一月のやわらかな日差しが城外の冷たい地面一面にふりそそぐ。
時間割どおりの授業として参加している生徒もいるが、別の授業から抜けだすことを許されて来た生徒もいる。 みな一年生で、とある呪文の練習をするためにあつまっている。教室に閉じこもるよりも、あかるい太陽の光と青空のもとで学ぶほうが効果的な呪文だ。 ついでにクッキーとレモネードも持っていくといいらしい。
呪文の前半は複雑で精密な動作からなる。まず杖を一、二、三、四、と決められたとおりの角度で細かく振る。それから人さし指と親指を、厳密に決められた位置まで伸ばす……
複雑すぎて、五年次以前に教えようとしても無駄だというのが〈魔法省〉の考えだ。 もっとおさない子どもが習得した事例も少数あるが、『天才』だとして片づけられた。
クィレル先生はそのことについて、〈魔法省〉教育課程編成委員会を魔法族に貢献させたければ、海にほうりこんで埋め立てに使うしかない、と言った。あまり行儀のいい表現とは言いがたいが、その気分がハリーにもわかってきた。
複雑で繊細な動作ではあるのだろう。 だからといって、十一歳が学べないことにはならない。 必要な対応は、ふだんより気をつけて、時間をかけて練習しろ、ということにつきる。
学年があがるまで学べない〈
この魔法に必要なのは、あたたかく幸せな気持ちや、自分が大切にしている思い出をイメージすること。こういったことは通常の呪文では必要とされない。
ハリーは杖を一、二、三、四、と振り、決められたとおりの位置に指を伸ばす……
「学校がんばれよ、ハリー。あれだけの本を買えばたりるかな?」
「本はいくらあってもたりない……でもパパはけっこうがんばってくれた。すごくすごくがんばった……」
一度目にそれを思いうかべたとき、ハリーは涙をうかべた。その気持ちを呪文にこめた。
杖を高くかかげ、振りかざす動きをする。この動きには細かい決まりはなく、思いきってやればいい。
「エクスペクト・パトローナム!」
なにも起きない。
ちらりとも光らない。
顔をあげると、リーマス・ルーピンがハリーの杖を調べていた。うっすらと傷の残る顔に、困った表情が見えた。
しばらくしてリーマスはくびをふり、静かに言った。 「残念だけれども、杖の動きにはなにも問題ない。」
まわりのどこにも光は見えない。〈守護霊の魔法〉を練習していることになっている一年生の全員が、よそ見をしてハリーのほうを見ていたからだ。
まだ涙が出そうになってきた。今度は幸せの涙ではない。 よりによって、よりによって〈守護霊の魔法〉でこうなるとは思っていなかった。
自分には幸せさが足りないと告げられるのは、どこかひどく屈辱的だ。
アンソニー・ゴルドスタインにあってハリーにないものは何だ? アンソニーの杖をまぶしく光らせるものは何だ?
アンソニーはハリーよりも自分のお父さんを愛しているというのか?
「どんなイメージを使おうとしたんだ?」とリーマスが言った。
「お父さんです。」と言うハリーの声は震えていた。「ホグウォーツにくるまえに、本を何冊か買ってほしいと言ったら、高い本もあったのに買ってもらえたこと。そして、これで足りるかと聞かれて——」
ヴェレス家にどういう家訓があるかという話はしないことにした。
「しばらく休んでから、別のイメージでやってみようか。」と言って、リーマスは、ほかの生徒が地面に腰をおろしているところを指さした。そちらには、がっかりした顔、恥ずかしそうな顔、残念そうな顔がそろっていた。 「〈守護霊の魔法〉を使うときはね、あのときもっと感謝していればよかった、というように、引け目を感じているようではいけないんだ。」 ミスター・ルーピンの声からは思いやりが感じられたので、ハリーは一瞬、なにかを殴りたくなった。
かわりにハリーは向きを変えて、落伍者たちがいる場所へと進んだ。 杖の動作は完璧だと言われ、あとはもっと楽しい思考を探せ、ということになっている生徒たちだが、 見るかぎりでは進捗はかんばしくなさそうだ。 濃い青色のえりのローブを着た生徒が何人もいて、赤が数人、あとはハッフルパフの女子が一人だけ泣いている。 スリザリン生はほとんど参加しようとしなかったが、ダフネ・グリーングラスとトレイシー・デイヴィスだけは来ていて、まだ杖の動作を練習している。
ハリーは冬の冷たい枯れ草の上にどすんと腰をおろした。そのとなりにいた落伍者は予想外の人物だった。
「あなたもできなかったんだ。」とハーマイオニーが言った。 ハーマイオニーは一度練習場から逃げだしたが、もどってきていた。赤い目をのぞきこんで見ないかぎり、泣いていたようには見えない。
「そ……そうだけど、きみが失敗していなかったとしたら、ぼくはもっと落ちこんでいたと思うよ。きみみたいに親切な人をぼくは知らないし、そんな人にもできないんだったら、まだ自分が善人である可能性も残っていると思えるから……」
「グリフィンドールにしておけばよかった。」と小声でハーマイオニーが言った。 そして何度か勢いよくまばたきをしたが、涙をぬぐおうとはしなかった。
少年と少女はいっしょに歩いていく。けっして手はつないでいないが、おたがいの付きそいとしてある種元気づけてもらっているような気がして、そのおかげで同学年の生徒たちのささやき声を無視することができた。廊下のさきにはホグウォーツの大扉がある。
ハリーはどんな幸せのイメージを使っても〈守護霊の魔法〉を成功させることができなかった。 だれにとっても意外ではなかったようだが、それが余計に嫌だった。 ハーマイオニーも成功させることができなかった。 これはとても意外なことだったようで、彼女もハリーと同様に、横目でちらりと見る視線をむけられるようになっていた。 ほかのレイヴンクロー生は失敗してもそんな視線を受けていない。 でもハーマイオニーは〈太陽〉軍司令官だからか、彼女に声援を送っていたファンはどうやら、自分たちが裏切られたと解釈したようだ。なんの約束をしてもらったのでもないのに。
二人はいっしょに図書館にいって、〈守護霊の魔法〉について調査することもした。ハーマイオニーは悩みがあるといつもこの方法で対処していた。ハリーも時おりそうしていた。調査して、学習して、
本を見ると、総長から聞いたとおりの話がたしかに書かれていた。練習時に〈守護霊の魔法〉を使えなかった魔法使いでも、ほんものののディメンターのまえでは成功できる場合がある。ちっとも見こみのなかった人が、完全に有形の守護霊をだせるまでになることがある。 まったく論理的ではないし、ディメンターのオーラはむしろ幸せのイメージを作りにくくさせるはずなのだが、とにかくそうらしい。
なので二人は最後に一度試してみよう、ということにした。試してみないことには終われない。
今日はディメンターがホグウォーツに来る日だ。
ハリーは事前に、ふだん自分の小指の指輪に小さなダイアモンドにしてはめているお父さんの石の〈転成〉を解除して、灰色の巨大な石にもどしてポーチに入れておいた。 ディメンターという暗黒の生物に対面して、ハリーが完全に魔法力をだせなくなった場合にそなえて。
ハリーはディメンターのまえに出るまでもなく、すでに悲観的な気持ちがしはじめていた。
「きみはできるだろうけど、ぼくはできない。」とハリーは小声で言う。「そう賭けてもいい。」
「違和感があった。」とハーマイオニーはもっと小さな声で言う。 「けさ試したとき、気づいたんだけど、 最後に杖を振りかざして、呪文を言うまえのところで、なにか違和感があった。」
なにも言わないでいるが、 ハリーもおなじように感じていた。一度目からそうだったのだが、五種類の幸せのイメージで五回試すまで、自分でも認めることができなかった。 杖を振りかざそうとするたびに、空虚な感じがした。学ぼうとしているその呪文が、しっくりこないように感じられた。
「できない人がみんな〈闇の魔術師〉にはなるってわけじゃないからね。 〈守護霊の魔法〉を使えなくても、〈闇の魔術師〉じゃない人はたくさんいる。 ゴドリック・グリフィンドールもそうだった……」
ゴドリックは〈闇の王〉を何代にもわたって倒し、〈貴族〉から平民を守り、魔法族からマグルを守るために戦った。 真の友と言える人たちをたくさん持ち、立派な大義のためとはいえその半分も死なせはしなかった。 彼は傷ついた人びとの声を聞き、無垢な人たちを守るために軍を率いた。 勇気ある若い魔法使いは彼の呼びかけにこたえて参集し、戦いが終わると彼は若者たちを埋葬した。 後年、ついに老年のために自分の魔術がおとろえはじめると、当代最強のもう三人の魔法使いをあつめて、なにもないまっさらな土地にホグウォーツを建立した。 いかに正しい目的であれゴドリックの業績のほとんどは戦争であり、戦争でない業績はこれだけだった。 ホグウォーツの〈戦闘魔術〉の初代教師はサラザールであり、ゴドリックではなかった。 ゴドリックは〈薬草学〉の初代教師となり、緑に芽吹く生命の魔術を教えた。
ゴドリックは死ぬその日まで、〈守護霊の魔法〉を使うことができなかった。
ゴドリック・グリフィンドールの人生は善い人生だったが、幸せな人生ではなかった。
ハリーは苦悩の物語を信じない。不満だらけの主人公の物語は読んでいられない。自分のこの立ち場になりかわりたいという人は十億人はいるだろうとわかっている。けれど……
死の直前、ゴドリックはヘルガにこう言ったという(サラザールには縁を切られており、ロウィナはすでに死んでいた)。自分の人生に悔いはない。この師を模範にするなという警告をするつもりもない。この師を模範にするなという警告をしたなどと伝えられては困る。 この自分にとって正しい選択肢だったなら、ほかのだれにも、どれほど幼いホグウォーツの生徒にも、まちがったほうの選択肢をえらべと言うことはできない。 ただ、実際に師とおなじ道を歩む者がいれば、その者はグリフィンドールその人よりも幸せになる権利がある、ということを分かってほしい。以後、赤と黄金の色はぬくもりと光の色であれ。それが彼の遺言だった。
ヘルガは涙を流して、自分が総長となればかならずそうすると約束した。
ゴドリックは死後、
『守護霊の魔法——成功と失敗の歴史』というなにげない題名の本が、いままで読んだことがないほど悲しい内容だとは。
ハリーは……
ハリーはそうなるのはいやだ。
この本に載るのはいやだ。
いやだ。
この学校のほかの人たちは、〈守護霊失敗〉はそのまま〈悪〉と直結するかのように考えている。 ゴドリック・グリフィンドールが〈守護霊の魔法〉を使えなかったという事実は、なぜかだれの口にもあまりのぼることがないらしい。 多分本人の遺言を尊重するために話さないのかもしれない。 フレッドとジョージはおそらく知らないし、ハリーも教えるつもりはない。 いや、ほかの落伍者がこの話をしないのは、不幸せであると思われるよりも〈
となりのハーマイオニーが強くまばたきをしているのが見えた。彼女とおなじく本を愛した、ロウィナ・レイヴンクローのことを考えているのだろうか。
「よし。」とハリーは小声で言う。「もっと幸せなことを考えよう。 完全な有形の〈守護霊〉を自分で作れたとしたら、どんな動物になると思う?」
「カワウソ。」とハーマイオニーは即座に言った。
「カワウソ?」とハリーは信じられずに言った。
「そう。カワウソ。ハリーは?」
「ハヤブサ。」とハリーはためらわずに言った。 「ハヤブサは時速三百キロメートルで急降下する、世界最速の現生生物なんだ。」 地球開闢以来、ハリーはハヤブサが大好きだった。 ハヤブサに変身したいがためだけに、〈
ハーマイオニーは笑みを見せたが、なにも言わない。
そのとき、城の巨大な扉がひらいた。
子どもたちは禁断の森へとつづく道をしばらく歩き、そのまま森にはいった。 太陽は地平線ちかくまで落ちてきていて、影は長く、冬の木々のむきだしの枝のあいだを通る日差しは弱い。一月なのにくわえて、一年生に割り当てられたのが一番遅い時間だったからだ。
それからまがった道を抜けると、森のなかのひらけた場所が行く手に見えるようになった。冬の乾いた大地に、黄色の枯れ草と多少の残雪がかさなっている。
まだ距離があるので、そこにいるいくつかの人影は小さく見えた。 〈守護霊〉二体がうっすらと白く光って見える。もっとあかるい銀色の光は総長の〈守護霊〉で、そのとなりにあるのは……
ハリーは目を細めた。
となりにあるのは……
それはハリーの想像にすぎなかったかもしれない。ディメンターが三体の有形の〈守護霊〉を乗りこえて影響してくるはずがない。なのに、虚無が自分の精神に接触してきたような感覚があった。〈閉心術〉の障壁を意に介することなく、自分の深奥のやわらかい部分が直接触れられたような感覚があった。
シェイマス・フィネガンは血の気をうしなって震えながら、残雪がちらつく枯れ草のうえを歩きまわる生徒の群れにもどってきた。シェイマスの〈守護霊の魔法〉は成功だったが、総長が〈守護霊〉を解除してから生徒が〈守護霊〉を出せるまでには時間差がある。そのあいだ生徒はディメンターの恐怖に直接さらされる。
五歩の距離で二十秒間の被曝をうけるだけなら、抵抗力が弱く脳が未発達な十一歳であろうが、まず安全だ。 ディメンターの影響をどれくらい強くうけるかについては、個人差が大きく、あまり正確なことがわかっていない。だが二十秒間なら確実に問題ない。
五歩の距離でディメンターに四十秒間被曝すると、深刻な後遺症がのこる
ヒポグリフでの飛行法の授業というのが、いきなり乗せられて、あとはがんばれ、だけであるホグウォーツの水準からしても、これは過酷な訓練法だ。 ハリーは過保護には反対だし、ホグウォーツ四年生と十四歳のマグルの成熟度の差をみれば、マグルが世話焼きをしすぎているのはあきらかだ……だがさすがにこれはやりすぎではないかとも思う。 かならずしも癒せる傷ばかりではないのだから。
ただ、こういう状況下で〈守護霊の魔法〉を使えない人は、以後自衛できると思わないほうがいい、ということはわかる。 魔法使いにとって自信過剰になることはマグルの場合以上に危険だ。 ディメンターは幸せのイメージだけでなく、魔法力と体力の両方を吸いとることができる。つまり、反撃に時間がかかりすぎたり、そういった攻撃がとどくほどディメンターに近づかれるまでディメンターの存在に気づけなかった場合は、〈
総長は真剣にセキュリティを考えているらしく、三人の〈闇ばらい〉が見張り役としてこの場におかれた。 隊長はコモドという名で、アジア系の顔だちで厳粛そうではあるが暗くない表情をしており、杖はつねに手のなかにある。 コモドの〈守護霊〉ははっきりとした月光色のオランウータンで、ディメンターと自分の番を待つ一年生たちとのあいだを行き来している。 オランウータンのとなりを通った、白くかがやくパンサーの持ちぬしは、〈闇ばらい〉ブトナルという、眼光のするどい男で、黒い長髪を一束にまとめて、長いひげが編んである。 この〈闇ばらい〉二人と〈守護霊〉二体はつねにディメンターを監視している。 生徒たちがいるのと反対がわには、〈闇ばらい〉ゴリアノフが待機している。やせて背が高く、青白いひげづらの男で、無言無杖でつくりだした椅子に座っている。ぼーっとした無表情をよそおって、あたり全体を見わたしている。 クィレル先生は一年生たちの実践練習がはじまってからしばらくして登場し、それからずっとハリーのほうに目をむけている。 小柄ながら決闘術大会優勝者だったことのあるフリトウィック先生は、ぼんやりと手のなかで杖をもてあそんでいる。しかしその目は、顔のかたちをしたひげのかたまりのなかから、クィレル先生だけを見ている。
ハリーの想像にすぎないかもしれないが、つぎの生徒の番がきて総長の〈守護霊〉が解除されるたび、クィレル先生はかすかにびくりとするように見えた。 クィレル先生もハリーとおなじ、虚無に精神を触れられるような
「アンソニー・ゴルドスタイン。」と総長の声がかかった。
ハリーはシェイマスのほうに静かに歩いていく。アンソニーが銀色にかがやく不死鳥と、ぼろぼろのマントの下にいる……何者かのほうに向かっていくのをよそに。
「なにが見えた?」とハリーは声をひそめてシェイマスにきいた。
ハリーはこうやってデータを収集しようとしていたが、こたえてもらえないことが多かった。そこで〈カオス〉士官であるシェイマス・フィネガンなら、と思った。 ちょっと卑怯かもしれないが……
「死体。灰色でぶよぶよの……水につかった死体……」とシェイマスがささやいた。
ハリーはうなづいた。 「そう見える人が多いみたいだね。」 ハリーは心配はいらない、というふりをした。シェイマスにはそれが必要だったから。 「チョコレートを食べるといいよ。気分がよくなる。」
シェイマスはうなづいて、回復用のお菓子のところへよろよろと向かった。
「エクスペクト・パトローナム!」という男の子の声がした。
みながショックで息をのむのが聞こえた。〈闇ばらい〉の三人さえ息をのんでいた。
ハリーがふりむいてそちらを見ると——
銀色にかがやく鳥が一羽、アンソニー・ゴルドスタインと檻のあいだにいた。 鳥は上をむいて一鳴きした。その鳴き声さえ銀色で、金属のようにかたく光沢があり、美しかった。
ハリーのこころの奥でなにかが、
これは……いつものハリーの思考ではない……
ハリーは背すじに、かすかに寒けを感じた。たしかに実際のディメンターは全然ちがうのだが、悪い方向にちがうのだ、という感じがした。
総長の杖から銀色に燃える不死鳥がまた実体化し、小さいほうの鳥は消えた。 アンソニー・ゴルドスタインはもとの場所にもどってくる。
総長はつぎの名前を呼ばず、アンソニーにつきそってきた。〈守護霊〉はそのままの位置でディメンターを見張っている。
ハリーはハーマイオニーが立っている場所を見た。光るパンサーのうしろだ。 つぎはハーマイオニーの順番だったが、どうやらあとにまわされたらしい。
ハーマイオニーは張りつめた表情をしていた。
ハーマイオニーからは事前に、緊張をほぐそうとするのはやめてほしい、と丁重にたのまれている。
ダンブルドアはかすかに笑みをうかべて、アンソニーをほかの生徒たちのところまで見送った。 完全な笑顔になれないくらい、ひどく疲れているようだ。
「信じがたい成果じゃ。」というダンブルドアの声は、いつものような声量ではなかった。 「一年生にして有形の〈守護霊〉。 ほかにも低学年で、驚異的な人数が成功しておる。 クィリナス、これは一本とられたのう。」
クィレル先生は軽く目礼した。 「単純な推理だと思いますがね。 ディメンターは恐怖を通じて攻撃する。そして子どもは大人ほどには恐怖を持たない。」
「恐怖を持たない?」と待機中の〈闇ばらい〉ゴリアノフがたずねた。
「わしもそう言った。けれどもクィレル先生は、大人になると人は勇気が増えるだけであって、恐怖が減るわけではない、と指摘した。告白するが、言われるまで思ってもみなかったことじゃった。」
「厳密にはそういう表現ではありませんでしたが、まあいいでしょう。 それで総長、その約束の後半部分については?」
「約束は守る。」とダンブルドアはしぶしぶこたえる。 「率直に言って、この賭けに負けるとは思いもしなかった。 クィリナス、今回はきみの知見がただしかったようじゃ。」
その場の全生徒が二人のほうを見て困惑した。例外はハーマイオニーとハリーで、ハーマイオニーは檻と背の高いローブの方向をじっと見ていた。 そしてハリーは、自分は妄想にとらわれているのだと考えていたので、生徒一人一人の様子を見ていた。
クィレル先生は話をそこで打ち切る気満々の口調で言った。 「受講希望者に〈死の呪い〉を教えることは許されています。 〈死の呪い〉は〈闇の魔術師〉をはじめとする敵から身をまもるのに非常に効果的な呪いだし、生徒が知りうる呪文のなかに、死にいたる呪文はほかにない、などと思うほうがバカげている。」 クィレル先生はことばを切り、眼光をするどくした。 「総長、失礼ながら、顔色がよくありませんぞ。 今日のところはその任務のつづきをフリトウィック先生にまかせてはどうですか。」
ダンブルドアはくびをふった。 「もう残り人数はあとわずか。それまではもつ。」
ハーマイオニーはアンソニーに近づき、ほんのすこし震える声で言った。 「ゴルドスタイン隊長。なにかこつを教えてくれない?」
「怖がらないこと。 むこうが考えさせようとすることを考えないこと。 杖のことを恐怖に対する盾と思うよりも、杖を振りかざして恐怖を蹴ちらすようなつもりでやるといい。そこで幸せのイメージをかたちに……」 アンソニーは肩をすくめた。 「まあ、事前に聞いた話そのまんまだけど……」
ほかの生徒たちもアンソニーにおめでとうと言いつつ質問しようとして集まってきた。
「ミス・グレンジャー?」と総長が声をかけた。その声はやさしげにも張りをうしなったようにも聞こえた。
ハーマイオニーは胸をはって、総長のあとにつづいた。
「マントの下にはなにが見えた?」とハリーはアンソニーに聞いた。
アンソニーはおどろいたようにハリーを見て、こたえた。 「背の高い死んだ男。というか、死んだような姿勢で、死んだような色をしていた……見ていて痛いたしかった。それで、それがディメンターの手口なんだとわかった。」
ハリーは視線をハーマイオニーのほうにもどし、彼女が檻とマントに対面するのを見た。
ハーマイオニーは杖を初期位置まで持ちあげた。
総長の不死鳥がふっと消滅した。
そしてハーマイオニーは、たよりない悲鳴をあげて、びくりとし——
——うしろに一歩さがった。杖が動く。杖を振りかざし、「エクスペクト・パトローナム!」と言う。
なにも起きなかった。
ハーマイオニーはふりむいて、走りだした。
もっと低い総長の声が「
少女はつまづいたが、かまわず走りつづけた。のどからおかしな音を出しはじめていた。
『ハーマイオニー!』という声がスーザンと、ハンナとダフネとアーニーからあがり、四人は彼女のほうに駆けよった。その瞬間にハリーは、いつものように人より一歩さきを考えて、くるりとふりかえり、チョコレートのあるテーブルのほうに走っていった。
ハリーはハーマイオニーの口にチョコレートを詰めこみ、ハーマイオニーはそれを噛んで飲みこんだ。それでもまだ、彼女はあらく息をあえがせ、声をあげて泣いていた。目は焦点があっていないように見えた。
だがそこで、一時的な〈吸魂〉ならありうる、とハリーは気づいた。十秒の被曝だろうが、敏感な人であれば
すると、ハーマイオニーの目の焦点があい、さっとまわりを見まわして、ハリーを見さだめた。
「ハリー……」と彼女はやっと声を出す。ほかの生徒は無言になった。「ハリー、やめて。
ハリーは急に、なにをやめろというのか聞くのが怖くなった。ハーマイオニーの最悪の記憶に、あるいは彼女がいま眠らずに見ている悪夢のなかに、自分がいるのだろうか。
「
「『あれ』って——」とハリーは言いかけて、聞こうとした自分を呪った。
「
突然静寂がおり、クィレル先生が数歩こちらに歩みよってきたが、それ以上は近づかなかった(ハーマイオニーのもとにはすでにハリーがいるからだ)。 「ミス・グレンジャー。」とクィレル先生は深刻そうに言う。 「もうすこしチョコレートを食べたほうがいい。」
「フリトウィック先生、ハリーをとめて。ハリーを部屋に帰して!」
その時点で総長もやってきて、心配そうにフリトウィック先生と視線をかわした。
「わしの耳にはディメンターの声は聞こえなかったが……念のため……」と総長。
「どうぞ遠慮なく。」とクィレル先生はすこしうんざりしたように言った。
「ディメンターは
「おいしい部分から順番に、ハリーを——ハリーを——食べると——」
ハーマイオニーは目をしばたたかせた。 その目にすこし正気がもどったように見えた。
それから泣きだした。
「ミス・グレンジャー、きみは勇敢すぎた。」 総長の声はやさしげで、はっきりと聞こえた。 「考えられぬほど勇敢じゃった。 すぐに逃げてよかったものを、耐えつづけ、〈守護霊の魔法〉をやりとげようとした。 もうすこし大人になって強くなったとき、きみはきっとまた挑戦するし、成功する。」
「ごめんなさい。」とハーマイオニーはとぎれとぎれに言う。 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。ごめんなさい、ハリー、わたしはなにを見たかは言えない。わたしは見ようとしなかった。怖くて見れなかった。ひどすぎて見ていられないと分かっていたから……」
ハリーがすべきことだったが、自分の手がチョコレートまみれなのでためらっていると、アーニーとスーザンがきて、地面にくずれおちたハーマイオニーの手をとり、お菓子のあるテーブルへ案内していった。
もう五個チョコレートバーを食べると、ハーマイオニーは回復したように見え、クィレル先生のところにいって謝罪した。 でもそのあと、ハリーが何度か目をむけて見たかぎりでは、ハーマイオニーはずっとハリーを見張っていた。 一度だけ、ハリーは彼女に近づこうと一歩踏みだしたが、彼女は一歩さがった。 その目は無言で謝罪しながら、一人にしてほしい、と懇願していた。
ネヴィル・ロングボトムが見たものは、溶けかけて死んだなにかで、つぶれたスポンジのような顔をしてのたうちまわっていた。
これまでのところだれの目撃談よりもひどい目撃談だ。 ネヴィルは以前の練習で杖さきから小さな光をちらつかせることができていたが、今回は〈守護霊の魔法〉をかけようとするのをやめて逃げだすという、冷静さとかしこさを見せた。
(総長はほかの生徒に、勇敢になりすぎるな、と言ってはいない。 しかしクィレル先生は、
「クィレル先生?」 ハリーはできるだけクィレル先生に近づいてから、声をひそめて言った。 「クィレル先生はあそこになにが見え——」
「聞くな。」と感情のない声で返事があった。
ハリーは丁重にうなづいた。 「総長に言ったのは正確にはどういう表現だったか、聞いてもいいですか?」
乾いた返事。 「年齢と経験をかさねるにつれ、人の最悪の記憶は悪い方向にしか変わりえない。」
「ああ。論理的ですね。」
クィレル先生の目に奇妙なものが去来した。それからクィレル先生はハリーを見た。 「ねがわくば、きみには一度目で成功してもらいたい。 成功すれば、総長は改竄も傍受も不可能な〈守護霊〉による通信の方法をきみに教えてくれるかもしれない。その方法の軍事的価値ははかりしれない。 それがあれば〈カオス軍団〉はきわめて優位な位置にたてるだろうし、ゆくゆくは、この国についてもそう期待できる。 だがもし失敗したとしても……まあ、わたしは不平を言う立ち場ではないな。」
モラグ・マクドゥーガルは震える声で「痛い」と言い、ダンブルドアはすぐさま自分の〈守護霊〉をかけなおした。
パーヴァティ・パティルはトラのかたちをした有形の〈守護霊〉を生みだした。ダンブルドアの不死鳥より大きいくらいだったが、明るさはそれほどでもなかった。 観衆は全員、盛大な拍手でそれをむかえたが、アンソニーのときほどのショックはなかった。
つぎはハリーの番だ。
総長はハリー・ポッターの名前を呼んだ。ハリーはおびえている。
まちがいなく自分はこれから失敗する。つらい経験をする。
それでもやってみなければ。 ディメンターをまえにすると、ちらりとも光をだせなかった人が完全に有形の〈守護霊〉をだせることがあるのだから。そうなる理由はだれも知らないのだから。
それにもし自分がディメンターに対して自衛できないのなら、ディメンターが近づいてくる感覚、ディメンターが自分の精神にはいってくる感覚を察知できるようになっておいて、手遅れになるまえに逃げられるようにならなければならない。
ぼくの最悪の記憶は何だ……?
総長はきっとハリーにむけて、心配そうな表情をするか、期待する表情をするか、助言する賢者のような表情をするものと思っていた。 しかしこちらを見つめるアルバス・ダンブルドアの表情は、ただ平静だった。
失敗すると思っているんだ。でも干渉したくないから、わざわざ言わないだけなんだ。もし本心から元気づけることが言えるなら、言ってくれていていいはずだ……
檻が近づく。 すでにさびがあるが、まだ朽ち果ててはいない。
マントが近づく。 すでにほつれはじめていて、ふさがれていない穴がいくつもある。 〈闇ばらい〉ゴリアノフの話では、朝には新品のマントだったという。
「あの、総長にはなにが見えますか?」
総長は声も平静だった。 「ディメンターは恐怖の生きもの。ディメンターに対する恐怖が消えれば、外観も恐ろしくは見えなくなる。 わしには、背の高い、やせた、はだかの男が見える。 朽ちてはいない、 ただすこし痛ましく見えるだけのからだ。 それだけじゃ。 きみにはなにが見える?」
……ハリーにはマントの下が見えない。
いや、そうではない。マントの下にあるものを見ることを、ハリーの精神は
いや、それもちがう。ハリーの精神はあのマントの下に
ハリーがマントの下を見ると、そこには……
答えのない問いがあった。 ハリーは自分の精神に偽の映像を見させたりしない。だからなにも見えない。 該当する信号を受けとる視覚野の一部が消滅したかのようだ。 マントの下が目の盲点となり、 そこになにがあるのかを知ることができない。
ただ、朽ち果てたミイラよりはるかに悪いものであるのはたしかだ。
マントの下にいる不可視の怪物までは、あとほんのすこしの距離しかないが、月光色に燃える鳥、白い不死鳥がまだ、あいだにいる。
ほかの生徒が逃げたように、ハリーも逃げだしたい。 〈守護霊の魔法〉がうまくいかなかった生徒の半数は、単にここに来なかった。 来た人のうち半数は、総長が〈守護霊〉を消すのも待たずに逃げだしたが、だれにも非難されていない。 自分の番になってなにもせず引きさがってきたテリーは、すこし笑われはした。だがさきに自分の番を終えていたスーザンとハンナがみんなをしかりつけ、だまらせた。
しかしハリーは〈死ななかった男の子〉であり、すくなくとも挑戦したという事実をのこさなければ、かなり見損なわれることになる……
あのマントの下の何者かと対峙していると、自分のプライドと自分に課された役目のことが、あたまから抜けおちていくような気がした。
ぼくはなぜまだここにいるんだ?
臆病者に思われたくないという羞恥心から、ハリーはこうやってとどまっているのではない。
名声をとりもどしたいという思いで、杖を持ちあげるのではない。
〈
なにか別の理由がある。なにかが、あのマントの下にいる何者かに対抗しなければならない、と言っている。あれこそ真の暗黒であり、だからこそ、ハリーは自分のなかにおなじ暗黒があるのか、自分がそれをはじきかえすことができるかを、たしかめなければならない。
事前のこころづもりでは、父親といっしょに本の買い付けをしてまわったときのことをもう一度だけ考えてみよう、と思っていた。だがディメンターのまえに来たいま、土壇場で、まだ試したことのない別の記憶が浮かんできた。 通常の意味ではぬくもりも幸せもない記憶だが、なぜかほかの記憶よりも正しいように思えた。
ハリーは星ぼしのことを思いだす。クリスマス前夜に見た、おそろしいほど明るく燃える、またたかない星ぼしのことを思いだす。そのイメージに身をまかせ、〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体をそのイメージで満たし、もう一度あのときのように、身体感覚を消失させて虚無を意識する。
銀色にかがやく不死鳥が消えた。
ディメンターが〈神〉の鉄槌のようにしてハリーの精神を殴りつけた。
恐怖——寒——暗
両勢力が正面からぶつかったとき、一瞬だけ、平和な星見の記憶はディメンターの恐怖に対して持ちこたえた。そのあいだ、ハリーの指は決められたとおりに杖を動かした。意識せずに動かせるようになるまで練習しておいたおかげだ。 完全な暗黒を背景に燃える光点の群れ。そこにはぬくもりも幸せもない。けれど、このイメージはディメンターにもそうたやすくは破られない。 静かに燃える星ぼしは巨大で恐怖を知らず、寒く暗い場所でかがやくことこそ、その本来のすがただから。
不動の物体が圧倒的なちからに対抗する。しかしそこに、傷とも穴とも断層とも呼べるものができた。 ハリーは自分に食いかかるディメンターに対して、かすかな怒りを感じた。すると濡れた氷のうえですべるように、ハリーの精神は横すべりして脇道にはいった。恨み、憤怒、殺意と憎悪の方向へ——
ハリーの杖が最後の振りかざす位置についた。
なにか違和感があった。
「エクスペクト・パトローナム」という声がでたが、空虚で無意味に聞こえた。
そしてハリーは自分の
その真空に、最悪の記憶が浮かびあがる。長く忘れられ、神経細胞のパターンとして残っているはずもない記憶が。
「リリー、ハリーを連れて逃げろ! やつが来た!」と男の声がする。 「逃げるんだ! はやく! ここはおれが食いとめる!」
それを聞いて、自分の暗黒面の空虚な深奥にいるハリーはついこう考えてしまう。ジェイムズ・ポッターは自信過剰にもほどがある。
もう一人の声がした。その声は湯をわかすケトルのようにけたたましく、甲高く、ハリーは自分の神経すべてにドライアイスが押しつけられたように感じた。いや、液体窒素の温度にまで冷却された焼き印をからだのすべてに押しつけられたように感じた。その声はこう言っていた。
「アヴァダケダヴラ」
(少年の指は感覚をうしない、杖が落ちた。少年のからだはがくがくと振動し、倒れかけた。総長がただならぬ様子で目を見ひらき、〈守護霊の魔法〉をはじめた。)
「ハリーは、ハリーだけは見のがして!」と女の声の悲鳴があった。
光がすべて吸いとられた状態のハリーの残骸らしきものが、からっぽのこころで、女の声を聞いて考える。この女は、お願いさえすればヴォルデモート卿は手をださない、とでも思ったのだろうか。
「どけ、女!」と氷のように燃えるするどい声が言う。「狙いはおまえではない。その子だ。」
「ハリーは見のがして! どうか……慈悲を……どうか……」
リリー・ポッターはそもそもどういう種類の人間が〈闇の王〉になるのか理解できていないようだ。 わが子の命を救うためにあれ以上ましな作戦が思いつかないのだったら、それが彼女の母としての最後のあやまちだ。
「今回は特別に逃げる機会をやろう。おまえを制圧するのも手間だ。おまえが死のうとも、その子は助からない。 愚か者め、そこをどけ。すこしはあたまをはたらかせろ!」
「どうかハリーだけは。わたしを、殺すならわたしを!」
空虚そのものになったハリーは不思議がる。リリー・ポッターはなにを考えているのだろう。わかったと言ってヴォルデモート卿が彼女を殺し、それからあの子に手も触れず去ってくれる、などと思うのか。
「よかろう……」と死の声が言う。冷淡ながら愉快そうな声だ。「その取り引きに応じよう。おまえは死に、その子は生きる。 では杖を捨てろ。そうしたら殺してやる。」
身の毛がよだつ沈黙。
リリー・ポッターがやっと口をひらき、悲鳴のように、必死の憎悪のこもった声でさけぶ。「アヴァダ・ケ——」
それをさえぎるように、凄絶な声がすばやく正確に呪いをかけた。
「アヴァダケダヴラ」
まぶしい緑色の一閃でリリー・ポッターの命はつきた。
ゆりかごのなかの男の子はそれを見ていた。目が、赤く小型の太陽のように明るく燃える目が、ハリーの視界いっぱいに近づき、ハリーの目を見さだめる——
ほかの子どもたちは、ハリー・ポッターが倒れるのを見ていた。ハリー・ポッターが甲高い悲鳴をあげるのを聞いていた。刃で耳を突き刺されるような声だった。
銀色の閃光がきらりとして、総長の「エクスペクト・パトローナム!」という咆哮とともに、燃える不死鳥がまたあらわれた。
だがハリー・ポッターの絶叫はいつまでもつづいた。総長の腕に抱かれて、ディメンターから遠ざけられても、ネヴィル・ロングボトムとフリトウィック先生が同時にチョコレートをとりにいくあいだも、とまらない——
ハーマイオニーにはわかった。それを見てすぐにわかった。あの悪夢は現実だった。どうにかして、おなじ悪夢が、いま現実に起きているのだ。
「はやくチョコレートを!」とクィレル先生が要求する声がしたが、言われるまでもなく小柄なフリトウィック先生はすでに突進している。そして、そのさきで生徒たちのほうへ向かっていた総長と合流する。
ハーマイオニーも動きだした。動いてからなにをすればいいのか、自分でもわからないまま——
「全員〈
全員が凍りつくような恐怖を感じた。
「エクスペクト・パトローナム!」とフリトウィック先生と〈闇ばらい〉ゴリアノフがさけんだ。アンソニー・ゴルドスタインもつづいたが、一度目は失敗した。つぎにパーヴァティ・パティルが成功させ、アンソニーがもう一度挑戦すると、銀色の鳥がつばさを広げ、ディメンターに向けて一鳴きした。ディーン・トマスは炎で書かれた文字を読みあげるような怒号で詠唱して、杖さきから巨大な白いクマをだした。 これで八体の〈守護霊〉がハリーとディメンターのあいだにならんだ。しかし、総長の手で乾いた草の上におろされながら、ハリーはそれでもただ、悲鳴をあげつづけた。
ハーマイオニーは〈守護霊の魔法〉を使うことができない。だからハリーのもとに駆けこんだ。 そしてどれくらい時間がたったのかを、あたまのかたすみで推定しようとする。二十秒? もっと?
アルバス・ダンブルドアは苦痛と驚愕の表情をしていた。 黒い大きな杖を手にしているが、なにも呪文を口にしない。がくがくと震えるハリーのからだを、ただ恐れるように見おろしている。
ハーマイオニーは、自分がなにをすればいいかわからない。全然わからない。なにが起きているのかもわからない。そしてこの世界最強の魔法使いさえ、なすすべがないように見える。
「
総長はだまってハリーを腕に抱きかかえ、ぽんと炎の音がしたかと思うと、突然出現したフォークスといっしょに消えた。 あわせて、ディメンターを見張っていた総長の〈守護霊〉がふっと消えた。
恐怖と混乱のなかで、みながしゃべりだした。
「ミスター・ポッターはじきに回復する。」とクィレル先生が声をはりあげる。だが今度はもとの落ちついた調子にもどっている。「被曝した時間はせいぜい二十秒くらいだろう。」
そこで、白くかがやく不死鳥がふたたび出現した。どこからか飛んできたようにして、この月光色の生きものはハーマイオニー・グレンジャーのまえにあらわれ、アルバス・ダンブルドアの声でこう言った。
「ディメンターはまだハリーを食らっておる! これだけの距離があって、なぜ止まらない? ハーマイオニー・グレンジャー、なにか知っているなら、どうか言ってくれ! はやく!」
〈闇ばらい〉の隊長がハーマイオニーのほうをじっと見た。何人もの生徒がおなじようにした。 フリトウィック先生はふりむかず、クィレル先生に杖をむけている。クィレル先生は両手をあげて、からっぽの手をみせつけている。
何秒か経過した。時間の感覚はもうなくなった。
思いだせない。あの悪夢を、もうはっきりと思いだすことができない。なぜそんなことが起こりうると思ったのかも、なぜあんなに怖かったのかも——
そしてハーマイオニーは自分がすべきことを知った。だがこれは自分の人生で一番つらい決断だ。
もし、ハリーの身に起きたのと同じことが、自分にも起きたのだったら?
手足が死んだように冷たくなり、視界がまっくらになり、自分のなかが恐怖にうめつくされる。 ハーマイオニーはあそこで、ハリーが死ぬのを見た。ママとパパが死に、仲間も全員死に、だれもが死ぬ。そして最後には自分が、一人で死ぬ。 それが、だれにも話したことのない自分の奥底の悪夢だった。だれもいなくなった世界でたった一人で死ぬという孤独、その悪夢を使ってディメンターは彼女を支配した。
あそこにはもう行きたくない。いやだ。行きたくない。あの場所から出られなくなるのはいやだ——
『あなたには、グリフィンドールに行けるだけの勇気がある。』と記憶のなかの〈組わけ帽子〉の落ちついた声がする。『でも、どの寮に送られようとも、あなたは正義を忘れない。 どの寮をえらぼうとも、あなたはよく勉強し、仲間を決して見捨てない。 だから心配しないで。ハーマイオニー・グレンジャー、あなたは自分にあうと思う寮をえらびなさい……』
これ以上決断を引きのばしてはいられない。ハリーが死んでしまう。
「いまは思いだせません。」とハーマイオニーはかすれた声で言う。「でも待っていてください。もう一度、ディメンターのところへ行ってきます……」
彼女はディメンターを目ざして走りだした。
「ミス・グレンジャー!」とフリトウィック先生がさけんだが、止めようとするそぶりはなく、ただクィレル先生に杖をむけつづけていた。
「
「フリトウィック!」とクィレル先生がどなる。「ポッターの杖を呼べ!」
ハーマイオニーがそのことばの意味に気づいた時点で、フリトウィック先生はすでに「アクシオ!」と叫んでいた。木の棒が、ディメンターの檻に触れそうな位置を離れ、ぐいっと飛んでくるのが見えた。
生気のない、うつろな目がひらく。
「
アルバス・ダンブルドアの顔が視界にはいってきた。それに隠されて、遠い天井の大理石が見えなくなった。
うつろな声が言う。 「うっとうしい。おまえは死ぬべきだ。」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky