットの赤ちゃんのおむつを交換するのをやめて、ここには植物の勉強をしようとしている人もいるしスニッチはどこにもはえないから、どうかクィディッチの話はやめてくれないか、と宣言した。 その場のほぼ全員がショックをうけた表情でハリーを見たが、ハーマイオニーだけは拍手したそうな顔をしていた。スプラウト先生はハリーにレイヴンクローの点を一点授与した。

 

レイヴンクローの点を一点。

 

たった一点。

 

バカが七人、くだらないホウキにのって、くだらない試合をすると、レイヴンクローに()()()()

 

クィディッチの試合の得点は()()()()()()()()()()()()という。

 

つまり、黄金の蚊一匹をつかまえることが寮点百五十点に相当するという。

 

自分ならどうやれば百五十点をかせげるのか、想像することすらできない。

 

もちろん、()()()()()()()()()()()()救いだすとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()思いつくとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()発明するとか、()()()()ハーマイオニー・グレンジャーになるとかは、別として。

 

「殺せばいいんだ。」とハリーは歩きながら、となりのハーマイオニーにむけて言った。ハーマイオニーもハリーとおなじくらい気分を害した様子だった。

 

「殺すって? ……クィディッチの選手たちを?」

 

「クィディッチに多少なりとも関係する人なら全部、っていうつもりだったけど、手はじめにレイヴンクローの選手全員でもいい。」

 

ハーマイオニーのくちびるが非難めいたかたちにむすばれた。 「ハリー、人を殺すのはいけないことだってことくらいはわかってるでしょうね?」

 

「うん。」

 

「いちおう聞いておきたかっただけ。じゃあ一人目はシーカーにしようか。 アガサ・クリスティのミステリーならちょっと読んだことがあるけど、それにはまずあのシーカーの女の子を列車にのせないと。どうやればいいと思う?」

 

「生徒が二人、殺人の相談かね。」とかわいた声が言う。「驚愕させられる。」

 

すぐ先のかどから、多少しみのついたローブを着た男がふらりと出てきた。ぼさぼさの油ぎった髪が肩にまでかかっている。そのからだからあたりの廊下に、おそろしげな危険さが放出されているかのようだった。混ぜてはいけないものが混ざったポーションがうっかり落とされ、ベットに横たわった人たちが〈闇ばらい〉には自然死としか判定されずに死んでいく、というようなたぐいの危険さだ。

 

なにも考えずに、ハリーは一歩すすんでハーマイオニーの前に立った。

 

うしろで息をすう音がしたかと思うと、ハーマイオニーがハリーを抜き去って前にでた。 「逃げて、ハリー! 男の子を危険な目にあわせるわけにはいかないから。」

 

セヴルス・スネイプは陰気に笑う。「なかなか愉快だ。 ポッター、よければミス・グレンジャーとのたわむれをしばらくあきらめて、すこしつきあってもらえないかね。」

 

ハーマイオニーは急にとても心配そうな表情になった。ハリーのほうをむいて口をひらき、そこでとまった。悩んでいる様子だ。

 

「ああ、ミス・グレンジャー、心配は無用。 ボーイフレンドくんは五体満足でかえすと約束する。」 セヴルスの笑みが消えた。 「ポッターとわたしはこれから、二人だけで個人的な話がある。 きみが招待にはいっていないということくらいは伝わっていてほしいものだが、念のため言っておく。これはホグウォーツ教師としての命令だ。 行儀のよい女の子らしく、言いつけは守ってくれるだろうな。」

 

そう言ってセヴルスは身をひるがえして、かどのほうに戻っていった。「どうした、ポッター?」という声が聞こえた。

 

「あの、」とハリーはハーマイオニーに向いて言う。「ぼくがこれからしばらくあっちについて行くあいだ、きみにはハーマイオニーに心配させたり気を悪くさせないためにぼくが言うべきことを考えてもらう、っていうのはどうかな?」

 

「無理。」とハーマイオニーが震える声で言った。

 

セヴルスの笑いが、かどのむこうから鳴りひびいた。

 

ハリーはあたまをさげ、 「ごめん。ほんとにごめん。」と小さな声で言って、〈薬学教授〉のあとを追った。

 

◆ ◆ ◆

 

「それで、」とハリーが口をひらく。 どこにでもあるような石の廊下で、長短二組の足音だけが聞こえる。 〈薬学教授〉は足ばやに歩いているが、ハリーがついてこれる程度におさえている。ホグウォーツで方向という概念が通用するかぎりにおいて、二人は人通りのある区域からはなれていっているようだ。 「話というのは?」

 

「二人してチョウ・チャンを殺す相談をしていたことに正当な理由があるというなら、聞いてみたいものだが?」と乾いた声でスネイプが言った。

 

「そちらこそ、ホグウォーツの運営機構の一員として答えてもらいましょう。黄金の蚊一匹をつかまえることが寮点百五十点の学業成績に相当するということに正当な理由があるとでも言うんですか?」とかわいた声でハリーが言った。

 

セヴルスのくちびるに笑みが浮かんだ。 「なんと。おまえは目ざといほうだと思っていたが。 そこまで自分の同級生を理解できないでいるのか、それとも嫌悪するあまり理解しようともしないのか? クィディッチの点数が寮杯に影響しなかったとしたら、同級生諸君は寮点について真剣にはなるまい。 だれにも気にとめられず、おまえやミス・グレンジャーのような生徒がきそいあうだけになるだろう。」

 

驚愕するほどまともな説明だ。

 

そして驚愕したことで、ハリーのあたまがはっきりとしてきた。

 

考えてみれば、セヴルスが生徒のことをとてもよく理解している、というのはおどろくにあたらない。

 

生徒のこころを読んでいるのだから。

 

それに……

 

……本によれば、有能な〈開心術師〉はきわめて希少で、完全な〈閉心術師〉よりも希少なくらいだという。それだけの自制心をそなえている者はほとんどいないからだ。

 

自制心?

 

ハリーはこのあいだ、授業で癇癪(かんしゃく)をおこし、おさない子どもたちにどなりつける男についての話をききあつめた。

 

……だがそのおなじ男が、〈闇の王〉はまだ生きているとハリーに告げられたとき、即座にかつ完璧に反応した——まったく無知な人がするであろう反応そのものだった。

 

そして暗殺者のオーラと危険さをふりまきながらホグウォーツじゅうを闊歩する……

 

……などということを、ほんものの暗殺者だったらしているはずがない。 ほんものの暗殺者は、殺人をする瞬間まで、おとなしい小柄な事務員のようにしているはずだ。

 

誇りたかく貴族的なスリザリンの寮監でありながら、ポーションや調合材料のしみがついたローブを着用している。魔法を使えば二分で消せるにもかかわらず。

 

ハリーは自分が困惑しているのを自覚した。

 

そしてこの()()()()()()()についての危険さの推定値が天文学的にあがった。

 

ダンブルドアはセヴルスを手なづけていると考えているようだし、それを否定する材料はない。 〈薬学教授〉(ポーションズ・マスター)はこのところ『こわい先生ではあるが虐待はしない』という約束をまもっている。 ということはこれは、ハリーの以前の推論どおり、〈指輪の仲間〉みたいなものだ。 もしセヴルスが害をなすつもりなら、ハーマイオニーという目撃者の目のまえでハリーを連れ去ることはしないはず……そうしたければハリーがひとりになる瞬間をただ待てばいいだけなのだから……

 

ハリーはしずかにくちびるを噛んだ。

 

「昔、わたしの知り合いにクィディッチに夢中な少年がいた。どうしようもないバカだった。おまえと同じ、おそらくわたしとも同じ、バカだった。」

 

「なんの話でしょうか?」とゆっくりとハリーが言った。

 

「あわてるな、ポッター。」

 

セヴルスは横をむいて、暗殺者の動作でしずかに、そばの廊下の壁の切れ目へとむかった。そのさきには、せまい通路があった。

 

ハリーはそのあとを追った。ここで逃げたほうがかしこいのではないかと思いながら。

 

二人はかどをまがり、もう一度まがり、行きどまりの真っ黒な壁についた。 ホグウォーツが建設されたのであれば(魔法でとりだされたり召喚されたり生まれたりしたのでなければ)、行くさきのない廊下を作ったことについて、設計者に一言言ってやりたい。

 

「〈音消(クワイエタス)〉」とそのほかいくつかのことばをセヴルスが言った。

 

ハリーは身をひいて、胸のまえで腕をくんで、セヴルスの顔をじっと見た。

 

「わたしの目を見ようとしているのか? 〈開心術〉の侵入をふせげる程度にまで、おまえの〈閉心術〉の訓練がすすんでいるとは思えん。 だが検知する程度になら、ありうる。 そうでないと信じる理由がない以上、わたしは危険をおかさない。」 男は薄ら笑いをした。 「おなじことがダンブルドアについても言えると思う。 だからこそこのタイミングで、この話をするのだ。」

 

ハリーは思わず目を見ひらいた。

 

「まず最初に、」と言ってセヴルスは目を光らせる。「この会話のすべてをだれにも話さないと約束してもらおう。 教師や生徒に対しては、これはおまえの〈薬学〉の宿題についての話だということにする。 そう言われた相手が真にうけるかどうかは問題ではない。 ダンブルドアとマクゴナガルに対しては、ドラコ・マルフォイから秘密裏に明かされたなにかをわたしが裏切って話している、そしておたがいにその詳細を他言すべきでないと考えている、ということにする。」

 

ハリーの頭脳はこのことがなにを意味しどこまで影響するかを計算しようとして、スワップ領域を使いはたした。

 

「返事は?」

 

「いいでしょう。」とハリーはゆっくり言った。 話を聞かずにいれば当然その内容をだれにも言えない。だが、なぜかそれよりも、聞いた話をほかで話してはならないということのほうが不自由な感じがしてしまう。 「約束します。」

 

セヴルスはハリーをじっと見た。 「総長室での一件で、いじめや虐待は許せないとおまえは言った。 そこで知りたい。ハリー・ポッター、おまえはどれくらい父親に似ている?」

 

「マイケル・ヴェレス゠エヴァンズのことをおっしゃっているのでないかぎり、ジェイムズ・ポッターについてはほとんど知らないとしか言えません。」

 

セヴルスは自分にむけてうなづくかのようにした。 「スリザリン五年生にレサス・レストレンジという名の少年がいる。 彼はグリフィンドール生数名から、いじめをうけている。 わたしはこういった状況に対処するにあたって……制約がある。 おまえなら多分、彼を助けられるかもしれない。 その気があればだが。 これは頼みごとではないし、貸し借りは生じない。 ただ、おまえがそうしたければしてもいい、というだけのことだ。」

 

ハリーはセヴルスのほうをじっと見て、考えた。

 

「罠かもしれないと思っているのだろう?」  セヴルスのくちびるにうっすらと笑みが浮かんだ。 「罠ではない。試験ではある。 わたしの好奇心ということにしてもよい。 だがレサスは実際に苦しんでいるし、わたしが軽がるしく介入できないのも事実だ。」

 

自分が善人だと知られるとこういう問題が起きるのだ。 そこまでわかっていながら、食いつかざるをえない。

 

もしハリーの父親がほかの生徒をいじめから守るような人だったのなら……セヴルスがハリーにこのことを伝えた理由がわからなくてももう関係ない。 そう考えるとこころのなかがあたたかくなり、誇らしくなる。手を引くことはできなくなる。

 

「いいでしょう。レサスのことをきかせてください。なぜいじめられているんですか?」

 

セヴルスの顔から笑みが消えた。 「理由など、あると思うのか?」

 

「ないかもしれませんね。」とハリーがしずかに言う。「でも、その彼が無名の泥血の女の子を階段からつきおとしたとかいう可能性もあるのではと。」

 

「レサス・レストレンジは、」と冷たい声でセヴルスが言う。「ベラトリクス・ブラックの息子だ。ベラトリクス・ブラックは〈闇の王〉のもっとも邪悪で狂信的なしもべだった。ラバスタン・レストレンジとの私生児としてレサスは生まれ、のちに認知された。 〈闇の王〉の死後まもなく、ベラトリクスとラバスタンはラバスタンの兄ロドルファスとともに、ロングボトム夫妻、アリスとフランクを拷問しているところをとらえられた。 三人ともアズカバンの終身刑だ。 ロングボトム夫妻は執拗な〈拷問〉(クルシアタス)をうけて発狂し、いまは聖マンゴ病院の不治病棟にいる。 このどれが彼をいじめる理由になる?」

 

「どれも理由になりませんが……」とハリーがやはりしずかに言う。「レサス本人は、あなたが知るかぎりなんの悪事もしていないということですか?」

 

セヴルスのくちびるにまたうっすらと笑みが浮かんだ。 「ほかのだれとくらべてもレサスは聖者ではない。 だが泥血の女の子を階段からつきおとしたことはない。わたしが知るかぎりは。」

 

「あるいはこころを読んだかぎりでは。」とハリー。

 

セヴルスの表情は冷ややかだ。 「彼のプライヴァシーを侵害してはいない。 グリフィンドール生のほうをのぞいたのだ。 彼はただ、いじめるがわの欲望をみたすのに手ごろな標的だったのだ。」

 

冷たい怒りがハリーの背すじをかけぬけた。セヴルスは信頼できる情報源ではないかもしれない、と自分に言いきかせなければならなった。

 

「それで、〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターの介入なら、効果があるかもしれない、と。」

 

「そのとおり。」と言ってセヴルス・スネイプは、そのグリフィンドール生たちがつぎにこのお気に入りのゲームをしようとしている時間と場所を告げた。

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツの二階のまんなかに、南北の軸をよこぎる大廊下がある。その廊下の中央ちかくに、別の短い通路へと通じる入り口があり、そこに足をふみいれて十数歩すすんでから右折すると道はL字型になっており、また十数歩すすむと、明るく大きな窓にたどりつく。霧雨の降るホグウォーツの東の庭の上の、三階ぶんの高さの位置にはりだした窓だ。この窓の下にいると大廊下の物音はまったく聞こえず、大廊下からも窓の外のできごとは聞こえない。 これがどこか変だと思う人はホグウォーツ初心者だ。

 

赤色のえりのローブを着た四人の少年が笑っている。緑色のえりのローブを着た少年が一人、悲鳴をあげ、ひらいた窓の枠に両手でしがみついている。四人は彼を押しだすふりをしているのだ。 もちろん、これは冗談にすぎない。それに、この高さから落ちても魔法族は死なない。 ただの娯楽の一種だ。 これがどこか変だと思う人は——

 

()()()()()()()()()()()」と六人目の少年の声が言った。

 

赤色のえりのローブの四人は、はっとしてふりかえった。緑色のえりのローブの少年は必死に窓からはなれようとして、床に倒れた。顔は涙にまみれていた。

 

「ああ、おまえか。」とほっとした声で言ったのは、赤色のえりのローブをしているなかで一番ハンサムな少年だ。「おいレシー、あれだれだか分かるか?」

 

床に倒れた少年は返事をせず、ただすすり泣きを止めようとしている。赤色のえりのローブの少年は、足をひいて蹴るかまえを——

 

()()()()()!」と六人目の少年が叫んだ。

 

赤色のえりのローブの少年が蹴ろうとする途中で止まってよろめいた。 「あのな、こいつがだれだか分かってるか?」

 

六人目の少年の呼吸がみだれている。 「レサス・レストレンジ。」  細かく息をあえがせる。 「でもぼくの両親は、あのときまだ五歳だったレサス・レストレンジからは、なにもされていない。」

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムは大柄な五年生のいじめっこ四人をまえにして、震えをおさえようと努力していた。

 

ハリー・ポッターに誘われたとき、ことわればよかった。

 

「なぜこいつを守る?」と言って、ハンサムな少年が歯むかわれたことに気づいてとまどったような声をしだした。「こいつはスリザリンだぞ。レストレンジだぞ。」

 

「いや、両親をうしなった子どもだ。ぼくはそれがどういうことかがわかる。」 ネヴィル・ロングボトムは自分でもどこからこのせりふがでてきたのか、わからなかった。 まるでハリー・ポッターが言いそうな、かっこつけた感じのせりふだ。

 

それでも震えはとまらなかった。

 

「なにさまのつもりだ?」とハンサムな少年が怒りだした。

 

ぼくはネヴィル、〈元老貴族〉ロングボトム家の最後の継承者——

 

ネヴィルはそれを言えなかった。

 

()()()()だよ。」と別のグリフィンドール生が言い、それを聞いてネヴィルは急にいやな気持ちになった。

 

やっぱり。やっぱりこうなるんだ。 けっきょくハリー・ポッターはまちがっていた。 ネヴィル・ロングボトムに言われたからといって、いじめっこは止まらない。

 

ハンサムな少年が一歩こちらへ踏みだし、残りの三人もつづいた。

 

「どうでもいいんだな。」と言ってネヴィルは自分の声が震えていないことにおどろいた。 「相手がレサス・レストレンジでもネヴィル・ロングボトムでも関係ないんだな。」

 

レサス・レストレンジが床に倒れたまま、突然息をのんだ。

 

「悪は悪だ。」とさっき口をひらいた少年がいらだって言う。「悪のなかまも悪なんだよ。」

 

四人はまた一歩ちかづいてきた。

 

レサスはよろめきながら立ちあがった。 血色をうしなった顔で、なにも言わず、数歩まえに出て壁によりかかった。 その目は廊下のさきのかどを——脱出する道だけを見ている。

 

「なかま、か。」  ネヴィルの声が高くなっていく。 「なかまならいるよ。〈死ななかった男の子〉もそのひとりだ。」

 

グリフィンドール生のうち何人かが急に不安そうになった。 ハンサムな少年はひるまなかった。 「ここにハリー・ポッターはいない。もしいたとして、ロングボトムがレストレンジを助けている様子を、よくは思わないだろう。」

 

グリフィンドール生たちはまた大きく一歩ふみだし、そのうしろでレサスが壁づたいに動いていき、機会をうかがっている。

 

ネヴィルは息をすい、右手をあげて、親指を人差し指にあてた。

 

そしてハリー・ポッターとの約束にしたがって、のぞき見をしないように、両目をとじた。

 

もしこれがうまくいかなかったら、もうだれも信じられない。

 

おどろくほどはっきりとした声がでた。

 

「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。 そなたの債務と真名のもとにそなたを召喚し、ここに門をひらく。わが呼びかけにしたがい、あらわれたまえ。」

 

ネヴィルは指をならした。

 

そして目をあけた。

 

レサス・レストレンジが彼を見ている。

 

四人のグリフィンドール生が彼を見ている。

 

ハンサムな少年が笑いだし、のこりの三人もそれにつられた。

 

「ハリー・ポッターが、そのへんからあらわれるはずだったとか? あーあ。すっぽかされたみたいだぜ。」

 

ハンサムな少年が威嚇するようにネヴィルにむけて一歩ふみだした。

 

のこりの三人も足なみをそろえてつづいた。

 

「オホン。」とうしろで、窓のしたの壁によりかかったハリー・ポッターが言った。 窓は行き止まりにあるから。見られずにそこまでたどりつけるはずはない。

 

相手が悲鳴をあげるのを見ているのがこれほどいい気分なのなら、いじめをしたがる人がいるのもわかる気がしてきた。

 

ハリー・ポッターはしずかにまえにすすみ、レサス・レストレンジとのこりの面々のあいだに立った。 赤色のえりのローブを着た少年たちに氷の視線をむけ、ハンサムな少年のところで目をとめた。主犯格だ。 「ミスター・カール・スロウパー、なにかぼくが理解しそこなったことはあるだろうか。 レサス・レストレンジは悪い親のもとに生まれただけだ。仮にそのほかにみずから悪事をはたらいたことがあったとして、きみたちはその悪事を知らない。 ミスター・スロウパー、もし訂正があるなら、いますぐ知らせてほしい。」

 

ネヴィルは、ほかの少年たちの恐怖と驚嘆の表情を見た。 自分自身もおなじ気持ちだった。 すべてトリックだとハリーは主張してはいた。でもどんなトリックでこれを?

 

「でもこいつは()()()()()()だ。」と主犯格が言った。

 

「いや、両親をうしなった子どもだ。」と言ってハリー・ポッターはさらに声を冷たくした。

 

今回はのこりのグリフィンドール生が三人とも、ひるんだ。

 

「ロングボトム家の名で無実の人をいためつけるようなことをネヴィルはのぞんでいない。そう分かっても、きみたちは止まらなかった。 〈死ななかった男の子〉がそう言ったら、その行動はひどいまちがいだと言ったら、考えを変えてくれるか?」

 

主犯格がハリーに一歩ちかづいた。

 

のこりの面々はつづかなかった。

 

そのうちのひとりが息をのむ。「カール、ここは引いたほうがいいんじゃないか。」

 

「おまえは次代の〈闇の王〉だと言われている。」と言って主犯格がハリーをじっと見た。

 

ハリー・ポッターはにやりとした表情をした。 「ついでにジニヴラ・ウィーズリーといいなづけでもあって、二人でフランスを征服するという予言があるんだそうだ。」  笑みが消える。 「ミスター・カール・スロウパー、きみは言われないとわからないようだから、はっきり言おう。 ()()()()()()()()()()()()。 手をだしたら、ぼくにはわかるぞ。」

 

「どうせレシーに告げぐちされたんだろう。」と主犯格が冷たく言った。

 

「うん、それに、きみが〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業のあとで、なにをしたかも聞かせてもらったよ。白いリボンを髪につけたハッフルパフ生の女の子を、だれにも見られない隠れた場所に連れていって——」

 

主犯格の少年がショックでぽかんと口をあけた。

 

「ヒェッ」とのこりのグリフィンドール生のひとりが高い声で言い、くるりとうしろを向いて、かどのほうに走り去った。 ぱたぱたとした足音が遠くなり、消えていった。

 

そして六人になった。

 

「これで、多少あたまのいい少年がひとり、いなくなった。 きみたちもバートラム・カークに見ならったらどうだ。面倒なことになりたくなければ、ね。」

 

「告げぐちするぞ、と脅迫してるのか?」  ハンサムなグリフィンドール生は声に怒りをこめようとしていたが、ぐらついてもいた。 「告げぐち屋にはみじめな運命が待っているぞ。」

 

グリフィンドールののこりの二人がゆっくりと戻ってきた。

 

ハリー・ポッターは笑いだした。 「笑っちゃうね。 本気でぼくをおどかす気なのか? ()()()? まさか、自分がペレグリン・デリックや、セヴルス・スネイプや、そもそも〈例の男〉よりもこわいとでも思ってるのか?」

 

これには主犯格の少年もひるんだ。

 

ハリー・ポッターが手をあげ、指をかまえると、グリフィンドール生たちは飛びのいた。そのひとりが「やめ——!」

 

「ここでぼくが指をならせば、きみたちはとんでもなくおかしな話の一部になって、今夜の夕食で失笑される。 でもぼくは、信頼するひとたちにそれをやるなと言われているんだ。 マクゴナガル先生には楽なやりかたをえらびすぎだと言われた。クィレル先生には負ける方法をまなべと言われた。 ぼくが上級生のスリザリン生にわざといためつけられた話は知ってるよね? あれでいい。 きみたちはしばらくぼくをいじめて、ぼくはなにもしない。 ただし、前回の最後の部分、この学校にいるたくさんの友だちに仕返しはするなとぼくがたのんだっていう部分は、今回はなしにする。 じゃあ、どうぞ。 いじめてくれ。」

 

ハリー・ポッターは一歩まえにでて、両腕をひろげて招くしぐさをした。

 

グリフィンドールの三人はばらばらになって走りだし、ネヴィルはそれにぶつからないようにすばやくよけた。

 

足音が消えていくと、あたりがしずかになり、沈黙がつづいた。

 

そして三人になった。

 

ハリー・ポッターは深く息をつき、すった。 「ふう。調子はどう、ネヴィル?」

 

声をだしてみると、甲高い声になった。 「いまのはかっこよかったと思う。」

 

ハリー・ポッターの顔が一瞬にやりとした。 「きみこそ、だろ。」

 

ハリー・ポッターはネヴィルの気分をよくするためにそう言っているだけだ。そうわかっていても、ネヴィルは胸のなかがあたたかくなった。

 

ハリーはレサス・レストレンジのほうにふりむいた——

 

「レストレンジ、どこかけがは?」と、ネヴィルのほうがハリーよりさきに口をひらいた。

 

こういうせりふを口にすることになるとは思いもしなかった。

 

レサス・レストレンジはゆっくりとこちらをむいて、ネヴィルを見つめた。ひきしめた顔に涙のかわいたあとが光っているが、もう泣いていない。

 

「どういうことかわかる、だって?」  レサスの声は高く、震えていた。 「わかるわけないだろ? ぼくの両親は()()()()()にいる。考えないようにしていても、ああやっていつも思いださせられる。母上は冷たく暗いあの場所で、ディメンターに生命力を吸われている、それが()()()()のように言われるんだ。 ハリー・ポッターとおなじなら、まだよかった。それなら一瞬も休むことなく苦痛をうけている両親はいなかった。きみとおなじなら、まだよかった。それならときどきは顔を見にいけるし、自分が愛してもらえたとわかっていた。もし母上がぼくを愛してくれたことがあったとしても、ディメンターはその思い出をとっくに食いつくしてしまっている——」

 

ネヴィルの両目がショックでまるくなった。 こういうことになるとは思っていなかった。

 

ハリー・ポッターも恐怖に満ちた目をしている。レサスはそちらをむいた。

 

レサスはハリー・ポッターのまえの床に身をなげだし、ひたいを地面につけ、小声で言った。 「どうかお助けください。」

 

いやな沈黙があった。 ネヴィルはなにも言うべきことが見あたらなかった。むきだしのショックの表情を見るかぎり、ハリーもなにも思いつかないようだ。

 

「あなたはなんでもできるのだときいています。だからお願いします。ハリー・ポッターさま、どうか、わたしの両親をアズカバンから逃がしてください。 わたしは永遠にあなたのしもべになります。この生も死もあなたにささげます。だから——」

 

「レサス、」とハリーはやっとのことで言う。「できないんだよ。ぼくは実はああいうことはできない。どれもただのトリックだったんだよ。」

 

「トリックじゃない!」  レサスの声は高く、必死だった。 「この目で見ました! うわさはほんとうだった。あなたにはできるんだ!」

 

「レサス……これはネヴィルといっしょに、しかけたことなんだ。事前にぜんぶ、相談して。ネヴィルにきいてみてよ!」

 

たしかに相談してはいた。()()()()()やるのかについては、ハリーはなにも話してくれなかったが……

 

レサスが身をおこしたとき、その顔は青ざめ、声はネヴィルの耳につきささるような悲鳴になった。 「泥血の子め! できるのに、やろうとしないだけだろう! こうやってひざをついて懇願しているのに、助けてくれないのか! やっぱり〈死ななかった男の子〉だ。アズカバン行きがお似合いだと思っているんだろう!

 

「できない!」  ハリーの声もレサスとおなじくらい必死だった。 「やりたいかどうかは問題じゃなくて、そうする()()がないんだよ!」

 

レサスは腰をあげて、ハリーのまえの床につばをはき、背をむけて去っていった。 かどをまがるあたりで足音がはやくなり、それが聞こえなくなったころに、一度だけすすりなく声がしたような気がした。

 

そして二人になった。

 

ネヴィルはハリーを見た。

 

ハリーはネヴィルを見た。

 

「なんか、助けてもらったのに感謝してない感じだったね。」とネヴィルが小声で言った。

 

「彼はぼくならなにかできると思っていた。」と言ってハリーは声をかすれさせた。 「何年ぶりかに、希望が見えたんだ。」

 

ネヴィルは息をすってから言った。「ごめん。」

 

「え?」  ハリーは完全に困惑しているようだった。

 

「ぼくも助けてもらったときに感謝していなかったから——」

 

「あのとききみが言ったことはどれも完璧に正論だった。」と〈死ななかった男の子〉が言った。

 

「いや、それはちがう。」

 

二人はおたがいえらそうにしすぎだというように、不満そうな笑みをうかべた。

 

「ほんとうにぼくがやったんじゃないのはわかってる。きみが来てくれなかったら、ぼくはなにもできなかった。でもそのふりをさせてくれて、ありがとう。」

 

「なに言ってるんだよ。」とハリー。

 

ハリーはネヴィルに背をむけて、窓のそとの陰鬱な雲を見つめた。

 

ネヴィルはあまりにも奇妙なことを思いついた。 「レサスの両親をアズカバンから逃がせないのが、後ろめたいの?」

 

「いや。」とハリー。

 

数秒がすぎた。

 

「実はそうなんだ。」とハリー。

 

「バカだな。」

 

「それはわかってる。」

 

「きみはひとからたのまれたことを、文字どおり()()()()やらないといけないの?」

 

〈死ななかった男の子〉はネヴィルのほうをふりかえった。 「いけなくはない。でも、やれないときは、申し訳ない感じがする。」

 

ネヴィルはなかなか言うべきことを見つけられなかった。 「〈闇の王〉が死んでからは、ベラトリクス・ブラックは世界一邪悪な人物だった。アズカバンにいくまえの時点でそうだった。 ベラトリクス・ブラックは〈闇の王〉になにがあったかを聞きたくて、ぼくの母と父を拷問して発狂させた——」

 

「知ってる。わかってるけど——」

 

「ぜんぜんわかってないよ! これはまだ理由があった。二人は〈闇ばらい〉だった。 これどころじゃない悪事もしているんだから!」 ネヴィルの声は震えていた。

 

「それでも……」 〈死ななかった男の子〉の目はどこか遠くの、ネヴィルが想像できない場所を見つめていた。 「どこかにものすごくすぐれた解決法があって、ぼくがもっとかしこくてそれを見つけられてさえいれば、全員を救ってしあわせにすることができるんじゃないかと——」

 

「それはおかしい。きみはレサス・レストレンジが思うきみにならなければいけないと思ってしまってる。」

 

「うん、だいたいそういうこと。 だれかが必死に祈っていてぼくがこたえられないときはいつも、自分が〈神〉じゃないことが申し訳なくなるんだ。」

 

これはちょっとネヴィルの理解をこえているが…… 「それは健康的じゃない気がする。」

 

ハリーはためいきをついた。 「おかしいのはわかってるし、解決するためにすべきこともわかってるよ? なんとかしようとしてはいるんだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはネヴィルが去るのを見とどけた。

 

もちろんハリーはその解決法が何なのかを言わなかった。

 

いそいで〈神〉になるというのが当然の解決法だ。

 

ネヴィルの足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 

そして一人になった。

 

「オホン。」とセヴルス・スネイプの声が真うしろからした。

 

ハリーは小さく悲鳴をあげ、直後に自己嫌悪した。

 

ゆっくりと、ハリーはふりむいた。

 

ハリーがちょうどいた位置の壁に、しみのついたローブすがたの、背のたかい粘着質の男がよりかかっていた。

 

「ほう、精巧な不可視マントだな。それなら説明がつく。」と〈薬学教授〉が言った。

 

ああ、これはまずい。

 

「わたしもダンブルドアと長くつきあいすぎたのかもしれんが、それが実は()()〈不可視のマント〉ではないのかと思いたくなる。」

 

それを聞いてハリーは即座に、あの〈不可視のマント〉のことを聞いたことがなく、かつ、セヴルスがハリーについて想定しているであろう程度にかしこい人物に変わった。

 

「さあ、どうでしょうか。もしそうだったら、どういうことになるかもおわかりでしょうね?」

 

セヴルスの声がえらそうになった。 「わたしがなんのことを言っているか分かっていないのだろう? ずいぶんとへたな、かまのかけかただ。」

 

(クィレル先生からあの昼食のときに言われたのだが、危険な話になったとき無表情になっているようではだめで、自分の精神状態を隠す方法をまなばなければならない。 そう言ってクィレル先生は第一段階の偽装、第二段階の偽装、などを説明してくれた。 セヴルスはハリーを第一段階の使い手として想定しているのかもしれない。つまりセヴルス自身は第二段階の使い手であって、ハリーは第三段階の技で出しぬくことができたのかもしれない。あるいは、セヴルスは第四段階の使い手であって、あの偽装が成功したとハリーに()()()()()()()()だけかもしれない。 あのとき、にこりとしながら第何段階の使い手なのかとたずねてみると、クィレル先生もにこりとして『きみのひとつ上の段階だ』と答えていた。)

 

「つまり一部始終を見てたんですね。たしか〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)、でしたか。」

 

薄ら笑い。 「おまえに危害がおよぶどんなわずかな可能性であれ、見すごしてしまうほどわたしは愚かではない。」

 

「それに試験の結果をその目で見たかったから、でしょう。それで、ぼくはお父さんと似ていましたか?」

 

男はその顔に似つかわない、妙に悲しそうな表情をした。 「そうだな、ハリー・ポッター、おまえが似ていたのはむしろ——」

 

セヴルスは言いやめた。

 

そしてハリーをじっと見た。

 

「レストレンジはおまえを、泥血(マッドブラッド)の子と言った。おまえはそれを、たいして気にとめなかった。」

 

ハリーは眉をひそめた。 「あの状況では気にとめませんよ。」

 

「救いの手をさしのべてやったのに……」  セヴルスの視線がハリーにそそがれる。 「恩知らずにも、つきかえされた。 あんな態度は許しがたいと思うものではないか?」

 

「彼はかなりつらい経験をしたばかりだったんだからしかたありません。助けてくれたのが一年生だったというのも、プライドのためにはならなかったでしょう。」

 

「あの場合は許しやすかったかもしれない。」  セヴルスは変な声をしている。 「レストレンジは、縁もゆかりもない、 見知らぬスリザリン生のひとりにすぎなかったのだから。 あのようなことを言ってきたのが自分の友だちだったとしたら、もっと傷つけられたのではないか。」

 

「友だちなら、余計に許す理由がありますよ。」

 

沈黙が長くつづいた。 なぜなのか、そしてどこからかはわからないが、おそろしい緊張が空気に流れこんできているような気がした。まるで、刻一刻と水位があがってくるときのように感じられた。

 

するとセヴルスが笑顔になり、また態度をゆるめ、緊張感が消え去った。

 

「おまえはひとを許すことのできる人間のようだ。」と言って、セヴルスはまだ笑みをつづけている。 「おそらくご養父のマイケル・ヴェレス゠エヴァンズの教育のおかげだろう。」

 

「というよりパパのサイエンスフィクションとファンタジーの蔵書のおかげですね。 言ってみれば五人目の親のようなものです。 ぼくはああいう本をいろいろ読んで、その登場人物の人生を生きた。それを通じて得た知識があたまのなかにつまっている。 はっきりと名指しはできませんが、なかにはレサスのような人もいたんじゃないかと思います。 レサスの立ち場にたってみるのはむずかしくありませんでした。 どう対応すればいいのかを教えてくれたのも、本です。 善のがわは、許すものだということを。」

 

セヴルスは明るく愉快そうに笑った。 「申し訳ないが、わたしは善良な人の習慣に詳しくない。」

 

ハリーはセヴルスを見た。 ちょっと不幸な話だ。 「よかったら、善良な人が出てくる小説をお貸ししましょうか。」

 

「あることについて、助言してもらいたい。」とセヴルスはなにげない声で言う。 「また別の、グリフィンドール生にいじめられていたスリザリン五年生男子の話だ。 ある日彼がいじめられているところにマグル生まれの美少女が通りかかって、助けようとしてくれた。 彼はその子にあこがれた。 だがそのあと、彼がその子を泥血(マッドブラッド)と呼ぶことがあって、二人の関係は終わった。 彼は何度も謝罪したが、彼女は許そうとしなかった。 レストレンジに対するおまえの許しにあたるものを彼女から得るために、彼はなにを言えばよかったのか、すればよかったのか。考えがあれば聞かせてほしい。」

 

「うーん、そうですね。その情報だけから判断すると、その男子のほうにおもに原因があったのではないかもしれません。 ぼくなら、ひとを許すことができない相手とつきあうのはやめたほうがいいと助言しますね。 そんな二人が結婚したとしたら、どんな家庭をもつことになると思いますか?」

 

沈黙。

 

「ああ、だがその女の子も、場合によっては許すことができたのだ。」  セヴルスは愉快そうな調子を声にこめた。 「なにせ、そのあとで彼女は、いじめをしたほうの男のガールフレンドになったのだから。 では、いじめをする男を許すことができた彼女がなぜ、いじめられたほうの男を許せなかったのだろうか?」

 

ハリーは肩をすくめた。 「当てずっぽうですけどね、いじめたほうは()()()()()()ひどく傷つけたのに対して、いじめられたほうは()()()すこし傷つけた。それが彼女には、はるかに許しがたく感じられた、とかでしょうか。 あるいは、ありていにいって、いじめっこのほうはハンサムでしたか? おまけに金持ちだったとか?」

 

また沈黙。

 

「どちらもイエスだ。」

 

「なんだ、そういうことですか。 もちろん高校生活の実体験があるわけじゃないんですが、ぼくも本で読んで多少は理解しています。思春期には、相手の男の子が地味だったり貧乏だったりすると、たった一度の侮辱にも激怒するけれども、相手が金持ちでハンサムな男の子だったら、いじめをしていてもなぜか寛大に許すことができる、というような種類の女の子がいるようです。 つまり言ってみれば、その女の子はうすっぺらだった。 その女の子はきみにつりあわないからきっぱり忘れてしまって、次回は美人のかわりに内面に深みのある女の子とつきあうようにしたほうがいいと、そのだれかに言ってあげてください。」

 

セヴルスは目を光らせながら、無言でハリーをじっと見た。 その顔が一度ぴくりと動いたが、すでに消えていた笑みはもどってこなかった。

 

ハリーはだんだん不安になってきた。 「その、もちろん、その手の分野についてまだ実体験はないんですけど。 でもぼくが読んだ本のなかにいる賢者だったら、そういう助言をしてくれるんじゃないかと。」

 

セヴルスの目が光ったまま、また沈黙がつづく。

 

そろそろ話題をかえたほうがよさそうだ。

 

「ところで、どういう試験だったかわかりませんが、ぼくは合格でしたか?」

 

「われわれはこれ以上、会話すべきではなさそうだ。 ここまでの話をほかに漏らすなどという愚かしい真似をしないよう、細心の注意をはらいたまえ。」

 

ハリーは目をしばたたかせた。「ぼくがなにかまずいことをしたなら、教えてもらえませんか?」

 

「おまえはわたしを怒らせた。今後、おまえの狡猾さには期待しない。」

 

ハリーはあっけにとられて、セヴルスを見つめた。

 

「だが善意の助言ではあったのだろうから、こちらもおかえしに率直な助言をしてやろう。」 セヴルス・スネイプの声はほとんど完璧に落ちついていた。ちょうど、まんなかに巨大な重りがついているにもかかわらず、両側から何万トンもの張力でひっぱられて、ほとんど完璧に水平になった糸のように。 「ポッター、おまえは今日、死にかけた。 今後は、自分の言うことにも相手の言うことにも確信がもてないときに、気のきいた忠告ができると思うな。」

 

ハリーのあたまのなかで、それがやっとつながった。

 

「じゃああなたがその話の——」

 

『死にかけた』という部分にやっと理解がおよんで、ハリーの口がぴしゃりととじたが、二秒遅かった。

 

「そうだ。」とセヴルス。

 

おそろしい緊張感がまた、海底の水圧のような重さでおしよせてきた。

 

息ができない。

 

負けるんだ。いますぐ。

 

ハリーは小声で、「そうとは知らずに、すみま——」

 

「やめろ。」  セヴルスが言ったのはその一言だけだった。

 

ハリーは無言で立った。あたまのなかで、必死になってとるべき行動を探した。 セヴルスはハリーと窓のあいだに立っている。本気で惜しい。というのも、魔法族ならあの高さから落ちても死なないからだ。

 

「おまえは本に裏切られた。」  セヴルスは何万トンもの張力でひっぱられたような声のままだった。 「おまえが知るべきたったひとつのことを、本は教えてくれなかった。 本を読んでも、愛した人をうしなうというのがどういうことかはわからない。 それは自分自身で感じるまで理解できない。」

 

「お父さんは……」  ハリーは精いっぱいの勘をはたらかせて、自分を救ってくれそうな一言を言おうとする。 「ぼくのお父さんは、あなたをいじめから守ろうとしたんでしょう。」

 

不気味な笑みがセヴルスの顔にひろがる。それが近づいてくる。

 

そして通りすぎていく。

 

「さらばだ、ポッター。」  セヴルスはふりかえらないまま去っていく。 「今日以降、おたがいことばをかわすことはまずないと思うがいい。」

 

かどのところで男は止まり、向きをかえずに、最後の一言を告げた。

 

「いじめをしていたほうがおまえの父親だ。 そしておまえの母親がやつのどこにひかれたのか、わたしはいまだに理解できない。」

 

セヴルス・スネイプは去った。

 

ハリーは向きをかえて窓のほうに歩いていった。 窓の(さん)をつかむ手が震える。

 

『自分の言うことにも相手の言うことにも確信がもてないときに、気のきいた忠告ができると思うな』。了解。

 

ハリーはそとの雲と霧雨をしばらく見つめた。 窓は東の庭にむけて突きでていて、いまは昼だから、どこかで太陽が雲をとおして見えていたとしても、ハリーからは見えなかった。

 

手の震えはおさまったが、針金で胸をきつくしめつけられるような痛みがあった。

 

お父さんはいじめをしていた。

 

お母さんはうすっぺらだった。

 

多分、その後成長はしたのだろう。 マクゴナガル先生のような立派な人が二人を高く賞賛しているし、英雄的な殉死以外にも賞賛される理由はあるのかもしれない。

 

もちろん、そんななぐさめを言っても、思春期にはいりかけてこれから自分はどんな人間になるのだろうと思っている十一歳の少年に対しては、あまり効果がない。

 

ひどくみじめだ。

 

ひどくなさけない。

 

なんてひどい人生だ。

 

自分の生みの親が完璧な人間じゃないとわかったんだから、しばらくふさぎこんで、自分をあわれんでもいいのかもしれない。

 

だがレサス・レストレンジ相手にそんな愚痴をはいてみればどうなるだろう。

 

ディメンターについては本で読んだことがある。 ディメンターは冷気と暗闇と恐怖をまとい、相手から楽しい思考を吸いとって空白となった場所に最悪の記憶を浮かびあがらせる。

 

自分をレサスの立ち場において想像してみることはできる。だれひとり脱出したことのないアズカバンという場所に両親が送られて死ぬまでそこにいるというのが、どういうことかを。

 

そしてレサスは母親になりかわって、冷気と暗闇と恐怖にかこまれて、最悪の記憶から一瞬たりとものがれられないでいる自分を想像しているのだろう。

 

ハリーは一瞬だけ、自分のママとパパがアズカバンで生命力を吸いとられて、ハリーとの楽しい思い出をすべてうばわれている様子を思いうかべた。その一瞬だけで、ハリーの想像力はヒューズを飛ばし、緊急停止をして、二度とおなじことをやるなとハリーに命じた。

 

相手がだれであろうと、世界で二番目に邪悪な人物であろうと、そんなあつかいはただしいと言えるか?

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーの本のなかの賢者が言う。

 

魔法界の司法制度が牢獄ほどには完璧にできていないとすると——もろもろをふまえると、とても完璧なようには思えない——アズカバンのなかのどこかに、完全に無実の人がいる。それも、一人だけではないかもしれない。

 

目に水分がたまり、ハリーはのどが焼けるような感覚をおぼえた。アズカバンの囚人を全員安全な場所に瞬間移動させて、あの最悪の場所に空中から火を降らせて、岩盤の底まで吹きとばしてやりたい。 でもできない。ハリーは〈神〉ではない。

 

ハリーは星の光のもとでクィレル先生が言ったことばを思いだした。 ときどき、この不完全な世界がいつになく憎悪にみちて見えるとき、どこか遠くに、わたしがいるべきだった場所があるのではないかと思うことがある…… だが星ぼしはとても、とても遠い…… そして長い、長い眠りにつくとき、わたしはどんな夢をみるのだろうか

 

いまこの瞬間、この不完全な世界がいつになく憎悪にみちて見える。

 

だがクィレル先生のことばはハリーに理解できない。まるで異星人か〈人工知能〉か、とにかくハリーの脳にのせられる動作様式とはまったくちがう方法でつくられたなにかが言うようなことばだった。

 

アズカバンのような場所がなくなるまで、母星を離れてはならない。

 

踏みとどまって、たたかいつづけなければならない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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