ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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39章「仮そめの知恵(その1)」

◆ ◆ ◆

 

ピー。チッ。ブー。リン。ゴボッ。ポン。ビシャッ。カラン。ブォー。ポッ。 シャラッ。ブクッ。ビーッ。ドス。パチッ。ブワッ。シャッ。プッ。ブーン。

 

フリトウィック先生は月曜日の〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業中に、無言でハリーにたたまれた羊皮紙を一枚わたしてきた。そこには、いつでもいいから、だれにも気づかれないようにして総長室に来るように、とくにドラコ・マルフォイとクィレル先生には気づかれないように、とあった。 ガーゴイルに言うべき使い捨てパスワードとしてあたえられたのは『神経質なハゲワシ』だった。 そのとなりに、なかなか芸術的なフリトウィック先生の似顔絵がインクでかかれていて、ときどきまばたきをした。 メモの一番下には、三重の下線つきでメッセージがあった。『問題を起こさないように』。

 

ハリーは〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の授業を終え、ハーマイオニーといっしょに自習し、夕食をたべて、自軍の士官たちと話し、時計が九時をさしたとき、自分を見えなくしてから午後六時にもどり、げんなりとガーゴイルのところへ行き、螺旋階段をあがって、木の扉をぬけ、いろいろな機械でいっぱいの部屋にはいり、銀色のひげをした総長に対面した。

 

今回のダンブルドアはやけに真剣な表情で、いつもの笑みがない。 それにパジャマの紫色が、ふだんよりも暗めで落ちついた色合いだった。

 

「よくきてくれた、ハリー。」  ダンブルドアは玉座から立ちあがり、奇妙な装置のあいだをゆっくりと歩いてきた。 「まずきこう。昨日のルシウス・マルフォイとの面会の際のメモは持ってきたかね?」

 

「メモというと?」

 

「当然話した内容は書きとめてあるものと思ったが……」 老魔法使いはそのまま言いやめた。

 

ハリーはかなり自分が恥ずかしくなった。 自分がくぐりぬけてきた謎めいた会話に、意味ありげなほのめかしがいろいろあって、自分が理解できてきていないとき、当然いの一番にやるべきことは、記憶がうすれないうちにすべて書きとめることだ。あとで検討できるように。

 

「わかった。それなら、おぼえている範囲でよい。」

 

ハリーはきまり悪そうに、おぼえているかぎりで会話を再現した。半分くらいしゃべったところで、狂人の可能性がある総長になんでもかんでも話してしまうのはかしこくない、ということに気づいた。すくなくとも、話していいかどうかをまず()()()べきだ。けれどルシウスは()()()悪人で、ダンブルドアに敵対している。だからおそらく話してもだいじょうぶだ。それに、こうして話しはじめてしまった以上、いまさら計算しても遅い……

 

ハリーは正直に話し終えた。

 

ダンブルドアはハリーの話がすすむにつれ、だんだんと遠くを見る表情になり、最後にはとりわけ年老いた表情が垣間見え、あたりの空気がはりつめていた。

 

「そういうことなら、マルフォイ家の御曹司に害がおよぶことのないように注意してもらいたい。 わしもそうしよう。」  総長は眉をひそめ、漆黒の板の表面に指をしずみこませ、音をたてずに何度もたたいた。板には『レリエル』という文字が刻まれていた。 「以後きみは、マルフォイ卿とはいっさいの接触を回避するのが賢明じゃろう。」

 

「あなたがフクロウ便を差しとめていたという話は事実ですか?」

 

総長はじっとハリーを見つづけ、最後に不承不承うなづいた。

 

ハリーとしては腹をたててもいいところだが、なぜかそれほど腹はたたない。 多分、いまは総長の立ち場に共感しやすい気持ちになっているからだろう。 ハリーでさえ、ダンブルドアがなぜ自分とルシウス・マルフォイを交流させたがらないかはわかる。これは()()な干渉行為ではなさそうだ。

 

総長がザビニを脅迫したとなると話は別だ……が、これについてはザビニ自身の証言しかないし、ザビニはまったく信用ならない。というより、ザビニなら、とにかくクィレル先生の同情を買うような話をしようとするのが自然だ……。

 

「そうですね、抗議してもいいところですが。そのかわりに、先生の立ち場もわかるから、今後も差しとめるのはいいけれど、だれから来たかは教えてください、と言ってみてもいいですか?」

 

「残念ながら、これまでに差しとめたきみへのフクロウ便は膨大な数にのぼる。」  ダンブルドアはまじめな顔で言う。 「きみは有名人なのじゃ。わしが送りかえさなければ、きみは毎日何十通もの手紙を受けとることになる。ときにははるか遠くの国からも。」

 

「それは……ちょっとやりすぎじゃないですか——」 ハリーは少し怒りを感じはじめた。

 

「手紙のほとんどは、きみの手におえない頼みごとじゃ。 もちろんわしは不達として送り主にもどすだけじゃから、読んだことはない。 読むまでもない。わしにもおなじ手紙がくるのじゃ。 きみのように若い子を、毎朝、朝食まえに六度悲嘆させるのはしのびない。」

 

ハリーは視線を落として自分の靴を見た。 それでも自分で判断したいから読ませてほしい、と言うべきところだが……ハリーのなかにも小さな常識の声があり、それがいま、大声でさけんでいる。

 

「ありがとうございます。」とハリーはつぶやいた。

 

「ここに呼んだのにはもうひとつ理由がある。きみのたぐいまれな才能を見こんでの相談じゃ。」

 

〈転成術〉(トランスフィギュレイション)ですか?」と、ハリーはおどろいてうれしくなった。

 

「いやいや、そちらの才能ではない。もしディメンターをホグウォーツ内に持ちこむことが許されたとしたら、きみならどんな悪事をする? きみの意見が聞きたい。」

 

◆ ◆ ◆

 

生徒に〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉の呪文と動作を身につけさせてから、ほんもののディメンターを用意して実践させたい、というのがクィレル先生の依頼、いやむしろ、要求だったという。

 

「クィレル先生自身は〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉を使うことができない。」  ダンブルドアは各種装置のあいだをゆっくりと歩きまわりながら言った。 「その点はかなり不審と言えよう。しかし彼は()()()()そう申し出て、外部の講師を呼んで受講希望者に〈守護霊の魔法〉を教えさせてほしい、と要求した。 わしがその費用を負担しないなら、かわりに負担するとまで申し出た。感心なことじゃ。 しかし、ディメンターを連れこませよう、となると——」

 

「総長。クィレル先生は、現実的な戦闘条件のもとで実弾演習をすることが効果的だと確信しています。 ほんもののディメンターを持ちこもうとするのは、あの人の設定からしてまったく自然なことです。」

 

すると総長は怪訝そうな目でハリーを見た。

 

()()?」

 

「いえ、ただ、クィレル先生のふだんのふるまいと齟齬がない、と言いたかっただけで……」  ハリーは声をしだいに小さくして言いやめた。 なぜあんな表現を使ってしまったのだろう?

 

総長はうなづいた。 「つまり、わしの印象とおなじということか。あれは口実にすぎない、と。おそらくきみが思う以上に、もっともな口実ではある。 一見みこみのなさそうな人であっても、ほんもののディメンターのまえに立たせれば〈守護霊の魔法〉を成功させられることがある。光がちらりと見えるくらいだったのが、完全に有形の〈守護霊(パトローナス)〉にまで成功したりもする。 なぜそうなのかはだれも知らないが、たしかにそうなのじゃ。」

 

ハリーは眉をひそめた。 「それなら、なにもあやしいことはないのでは——」

 

総長はしかたなさそうに両手をひろげた。 「これ以上ない暗黒の生物をホグウォーツのなかにいれろと、()()()()()()言っているとき、あやしむのは当然じゃ。」  総長はためいきをついた。 「しかし、そのディメンターには見張りも結界もつけるし、頑丈な檻も用意する。わし自身がその場でずっと監視する——この状況でできる悪事がありえるようには思えん。 けれど、わしの見落としがないともかぎらん。そこできみの出番となる。」

 

ハリーは口をぽかんとあけて、総長の顔をじっと見た。 あまりのショックで、ほめられたような気にさえならなかった。

 

「ぼくの?」

 

「そうとも。」と言ってダンブルドアは少しだけ表情をゆるめた。 「わしもできるかぎり敵の策略を想像しようとはする。よこしまな精神の邪悪な思考を自分のものにしようとはする。 けれども、ハッフルパフ生の骨をけずって武器にしようなどという発想は、わしの想像の範疇をこえていた。」

 

これ、延々と言われつづけることになるのだろうか。

 

「待ってくださいよ。あれはあまりいい印象じゃなかったと思いますが、真剣な話として、ぼくは邪悪じゃありません。ただ発想力があるだけで——」

 

「邪悪だとは言っておらん。」 ダンブルドアは真剣な顔で言う。 「邪悪な思考を理解することと、邪悪になることはおなじだという者もいる。けれどそういったことばは、仮そめの知恵に過ぎん。 邪悪とは、愛を知らぬこと、愛を想像しようとしないこと。邪悪であることをやめずに愛を理解できないこと。 そしてきみなら、愛を知ったままで、わしよりもずっとうまく〈闇の魔術師〉のこころのうちを想像することができるようじゃ。そこで……」  総長は熱い視線を見せた。 「自分をクィレル先生の立ち場においてみてほしい。そして、わしをだましてディメンターを一体この校内にいれることができたとき、きみならどのような悪事をなす?」

 

「ちょっと時間をください。」と言ってハリーは目まいのようなものを感じながら、総長の机と対面する位置の椅子に向かい、そこに腰かけた。 今回は木製の簡易な椅子でなく、肘かけのある快適な椅子だった。ハリーは自分がつつまれるのを感じて、そのなかにしずみこんだ。

 

ダンブルドアはハリーに、クィレル先生を出しぬけ、と言っている。

 

まず一点目。ハリーはダンブルドアよりはむしろクィレル先生のことが気にいっている。

 

二点目。クィレル先生が邪悪なことをしようとしているというのが今回の仮説だ。もしもその仮定が成立するなら、ハリーはダンブルドアに協力してそれを止めようと()()()だ。

 

三点目は……

 

「総長、もしクィレル先生がなにかたくらんでいるとして、ぼくにそれを出しぬける気がしないんですが。 クィレル先生はぼくよりずっと経験豊富です。」

 

老魔法使いはくびをふり、笑顔をたもちながらも不思議と非常に厳粛な顔つきをしてみせた。 「きみは自分を過小評価している。」

 

そういう風に言われるのははじめてだった。

 

「あのとき、まさにこの部屋で冷徹な態度でスリザリン寮監と対決し、総長を脅迫して、同級生たちを守ろうとしたのはだれだったか。 わしの見こみでは、クィレル先生もルシウス・マルフォイも出しぬける狡猾さがある。いつか成長してヴォルデモートと対等にもなるであろうという少年じゃ。 その少年に相談したい。」

 

ハリーはその名前を聞いて、さあっと寒けを感じ、眉をひそめて総長を見た。

 

この人はどこまで知っているんだ……?

 

総長はすでに、かつてないほど深く謎の暗黒面(ダークサイド)に支配されたときのハリーのすがたを見ている。 ハリー自身、それがどういう風に見えたかを覚えている。不可視になって〈逆転時計〉をやって、過去の自分がスリザリンの上級生たちと対決したときのことを。 ひたいに傷あとのあるあの少年のふるまいは、ほかの少年とちがっていた。 総長なら当然、その少年を自室で見たとき、なにか変だと気づいただろう。

 

そしてダンブルドアは自分のお気に入りの英雄であるハリーに、宿敵〈闇の王〉に匹敵する狡猾さがあると判断した。

 

だがそれだけなら大したことではない。その〈闇の王〉というのは、自分の全従僕に命じて各自の左うでの見やすい位置に〈闇の紋章〉をつけさせた人物であり、自分が格闘術を教わりにいった僧院の全員を虐殺した人物なのだから。

 

()()()()()()に追いつくとなると、まったく次元のちがう問題だ。

 

けれど、総長はなかなか満足してくれそうにない。ハリーが冷徹で暗黒っぽくなって、なんらかの回答をするまでは、満足してくれる気がぜんぜんしない。狡猾さを印象づけるような回答でなければ……しかも、()()()()クィレル先生の防衛術の授業の邪魔にならないようにしなければ。

 

そしてもちろん、ハリーは実際に暗黒面(ダークサイド)にはいって、そういう方向で考えてみることにした。すなおにそうしてしまったほうがいいし、杞憂にはならないかもしれない。

 

「ディメンターがどのように連れこまれるのか、どのように見張られるのか、細部にいたるまですべて教えてください。」

 

ダンブルドアは両眉を一度あげてから、話しはじめた。

 

ディメンターは〈闇ばらい〉三人に移送されてホグウォーツの敷地内にはいる。その三人は総長の個人的な知りあいであり、三人とも有形の〈守護霊の魔法〉を使うことができる。敷地の境界でダンブルドアがその三人をむかえ、ホグウォーツの結界にディメンターを通過させる——

 

ハリーはそこで質問した。通過許可はそのときかぎりか、恒久的なものか。おなじディメンターをだれかが翌日連れこむことはできるか。

 

そのときかぎりだ、という答えがあり(総長はうなずきをもって答えた)、説明は再開した。 ディメンターは太いチタン製の棒でできた檻にいれられる。〈転成〉したのではなく実際に鍛造した檻だ。 チタンもディメンターのまえに置かれると、時間さえあれば腐食して塵になるが、一日ではそうはならない。

 

生徒たちは、自分の番が来るまでは、ディメンターから十分距離をとって待つ。両者のあいだにはつねに、〈闇ばらい〉二人があやつる有形の〈守護霊(パトローナス)〉が二体置かれる。 ダンブルドアは自分の〈守護霊(パトローナス)〉を持ってディメンターの檻の横で待機する。 生徒がひとりディメンターに近づくたびに、ダンブルドアは自分の〈守護霊〉を解除し、生徒は〈守護霊の魔法〉をこころみる。 失敗した場合は、ダンブルドアが自分の〈守護霊〉をもどす。十分早くそうすれば、生徒に後遺症が残ることはない。 安全性に余裕をもたせるため、元決闘術大会優勝者であるフリトウィック先生も生徒たちのそばで待機する。

 

「ディメンターのそばにいるのが、あなただけなのはなぜですか? つまり、もう一人の〈闇ばらい〉もいたほうがいいのでは——」

 

総長はくびをふった。 「わしが〈守護霊〉を解除するたびに、ディメンターへの曝露がある。曝露が累積すれば、いずれその〈闇ばらい〉の許容限度を超えてしまう。」

 

ダンブルドアの〈守護霊〉がなんらかの理由で消えたとき、生徒のだれかがまだディメンターの近くにいれば、三人目の〈闇ばらい〉が有形の〈守護霊〉をだして、その生徒を守らせる……

 

いろいろ細かく検討してみても、ハリーから見てセキュリティは万全なように思えた。

 

なのでハリーは深呼吸をしてから、椅子にしずみこみ、目をとじて、あの光景を思いだした。

 

「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

いままでよりもゆっくりと、消極的に、冷たさがやってきた。そういえば最近、あまり自分の暗黒面(ダークサイド)を呼びだしていなかった……

 

こころのなかであのときの〈薬学〉授業をひととおり再現すると、血が冷えてきて、水晶のような恐ろしいほどの透明さに近づいた。

 

そしてディメンターのことを考えてみる。

 

答えは明らかだった。

 

「そのディメンターは陽動です。」  ハリーは冷淡な声を隠さずに言う。その冷たさをダンブルドアは必要としているし、予期している。 「ディメンターは脅威として大きく、目だつ。けれども所詮単純で、防衛しやすい相手でもある。 あなたの注意がすべてディメンターにうばわれているとき、真の謀略が別の場所でおこなわれる。」

 

ダンブルドアはしばらくハリーをじっと見て、ゆっくりとうなづいた。 「ああ……。もしもクィレル先生に邪悪な底意があれば……何に対してそのような陽動をしようとするか、というこころあたりも多少ある……。ありがとう、ハリー。」

 

総長はまだ、じっと見るのをやめない。老いた目が奇妙な視線をむけている。

 

「なんですか?」とハリーはすこしだけいらだちを見せた。冷たさがまだいくらか血のなかにある。

 

「もうひとつ質問したいことがあるのじゃ。 ずいぶん昔から不思議に思っていたことじゃが、一度も理解できたことがない。 ()()、」 声にすこしだけ痛ましさが感じられた。 「なぜ、みずからをすすんで怪物にする人がいるのか? 邪悪以外に目的のない邪悪をなすのはなぜか? ヴォルデモートはなぜ生まれたのか?」

 

◆ ◆ ◆

 

ジジッ、ブー、チッ。リン、ポッ、ビシャ……

 

ハリーはおどろいて総長をじっと見た。

 

「ぼくにわかるわけないでしょう? ぼくは英雄(ヒーロー)だから、なにか魔法的な理由で〈闇の王〉のことを理解できるとでも?」

 

「そのとおり! わし自身の宿敵はグリンデルヴァルトで、グリンデルヴァルトのことならわしもよく理解できた。 自分にとっての闇の鏡像であり、ひとつまちがえば自分がそうなっていたすがたでもある。 自分は善人であり、だからつねに正しいのだ、と信じる誘惑に負けてしまっていれば、わしがああなってもおかしくなかった。 『より大きな善のために』、というスローガンを掲げて、彼は本心からそう信じて、傷ついた動物のように暴れ、ヨーロッパ全土を蹂躙した。 その彼を、わしは最終的に倒した。 彼のあとにヴォルデモートが来て、わしが守ったこの国のすべてを破壊しようとした。」  痛みはすでにダンブルドアの声と表情にはっきりとあらわれている。 「ヴォルデモートはグリンデルヴァルトをはるかに超える、ただ狂行のためだけの狂行をした。 わしはあらゆる犠牲をはらってなんとか押しとどめたが、ヴォルデモートが()()ああであったのか、いまだに理解できない! ハリー、ヴォルデモートはなぜあんなことをしたのじゃ? 彼はわしの宿敵ではなく、きみの宿敵。すこしでも思いつくことがあれば、どうか教えてほしい!」

 

ハリーは自分の両手をじっと見た。 事実を言うなら、ハリーはまだ〈闇の王〉についてたいして調査していないし、総長の質問に関してはまったくこころあたりがない。 だがどうやら、総長はそういう答えを聞きたいのではなさそうだ。 「〈闇〉の儀式をやりすぎたとか? 最初はひとつだけと思って、自分のなかの善人のこころを犠牲にした。そうしたらほかの〈闇〉の儀式をするのにも抵抗感が減って、どんどんいろいろな儀式をやるようになった。そうやって正のフィードバック・ループになって、最後にはものすごく強力な怪物になってしまった——」

 

「そうではない!」 総長の声は苦痛にさいなまれている。 「それでは到底納得できん! もっと深いなにかがあるはずじゃ!」

 

『なくていいんじゃないですか?』とハリーは思ったが、口にはださなかった。どうも総長の考えでは、宇宙は物語であり、筋書きが存在し、深刻な悲劇はそれ相応の深刻な理由がなければ生まれない、ということらしい。 「すみませんが、〈闇の王〉がぼくの闇の鏡像であるような気はぜんぜんしませんね。 ヤーミー・ウィブルの家族を編集室の壁に貼りつけたという話ですが、そうしたいという誘惑なんか、ぼくはぜんぜん感じません。」

 

「なにかすこしでも、気がついたことはないか?」  ダンブルドアは訴えるような、いや懇願するような口調で言った。

 

『邪悪なものごとはただ、発生する。そこに意味はないし教訓もない。あるとすれば、邪悪になるな、ということくらいでしょうか? 〈闇の王〉は、だれを傷つけてもいいと思っていたただの利己的な悪人かもしれないし、やらなくてもいい失敗をやってしまって、ついに止められなくなったバカかもしれない。 世界に悪はあるけれど、その背後になにも運命的なことはない。 もしヒトラーが建築学校にはいる夢をかなえていれば、ヨーロッパの歴史は変わっていた。 そして、ぼくたちが生きている宇宙が、まともな理由がなければ悪いことが起きない、という宇宙だったとしたら、悪いことはそもそも起きていない。』

 

……ということをいくら言っても、総長が聞きたがる話にはならない。

 

老魔法使いは依然として、凍った煙のような機械のむこうがわから、ハリーをじっと見ている。期待するような目に、痛いたしい懇願が見える。

 

まあ、賢者らしくするのは難しくない。 知的にするのよりはずっと簡単だ。意外なことを言う必要もないし、新しい知見を思いつく必要もない。 ただ脳内のパターンマッチングのソフトウェアを使って、事前にとっておいたなんらかの〈賢者の知恵〉的な文句を見つけて穴うめしてやればいいだけだ。

 

「総長、ぼくとしては、敵に自分を定義されてしまうのは気がすすみません。」と厳粛そうにハリーは言った。

 

すると、ブンブンチッチッとやかましい雑音のさなかでも、不思議と静けさが生まれた。

 

いまのはちょっと〈賢者の知恵〉っぽすぎた、とハリーは思った。

 

「きみのその態度はとても賢明ではないかと思う……。わしも……友に自分を定義されるのであれば、どんなによかったか。」  ダンブルドアはいっそう悲痛な声でそう言った。

 

ハリーはあわてて、〈賢者の知恵〉らしいなにかが言えないかと、こころのなかで探しまわった。思わぬ打撃をあたえてしまったらしいから、なにか弱めるようなことを言わなければ——

 

「あるいは、」 ハリーは少しおだやかな声をだした。「敵によって作られるのがグリフィンドールというものなのかもしれません。友によって作られるのがハッフルパフであり、野望によって作られるのがスリザリンであるのとおなじように。 そしていつの時代でも、謎によって作られるのが科学者です。」

 

「大変に過酷な運命をわが寮に宣告されたように思うが、」  総長はまだ悲痛な声をしている。 「言われてみれば、なるほど、わしはほとんど敵によって作られたようなものかもしれん。」

 

ハリーは太ももにのせた自分の両手をじっと見た。 先まわりできたようなので、しばらく黙っておこうか。

 

「それだけでなく、わしの質問への答えでもある。」  ダンブルドアはすこし小声で、ひとりごとのように言う。 「それがスリザリン生にとっての決め手であることは、気づいていてしかるべきだった。 野望のため、すべて野望のためだけに……()()はわしもわかるが、しかし()()……」  それからしばらくのあいだ、ダンブルドアは虚空を見つめた。そして姿勢をただし、もう一度ハリーに注目をあてたように見えた。

 

「そしてハリー、きみは自分を()()()だと思うのか?」  こんどは、おどろきと多少の批判が混ざった声だった。

 

「科学は気にいりませんか?」とハリーはすこしうんざりして言った。 ダンブルドアなら、マグルがらみのものを愛玩してくれてもよさそうだと思っていたのに。

 

「杖のない人びとにとっては便利なものじゃろう。」  ダンブルドアは眉をひそめる。 「しかし、科学が自分を定義する、とは奇妙なことを言う。 科学は愛ほどに重要か? 親切や友情とくらべものになるか? きみがミネルヴァ・マクゴナガルのことを気にいるのは科学のためか? きみがハーマイオニー・グレンジャーのことを気にかけるのは科学のためか? きみがドラコ・マルフォイのこころにあたたかさを与えようとするとき、頼るのは科学なのか?」

 

悲しいことに、これを言っている本人は、ものすごく決定的な賢者の一言を言ったつもりでいるんだろうな。

 

さて、これのお返しに、ものすごく賢者的に聞こえる言いかたでなにか言うとすれば……

 

「あなたはレイヴンクローではない。」  ハリーは落ちついた、尊厳ある声で言う。 「だから、真理を尊重することや、一生涯をかけて真理を探求することの崇高さに思いがいたらないのかもしれませんね。」

 

総長が両眉をあげてから、ためいきをついた。 「それほど若くして、それほどの賢明さを身につけるとは、いったいなにがあって……?」  総長は悲しそうな言いかたをした。 「そのちからはいずれ、きみの助けとなることじゃろう。」

 

助けになるのは、一人でかってに感動しすぎる老魔法使いを感動させたいときくらいですがね、とハリーはこころのなかで言った。 ダンブルドアが簡単に感じいるのを見てハリーは正直、ちょっとがっかりした。 ハリーはうそはついていない。だが、ダンブルドアはハリーのことばに感動しすぎだ。深みがありそうな言いかたをしているだけなのに。これは、深い知恵を平易な英語で説明する、リチャード・ファインマンのような技術とはわけがちがう……

 

「愛は知恵よりも大切です。」と言ってハリーはダンブルドアを試そうとした。はたしてダンブルドアは、ひたすらパターンマッチで生成しただけの、内容的になんの深みもない、だれがみても使い古された言いまわしにどこまで耐えられるだろうか。

 

総長は厳粛そうにうなづいた。「まさしく。」

 

ハリーは椅子から立ちあがり、両手をひらいた。 ああ、じゃあどこかで愛をさがしてきますよ。〈闇の王〉を倒すのにきっと役立つんでしょうから。 次回あなたから助言をもとめられたときには、ただ抱擁(ハグ)してあげればいいということですね——

 

「今日はきみの話を聞かせてもらって、いろいろと収穫があった。」と総長が言う。「よければ、もうひとつだけ質問させてもらいたい。」

 

ほらきた。

 

「教えてほしい。」  ダンブルドアの声はこんどはたんに不思議そうにしているだけに聞こえたが、その目には痛ましさが垣間みえた。「〈闇の魔術師〉たちはなぜ、あれほど死を恐れるのだろうか。」

 

「ええと、すみません。それに関しては、ぼくは〈闇の魔術師〉のほうに賛成ですね。」

 

◆ ◆ ◆

 

ヒュー、シュー、カラン。ゴボッ、ポン、ブクッ——

 

()()」とダンブルドア。

 

「死は、いやなことです。」  話を伝わりやすくするため、ハリーは賢者っぽい語り口をやめた。 「とてもいやなことです。 ものすごくいやなことです。 死がこわいのは、毒のきばを持つ巨大な怪物がこわいのとおなじ。 死をこわがるのは理にかなっているし、死をこわがる人について心理的な病気をうたがう必要はありません。」

 

総長は、まるでハリーが突然ネコになったとでもいうかのように、ハリーをみつめた。

 

「じゃあですね、言いかえましょう。先生はいま()()()()ですか? もしそうなら、マグル世界には自殺予防ホットラインというものがありますから——」

 

「そのときが来れば、じゃ。」と老魔法使いはしずかに言う。 「それまでは死にたくはない。わしはその日を早めようとするつもりもないし、その日が来たときには、こばむつもりもない。」

 

ハリーはけわしい表情をして、眉をひそめた。 「それって、生きる意思があまりないように聞こえますが!」

 

「ハリー……」  老魔法使いはすこし困ったような声をした。本人も気づかないうちに、水晶の金魚鉢のところまで歩いて来ていて、白ひげの先がそこにつかり、緑っぽいしみがすこしずつ上がっていった。 「言いかたがわかりにくかったのかもしれないが。 〈闇の魔術師〉たちは生をもとめない。かわりに、彼らは()()()()()。 太陽の光にむかおうとせず、夜のとばりを避けようとする。そのために、月も星もない、どこまでも暗い洞窟をみずから作り、そこに逃げこむ。 彼らが望むのは、生きることではなく、()()なのじゃ。それがほしいばかりに、自分のたましいすら犠牲にしようとする! ハリー、きみは()()()生きていたいと思うのか?」

 

「はい。そしてあなたもそう思っていますよ。 今日のぼくは、また一日生きていたいと思う。 明日になれば、やっぱりもう一日生きていたいと思う。 したがって、ぼくは永遠に生きたい。 正の整数についての帰納法による証明終わり。 死にたくないということは、永遠に生きていたいということです。 永遠に生きていたくないということは、死にたいということです。 どちらかをえらべば、もう片ほうはえらべない…… と言っても、わかってもらえそうにないですね。」

 

二つの文化は、巨大な共約不可能性の断絶をはさんで、たがいをみつめあった。

 

「わしは百十年生きてきた。」と老魔法使いはしずかに言った(そしてひげを金魚鉢からだし、色がついた部分をしぼろうとして振った)。 「たくさんのものごとを見たし、した。 もちろん、あれは見たくなかった、これはすべきでなかった、ということもたくさんある。 けれども、生きてきたことを後悔したことはない。 生徒たちがそだつのをみるのは喜びの源泉であり、まだまだ飽きない。 それが飽きるようになってしまうまで生きていたくはないのじゃ! 永遠に生きることができたとして、ハリー、きみは何が()()()?」

 

ハリーは深呼吸をしてから言った。 「世界じゅうのおもしろい人たちに会うこと、あらゆる良書を読むこと、それ以上の良書を書くこと、自分の孫の十歳の誕生日を月面で祝うこと、孫の孫の孫の百歳の誕生日を土星の〈輪〉の上で祝うこと、〈自然〉の究極の法則を知ること、意識の本質を理解すること、なぜなにかがそもそも存在するのかを知ること、他の星に旅行すること、異星人を発見すること、異星人をつくること、ぜんぶ探検しおわったら〈天の川銀河〉の反対がわでみんなと集まってパーティをすること、〈原地球〉出身の全員といっしょに太陽がもえつきるのをながめること。あと、以前は負のエントロピーがなくなるまえにこの宇宙から脱出できるかどうかを心配していたんですが、どうやら物理法則というやつを場合によっては無視してもいいらしいと気づいてからはだいぶ希望がもてるようになりました。」

 

「どの部分もあまりよく理解できないが。ひとつだけ聞いておきたい。 それはすべて、きみがこころの底から願い、もとめることなのかね。 それとも、飽きることがないように、死から逃げつづけるためだけに、思いついたにすぎないのかね。」

 

「人生は、ある有限のチェックリストをやりとげたら死ぬことが許される、みたいなものではありません」とハリーはきっぱり言う。 「人生というものは、とにかく続くものでしかない。 いま言ったことをぼくがしていなかったとしたら、もっとやりがいのあることを見つけたというだけのことです。」

 

ダンブルドアはためいきをつき、指で時計をたたいた。 すると、数字が解読不可能な文字におきかわり、針の組が一瞬だけ別の角度であらわれた。 「ありそうにないことじゃが、わしが百五十歳まで生きることが許されたとして、それに不平は言わん。 だが二百年となると、どう考えても度がすぎている。」

 

「あのですね。」  ハリーはママとパパのことを考えた。()()()()()人生は、ハリーが何もしなければ、あとどれくらい残されているのだろうか。 「きっと、四百年生きることが普通の文化から来たひとにとっては、二百年で死ぬことは悲劇的な早死にのように思えるんじゃないですか。ちょうど、()()()で死ぬことのように。」  最後のところでハリーの声はかたくなった。

 

「そうかもしれん。」とダンブルドアはやすらかな声に言う。 「わしは友人たちより前に死にたいとは思わないし、友人がすべていなくなったあとまで生きていたいとも思わない。自分が一番に愛した人に死なれ、なのに、まだほかの人たちは生きていて、彼らのために自分も生きていかなければならない。これほどつらいことはない……」  ダンブルドアの視線はハリーのほうにとまり、悲しそうになった。 「わしの番がきたとき、あまりなげかないでほしい。来たるべき旅路では、なつかしい家族や友人たちといっしょになれているのじゃから。」

 

「ああ!」  ハリーは突然気づいたように言った。 「あなたは()()()()()を信じているんですか。 魔法族って無宗教なんだとばかり思ってましたよ?」

 

◆ ◆ ◆

 

ブォー。ビーッ。ドスッ。

 

()()()()()()()()()()()()」とダンブルドアは肝をつぶしたような表情で言った。 「きみも魔法使いじゃ。 幽霊(ゴースト)をみたこともあろうに!

 

幽霊(ゴースト)ですか。」とハリーは平坦な声で言う。 「肖像画みたいなものですよね。暴力的な死にかたをした魔法使いの魔法力が、意図せずして周囲の物に刻印され保存されたもの。意識も生命もない、記憶とふるまいの残滓——」

 

「わしもその説は聞いたことがあるが……」と総長は声を鋭くして言った。「冷笑を知恵とはきちがえた魔法使いが言いふらす説じゃ。 他人を見くだして自分を上におこうとして考えたものじゃ。 百十年のこの人生でこれほどばかげた説は聞いたことがない! なるほど、幽霊は学習しないし成長もしない。それはこの世に属していないからじゃ! 先へすすもうとするたましいにとって、この世にのこされた生はない! 幽霊を否定するなら、〈ヴェール〉はどう解釈する? 〈よみがえりの石〉は?」

 

「いいでしょう。」とハリーは声をおちつかせようとしながら言った。 「証拠は拝聴しましょう、()()()()()()()()()()()()()()()。 ただ、最初にすこし言わせてください。」  ハリーの声が震えた。 「ここにきたときのことです。つまりキングス・クロスで列車をおりたときのことです。 昨日ではなく、九月、列車をおりたときのことです。ぼくはそれまで幽霊をみたことがなかった。幽霊を()()()()()()()()()。 だから幽霊をみたとき、バカなことをしてしまった。 ぼくは()()()()()()()()()()()()。 死後の世界が……()()んだと思ってしまった。だれひとり、ほんとに死んではいないんだと思ってしまった。人類が失ったと思いこんでいた人たちは、けっきょくみんな無事だったんだ、と思ってしまった。魔法使いなら死んだ人と話ができて、ただしい呪文をつかえば死んだ人を呼びだせるんだと、魔法使いにはそれが()()()んだと思ってしまった。 ぼくのために死んでくれた両親にも会えるんだと思ってしまった。二人に話しかけて、身代わりになって死んでくれたことを聞いたと、二人をお母さんお父さんと呼ぶようになったことを伝えられるんだと——」

 

「ハリー……」とダンブルドアはささやいた。目になみだをうかべ、こちらへ一歩ちかづいて——

 

「でも()()()()()」  ハリーは声に怒りをこめた。宇宙がこのようにできていることに対する怒り、自分のばかさ加減への冷たい怒りをあらわにして言う。 「ハーマイオニーにたずねると、あれはたんに、魔法使いの死によって、城の石にやきつけられてできた()()だという。ヒロシマの壁に残ったシルエットとおなじようなものだと。 気づいているべきだった! きくまでもなく気づくべきことだった! 三十秒たりとも信じていてはいけなかった! もしたましいがあったとしたら、脳損傷なんていうものはないんだから! 脳がすべてなくなってからもたましいがしゃべりつづけられるなら、左脳の損傷で発話能力がうしなわれたりするはずがない。 マクゴナガル先生がぼくの両親の死について話したときの調子も、二人は外国にながい旅行にいったとか、あるいは船で旅をした時代でいえば、オーストラリアに移住したとでもいうような調子じゃなかった。死ぬことは別の場所にいくだけのことだと()()()()()()()()()()()()、そういう調子で言っていたはずだ。死後の世界があるというはっきりした証拠があったなら、なぐさめのために作り話をしているのでなかったなら、話は()()()()ちがう。戦争で誰かをうしなったとしても、たいしたことではなくなる。死は悲しいけれども、()()のできことではなくなる。 そして、魔法世界のだれもそんなようにふるまってはいないということはすでに分かっていた! だから想定できていてもよかった! そのときやっとぼくは、両親はほんとうに死んでいて、二人の何ものこってはいないんだと気づいた。二人に会えることはけっしてないんだと気づいた。ほかの子の目には、ぼくは()()()()()()()泣いているみたいに映るだろうと——」

 

老魔法使いは慄然として、口をあけて話しはじめようとした——

 

「では聞かせてもらいましょう! 証拠があるなら言ってみてください! ただし、ほんのすこしでも誇張したりするのはやめてください。もしまた偽の希望をもらって、あとになって嘘だとわかったり、すこしでも誇張がはいっていたとなったあかつきには、いつまでも許しません! ()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハリーはほおに手をやりぬぐった。ハリーがわめいたときに室内のガラス製の器具が振動していたが、もうとまっている。

 

老魔法使いはかすかに震えた声でいった。 「〈ヴェール〉とは、〈神秘部〉に保管された大きな石の門のこと。死者の国への入り口じゃ。」

 

「なぜそれが事実だとわかるんですか? あなたが信じていることは聞きたくありません。あなたが()()ことを教えてください!」

 

〈ヴェール〉は世界と世界のあいだにある障壁で、物理的な実体としては巨大な石づくりの古いアーチ門であるという。縦長で先端が細いかたちをしている。通り道となるべきところに、ほころびた黒い(ヴェール)がかかっていていて、水面(みなも)のように揺れている。たましいたちが絶え間なく一方通行で通りぬけていくために、つねに波うっている。 〈ヴェール〉のまえに立つと、死者の呼び声が聞こえる。それはいつも、ぎりぎりのところで理解をこばむ、ささやき声で、長くとどまって聞こうとすると、むこうもなにかを伝えようとして、大きく、重なった声になる。 声を長く聞きすぎた者は、〈ヴェール〉に触れ、声のぬしたちに会おうとする。触れた瞬間にその人は吸いこまれ、二度と帰らない。

 

「作り話だとしても、おもしろみがないですね。」  ハリーは声を落ちつかせた。いまの話は希望をあたえてくれるようなものですらないし、希望をだいなしにされて怒るまでもない。 「だれかが石の門を作って、それに波うつ黒い面をつけて、触れたものを〈消滅〉させるようにしておいて、催眠効果のあるささやき声をだすようにしただけ。」

 

「ハリー……」と言って総長はかなり心配そうな顔をした。 「わしは真実を言ってあげることはできる。けれどきみが聞く耳をもたなければ……」

 

()()()()()()()()()()。「〈よみがえりの石〉のほうは?」

 

「本来きみに聞かせるべき話ではないが、そのような懐疑心を持ちつづけられてはきみのためにならないと思う……だから、どうかよく聞いてほしい……」

 

〈よみがえりの石〉はハリーのマントにならぶ、伝説的な三つの〈死の秘宝〉のひとつであるという。 〈よみがえりの石〉は死者のたましいを呼びだすことができる——死者を生者の世界に連れもどすことができる。ただし、生前のその人がそのままもどってくるのではない。 カドマス・ペヴェレルはこの石をつかって、愛する妻を死者の世界から呼びもどそうとした。しかし妻のこころは死者の世界にとどまり、生者の世界にもどらなかった。時を経て彼は発狂し、彼女と本当に再会するために自殺した……

 

ハリーはやけに丁重に挙手した。

 

「なにか?」と総長はしぶしぶ応じた。

 

「まっさきに検証すべきことがありますね。〈よみがえりの石〉がほんとうに死者を呼びもどしているのか、自分のあたまのなかにイメージを投影しているにすぎないのかを知るには、自分は知らないけれどもその死者なら答えを知っているであろう質問をすべきです。そして、答えが正しいかどうかをこの世界で明確に検証できるような質問にしておく。たとえば——」

 

そこでハリーは口をつぐんだ。今回はなんとか、思いつくまましゃべってしまうまえに、考えることができた。最初に思いついた名前と検証方法を口にしてしまわずにすんだ。

 

「……死んだ妻を呼びだして、遺品にあるはずの耳かざりが見つからないが、どこにあるか、ときいてみるとかですね。そういうようなテストをした人はいますか?」

 

「〈よみがえりの石〉は、何百年もまえから、ゆくえが分からなくなっている。」と総長は静かに言った。

 

ハリーは肩をすくめた。 「ぼくは科学者ですからね。説得にはいつも耳を貸します。 〈よみがえりの石〉を心底信じているなら——ぼくが言ったようなテストをすれば成功すると信じなければならないはずですよね? じゃあ、〈よみがえりの石〉が見つかりそうな場所のこころあたりはありますか? ぼくはもう〈死の秘宝〉をひとつ、とても謎めいた状況下で手にいれたんだし、あなたもぼくも、世界のリズムがこういう場合にどう動くかはわかっているはずです。」

 

ダンブルドアはハリーをじっと見た。

 

ハリーも総長を見つめかえした。

 

老魔法使いは片手をひたいにあてて、つぶやいた。 「なんたる狂気。」

 

(不思議とハリーは笑いださずにすんだ。)

 

ダンブルドアは、〈不可視のマント〉をポーチから出すように、と言った。 そしてハリーが言われるまま、フードの裏をのぞきこんで、しばらく目をこらしていると、銀色の網目のうえに、乾いた血のように褪せた赤色の〈死の秘宝〉のシンボルがあった。三角形のなかに円がえがかれ、その二つを一本の線がつらぬくシンボルだ。

 

「ありがとうございました。こういう印がある石がないか、気をつけておきます。 ほかに根拠になるものはありますか?」

 

ダンブルドアは内心で葛藤があるように見えた。 「ハリー……」と言って老魔法使いは語気を強くした。「きみは危うい道を歩もうとしている。これを言ってしまっていいものかどうか迷うが、なんとしてもその先に進ませるわけにはいかん! もしたましいがないのなら、ヴォルデモートはどうやって肉体の死をこえて生きのびたことになる?

 

このときになってハリーははじめて気づいた。〈闇の王〉がまだ生きているということをマクゴナガル先生に伝えた()()()()()()()()は、たった一名だけだ。しかもその一名というのは、学校とは名ばかりのこの魔窟をつかさどる変人総長で、世界は陳腐な決まり文句にしたがって動いていると考えている人物だ。

 

話のもっていきかたについて内心、多少の論争をしてから、ハリーは口をひらいた。 「いい質問ですね。彼は〈よみがえりの石〉のちからを複製する方法を見つけたりしたのかもしれません。 ただし、それにくわえて、事前に自分の脳の状態を()()()コピーしてとっておいたものを入れた、とか。だいたいそんなところでしょう。」  ハリーは急に、自分が()()()()()()()()を説明しようとしているような気がしなくなった。 「いや、それよりも、あなたが知っているかぎりで、〈闇の王〉がどのように生きのびたか、どうすれば殺せる可能性があるか、という部分の情報をすべて教えてもらえませんか?」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「その手には引っかからんぞ。」と言う老魔法使いの顔は老いて見えた。年月以上のものが(しわ)にきざまれているように見えた。 「そうやって質問するほんとうの目的は分かっている。といっても、こころを読んだのではない。読むまでもない。さきほどのためらいを見れば分かってしまう! きみは〈闇の王〉がみつけた不死の秘密を知って、自分のために使いたいと思っているのではないか!」

 

「ちがいますよ! ぼくは〈闇の王〉がみつけた不死の秘密を知って、()()()のために使いたいと思っているんです!」

 

◆ ◆ ◆

 

チッ、パチッ、ジジジ……

 

アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアはその場に立ちすくみ、口をぽかんとあけて、無言でじっとハリーを見た。

 

(一日が終わるまえにだれかを心底唖然とさせることができた自分へのごほうびとして、ハリーは月曜日の欄に済み印をつけてあげた。)

 

「分かりにくかったかもしれないので補足しておきますが、()()()というのは、魔法族だけじゃなく、マグルもですよ。」

 

「いや、」と老魔法使いはくびをふり、語気を強めた。「ならん。ならん。ならん! これはもう狂気でしかない!」

 

「ブワッハッハ!」とハリー。

 

老魔法使いはけわしい表情をしている。怒りと不安が見える。 「ヴォルデモートはある本を盗んで、そこからあの秘密をつきとめた。 気づいたときには、あったはずの場所から、その本がなくなってしまっていた。 けれども、これだけはわしも知っている。言うことができる。 彼の不死は、底知れぬ暗黒の……おそろしい〈闇〉の儀式の産物じゃ! そしてそのためにマートルが……かわいそうに罪のないマートルが殺された! あの不死を実現するには、生けにえが、()()が必要なのじゃ——」

 

「あのですね、言うまでもありませんが、不死になるために人殺しが必要だったなら、ぼくはそんな方法を広めようとは思いませんよ! そんなのは、完全に本末転倒ですから!」

 

意表をつかれたように、話が止まった。

 

老魔法使いの怒りの表情がだんだんやわらいでいくが、不安はまだ残っている。 「人間の生けにえが必要な儀式はしない、というのか。」

 

「ぼくのことをどう思ってらっしゃるのか知りませんが、」とハリーは冷淡に言った。こんどはこちらが怒る番だ。 「人は()()()()()だ、という意見なのはぼくのほうだということを忘れないでくださいね! みんなを()()()()、という意見なのもぼくです! 死はすばらしいものだとか、みんな死ぬべきだと言っているのは、あなたのほうですから!」

 

「もはや絶句するほかない。」と言って老魔法使いはまた、奇妙な居室のなかを歩きはじめた。 「どう表現すればいいのやら……」  そして水晶玉をひとつ手にとる。そのなかで手が炎につつまれているように見える。そこをのぞきこみながら、老魔法使いは悲しい表情をした。 「ただ、ひどく誤解されているということは言える……。ハリー、わしはみんなを死なせたいなどとは言っておらん!」

 

「ええ、だれにも不死になってほしくないだけでしたね。」 ハリーはかなりの皮肉をこめて言った。 『∀x: Die(x) = ∄x: ¬ Die(x)』というのは論理学では初歩的な恒真式にすぎないが、どうやら世界最強の魔法使いの推論能力の限界を超えているらしい。

 

老魔法使いはうなづき、静かに応じた。 「すこしは安心させられたが、それでもまだ、きみについてはかなり不安がある。」  多少年老いてはいるがまだ力強い手が、しっかりと水晶玉をつかみ、台にもどした。 「死に対する恐怖は耐えがたいもの。それはたましいの病気でもあり、人はそのためにねじれ、ゆがむ。 おなじ絶望の道を歩んだ〈闇の王〉はヴォルデモートだけではない。しかし、彼ほど遠くに行ってしまった者はおそらくない。」

 

「それで、あなた自身は死を恐れていないと思っているんですか?」  ハリーは不信を隠そうともせずに言った。

 

老魔法使いの表情はおだやかだった。 「わしも完璧な人間ではないが、死を自分の一部としてうけいれることはできたと思っている。」

 

「はあ……。『認知的不協和』というものはごぞんじですか。ひらたく言えば、『負けおしみ』ですね。 たいていの人が毎月一回、あたまを棒でぶたれることになっていて、だれもそれについて対処のしようがないとしたら、いずれ哲学者たちはこぞって、あなたが言う『仮そめの知恵』にあたることを言いだします。 たとえば、ぶたれるとからだが丈夫になるとか、ぶたれない日がもっと楽しく感じられるようになるとか、そういう()()()()()()()があるんだと言いだします。 でもぶたれない人のところに行って、こういう()()()()()()()があるから今日からぶたれてみないか、と提案したとしたら、その人はいやだと言うでしょう。 では、あなたは死ぬ必要がないとします。あなたはだれも死のことを()()()()()()()()()場所から来た人だとします。そんなあなたにぼくが、自分にしわをつけて老化させて最後に自分の存在を消すというのは()()()()()()()()()()()ことだからやってみないか、と言ったりしたら、あなたは迷わずぼくを精神病院に連行するでしょう! なのにどうして、死は()()()()であるとかいう、バカげたことを言う人がいるんでしょう? それは死がこわいからです。本心では死にたくないからです。死を考えるだけで苦痛を感じる。だから、合理化してしまいたくなる。痛みを麻痺させようとする。考えずにすませたいと思う——」

 

「それはちがう。」  老魔法使いはやさしい表情をしながら、光のあたった水槽に片手をいれた。その動きにあわせて、チャイムがそっと音楽をかなでた。 「きみがそういう発想をしてしまうのも無理はないが。」

 

「あなたは〈闇の魔術師〉のことを理解したいんですよね?」と言ってハリーはかたく暗い声になった。 「それなら、自分のなかにある、死をおそれる部分のかわりに、死への()()をおそれる部分に目をむけてください。その部分は死への恐怖に耐えかねるあまり、〈死〉を仲よくするふりをして、夜になれば死と一体化しようとする。深淵を克服できたと思いこみたいがために。 あなたは、とてつもなく邪悪なものをつかまえて、善だと言ったんですよ! それをすこしひねるだけで、無実の人を殺すことを友情と呼んでしまうこともできるでしょう。 死は生よりいいなどと言ってしまう人なら、自分の道徳基準をどんな方向にねじまげてしまうか、分かったものじゃない——」

 

「わしが見るに、」と言ってダンブルドアは手をふって水滴を落とした。チリンと音がなる。 「きみは〈闇の魔術師〉のことをとてもよく理解していながら、自分自身を〈闇の魔術師〉にせずにすんでいる。」  ダンブルドアは完全に真剣な調子でそう言った。非難めいた口調ではなかった。 「けれどもわしのことについては、残念ながら、まだまだ理解できていないようじゃ。」  老魔法使いはこんどは笑顔になり、やさしげな笑いが声から感じられた。

 

ハリーはこれ以上冷淡な態度にはなるまいと努力した。ダンブルドアの上から目線な態度に、そして、賢者のふりをした愚かな老人が決まって、論理のかわりに使う笑い声に対して、こころのなかで怒りの炎が燃える。 「変な話ですが、ドラコ・マルフォイに理屈を説明するのは不可能なんじゃないかと思っていたんですが、やってみるとそうでもない。子どもらしい無邪気さのおかげか、彼はあなたより百倍もしっかりしていました。」

 

老魔法使いの顔に困惑の表情がうかんだ。「なにが言いたい?」

 

「ぼくが言いたいのは、」 ハリーは辛辣な声で言う。「ドラコは()()()()()()()()()()()()()ということです。そしてぼくの話を()()()()()。やさしく見くだすように笑って()()()()()()()()()しなかった。 あなたは自分が年上で知恵があると思っているから、ぼくの話に注目すらしていない! 理解ではなく注目ですよ!」

 

「耳をかたむけることはしたよ。」と言ってダンブルドアはいままでより厳粛そうな表情を見せた。 「けれども耳をかたむけたからといって、意見をおなじくするとは限らん。 意見の相違はおいておくとして、わしが理解していないというのはなんのことかな?」

 

本気で死後の世界を信じているなら、あなたは聖マンゴ病院にいって、ネヴィルの両親を殺すべきだということになります。アリス・ロングボトムとフランク・ロングボトムを、その()()()()()()()とやらに行かせてやるべきだということです。傷ついたままのすがたでこの世界に引きとめたりするのではなく——

 

ハリーはその一言を口にしてしまうのを、ぎりぎりのところで、やっと我慢した。

 

「そうですね。では最初の質問に答えましょうか。 〈闇の魔術師〉がなぜ死を恐れるのか、という質問でした。 たましいはある、とそこまでおっしゃるなら、仮に、たましいの存在をだれでもいつでも検証できるとしましょう。葬式の参列者はだれも泣かない、愛するその人が実はまだ生きているとみんな分かるのだ、ということにしましょう。 その前提で、たましいを()()()()()ことを想像できますか? たましいをずたずたにされて、来たるべき旅路に行こうにも、なにも残っていない、ということを想像できますか? それがどんなに残酷なことかわかりますか? それが宇宙の歴史上最悪の犯罪で、なにをしてでも止めるべきこと、一度たりとも発生させてはいけないことなのがわかりますか? それこそが〈死〉というもの——人のたましいを消滅させるということです!」

 

老魔法使いはハリーをじっと見た。悲しみが目のなかに見えた。 「やっと理解できたような気がする。」と彼は静かに言った。

 

「へえ? なにをですか?」

 

「ヴォルデモートを。やっとあの男を理解できた。 この世界がそのようにできているとほんとうに信じているなら、この世界に正義はないと、世界の核にあるのは、いくえにも重なる暗黒であると、信じざるをえないのじゃろう。 彼はなぜ怪物になったか、という質問に、きみは答えられなかった。 彼自身に言わせれば、『ならない理由がない』のじゃろう。」

 

◆ ◆ ◆

 

ローブすがたの老魔法使いと、いなづま形の傷あとをひたいにもつ少年。二人は立ったままおたがいの目をのぞきこんだ。

 

「ひとつ教えてほしい。ハリー、きみ自身は怪物になるのか?」

 

「なりません。」 少年の声にはゆるぎない確信があった。

 

「その理由は?」

 

少年は背すじをぴんと伸ばし、あごを誇りたかくあげて、こう言った。 「〈自然〉の法則のどこにも正義はありません。運動方程式に公正さの項はありません。 宇宙は善でも悪でもない。宇宙は善悪をただ無視します。 星ぼしも、太陽も、(そら)も、善悪を無視します。 でもそれでいいんです! ()()()()()無視しない! この世界に光はある。()()()()()その光だから!」

 

「ハリー、きみは将来、どんな人間になるのじゃろうか。」  そう言う老魔法使いの小さな声は、奇妙なことに、不思議そうでありながら残念そうでもあった。 「それを見とどけるためだけであっても、長生きをしてみたくなった。」

 

少年は皮肉っぽくおおげさに一礼してから、部屋を出た。オーク材の扉がどたんと音をたてて閉じた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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